『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(1)

2024-03-14 18:15:02 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(1)


◎序章B『資本論』の著述プランと利子・信用論(6)(大谷禎之介著『マルクスの利子生み資本論』全4巻の紹介 №10)

  第1巻の〈序章B 『資本論』の著述プランと利子・信用論〉の第6回目です。〈序章B〉の最後の大項目である〈C 『資本論』における利子と信用〉の〈(1)「資本一般」から「資本の一般的分析」へ〉で、大谷氏は「批判」体系プランから『資本論』へのマルクスの構想の変化を次のように述べています。

   〈『資本論』も,「批判」体系プランの「資本一般」も,どちらも資本に関する「一般的なもの」であるというかぎりでは同一である。しかしその「一般性」の意味は大きく変化した。「資本一般」は,「第1部 資本」のなかの,「多数資本」捨象によって得られた「一般性における資本」を対象とする,体系の最初の構成部分であって,続く「競争」(特殊性),「信用」(個別性)へと上昇していってはじめて「資本」の具体的な現象形態に辿り着くことができるものであった。したがって,「資本一般」を締めくくるべき「資本と利子」もきわめて抽象的なものにとどまらざるをえなかった。それはいわば,いまだ,現象から分離された本質の段階にとどまるものであった。「資本一般」の「一般性」は,対象を厳しく「一般的なもの」に限定するという意味でのそれであったのである。
    これにたいして『資本論』の「一般性」は,その研究,分析,叙述が,つまりその認識が一般的なものだ,という意味でのそれである。すなわち,『資本論』は「資本主義的生産の一般的研究」〔63〕,「資本の一般的分析」〔64〕,「資本主義的生産様式の内的編制のその理想的平均における叙述 」〔65〕であり,したがって特殊研究,個別的分析,動態における叙述,等々と区別されるものである。かかるものとしての『資本論』は,それ自体として資本についての一般的認識を完結しなければならない。それは「批判」体系プランの出発点たる「序説」プランに立ち戻って言えば,「ブルジョア社会の内的編制を形づくり,また基本的諸階級の基礎となっている諸範疇」の分析を一般的に完了することである。そのためには,「多数資本」捨象によって対象を限定するという方法を捨て,かつて「競争と信用」,さらに「土地所有」と「賃労働」とに予定されていた諸対象のなかから,資本主義的生産の内在的諸法則の一般的な現象諸形態,あるいは一般的なものを表わすかぎりでの具体的な諸形態をなすものを取り入れなければならなかった。ここで重要なことは,対象をきびしく「一般的なもの」に限定することではなくて,「一般的研究」として遺漏なきを期すことであった。〉(101頁、下線は大谷氏による傍点による強調箇所)

    『経済学批判』体系プランのいわゆる「6部構成」(資本・土地所有・賃労働・国家・対外商業・世界市場)の最初の「資本」の構成である「一般・特殊・個別」の最初の「資本一般」というのは、その論理的な構成から考えて、何となく分かりますが、大谷氏のいう〈『資本論』の「一般性」〉というのは、やや分かりにくい気がします。果たして、マルクスは当初のプランをどのように変えて、『資本論』として最終的に結実させたのでしょうか。『資本論』には6部構成の前半体系(資本・土地所有・賃労働)がほぼ含まれているように思えます。もっとも『資本論』そのものはやはり未完成ですし、はっきりした像を結ぶまでには完成していないという面もありますが。しかし『資本論』を読んでゆきますと、いろいろなところでマルクスは対象を制限して特殊研究や具体的なものを後のものとして残すという文言が目に入ります。しかしそれが必ずしも6部構成の後半体系(国家・対外商業・世界市場)を意味しているようには見えないものがほとんどです。
    他方で、すでに見ましたように(No.39(通算第89回)(1))、マルクスはすでに『要綱』の段階で、後に『資本論』の第1部・第2部と区別される第3部の位置づけを明確に持っていたようにも思えます。マルクスはその時点ではそれを「競争」と述べていましたが。
    『資本論』の第1部や第2部は資本主義的生産様式の内在的諸法則をそれ自体として問題にし、その限りで〈資本主義的生産様式の内的編制のその理想的平均における叙述 〉といえるものです。宇野弘蔵は「純粋資本主義」なるものを『資本論』から読み取ったのですが、その意味では第1部・第2部は、諸法則をそれ自体として論じているという意味では「純粋」なものと言えるでしょう。しかし第3部はそれに対して、その内在的な諸法則が転倒してブルジョア社会の表面に具体的に現れている諸現象を論じるものとしています(宇野はだからそこに「不純」を見るのですが)。
    もっともこうした第3部が対象とするものも、資本主義的生産様式のやはり「一般的なもの」であると言えるのかもしれません。というのは、マルクスは第5篇(章)の「5)信用。架空資本」の冒頭、〈信用制度とそれが自分のため/につくりだす,信用貨幣などのような諸用具との分析は,われわれの計画の範囲外にある。ここではただ,資本主義的生産様式一般の特徴づけのために必要なわずかの点をはっきりさせるだけでよい。そのさいわれわれはただ商業信用だけを取り扱う。この信用の発展と公信用の発展との関連は考察しないでおく〉(大谷本第2巻157-158頁)と、分析の対象を狭く限定し、それは〈資本主義的生産様式一般〉を特徴づけるものだけで十分だからだというものです(ここで「公信用」を排除しているのは後半体系の問題だからと言えなくもないです)。

    大谷氏も続けて第3部の位置づけにも次のような変化があったと述べています。

  〈3部分からなる点で旧「資本一般」と同じである『資本論』(「理論的部分」)のどの部についても,この転換の結果を各所に見ることができるが,それを最も明確に示すのは,「3。資本と利潤」から「第3部 総過程の諸形象化〔Gestaltungen〕」25)への変化である。マルクスは第3部第1稿の冒頭にこの表題を記したうえで,その直後に,この部の課題は「全体として考察された資本の過程」,すなわち生産過程と流通過程との統一「から生じてくる具体的諸形態を見つけだして叙述すること」,すなわち「資本の諸形象化」を「展開する」ことであるとした〔70〕。すなわち,「諸資本の現実的運動」そのものは範囲外であるとしても,「諸資本の現実的運動のなかで諸資本が現象するさいの具体的諸形態」を明らかにすることによって,「資本の一般的分析」を完成させ,かくして「諸資本の現実的運動」を叙述するための確固たる土台を置こうとしたのである。その結果,利子生み資本も,もはや「利潤をもたらす資本の純粋に抽象的な形態」であるがゆえに,またそうした観点でのみ論じられるのではなくて,それ自体資本の一つの特殊的形態として取り上げられ,しかもわれわれの表象に直接に与えられている,信用制度のもとでの貨幣資本という「具体的姿態」にまで,この「資本の形象化が展開」されることになったのであった。〉(101-102頁)

    ただ確かにこうした変化はあったのは事実ですが、しかしマルクスはすでに見ましたように、『要綱』の段階でも後の『資本論』の第3部として位置づけるものを明確に持っていたということも指摘しておく必要があります。
    上記の大谷氏の一文で少し気になったのは、〈「諸資本の現実的運動」そのものは範囲外であるとしても,「諸資本の現実的運動のなかで諸資本が現象するさいの具体的諸形態」を明らかにすることによって,「資本の一般的分析」を完成させ,かくして「諸資本の現実的運動」を叙述するための確固たる土台を置こうとしたのである。〉という部分です。ここで〈「諸資本の現実的運動」そのものは範囲外であるとしても〉というのは、大谷氏が追加して述べていることですが、マルクス自身は、第3部の冒頭部分ではこうしたことは述べていません。その一文については大谷氏が章末注〔70〕で紹介していますので、確認のために重引しておきましょう。

   〈〔70〕「すでにみたように,生産過程は,全体として考察すれば,生産過程と流通過程との統一である。このことは,流通過程を再生産過程として考察したさいに……詳しく論じた。この部で問題になるのは,この「統一」についてあれこれと一般的反省を行なうことではありえない。問題はむしろ,資本の過程から--それが全体として考察されたときに--生じてくる具体的諸形態を見つけだして叙述することである。{諸資本の現実的運動においては,諸資本は次のような具体的諸形態で,すなわち,それらにとっては直接的生産過程における資本の姿態〔Gestalt〕も流通過程における資本の姿態〔Gestalt〕もただ特殊的諸契機として現われるにすぎない,そのような具体的諸形態で対し合う。だから,われわれがこの部で展開する資本のもろもろの形象化〔Gestaltungen〕は,それらが社会の表面で,生産当事者たち自身の日常の意識のなかで,そして最後に,さまざまの資本の相互にたいする競争のなかで生じるときの形態に,一歩一歩近づいていくのである。}」(『資本論』第3部第1稿。MEGAII/4.2S7,〔現行版対応箇所:MEW25,S.33,〕)〉(137頁)

 少なくともここには〈「諸資本の現実的運動」そのものは範囲外である〉というような文言は見られません。むしろ第3部で対象にするのは「諸資本の現実的運動」だと述べているように思えます。この文章から、次のようなことが分かってきます。

・〈全体として考察された〉〈資本の過程から……生じてくる具体的諸形態〉=〈諸資本の現実的運動〉=〈資本のもろもろの形象化
・〈資本のもろもろの形象化〉の展開は、〈それらが社会の表面で,生産当事者たち自身の日常の意識のなかで,そして最後に,さまざまの資本の相互にたいする競争のなかで生じるときの形態に,一歩一歩近づいていく

    これはまさにマルクスが『要綱』において、〈競争の基本法則〉と述べていた内容ではないでしょうか。少なくとも大谷氏が主張している〈『資本論』の「一般性」〉においては第1部・第2部と第3部との区別が分かりにくいものになっているような気がします。
    とりあえず、今回はこれぐらいにしておきます。それでは本論に入ります。今回は「第3篇 絶対的剰余価値の生産」の最後にある「第9章 剰余価値率と剰余価値量」です。まず第9章の位置づけから見てゆきましょう。

 

第9章 剰余価値率と剰余価値量

 

◎「第9章 剰余価値率と剰余価値量」の位置づけ

    この第9章は「第3篇 絶対的剰余価値の生産」の最後に位置します。つまり「絶対的剰余価値の生産」を締めくくるとともに、「第4篇 相対的剰余価値の生産」への移行を担うものといえるでしょう。
    同じような位置づけを持っているものとして、私たちはすでに「第2章 交換過程」(商品の貨幣への転化)や「第4章 貨幣の資本への転化」を知っています。第2章が新日本新書版で15頁と短かったのですが、同じように第9章も15頁しかありません。
    以前、第2篇「貨幣の資本への転化」から第3篇「絶対的剰余価値の生産」への移行において、ここから「第1部 資本の生産過程」の本題に入るわけですが、それがどうして「絶対的剰余価値の生産」になっているのかについて、それは資本の生産過程というのは剰余価値の生産過程だからであり、剰余価値の生産には絶対的剰余価値の生産と相対的剰余価値の生産とがあること、《絶対的なものはとにかく長時間労働を強いて搾り取るか、あるいはきつい労働をやらせて搾り取るやりかたです。もう一つの相対的な搾取のやり方は、もっとスマートなやり方ですが、それは資本の生産力を高めて労働力の価値そのものを引き下げて、剰余労働を増やすやり方なのです。歴史的には最初の絶対的な搾取のやり方は資本がまだ労働力を雇い入れてそのまま使用して剰余価値を得るやり方ですが、後者の方法は資本がもっと発展して生産様式そのものを資本の生産にあったものに変革するなかで、行われるものです》と説明しました。
    そして「第8章 労働日」をそれに先行する第5章や第6章、第7章と対比して次のように説明しました。

    《だから第8章「労働日」は絶対的剰余価値の生産の本論ともいえるものでしょう。それまでの第3篇の第5章や第6章や第7章は、生産過程やそこで生み出される剰余価値の一般的な条件の考察であり、『資本論』全3部の基礎になるものでした。それに対して第8章はそれらを踏まえて、絶対的剰余価値の生産そのものを問題にするところと言えるのではないでしょうか。》

    第8章では標準労働日をめぐる資本家階級と労働者階級との闘いによって1労働日に制限が加えられ、10時間労働日とか8時間労働日が歴史的に法的に規制されたことが明らかにされました。つまり労働日を絶対的に延長して剰余価値を拡大しようとする資本の飽くなき欲望は、標準労働日の確立によって、法的・社会的限界に突き当たったのです。だから資本に残された剰余労働を拡大する方法は、今度は1労働日のうちの必要労働時間を可能な限り縮減して、剰余労働時間を拡大するしかないことになります。それが次の「第4篇 相対的剰余価値の生産」になるわけです。
   この第9章はそれへの移行を担うものです。 つまり「第3篇 絶対的剰余価値の生産」の締めくくる位置にあります。
    だからこの第9章は主に二つの部分に分かれています。前半は、表題にある「剰余価値率と剰余価値量」が問題になっています。剰余価値生産の絶対的形態では、剰余価値の増大を図るためには剰余価値率(搾取度)を引き上げ、搾取する労働者の人数を増やすしかありませんが、しかしそれには自ずから限界があることが示されます。そのあと横線を引いて、マルクスは第3篇全体のまとめをやっています。
    それでは具体的にパラグラフごとに見てゆくことにしましょう。


◎第1パラグラフ(これまでと同じように、この章でも労働力の価値は不変な量として想定される)

【1】〈(イ)これまでと同じに、この章でも労働力の価値、つまり労働日のうち労働力の再生産または維持に必要な部分は、与えられた不変な量として想定される。〉(全集第23a巻399頁)

  (イ) これまでと同じように、この章でも労働力の価値、つまり労働日のうち労働力の再生産または維持に必要な部分は、与えられた不変な量として想定されます。

   〈労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じに、この独自な商品の生産に、したがってまた再生産に必要な労働時間によって規定されている。……労働力の生産に必要な労働時間は、この生活手段の生産に必要な労働時間に帰着する。言い換えれば、労働力の価値は、労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である〉と第2篇第4章第3節で述べられていました。また第8章の冒頭、〈われわれは、労働力がその価値どおりに売買されるという前提から出発した。労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じに、その生産に必要な労働時間によって規定される。だから、もし労働者の平均1日の生活手段の生産に6時間が必要ならば、彼は、自分の労働力を毎日生産するためには、または自分の労働力を売って受け取る価値を再生産するためには、平均して1日に6時間労働しなければならない。この場合には彼の労働日の必要部分は6時間であり、したがって、ほかの事情が変わらないかぎり、一つの与えられた量である〉とありました。
    この章でも同じように労働力の価値は、一つの与えられた量として、不変なものとして想定されるということです。絶対的剰余価値の生産では必要労働時間(そして同じことを意味しますが生産力)は一つの与えられたものとして前提して、その上で、剰余労働時間を増大させるために、1日の労働時間を絶対的に拡大しようとすることでした。だから絶対的剰余価値の生産では労働力の価値は不変な量として想定されていたのです。次の相対的剰余価値の生産では、今度は労働力の価値、よって必要労働時間(同じように生産力)そのものが可変量として捉えられることになります。
 『61-63草稿』から紹介しておきましょう。

   〈われわれは、絶対的剰余価値および相対的剰余価値という二つの形態を切り離して考察したが、……この二つの形態を切り離すことによって、労賃と剰余価値との関係におけるもろもろの違いが明らかになるのである。生産力の発展が所与であれば、剰余価値はつねに絶対的剰余価値として現われるのであって、とりわけ剰余価値の変動は、ただ総労働日の変化によってのみ可能である。労働日が所与のものとして前提されれば、剰余価値の発展は、ただ相対的剰余価値の発展としてのみ、すなわち生産力の発展によってのみ可能である。〉(草稿集⑨367頁)


◎第2パラグラフ(労働力の価値が与えられれば、剰余価値率が、個々の労働者によって生産される剰余価値量を規定する。)

【2】〈(イ)このように前提すれば、剰余価値率と同時に、1人の労働者が一定の時間内に資本家に引き渡す剰余価値量も与えられている。(ロ)たとえば必要労働は1日に6時間で、それが3シリング 1ターレルの金量で表わされるとすれば、1ターレルは、1個の労働力の日価値、または1個の労働力の買い入れに前貸しされる資本価値である。(ハ)さらに、剰余価値率を100%とすれば、この1ターレルの可変資本は1ターレルの剰余価値量を生産する。(ニ)言い換えれば、労働者は1日に6時間の剰余労働量を引き渡す。〉(全集第23a巻399頁)

    このパラグラフそのものは何も難しいことはありませんが、フランス語版では全体にかなり書き換えられています。よって最初にフランス語版をまず紹介しておきましょう。

  〈1平均労働力の日価値が3シリングあるいは1エキュであって、これを再生産するために1日に6時間が必要であると想定しよう。資本家は、このような1労働力を買うために1エキュを前貸ししなければならない。この1エキュは資本家にどれだけの剰余価値をもたらすであろうか? それは剰余価値率に依存している。剰余価値率が50%であれば、剰余価値は3時間の剰余労働を代表する半エキュであろうし、100% であれば、6時間の剰余労働を代表する1エキュに上がるだろう。こうして、労働力の価値が与えられれば、剰余価値率が、個々の労働者によって生産される剰余価値量を規定する。〉(江夏・上杉訳313頁)

  (イ) このように前提しますと、剰余価値率と同時に、1人の労働者が一定の時間内に資本家に引き渡す剰余価値量も与えられています。

    必要労働時間、つまり労働力の価値が一定の与えられた量として前提されますと、剰余価値率=剰余労働時間÷必要労働時間 →剰余労働時間=必要労働時間×剰余価値率 となりますから、剰余価値率が決まってくれば、同時に剰余労働時間、すなわち一定の時間内に労働者が資本家に引き渡す剰余価値量も決まってくることになります。

  (ロ) たとえば必要労働は1日に6時間で、それが3シリング=1ターレルの金量で表わされるとしますと、1ターレルは、1個の労働力の日価値、または1個の労働力の買い入れに前貸しされる資本価値です。

    具体例を入れて考えますと、必要労働時間は1日6時間で、3シリング=1ターレルの金量で表されるとしますと、1ターレルは、1個の労働力の日価値、または1個の労働力の買い入れに前貸しされる資本価値、つまり可変資本量です。

  (ハ)(ニ) さらに、剰余価値率を100%としますと、この1ターレルの可変資本は1ターレルの剰余価値量を生産します。言い換えますと、労働者は1日に6時間の剰余労働量を引き渡すことになります。

    そして剰余価値率を100%としますと、1ターレルの可変資本は1ターレルの剰余価値を生産します。言い換えますと、労働者は1日に6時間の剰余労働量を資本家に引き渡します。


