『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.8(通算第58回) 下

2019-01-25 20:03:48 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.8(通算第58回)下

 (字数がオーバーしましたので、付属資料は下に掲載します。)

【付属資料】

●第18パラグラフ

《初版》

 〈価格は、商品のうちに対象化されている労働時間の貨幣名である。だから、商品と、商品の価格が商品を等置する相手の貨幣量とが、等価であるということは、同義反覆である(48)。なぜなら、およそ、一商品の相対的価値表現は、つねに、二つの商品が等価であることの表現だからである。だが、商品の価値量の指数としての価格が、その商品と貨幣との交換比率の指数であるとしても、これとは逆に、その商品と貨幣との交換比率が必ずその商品の価値量の指数である、ということにはならない。等量の・社会的に必要な労働時聞が、一クォーターの小麦で、そしてまた二ポンド・スターリング(約1/2オンスの金)で、表わされているものとしよう。二ポンド・スターリングは、一クォーターの小麦の価値量の貨幣表現、すなわち、一クォーターの小麦の価格である。いま、事情が、一クォーターの小麦に三ポンド・スターリングの値をつけることを許すか、または、それに一ポンド・スターリングの値をつけることを強いれば、一ポンド・スターリングと三ポンド・スターリングとは、小麦の価値の表現としては過小または過大なのだが、それらは、なおかつこの小麦の価格である。というのは、それらは、第一には、この小麦の価値形態たる貨幣であり、第二には、この小麦と貨幣との交換比率の指数だからである。生産諸条件が変わらなければ、あるいは、労働の生産力が変わらなければ、一クォーターの小麦を再生産するためには、相変わらず、同じだけの社会的労働時間働が支出されなければならない。この事情は、小麦生産者の意志にも他の商品所持者たちの意志にもかかわりがない。だから、商品の価値量は、社会的労働時間にたいする必然的な・この商品の形成過程に内在的な・関係を、表現している。価値量が価格に転化するとともに、この必然的な関係は、その商品とそれの外に存在する他の一商品との交換比率として、現われるのである。ところが、この形態は、その商品の価値量を表現することができるとともに、その商品が与えられた諸事情のもとで譲渡可能であるところの偶然的な比率を表現することもできる。だから、価格と価値量との量的な不一致の可能性、あるいは、価値量からの価格の背離の可能性は、価格形態そのもののうちに与えられている。このことは、けっしてこの形態の欠陥ではなくて、逆に、この形態を、一つの生産様式--その生産様式では、規則性は、不規則性がもっところの盲目的に作用する平均法則としてのみ、自己を貫徹することができる--の適当な形態にするのである。〉(89-90頁)

《補足と改訂》

 〈2 6) だが、この比率において、商品の価値の大きさが表現されるのと同じように、与えられた事情のもとで、その商品が価値の大きさより以上に、またはより以下に譲渡されることも表現されうる。

2 7) p. 6 2。本文。〉(42頁)

《フランス語版》

 〈価格とは、商品のうちに実現された労働の貨幣名である。したがって、商品と、商品価格のうちに表現されている貨幣量とが、等価であるということは、同義反復である(13)。それはちょうど、一商品の相対的価値表現が一般には、必ず、二商品が等価であることの表現である、のと同じである。だが、商品の価値量の指数としての価格が、その商品の貨幣との交換比率の指数であっても、逆に、その商品の貨幣との交換比率の指数が必然的にその商品の価値量の指数である、ということにはならない。1クォーターの小麦が2オンスの金と同じ労働時間で生産され、2ポンド・スターリングが2オンスの金の名称である、と仮定しよう。そのばあい、2ポンド・スターリングは1クォーターの小麦の価値の貨幣表現、すなわちその価格である。いまや事情が、1クォーターの小麦を3ポンド・スターリングに評価することを許すならば、または、その小麦を1ポンド・スターリングに引き下げざるをえないならば、その時から1ポンド・スターリングと3ポンド・スターリングとは、小麦の価値を過小評価または過大評価する表現ではあるが、それにもかかわらず相変わらず小麦の価格なのである。それらは第一に小麦の価値の貨幣形態であり、第二に小麦の貨幣との交換比率の指数であるからだ。生産条件または労働の生産力が不変のままであれば、1クォーターの小麦の再生産は相変わらず同じ労働支出を必要とする。この事情は、小麦の生産者の意志にも他の商品の所有者の意志にも依存していない。したがって、価値量は、生産関係を、あるなんらかの物品とそれを産み出すために必要な社会的労働部分との内在的な紐帯を、表現しているのである。価値が価格に転化するやいなや、この必然的な関係が、ある日用商品とこの商品の外部に存在する貨幣商品との交換比率として、現われる。だが、この交換比率は、商品の価値自体を表現することもあれば、あるいは、与えられた事情のもとで商品の譲渡が偶然にもたらす最大または最小のものを表現することもある。したがって、商品の価格とその価値量とのあいだには量的な格差、差異のあることが可能なのであって、この可能性は価格形態そのもののうちに宿っている。曖昧さはこの形態の欠陥ではなくて、逆に、この形態の美点の一つである。というのは、この可能性は価格形態を、一つの生産体系--この生産体系では、平均して相互に相殺しあい無力にしあい害しあうような不規則性の盲目的な作用によってのみ、規制が法則になる--に、適合させるからである。〉(80頁)

●注63

《初版》

 〈(48)「そうでなければ、貨幣での100万の価値は、商品での同等な価値よりも多くに値する、と言うことに同意しなければならない。」(ル・トローヌ、前掲書、922ページ。)こうなると、「ある価値は、同等な価値よりも多くに値する」、と言うことにも同意しなければならない。〉(90頁)

《フランス語版》

 〈(13)「そうでなければ、貨幣での一〇〇万の価値は商品での同等な価値よりも多くに値する、ということに同意しなければならない」(ル・トローヌ、前掲書、919ページ)。こうなると、「ある価値は同等な価値よりも多くに値する」ということにも同意しなければならない。〉(80頁)

●全集版第1巻人名索引から

・ル・トローヌ,ギヨームーフランソアLe Trosne,Guillaume・Frangois(1728一1780)フランスの経済学者,重農主義者.50,54,106,116,125,130,133,159,172-175,178,224

●『資本論』第1巻で引用されているそれ以外の例

  〈交換価値は、まず第一に、ある一種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的関係、すなわち割合(6)として現われる。それは、時と所とによって絶えず変動する関係である。それゆえ、交換価値は偶然的なもの、純粋に相対的なものであるように見え、したがって、商品に内的な、内在的な交換価値というものは@一つの形容矛盾であるように見え、したがって、このことをもっと詳しく考察してみょう。

 (6)「価値とは、ある物と他のある物とのあいだ、ある生産物量と他のある生産物量とのあいだに成立する交換関係である。」(ル・トローヌ『社会的利益について』、所収『重農学派』、デール版、パリ、一八四六年、八八九ページ。)〉(全集23a49頁)

  〈だから、ある使用価値の価値量を規定するものは、ただ、社会的に必要な労働の量、すなわち、その使用価値の生産に社会的に必要な労働時間だけである。個々の商品は、ここでは一般に、それが属する種類の平均見本とみなされる。(10)……

  (10)「同種の生産物は、その全体が本来ただ一つのかたまりをなしているのであって、このかたまりの価格は、一般的に、そして個別的な諸事情にかかわりなく、決定されるのである。」(ル・トローヌ『社会的利益について』、八九三ページ。)〉(同53-54頁)

  〈もう一つの誤り、貨幣は単なる章標であるという誤りが生じた。他方、この誤りのうちには、物の貨幣形態はその物自身にとっては外的なものであって、背後に隠された人間関係の単なる現象形態である、という予感があった。この意味ではどの商品も一つの章標であろう。というのは、価値としては商品に支出された人間労働の物的な外皮でしかないかからである。(47)

  この注(47)の一部に次の引用がある。
 「貨幣は単なる章標ではない。というのは、それ自身富なのだから。貨幣は、価値のあるものを代表するのではなく、それらのものと価値が等しいのである。」(ル・トローヌ『社会的利益について』、九一〇ページ。)〉(同121-122頁)

