『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第3回「『資本論』を読む会」の案内

2008-05-30 16:02:31 | マルクス
                     

 『蟹工船』ブームなのだという。もちろん、あの小林多喜二の『蟹工船』である。異常とも言える売れ行きに、新潮社は5月の時点で10万7千部増刷することを決定したという。
 買ってゆくのは「格差社会」の真っ只中にある「30代から50代の働きざかりの人が多い」とも言われ、「ワーキングプア」との関連で特設スタンドをおいたら飛ぶように売れた、などとも言われている。

 『蟹工船』で描かれている世界は、多喜二自身が「この一篇は、『植民地に於ける資本主義侵入史』の一頁である」と小説の最後の「付記」で書いているように、当時はまだ開拓途上にあって「植民地」とほとんど変わらなかった北海道における資本の「原始的な」「虐使」の実態である。人を人とも思わない資本の過酷な搾取の有り様がこれでもかこれでもかと描かれている。つまり『蟹工船』で描かれている世界は、当時でも最も劣悪な労働条件で酷使されていた労働者たちなのである。

 「ここの百に一つくらいのことがあったって、あっちじゃストライキだよ」と元芝浦の工場にいた労働者は語る。

 「--内地では、労働者が『横柄』になって無理がきかなくなり、市場もだいたい開拓されつくして、行き詰まってくると、資本家は『北海道・樺太へ』鉤爪をのばした。そこでは、彼らは朝鮮や、台湾の植民地と同じように、面白いほど無茶な『虐使』ができた。」

 と多喜二は書いている。

 それほど過酷な労働の実態がそこにはある。それがこの現在の高度に発達した資本主義の下で働く労働者たちに共感を呼んでいるのである! 働いても働いてもカツカツの生活を維持するのがやっとの「ワーキングプア」たち。多くの労働者が超過密で長時間の労働に追いまくられるなかで、明日の生活の不安にさいなまれている。資本主義は80年前と何一つ変わっていないではないか、と誰もが思っている。

 『資本論』は“古くさくなった”と何度も言われてきた。しかし『資本論』で明らかにされている現実は、まさに今の資本主義の現実なのである。

 《資本主義制度の内部では、労働の社会的生産力を高めるいっさいの方法は、個々の労働者の犠牲として行われるのであり、生産を発展させるいっさいの手段は、生産者の支配と搾取との手段に転化し、労働者を部分人間へと不具化させ、労働者を機械の付属へとおとしめ、彼の労働苦で労働内容を破壊し、科学が自立的能力として労働過程に合体される程度に応じて労働過程の精神的能力を労働者に疎遠なものにするのであり、またこれらの方法・手段は、彼の労働条件をねじゆがめ、労働過程中ではきわめて卑劣で憎むべき専制支配のもとに彼を服従させ、彼の生活時間を労働時間に転化させ、彼の妻子を資本のジャガノートの車輪のもとに投げ入れる。しかし、剰余価値の生産のいっさいの方法は、同時に蓄積の方法であり、その逆に、蓄積のどの拡大も、右の方法の発展の手段となる。それゆえ資本が蓄積されるのにつれて、労働者の報酬がどうであろうと--高かろうと低かろうと--労働者の状態は悪化せざるをえないということになる。最後に、相対的過剰人口または産業予備軍を蓄積の範囲と活力とにたえず均衡させる法則は、ヘファイストスの楔(クサビ)がプロメテウスを岩に縛りつけたよりもいっそう固く、労働者を資本に縛りつける。この法則は資本の蓄積に照応する貧困の蓄積を条件づける。したがって、一方の極における富の蓄積は、同時に、その対極における、すなわち自分自身の生産物を資本として生産する階級の側における、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、野蛮化、および道徳的堕落の蓄積である。》(『資本論』第1巻・全集版840-1頁)

 『資本論』は『蟹工船』の背後で何がどのように作用し、その過酷な搾取を必然ならしめているかを明らかにしている。

 『蟹工船』でストライキに立ち上がった労働者たちから現代の労働者は何を学ぶのだろうか? 彼らが『蟹工船』だけでなく、さらに『資本論』からも学び始めることだけは確かではないだろうか。

 貴方も是非『資本論』を私たちと一緒に読んでみませんか?