◎第3パラグラフ(可変資本の価値は、1個の労働力の平均価値に使用労働力の数を掛けたものに等しい)

【3】〈(イ)しかし、可変資本は、資本家が同時に使用するすべての労働力の総価値を表わす貨幣表現である。(ロ)だから、可変資本の価値は、1個の労働力の平均価値に使用労働力の数を掛けたものに等しい。(ハ)したがって、労働力の価値が与えられていれば、可変資本の大きさは、同時に使用される労働者の数に正比例する。(ニ)そこで、1個の労働力の日価値が1ターレルならば、毎日100個の労働力を搾取するためには100ターレルの、n個の労働力を搾取するためにはnターレルの資本を前貸ししなければならない。〉(全集第23a巻399頁)

  (イ)(ロ) しかし、可変資本は、資本家が同時に使用するすべての労働力の総価値を表わす貨幣表現です。ですから、可変資本の価値は、1個の労働力の平均価値に使用労働力の数を掛けたものに等しいことになります。

    ところで、可変資本というのは、一人の資本家が彼が雇ったすべての労働力の総価値の貨幣表現です。ですから、可変資本の価値というのは、一人の労働力の平均的な価値に、使用する労働力の数を掛けたものになります。すなわち 可変資本量=1個の労働力の平均価値×使用される労働力の数 となります。

  (ハ) だから、労働力の価値が与えられていますと、可変資本の大きさは、同時に使用される労働者の数に正比例します。

    だから想定のように、労働力の価値が与えられたものとしますと、可変資本の大きさは同時に使用される労働者の数に正比例します。上記の等式で 1個の労働力の平均価値 を不変量すれば、このことは一目瞭然です。

  (ニ) ということは、1個の労働力の日価値が1ターレルとしますと、毎日100個の労働力を搾取するためには100ターレルの、n個の労働力を搾取するためにはnターレルの資本を前貸ししなければなりません。

    具体的な数値をあてはめますと、1個の労働力の日価値が1ターレルとし、毎日100個のろ労働力を使用するとしますと、100ターレルの可変資本が必要になります。同じようにn個の労働力を搾取するためには、nターレルの資本を前貸しする必要があるということです。


◎第4パラグラフ(第一の法則:生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の量に剰余価値率を掛けたものに等しい。)

【4】〈(イ)同様に、1ターレルの可変資本、すなわち1個の労働力の日価値が毎日1ターレルの剰余価値を生産するとすれば、100ターレルの可変資本は毎日100ターレルの剰余価値を、nターレルの可変資本は毎日1ターレルのn/倍の剰余価値を生産する。(ロ)したがって、生産される剰余価値の量は、1人の労働者の1労働日が引き渡す剰余価値に充用労働者数を掛けたものに等しい。(ハ)しかし、さらに、1人の労働者が生産する剰余価値量は、労働力の価値が与えられていれば、剰余価値率によって規定されているのだから、そこで次のような第一の法則が出てくる。(ニ)生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の量に剰余価値率を掛けたものに等しい。(ホ)言い換えれば、それは、同じ資本家によって同時に搾取される労働力の数と1個1個の労働力の搾取度との複比によって規定されている。*
  * (ヘ)著者校閲のフランス語版では、この命題の第二の部分は次のように訳されている。(ト)「言い換えれば、まさしくそれは、1個の労働力の価値にその搾取度を掛け、さらに同じ時に充用される労働力の数を掛けたものに等しい。」〉(全集第23a巻399-400頁)

    このパラグラフもフランス語版ではやや書き換えられており、全集版にはない原注(1)も付いていますので、最初にフランス語版を紹介しておきましょう。

 〈同様に、1労働力の価格である1エキュが1エキュの日々の剰余価値を生産すれば、100エキュの可変資本は100エキュの剰余価値を生産し、nエキュの資本は 1エキュ×n の剰余価値を生産するであろう。したがって、可変資本が生産する剰余価値量は、可変資本から支払いを受ける労働者の数に個々の労働者が1日にもたらす剰余価値量を乗/じたもの、によって規定される。そして、個々の労働力の価値が知られていれば、剰余価値量は剰余価値率、換言すれば労働者の必要労働にたいする剰余労働の比率、に依存している(1)。したがって、次のような法則が得られる。可変資本によって生産される剰余価値の量は、この前貸資本の価値に剰余価値率を乗じたものに等しく、あるいは、1労働力の価値にその搾取度を乗じ、さらに、同時に使用される労働力の数を乗じたもの、に等しい。

  (1) 本文では、1平均労働力の価値が一定であるばかりでなく、1資本家に使われているすべての労働者が平均労働力にほかならないことが、依然として想定されている。生産される剰余価値が搾取される労働者の数に比例して増加せず、そのさい労働力の価値が一定ではない、という例外的なばあいもある。〉(江夏・上杉訳313-314頁)

  (イ) 同じように、1ターレルの可変資本、つまり1個の労働力の日価値が毎日1ターレルの剰余価値を生産するとしますと、100ターレルの可変資本は毎日100ターレルの剰余価値を、nターレルの可変資本は毎日1ターレルのn倍の剰余価値を生産することになります。

    1ターレルの可変資本、すなわち1個の労働力の日価値が1ターレルで、毎日1ターレルの剰余価値を生産するとしますと(つまり剰余価値率は100%)、可変資本が100ターレルであれば、毎日100ターレルの剰余価値を生産します。そして可変資本がnターレルであれば、毎日1ターレル×nの剰余価値を生産することになります。

  (ロ) ということは、生産される剰余価値の量は、1人の労働者の1労働日が引き渡す剰余価値の量に充用労働者数を掛けたものに等しいことになります。

    つまり生産される剰余価値量は、1人の労働者が1日の労働で引き渡す剰余価値の量に充用労働者数を掛けたものに等しいということです。すなわち 生産される剰余価値量=1人の労働者が1日に生産する剰余価値量×充用労働者数

  (ハ)(ニ) しかし、さらにいえることは、1人の労働者が生産する剰余価値量は、労働力の価値が与えられていますと、剰余価値率によって規定されているのですから、そこから次のような第一の法則が出てきます。すなわち生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の量に剰余価値率を掛けたものに等しいということです。

    さらに言えますことは、1人の労働者が生産する剰余価値量は、労働力の価値が与えられていますと、剰余価値率によって規定されていますから、生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の量に剰余価値率を掛けたものに等しいという結論が出てきます。

    第一の法則; 生産される剰余価値量=前貸しされる可変資本の量×剰余価値率

    剰余価値率=剰余労働÷必要労働=剰余価値÷可変資本 ですから上記の式の剰余価値率に剰余価値÷可変資本を挿入しますと 前貸しされる可変資本の量×剰余価値率=前貸しされる可変資本×剰余価値÷可変資本となり、=剰余価値 になります。

  (ホ) これを言い換えますと、それは、同じ資本家によって同時に搾取される労働力の数と1個1個の労働力の搾取度との複比によって規定されているということです。

    これを言い換えますと(フランス語版にもとづき)、1個の労働力の価値に剰余価値率を掛けて、さらにそれに同時に使用される労働者数をかけたものに等しいということです。

    第一の法則; 生産される剰余価値量=前貸しされる可変資本の量×剰余価値率

 に 前貸しされる可変資本の量=1個の労働力の価値×労働者数 を挿入しますと

   生産される剰余価値量=1個の労働力の価値×労働者数×剰余価値率=1個の労働力の価値×剰余価値率×労働者数

  になるということです。

    なおフランス語版の原注(1)は全集版の次の第5パラグラフの最後に書かれているものとほぼ同じです。その代わりにフランス語版では第5パラグラフのその最後の一文が抜け落ちています。つまりマルクスは第2版をフランス語版として校訂する時に、第5パラグラフの最後の部分を第4パラグラフの原注にしたということです。


◎第5パラグラフ(第一の法則の数式による表現)

【5】〈(イ)そこで、剰余価値量をMとし、1人の労働者が平均して1日に引き渡す剰余価値をmとし、1個の労働力の買い入れに毎日前貸しされる可変資本をvとし、可変資本の総額をVとし、平均労働力1個の価値をkとし、その搾取度をa'/a(剰余労働/必要労働)とし、充用労働者数をnとすれば、

    m/v×V
  M ={
       k×a'/a×n

となる。(ロ)平均労働力1個の価値が不変だということだけではなく、1人の資本家によって充用される労働者たちが平均労働者に還元されているということも、引き続き想定される。(ハ)生産される剰余価値が搾取される労働者の数に比例しては増大しないという例外の場合もあるが、その場合には労働力の価値も不変のままではない。〉(全集第23a巻400頁)

  (イ) そこで、剃余価値量をMとし、1人の労働者が平均して1日に引き渡す剰余価値をmとし、1個の労働力の買い入れに毎日前貸しされる可変資本をvとし、可変資本の総額をVとし、平均労働力1個の価値をkとし、その搾取度をa'/a(剰余労働/必要労働)とし、充用労働者数をnとしますと、

  M=m/v×V あるいは
  M=k×a'/a×n

 となります。

    M=m/v×V というのは m/v は剰余価値率のことですから、m/v×V というのは前貸しされる可変資本総額に剰余価値率をかけたもであり、それが生産される剰余価値量になるわけですから、これは第一の法則そのものです。
    M=k×a'/a×n というのは 1個の労働力の価値×搾取度(剰余価値率)×労働者数となりますから、これは第4パラグラフにある第一の法則を言い換えたものです。
    なおついでに述べておきますと、このパラグラフは初版にはありません。第2版から新たに加えられたパラグラフです。

  (ロ) ここでは平均均労働力1個の価値が不変だということだけではなくて、1人の資本家によって充用される労働者たちが平均労働者に還元されているということも、引き続き想定されてます。

    これ以下はフランス語版の第4パラグラフの原注としてあるものと同じです。
    依然として1個の平均労働力の価値は不変で、1人の資本家が使用する労働者たちは平均労働力に還元されているこということが想定されているということです。

  (ハ) 生産される剰余価値が搾取される労働者の数に比例しては増大しないという例外の場合もありますが、その場合には労働力の価値も不変のままではありません。

    ただ例外的な場合として、生産される剰余価値が搾取される労働者数に比例しない場合もあるということです。ただその場合には労働力の価値も不変なままではなく、労働者も平均労働力に還元されているとはいえず、変化していることが想定されるということです。これは例えば複雑労働などを増やす場合にはそうしたことが言えます。

   ((2)に続く。)

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(2)

2024-03-14 17:28:22 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(2)


◎第6パラグラフ(従業労働者数の減少は、それに比例する労働日の延長によって、埋め合わされうる)

【6】〈(イ)それゆえ、一定量の剰余価値の生産では、一方の要因の減少は他方の要因の増加によって埋め合わされることができる。(ロ)可変資本が減らされて、同時に同じ割合で剰余価値率が高くされれば、生産される剰余価値の量は不変のままである。(ハ)前に仮定したように、資本家は毎日100人の労働者を搾取するためには100ターレルを前貸しし/なければならないものとし、剰余価値率は50%だとすれば、この100ターレルの可変資本は、50ターレルの、言い換えれば 100×3労働時間 の剰余価値を生む。(ニ)剰余価値率が2倍に高められれば、すなわち労働日が6時間から9時間にではなく6時間から12時間に延長されれば、50ターレルに半減された可変資本がやはり50ターレルの、言い換えれば 50×6労働時間 の剰余価値を生む。(ホ)だから、可変資本の減額は、それに比例する労働力の搾取度の引き上げによって、または従業労働者数の減少は、それに比例する労働日の延長によって、埋め合わされうるのである。(ヘ)したがって、ある限界のなかでは、資本によってしぼり出されうる労働の供給は労働者の供給に依存しないものになる(202)。(ト)反対に、剰余価値率の減少は、それに比例して可変資本の大きさまたは従業労働者数が増大するならば、生産される剰余価値の量を変えないのである。〉(全集第23a巻400-401頁)

  (イ)(ロ) ということは、一定量の剰余価値の生産においては、一方の要因の減少は他方の要因の増加によって埋め合わされることができるということになります。可変資本が減らされても、同時に同じ割合で剰余価値率が高くされれば、生産される剰余価値の量は不変のままだからです。

    第一の法則というのは

    生産される剰余価値量(M)=前貸しされる可変資本の量(V)×剰余価値率(m/v)

   というものでした。ということはVを減らしても(雇用する労働者数を減らしても)、m/v(剰余価値率=搾取率)をそれと同じ割合で高めれば、生産される剰余価値量(M)は変わらないということになります。つまり一定の剰余価値の生産においは、一方の要因の減少は、他方の要因の増大によって補うことができるということです。

  (ハ)(ニ)(ホ) 前に仮定しましたように、資本家は毎日100人の労働者を搾取するためには100ターレルを前貸ししなければならないものとし、剰余価値率は50%だとしますと、この100ターレルの可変資本は、50ターレルの、言い換えれば 100×3労働時間=300時間が対象化された剰余価値を生みます。ここで労働日が延長されて剰余価値率が2倍に高められますと、つまり労働日が6時間の必要労働に3時間の剰余労働を足した9時間から、6時間の必要労働に6時間の剰余労働を足した12時間に延長されますと、今、例え労働者が50人に減らされて、可変資本が100ターレルから50ターレルに半減したとしましても、やはり先と同じように50ターレルの、言い換えれば 50×6労働時間=300時間の剰余労働が対象化された剰余価値を生みます。だから、可変資本の減額は、それに比例する労働力の搾取度の引き上げによって、または従業労働者数の減少は、それに比例する労働日の延長によって、埋め合わされうるのです。

    前に仮定した数値を入れて考えますと、資本家は100人の労働者を雇用するためには100ターレルを前貸ししなければなりません。いま搾取率を50%としますと、100ターレルの可変資本は50ターレルの剰余価値を生みだします。これは1人の労働者の必要労働時間が6時間ですから、50%の搾取率では剰余労働時間は3時間です。ですから50ターレルの剰余価値というのは、3時間の剰余労働時間×100人=300労働時間が対象化されたものになります。
    ここで労働時間が延長されて剰余価値率が2倍に高められたとします。つまり労働時間が9時間(必要労働6時間+剰余労働3時間)から12時間(必要労働6時間+剰余労働6時間)に延長されたとします。すると剰余労働時間が3時間から6時間に2倍になります。つまり剰余価値率が2倍になったということです。
    しかしその代わりに雇用される労働者数は半分に減らされて100人から50人になったとしますと、可変資本は100ターレルから50ターレルになります。しかし生産される剰余価値量そのものは、剰余労働時間が2倍になっていますから、50×6労働時間=300時間の剰余労働の対象化されたものになり、その前と変わりません。
    第一の法則にあてはめますと 生産される剰余価値量=前貸しされる可変資本の量(100ターレルの1/2)×2倍の剰余価値率 となりますから、生産される剰余価値量は変わらないわけです。
    つまり可変資本が減少しても(雇用される労働者数が減らされても)、それに比例する労働力の搾取度が引き上げられれば(労働日が延長されれば)、生産される剰余価値量は変わらないということです。つまり労働者数の減少は搾取率の引き上げて埋め合わせることができるということです。

  (ヘ)(ト) だから、ある限界のなかでは、資本によってしぼり出されうる労働の供給は労働者の供給に依存しないものになります。反対に、剰余価値率の減少は、それに比例して可変資本の大きさ、あるいは従業労働者数が増大するのでしたら、生産される剰余価値の量を変えないことになります。

    ということは、ある限界のなかでのことですが、資本によって絞り取られる労働量は労働者数には依存しないということです。反対に、剰余価値率の減少は、つまり労働時間の短縮は、それに比例して可変資本の大きさを増やせば、つまり雇用される労働者数が増やされるなら、生産される剰余価値量は変わらないということにもなります。


◎原注202

【原注202】〈202 (イ)この基本法則を俗流経済学の諸君は知っていないように見える。(ロ)彼ら、さかさにされたアルキメデスたちは、需要供給による労働の市場価格の規定のうちに、世界を一変させるためのではなく、世界を静止させるための支点を見つけたと思っているのである。〉(全集第23a巻401頁)

  (イ)(ロ) この基本法則を俗流経済学の諸君は知っていないように見えます。彼らは、つまりさかさにされたアルキメデスたちは、需要供給による労働の市場価格の規定のうちに、世界を一変させるためのではなく、世界を静止させるための支点を見つけたと思っているのです。

    これは〈だから、可変資本の減額は、それに比例する労働力の搾取度の引き上げによって、または従業労働者数の減少は、それに比例する労働日の延長によって、埋め合わされうるのである。したがって、ある限界のなかでは、資本によってしぼり出されうる労働の供給は労働者の供給に依存しないものになる(202)。〉という本文に付けられた原注です。

    俗流経済学についてマルクスは『61-63草稿』で次のように特徴づけています。

   労働の価値または労働時間の価格というこの表現では、価値概念は完全に消し去られているだけでなく、それと直接に/矛盾するものに転倒されている。……とはいえ、それは、生産過程の必然的な結果として生ずる表現なのである、つまり労働能力の価値の必然的な現象形態なのである。その不合理な表現は、すでに労賃という言葉自体のなかにある。そこでは労働の賃金イコール労働の価格イコール労働の価値なのである。しかし、労働者の意識のなかでも資本家の意識のなかでも同じように生きているこの没概念的な形態は、実生活において直接的に現われる形態なのであるから、それゆえこの形態こそ、俗流経済学が固執するところの形態なのである。彼らは、他のすべての諸科学から区別される経済学の独自性は次の点にあるというのである。すなわち他の諸科学が、日常の諸現象の背後にかくれている、そして日常の外観(たとえば、地球をめぐる太陽の運動のような)とたいていは矛盾する形態にある本質を暴露しようとするのにたいして、経済学の場合には、日常の諸現象を同じく日常的な諸表象のうちへたんに翻訳することをもって科学の真の事業だと言明してはばからない、と。〉(草稿集⑨350-351頁)


    つまり俗流経済学はブルジョア社会の表面に転倒して現れている諸現象をただそのままに叙述するだけなのですが、彼らは需要供給によって労働の市場価格が高くなるとブルジョア社会そのものが停止すると警告するわけです。
    ここで〈さかさにされたアルキメデスたち〉というのは、内在的な諸法則が転倒して現象しているものをそのままに叙述することを自らの経済学としている俗流経済学を揶揄しているわけです。アルキメデスは梃子の支点を見いだせば、世界を一変させうると主張したのですが、逆立ちした俗流経済学者たちはその反対に世界を制止させるための支点を労働の価格に見いだしたということです。
    エンゲルスは「『資本論』第3部への補遺」のなかで次のように述べています。