  〈一商品の総変態は、その最も単純な形態では、四つの極と三人の登場人物とを前提する。まず、商品にその価値姿態としての貨幣が相対するのであるが、この価値姿態は、向こう側で、他人のポケットのなかで、物的な堅い実在性をもっている。こうして、商品所持者には貨幣所持者が相対する。次に、商品が貨幣に転化されれば、その貨幣は商品の一時的な等価形態となり、この等価形態の使用価値または内容はこちら側で他の商品体のうちに存在する。第一の商品変態の終点として、貨幣は同時に第二の変態の出発点である。こうして、第一幕の売り手は第二幕では買い手になり、この幕では彼に第三の商品所持者が売り手として相対するのである。(71)
 
 (71)「したがって、四つの終点と三人の契約当事者とがあって、そのうちの一人は二度はいってくる。」(ル・トローヌ『社会的利益について』、九〇九ぺージ。)〉(同147頁)

  〈貨幣は、絶えず商品に代わって流通場所を占め、それにつれて自分自身の出発点から遠ざかって行きながら、商品を絶えず流通部面から遠ざけて行く。それゆえ、貨幣運動はただ商品流通の表現でしかないのに、逆に商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ現われるのである。(75)

  (75)「それ」(貨幣)「は、生産物によってそれに与えられる運動のほかには、どんな運動もしない。」(ル・トローヌ『社会的利益について』、八八五ページ。)〉(同152-153頁)

  〈このような、同じ貨幣片が繰り返す場所変換は、商品の二重の形態変換、ごつの反対の流通段階を通る商品の運動を表わしており、またいろいろな商品の変態のからみ合いを表わしている。(76)

  (76)「生産物はそれ」(貨幣)「を動かし、それを流通させるものである。……その」(すなわち貨幣の)「運動の速度は、その量を補うものである。必要な場合には、それはただ人手から人手へと移るばかりで、一瞬も立ちどまらない。」(ル・トローヌ『社会的利益について』、九一五、九一六べ…ジ。)〉(同156-158頁)

  〈金銀の流れの運動は二重のものである。一方では、金銀の流れはその源から世界市場の全面に行き渡り、そこでこの流れはそれぞれの国の流通部面によっていろいろな大きさでとらえられて、その国内流通水路にはいって行ったり、摩滅した金銀鋳貨を震したり、奢修品の材料を供給したり・叢貨幣に凝固したりする。(111)

  (111) 「貨幣は、つねに生産物によって引き寄せられて、国々の必要に応じて国々のあいだに配分される。」(ル・トローヌ『社会的利益につい』前出、916ページ)〉(同189頁)

  〈商品の価値は、商品が流通にはいる前に、その価格に表わされているのであり、したがって流通の前提であって結果ではないのである。(17)

  (17)「契約当事者たちが価値を決定するのではない。それは契約に先だって確定されているのである。」(ル・トローヌ『社会的利益について』、九〇六ページ。)  〉(同206頁)

  〈もちろん、商品は、その価値からずれた価格で売られることもありうるが、しかし、このような偏差は商品交換の法則の侵害として現われる。その純粋な姿では、商品交換は等価物どうしの交換であり、したがって、価値をふやす手段ではないのである。(20)

  (20)「交換は、その性質上、ある価値とそれに等しい価値とのあいだに成立する対等の契約である。だから、それは富をなす手段ではない。というのは、受け取るのと同じだけを与えるのだからである。」(ル・トローヌ、同前、九〇三、九〇四ページ。)〉(同207頁)

  〈今度は、逆に、商品をその価値よりも安く買うことが買い手の特権だと仮定してみよう。ここでは、買い手が再び売り手になるということを思い出す必要さえもない。彼は、買い手になる前にすでに売り手だったのである。彼は買い手として一〇% もうける前に、売り手としてすでに一〇% 損をしていたのである。(25)いっさいはやはり元のままである。

  (25)「もし二四リーヴルの価値を表わす或る分量の生産物を一八リーヴルで売らざるをえないとすれば、同じ金額を買うために使えば、やはり二四リーヴルで得られるのと同じだけが一八リーヴルで得られるであろう。」(ル・トローヌ『社会的利益について』、八九七ページ。)〉(同211頁)

  〈一商品の価値は、その商品に含まれている労働の量によって規定されてはいるが、しかしこの量そのものは社会的に規定されている。もしその商品の生産に社会的に必要な労働時間が変化したならば--たとえば同じ量の綿花でも不作のときには豊作のときよりも大きい量の労働を表わす--、前からある商品への反作用が生ずるのであって、この商品はいつでもただその商品種類の個別的な見本としか認められず(26)、その価値は、つねに、社会的に必要な、したがってまたつねに現在の社会的諸条件のもとで必要な労働によって、計られるのである。

  (26)「同じ種類の生産物の全体が本来はただ一つのかたまりをなしているのであって、このかたまりの価格は一般的に、そしていちいちの事情にかかわることなく、決定されるのである。」(ル・トローヌ『社会的利益について』、八九三べージ。)〉(同274頁)

● 第19パラグラフ

《初版》

 〈しかしながら、価格形態は、価値量と価格との、すなわち、価値量とそれ自身の貨幣表現との、量的な不一致の可能性を、許すだけではなくて、質的な矛盾を宿すこともできるのであって、そのために、たとい貨幣が諸商品の価値形態にほかならないにしても、価格は総じて価値表現であることをやめる。それ自体けっして商品ではない物、たとえば良心や名誉等々は、それらの持ち主にとっては貨幣と引き換えに譲渡可能であり、したがってそれらの価格を通じて商品形態を受け取ることができる。だから、ある物は、価値をもつことなしに形態上価格をもつことができる。価格表現は、ここでは、数学のなんらかの量または論理学の「無限判断」のように、想像的なものになる。しかし、他方、われわれは、本質的な生産諸関係についても、このような想像的な価格形態を見いだすのであって、たとえば、土地は、そのなかになんら人間労働が対象化されていないためになんらの価値をもっていないにもかかわらず、われわれは、土地の価格を見いだすのであるが、こういうばあいには、いっそう奥深く分析すると、この想像的な形態の背後にはある実在の価値関係またはそれから派生した関係がつねに隠されているのを、見いだすであろう。〉(90頁)

《フランス語版》

 〈価格形態は、価格と価値量との量的差異の可能性、すなわち、価値量とそれ自身の貨幣表現との量的差異の可能性を許すばかりでなく、さらになお、貨幣が商品の価値形態にほかならないとはいえ、価格形態は、価値を表現することを全面的にやめるというほどの一つの絶対的な矛盾を、隠すことができる。それ自体としてはなんら商品でない物、たとえば名誉や良心などのようなものが、金銭で買えるようになりうるのであって、こうして、それらに与えられる価格によって商品形態をとりうるのである。したがって、物は価値をもたないでも、形態上価格をもつことができる。価格はここでは、数学におけるある種の量のように想像的な表現になる。他方、たとえば、どんな人間労働もそのうちに実現されていないためにどんな価値ももたない未耕地の価格のような想像上の価格形態であっても、たとえ間接的であろうと、実在の価値関係をひそませていることがありうる。〉(81頁)

