『資本論』学習資料No.8(通算第58回)下
(字数がオーバーしましたので、付属資料は下に掲載します。)
【付属資料】
●第18パラグラフ
《初版》
〈価格は、商品のうちに対象化されている労働時間の貨幣名である。だから、商品と、商品の価格が商品を等置する相手の貨幣量とが、等価であるということは、同義反覆である(48)。なぜなら、およそ、一商品の相対的価値表現は、つねに、二つの商品が等価であることの表現だからである。だが、商品の価値量の指数としての価格が、その商品と貨幣との交換比率の指数であるとしても、これとは逆に、その商品と貨幣との交換比率が必ずその商品の価値量の指数である、ということにはならない。等量の・社会的に必要な労働時聞が、一クォーターの小麦で、そしてまた二ポンド・スターリング(約1/2オンスの金)で、表わされているものとしよう。二ポンド・スターリングは、一クォーターの小麦の価値量の貨幣表現、すなわち、一クォーターの小麦の価格である。いま、事情が、一クォーターの小麦に三ポンド・スターリングの値をつけることを許すか、または、それに一ポンド・スターリングの値をつけることを強いれば、一ポンド・スターリングと三ポンド・スターリングとは、小麦の価値量の表現としては過小または過大なのだが、それらは、なおかつこの小麦の価格である。というのは、それらは、第一には、この小麦の価値形態たる貨幣であり、第二には、この小麦と貨幣との交換比率の指数だからである。生産諸条件が変わらなければ、あるいは、労働の生産力が変わらなければ、一クォーターの小麦を再生産するためには、相変わらず、同じだけの社会的労働時間働が支出されなければならない。この事情は、小麦生産者の意志にも他の商品所持者たちの意志にもかかわりがない。だから、商品の価値量は、社会的労働時間にたいする必然的な・この商品の形成過程に内在的な・関係を、表現している。価値量が価格に転化するとともに、この必然的な関係は、その商品とそれの外に存在する他の一商品との交換比率として、現われるのである。ところが、この形態は、その商品の価値量を表現することができるとともに、その商品が与えられた諸事情のもとで譲渡可能であるところの偶然的な比率を表現することもできる。だから、価格と価値量との量的な不一致の可能性、あるいは、価値量からの価格の背離の可能性は、価格形態そのもののうちに与えられている。このことは、けっしてこの形態の欠陥ではなくて、逆に、この形態を、一つの生産様式--その生産様式では、規則性は、不規則性がもっところの盲目的に作用する平均法則としてのみ、自己を貫徹することができる--の適当な形態にするのである。〉(89-90頁)
《補足と改訂》
〈2 6) だが、この比率において、商品の価値の大きさが表現されるのと同じように、与えられた事情のもとで、その商品が価値の大きさより以上に、またはより以下に譲渡されることも表現されうる。
2 7) p. 6 2。本文。〉(42頁)
《フランス語版》
〈価格とは、商品のうちに実現された労働の貨幣名である。したがって、商品と、商品価格のうちに表現されている貨幣量とが、等価であるということは、同義反復である(13)。それはちょうど、一商品の相対的価値表現が一般には、必ず、二商品が等価であることの表現である、のと同じである。だが、商品の価値量の指数としての価格が、その商品の貨幣との交換比率の指数であっても、逆に、その商品の貨幣との交換比率の指数が必然的にその商品の価値量の指数である、ということにはならない。1クォーターの小麦が2オンスの金と同じ労働時間で生産され、2ポンド・スターリングが2オンスの金の名称である、と仮定しよう。そのばあい、2ポンド・スターリングは1クォーターの小麦の価値の貨幣表現、すなわちその価格である。いまや事情が、1クォーターの小麦を3ポンド・スターリングに評価することを許すならば、または、その小麦を1ポンド・スターリングに引き下げざるをえないならば、その時から1ポンド・スターリングと3ポンド・スターリングとは、小麦の価値を過小評価または過大評価する表現ではあるが、それにもかかわらず相変わらず小麦の価格なのである。