 【なお下記サイトからは「漫画蟹工船」が無料でダウンロードできます。
  http://www.takiji-library.jp/announce/2007/20070927.html

…………………………………………………………………………………………………
          第3回『資本論』を読む会・案内

 ■日時   6月21日(土) 午後6時~

 ■会場   堺市立南図書館
       (泉北高速・泉ヶ丘駅南西300m 駐車場はありません。)

 ■テキスト 『資本論』第一巻第一分冊(どの版でも結構です)

 ■主催   『資本論』を読む会

            

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第2回「『資本論』を読む会」の報告

2008-05-29 00:06:05 | マルクス
◎新参加者もなく、欠席もあったりして、さらに寂しく……

 新参加者もなく(ピースさんの言うには、参加しそうな人があったらしいのだが?)、常連参加者の一人に不幸があり欠席したために、ただでさえ少ない参加者がさらに少なくなり、寂しい限りであった。しかし泣き言ばかり言っててもしょうがないから、とにかく読書会を続けることにした。
 参加者が少なかったから、という分けではないだろうが、テキストは捗り、前回はたった二つのパラグラフを終えただけだったのに、今回は四つも進み、第6パラグラフまで終わってしまった。
 だから議論もあっさりしたものだっただろう、って? これがなかなかどうして、何しろ自説を滔々と説いて止まない御仁がおるものですから……。

◎「交換価値の素材的担い手」とは?

 最初に問題提起をしたのは例によって例のごとくJJ富田さんだった。第4パラグラフの次の一文--

 《使用価値は、富の社会的形態がどのようなものであろうと、富の素材的内容をなしている。われわれが考察しようとする社会形態においては、それは同時に交換価値の素材的担い手をなしている。》(新日本新書版61頁)

 ここで使用価値が「交換価値の素材的担い手をなしている」というのは、どういうことなのかというのである。
 この部分は、これまで当たり前のこととしてあまり問題にもされて来なかったところなのだが、JJ富田さんのいうには、これに続くパラグラフでは交換価値について述べているが、例えばそこで言われている「一クォーターの小麦」の諸交換価値として「x量の靴墨、y量の絹、z量の金」などがあげられているが、「使用価値は……交換価値の素材的担い手をなしている」という場合、ここでいう「x量の靴墨、y量の絹、z量の金」等々の諸使用価値のことを指しているのか、それとも「一クォーターの小麦」の交換価値の「素材的担い手」になっているのは「一クォーターの小麦」という使用価値そのものなのか、というのである。果たしてどうなんでしょう?

 「一クォーターの小麦」の交換価値は、当然、「一クォーターの小麦」自身が持っているものだから、その交換価値の素材的担い手というなら、 「一クォーターの小麦」という使用価値のことではないのか、というのがピースさんの意見。「x量の靴墨、y量の絹、z量の金」等々は、「一クォーターの小麦」の交換価値を表現する材料にはなっているが、しかしそれは「素材的担い手」ということとはまた別のことではないのか、というわけ。

 亀仙人もピースさんとまったく同じように解釈していた。だからすぐにその意見に賛成したのだが、しかしあとで振り返って反省してみるに、JJ富田さんの問題提起は、もっと良く考えてみる必要があると思うようになった。

 この部分は、『資本論』を読んでいるだけだと、なかなか分かりにくい。「素材的担い手」というだけだと、どちらとも取れるような感じがするからである。ところが『経済学批判』を読むと、これがハッキリするのである。当日は『批判』を持っていなかったからしょうがなかったが、『批判』ではその部分は次のようになっている。