  〈彼はついにあのアルキメデスの挺子の支点を見つけたのだ。この支点からやれば彼のような一寸法師でもマルクスの堅固な巨大な建築を空中に持ち上げて粉砕することができるというのである。〉(全集第25b巻1136頁)

    なお 新日本新書版では〈彼ら、さかさにされたアルキメデスたちは、需要供給による労働の市場価格の規定のうちに、世界を一変させるためのではなく、世界を静止させるための支点を見つけたと思っているのである〉のところに次のような訳者注が付いています。

  〈アルキメデスの言とされる「我に立つべき場所を与えよ。さすれば地球を動かさん」にちなむ。数学の先人の書を解説したアレクサンドリアのパップス『著作集』、第8巻、11の10。とくに最後の「さすれば……」の句は、ギリシアの哲学者シンプリキウスによれば「さすれば地球をその地軸から持ち上げん」であるとされ、(『アリストテレス 形而上学注釈』、第4巻続、ディールス編、1110ページ)、マルクスはこの語法をここでそのまま用いている。俗流経済学のあべこべへの皮肉。〉(531頁)


◎第7パラグラフ(第二の法則;平均的な労働日の絶対的な限度は、本来いつでも24時間より短いのであって、可変資本を剰余価値率の引き上げでもって補填することの絶対的な限度、または、搾取される労働者の数を労働力の搾取度の引き上げでもって補填することの絶対的な限度、を成している)

【7】〈(イ)とはいえ、労働者の数または可変資本の大きさを剰余価値率の引き上げまたは労働日の延長によって補うということには、飛び越えることのできない限界がある。(ロ)労働力の価値がどれだけであろうと、したがって、労働者の維持に必要な労働時間が2時間であろうと10時間であろうと、1人の労働者が毎日生産することのできる総価値は、つねに、24労働時間の対象化である価値よりも小さいのであり、もし対象化された24労働時間の貨幣表現が12シリングまたは4ターレルならば、この金額よりも小さいのである。(ハ)われわれのさきの仮定によれば、労働力そのものを再生産するためには、または労働力の買い入れに前貸しされた資本価値を補填するためには、毎日6労働時間が必要であるが、この仮定のもとでは、100%の剰余価値率すなわち12時間労働日で500人の労働者を使用する500ターレルの可変資本は、毎日500ターレルの、または 6×500労働時間 の剰余価値を生産する。/(ニ)200%の剰余価値率すなわち18時間労働日で毎日100人の労働者を使用する100ターレルの資本は、たった200ターレルの、または 12×100 労働時間の剰余価値量を生産するだけである。(ホ)そして、この資本の総価値生産物、すなわち、前貸可変資本の等価・プラス・剰余価値は、けっして毎日400ターレルまたは 24×100 労働時間という額に達することはできない。(ヘ)本来つねに24時間よりも短い平均労働日の絶対的な限界は、可変資本の減少を剰余価値率の引き上げによって補うことの、または搾取される労働者数の減少を労働力の搾取度の引き上げによって補うことの、絶対的な限界をなしているのである。(ト)このわかりきった第二の法則は、後に展開される資本の傾向、すなわち資本の使用する労働者数または労働力に転換される資本の可変成分をできるだけ縮小しようとする資本の傾向、すなわちできるだけ大きな剰余価値量を生産しようとする資本のもう一つの傾向とは矛盾した傾向から生ずる多くの現象を説明するために、重要なのである。(チ)逆に、使用される労働力の量または可変資本の量がふえても、そのふえ方が剰余価値率の低下に比例していなければ、生産される剰余価値の量は減少する。〉(全集第23a巻401-402頁)
 
    このパラグラフは、フランス語版では三つのパラグラフに分けられ、全体に書き換えられています。一応、だいたい対応するフランス語版を最初に紹介しておくことにします。

  (イ)(ロ) といいましても、労働者の数または可変資本の大きさを剰余価値率の引き上げか、または労働日の延長によって補うということには、飛び越えることのできない限界があります。なぜなら、労働力の価値がどれだけであっても、だから、労働者の維持に必要な労働時間が2時間であっても10時間であっても、1人の労働者が毎日生産することのできる総価値は、つねに、24労働時間の対象化である価値よりも小さいからです。もし対象化された24労働時間の貨幣表現が12シリングかまたは4ターレルでしたら、この金額よりも小さいからです。

    まずフランス語版です。

  〈しかし、この種の相殺は一つの乗り越えがたい限界に出会う。24時間という自然日は平均労働日よりも必ず長い。だから、平均的な労働者が1時間に1/6エキュの価値を生産しても、平均労働日はけっして4エキュの日価値をもたらすことができない。4エキュの価値を生産するためには、平均労働日は24時間を必要とするからである。剰余価値については、その限界はなおいっそう狭い。〉(江夏・上杉訳315頁)

    前パラグラフで述べましたように、〈一定量の剰余価値の生産では、……可変資本の減額は、それに比例する労働力の搾取度の引き上げによって、または従業労働者数の減少は、それに比例する労働日の延長によって、埋め合わされうる〉と言いましても、それには絶対的な限界があります。
    というのも、労働力の価値、つまり必要労働時間がどれだけでありましても、労働日の延長には1日24時間という飛び越えることのできない限界があるからです。1人の労働者が対象化できるのは1日24時間よりも小さいのです。もし対象化された24労働時間の貨幣表現が12シリング=4ターレルでしたら、この金額よりも小さいわけです。

  (ハ)(ニ)(ホ) 例えば、私たちのさきの仮定によりますと、労働力そのものを再生産するためには、または労働力の買い入れに前貸しされた資本価値を補填するためには、毎日6労働時間が必要ですが、この仮定のもとでは、100%の剰余価値率すなわち12時間労働日で500人の労働者を使用する500ターレルの可変資本は、毎日500ターレルの、または 500×6労働時間 の剰余価値を生産します。いま、買い入れる労働者を5分の1の100人にして、その代わりに労働時間を延長して、200%の剰余価値率したとします。しかし18時間労働日で毎日100人の労働者を使用する100ターレルの資本は、たった200ターレルの、または 100×12労働時間 の剰余価値量を生産するだけです。そればかりか剰余価値だけではなくて、この資本の総価値生産物、すなわち、前貸可変資本の等価・プラス・剰余価値を見ても、けっして毎日400ターレルまたは 100×24労働時間 という額に達することはできないのです。

    フランス語版です。

  〈もし日々の賃金を補填するために必要な労働日部分が6時間に達するならば、自然日のうち残るのは18時間だけであって、生物学の法剥は、この18時間のうちの一部を労働力の休息のために要/求する。労働日を18時間という最高限度に延長して、この休息の最低限度として6時間を想定すれば、剰余労働は12時間にしかならず、したがって、2エキュの価値しか生産しないであろう。
  500人の労働者を100%の剰余価値率で、すなわち6時間が剰余労働に属する12時間の労働をもって、使用する500エキュの可変資本は、日々500エキュあるいは 6×500労働時間 の剰余価値を生産する。日々100人の労働者を200%の剰余価値率で、すなわち18時間の労働日をもって、使用する100エキュの可変資本は、200エキュあるいは 12×100労働時間 の剰余価値しか生産しない。その生産物は総価値で、1日平均400エキュの額あるいは 24×100労働時間 にけっして達することができない。〉(江夏・上杉訳315-316頁)

    これまでの仮定にもとづいて考えてみますと、労働力を再生産するためには、あるいは労働力の買い入れに前貸しされた資本価値を補填するためには、労働者は毎日6労働時間を対象化させなければなりません。
    いま、剰余価値率を100%、すなわち1日の労働時間を12時間としますと、500人の労働者を使用する500ターレルの可変資本は、毎日500ターレルの剰余価値を、すなわち500×6労働時間 の対象化された剰余価値を生産します。
  いま、雇用する労働者数を減らして100人にします。しかしその代わりに搾取率を2倍に、つまり労働時間を12時間から18時間に延長したとします。しかしその場合の生産される剰余価値は 100×12労働時間 、つまり100×2ターレル=200ターレルの剰余価値を生産できるだけです。
    それだけではなく、剰余価値だけではなくて、この資本の総価値生産物、つまり前貸可変資本の価値+剰余価値を見ましても、100ターレル+200ターレル=300ターレルでしかありません。だから毎日400ターレルまたは100×24労働時間 という額には達することはできないのです。

  (ヘ) 本来つねに24時間よりも短い平均労働日の絶対的な限界は、可変資本の減少を剰余価値率の引き上げによって補うことの、または搾取される労働者数の減少を労働力の搾取度の引き上げによって補うことの、絶対的な限界をなしているのです。

    フランス語版です。

  〈したがって、可変資本の減少が剰余価値率の引き上げによって、または結局同じことになるが、使用される労働者の数の削減が搾取度の上昇によって、相殺できるのは、労働日の、したがって、労働日に含まれる剰余労働の、生理的な限界内にかぎられる。〉(江夏・上杉訳316頁)

    だから本来24時間より短い労働日の絶対的な限界は、可変資本の減少を剰余価値率の引き上げによっては補うことのできない絶対的な限界なのです。あるいは言い換えますと、搾取される労働者数の減少を、労働力の搾取度の引き上げ(すなわち労働時間の延長)によって補うことの絶対的な限界をなしているのです。

  (ト) このわかりきった第二の法則は、後に展開される資本の傾向、すなわち資本の使用する労働者数または労働力に転換される資本の可変成分をできるだけ縮小しようとする資本の傾向と、できるだけ大きな剰余価値量を生産しようとする資本のもう一つの傾向とは矛盾したものであり、そこから生ずる多くの現象を説明するために、重要なのです。

    フランス語版です。

 〈全く明白なこの法則は、複雑な現象の理解にとって重要である。われわれはすでに、資本が最大限可能な剰余価値を生産しようと努力することを知っているし、後には、資本がこれと同時に、事業の規模に比較してその可変部分あるいはそれが搾取する労働者の数を最低限に削減しようと努めることを見るであろう。これらの傾向は、剰余価値量を規定する諸因数中のある一因数の減少がもはや他の因数の増大によって相殺されえなくなるやいなや、あい矛盾したものになる。〉(同上)

    これは第二の法則です。この法則は、後に展開される資本の傾向、すなわち資本の使用する労働者数を、あるいは労働力に転換する可変資本の量をできるだけ縮小しようとする資本の傾向(いわゆる省力化です)は、他方でできるだけ大きな剰余価値を生産しようとする資本のもう一つの傾向と矛盾し、そこから生じるさまざまな現象を説明するために重要なのです。

    新日本新書版では〈後に展開される資本の傾向〉の部分には次のような訳者注が付いています。

  〈本書、第23章、第2節「蓄積とそれにともなう集積との進行中における可変資本部分の相対的減少」参照〉(532頁)

    この訳者注が参照指示しているところは長いですが、その一部分を抜粋しておきましょう。

   〈資本主義体制の一般的基礎がひとたび与えられれば、蓄積の進行中には、社会的労働の生産性の発展が蓄積の最/も強力な槓杆となる点が必ず現われる。……労働の社会的生産度は、一人の労働者が与えられた時間に労働力の同じ緊張度で生産物に転化させる生産手段の相対的な量的規模に表わされる。彼が機能するために用いる生産手段の量は、彼の労働の生産性の増大につれて増大する。……だから、労働の生産性の増加は、その労働量によって動かされる生産手段量に比べての労働量の減少に、または労働過程の客体的諸要因に比べてのその主体的要因の大きさの減少に、現われるのである。〉(全集第23b巻811-812頁)

    もちろん、この参照指示は適切とは思いますが、ただマルクスがここで〈後に展開される資本の傾向、すなわち資本の使用する労働者数または労働力に転換される資本の可変成分をできるだけ縮小しようとする資本の傾向、すなわちできるだけ大きな剰余価値量を生産しようとする資本のもう一つの傾向とは矛盾した傾向から生ずる多くの現象〉という場合には、第3部で資本の有機的構成の高度化には資本の本質的な矛盾が存在すると述べていることに関連しているように思えます。生産力を高めるために、資本は大規模な工場や機械設備などに投資し、可変成分に比較して不変成分を圧倒的に増大させる傾向がありますが、しかしそれは資本にとっては剰余価値、すなわち彼らの直接の目的である利潤の増大をはかるためであるのに、その剰余価値の生み出す唯一の源泉である労働力を可能なかぎり減らそうとするわけです。だからこれはある意味では根本的な矛盾なのです。できるだけ大きな剰余価値を得ようとしながら、その剰余価値の唯一の源泉を減らすのですから。これが利潤率の傾向的低下をもたらし、資本主義的生産様式の本質的な矛盾として、周期的な恐慌として爆発してくるわけです。こうしたものを説明するのものの基礎がここで与えられているのだということではないでしょうか。

  (チ) 逆に、使用される労働力の量または可変資本の量が増えたとしましても、その増え方が剰余価値率の低下に比例していないと、生産される剰余価値の量は減少します。

    フランス語版にはこれに相当するものはありません。

    それとは逆のケース。つまり使用される労働力の量または可変資本の量が増えたとしましても、その増え方が剰余価値率の低下の割合、すなわち労働日の短縮の方が比例せず大きすぎると、生産される剰余価値の量は減ります。


◎第8パラグラフ(第三の法則;剰余価値率が与えられており労働力の価値が与えられていれば、生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の大きさに正比例する)

【8】〈(イ)第三の法則は、生産される剰余価値の量が剰余価値率と前貸可変資本量という二つの要因によって規定されているということから生ずる。(ロ)剰余価値率または労働力の搾取度が与えられており、また労働力の価値または必要労働時間の長さが与えられていれば、可変資本が大きいほど生産される価値と剰余価値との量も大きいということは、自明である。(ハ)労働日の限界が与えられており、その必要成分の限界も与えられているならば、1人の資本家が生産する価値と剰余価値との量は、明らかに、ただ彼が動かす労働量だけによって定まる。(ニ)ところが、この労働量は、与えられた仮定のもとでは、彼が搾取する労働力量または労働者数によって定まるのであり、この数はまた彼が前貸しする可変資本の大きさによって規定されている。(ホ)つまり、剰余価値率が与えられており労働力の価値が与えられていれば、生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の大きさに正比例するのである。(ヘ)ところで、人の知るように、資本家は自分の資本を二つの部分に分ける。(ト)一方の部分を彼は生産手段に投ずる。(チ)これは彼の資本の/不変部分である。(リ)他方の部分を彼は生きている労働力に転換する。(ヌ)この部分は彼の可変資本をなしている。(ル)同じ生産様式の基礎の上でも、生産部門が違えば、不変成分と可変成分とへの資本の分割は違うことがある。(ヲ)同じ生産部門のなかでも、この割合は、生産過程の技術的基礎や社会的結合が変わるにつれて変わる。(ワ)しかし、ある与えられた資本がどのように不変成分と可変成分とに分かれようとも、すなわち前者にたいする後者の比が 1:2 であろうと、1:10 であろうと、1:× であろうと、いま定立された法則はそれによっては動かされない。(カ)なぜならば、さきの分析によれば、不変資本の価値は、生産物価値のうちに再現はするが、新たに形成される価値生産物のなかにははいらないからである。(ヨ)1000人の紡績工を使用するためには、もちろん、100人を使うためよりも多くの原料や紡錘などが必要である。(タ)しかし、これらの追加される生産手段の価値は、上がることも下がることも不変のままのことも、大きいことも小さいこともあるであろうが、それがどうであろうとも、これらの生産手段を動かす労働力の価値増殖過程にはなんの影響も及ぼさないのである。(レ)だから、ここで確認された法則は次のような形をとることになる。(ソ)いろいろな資本によって生産される価値および剰余価値の量は、労働力の価値が与えられていて労働力の搾取度が等しい場合には、これらの資本の可変成分の大きさに、すなわち生きている労働力に転換される成分の大きさに、正比例する。〉(全集第23a巻402-403頁)

    このパラグラフもフランス語版では二つのパラグラフに分けられ、全面的に書き換えられています。だから今回も最初にだいたいに該当するフランス語版をまず紹介することにします。なおフランス語版には「第一の法則」「第二の法則」「第三の法則」という表現は使われていません。

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ) 第三の法則は、生産される剰余価値の量が剰余価値率と前貸可変資本量という二つの要因によって規定されているということから生じます。剰余価値率または労働力の搾取度が与えられており、また労働力の価値または必要労働時間の長さが与えられていますと、可変資本が大きいほど生産される価値と剰余価値との量も大きいということは明らかです。労働日の限界が与えられており、その必要成分の限界も与えられているのでしたら、1人の資本家が生産する価値と剰余価値との量は、明らかに、ただ彼が動かす労働量だけによって定まります。ところが、この労働量は、与えられた仮定のもとでは、彼が搾取する労働力量または労働者数によって定まるのであって、この数はまた彼が前貸しする可変資本の大きさによって規定されているのです。だから、剰余価値率が与えられていて労働力の価値が与えられていますと、生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の大きさに正比例するのです。

    まずフランス語版です。

  〈価値とは実現された労働にほかならないから、資本家の生産させる価値量がもっぱら彼の動かす労働量に依存することは、自明である。彼は同数の労働者を用いて、労働者の労働日がより長くまたはより短く延長されるのに応じて、労働量をより多くまたはより少なく動かすことができる。ところが、労働力の価値と剰余価値率とが与えられていれば、換言すれば、労働日の限界と、労働日の必要労働と剰余労働への分割とが与えられていれば、資本家の実現する剰余価値を含んでいる価値の総量は、もっぱら、彼が働かせる労働者の数によって規定され、労働者の数そのものは、彼が前/貸しする可変資本の量に依存している。
  そのばあい、生産される剰余価値の量は前貸しされる可変資本の量に正比例する。〉(江夏・上杉訳316-317頁)

    第三の法則は、第一の法則、すなわち生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の量に剰余価値率を掛けたものに等しいということから直接導き出されます。つまり生産される剰余価値の量は剰余価値率と前貸可変資本量という二つの要因によって規定されているということから生じます。つまり第一の法則から剰余価値率または労働力の搾取度が与えられていて、労働力の価値または必要労働時間の長さが与えられていますと、可変資本の量は、ただ資本が使用する労働力の量(資本家が雇用する労働者数)によって与えられることになります。だから可変資本の量が大きければ大きいほど、つまり使用される労働者数が多ければ多いほど、生産される剰余価値の量もまた大きいという関係が出てきます。だから、剰余価値率が与えられていて、労働力の価値も与えられていますと、生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の大きさ(雇用される労働者数)に正比例するという第三の法則が導き出されるのです。