●第20パラグラフ

《初版》

 〈しかし、われわれは、ここではまだわれわれにだけしか知られていない正規の商品価格に、立ち返ることにしよう。価格とは、商品の観念的でしかない価値姿態である。だから、このことと同時に価格が表現しているのは、商品がまだ実在する価値姿態をもってはいないということであり、または、商品の現物形態がその商品の一般的な等価形態ではないということである。商品の観念的な価値姿態は、その上、価格、すなわち、想像されただけのあるいは観念的な金姿態である。だから、価格が表現しているのは、商品は、それが他の諸荷品にたいして交換価値または一般的な等価物の働きをするためには、自分の自然のままの肉体を脱ぎ捨てて、想像されただけの金から実在する金に転化しなければならない、ということである。たとい、この化体がその商品にとっては、へーゲルの「概念」にとっての必然から自由への移行や、ざりがににとっての殻破りや、または教父ヒエロニムスにとっての人間の原罪からの脱却(49)よりも、「もっと骨の折れる」ものとして生じようとも、そうなのである。商品は、それの実在する姿態たとえば鉄のほかに、価格のなかに、観念的な価値姿態あるいは想像された金姿態をもつことができても、実在する鉄であると同時に実在する金であることはできない。商品の価格づけのためには、想像された金をこの商品に等置するだけで充分である。商品がその所持者にとって一般的な等価物の役を果たすためには、この商品は金と取り替えられなければならない。たとえば、鉄の所持者が、ある享楽商品の所持者に出くわして鉄価格を示しこれが貨幣形態だと言えば、享楽商品の所持者は、天国で聖ペテロが自分の前で信仰箇条を唱えたダンテにたいして答えたように、こう答えるであろ。
 「この貨幣の混合物(まぜもの)とその重さとは汝既にいとよく検べぬ
 されどいえ、汝はこれを己が財布のなかに有(も)つや」
 〔ダンテ『神曲』、山川丙三郎訳、岩波文庫版、下、156ページより引用。〕〉(90-1頁)

《補足と改訂》

 〈(51)28) p.6 2)相対的価値形態一般がそうであるように、価格がある商品たとえば鉄の価値を表現するのは、一定分量の等価物、たとえば1オンスの金がいわば1トンの鉄と直接交換されうるということによってであって、逆に、1トンの鉄が自分のほうからも直接1オンスの金と交換されうる、ということによって表現するのでは決してない。金との等置は価格つまり商品の貨幣名において先取りされるが、それはまだ実際には実行されてはいない。〉(42頁)

《フランス語版》 フランス語版では、このパラグラフは二つのパラグラフに分けられているが、そのまま紹介しておく。

 〈相対的価値形態一般と同じように、価格は一商品たとえぽ1トンの鉄の価値を次のようにして表現する。すなわち、もし人が望むなら、ある量の等価物、1オンスの金が、鉄と直接に交換可能であるというように。だが、この逆が生ずるわけではない。すなわち、鉄のほうは、金と直接に交換可能ではないのである。
  価格のうちに、すなわち商品の貨幣名のうちに、商品が金と等価であることは予見されるが、まだ既成の事実ではない。現実に交換価値として有効であるためには、商品は自分の自然の体躯を脱ぎ捨てて、想像的であるにすぎない金から実在する金に変換しなければならない。たとえこの化体が商品にとっては、へーゲルの「概念」にとっての必然から自由への移行や、ざり蟹にとっての甲殻破りや、教父ヒエロニムスにとっての原罪からの解脱(14)よりも、いっそう骨の折れることでありうるとしても、そうなのである。商品は、その実在する姿、たとえば鉄の姿のほかに、その価格のうちに観念的な姿または想像された金の姿をもつことができるが、実在する鉄であると同時に実在する金であることはできない。商品に価格を与えるためには、商品が、純粋に観念的である金と同等である、と宣言すれぽ足りる。だが、商品がその所有者にたいして一般的等価物の役目を果たすためには、それは実在する金によって代置されなければならない。もし鉄の所有者がパリの優雅な物品の所有者に直接会いにきて、鉄が貨幣形態であるからといって鉄の価格を高く値ぶみするならば、鉄の所有者は相手から、天国で聖ピエトロが白分の前で信仰箇条を暗諦したダンテあてに差し向けた次の答えを、受け取るだろう。
  「この貨幣の混合物(まぜもの)とその重さとは汝既にいとよく検べぬ
  されどいえ、汝はこれを己が財布の中に有(も)つや」〔ダンテ『神曲』、山川丙三郎訳、岩波文庫版、下、156ページより引用〕。〉(81-2頁)

●注64

《初版》

 〈(49)ヒエロニムスは、若いときに物質的な肉欲とはげしく闘わなければならなかったのに--美しい婦人の幻像との、砂漠での彼の闘争が示すように--、晩年には精神的な肉欲と闘わなければならなかった。たとえば彼はこう言う。「私は心のなかでは世界審判者の前にいるものと信じていました。」 「汝はなに者か?」とある声が尋ねた。「私はキリスト教徒です。」世界審判者はどなった、「嘘つきめ」と。「汝はキケロの徒でしかない!」〉(91-2頁)

《フランス語版》

 〈(14) 聖ヒエロニムスは青年時代には、美しい女性の幻想が不断に彼の想像を悩ましたために、物質的な肉欲と大いに闘わなければならなかったが、老年には同じく、精神約な肉欲と闘ったのである。彼はたとえばこう述べている。「私は至上の審判者の面前にいると思いました」。「汝はなんびとであるのか?」「私はキリスト教徒です」。審判者は雷のような声で答えた。「そうではない、嘘つきめ、汝はキケロの徒にすぎぬ」。〉(82頁)

●第21パラグラフ

《経済学批判》

 〈商品はそのものとして交換価値であり、それはひとつの価格をもっている。交換価値と価格とのこの区別には、商品にふくまれている特殊な個人的労働は、外化の過程によってはじめて(草稿集③ではこの部分は「譲渡の過程を通じてはじめて」となっている--引用者)、その反対物として、個性のない、抽象的一般的な、そしてこの形態でだけ社会的な労働として、すなわち貨幣として表示されなければならない、ということが現われている。個人的労働がこの表示をなしうるかどうかは、偶然のことのように見える。だから商品の交換価値は価格においてただ観念的に商品とは別の存在を受け取るだけであり、商品にふくまれている労働の二重の定在は、ただ異なった表現様式として存在するだけであるけれども、したがって他方、一般的労働時間の物質化したものである金は、ただ表象された価値尺度としてだけ現実の商品に対立しているのであるけれども、価格としての交換価値の定在、すなわち価値尺度としての金の定在のうちには、商品が響きを発する金(③では「じゃらじゃらと音を立てる金」となっている--同)と引き換えに外化する(③「譲渡されなければならない」--同)必然性とその譲渡されない可能性とが、要するに生産物が商品であるということから生じる全矛盾、言いかえれぽ、私的個人の特殊的労働が社会的効果をもつためにはその直接の対立物として、抽象的一般的労働としてあらわされなければならないということから生じる全矛盾が、潜在的にふくまれている。だから商品は欲するが貨幣は欲しないというユートピア主義者たち、私的交換にもとつく生産をこの生産の必然的な諸条件なしに欲するユートピア主義者たちは、もし彼らが貨幣をその手でつかめる形態ではじめて「絶滅する」のではなくて、価値尺度としての、もうろうとした幻のような形態で、はやくもこれを「絶滅する」というのなら、首尾一貫しているわけである。目に見えない価値尺度のうちに、硬貨が待ち伏せしているのである。〉(全集第13巻52-53頁)

《初版》

 〈価格形態は、貨幣と引き換えに諸商品を譲渡する可能性と、この譲渡の必然性とを、含んでいる。他方、諸商品の価格形態は、交換過程のなかにある一商品、すなわち金を、すでに貨幣にしてしまっている。だから、観念的な価値尺度のうちには、硬貨が待ち伏せしているのである。〉(92頁)

《補足と改訂》

 〈3 0) p. 6 3) (本文の最初の文〉他方、金は、すでに商品市場において貨幣商品として動き回っているからこそ、観念的な価値尺度として機能するのである。〉(42頁)

《フランス語版》

 〈価格形態はそれ自身のうちに、貨幣にたいする商品譲渡の可能性とこの譲渡の必然性とを含んでいる。他方、金は、すでに貨幣商品として市場にあるからこそ、観念的な価値尺度として機能するのである。だから、実在する貨幣である硬貨は、価値尺度という全く観念的な姿をまとって、とっくに待ち伏せているわげである。〉(82頁)

(第1節 価値尺度 終わり)

 

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『資本論』学習資料No.8(通算第58回) 上

2019-01-25 17:50:07 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.8(通算第58回)上

 

◎エンゲルス版『資本論』の意義(大谷新著の紹介の続き)

 