それらは第一に小麦の価値の貨幣形態であり、第二に小麦の貨幣との交換比率の指数であるからだ。生産条件または労働の生産力が不変のままであれば、1クォーターの小麦の再生産は相変わらず同じ労働支出を必要とする。この事情は、小麦の生産者の意志にも他の商品の所有者の意志にも依存していない。したがって、価値量は、生産関係を、あるなんらかの物品とそれを産み出すために必要な社会的労働部分との内在的な紐帯を、表現しているのである。価値が価格に転化するやいなや、この必然的な関係が、ある日用商品とこの商品の外部に存在する貨幣商品との交換比率として、現われる。だが、この交換比率は、商品の価値自体を表現することもあれば、あるいは、与えられた事情のもとで商品の譲渡が偶然にもたらす最大または最小のものを表現することもある。したがって、商品の価格とその価値量とのあいだには量的な格差、差異のあることが可能なのであって、この可能性は価格形態そのもののうちに宿っている。曖昧さはこの形態の欠陥ではなくて、逆に、この形態の美点の一つである。というのは、この可能性は価格形態を、一つの生産体系--この生産体系では、平均して相互に相殺しあい無力にしあい害しあうような不規則性の盲目的な作用によってのみ、規制が法則になる--に、適合させるからである。〉(80頁)
●注63
《初版》
〈(48)「そうでなければ、貨幣での100万の価値は、商品での同等な価値よりも多くに値する、と言うことに同意しなければならない。」(ル・トローヌ、前掲書、922ページ。)こうなると、「ある価値は、同等な価値よりも多くに値する」、と言うことにも同意しなければならない。〉(90頁)
《フランス語版》
〈(13)「そうでなければ、貨幣での一〇〇万の価値は商品での同等な価値よりも多くに値する、ということに同意しなければならない」(ル・トローヌ、前掲書、919ページ)。こうなると、「ある価値は同等な価値よりも多くに値する」ということにも同意しなければならない。〉(80頁)
●全集版第1巻人名索引から
・ル・トローヌ,ギヨームーフランソアLe Trosne,Guillaume・Frangois(1728一1780)フランスの経済学者,重農主義者.50,54,106,116,125,130,133,159,172-175,178,224
●『資本論』第1巻で引用されているそれ以外の例
〈交換価値は、まず第一に、ある一種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的関係、すなわち割合(6)として現われる。それは、時と所とによって絶えず変動する関係である。それゆえ、交換価値は偶然的なもの、純粋に相対的なものであるように見え、したがって、商品に内的な、内在的な交換価値というものは@一つの形容矛盾であるように見え、したがって、このことをもっと詳しく考察してみょう。
(6)「価値とは、ある物と他のある物とのあいだ、ある生産物量と他のある生産物量とのあいだに成立する交換関係である。」(ル・トローヌ『社会的利益について』、所収『重農学派』、デール版、パリ、一八四六年、八八九ページ。)〉(全集23a49頁)
〈だから、ある使用価値の価値量を規定するものは、ただ、社会的に必要な労働の量、すなわち、その使用価値の生産に社会的に必要な労働時間だけである。個々の商品は、ここでは一般に、それが属する種類の平均見本とみなされる。(10)……
(10)「同種の生産物は、その全体が本来ただ一つのかたまりをなしているのであって、このかたまりの価格は、一般的に、そして個別的な諸事情にかかわりなく、決定されるのである。」(ル・トローヌ『社会的利益について』、八九三ページ。)〉(同53-54頁)
〈もう一つの誤り、貨幣は単なる章標であるという誤りが生じた。他方、この誤りのうちには、物の貨幣形態はその物自身にとっては外的なものであって、背後に隠された人間関係の単なる現象形態である、という予感があった。この意味ではどの商品も一つの章標であろう。というのは、価値としては商品に支出された人間労働の物的な外皮でしかないかからである。(47)