  (ヘ)(ト)(チ)(リ)(ヌ)(ル)(ヲ) ところで、周知のように、資本家は自分の資本を二つの部分に分けます。一方の部分を彼は生産手段に投じます。これは彼の資本の不変部分です。他方の部分を彼は生きている労働力に転換します。この部分は彼の可変資本をなしています。同じ生産様式の基礎の上でも、生産部門が違えば、不変成分と可変成分とへの資本の分割は違うことがあります。また同じ生産部門のなかでも、この割合は、生産過程の技術的基礎や社会的結合が変わるにつれて変わります。

    フランス語版です。

  〈ところで、産業部門がちがえば、総資本が可変資本と不変資本とに分割される割合は非常にちがう。同種の事業では、この分割は技術的条件と労働の社会的結合とに応じて変化する。〉(江夏・上杉訳317頁)

    ところで「第6章 不変資本と可変資本」で明らかになりましたように、資本の前貸資本は、二つの部分に分けられます。一つは生産手段(原料や機械等)の購入のために、もう一つは労働力の購入のために。生産手段は価値を生産物に移転しますがそれ自体は増殖しません。だからそれを不変資本と名付けました。価値を増殖するのは労働力に転換したもののみでした。だからそれを可変資本と名付けたのでした。
    この前貸資本が分かれる二つの部分は、生産部門が違えば、その割合、構成は当然違ってきます。また同じ生産部門でも、生産過程の技術的基礎や労働の社会的結合が変わるに連れて変わってきます。

  (ワ)(カ)(ヨ)(タ) しかし、ある与えられた資本がどのように不変成分と可変成分とに分かれていたとしても、すなわち前者にたいする後者の比が 1:2 であったとしても、1:10 であったとしても、あるいは 1:× であっても、いま定立された法則はそれによっては動かされません。というのは、これまでの分析によりますと、不変資本の価値は、生産物価値のうちに再現はしますが、新たに形成される価値生産物のなかにははいらないからです。もちろん、1000人の紡績工を使用するためには、100人を使うためよりもより多くの原料や紡錘などが必要です。しかし、これらの追加される生産手段の価値は、上がることも下がることも不変のままのことも、大きいことも小さいこともあるでしょうが、それがどうであろうと、これらの生産手段を動かす労働力の価値増殖過程にはなんの影響も及ぼさないのです。

    フランス語版です。

  〈ところが、周知のように、不変資本の価値は、生産物のうちに再現するのに対し、生産手段に付加される価値は、可変資本、すなわち前貸資本のうち労働力に変わる部分からのみ生ずる。ある与えられた資本が不変部分と可変都分とにどのように分解しても、前者と後者の比が 2:1,10:1, 等々であっても、すなわち、使用される労働力の価値に比べた生産手段の価値が増大しても減少しても不変のままであっても、それが大きくても小さくても、どうでもよいのであって、それは生産される価値量にはやはり少しも影響を及ぼさない。〉(同上)

    しかしある与えられた資本の構成がどのようであっても、すなわちその可変成分と不変成分がどのような組み合わせになっていようとも、いま定立された法則、すなわち剰余価値率が与えられており労働力の価値が与えられていれば、生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の大きさに正比例するという法則には何の影響もありません。というのは第6章の分析で明らかになりましたように、不変資本の価値は、具体的な有用労働によって移転され、生産物の価値のうちに再現はしますが、あらたに形成される価値生産物のなかには入らないからです。
    もちろん、1000人の紡績工を使用するためには、100人を使用する場合より、より多くの原料や紡錘、つまり生産手段(不変資本)が必要です。だから前貸しされる資本量も増大しなければなりませんが、しかし不変資本部分がどれだけ増大しようと、確かにそれらは生産物の価値量を大きくしますが、しかし価値生産物の大きさそのものには何の変化も無いのです。つまりそれらは労働力の価値増殖過程にはまったく何の影響も及ぼさないからです。

  (レ)(ソ) ですから、ここで確認された法則は次のような形をとることになります。すなわち、いろいろな資本によって生産される価値および剰余価値の量は、労働力の価値が与えられていて労働力の搾取度が等しい場合には、これらの資本の可変成分の大きさに、すなわち生きている労働力に転換される成分の大きさに、正比例するということです。

    フランス語版です。

  〈このばあい、前貸資本が不変部分と可変部分とに分割される割合がどうありうるにしても、上述の法則を種々の産業部門に適用すれば、次の法則に到達する。平均労働力の価値とその平均搾取度が種々の産業で同等であると仮定すれば生産される剰余価値の量は使用される資本の可変部分の大きさに正比例するすなわち労働力に変えられる資本都分に正比例するのである。〉(同上)

    ということから、第三の法則は、次のような形をとることになります。すなわち、いろいろな産業部門で生産される価値および剰余価値の量は、労働力の価値と労働力の搾取度が同じものとして与えられていますと、可変成分の大きさ(雇用される労働者数)に正比例するということです。
    言い換えますと、同じ前貸資本量であっても、その不変資本部分と可変資本部分との構成が異なれば、生産される剰余価値の量も違ってくるということです。

    ここで確認のために、もう一度、三つの法則を並べて書いておきましょう。

第一の法則:生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の量に剰余価値率を掛けたものに等しい。
第二の法則;平均的な労働日の絶対的な限度は、本来いつでも24時間より短いのであって、可変資本を剰余価値率の引き上げでもって補填することの絶対的な限度、または、搾取される労働者の数を労働力の搾取度の引き上げでもって補填することの絶対的な限度、を成している
第三の法則;剰余価値率が与えられており労働力の価値が与えられていれば、生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の大きさに正比例する。

   ((3)に続く。)

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(3)

2024-03-14 16:53:06 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(3)


◎第9パラグラフ(第3の法則は、およそ外観にもとつく経験とは明らかに矛盾している。)

【9】〈(イ)この法則は、およそ外観にもとつく経験とは明らかに矛盾している。(ロ)だれでも知っているように、充用総資本の百分比構成を計算してみて相対的に多くの不変資本と少ない可変資本とを充用する紡績業者は、だからといって、相対的に多くの可変資本と少ない不変資本とを運転する製パン業者よりも小さい利益または剰余価値を手にいれるわけではない。(ハ)この外観上の矛盾を解決するためにはなお多くの中間項が必要なのであって、ちょうど、0/0が一つの実数を表わしうることを理解するためには、初等代数学の立場からは多くの中間項が必要であるのと同じである。(ニ)古典派経済学はこの法則を定式化したことはなかったにもかかわらず、本能的にこれに執着するのであるが、/それはこの法則が価値法則一般の一つの必然的な帰結だからである。(ホ)古典派経済学は、むりやりの抽象によって、この法則を現象の諸矛盾から救おうとしている。(ヘ)リカード学派がどのようにしてこのじゃまな石につまずいたかは、のちに(203)示されるであろう。(ト)「ほんとうは、なにもおぼえなかった〔100〕」俗流経済学は、いつものようにここでも現象の法則を無視してその外観にしがみついている。(チ)それは、スピノザとは反対に、「無知は十分な根拠になる〔101〕」と信じているのである。〉(全集第23a巻403-404頁)

  (イ)(ロ) しかし、この法則は、私たちの外観にもとつく経験とは明らかに矛盾しています。というのは、だれでも知っていますように、充用総資本の構成比をみて、相対的に多くの不変資本と少ない可変資本とを充用する紡績業者は、だからといって、相対的に多くの可変資本と少ない不変資本とを運転する製パン業者よりも小さい利益または剰余価値を手にいれるわけではないからです。

    この第3の法則、つまり剰余価値率と労働力の価値が与えられていますと、生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の大きさ(つまり雇用される労働者数の大小)に正比例するというものは、その解説の最後ところで《同じ前貸資本量であっても、その不変資本部分と可変資本部分との構成が異なれば、生産される剰余価値の量も違ってくる》と言い換えておきましたが、これは資本主義の現実とは明らかに矛盾しているのです。これをさらに言い換えますと、《資本の有機的構成が異なれば、特殊的利潤率もまた違ってくる》ということになります。ところが資本主義の現実は資本の有機的構成がどうであろうと、資本はその前貸し総資本の大きさに応じた利潤をえるのであって、利潤率としてはみな同じだというものです(一般的利潤率)。
    これは実際、経験的に考えても、大規模な紡績工場では工場建物や紡績機械など不変資本が大きく、それに比して雇用される労働者数は少ないにも関わらず、不変資本が小さく、雇用される労働者数が多い、例えば製パン業者よりも小さい利益しか挙げないかと言えば、決してそうではないからです。つまり資本主義の現実は、資本はそれを構成する不変資本と可変資本との割合がどうであれ、投下される総資本の大きさ(不変資本+可変資本)に応じて、つまり同じ割合で、利潤を得るというものだからです。総資本が大きい紡績工場主は、実際には、総資本に比して可変資本が小さいから生産する剰余価値量も小さいのに、総資本が大きいために、その可変資本に比して大きな利潤(剰余価値)を得、総資本が小さい製パン業者は、しかし割合では可変資本が大きいから剰余価値量も多く生産したとしても、総資本が小さいために、その可変資本に比して小さい利潤しか得られないのです。これが資本主義の現実なのです。マルクスは第3部第2篇「第8章 利潤率の相違」で次のように述べています。

  〈要するに、われわれは次のことを明らかにしたのである。産業部門が違えば、資本の有機的構成の相違に対応して、また前述の限界内では資本の回転期間の相違にも対応して、利潤率が違うということ。したがってまた、利潤は資本の大きさに比例し、したがって同じ大きさの資本は同じ期間には同じ大きさの利潤を生むという法則が(一般的な傾向から見て)妥当するのは、同じ剰余価値率のもとでは、ただ、諸資本の有機的構成が同じである場合――回転期間が同じであることを前提して――だけだということ。ここに述べたことは、一般にこれまでわれわれの論述の基礎だったこと、すなわち諸商品が価値どおりに売られるということを基礎として言えることである。他方、本質的でない偶然的な相殺される相違を別とすれば、産業部門の相違による平均利潤率の相違は現実には存在しないということ、そしてそれは資本主義的生産の全体制を廃止することなしには存在できないであろうということは、少しも疑う余地のないことである。だから、価値理論はここでは現実の運動と一致しないもの、生産の実際の現象と一致しないものであるかのように見え、したがってまた、およそこれらの現象を理解することは断念しなければならないかのように見えるのである。〉(全集第25a195頁)

    このようにマルクスは産業部門が異なり、だから有機的構成が違っても、平均利潤率には相違はないということは、〈資本主義的生産の全体制を廃止することなしには存在できないであろう〉と述べています。それは資本主義を前提するなら絶対的な現実としてあるのだということです。だから〈価値理論はここでは現実の運動と一致しないもの、生産の実際の現象と一致しないものであるかのように見え、したがってまた、およそこれらの現象を理解することは断念しなければならないかのように見える〉というのです。これは価値が生産価格に転化することを論じている第3部第2篇で問題にされていることですが、そうしたことを論じる前提として、ここで問題にされている第3の法則が関連しているということです。

  (ハ) しかし、この外観上の矛盾を解決するためにはさらに多くの説明が必要なのであって、ちょうど、0/0が一つの実数を表わしうることを理解するためには、初等代数学の立場からはさらに多くの数学的知識が必要なのと同じです。

    しかしマルクスはこれを〈外観上の矛盾〉と述べています。というのはそれは第3部では資本主義的生産の内在的な諸法則(価値の法則)が逆転して現れていることから生じていることだからです。だからそれらは必要な媒介項を経るなら、つまり『資本論』の第1部から第2部、そして第3部まで展開して、初めて説明可能なものになるのだということです。
    ここで〈ちょうど、0/0が一つの実数を表わしうることを理解するためには、初等代数学の立場からは多くの中間項が必要であるのと同じである〉という部分は果たしてどう理解したらよいのでしょうか。というのは、調べたところ、0/0は実数ではないという説明があるからです。例えば、AIに「0/0が実数であることを論証せよ」という質問を投げかけると〈0/0 は実数ではありません。実数は有理数と無理数の総称であり、0で割ることは定義されていません。この問題は数学的に未定義です。〉(Bing)とか〈数学的な観点から言えば、0/0は未定義です。割り算において分母がゼロである場合、通常その割り算は意味を持たず、未定義とされています。これは、0で割ることが数学的には意味を持たないためです。〉(CaatGPT)という回答が得られました。あるいはこれはAIが「初等代数学」のレベルだからかもしれませんが。
    マルクスは『61-63草稿』では「0/0」を次のように〈不合理な表現〉と述べています。

  質的には(量的には必ずしもそうでないとしても)価値としての表現であるにもかかわらず、価格は非合理的な表現にも、すなわち価値をもたない諸物象の貨幣表現にもなることができる。たとえば、誓言は価値をもつものでないにもかかわらず(経済学的に見ればここでは使用価値は問題にならない)、偽りの誓言が価格をもつことはありうる。というのは、貨幣は商品の交換価値の転化された形態にほかならず、交換価値として表示された交換価値にほかならないのではあるが、他面でそれは一定分量の商品(金、銀、あるいは金銀の代理物)なのであって、なにもかにもが、たとえば長子相続権と一皿の豆料理とが、互いに交換されうるのだからである。価格は、この点では、0/0などのよ/うな代数学における不合理な表現と同様の事情にある。〉(草稿集⑨397-3987頁)

    いずれにせよこの部分はこれ以上詮索する必要はないでしょう。
    もう一つ〈この外観上の矛盾を解決するためにはなお多くの中間項が必要なのであって〉という部分には、新日本新書版では次のような訳者注が付いています。

  〈この外観上の矛盾は、とくに本書、第3部、第2篇「利潤率の平均利潤への転化」で解決される〉(535頁)

  (ニ)(ホ)(ヘ) 古典派経済学はこの法則を定式化したことはなかったにもかかわらず、本能的にこの法則に執着するのです。それはこの法則が価値法則一般の一つの必然的な帰結だからです。古典派経済学は、むりやりの抽象によって、この法則を現象の諸矛盾から救おうとしています。リカード学派がどのようにしてこのじゃまな石につまずいたかは、のちに示されるでしょう。

    古典経済学は、この法則を定式化したことはなく、スミスの場合は外観は外観のままに、内在的な法則は内在なものとして、両方を並立させたり、あちらからこちらへと動揺していますが、リカードの場合は、内在的な法則(価値法則)を一貫させるために外観を無視しています。これについてはすでに何度か紹介しましたが、マルクスは『61-63草稿』でいろいろと書いています。すでに以前一度その一部を紹介した気がしますが、もう一度紹介しておきます(他に関連するものを付属資料に紹介しておきましたので、参照してください)。

  〈{先に見たように、A・スミスは、はじめに価値を、またこの価値の諸成分としての利潤や賃金などの関係を、正しく把握しながら、次に逆の方向に進んで、賃金と利潤と地代との価格を前提し、それらを独立に規定して、それらのものから商品の価格を構成しようとしている。こうして、この逆転の意味するところは、はじめに彼は事柄をその内的関連に従って把握し、次に、それが競争のなかで現われるとおりの転倒した形態で把握している、ということである。この両方の把握が、彼においては、素朴に交錯しており、その矛盾に彼は気づいていない。これに反して、リ力ードウは、法則をそのものとして把握するために、意識的に競争の形態を、競争の外観を、捨象している。彼が非難されるべきことは、一方では、彼の抽象がまだ十分であるにはほど遠く完全に十分ではない、ということである。したがって、たとえば彼は、商品の価値を理解する場合に、すでに早くもあらゆる種類の具体的な諸関係への考慮によって決定的な影響を受けることになっている。他方では、彼が非難されるべきことは、彼が現象形態を、直接にただちに、一般的な諸法則の証明または説明と解して、それをけっして展開していない、ということである。前者に関して言えば、彼の抽象はあまりにも不完全であり、後者に関して言えば、それは、それ自体まちがっている形式的な抽象である。}〉(草稿集⑥145頁)

    ここで〈このじゃまな石につまずいたか〉という部分は新日本新書版では〈つまずきの石〉とありますが、次のような訳者注が付いています。

  〈人間イエスの外観にもとづいて神の子キリストの真の姿を見抜けないというたとえ、旧約聖書、イザヤ書、8・14。新約聖書、ローマ、9・31-33、ペテロ第1、2・6-8〉(535頁)

  (ト)(チ) 「ほんとうは、なにもおぼえなかった」俗流経済学は、いつものようにここでも現象の法則を無視してその外観にしがみついています。それは、スピノザとは反対に、「無知は十分な根拠になる」と信じているのです。

    俗流経済学者たちはただ何時ものように、現象の背後になる法則を無視して、その外観にしがみついているだけです。『61-63草稿』ではこの問題における俗流経済学の立場について次のように述べています。

  〈俗流経済学者がやっているのは、実際には、競争にとらわれている資本家たちの奇妙な考えを外観上はもっと理論的な言葉に翻訳して、このような考えの正当性をでっちあげようと試みること以外のなにものでもないのである。〉(草稿集⑥同377頁)

    ここで〈「ほんとうは、なにもおぼえなかった〔100〕」〉という部分の注解は次のようなものです。

  〈(100) 「彼らはなにもおぼえなかったし、なにも忘れなかった」とは、1815年ブルボン王政が復活してからフランスに帰ってきた亡命貴族たちについてタレーランの言った言葉である。彼らは、自分の領地を取りもどして農民に再び封建的義務の負担を強制しようとしたのである。〉(全集第23a巻18頁)

    この部分の新日本新書版では次のような訳者注が付いています。

  〈フランス大革命後またはブルボン王政復古の亡命貴族について、政治家タレランが言ったとされる言葉。「彼らは30年このかたなにものも学ばず、なにものも忘れていない」(タレラン『失われた記録』、147ページ)から〉(535頁)
 
    また〈それは、スピノザとは反対に、「無知は十分な根拠になる〔101〕」と信じているのである〉というのは、彼らは外観にしがみついて、そうした外観をもたらしている内在的な法則をまったく省みないのですが、そうした科学的な立場を理解しないことを何か立派な経済学であるかに主張していることをこのように述べているのだと思います。

  〈「無知は十分な根拠になる〔101〕」〉という部分の全集版の注解は次のようなものです。

  〈(101) 「無知は十分な根拠になる」--スピノザはその著作『倫理学』第1部の付録のなかで、無知はけっして十分な根拠とはならないということについて述べたが、それは坊主的=神学的な自然観の代表者たちに反対して言ったのであって、彼らは「神の意志」がすべての現象の究極の原因であると主張したが、そのための彼らの唯一の論拠は、それ以外の原因はわからないということでしかなかったのである。〉(全集第23a巻18頁)