 《使用価値であるということは、商品にとって必要な前提であると思われるが、商品であるということは、使用価値にとって無関係な規定であるように思われる。経済的形態規定にたいしてこのように無関係な場合の使用価値は、すなわち使用価値としての使用価値は、経済学の考察範囲外にある。使用価値がこの範囲内にはいってくるのは、使用価値そのものが形態規定である場合だけである。直接には使用価値は、一定の経済的関係である交換価値があらわされる素材的土台である。》(国民文庫版25頁)

 ついでに『資本論草稿集』第3巻ではこの部分は次のように訳されている(ただし最後の部分だけ)。

 《……直接的には使用価値は、一定の経済的関係である交換価値が自らを表すさいの素材的な土台である。》(214頁)

 もちろん、『資本論』と『批判』とは違った文献だし、書かれた年代にはかなりのブランクもある。だから両者がまったく同じ内容を論じているとは断定できないのだが、しかし『批判』では、マルクスが「素材的土台」として論じているのは、明らかに交換価値を表す対象であることが分かる。だからそれから類推して『資本論』の当該部分の解釈をやってみると、「一クォーターの小麦」の「交換価値の素材的担い手をなしている」ものとしてマルクスが語っているのは、「x量の靴墨、y量の絹、z量の金」等々の諸使用価値のことであることが分かるのである。これがまあ、正しいのではないか。一件落着。

 (補足〔09.8.16〕:この『資本論』を読む会を進めていくなかで、マルクスが第二版のために作成した『補足と改訂』のなかに、次のような一文があることを知った。

 《上着の生産においては,裁縫労働という形態のもとに,人間的労働力が実際に支出され,したがって,上着のなかに人間的労働が堆積されている。それゆえ,この面からすれば,上着体は価値の担い手である。もっとも,上着のこの属性そのものは,上着がどんなにすり切れてもその糸目から透けて見えるわけではないが。》(大黒正夫訳『マルクス・エンゲルス・マルクス主義研究』第5号65頁)

 つまりここでは「素材的担い手」という文言はないが、上着体は上着の価値の担い手であるとのマルクスの言明がある。だからピースさんや亀仙人が最初に理解していた解釈もまんざら間違いとは言い切れないのではないかということを補足しておきたい。)

◎やはり第6パラグラフが問題に

 次に問題になったのは、やはり第6パラグラフであった。ここではマルクスは「一クォーターの小麦」が「x量の靴墨、y量の絹、z量の金」などと交換される関係を例に引いて、そこから次のような二つの結論を導き出している。

 《それゆえ、こういうことになる。第一に、同じ商品の妥当な諸交換価値は一つの等しいものを表現する。しかし、第二に、交換価値は、一般にただ、それとは区別されるある内実の表現様式、「現象形態」でしかありえない。》(新書版63頁)

 この二つの結論がどうして出てくるのか今一つ分かったようで分からない、という疑問が、やはりJJ富田さんから出された。
 ピースさんも今一つ納得ゆく説明ができなかったのだが、亀仙人は、以前、大阪でやった「『資本論』学ぶ会」でも同じところが問題になり、「『資本論』学ぶ会ニュース」でそれについて論じたことを指摘した。そしてそのニュースをその場で読み聞かせたのだが、ここではそれを紹介するだけにしておこう(以下同ニュース№5から)

 【議論になったのは、第6パラグラフを巡ってです。ここではマルクスは、交換価値から価値を導き出すために、まず1クオーターの小麦を例に上げ、それがさまざまな物と交換されることを指摘します。x量の靴墨、y量の絹、z量の金などです。そしてそうした小麦の他商品との交換を分析して結論として次の二つのことを導き出しています。

 「第一に、同じ商品の妥当な交換価値は一つの等しいものを表現する。しかし第二に、交換価値は、一般にただ、それとは区別されうるある内実の表現様式、『現象形態』でしかありえない」と。

 さて、ここで出された疑問は、結論として言われている二つのうち、最初のものは何となく分かるが、第二のものはどうしてそれが言えるのか、もう一つ良く分からない、この二つは同じことを別の観点から言っているのか、マルクスはここでは全体として「交換価値の限界」といったものを言いたいのか、といったものです。