 ご存知のように、マルクスは『資本論』の第1巻だけを自らの手で出版することが出来ただけでした。あとの第2巻、第3巻は草稿のままに残されたのです。1883年にマルクスが死んだあと、その草稿を引き継いだのが盟友のエンゲルスでした。エンゲルスはその残された草稿にもとづいて、苦労して1885年に第2巻を、1893年に第3巻を編集・刊行したのでした。第2巻を刊行してから第3巻を刊行するまでに8年の歳月を要したのは、エンゲルス自身が序文で書いているように、マルクスの草稿が未完成なものだったからです。
 しかしMEGA(マルクス・エンゲルス全集)の刊行によって、マルクスの草稿そのものに私たちが直接触れることができるようになって、エンゲルスの編集の問題点が指摘されるようになっています。
 それについて、大谷氏はエンゲルスがただでさえ読みにくいマルクスの筆跡を読みやすくするために、それらを一旦は清書することから始める必要があり、それをエンゲルスは秘書を雇って口述筆記でやったこともあり、マルクスがノートのなかで、本文やそれにつける原注とそれらを書くための資料として作成したものとを区別して書いていたものを十分読み取ることが出来ず、それらをごっちゃにして編集したからであろうと推測している。もちろん、それだけではなくて、第3巻第5篇などの草稿を見ているとエンゲルス自身の無理解によるものも多々あるように思えます。
 しかし大谷氏は問題点がさまざま指摘されるエンゲルス版『資本論』ではありますが、それがマルクスの死後それほど時を経ずに刊行されたことの意義の方をわれわれは重視し確認すべきだと次のように述べています。

 〈けれども,晩年のエンゲルスが『資本論』第2部および第3部の編集にあれほど多くの労力を注ぎ込んだのは,彼にその刊行を託して死んだマルクスの遺志を実現するためだけではなかった。それは,マルクス自身がその完成をつねに自分の義務と見なしていたのと同じ目的のため,つまり労働者階級の運動に理論的な武器を提供するためであった。だから,エンゲルスによる第2部および第3部の編集の企図は,マルクスの草稿を正確に再現するところにあったのではなく,既刊の第1部の続きを,完結したマルクスの著作のかたちで読者に提供するところにあったのである。〉 (17-18頁)

 こうした評価は首肯できるものではないでしょうか。私たちはそのマルクスやエンゲルスの遺志を受け継ぎ、『資本論』を労働者解放のための闘いの武器にしなければなりません。そしてそのためにも、すでに草稿が刊行されている現代においては、マルクス自身の理論的成果、その到達点を正しく受け継ぐことも重要な課題の一つだといえます。
  それでは前回の続きです。

◎第18パラグラフ(価値と価格との量的不一致は価格形態そのもののうちにある)

【18】〈(イ)価格は、商品に対象化された労働の貨幣名である。(ロ)したがって、商品と、その名前を商品価格にしている貨幣定量とが等価である、と言うのは同義反復である(63)--というのは、そもそも一商品の相対的価値表現はつねに二つの商品の等価性の表現である。(ハ)しかし、商品の価値の大きさの指標としての価格が、その商品の貨幣との交換比率の指標であるとしても、逆に、商品の貨幣との交換比率の指標が必然的に商品の価値の大きさの指標であるということにはならない。(ニ)かりに、等しい大きさの社会的必要労働が、一クォーターの小麦と二ポンド・スターリング(約1/2オンスの金)とによって表されているとしよう。(ホ)二ポンド・スターリングは、一クォーターの小麦の価値の大きさの貨幣表現、すなわちその価格である。(ヘ)今、事情によって、一クォーターの小麦に三ポンド・スターリングの値段をつけることが許されるか、あるいは、それに一ポンド・スターリングの値段をつけることをよぎなくされるならば、一ポンド・スターリングと三ポンド・スターリングとは、一クォーターの小麦の価値の大きさの表現としては、小さすぎるか、または大きすぎるかのどちらかではあるが、それにもかかわらず、それらはこの小麦の価格である。(ト)というのは、第一に、それらはこの小麦の価値形態、すなわち貨幣であり、第二に、小麦の貨幣との交換比率の指標だからである。(チ)生産諸条件が変わらない限り、すなわち労働の生産力が変わらない限り、一クォーターの小麦を再生産するためには、あい変わらず等しい量の社会的労働時間が支出されなければならない。(リ)この事情は、小麦生産者の意志にも、他の商品所有者たちの意志にも、かかわりがない。(ヌ)したがって、商品の価値の大きさは、社会的労働時間に対する、一つの必然的な、この商品の形成過程に内在する関係を表現する。(ル)価値の大きさの価格への転化と共に、この必然的な関係は、一商品とその商品の外部に存在する貨幣商品との交換比率として現れる。(ヲ)だが、この比率において、商品の価値の大きさが表現されうるのと同じように、与えられた事情のもとで、その商品が価値の大きさより以上に、またはより以下に譲渡されることも表現されうる。(ワ)したがって、価格と価値の大きさとの量的不一致の可能性、または価値の大きさから価格が背離する可能性は、価格形態そのもののうちにある。(カ)このことは、価格形態の欠陥ではなく、むしろ逆に、価格形態を、一つの生産様式に--規律が、盲目的に作用する無規律性の平均法則としてのみ自己を貫徹しうる一つの生産様式に--適切な形態にするのである。〉

  (イ)(ロ) 価格とは、商品の価値が貨幣によって表現されたもの、よって貨幣名によって言い表されたものです。商品の価値というのは、その商品に対象化された抽象的人間労働が凝固したものです。だから価格は、商品に対象化された労働の貨幣名といえます。よって、商品の価値と、それを価格にしている表象された金量、つまり貨幣量の価値とが等しい、というのはまったくの同義反復なのです。なぜなら、一商品の相対的価値表現はつねに二つの商品の等価性にもとづいた表現だからです。

 これまでの私たちの分析では、商品の価値の貨幣での表現をその商品の価格と呼んできました。だから商品の価格とは、商品に対象化された抽象的人間労働の凝固の貨幣名といえます。そしてこうした前提では、商品の価値と、それを価格として表す貨幣=金量の価値とは等しいというのは、ある意味では同義反復といえます。なぜなら、私たちが相対的価値形態の分析で常に前提していたのは、二つの商品の価値が等しいということだからです。
 つまりこの文節では、これまでのわれわれの価値形態やそこから発展した価格形態というのは、価格がそれで表された価値とは量的に等しいことが前提されていたことを確認しているわけです。というのは、これからこのパラグラフではその両者の量的不一致の可能性を論じようとしているからです。だからまずこれまでの分析では両者は一致しているこきを前提してきたことを確認しているわけです。

  (ハ) しかし、商品の価値の大きさの指標としての価格が、その商品の貨幣との交換比率を指し示すものであるとしても、逆に、商品の貨幣との交換比率の指標が、それが必然的に商品の価値の大きさの指標であるということにはならないのです。つまり商品の価格、例えばリンゴ1個につけられた値札が100円だというのは、それが100円の貨幣と交換されるべきことを示していますが、しかし店頭での販売者と購買者の交渉の結果、決まった販売価格は、必ずしも100円とは限りません。あるいは90円かも知れません。だからその値決めされた価格--これも商品と貨幣との交換比率ですが--は、リンゴ1個の価値の大きさを忠実に表しているとは限らないということです。

 これは商品の価格というのは、その商品によって自身の価値と等しいと表象された金量だということを考えれば分かります。つまりそれは商品が自分の価値は、○○の金量と等しいと、商品の頭のなかで思い浮かべた金量との交換を一方的に要求しているに過ぎないものなのです。だからその限りではその商品と貨幣との交換比率を指し示すものといえます。しかしそれはいまだ単に商品の側からの一方的な要求にすぎません。しかし実際に、つまり今度は単なる一方的な要求ではなく、事実として、商品所持者と貨幣所持者とが売買交渉し、互いに一致した交換比率、つまり販売価格というものは、決して最初の値札通りとは行きません。たがらその値決めされた交換比率は、商品の価値の大きさを忠実に表しているとは必ずしも言えないわけです。