この注(47)の一部に次の引用がある。
「貨幣は単なる章標ではない。というのは、それ自身富なのだから。貨幣は、価値のあるものを代表するのではなく、それらのものと価値が等しいのである。」(ル・トローヌ『社会的利益について』、九一〇ページ。)〉(同121-122頁)
〈一商品の総変態は、その最も単純な形態では、四つの極と三人の登場人物とを前提する。まず、商品にその価値姿態としての貨幣が相対するのであるが、この価値姿態は、向こう側で、他人のポケットのなかで、物的な堅い実在性をもっている。こうして、商品所持者には貨幣所持者が相対する。次に、商品が貨幣に転化されれば、その貨幣は商品の一時的な等価形態となり、この等価形態の使用価値または内容はこちら側で他の商品体のうちに存在する。第一の商品変態の終点として、貨幣は同時に第二の変態の出発点である。こうして、第一幕の売り手は第二幕では買い手になり、この幕では彼に第三の商品所持者が売り手として相対するのである。(71)
(71)「したがって、四つの終点と三人の契約当事者とがあって、そのうちの一人は二度はいってくる。」(ル・トローヌ『社会的利益について』、九〇九ぺージ。)〉(同147頁)
〈貨幣は、絶えず商品に代わって流通場所を占め、それにつれて自分自身の出発点から遠ざかって行きながら、商品を絶えず流通部面から遠ざけて行く。それゆえ、貨幣運動はただ商品流通の表現でしかないのに、逆に商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ現われるのである。(75)
(75)「それ」(貨幣)「は、生産物によってそれに与えられる運動のほかには、どんな運動もしない。」(ル・トローヌ『社会的利益について』、八八五ページ。)〉(同152-153頁)
〈このような、同じ貨幣片が繰り返す場所変換は、商品の二重の形態変換、ごつの反対の流通段階を通る商品の運動を表わしており、またいろいろな商品の変態のからみ合いを表わしている。(76)
(76)「生産物はそれ」(貨幣)「を動かし、それを流通させるものである。……その」(すなわち貨幣の)「運動の速度は、その量を補うものである。必要な場合には、それはただ人手から人手へと移るばかりで、一瞬も立ちどまらない。」(ル・トローヌ『社会的利益について』、九一五、九一六べ…ジ。)〉(同156-158頁)
〈金銀の流れの運動は二重のものである。一方では、金銀の流れはその源から世界市場の全面に行き渡り、そこでこの流れはそれぞれの国の流通部面によっていろいろな大きさでとらえられて、その国内流通水路にはいって行ったり、摩滅した金銀鋳貨を震したり、奢修品の材料を供給したり・叢貨幣に凝固したりする。(111)
(111) 「貨幣は、つねに生産物によって引き寄せられて、国々の必要に応じて国々のあいだに配分される。」(ル・トローヌ『社会的利益につい』前出、916ページ)〉(同189頁)
〈商品の価値は、商品が流通にはいる前に、その価格に表わされているのであり、したがって流通の前提であって結果ではないのである。(17)
(17)「契約当事者たちが価値を決定するのではない。それは契約に先だって確定されているのである。」(ル・トローヌ『社会的利益について』、九〇六ページ。) 〉(同206頁)
〈もちろん、商品は、その価値からずれた価格で売られることもありうるが、しかし、このような偏差は商品交換の法則の侵害として現われる。その純粋な姿では、商品交換は等価物どうしの交換であり、したがって、価値をふやす手段ではないのである。(20)
(20)「交換は、その性質上、ある価値とそれに等しい価値とのあいだに成立する対等の契約である。だから、それは富をなす手段ではない。というのは、受け取るのと同じだけを与えるのだからである。」(ル・トローヌ、同前、九〇三、九〇四ページ。)〉(同207頁)