    この部分の新日本新書版の訳者注は次のようなものです。

  〈神の意志という以外に何事も説明できず、ひたすらそれを根拠に神学的立場を批判したスピノーザ『エチカ』、第1部、付録にちなむ。島中尚志訳、岩波文庫、上、82-92ページ〉(353頁)


◎原注203

【原注203】〈203 これについての詳細は『第4部』〔後の『剰余価値学説史』〕で述べる。〉(全集第23a巻404頁)

    これは〈リカード学派がどのようにしてこのじゃまな石につまずいたかは、のちに(203)示されるであろう。〉という本文に付けられた原注です。〈『第4部』〔後の『剰余価値学説史』〕〉とありますが、マルクス自身は『資本論』は第1部~第4部に分かれると考えていたのです。リカードのこの問題については草稿集⑥に詳しいです。付属資料ではその要点を少し紹介しました。抜粋ノートから最初に集めたものはもっと長かったのですが、長すぎるので半分以下に縮めました。だから〈どのようにしてこのじゃまな石につまずいたか〉を知りたいと思われる方は、草稿集を読むことをお勧めします。


◎第10パラグラフ(一社会の総資本によって毎日動かされる労働は、一つの単一労働日とみなすことができる。人口の増大が、社会的総資本による剰余価値の生産の数学的限界をなしている。)

【10】〈(イ)一社会の総資本によって毎日動かされる労働は、一つの単一労働日とみなすことができる。(ロ)たとえば、労働者の数が一百万で、労働者1人の平均労働日が10時間だとすれば、社会的労働日は一千万時間から成っていることになる。(ハ)この労働日の限界が肉体的に画されているにせよ社会的に画されているにせよ、その長さが与えられていれば、剰余価値の量は、ただ労働者数すなわち労働者人口の増加によってのみふやすことができる。(ニ)この場合には、人口の増大が、社会的総資本による剰余価値の生産の数学的限界をなしている。(ホ)逆に、人口の大きさが与えられていれば、この限界は労働日延長の可能性によって画される(204)。(ヘ)次章で示すように、この法則は、これまでに取り扱われた形態の剰余価値だけにあてはまるものである。〉(全集第23a巻404頁)

  (イ)(ロ) 一つの社会の総資本によって毎日動かされる労働は、一つの単一の労働日とみなすことができます。たとえば、労働者の数が百万人で、労働者1人の平均労働日が10時間だとしますと、社会の総労働日は千万時間から成っていることになります。

    ここでは一つの社会、あるいは一つの国における総労働日、あるいは総剰余価値の生産が問題になっています。
    一つの社会の総資本によって毎日動かされる労働は、一つの単一の労働日とみなすことができます。たとえば労働者数が100万人だと、労働者一人の平均労働日が10時間だと社会的労働日は1000万時間からなっているわけです。

  (ハ)(ニ) この労働日の限界が肉体的に画されているにせよ社会的に画されているにせよ、その長さが与えられていますと、剰余価値の量は、ただ労働者数すなわち労働者人口の増加によってのみふやすことができます。この場合には、人口の増大が、社会的総資本による剰余価値の生産の数学的限界をなしているわけです。

    この労働日の長さが決まっていますと、生産される剰余価値の量は、ただ労働者数、つまり労働者人口の増加によってのみ増やすことがきます。つまり人口の増大が、社会的総資本による生産される剰余価値総量の限界を画しているわけです。

  (ホ)(ヘ) 逆に、人口の大きさが与えられていますと、剰余価値の限界は労働日延長の可能性によって画されるのです。次章で示しますように、この法則は、これまでに取り扱われた形態の剰余価値(絶対的剰余価値)だけにあてはまるものです。

    反対に人口の大きさが与えられていますと、生産される剰余価値量は、労働日の延長が可能かどうかにかかっています。しかし、これらはこれまで取り扱ってきた形態、すなわち絶対的な剰余価値の生産にだけにあてはまるものです。次の相対的剰余価値の生産ではこうしたことは当てはまりません。


◎原注204

【原注204】〈204 「社会の労働すなわち経済的時間は、ある与えられた大きさのものであって、たとえば百万人で1日に10時間、すなわち一千万時間というようになる。……資本の増加には限界がある。この限界は、どんな与えられた時期にも、使用される経済的時間の現実の長さの範囲内にあるであろう。」(『諸国民の経済学に関する一論』、ロンドン、1821年、47、49べージ。)〉(全集第23a巻404頁)

    これは〈逆に、人口の大きさが与えられていれば、この限界は労働日延長の可能性によって画される(204)。〉という本文に付けられた原注です。
    これは匿名の著書からの引用ですが、みるとマルクスの本文とよく似た文言が見られます。この著書からは第6章の原注20でも引用されていましたが、『資本論草稿集』⑨にはこの著書からの引用が幾つか見られます。マルクスは〈著書『諸国民の経済学に関する一論』、ロンドン、1821年には二、三の非常にすぐれた独創的論点が含まれている〉(478頁)と述べて、幾つかの抜粋を行っていますが、そのなかに〈絶対的剰余労働相対的剰余価値〉とマルクス自身による表題が書かれた、今回の原注の一文が含まれる次のような引用文が抜粋されています。長くなりますが挿入されているマルクスのコメントも含めて紹介しておきましょう(下線はマルクスによる強調個所)。

  〈「労働、すなわち社会の経済的時間は、ある一定の部分であり、たとえば100万人の1日当り10時間、または1000万時間である。」(四七ページ。)
  「資本にはその増加の限界がある。この限界は、たとえ共同社会の生産諸力はまだ改善の余地があるとしても、どの一定の時期においても、使用される経済的時間の現実の長さによって、画されるであろう。社会は、労働量を拡大することによって、または労働をより効果的にすることによって、言い換えれば、人口、分業、機械、科学的知識を増加させることによって、〔生産諸力を〕増大させることができる。」(49ページ。)「もし資本が、活動中の労働によって与えられた等価物または価値しか受け取ることができないとすれば(したがって経済的時間すなわち労働日が与えられているとすれば)、もしこのことが資本の限界であり、そのときどきにおいて現存する社会状態ではそれを/乗り越えることは不可能であるとすれば、賃金に割り当てられるものが大きければ大きいほど、利潤はそれだけ小さくなる。このことは一般的原理であるが、個々の場合において生じるのではない。なぜなら、個々の場合における賃金の増加は、普通、特定の需要の結果であり、この需要は、他の諸商品およびそれらの利潤との関係で価値の増加をもたらすのがつねだからである。」(49ページ。){利潤--および剰余価値率でさえも--は、ある個別の部門では、一般的水準を超えて上昇することがありうる。とはいっても、それと同時に賃金も、この部門では一般的水準を超えて上昇するのであるが。しかし資本家が、商品にたいする需要が平均を超えるのと同じだけの賃金を支払うならば(利潤を規定する他の諸事情を別にすれば)、資本家の利潤は増えないであろう。一般に、個別の部門における一般的水準を超える賃金および利潤の騰落は、一般的関係とはなんの関係もない。}〉(草稿集⑨479-480頁)


◎第11パラグラフ(剰余価値の生産のためにはある貨幣または交換価値の一定の最小限が前提されている)

【11】〈(イ)剰余価値の生産についてのこれまでの考察から明らかなように、どんな任意の貨幣額または価値額でも資本に転化できるのではなく、この転化には、むしろ、1人の貨幣所持者または商品所持者の手にある貨幣または交換価値/の一定の最小限が前提されているのである。(ロ)可変資本の最小限は、1年じゅう毎日剰余価値の獲得のために使われる1個の労働力の費用価格である。(ハ)この労働者が彼自身の生産手段をもっていて、労働者として暮らすことに甘んずるとすれば、彼にとっては、彼の生活手段の再生産に必要な労働時間、たとえば毎日8時間の労働時間で十分であろう。(ニ)したがって、彼に必要な生産手段も8労働時間分だけでよいであろう。(ホ)これに反して、この8時間のほかにたとえば4時間の剰余労働を彼にさせる資本家は、追加生産手段を手に入れるための追加貨幣額を必要とする。(ヘ)しかし、われわれの仮定のもとでは、この資本家は、毎日取得する剰余価値で労働者と同じに暮らすことができるためにも、すなわち彼のどうしても必要な諸欲望をみたすことができるためにも、すでに2人の労働者を使用しなければならないであろう。(ト)この場合には、彼の生産の目的は単なる生活の維持で、富の増加ではないであろうが、このあとのほうのことこそが資本主義的生産では前提されているのである。(チ)彼が普通の労働者のたった2倍だけ豊かに生活し、また生産される剰余価値の半分を資本に再転化させようとすれば、彼は労働者数とともに前貸資本の最小限を8倍にふやさなければならないであろう。(リ)もちろん、彼自身が彼の労働者と同じように生産過程で直接に手をくだすこともできるが、その場合には、彼はただ資本家と労働者とのあいだの中間物、「小親方」でしかない。(ヌ)資本主義的生産のある程度の高さは、資本家が資本家として、すなわち人格化された資本として機能する全時間を、他人の労働の取得、したがってまたその監督のために、またこの労働の生産物の販売のために、使用できるということを条件とする(205)。(ル)手工業親方が資本家になることを、中世の同職組合制度は、1人の親方が使用してもよい労働者数の最大限を非常に小さく制限することによって、強圧的に阻止しようとした。(ヲ)貨幣または商品の所持者は、生産のために前貸しされる最小額が中世的最大限をはるかに越えるときに、はじめて現実に資本家になるのである。(ワ)ここでも、自然科学におけると同様に、へーゲルがその論理学のなかで明らかにしているこの法則、すなわち、単なる量的な変化がある点で質的な相違に一変するという法則の正しいことが証明されるのである(205a)。〉(全集第23a巻404-405頁)

  (イ) 剰余価値の生産についてのこれまでの考察から明らかですが、どんな任意の貨幣額または価値額でも資本に転化できるわけではありません。この転化のためには、1人の貨幣所持者または商品所持者の手にある貨幣または交換価値の一定の最小限が前提されているのです。

    剰余価値を生産し資本家になるためには、わずかの貨幣しか持っていない人でもなれるわけではありません(もっとも信用制度が発展すればこの限りではありませんが)。剰余価値を生産するためは、貨幣または交換価値の一定の最小限が前提されているのです。

  (ロ) 可変資本の最小限は、1年じゅう毎日剰余価値の獲得のために使われる1個の労働力の費用価格です。

    可変資本の最低限を考えますと、それは1年中毎日剰余価値の獲得のために使われる労働力の費用価格(賃金額)です。

  (ハ)(ニ)  もしこの労働者が自分自身の生産手段をもっていて、労働者として暮らすことに甘んずるとしますと、彼にとっては、彼の生活手段の再生産に必要な労働時間、たとえば毎日8時間の労働時間で十分でしょう。だから、彼に必要な生産手段も8労働時間分だけでよいことになります。

    もし労働者が生産手段をもっていて、ただ自分のためにだけに、自分が生活できるだけ生産するとしますと、彼は、ただ生活手段の再生産に必要な労働時間、例えば毎日8時間で十分でしょう。必要な生産手段も8労働時間分でよいことになります。(もっともこの生産手段も再生産される必要があり、そのための時間も必要ですが、なぜか、マルクスはここではそれを問うていません。)

  (ホ)(ヘ)(ト) これに反して、この8時間のほかにたとえば4時間の剰余労働を彼にさせる資本家は、追加生産手段を手に入れるための追加貨幣額を必要とします。しかし、私たちの仮定のもとでは、この資本家は、毎日取得する剰余価値で労働者と同じに暮らすことができるためにも、すなわち彼のどうしても必要な諸欲望をみたすことができるためにも、すでに2人の労働者を使用しなければならないでしょう。しかしこの場合、彼の生産の目的は単なる生活の維持で、富の増加ではないでしょうが、このあとのほう、つまり富の増加こそが資本主義的生産では前提されているのです。

    ここに資本家が登場し、労働者に4時間の剰余労働を強制するしますと、当然、資本家はその分の追加的生産手段を準備しなければなりません(もっともその時点では、剰余労働だけではなく必要労働が対象化される生産手段も資本家が準備しなければならないのですが)。ただ今の時点では、資本家は労働者と同じ程度に暮らせばよいと考えたとします。つまり彼が生活するために必要な生活手段を生産するための労働時間は8時間と仮定しますと、彼は彼の生活を維持していくためには、8時間分の剰余労働を労働者から引きだす必要があり、だから少なくとも2人の労働者を雇う必要があります(だから24時間分の生産手段を資本家は準備する必要があるわけです)。
    しかしこの場合は、資本家の目的は、ただ自分の生活を維持するだけであり、資本家の本来の目的である富の増加は見込めません。しかし資本主義的生産というのは富の増加をこそ目的にしているのです。

  (チ) 彼が資本家として普通の労働者のたった2倍だけ豊かに生活し、また生産される剰余価値の半分を資本に再転化させようとしますと、彼は労働者数とともに前貸資本の最小限を8倍にふやさなければならないでしょう。

    そこで今度は資本家は労働者より2倍だけ豊かに生活し、生産される剰余価値の半分を資本に再転化するとしますと、まず2倍の豊かな生活のために必要な生活手段の生産には16時間が必要です。さらにそれと同じだけの剰余価値を蓄積に回そうとするのですから、彼は全部で32時間の剰余労働を労働者から引きださねばならないわけです。だから32÷4=8、つまり8人の労働者を雇うために前貸し可変資本の最小限を8倍に増やす必要があります。そしてそれに応じて生産手段(不変資本)も8倍に増やす必要があるでしょう。

  (リ) もちろん、彼自身が彼の労働者と同じように生産過程で直接に手をくだすこともできますが、しかしその場合には、彼はただ資本家と労働者とのあいだの中間物、「小親方」でしかないことになります。

    これらは資本家が資本家として何の仕事もせずにただ剰余価値を引きだすだけと前提しているのですが、もちろん、資本家も自分も労働者と一緒に働く事は可能です。しかしそうたした場合は、彼はまだ資本家とはいえず、資本家と労働者との中間物、「小親方」でしかありません。これは資本主義的生産様式以前の手工業的生産の段階を意味します。

  (ヌ) 資本主義的生産のある程度の高さは、資本家が資本家として、すなわち人格化された資本として機能する全時間を、他人の労働の取得、したがってまたその監督のために、またこの労働の生産物の販売のために、使用できるということを条件としています。

    だから資本家が資本家として、つまり人格化された資本として機能するためには、資本主義的生産のある程度の高さを前提とするのです。そうすれば彼は、ただ剰余価値を労働者から引きだすために、労働者を監督・統制するとか、労働者が生産した生産物の販売のために、自分の労働力を使うことになるでしょう。

  (ル)(ヲ) 手工業親方が資本家になることを、中世の同職組合制度は、1人の親方が使用してもよい労働者数の最大限を非常に小さく制限することによって、強圧的に阻止しようとしました。貨幣または商品の所持者は、生産のために前貸しされる最小額が中世的最大限をはるかに越えるときに、はじめて現実に資本家になるのです。

    手工業親方が資本家になることを阻止するために、中世の同職組合制度は、1人の親方が使用する労働者(徒弟)の数の最大限を非常に小さく制限していました。『61-63草稿』では次のように述べています。

  〈同職組合や中世的な労働組織の側からの禁止令であって、まさに二人といないすぐれた親方といえども〔きめられた〕最大数をこえる労働者の使用を禁じられ、親方でない、ただの商人にいたってはそもそも労働者の使用自体を禁じられていたのである。〉(草稿集⑨253頁)

    だから貨幣または商品の所持者が資本家になるためには、この中世的な最小限を最大限に拡大して、それをはるかに越えるときに、初めて現実に資本家になりえたのです。

  (ワ) ここでも、自然科学におけると同じように、へーゲルがその論理学のなかで明らかにしている法則、すなわち、単なる量的な変化がある点で質的な相違に一変するという法則の正しいことが証明されているのです。

    だからここでも、自然科学とおなじように、ヘーゲルの論理学が明らかにしている法則、つまり単なる量的な変化がある点で質的な相違に一変するという法則が正しいことを証明しているのです。

    新日本新書版では〈へーゲルがその論理学のなかで明らかにしているこの法則〉という部分に次のような訳者注が付いています。

   〈マルクスが言っているのは、ヘーゲル『大論理学』、第1巻、第3編、B「限度関係の節線」の法則。なお『小論理学』、第1部、C「限度」参照。ヘーゲルによれば、「この量的要素の変化のなかに、質を変化させ、定量の特殊化的なものとして示す変化の一点が現れ、その結果、変化させられた量的関係が、一つの限度、したがって一つの新しい質、新しいあるものに転化する。……その推移は一つの飛躍……量的変化から質的変化への飛躍である」(武市健人訳『大論理学』、上巻の2、『ヘーゲル全集』6b、岩波書店、263-264ページ)。ヘーゲルはその例として、水の温度の増減がある一点に達すると、突然に、一方では水蒸気に、他方では氷に変わるなどをあげ、この一点を「節線」と呼んでいる(武市訳、同前、266ページ。松村一人訳『小論理学』、岩波文庫、上、326-329ページ)〉(539頁)

    ヘーゲルの説明としてはこの訳者注で十分だと思いますので、エンゲルスの『自然弁証法』から紹介しておきましょう。

  〈したがって自然および人間社会の歴史からこそ、弁証法の諸法則は抽出されるのである。これらの法則は、まさにこれら二つの局面での歴史的発展ならびに思考そのものの最も一般的な法則にほかならない。しかもそれらはだいたいにおいて三つの法則に帰着する。すなわち、
 量から質への転化、またその逆の転化の法則、
 対立物の相互浸透の法則、
 否定の否定の法則。
 これら三法則はすべて、ヘーゲルによって彼の観念論的な流儀にしたがってたんなる #思考# 法則として展開されている。すなわち第一の法則は『論理学』の第一部、存在論のなかにあり、第二の法則は彼の『論理学』のとりわけ最も重要な第二部、本質論の全体を占めており、最後に第三の法則は全体系の構築のための根本法則としての役割を演じている。誤謬は、これらの法則が思考法則として自然と歴史とに天下り的に押しつけられていて、自然と歴史とからみちびきだされてはいないという点にある。そしてここからあの無理にこしらえあげられ、しばしば身の毛もよだつものとなっている構成の全体が生じてきている。すなわちそこでは、世界は、好むと否とにかかわらず、ある思想体系――じつはそれ自体がやはり人間の思考のある特定の段階の産物でしかないところの、――に合致していなければならないのである。われわれがもし事柄をひっくりかえしてみるならば、すべては簡単になり、観念論的哲学ではことのほか神秘的に見えるあの弁証法の諸法則はたちどころに簡単明瞭となるのである。……〉(全集第20巻379頁)