  (ニ)(ホ)(ヘ) かりに、等しい大きさの社会的必要労働が、一クォーターの小麦と二ポンド・スターリング(約1/2オンスの金)とによって表されているとしましよう。二ポンド・スターリングは、一クォーターの小麦の価値の大きさの貨幣表現です。つまりその価格です。しかし今、事情によって、一クォーターの小麦に三ポンド・スターリングの値段をつけることが許されるか、あるいは、それに一ポンド・スターリングの値段をつけることをよぎなくされるならば、一ポンド・スターリングと三ポンド・スターリングとは、一クォーターの小麦の価値の大きさの表現としては、小さすぎるか、または大きすぎるかのどちらかではしょう。しかしにもかかわらず、それらはこの小麦の価格なのです。

  ここでマルクスが〈事情によって〉と述べている「事情」というのは、小麦の価値を増減させるような生産力の変化や自然条件の変化等を指しているのではありません。それだと小麦の価値そのものが変化した結果、その価格が変化したことになるからです。また需給による変化から説明している人もいますが、これもあまり適切ではないのではないか、という気がします。というのは私たちがいま問題にしている「価値」というのは、第3巻で出てくる需給を考慮した価値である「市場価値」の抽象的なものなのです。だから私たちが今扱っている「価値」はその意味では需給も考慮したものであり、ただその抽象性から需給が一致している理想的な状況を想定したものだと考えるべきだからです。
 だからここでいう事情は、そうしたものではなく、もっと偶然的なものだと考えるべきだと思います。小麦の価格を値決めするときのさまざまな偶然的な事情、例えば在庫が積もりすぎて、このままでは管理費が大きくなりすぎるとか、あるいは売り手と買い手の双方の駆け引きの上手い下手とか、その当事者のさまざまな事情によって価格が上下するような「事情」です。しかしこうしてさまざまな事情によって、決められた価格というものも、それが例え価値から乖離していても、やはりそれらは小麦の価格なのだとマルクスは述べているわけです。
 これは法則とその現象形態との関係を考えれば、当然のことです。私たちが丸い石を空中に投げると、それは放物線を描いて落ちてきます。これを見て、少しは物理学を学んだことのある人は重力の法則がその石の運動を通じて現れているとみるでしょう。しかし今紙切れを同じように空中に放り投げたとしても、紙切れは放物線を描きません。ヒラヒラと落ちてきます。では紙切れには重力の法則は働いていないのかというと、やはりそれも重力の法則の紙切れを媒介した現象なのです。二つとも真空中だと同じように現象します。つまり重力の法則が純粋な形で現れてきます(この実験を参照してください)。石ころの場合はよりそれに近い形で現れるが、紙切れの場合は空気の抵抗が大きいために、より不純な形で現れてくるだけなのです。しかしいずれも重力の法則の現象という点では同じなのです。
 同じことは価値という本質的な関係が、価格という目に見えるものとして現れてくることについてもいえるだけです。価値から乖離した価格も、価値の現象形態という点では同じだからです。

  (ト) というのは、第一に、一ポンド・スターリングも三ポンド・スターリングも、やはり小麦の価値の貨幣表現であることは確かであり、第二に、小麦がどれだけの貨幣と交換されるべきかを示す指標だからです。

 ここではそれらがどうして小麦の価格といい得るかの理由を述べています。フランス語版はこの部分は簡潔に次のように書かれています。

 〈それらは第一に小麦の価値の貨幣形態であり、第二に小麦の貨幣との交換比率の指数であるからだ。〉 (80頁)

 つまりこれを逆に考えると商品の価格とは、商品の価値の貨幣形態であり、商品と貨幣との交換比率の指標であるといえます。

  (チ)(リ)(ヌ) 生産諸条件が変わらない限り、すなわち労働の生産力が変わらない限り、一クォーターの小麦を再生産するためには、あい変わらず等しい量の社会的労働時間が支出されなければなりません。こうした事情は、小麦生産者の意志にも、他の商品所有者たちの意志にも、かかわりがありません。だから、商品の価値の大きさというのは、その社会が有する総労働のうち、その商品を生産するために必要な労働時間として社会によって配分されるべきものを表すものであり、それはこの商品が生産される社会の中に貫いている客観的な必然的な関係を表しているのです。

 ここでは商品の価値の大きさとは何かが明確に述べられています。商品の価格の大きさは、一見すると商品所持者の主観によって決められもののように思えます。商品の生産者は、同じ種類の他の商品の価格表を見て、自分の商品の価格としてどれだけの値を札に書くかを考えるのですから、彼がいくらに書くかは彼の恣意のままのように思えます。しかし実際には決して価格は彼の恣意のままには決めることは出来ないのです。恣意的な価格は、それがまったく売れないか、あるいは売れてもいくらも儲けがないという形で市場から反撃を食らうだけです。だからそれは適正なものとしてはいくらであるかは、商品所持者の意志にはかかわりなく決まってくるものです。むしろ反対に商品の生産者たちは市場で事実として決まってくる商品の価格に左右されて彼らの生産をコントロールしなければならないのです。コントロールしているのは商品生産者たちではなく、彼らの意志から独立して必然的なものとして、彼らにとっては一つの強制力として作用する商品の形成過程に内在する関係なのです。それは社会的物質代謝を維持するために、社会の総労働をそれらの諸使用価値を生産するに必要な形で配分するように作用する客観的な法則なのです。それが価値法則です。

  (ル) ただ価値の大きさの価格への転化と共に、その必然的な社会的な関係は、一商品とその商品の外部に存在する貨幣商品との交換比率として現れてくるのです。

 そうした商品生産社会に内在的に貫いている法則が、価値の大きさの価格への転化とともに、一商品とその商品の外部に存在する貨幣商品との交換比率として現われてくるのです。それはその商品の生産に私的に支出された労働の社会的性格が商品と貨幣との交換によって実証されることになるのです。

  (ヲ)(ワ) しかし、この比率そのものは、商品の価値の大きさが表現されうるのと同じように、与えられた事情のもとでは、その商品が価値の大きさよりもより大きかったり、より小さかったりします。このような、価格と価値の大きさとの量的不一致の可能性は、あるいは価値の大きさから価格が背離する可能性は、価格形態そのもののうちにあるのです。

 商品の価値とその大きさは、そうした社会的に客観的に貫く法則によって決まってくるものですが、しかしそうした商品に内在する価値が、目に見える価格として表されると、そうした客観的に貫いている法則が、諸商品と貨幣との交換比率という直接的な形で現象するということです。だから内在的な諸法則一般が、常に直接的な物のさまざまな偶然的な諸条件や諸契機に媒介されて、目に見えるように現われてくるように、この場合も、商品と貨幣との交換比率は、偶然的な諸事情によって、商品の価値の大きさがそのまま表現されるときもあれば、ある時には、その価値よりもより大きくか、あるいはより小さく表されることもあるのです。だからこのような価格と価値との量的不一致の可能性、価値から価格の乖離の可能性は、価値の現象形態である、価格形態そのものにあるのです。

  (カ) このことは、価格形態の欠陥ではなく、むしろ逆に、価格形態を、資本主義的生産様式にとっては適切なものするのです。なぜなら、資本主義的生産様式における諸法則というものは、盲目的に作用する無政府的な諸運動のなかに貫く平均的な法則としてのみ自己を貫徹しうるのだからです。

 価値を忠実に表さない価格というものは、如何にも価格形態の欠陥のように思えますが、しかし上記の事情が分かれば、決してそうではないことが分かります。それは客観的な内在的諸法則が、社会的に貫徹する必然的な形態だといえるからです。むしろ反対に、資本主義的生産様式はそうした価格形態をとおして、客観的な法則を貫徹させ、社会的な物質代謝を維持しえているとえるからです。そもそも資本主義的生産様式における諸法則というのは、盲目的に作用する無政府的な諸運動のなかに貫く平均的な法則としてのみ自己を貫くものなのです。 