〈今度は、逆に、商品をその価値よりも安く買うことが買い手の特権だと仮定してみよう。ここでは、買い手が再び売り手になるということを思い出す必要さえもない。彼は、買い手になる前にすでに売り手だったのである。彼は買い手として一〇% もうける前に、売り手としてすでに一〇% 損をしていたのである。(25)いっさいはやはり元のままである。
(25)「もし二四リーヴルの価値を表わす或る分量の生産物を一八リーヴルで売らざるをえないとすれば、同じ金額を買うために使えば、やはり二四リーヴルで得られるのと同じだけが一八リーヴルで得られるであろう。」(ル・トローヌ『社会的利益について』、八九七ページ。)〉(同211頁)
〈一商品の価値は、その商品に含まれている労働の量によって規定されてはいるが、しかしこの量そのものは社会的に規定されている。もしその商品の生産に社会的に必要な労働時間が変化したならば--たとえば同じ量の綿花でも不作のときには豊作のときよりも大きい量の労働を表わす--、前からある商品への反作用が生ずるのであって、この商品はいつでもただその商品種類の個別的な見本としか認められず(26)、その価値は、つねに、社会的に必要な、したがってまたつねに現在の社会的諸条件のもとで必要な労働によって、計られるのである。
(26)「同じ種類の生産物の全体が本来はただ一つのかたまりをなしているのであって、このかたまりの価格は一般的に、そしていちいちの事情にかかわることなく、決定されるのである。」(ル・トローヌ『社会的利益について』、八九三べージ。)〉(同274頁)
● 第19パラグラフ
《初版》
〈しかしながら、価格形態は、価値量と価格との、すなわち、価値量とそれ自身の貨幣表現との、量的な不一致の可能性を、許すだけではなくて、質的な矛盾を宿すこともできるのであって、そのために、たとい貨幣が諸商品の価値形態にほかならないにしても、価格は総じて価値表現であることをやめる。それ自体けっして商品ではない物、たとえば良心や名誉等々は、それらの持ち主にとっては貨幣と引き換えに譲渡可能であり、したがってそれらの価格を通じて商品形態を受け取ることができる。だから、ある物は、価値をもつことなしに形態上価格をもつことができる。価格表現は、ここでは、数学のなんらかの量または論理学の「無限判断」のように、想像的なものになる。しかし、他方、われわれは、本質的な生産諸関係についても、このような想像的な価格形態を見いだすのであって、たとえば、土地は、そのなかになんら人間労働が対象化されていないためになんらの価値をもっていないにもかかわらず、われわれは、土地の価格を見いだすのであるが、こういうばあいには、いっそう奥深く分析すると、この想像的な形態の背後にはある実在の価値関係またはそれから派生した関係がつねに隠されているのを、見いだすであろう。〉(90頁)
《フランス語版》
〈価格形態は、価格と価値量との量的差異の可能性、すなわち、価値量とそれ自身の貨幣表現との量的差異の可能性を許すばかりでなく、さらになお、貨幣が商品の価値形態にほかならないとはいえ、価格形態は、価値を表現することを全面的にやめるというほどの一つの絶対的な矛盾を、隠すことができる。それ自体としてはなんら商品でない物、たとえば名誉や良心などのようなものが、金銭で買えるようになりうるのであって、こうして、それらに与えられる価格によって商品形態をとりうるのである。したがって、物は価値をもたないでも、形態上価格をもつことができる。価格はここでは、数学におけるある種の量のように想像的な表現になる。他方、たとえば、どんな人間労働もそのうちに実現されていないためにどんな価値ももたない未耕地の価格のような想像上の価格形態であっても、たとえ間接的であろうと、実在の価値関係をひそませていることがありうる。〉(81頁)
●第20パラグラフ
《初版》