   さらに興味のある方は付属資料を参照してください。


◎原注205

【原注205】〈205 (イ)「農業家は彼自身の労働にたよってはならない。もしそれをするならば、彼はそれで損をする、と私は言いたい。彼の仕事は、全体にたいする一般的な注意であるべきである。彼の打穀夫は監視されなければならない。そうでないと、やがて彼は打穀されないぶんだけ賃金を損するであろう。彼の草刈夫や刈入夫なども監督されなければならない。彼は絶えず彼の柵の周囲を回り歩かなければならない。彼はなにかなおざりにされてはいないか調べてみなければならない。そういうことは、もし彼が一つところに閉じこもっていれば、起きるであろう。」(〔J・アーバスノト〕『食糧の現在価格と農場規模との関連の研究。一農業家著』、ロンドン、1773年、12ページ。)(ロ)この本は非常におもしろい。(ハ)この本のなかでは、“capitalist farmer"〔資本家的農業者〕または“merchant farmer"〔商人的農業者〕という言葉で呼ばれるものの発生史を研究することができるし、生計維持を主とする“small farmer"〔小農業者〕と比べての彼の自已賛美を聞くことができる。(ニ)「資本家階級は、最初は部分的に、ついには完全に、手の労働の必要から解放される。」(『国民経済学教科書』、リチャード・ジョーンズ師著、ハートフォード、1852年、第3講、39ページ。〔大野訳『政治経済学講義』、72ページ。〕)〉(全集第23a巻406頁)

 これは〈資本主義的生産のある程度の高さは、資本家が資本家として、すなわち人格化された資本として機能する全時間を、他人の労働の取得、したがってまたその監督のために、またこの労働の生産物の販売のために、使用できるということを条件とする(205)。〉という本文に付けられた原注です。二つの著書からの引用があり、そのあいだにマルクスのコメントが入っています。とりあえず、文節ごとに検討することにしましょう。

   (イ) 「農業家は彼自身の労働にたよってはならない。もしそれをするならば、彼はそれで損をする、と私は言いたい。彼の仕事は、全体にたいする一般的な注意であるべきである。彼の打穀夫は監視されなければならない。そうでないと、やがて彼は打穀されないぶんだけ賃金を損するであろう。彼の草刈夫や刈入夫なども監督されなければならない。彼は絶えず彼の柵の周囲を回り歩かなければならない。彼はなにかなおざりにされてはいないか調べてみなければならない。そういうことは、もし彼が一つところに閉じこもっていれば、起きるであろう。」(〔J・アーバスノト〕『食糧の現在価格と農場規模との関連の研究。一農業家著』、ロンドン、1773年、12ページ。)

    これは農業家(資本家)の本来の役目は、自分も労働することではなく、全体にたいする一般的な注意や監視をすべきだと述べていることから引用されているようです。

    マルクスはJ・アーバスノトを〈大借地農業の狂信的な擁護者である。〉(全集第23b巻944頁)と述べています。これ以外にもいくつかの引用を行っています。

  (ロ)(ハ) この本は非常におもしろいです。この本のなかでは、“capitalist farmer"〔資本家的農業者〕または“merchant farmer"〔商人的農業者〕という言葉で呼ばれるものの発生史を研究することができます。また、生計維持を主とする“small farmer"〔小農業者〕と比べての彼、つまり資本家的農業者の自已賛美を聞くことができるからです。

    このアーバストの本は、資本家的農業者を擁護する主張が展開されているようです。これ以外のいくつかの原注での引用でも問題にしているものは異なりますが、同じような論旨が見られます。

   (ニ) 「資本家階級は、最初は部分的に、ついには完全に、手の労働の必要から解放される。」(『国民経済学教科書』、リチャード・ジョーンズ師著、ハートフォード、1852年、第3講、39ページ。〔大野訳『政治経済学講義』、72ページ。〕)

    ジョーンズもマルクスはいろいろなところで引用していますが(特に地代に関するものが多い)、ここでは資本家は手の労働から解放されることを指摘しているものです。

 ((4)に続く。)

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(4)

2024-03-14 16:09:10 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(4)


◎原注205a

【原注205a】〈205a (イ)近代化学で応用され、ロランとジェラールとによってはじめて科学的に展開された分子説は、この法則にもとづくものにほかならない。{第三版への補足。}--(ロ)化学者でない人にとってはあまり明瞭でないこの注の説明のために、次のことを一言しておく。(ハ)著者がここで言っているのは、1843年にC・ジェラールによってはじめてそう名づけられた炭水素化合物の「同族列」のことであって、それらはそれぞれ特有の代数的構造式をもっている。(ニ)たとえば、パラフィン列は CnH2n+2 であり、標準アルコール列は CaH2n+2O であり、標準脂肪酸列は CnH2nO2 である、等々。(ホ)これらの例では、分子式に CH2 を単に量的に追加することによって、そのつど一つの質的に違った物体が形成される。(ヘ)これらの重要な事実の確定におけるロランとジェラールとの関与、このマルクスによって過大評価された関与については、コップ『化学の発達』、ミュンヘン、1873年、709、716ページ、およびショルレンマー『有機化学の成立と発達』、ロンドン、1879年、54ページを参照せよ。--F・エンゲルス〉(全集第23a巻406頁)

  (イ) 近代化学で応用され、ロランとジェラールとによってはじめて科学的に展開された分子説は、この法則にもとづくものにほかなりません。

    これは〈ここでも、自然科学におけると同様に、へーゲルがその論理学のなかで明らかにしているこの法則、すなわち、単なる量的な変化がある点で質的な相違に一変するという法則の正しいことが証明されるのである(205a)。〉という本文に付けられた原注です。初版やフランス語版はこの冒頭の部分だけが原注になっています。そのあとは〈{第三版への補足。}〉とありますように、第三版の編集のときにエンゲルスによって加えられたものです。ロランとジェラールについては人名索引から紹介しておきましょう(ただしあまりにも簡単すぎるので、ウィキペディアで調べたものもつけ加えておきます)。

  ロラン,オーギュストLaurent,Auguste(1807-1853)フランスの化学者.〉(全集第23b巻91頁)〈ローランは、有機化学反応においてどのように分子が結合するかを明らかにするために、分子中の原子の構造グループに基づいた有機化学における系統的命名法を考案した。さらに、電気化学的二元論では説明が困難であった置換反応を説明するために核の説を提唱したが、エテリン説を唱えるデュマの反発を買った結果、事実上フランスの化学界から排斥された上、結核に罹って夭折した。〉
  ジェラール,シャルルーフレデリクGerhardt,Charles-Frederic(1816-1856)ブランスの化学者.〉(全集第23b巻70頁)〈1843年に相同列(同族列)の概念に基づいた分子式に基づく化合物分類を提唱した。また残余の理論にもとづくとイェンス・ベルセリウスによる原子量・分子量の決定法に問題があることを示した。これはアボガドロの仮説の妥当性を示す第一歩となった。またこの年にオーギュスト・ローランと政治活動を通じて知り合い親交を結んだ。ローランは分子式に基づく分類を化合物の性質に関する情報を何も与えていないとして批判した。その後のジェラールの研究はローランからの批評に大きく影響されている。また分子式に基づく化合物分類の発表は師であるデュマとの間にプライオリティについての争いを引き起こした。ジェラールは年長者への敬意を欠いて自分の方が優れていると主張し、また批判が容赦ないものであったため、不遇な扱いを受けることになっていく。〉

  (ロ)(ハ)(ニ)(ホ) 化学者でない人にとってはあまり明瞭でないこの注の説明のために、次のことを一言しておきます。著者がここで言っているのは、1843年にC・ジェラールによってはじめてそう名づけられた炭水素化合物の「同族列」のことです。それらはそれぞれ特有の代数的構造式をもっています。たとえば、パラフィン列は CnH2n+2 であり、標準アルコール列は CaH2n+2O であり、標準脂肪酸列は CnH2nO2 である、等々。これらの例では、分子式に CH2 を単に量的に追加することによって、そのつど一つの質的に違った物体が形成されるのです。

    この問題についてはすでに第11パラグラフの付属資料として紹介したエンゲルスの『自然弁証法』に詳しいです。関連する部分だけ引用しておきましょう。

   〈このようなことは炭素化合物の同族列、とくに比較的簡単な炭化水素の同族列ではなおいっそう適切なものとして現われてくる。正パラフィン系のうちの最低位のものはメタン CH4 である。この場合には炭素原子の四個の結合単位は四個の水素原子で飽和している。第二番目のエタン C2H6 はたがいに結合した二個の炭素原子をもち、遊んでいる六個の結合単位は六個の水素原子で飽和している。このようにして公式 CnH2n+2 にしたがって C3H8,C4H10 等々とすすみ、CH2 が付加されるごとにそのまえのものとは質的に異なる物質が形成されてゆく。この系列の最低位の三つの成員は気体であり、既知の最高位のもの、ヘキサデカン C16H34 は沸点が摂氏二七八度の固体である。パラフィン系からみちびきだされる(理論的に)公式 CnH2n+2O の第一アルコールの系列と、一塩基脂肪酸(公式 CnH2nO2 )についても事情はまったく同じである。C3H6 の量的付加がいかなる質的区別をもたらしうるかは、どうにか飲めるかたちにしたエチルアルコール C2H6O を他のアルコール類と混ぜないで飲んだ場合と、同じエチルアルコールを飲むにしても、こんどは悪名高いフーゼル油の主成分をなすアミールアルコール C5H12O を少量つけくわえておいた場合の、二つの場合の経験が教えてくれるだろう。われわれの頭は翌朝には確実に、しかも頭痛とともに、これをさとることだろう。だから酔いとその後の二日酔いとは、一方はエチルアルコールの、他方はこれにつけくわえられた C3H6 の、ともに同じく質に転化された量だとさえいえるのである。〉(全集第20巻383頁)

  (ヘ) これらの重要な事実の確定におけるロランとジェラールとの関与、このマルクスによって過大評価された関与については、コップ『化学の発達』、ミュンヘン、1873年、709、716ページ、およびショルレンマー『有機化学の成立と発達』、ロンドン、1879年、54ページを参照してください。

    ただエンゲルスはこうした有機化合物の重要な事実の確定にロランとジェラールの関与についてのマルクスの評価は〈過大評価〉だと考えているようです。エンゲルスがここで参照するようにと上げている文献については直接当たることはできません。ただ文献索引と人名索引から調べたものを掲げておきます(ウィキペディアの説明の一部も紹介しておきます)。ショルレンマーについてはマルクス・エンゲルスとも友人関係にあったということですから、全集の人名索引を調べるといろいろなところで言及されています(特に往復書簡)。エンゲルスは「カール・ショルレンマー」という表題の追悼文を『フォールヴェルツ』(1892年7月3日付)に書いています(全集第22巻317-320頁)、また先に紹介したエンゲルスの『自然弁証法』には、次のような一文もありました。

  〈しかし最後にこのヘーゲルの法則は化合物だけではなく、化学的元素そのものにたいしてもなりたつのである。われわれは今日、
  「元素の化学的性質は原子量の周期関数であること」(ロスコー=ショルレンマー『詳解化学教程三第二巻、八二三ページ)、
  したがってその質が原子量という量によって条件づけられていることを知っている。そしてこのことの検証はみごとになしとげられた。メンデレーエフが立証したように、原子量の順に配列された親縁な元素の系列中にはさまざまな空位があり、それらはその箇所になお新元素が発見されるべきことを示唆するものである。これらの未知の元素の一つで、アルミニウムにはじまる系列中でアルミニウムの次にあるところからエカアルミニウムと彼が命名した元素について、彼はその一般的な化学的性質をまえもって記述し、おおよそその比重と原子量および原子容を予言しておいた。数年後ルコック・ド・ボアボドランはこの元素を実際に発見したが、メンデレーエフが予想していたことはごくわずかのずれを除いては的中した。エカアルミニウムはガリウムとして実在のものとなった(48)(前掲書、八二八ページ)。量の質への転化についてのヘーゲルの法則の--無意識的な--適用によって、メンデレーエフは、未知の惑星、海王星の軌道の計算におけるルヴェリエの業績(49)に堂々と比肩しうるほどの科学的偉業をなしとげたのである。〉(全集第20巻384頁)

  コップ,ヘルマン『化学の発達』所収:『ドイツにおける科学史.近代』,第10巻,第3篇,ミュンヘン,1873年〉(全集第23b巻13頁)〈コップ,ヘルマン・フランツ・モーリッツ KoPP,Hermann Franz Moritz(1817-1892)ドイツの化学者.化学史に関する著述あり.〉(全集第23b巻68頁)〈彼が注目したもう1つの質問は、化合物、特に有機の沸点とその組成との関係でした。これらや他の骨の折れる研究に加えて、コップは多作の作家でした。1843年から1847年に、彼は包括的な化学の歴史を4巻で出版し、1869年から1875年に3つの補足が追加されました。最近の化学の発展は1871年から1874年に登場し、1886年に彼は古代と現代の錬金術に関する2巻の作品を出版しました。〉
  ショルレンマー,カール『有機化学の成立と発達』,ロソドン,1879年〉(全集第23b巻17頁)〈ショルレンマー,カールSchorlemmer,Car1(1834-1892)ドイツ生まれの化学者,マンチェスターの教授,ドイツ社会民主党員,マルクスとエンゲルスとの親友.〉(全集第23b巻71頁)(ウィキペディアには掲載なし)


◎第12パラグラフ(1人の貨幣所持者または商品所持者が資本家に成熟するために処分することができなければならない価値額の最小限は、資本主義的生産の発展段階が違えばそれによって違っており、また、与えられた発展段階にあっても、生産部面が違えばその部面の特殊な技術的諸条件にしたがって違っている。)

【12】〈(イ)1人の貨幣所持者または商品所持者が資本家に成熟するために処分することができなければならない価値額の最小限は、資本主義的生産の発展段階が違えばそれによって違っており、また、与えられた発展段階にあっても、生/産部面が違えばその部面の特殊な技術的諸条件にしたがって違っている。(ロ)ある種の生産部面は、すでに資本主義的生産の発端から、個々の個人の手のなかにはまだないような資本の最小限を必要とする。(ハ)このことは、コルベール時代のフランスでのように、またわれわれの時代に至るまでいくつかのドイツ諸邦で見られるように、このような私人にたいする国家の補助金の誘因となることもあれば、あるいは、ある種の産業部門や商業部門の経営について法律上の独占権をもつ会社(206)--近代的株式会社の先駆--の形成を促すこともある。〉(全集第23a巻406-407頁)

  (イ) 1人の貨幣所持者または商品所持者が資本家に成熟するために処分することができなければならない価値額の最小限は、資本主義的生産の発展段階が違えばそれによって違っていますし、また、与えられた発展段階にあっても、生産部面が違えばその部面の特殊な技術的諸条件にしたがってまた違っています。

    前パラグラフでは剰余価値の生産のためには貨幣または交換価値の一定の最小限があることが明らかにされました。つまり一人の貨幣所持者が資本家になるためには、自由に処分可能な貨幣額の最小限があるということでした。この最小限は、資本主義的生産の発展段階が異なればそれによって違ってきますし、同じ発展段階でも、先に見ましたよう、紡績業と製パン業とでは資本の構成が異なるのと同じように、生産部面が異なればそれぞれの特殊な技術的条件によって資本の最小限が違ってきます。

  (ロ)(ハ) ある種の生産部面は、すでに資本主義的生産の発端から、個々の個人の手のなかにはまだないような資本の最小限を必要とすることがあります。このことは、コルベール時代のフランスでのように、またわたしたちの時代に至るまでのいくつかのドイツ諸邦で見られましたように、このような私人にたいする国家の補助金の誘因となることもありますし、あるいは、ある種の産業部門や商業部門の経営について法律上の独占権をもつ会社--近代的株式会社の先駆--の形成を促すこともあります。

    産業部面が異なれば、必要な資本の最小限が違う一つの典型的なものとして、例えばオランダやイギリスなどの東インド会社などのように、資本主義的生産の発端から、その必要最小限が一人の私人によってまかないきれないものが必要となり、だから国家が主導し、その補助金や法的に独占権をもつ会社--近代の株式会社の先駆--の形成を促すこともあるということです。

    ここで〈コルベール時代のフランス〉とありますが、ネットでいろいと調べましたら、ジャン=パティスト・コルベール(Jean Baptiste Colbert, 1619-1683)は、ルイ14世治下のフランスの財務総監で、絶対王政の財源を支えるために、典型的な重商主義政策を実施。この次期のフランス重商主義は、彼の名をとって、コルベール主義と呼ばれることが多い、ということです。次のような説明もありました。

  〈コルベールは、先進国イギリス、オランダに対抗してフランスを貿易大国に育成し、貿易差額によって国富(金銀)を増大することを目ざし、絶対王制期の重商主義の典型とされるコルベルティスムColbertisme体系を築き上げた。彼の構想では、国際商業戦争に勝つためには、輸出向け戦略商品(とくに毛織物)を安価かつ大量に生産することが必要であった。そこで、穀物価格(食糧費)の引下げ政策によって工業生産者の工賃の低下を図り、また織物を輸出適格商品にするため綿密な工業規制règlementsを生産者に強制した。同時に、全国の都市、農村の生産者にギルド組織への加入を義務づけ、そうした工業規制の徹底化と、製品の指定輸出商への強制集中を図った。他方、王立または国王特許による特権マニュファクチュア(作業場)を各地に設けて、毛織物のほか奢侈(しゃし)品(ゴブラン織など)、ガラスなどを生産させた。こうした工業育成策を基に、徹底した保護貿易政策をとり、輸出を奨励すると同時に、輸入製品には禁止的保護関税をかけた。また、東・西インド会社、レバント会社などを設立または発展させ、海軍・海運を育成して海外経営に乗り出し、ついにオランダとの戦争(1672~1678)に突入して、フランシュ・コンテやフランドル(毛織物地帯)諸都市を獲得した。〉(日本大百科全書(ニッポニカ) の解説)

  〈近代的株式会社の先駆〉としての独占会社については本源的蓄積の部分でもマルクスは次のように触れています。

  〈植民制度は商業や航海を温室的に育成した。「独占会社」(ルター)は資本蓄積の強力な槓杆だった。〉(全集23b983頁)


◎原注206

【原注206】〈206 この種の施設をマルティーン・ルターは“Die Gesellschaft Monopolia"〔独占会社〕と呼んでいる。〉(全集第23a巻407頁)

    これは〈ある種の産業部門や商業部門の経営について法律上の独占権をもつ会社(206)〉という本文に付けられた原注です。こうした法的独占権をもつ会社のことをルターは「独占会社」と呼んでいるということです。
    新日本新書版には〈〔独占会社〕〉という部分に次のような訳者注が付いています。