◎注63

【注63】〈(63) 「そうでなければ、貨幣での一〇〇万の価値は商品での等しい価値よりも多くの価値をもっていることを認めなければならない」(ル・トローヌ『社会的利益について』、九一九ページ)。そうなると、「ある価値は、他の等しい価値よりも多くの価値をもっていること」も認めなければならなくなる。〉

 これは〈商品と、その名前を商品価格にしている貨幣定量とが等価である、と言うのは同義反復である〉という一文につけられた注です。この〈ル・トローヌ〉というのは全集版の人名索引によれば、1728-1780年の人で、フランスの経済学者、重農主義者ということです。マルクスはこの著者の同じ著書からさまざまなところで注として抜粋して紹介していますが、それらはすべて本文でマルクスが述べていることを適切に、すでに指摘しているものとして紹介しているものです。
  そのうち重要と思えるものを紹介すると、これは後に商品流通のところで出てくるものですが、マルクスが本文で〈貨幣は、絶えず商品に代わって流通場所を占め、それにつれて自分自身の出発点から遠ざかって行きながら、商品を絶えず流通部面から遠ざけて行く。それゆえ、貨幣運動はただ商品流通の表現でしかないのに、逆に商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ現われるのである。(75)〉(全集版23a153頁)と書いている部分につけた注75を見ると、〈(75)「それ」(貨幣)「は、生産物によってそれに与えられる運動のほかには、どんな運動もしない。」(ル・トローヌ『社会的利益について』、八八五ページ。)〉(153頁)となっています。つまり商品というのは貨幣のその何でも買えるという購買力によって流通するのだ、という宇野派的な転倒した認識は、マルクス経済学者を自認する人たちにもかなり一般的なのですが(これはいうまでもなく、現代の通貨は国家によって管理されているなどと主張する人たちも同類なのですが)、ご覧のように、ル・トローヌは、マルクスが指摘する以前に、貨幣の運動は生産物によって与えられる運動のほかにはどんな運動もしない、とこうした転倒意識を克服していることを示しています。だからマルクスはこのル・トローヌの著書から紹介しているところでは、すべて問題を正しく捉え指摘している例として紹介しているのです。

◎第19パラグラフ(価格形態がもつ矛盾、価格が価値表現であることをやめるほどの矛盾)

【19】〈(イ)ところが、価格形態は、価値の大きさと価格との、すなわち価値の大きさとそれ自身の貨幣表現との量的不一致の可能性を許すばかりでなく、一つの質的な矛盾--貨幣は諸商品の価値形態にほかならないにもかかわらず、価格がそもそも価値表現であることをやめるにいたるほどの矛盾--をも宿しうる。(ロ)それ自体としては商品でないもろもろの物、たとえば良心、名誉などが、その所有者によって貨幣(カネ)で売られる物となり、こうしてその価格を通して商品形態を受け取ることがありえる。(ハ)だから、あるものは、価値をもつことなしに、形式的に価格をもつことがありえる。(ニ)価格表現は、ここでは、数学上のある種の大きさと同じように想像的なものとなる。(ホ)他方、想像的な価格形態、たとえば、何の人間労働もそれに対象化されていないために何の価値ももたない未耕地の価格のようなものも、ある現実の価値関係、またはそれから派生した関係をひそませていることがありえる。〉

  (イ) すでに指摘しましたように、価格形態というのは、価値の大きさと価格との量的不一致の可能性を許すものです。しかし価格形態はこれだけに留まりません。このような量的な不一致という矛盾だけではなくて、一つの質的な矛盾をも持っているのです。というのは、貨幣というのは、商品の価値を表すもの、すなわち商品の価値形態であるにもかかわらず、価格がそもそも価値の表現でないこともあるからです。つまり価格が価値の表現であることをやめるような矛盾なのです。

  マルクスは後に蓄蔵貨幣の形成を論じたところで、シェークスピアの『アンデスのタイモン』からの一節を紹介しています。

  〈「黄金? 黄色い、ギラギラする、貴重な黄金じゃないか? こいつがこれっくらいありゃ、黒も白に、醜も美に、邪も正に、賎も貴に、老も若に、怯も勇に変えることができる。……云々〉 (全集23a173頁)

  ここでシェークスピアが挙げているものはすべて商品とはいえないものです。しかしそうしたものも貨幣の力で何とでも出来るというのです。これは物神崇拝の骨頂ですが、つまりそれらもすべて想像的な価格がつけらて売買されるということを意味しているわけです。だから価格形態というのは、単に価値の大きさから乖離するという、価値の大きさと価格との不一致という量的矛盾だけではなくて、価格そのものが価値の表現であることをやめるという質的な矛盾をもっているのだということです。

  (ロ)(ハ)(ニ) これはそれ自体としては商品でないもろもろの物、たとえば良心や名誉といった、それ自体としては商品でもなくまた労働が対象化されいて価値を持つようなものでもないものが、その所有者によって貨幣(カネ)で売られる物となり、こうして価格をつけられて商品として売られることがありえるからです。だから、あるものは、価値をもつことなしに、形式的に価格をもつことがありえるのです。ここでは価格表現は、数学上のある種の大きさ(虚数)と同じように想像的なものとなるのです。

  〈数学上のある種の大きさ〉というのは虚数を指すと考えられる。ただ名誉や良心、あるいは役職や貞操、選挙での一票など、まったく商品とはいえないものの価格というのは、確かにまったく想像的なものでしかありませんが、果たして虚数はそうしたものと同じといえるのかどうかはやや疑問ではあります。
  いずれにせよ、こうした労働生産物ではなくて、まったく商品とはいえないものも、それを手に入れたいと思う人があれば、何らかの価格がつけられ、貨幣と引き換えに売られるということです。だからこれらの価格を規定する法則のようなものは存在しません。

  (ホ) しかし他方で、想像的な価格形態を持つもの、たとえば、何の人間労働もそれに対象化されていないために何の価値ももたない未耕地ようなものも価格を持ちますが、このようなものは、ある現実の価値関係、またはそれから派生した関係をひそませていることがありえるのです。

  しかし同じ想像された価格を持つものでも、一定の法則にもとづいたものもあります。初版では、この部分は〈しかし、他方、われわれは、本質的な生産諸関係についても、このような想像的な価格形態を見いだす〉となっています。つまり想像された価格ではあるが、本質的な関係を背後にもち、それによって規制されている場合もあるということです。マルクスは人間の手がまったくはいっていない土地の価格を例に挙げていますが、これは第3巻の地代で論じられるものです。すなわち土地の価格というのは定期的に地代として入ってくる貨幣収入を資本還元したものなのですが、だから地代という一定の価値関係にもとづいたものなのです。同じことは国債や株式の価格についても言いうるのです。国債の場合、定期的に支払われる確定利息をそのときの市場利子率で資本還元してその価格が決まってきます。株式の場合は、額面の価格とは違って証券市場で売買される株式の価格にそれが当てはまります。それは配当をそのときの市場利子率で資本還元して与えられるのです。これらについてはマルクスは「想像された資本価値」と言っています。しかしそれらもやはり想像されたものですが、利子生み資本の運動にもとづいたものなのです。
 (ここでは「資本還元」という概念を何の説明なしに使いましたが、これを説明しているとあまりにも長くなりすぎるからです。だからもし「資本還元をする」とはどういうことかを知りたい方は第3部第29章を解読したものを一度参照してください。できるだけ分かりやすく説明しています。)

◎第20パラグラフ(商品は価格形態を脱して現実の金にならなければならない)