〈しかし、われわれは、ここではまだわれわれにだけしか知られていない正規の商品価格に、立ち返ることにしよう。価格とは、商品の観念的でしかない価値姿態である。だから、このことと同時に価格が表現しているのは、商品がまだ実在する価値姿態をもってはいないということであり、または、商品の現物形態がその商品の一般的な等価形態ではないということである。商品の観念的な価値姿態は、その上、価格、すなわち、想像されただけのあるいは観念的な金姿態である。だから、価格が表現しているのは、商品は、それが他の諸荷品にたいして交換価値または一般的な等価物の働きをするためには、自分の自然のままの肉体を脱ぎ捨てて、想像されただけの金から実在する金に転化しなければならない、ということである。たとい、この化体がその商品にとっては、へーゲルの「概念」にとっての必然から自由への移行や、ざりがににとっての殻破りや、または教父ヒエロニムスにとっての人間の原罪からの脱却(49)よりも、「もっと骨の折れる」ものとして生じようとも、そうなのである。商品は、それの実在する姿態たとえば鉄のほかに、価格のなかに、観念的な価値姿態あるいは想像された金姿態をもつことができても、実在する鉄であると同時に実在する金であることはできない。商品の価格づけのためには、想像された金をこの商品に等置するだけで充分である。商品がその所持者にとって一般的な等価物の役を果たすためには、この商品は金と取り替えられなければならない。たとえば、鉄の所持者が、ある享楽商品の所持者に出くわして鉄価格を示しこれが貨幣形態だと言えば、享楽商品の所持者は、天国で聖ペテロが自分の前で信仰箇条を唱えたダンテにたいして答えたように、こう答えるであろ。
「この貨幣の混合物(まぜもの)とその重さとは汝既にいとよく検べぬ
されどいえ、汝はこれを己が財布のなかに有(も)つや」
〔ダンテ『神曲』、山川丙三郎訳、岩波文庫版、下、156ページより引用。〕〉(90-1頁)
《補足と改訂》
〈(51)28) p.6 2)相対的価値形態一般がそうであるように、価格がある商品たとえば鉄の価値を表現するのは、一定分量の等価物、たとえば1オンスの金がいわば1トンの鉄と直接交換されうるということによってであって、逆に、1トンの鉄が自分のほうからも直接1オンスの金と交換されうる、ということによって表現するのでは決してない。金との等置は価格つまり商品の貨幣名において先取りされるが、それはまだ実際には実行されてはいない。〉(42頁)
《フランス語版》 フランス語版では、このパラグラフは二つのパラグラフに分けられているが、そのまま紹介しておく。
〈相対的価値形態一般と同じように、価格は一商品たとえぽ1トンの鉄の価値を次のようにして表現する。すなわち、もし人が望むなら、ある量の等価物、1オンスの金が、鉄と直接に交換可能であるというように。だが、この逆が生ずるわけではない。すなわち、鉄のほうは、金と直接に交換可能ではないのである。
価格のうちに、すなわち商品の貨幣名のうちに、商品が金と等価であることは予見されるが、まだ既成の事実ではない。現実に交換価値として有効であるためには、商品は自分の自然の体躯を脱ぎ捨てて、想像的であるにすぎない金から実在する金に変換しなければならない。たとえこの化体が商品にとっては、へーゲルの「概念」にとっての必然から自由への移行や、ざり蟹にとっての甲殻破りや、教父ヒエロニムスにとっての原罪からの解脱(14)よりも、いっそう骨の折れることでありうるとしても、そうなのである。商品は、その実在する姿、たとえば鉄の姿のほかに、その価格のうちに観念的な姿または想像された金の姿をもつことができるが、実在する鉄であると同時に実在する金であることはできない。商品に価格を与えるためには、商品が、純粋に観念的である金と同等である、と宣言すれぽ足りる。だが、商品がその所有者にたいして一般的等価物の役目を果たすためには、それは実在する金によって代置されなければならない。もし鉄の所有者がパリの優雅な物品の所有者に直接会いにきて、鉄が貨幣形態であるからといって鉄の価格を高く値ぶみするならば、鉄の所有者は相手から、天国で聖ピエトロが白分の前で信仰箇条を暗諦したダンテあてに差し向けた次の答えを、受け取るだろう。
「この貨幣の混合物(まぜもの)とその重さとは汝既にいとよく検べぬ
されどいえ、汝はこれを己が財布の中に有(も)つや」〔ダンテ『神曲』、山川丙三郎訳、岩波文庫版、下、156ページより引用〕。〉(81-2頁)