  〈ルター『商取引と高利について』、ヴィッテンベルク、1524年(ヴァイマール版、第15巻、312ページ)。松田智雄・魚住昌良訳、『ルター著作集。第1集』第5巻、聖文舎、526ページ。ルターはこれらの説教で、国会の独占禁止決議にもかかわらず野放しになっている「独占商会」に激しく反対している〉(540頁)

 草稿集⑦には最後の方にルターからの長い抜粋がありますが、主に高利貸に対する批判であって、独占会社に対するものは見あたりませんでした。


  ---------------------------------


◎第13パラグラフ(ここでは、わずかばかりの要点だけを強調しておく)

【13】〈(イ)われわれは、資本家と賃金労働者との関係が生産過程の経過中に受けた諸変化の詳細には、したがってまた資本そのもののさらに進んだ諸規定にも、かかわらないことにする。(ロ)ただ、わずかばかりの要点だけをここで強調しておきたい。〉(全集第23a巻407頁)

  (イ)(ロ) わたしたちは、資本家と賃金労働者との関係が生産過程の経過中に受けた諸変化の詳細には、したがってまた資本そのもののさらに進んだ諸規定にも、かかわらないことにします。ただ、わずかばかりの要点だけをここで強調しておきます。

    このパラグラフの前には横線があり、問題がここから変わっていることを示しています(初版にはこうした横線はありません)。つまりここから第9章が第3篇から第4篇へ移行するために第3篇のまとめをやっていると考えることができます。ただこの冒頭のパラグラフそのものはフランス語版では削除されています。
    このパラグラフでは、資本家と賃労働者との関係の変化の詳細や、資本そのもののさらに進んだ諸規定については問題にせず、わずかな要点をのべるだけだという断りが述べられているだけです。つまりこれまで展開してきたものをここで繰り返す愚は避けるということでしょうか。


◎第14パラグラフ(生産過程のなかでは資本は労働にたいする指揮権にまで発展した)

【14】〈(イ)生産過程のなかでは資本は労働にたいする、すなわち活動しつつある労働力または労働者そのものにたいする指揮権にまで発展した。(ロ)人格化された資本、資本家は、労働者が自分の仕事を秩序正しく十分な強度で行なうように気をつけるのである。〉(全集第23a巻407頁)

  (イ)(ロ) 生産過程のなかでは資本は労働にたいする、すなわち活動しつつある労働力または労働者そのものにたいする指揮権にまで発展しました。人格化された資本、つまり資本家は、労働者が自分の仕事を秩序正しく十分な強度で行なうように気をつけるのです。

    それほど違いはありませんが、フランス語版の方がすっきり書かれているように思えますので、最初に紹介しておきましょう。

  〈われわれがすでに見たように、資本は労働の主人公になる。すなわち、運動中の労働力または労働者自身を、資本の法則のもとに服従させることに成功する。資本家は、労働者が自分の仕事を念入りにまた必要な強度で遂行するように監視する。〉(江夏・上杉訳320頁)

    これまでの展開で示されましたように、資本は生産過程にある労働者を管理し、指揮する役割を担う存在になりました。資本は人格化された資本として労働者から剰余労働を最大限絞り出すために、労働が秩序ただしく無駄なく十分な強度でなされているかを始終気をつけているわけです。
    絶対的剰余価値の生産では、資本はいまだ労働を形態的に包摂する(形式的に資本関係のなかに取り込んだだけ)にすぎないのですが、しかしそれでも資本は剰余労働を強制的に奪取するために労働者を指揮・監督する役割を担うようになったわけです。


◎第15パラグラフ(資本は、さらに剰余労働を強制する関係としては、以前の直接的強制労働にもとづく生産体制をも凌駕するようになる)

【15】〈(イ)資本は、さらに、労働者階級に自分の生活上の諸欲望の狭い範囲が命ずるよりも多くの労働を行なうことを強要する一つの強制関係にまで発展した。(ロ)そして、他人の勤勉の生産者として、剰余労働の汲出者および労働力の搾取者として、資本は、エネルギーと無限度と効果とにおいていっさいのそれ以前の直接的強制労働にもとつく生産体制を凌駕しているのである。〉(全集第23a巻407頁)

  (イ)(ロ) 資本は、さらに、労働者階級に自分の生活上の諸欲望の狭い範囲が命ずるよりも多くの労働を行なうことを強要する一つの強制関係にまで発展しました。そして、他人の勤勉の生産者として、剰余労働を汲み出す人、すなわち労働力の搾取者として、資本は、そのためのエネルギーと無制限とその効果とにおいて、いっさいのそれ以前の直接的強制労働にもとつく生産体制を凌駕しているのです。

    このパラグラフも最初にフランス語版を紹介しておきます。

 〈資本は、その上、労働者階級に自分の狭い範囲の必要が要求するよりも多くの労働を遂行させざるをえなくする強制的関係として、現われる。他人の活動の生産者および利用者として、労働力の搾取者および剰余労働の詐取者として、資本主義制度は、種々の強制的労働制度に直接にもとづくあらゆる従前の生産制度を、エネルギー、効果、無限の力という点で凌駕している。〉(江夏・上杉訳320頁)

    労働の形態的包摂においては、労働過程そのものは技術学的には以前のまままですが、いまではそれらは資本に従属した過程として現れます。資本は、労働者に剰余労働を強いる関係にまで発展したのです。剰余労働の搾取者として資本は、そのエネルギーと無限性において、以前の直接的強制労働にもとづく生産体制を凌駕したものになります。
  『61-63草稿』から紹介しておきます。

  〈加えられる強制が、すなわち剰余価値、剰余生産物、あるいは剰余労働の生みだされる方法が、違った種類のものなのである。もろもろの明確な区別は、次の項目〔Abschnitt〕で、つまり蓄積を論じるときに、はじめて考察することになる。この資本のもとへの労働の形態的包摂にあって本質的なことは次の点である。/
  (1) 労働者は、自分自身の人格の、だからまた自分自身の労働能力の所有者として、この労働能力の時間極(ギ)めでの消費の売り手として、貨幣を所持する資本家に相対しているのであり、だから両者は商品所持者として、売り手と買い手として、それゆえ形式的には自由な人格として相対しているのであって、事実、両者のあいだには買い手と売り手との関係以外の関係は存在せず、この関係とは別に政治的または社会的に固定した支配・従属の関係が存在するわけではない、ということである。
  (2) これは第一の関係に含まれていることであるが--というのは、もしそうでなかったら労働者は自分の労働能力を売らなくてもいいはずだから--、彼の客体的な労働諸条件(原料、労働用具、それゆえまた労働中の生活手段も)の全部が、あるいは少なくともその一部が、彼にではなく彼の労働の買い手かつ消費者に属し、それゆえ彼自身にたいして資本として対立しているということである。これらの労働諸条件が彼にたいして他人の所有物として対立することが完全になればなるほど、形態的に資本と賃労働との関係が生じるのが、つまり資本のもとへの労働の形態的包摂が生じるのが、それだけ完全になる。〉(草稿集⑨369-370頁)


◎第16パラグラフ(資本は、さしあたりは、歴史的に与えられたままの労働の技術的諸条件をもって、労働を自分に従属させる。したがって、資本は直接には生産様式を変化させない。)

【16】〈(イ)資本は、さしあたりは、歴史的に与えられたままの労働の技術的諸条件をもって、労働を自分に従属させる。(ロ)し/たがって、資本は直接には生産様式を変化させない。(ハ)それだから、これまでに考察した形態での、労働日の単純な延長による剰余価値の生産は、生産様式そのもののどんな変化にもかかわりなく現われたのである。(ニ)それは、古風な製パン業でも近代的紡績業の場合に劣らず効果的だったのである。〉(全集第23a巻407-408頁)

  (イ)(ロ) 資本は、さしあたりは、歴史的に与えられたままの労働の技術的諸条件をもって、労働を自分に従属させます。だから、資本は直接には生産様式を変化させないのです。

    絶対的剰余価値の生産では、資本はさしあたりは歴史的にあたえられたままの労働をただ資本主義的な関係のなかに包摂し、資本に従属させるだけです。『61-63草稿』から紹介しておきます。

  〈絶対的剰余価値にもとづく形態を、私は資本のもとへの労働の形態的包摂と名づける。この形態は、現実の生産者たちが剰余生産物、剰余価値を提供しているが、すなわち必要労働時間を超えて労働しているが、それが自分のためではなく他人のためであるような、それ以外の生産様式と、ただ形態的に区別されるにすまない。〉(草稿集⑨369頁)
  〈この場合には、生産様式そのものにはまだ相違が生じていない。労働過程は--技術学的に見れば--以前とまったく同じように行なわれるが、ただし、今では資本に従属している労働過程として行なわれるのである。けれども、生産過程そのもののなかでは、前にも述ぺたように{これについて前述したことのすべてがここではじめてその場所に置かれることになる}、第一に、資本家による労働能力の消費が、それゆえ資本家による監視と指揮とが行なわれることによって、支配・従属の関係が発展し、第二に、労働のより大きな逮続性が発展する。〉(同370頁)

  (ハ)(ニ) だから、これまでに考察した形態での、すなわち労働日の単純な延長による剰余価値の生産は、生産様式そのもののどんな変化にもかかわりなく現われたのです。それは、古風な製パン業でも近代的紡績業の場合に劣らず効果的だったのです。

    だから「第3篇 絶対的剰余価値の生産」においては、労働日の単純な延長による剰余価値の生産が問題になり、生産様式そのものには何の変化も無いものとして前提されたのです。だからそれは近代的紡績業にも古風な製パン業においても見られるものであり、実際にも私たちはそれらを具体的に検討してきたわけです。


◎第17パラグラフ(生産過程を価値増殖過程の観点から考察すると、一つの転倒現象が生じてくる。それが資本家の意識にどのように反映するか)

【17】〈(イ)生産過程を労働過程の観点から考察すれば、労働者の生産手段にたいする関係は、資本としての生産手段にではなく、自分の合目的的な生産的活動の単なる手段および材料としての生産手段にたいする関係だった。(ロ)たとえば製革業では、彼は獣皮を自分の単なる労働対象として取り扱う。(ハ)彼が皮をなめすのは、資本家のためにするのではない。(ニ)われわれが生産過程を価値増殖過程の観点から考察するやいなやそうではなくなった。(ホ)生産手段はたちまち他人の労働を吸収するための手段に転化した。(ヘ)もはや、労働者が生産手段を使うのではなく、生産手段が労働者を使うのである。(ト)生産手段は、労働者によって彼の生産的活動の素材的要素として消費されるのではなく、労働者を生産手段自身の生活過程の酵素として消費するのであり、そして、資本の生活過程とは、自分自身を増殖する価値としての資本の運動にほかならないのである。(チ)熔鉱炉や作業用建物が夜間休止していてもはや生きている労働を吸収しないならば、それは資本家にとっては「ただの損失」(“mere loss")である。(リ)それだからこそ、熔鉱炉や作業用建物は、労働力の「夜間労働にたいする要求権」を構成するのである。(ヌ)貨幣が生産過程の対象的諸要因すなわち生産手段に転化されるというただそれだけのことによって、生産手段は他人の労働および剰余労働にたいする権原および強制力原に転化されるのである。(ル)このような、資本主義的生産に特有であってそれを特徴づけている転倒、じつに、この、死んでいる労働と生きている労働との、価値と価値創造力との関係の逆転は、資本家の意識にどのように反映するか、このことを最後になお一つの例によって示しておこう。(ヲ)1848-1850年のイギリスの工場主反逆のさいちゅうに、
  「西スコットランドの最も古くて最も名のある商社の一つで1752年以来存続し代々同じ家族によって経営さ/れているカーライル同族会社というべーズリ所在の亜麻・綿紡績業の社長」、--
この非常に賢明な紳士は、1849年4月25日の『グラスゴー・デーリ・メール』紙に『リレー制度』という題名で一つの書簡(207)を寄せたが、そのなかにはなかんずく次のような奇怪なまでに素朴な文句が混じっている。
(ワ)「そこで、労働時間を12時間から10時間に短縮することから生ずる害悪を見てみよう。……それは、工場主の期待と財産とにたいするきわめて重大な損傷と『なる』。もし彼」(すなわち彼の「使用人」)「が、これまで12時間労働していてそれが10時間に制限されるならば、彼の工場にある機械や紡錘の12個ずつがそれぞれ10個ずつに縮まるのであって(tthen every 12 machines or spindles,in his establishment,shrink to 10)、もし彼がその工場を売ろうとすればそれらは10個にしか評価されないわけで、こうして、国じゅうのどの工場の価値も6分の1ずつ減らされることになるであろう(208)。」〉(全集第23a巻408-409頁)

  (イ)(ロ)(ハ) 生産過程を労働過程の観点から考察しますと、労働者の生産手段にたいする関係は、資本としての生産手段に対してではなく、自分の合目的的な生産的活動の単なる手段および材料としての生産手段にたいする関係でした。たとえば製革業では、彼は獣皮を自分の単なる労働対象として取り扱います。彼が皮をなめすのは、資本家のためにするのではないのです。

    まずフランス語版を紹介しておきましょう。フランス語版ではこの部分はその前のパラグラフと合体されて、その途中から始まり、終わったところで改行されています。

  〈われわれが使用価値という単純な観点で生産を考察していたときには、生産手段は労働者にたいし、少しも資本という役割を演じていたのではなく、彼の生産活動の単なる手段および素材という役割を演じていたのである。たとえば鞣(ナメシ)皮業では、彼が鞣すのは皮であって資本ではない。〉(江夏・上杉訳321頁)

  「第5章 労働過程と価値増殖過程」で見ましたように、生産過程を労働過程としてみますと、労働者の生産手段に対する関係は、資本としての生産手段にたいする関係ではなく、単に合目的的な生産活動のための手段あるいは材料としての生産手段にたいする関係でした。例えば製革業では、労働者は獣皮をたんなる労働対象として取り扱います。彼が革をなめすのは、資本家のためにではないのです。

    新日本新書版では〈彼が皮をなめすのは、資本家のためにするのではない〉という部分は〈彼はなめすものは資本家の皮ではない〉(541頁)となっていて、この部分に次のような訳者注が付いています。

  〈なめし皮業者が徒弟をきたえるためにしたたか打ちのめすことを「徒弟の皮をなめす」と言ったのに由来する慣用句および学生用語の風刺の転用〉(543頁)

  (ニ)(ホ)(ヘ)(ト) しかし、わたしたちが生産過程を価値増殖過程の観点から考察するやいなやそうではなくなりました。生産手段はたちまち他人の労働を吸収するための手段に転化したのです。もはや、労働者が生産手段を使うのではなく、生産手段が労働者を使うのです。生産手段は、労働者によって彼の生産的活動の素材的要素として消費されるのではなく、労働者を生産手段自身の生活過程の酵素として消費するのです。そして、資本の生活過程とは、自分自身を増殖する価値としての資本の運動にほかならないのです。

    この部分もまずフランス語版を紹介しておくことします。

  〈われわれが剰余価値の観点で生産を考察するようになるやいなや、事態は変わった。生産手段は直ちに他人の労働の吸収手段に転化した。もはや労働者が生産手段を使うのではなく、反対に生産手段が労働者を使う。生産手段は、労働者によって彼の生産活動の素材的要素として消費されるのではなく、生産手段自身の生活に不可欠な酵母として労働者自身を消費するのであって、資本の生活は、永遠に増殖途上にある価値としての資本の運動にほかならない。〉(同上)

    ところが、生産過程を価値増殖過程の観点から見ますと、生産手段はたちまち他人の労働を吸収するための手段に転化し、労働者と生産手段の関係も逆転して、もはや労働者が生産手段を自身の道具や材料として扱うのではなく、反対に生産手段が労働者を自身の生活過程(価値を増殖する運動)のための酵素として消費するのです。主体はもはや労働者ではなく、生産手段(あるいは資本)になっています。だから資本の生産過程とは、自分自身を増殖する価値としての資本の運動になっているのです。

  (チ)(リ) 熔鉱炉や作業用建物が夜間休止していてもはや生きている労働を吸収しなくなると、それは資本家にとっては「ただの損失」(“mere loss")でしかありません。だからこそ、熔鉱炉や作業用建物は、労働力の「夜間労働にたいする要求権」を構成するのです。

    フランス語版です。

  〈夜間には休止していて、生きた労働をなんら吸収しない熔鉱炉や工場の建物は、資本家にとっては純損<a mere loss>になる。だからこそ、熔鉱炉や工揚の建物は、労働者の「夜間労働にたいする請求権、権利」を構成しているのだ。これについてこれ以上述べることは、いまのところ無用である。〉(同上)
 
    生産手段が資本の生産手段になるということは、それが常に生きた労働と接触して剰余労働を吸収しつづけなければならないということです。だからそれが制止させられるということは、資本家にとってはただの損失でしかありません。だからこそ溶鉱炉や作業用建物が夜間休止していて、生きている労働を吸収できなくなる事態を防ごうとする資本の強い欲求が生じるのです。だから溶鉱炉や作業用建物は、労働力の夜間労働にたいする要求の根拠にされるのです。

  (ヌ) 貨幣が生産過程の対象的諸要因すなわち生産手段に転化されるというただそれだけのことによって、生産手段は他人の労働および剰余労働にたいする権原および強制力原に転化されるのです。

    フランス語版では上記のように〈これについてこれ以上述べることは、いまのところ無用である〉とありますようにこうした文言は省かれています。

    こうした生産手段と労働者の逆転した関係は、ただ貨幣が資本家の手によって生産過程の対象的要因すなわち生産手段に転化されるというだけで生じてきます。それだけで生産手段は他人の労働さらに剰余労働を強制する権限あるいは強制力の源となるのです。

  (ル) このような、資本主義的生産に特有であってそれを特徴づけている転倒、じつに、この、死んでいる労働と生きている労働との、価値と価値創造力との関係の逆転は、資本家の意識にどのように反映するか、このことを最後になお一つの例によって示しておきましょう。

    フランス語版です。なお、フランス語版ではここで改行されています。

  〈こういった、資本主義的生産を特微づけている役割の転倒が、死んだ労働と生きた労働との関係の、価値と価値創造力との関係の、こうした奇妙な転倒が、資本の所有主の意識のうちにどのように反映しているかを、ただ一例によって示すことにしよう。〉(同上)

    こうした資本主義的生産に特有な物象的関係の転倒、死んでいる労働(生産手段)と生きている労働との関係の逆転、あるいは価値(生産手段)と価値創造力(労働力)との関係の逆転が、資本家の意識にどのように反映するのかの例を、最後にもう一つ示すことにしましょう。