 こうしてこの二つの結論の理解を巡って喧々諤々の議論が行われました。今、その議論の一つ一つを再現することは出来ませんが、これを考える上で、参考になると思える、文献から関連部分を紹介しておくことにしましょう。

 第二の結論として言われていることで、分かりにくいのは、なぜ、小麦と諸商品との交換関係から、交換価値が「ある内実の表現様式」だと分かるのか、ということではないかと思います。その点、マルクスは『剰余価値学説史』の中でベーリーの価値論を批判しているところで、次のような分かりやすい例を上げて説明しているところがあります。

 「ある物が他の物から離れている場合には、事実上、距離が、ある物と他の物とのあいだの関係である。だが同時に距離は、二つの物のあいだのこの関係とは違ったあるものである。それは空間の広がりであり、いくらかの長さであって、比較されうるこの二つの物以外の、他の二つの物の距離をも同様に表しうる。だが、これがすべてではない。もし二つの物のあいだの関係として距離を論じる場合には、われわれは、両方の物が相互に離れていることを可能にしているそれらの物自身の、ある『内在的なもの』、ある『属性』を想定しているのである。文字Aとテーブルとのあいだの距離というのは、なんのことであろうか?
 こんな問題はばかげているであろう。二つの物の距離を論じる場合に、われわれが論じているのは、空間のなかでの二つの物の相違なのである。したがって、われわれは、二つの物がともに空間のなかに含まれていること、空間の二つの点であること、を想定しているのである。したがってまた、われわれがその二つの物を同等化するのは、ともに空間のあり方としてである。そして、同等化したのちにはじめて、空間の観点のもとで、われわれは、二つの物を、空間の違った二つの点として区別するのである。空間に属しているということが、それらの物に共通な単位なのである」(全集二六巻・184~5頁)

 つまり小麦を靴墨や絹、金などとの交換関係に置くということは、両者に共通な「内在的なもの」「属性」の観点から両者を見ているということなわけです。だからマルクスは「ある内実の表現様式」だと結論したのではないでしょうか。

 もう一つ、河上肇はその『入門』で、この部分を、『資本論』の第一版、第二版、エンゲルス版、カウツキー版と比べながら、次のように説明しています。

 「かくの如く表現の仕方は版本によって種々の相違があるが、しかし何れにしても内容にさしたる相違はない。それは要するに次のことを意味する。--すでに述べたように、商品という以上は孤立して存在するものでなく、必ず他の種々なる商品と種々の割合で交換される。例えば1クォーターの小麦は、あるいは20ポンドの靴墨と交換され、あるいは2エルレの絹と交換され、あるいは半オンスの金、等々と交換されるのであるが、そうすると、その1クォーターの小麦の交換価値は、20ポンドの靴墨であると表現されると同時に、あるいは2エルレの絹であるとも、あるいは半オンスの金、等々であるとも、表現されることになり、かくてx量の靴墨、y量の絹、z量の金、等々は、各々分量を異にし且つ甚だしく種類を異にする使用価値であるにも関わらず、1クォーターの小麦の交換価値であるという点では、それらのものが皆な同じだということになる。すなわち吾々が日常の経験において見るところで、理屈でも何でもない。だが吾々はこのことから、交換価値は『かくの如き種々なる表現の仕方と区別されうる或る内容を有たねばならぬ』ということを推理しうるのである。同じものが或いは雲となり雨となり或いは雪となり氷となるというのであれば、これらのものは雲でもなく雨でもなく、すなわちそれ自身とは区別されうるところの、或る内容を有たねばならぬ。かくて吾々は先ず、交換価値なる現象形態と区別されうるところの、或る内容に考え到った。次に吾々は、その内容が何であるかの論究に進む」(『資本論入門』青木文庫第一分冊137~8頁)

 このように河上肇はわかりやすく説明しています。これらを参考に、皆さん自身でもう一度考えてみて下さい。】

 以上、今回は比較的簡単になりましたが、報告を終わります。
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