●注64
《初版》
〈(49)ヒエロニムスは、若いときに物質的な肉欲とはげしく闘わなければならなかったのに--美しい婦人の幻像との、砂漠での彼の闘争が示すように--、晩年には精神的な肉欲と闘わなければならなかった。たとえば彼はこう言う。「私は心のなかでは世界審判者の前にいるものと信じていました。」 「汝はなに者か?」とある声が尋ねた。「私はキリスト教徒です。」世界審判者はどなった、「嘘つきめ」と。「汝はキケロの徒でしかない!」〉(91-2頁)
《フランス語版》
〈(14) 聖ヒエロニムスは青年時代には、美しい女性の幻想が不断に彼の想像を悩ましたために、物質的な肉欲と大いに闘わなければならなかったが、老年には同じく、精神約な肉欲と闘ったのである。彼はたとえばこう述べている。「私は至上の審判者の面前にいると思いました」。「汝はなんびとであるのか?」「私はキリスト教徒です」。審判者は雷のような声で答えた。「そうではない、嘘つきめ、汝はキケロの徒にすぎぬ」。〉(82頁)
●第21パラグラフ
《経済学批判》
〈商品はそのものとして交換価値であり、それはひとつの価格をもっている。交換価値と価格とのこの区別には、商品にふくまれている特殊な個人的労働は、外化の過程によってはじめて(草稿集③ではこの部分は「譲渡の過程を通じてはじめて」となっている--引用者)、その反対物として、個性のない、抽象的一般的な、そしてこの形態でだけ社会的な労働として、すなわち貨幣として表示されなければならない、ということが現われている。個人的労働がこの表示をなしうるかどうかは、偶然のことのように見える。だから商品の交換価値は価格においてただ観念的に商品とは別の存在を受け取るだけであり、商品にふくまれている労働の二重の定在は、ただ異なった表現様式として存在するだけであるけれども、したがって他方、一般的労働時間の物質化したものである金は、ただ表象された価値尺度としてだけ現実の商品に対立しているのであるけれども、価格としての交換価値の定在、すなわち価値尺度としての金の定在のうちには、商品が響きを発する金(③では「じゃらじゃらと音を立てる金」となっている--同)と引き換えに外化する(③「譲渡されなければならない」--同)必然性とその譲渡されない可能性とが、要するに生産物が商品であるということから生じる全矛盾、言いかえれぽ、私的個人の特殊的労働が社会的効果をもつためにはその直接の対立物として、抽象的一般的労働としてあらわされなければならないということから生じる全矛盾が、潜在的にふくまれている。だから商品は欲するが貨幣は欲しないというユートピア主義者たち、私的交換にもとつく生産をこの生産の必然的な諸条件なしに欲するユートピア主義者たちは、もし彼らが貨幣をその手でつかめる形態ではじめて「絶滅する」のではなくて、価値尺度としての、もうろうとした幻のような形態で、はやくもこれを「絶滅する」というのなら、首尾一貫しているわけである。目に見えない価値尺度のうちに、硬貨が待ち伏せしているのである。〉(全集第13巻52-53頁)
《初版》
〈価格形態は、貨幣と引き換えに諸商品を譲渡する可能性と、この譲渡の必然性とを、含んでいる。他方、諸商品の価格形態は、交換過程のなかにある一商品、すなわち金を、すでに貨幣にしてしまっている。だから、観念的な価値尺度のうちには、硬貨が待ち伏せしているのである。〉(92頁)
《補足と改訂》
〈3 0) p. 6 3) (本文の最初の文〉他方、金は、すでに商品市場において貨幣商品として動き回っているからこそ、観念的な価値尺度として機能するのである。〉(42頁)
《フランス語版》
〈価格形態はそれ自身のうちに、貨幣にたいする商品譲渡の可能性とこの譲渡の必然性とを含んでいる。他方、金は、すでに貨幣商品として市場にあるからこそ、観念的な価値尺度として機能するのである。だから、実在する貨幣である硬貨は、価値尺度という全く観念的な姿をまとって、とっくに待ち伏せているわげである。〉(82頁)
(第1節 価値尺度 終わり)