【20】〈(イ)相対的価値形態一般がそうであるように、価格がある商品たとえば一トンの鉄の価値を表現するのは、一定量の等価、たとえば一オンスの金が鉄と直接に交換されうるということによるのであって、逆に、鉄のほうが金と直接に交換されうるということによって表現するのでは決してない。(ロ)したがって、商品は、実際に交換価値の作用を果たすためには、その肉のからだを脱して、ただ想像されただけの金から現実の金に自己を転化させなければならない。(ハ)たとえ、商品にとって、この化体が、ヘーゲルの「概念」にとって必然から自由に移行することよりも、ザリガニが甲らを破ることよりも、教父ヒエロニムスにとって古いアダム〔原罪〕から脱却すること(64)よりも、「いっそうつらいこと」であろうとも。(ニ)商品は、たとえば鉄というような実在的な姿態とならんで、価格という観念的価値姿態、または想像された金姿態をもつことができる。(ホ)しかし、商品は、現実に鉄であると同時に現実に金であることはできない。(ヘ)商品に価格を与えるためには、想像された金を商品に等置すれば十分である。(ト)商品がその所有者のために一般的等価の役割を果たすためには、商品は金と取り替えられなければならない。(チ)たとえば、鉄の所有者がこの世の欲を満たすある商品の所有者の前にやってきて、鉄の価格をさして、これは貨幣形態であるといったとすれば、この世の欲を満たす商品の所有者は、天国で聖ペテロが彼に向かって信仰個条を暗唱したダンテに答えたとおりに、答えるであろう。
 (リ)「“この貨幣の純度と重さは、十分にしらべられた。
   しかし我に語れ、そなたそれを、おのが財布の中にもっているのか
    Assai bene e trascorsa
    D'esta moneta gia la lega e'l peso,
    Ma dimmi se tu l'hai nella tua borsa. ”」〉

  (イ) 相対的価値形態一般がそうですが、価格をつけられたある商品、たとえば一トンの鉄の価値を表現するのは、その商品の等価に置かれた商品、たとえば一オンスの金が鉄と直接に交換されうるということによります。しかしこのことは、逆に、鉄のほうが金と直接に交換されうるということによって表現するので決してありません。

  私たちが先に学んだ第1章第3節の商品の価値形態のところで、「商品語」という奇妙なことをマルクスが論じていたことを思い出します。相対的価値形態にあるリンネルは、上着に対して、商品語によって語りかけるというものでした。しかもリンネルはただ自分だけに通じる言葉で、上着に一方的に語るのだというのです。リンネルの言葉は上着に通じていないのに、リンネルは語るのです。しかしこうしたリンネルの一方的な価値表現によって、上着は直接的な交換可能性を持つということでした。だからこの文節は、まさに私たちが第1章の価値形態で明らかになったことを再度確認しているといえます。
  要するに商品の価格形態というのは、その商品が幾らの金との交換できるということを表しているだけで、それだけではその商品が金と直接交換されうることを示しているわけでない、というある意味では誰でも知っているありふれた事実を述べているだけです。100円の値札が付けられているからといって、その商品は、必ず100円の金貨と交換される補償は何もありません。事情によっては90円にまける必要もあるし、あるいはまったく売れないかもしません。

  (ロ)(ハ) したがって、商品は、実際に交換価値の作用を果たすためには、その肉のからだを脱して、ただ想像されただけの金から現実の金に自己を転化させなければなりません。たとえ、商品にとって、この化体が、ヘーゲルの「概念」にとって必然から自由に移行することよりも、ザリガニが甲らを破ることよりも、教父ヒエロニムスにとって古いアダム〔原罪〕から脱却することよりも、「いっそうつらいこと」であろうともです。

 だから商品が、他のどの商品とも交換できるようになるためには、その商品という肉体を脱して、絶対的な価値姿態にならなければならないわけです。つまり商品は価格というその想像された金から現実の金に自身を転化させなければならないのです。要するに商品は売られて貨幣に転化される必要があるということです。
 たとえこの貨幣への転化が、この商品にとってどんなに困難なことであろうとそれがなし遂げられないと、商品所持者は初期の目的を果すことは出来ません。商品の使用価値は商品所持者にとっての使用価値ではなく、他の第三者の使用価値、社会的使用価値ですから、もしその転化ができないなら、その使用価値は実現することが出来ず、商品は商品ですらないことになります。だから商品所持者はその商品の交換価値の作用(つまり自分の欲する別の商品と交換するという作用)を果すこともできないことになります。
 ここでマルクスは後に「命懸けの飛躍」という商品の貨幣への転化の困難さの比喩として、いくつかのものを挙げています。
 まず〈この化体が、ヘーゲルの「概念」にとって必然から自由に移行することよりも〉について、まず〈化体〉というのは、日本新書版の注によれば、「キリスト教の教義によれば、聖餐にさいしてパンとブドウ酒がキリストの肉と血に変わること」という意味だそうです。因みに、その前にある〈その肉のからだを脱して〉という部分の〈その肉のからだ〉というのも、やはり同書の注によると「霊のからだと区別されたそれ。新約聖書、コリント第1、15・44」とあります。何のことかよく分かりませんが、マルクスはここらあたりは宗教的な教義を皮肉って書いているようです。
 ところでヘーゲルの概念から自由への移行についてですが、これについては『小論理学』の一節を紹介しておきましょう。

 〈必然から自由への、あるいは現実から概念への移りゆきは、最も困難なものである。というのは、独立的な現実は移行および他の独立的な現実との同一のうちで、その実体性のすべてを持っているものと考えられなければならないからである。概念もまた、それ自身がまさにこうした同一性であるのだから、最も困難なものである。〉 (岩波下118頁)

 これだけでは何がどう困難なのかは皆目分からないかもしれませんが、いずれにせよヘーゲル自身が困難だと言っていることだけは分かります。この場合はそれで十分でしょう。
 その次の〈ザリガニが甲らを破る〉というのは説明は不要でしょう。節足動物にとってこうした脱皮はもっとも危険が伴い困難なものなのかもしれません。
 〈教父ヒエロニムスにとって古いアダム〔原罪〕から脱却すること(64)よりも、「いっそうつらいこと」であろうとも〉という部分にも、新日本新書版には訳者注があって、新約聖書の参照箇所が指示されていますが、まあそんな詮索は不要でしょう。「古い人間から新しく生まれ変わること」という説明で十分だと思います。またこれには原注64も付いていますから、それについては原注のところで検討することにしましょう。

  (ニ)(ホ) 商品は、たとえば鉄というような実在的な姿態とならんで、価格という観念的な価値姿態、または想像された金姿態をもつことができます。しかし、商品は、現実に鉄であると同時に現実に金であることはできません。

 これはある意味では当たり前のことを言ってるだけで理解になんの困難もないでしょう。商品がその使用価値のままに絶対的な価値でもあるというのは、貨幣である金だけの特権です。他の一般的な商品は、こうした一般的等価から排除されているのですから、それらは商品体であると同時に価値体でもあるということはありえないのです。

  (ヘ)(ト) 商品に価格を与えるためには、想像された金を商品に等置すれば十分である。商品がその所有者のために一般的等価の役割を果たすためには、商品は金と取り替えられなければならない。

 商品に価格を与えるためには、現実の貨幣、金は必要ではなく、ただ想像された金で十分だというのは、すでに明らかにされたことです。しかしその商品がそれを所持する者にとって、一般的等価の役割、つまりさまざまな商品との直接的な交換可能性を持つためには、その商品を貨幣(金)と取り替えなければならないということです。ここらあたりはマルクスは、しつこいほど同じことを、ある意味では当たり前のことを、何度も述べているように思えます。

  (チ)(リ) たとえば、鉄の所有者がこの世の欲を満たすある商品の所有者の前にやってきて、鉄の価格をさして、これは貨幣形態であるといったとすれば、この世の欲を満たす商品の所有者は、天国で聖ペテロが彼に向かって信仰個条を暗唱したダンテに答えたとおりに、答えるであろう。
 「“この貨幣の純度と重さは、十分にしらべられた。
   しかし我に語れ、そなたそれを、おのが財布の中にもっているのか」

 この部分もこれまで言ってきたことを、やや文学的な形で述べているだけのように思えます。鉄の所有者が自分が欲しい別の商品の所持者のところに来て、鉄の価格を示して、だからその商品と交換せよと言っても、その所持者は、その前に、まず観念的な価格ではなく、それを実現した現実的な金を、お前は持っているのか、と聞くというのです。ダンテの『神曲』の一節はそうしたことを述べているものです。ここには信仰の世界も金次第という皮肉も込められているのでしょう。

◎注64

【注64】〈(64) ヒエロニムスは、砂漠で美しい女性たちの幻像とたたかったという話が示しているように、若い時には物質的な肉欲ときびしく格闘しなければならなかったが、年をとってからは、精神的な肉欲と格闘しなければならなかった。たとえば彼は言う。「私は、霊の働きによって、世界審判者の前に立たされていると思った」。「おまえはだれだ?」とある声が尋ねた。「私はキリスト者です」。「うそをつけ」と世界審判者は一喝した。「おまえはキケロの徒にすぎない!」。〉

 この注は〈教父ヒエロニムスにとって古いアダム〔原罪〕から脱却すること〉という本文に付けられたものです。ようするに古い人間から新しい人間に生まれ変わるということのようです。宗教者が聖者になるためには、若いときには肉欲とたたかったが、歳をとると精神的な肉欲と格闘したとして、その問答が紹介されている。
 ウィキペディアによれば、〈エウセビウス・ソポロニウス・ヒエローニュムス(Eusebius Sophronius Hieronymus, 347年頃 - 420年9月30日)は、キリスト教の聖職者・神学者。聖書のラテン語訳であるウルガータ訳の翻訳者として知られる。四大ラテン教父のひとりであり、正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人とされる〉らしい。ここで引用されている問答は、新書版の訳者注によれば、〈聖ヒエロニムス『エウストキウムへの手紙、第22--純潔のまもりについて』からの抜粋だという。
 また〈キケロの徒にすぎない〉のキケロについてもウェブ辞書から紹介しておこう。
 〈キケロ  前106‐前43 ローマの弁論家,政治家,哲学者。ローマの東約100kmの町アルピヌムの騎士身分の家に生まれた。ローマで修辞,哲学の教育を受けたキケロは,前81年の《クインクティウス弁護》を皮切りに弁論家としての道を歩み始め,翌年には殺人事件を扱った《ロスキウス弁護》における演説によって早くも名声を得た。その後,前79年からアテナイ,ロドス島に遊学してストア学派の哲学者ポセイドニオスらに師事し,弁論術,哲学を修めた。 (世界大百科事典第2版)〉

 

◎第21パラグラフ(観念的な金には固い硬貨が待ちかまえている)

【21】〈(イ)価格形態は、貨幣と引きかえに商品を譲渡する可能性と譲渡する必然性を含んでいる。(ロ)他方、金が観念的価値尺度として機能するのは、金がすでに交換過程において貨幣商品として動きまわっているからにほかならない。(ハ)だから観念的な価値の尺度のうちには、硬い貨幣が待ちかまえている。〉

  (イ) これまで述べてきましたように、価格形態は、貨幣と引きかえに商品を譲渡する可能性と譲渡する必然性、つまり貨幣に転化しなければならない必然性を含んでいます。

  (ロ)(ハ) 確かに商品の価値を価格として表すためには、ただ観念的な金で十分なのですが、かし、金が観念的に価値の尺度として機能するためには、現実の金がすでに交換過程において貨幣商品として動きまわっているからにほかならないのです。だから観念的な価値の尺度のうちには、硬い貨幣が待ちかまえているのです。

 これパラグラフは、次の「第二節 流通手段」への移行を媒介するものといえます。私たちは貨幣の第一の機能である価値尺度の機能を考察してきました。そこでは金はただ観念的な表象されたもので十分だったのです。しかし価格形態そのものは、それが現実の金に転化する必然性を示しています。価格は、そのための観念的な準備段階だったわけです。だからこうした観念的な金による商品の価格そのものは、しかし現実の価値を持った労働生産物である金が流通過程に存在していることを前提してるのです。これは第1章の価値形態や第2章の交換過程を振り返ればあきらかです。だから今度は、その交換の準備過程を終えて、次の実際に商品と貨幣との交換の実際に移り、そこでの貨幣の機能を考察する必要があるわけです。それが次の「第2節 流通手段」だということです。
 ここでは『経済学批判』の一文を参考のために紹介しておきましょう。

 〈商品はそのものとして交換価値であり、それはひとつの価格をもっている。交換価値と価格とのこの区別には、商品にふくまれている特殊な個人的労働は、外化の過程によってはじめて(草稿集③ではこの部分は「譲渡の過程を通じてはじめて」となっている--引用者)、その反対物として、個性のない、抽象的一般的な、そしてこの形態でだけ社会的な労働として、すなわち貨幣として表示されなければならない、ということが現われている。個人的労働がこの表示をなしうるかどうかは、偶然のことのように見える。だから商品の交換価値は価格においてただ観念的に商品とは別の存在を受け取るだけであり、商品にふくまれている労働の二重の定在は、ただ異なった表現様式として存在するだけであるけれども、したがって他方、一般的労働時間の物質化したものである金は、ただ表象された価値尺度としてだけ現実の商品に対立しているのであるけれども、価格としての交換価値の定在、すなわち価値尺度としての金の定在のうちには、商品が響きを発する金(③では「じゃらじゃらと音を立てる金」となっている--同)と引き換えに外化する(「譲渡されなければならない」--同)必然性とその譲渡されない可能性とが、要するに生産物が商品であるということから生じる全矛盾、言いかえれぽ、私的個人の特殊的労働が社会的効果をもつためにはその直接の対立物として、抽象的一般的労働としてあらわされなければならないということから生じる全矛盾が、潜在的にふくまれている。だから商品は欲するが貨幣は欲しないというユートピア主義者たち、私的交換にもとつく生産をこの生産の必然的な諸条件なしに欲するユートピア主義者たちは、もし彼らが貨幣をその手でつかめる形態ではじめて「絶滅する」のではなくて、価値尺度としての、もうろうとした幻のような形態で、はやくもこれを「絶滅する」というのなら、首尾一貫しているわけである。目に見えない価値尺度のうちに、硬貨が待ち伏せしているのである。〉 (全集第13巻52-53頁)

 ところでマルクスは〈金が観念的価値尺度として機能するのは、金がすでに交換過程において貨幣商品として動きまわっているからにほかならない〉と述べています。『経済学批判』では〈一般的労働時間の物質化したものである金は、ただ表象された価値尺度としてだけ現実の商品に対立しているのであるけれども、価格としての交換価値の定在、すなわち価値尺度としての金の定在のうちには、商品が響きを発する金(③では「じゃらじゃらと音を立てる金」となっている--同)と引き換えに外化する(「譲渡されなければならない」--同)必然性とその譲渡されない可能性とが、要するに生産物が商品であるということから生じる全矛盾、言いかえれぽ、私的個人の特殊的労働が社会的効果をもつためにはその直接の対立物として、抽象的一般的労働としてあらわされなければならないということから生じる全矛盾が、潜在的にふくまれている〉と書かれています。
 要するに、じゃらじゃと音を立てているような現実の金が、流通過程で貨幣として流通していることが、金が商品の価値尺度の機能を果すための前提なのだということです。ここから今日の商品の流通においては、金はこうしたものとしてはすでに存在していないのだから、だから今日の通貨には価値尺度の機能はないのだ、という主張がなされる一つの根拠になにもなっているのです。果たしてこれはどう考えたらよいのでしょうか。
 しかしこれについてはすでに何度が論じました。現代のように金との兌換が停止された銀行券が金に代理して流通できるのは、次の第2節で取り上げられる貨幣の流通手段としての機能から説明できます。例え法的に、あるいは制度的に銀行券と金との交換が決められてなくても金を代理する銀行券や紙券が金との交換されなければならないというのは一つの経済法則だとマルクスは指摘しています。そして事実、現代の銀行券も金市場において、金の購買という外観のもとに交換されているのです。これは商品としての金が購買されるのではなく(そういう場合もありえますが)、ただ流通貨幣が蓄蔵貨幣に転換しているだけなのです。つまり金は以前として蓄蔵貨幣として存在しているのです。だからこそ金は諸商品の価格を尺度する機能も果たしているといえるのです。この問題についてはまた論じる機会があると思いますので、ここではこれぐらいにしておきます。

 (字数制限をオーバーしたために、全体を上下に分けて、付属資料は下で紹介します。)

 

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