  (ヲ)(ワ) 1848-1850年のイギリスの工場主反逆のさいちゅうに、「西スコットランドの最も古くて最も名のある商社の一つで1752年以来存続し代々同じ家族によって経営されているカーライル同族会社というべーズリ所在の亜麻・綿紡績業の社長」、--この非常に賢明な紳士は、1849年4月25日の『グラスゴー・デーリ・メール』紙に『リレー制度』という題名で一つの書簡を寄せましたが、そのなかにはなかんずく次のような奇怪なまでに素朴な文句が混じっています。
 「そこで、労働時間を12時間から10時間に短縮することから生ずる害悪を見てみよう。……それは、工場主の期待と財産とにたいするきわめて重大な損傷と『なる』。もし彼」(すなわち彼の「使用人」)「が、これまで12時間労働していてそれが10時間に制限されるならば、彼の工場にある機械や紡錘の12個ずつがそれぞれ10個ずつに縮まるのであって(tthen every 12 machines or spindles,in his establishment,shrink to 10)、もし彼がその工場を売ろうとすればそれらは10個にしか評価されないわけで、こうして、国じゅうのどの工場の価値も6分の1ずつ減らされることになるであろう。」

    フランス語版はそれほどの違いはないので紹介は略します。

  ここで〈1848-1850年のイギリスの工場主反逆〉というのは、第8章第6節の第30パラグラフで〈2年間にわたる資本の反逆は、ついに、イギリスの四つの最高裁判所の一つである財務裁判所〔Court of Exchequer〕の判決によって、仕上げを与えられた。すなわち、この裁判所は、1850年2月8日にそこに提訴された一つの事件で、工場主たちは1844年の法律の趣旨に反する行動をしたにはちがいないが、この法律そのものがこの法律を無意味にするいくつかの語句を含んでいる、と判決したのである。「この判決をもって10時間法は廃止された(167)。」それまではまだ少年や婦人労働者のリレー制度を遠慮していた一群の工場主も、今では両手でこれに抱きついた(168)。〉と書いていたもののことでしょう。
    その反逆のさいちゅうに、西スコットランドのカーライル同族会社の経営者が『リレー制度』という題名の書簡を『グラスゴー・デーリ・メール』紙に寄せたものが引用されています。
    それは労働時間が12時間から10時間に制限されると、彼の工場にある機械や紡錘まで、それまでの12個から10個に減ったものになり、国じゅうの工場の価値も同じように6分の1ずつ減らされたものとして評価されるというものです。
    つまり資本家にとっては生産手段というのは、労働を、とくに剰余労働を吸収することよってその価値を増殖する性質をもったものなのです。だからその吸収が制限されるということは、生産手段の価値そのものが減少することのように見えるわけです。資本家には生産手段は労働を吸収して増殖する性質がそれ自体に生え出ているもののように見えるわけです。物象的な関係が逆転して見えているということです。


◎原注207

【原注207】〈207 『工場監督官報告書。1849年4月30日』、59ページ。〉(全集第23a巻409頁)

    これは本文で紹介されている書簡の典拠を示すものです。つまりこの書簡そのものが『工場監督官報告書』で紹介されているということです。


◎原注208

【原注208】〈208 (イ)同前、60ページ。(ロ)工場監督官ステュアートは、彼自身スコットランド人であって、イングランドの工場監督官たちとは反対にまったく資本家的な考え方にとらわれているのであるが、自分の報告書に収録したこの書簡について、それは「リレー制度を用いている工場主のなかの或る人によって書かれたもので、特にかの制度にたいする偏見や疑念を除くことを目的とするきわめて有益な通信である」と明言している。〉(全集第23a巻409頁)

  (イ) 同前、60ページ。

    これは本文で引用されている書簡が紹介されている『工場監督官報告書』の頁数を示すものです。

  (ロ) 工場監督官ステュアートは、彼自身スコットランド人であって、イングランドの工場監督官たちとは反対にまったく資本家的な考え方にとらわれているのですが、自分の報告書に収録したこの書簡について、それは「リレー制度を用いている工場主のなかの或る人によって書かれたもので、特にかの制度にたいする偏見や疑念を除くことを目的とするきわめて有益な通信である」と明言しています。

    この『工場監督官報告書』を書いたのはスコットランドとアイルランドを管轄していたステュアートで、彼自身スコットランド人で、イングランドやヴェールズを管轄していたホーナーやハウェル、あるいはソーンダースとは違って、資本家的な考えにとらわれていたということです。

  第8章第6節の第26パラグラフでも次のように書かれていました。

  〈しかし、まもなく工場主たちの陳情の砂塵が内務大臣サー・ジョージ・グレーの頭上に降りそそぎ、その結果、彼は1848年8月5日の回状訓令のなかで、監督官たちに次のように指示した。
  「少年と婦人を10時間以上労働させるために明白にリレー制度が乱用されているのでないかぎり、一般に、この法律の文面に違反するという理由では告発しないこと。」
  そこで、工場監督官J・ステユアートは、スコットランド全域で工場日の15時間の範囲内でのいわゆる交替制度を許可し、スコットランドではやがて元どおりに交替制度が盛んになった。これに反して、イングランドの工場監督官たちは、大臣は法律停止の独裁権をもってはいない、と言明して、奴隷制擁護反徒にたいしては引き続き法律上の処置をとることをやめなかった。〉

    つまり工場監督官のうちステュアートだけが資本家の意を汲んで交替制を許可したのです。
    だから彼は工場主の書簡を高く評価し、リレー制度にたいする偏見や疑念を除くことを目的とする有益な通信だなどと述べているということです。


◎第18パラグラフ(資本家には、生産手段の価値と、自分自身を価値増殖するという生産手段の資本属性との区別がまったくぼやけている)

【18】〈(イ)この西スコットランドの先祖伝来の資本頭脳にとっては、紡錘などという生産手段の価値と、自分自身を価値増殖するという、すなわち毎日一定量の他人の無償労働を飲みこむという生産手段の資本属性との区別がまったくぼやけているのであって、そのために、このカーライル同族会社の社長は、自分の工場を売れば、自分には紡錘の価値だけではなく、そのうえに紡錘の価値増殖も支払われるのだと、すなわち、紡錘に含まれている同種の紡錘の生産に必要な労働だけではなく、紡錘の助けによって毎日ぺーズリのけなげな西スコットランド人から汲み出される/剰余労働も支払われるのだと、実際に妄想しているのであって、それだからこそ、彼は、労働日を2時間短縮すれば紡績機の12台ずつの売却価格も10台ずつのそれに縮まってしまう! と思うのである。〉(全集第23a巻409-410頁)

  (イ) この西スコットランドの先祖伝来の資本頭脳にとっては、紡錘などという生産手段の価値と、自分自身を価値増殖するという、すなわち毎日一定量の他人の無償労働を飲みこむという生産手段の資本属性との区別がまったくぼやけているのです。だから、このカーライル同族会社の社長は、自分の工場を売れば、自分には紡錘の価値だけではなくて、そのうえに紡錘の価値増殖も支払われねばならなんと考えるのです。紡錘に含まれている同種の紡錘の生産に必要な労働だけではなくて、紡錘の助けによって毎日ぺーズリのけなげな西スコットランド人から汲み出される剰余労働も支払われねばならないと、実際に妄想しているのです。だからこそ、彼は、労働日を2時間短縮すれば紡績機の12台ずつの売却価格も10台ずつのそれに縮まってしまう! と思うのです。

    このパラグラフもまずフランス語版を紹介しておくことにします。

  〈われわれの見るとおり、スコットランドのこの石頭にとっては、生産手段の価値が、自己増殖しあるいは一定量の無償労働を日々同化するという生産手段のもつ資本属性と、全く混同されている。そして、カーライル同族会社のこの社長は、工場を売却するさいには、機械の価値だけでなく、おまけに機械の価値増殖も支払われる、すなわち、機械のなかに含まれていて同類の機械の生産に必要な労働だけでなく、機械の役立ちでぺーズリの律義なスコットランド人から日々詐取されている剰余労働までも支払われる、と信ずるほどに妄想を抱いている。彼の意見によれば、それだからこそ、労働日の2時間の短縮は、彼の機械の販売価格を引き下げるであろう。機械1ダースはもはや10個の価値しかないことになろう!〉(江夏・上杉訳322頁)

    労働時間が短縮されますと、その労働を使って生産手段に投じた自身の資本価値を増殖しようと考えている資本家にとっては、生産手段の価値そのものが、それだけ収縮するように思えるのはどうしてかを明にしています。
    それは生産手段の価値と、自分自身を増殖しようとする、つまり毎日一定量の他人の労働を無償で飲み込むという生産手段の資本属性との区別がぼやけているからだというのです。
    だから資本家にとっては、自分の工場を売るなら、自分には工場や紡錘の価値だけではなくて、その資本属性をも売ることになるので、その資本属性に対しても支払を受ける必要があると考えるわけです。だからこそ、彼は労働日が2時間短縮されると紡績機の12台の販売価格が10台分に減ると考えたわけです。

(【付属資料】(1)に続く。)

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(5)

2024-03-14 15:36:44 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(5)


【付属資料】(1)


●第1パラグラフ

《61-63草稿》

  〈われわれは、絶対的剰余価値および相対的剰余価値という二つの形態を切り離して考察したが、同時に、この二つの形態は互いに結びついているということ、また、相対的剰余価値が発展するのとまさに時を同じくして、絶対的剰余価値が極限にまで駆り立てられるということを示した。すでに見たように、この二つの形態を切り離すことによって、労賃と剰余価値との関係におけるもろもろの違いが明らかになるのである。生産力の発展が所与であれば、剰余価値はつねに絶対的剰余価値として現われるのであって、とりわけ剰余価値の変動は、ただ総労働日の変化によってのみ可能である。労働日が所与のものとして前提されれば、剰余価値の発展は、ただ相対的剰余価値の発展としてのみ、すなわち生産力の発展によってのみ可能である。〉(草稿集⑨367頁)

《初版》

 〈これまでと同じように、この節でも、労働力の価値、したがって、労働日のうちで労働力の再生産または維持に必要な部分は与えられた不変量である、と想定する。〉(江夏訳342頁)

《フランス語版》

 〈本章でもこれまでと同じように、労働力の日価値、したがって、労働者が労働力を再生産しあるいは維持するにすぎない労働日部分は、不変量であると見なす。〉(江夏・上杉訳313頁)

《イギリス語版》 英語版では第9章は第11章になっている。

  〈(1) この章でも、これまでと同様に、労働力の価値と、その結果として労働力を再生または維持するために必要な労働日のある部分については、ある一定の大きさがすでに与えられているものとする。〉(インターネットから)


●第2パラグラフ

《初版》

 〈このように前提すれば、剰余価値率と同時に、個々の労働者が一定の時間内に資本家に引き渡す剰余価値量も与えられている。たとえば必要労働が、1日に6時間で、3シリング=1ターレルの金量で表現されているとすれば、1ターレルは、1個の労働力の日価値、すなわち、1個の労働力の買い入れた前貸しされる資本価値である。さらに、剰余価値率が100%であれば、1ターレルの可変資本は1ターレルの剰余価値量を産む、すなわち、労働者は1日に6時間の剰余価値量を引き渡すわけである。〉(江夏訳342頁)

《フランス語版》

 〈1平均労働力の日価値が3シリングあるいは1エキュであって、これを再生産するために1日に6時間が必要であると想定しよう。資本家は、このような1労働力を買うために1エキュを前貸ししなければならない。この1エキュは資本家にどれだけの剰余価値をもたらすであろうか? それは剰余価値率に依存している。剰余価値率が50%であれば、剰余価値は3時間の剰余労働を代表する半エキュであろうし、100% であれば、6時間の剰余労働を代表する1エキュに上がるだろう。こうして、労働力の価値が与えられれば、剰余価値率が、個々の労働者によって生産される剰余価値量を規定する。〉(江夏・上杉訳313頁)

《イギリス語版》

  〈(2) このことにより、個々の労働者が一定期間において資本家に供する剰余価値の率・量が、同時に与えられたものとなる。すなわち、仮に、必要労働が日6時間であり、ある一定量の黄金= 3 シリングで表されるならば、かくして、その3 シリングが、一労働力の日価値 あるいは、一労働力を購入するために前貸しした資本の価値となる。さらに、もし、剰余価値率が = 100% であるならば、この可変資本の3シリングが、3シリングの剰余価値の量を生産する。または、その労働者が、6時間に等しい剰余労働の量を資本家に1日あたりで供給する。〉(インターネットから)


●第3パラグラフ

《初版》

 〈ところが、可変資本は、資本家が特定の生産過程において同時に使用するあらゆる労働力の総価値を表わす貨幣表現である。だから、1個の労働力の日価値が1ターレルであれば、毎日100個の労働力を搾取するためには100ターレルの資本が、毎日n個の労働力を搾取するためにはnターレルの資本が、前貸しされなければならない。だから、前貸可変資本の価値は、1個の労働力の平均価値に使用労働力の数を掛けたものに等しい。したがって、労働力の価値が与えられていれば、可変資本の価値の大きさすなわち可変資本量は、わが物にされた労働力の量あるいは同時に使用される労働者のが変動するにつれて、変動することになる。〉(江夏訳342頁)

《フランス語版》

 〈可変資本は、資本家が同時に使用するすべての労働力の価値の貨幣表現である。可変資本の価値は、1労働力の平均価値に個々の労働力の数を乗じたものに等しい。したがって、可変資本の量は、使用される労働者の数に比例する。資本家が日々100労働力を搾取すれば、それは1日に100エキュに達し、n労働力を搾取すればnエキュに達する〉(江夏・上杉訳313頁)

《イギリス語版》

  〈 (3) ところで、資本家の可変資本というのは、彼が同時に雇った全労働力の総価値の貨幣表現のことである。従って、その価値は、一労働力の平均価値に、雇った労働力の数を掛けたものに等しい。であるから、与えられた労働力の価値に基づき、可変資本の大きさは、同時に雇った労働者の数によって、直接的に変わる。もし、一労働力の日価値が = 3 シリングであるならば、日100労働力を搾取するためには、300シリングの資本が前貸しされねばならない。日n労働力を搾取するためには、3シリングのn倍の資本が前貸しされねばならない。(訳者挿入 云うまでもないことではあるが、前段で示されるように、剰余価値率=100% として計算される。) 〉(インターネットから)


●第4パラグラフ

《初版》

 〈1ターレルの可変資本すなわち1個の労働力の日価値が、毎日1ターレルの剰余価値を生産すれば、100ターレ/ルの可変資本は毎日100ターレルの剰余価値を生産するし、nターレルの可変資本は毎日 1ターレル×n の剰余価値を生産する。だから、生産される剰余価値の量は、個々の労働者の労働日が引き渡す剰余価値に使用労働者の数を掛けたものに等しい。ところで、さらに、個々の労働者が生産する剰余価値の量は、労働力の価値が与えられていれば、剰余価値率によって規定されるのであるから、同じ前提のもとでは、次のような結論が出てくる。それは、与えられたある可変資本が生産する剰余価値の量は前貸しされる可変資本の量に剰余価値率を掛けたものに等しい、あるいは、同時に搾取される労働力の数と1個1個の労働力の搾取度との複比によって規定される、という結論である。〉(江夏訳342-343頁)

《フランス語版》  フランス語版には全集版にはない原注(1)があるので、本文の次に紹介しておく。

 〈同様に、1労働力の価格である1エキュが1エキュの日々の剰余価値を生産すれば、100エキュの可変資本は100エキュの剰余価値を生産し、nエキュの資本は 1エキュ×n の剰余価値を生産するであろう。したがって、可変資本が生産する剰余価値量は、可変資本から支払いを受ける労働者の数に個々の労働者が1日にもたらす剰余価値量を乗/じたもの、によって規定される。そして、個々の労働力の価値が知られていれば、剰余価値量は剰余価値率、換言すれば労働者の必要労働にたいする剰余労働の比率、に依存している(1)。したがって、次のよう法則が得られる。可変資本によって生産される剰余価値の量は、この前貸資本の価値に剰余価値率を乗じたものに等しく、あるいは、1労働力の価値にその搾取度を乗じ、さらに、同時に使用される労働力の数を乗じたもの、に等しい。

  (1) 本文では、1平均労働力の価値が一定であるばかりでなく、「資本家に使われているすべての労働者が平均労働力にほかならないことが、依然として想定されている。生産される剰余価値が搾取される労働者の数に比例して増加せず、そのさい労働力の価値が一定ではない、という例外的なばあいもある。〉(江夏・上杉訳313-314頁)

《イギリス語版》

  〈(4) 同様に、もし、3シリングの可変資本、一労働力の日価値が、日3シリングの剰余価値を生産するとしたら、300シリングの可変資本は、日300シリングの剰余価値を生産する。そして、3シリングのn倍のそれは、日3シリング×n なる剰余価値を生産する。従って、生産される日剰余価値の量は、一労働者が供給する一労働日の剰余価値に、雇われた労働者の数を乗じた量と等しいものになる。しかも、さらに付け加えるならば、一労働者が生産する剰余価値の量は、労働力の価値が与えられたものならば、剰余価値率によって決まる。この法則は、次のように云える。剰余価値量は、前貸しされた可変資本の量に、剰余価値率を乗じた量となる。別の言葉で云えば、同一の資本家によって同時に搾取される労働力の数と、個々の労働力の搾取される率と、一労働力の価値、の各項目の複乗算によって求められる量となる。〉(インターネットから)


●第5パラグラフ

《初版》 初版には第5パラグラフに該当するものはない。

《フランス語版》

 〈したがって、剰余価値の量をP、個々の労働者によって日々生産される剰余価値をp、1労働者にたいする支払いのために前貸しされる可変資本をv、可変資本の総価値をV、1平均労働力の価値をf、その搾取度を t'(剰余労働)/t(必要労働)、使用される労働者の数をn、と名づければ、次のような式が得られる。

     =p/v×V
  P {
     =f×t'/t×n

  さて、ある積の諸因数の数値が同時に逆比例して変化すれば、この積の数値は変わらない。〉(江夏・上杉訳314頁)

《イギリス語版》  二つのパラグラフに分けられている。

  〈(5) 剰余価値の量を S 、個々の労働者によって日平均として供給される剰余価値を s 、1個人の労働力の購入に前貸しされた日可変資本を v 、可変資本の総計を V 、平均労働力の価値を P 、その搾取率を、(a'/a) (剰余労働 / 必要労働) 、そして雇われた労働者数を n としよう。我々は次の式を得る。

S = (s/v) × V

S = P × (a'/a) × n

  (6) 以下のことは、常に想定されている。労働力の平均価値だけではなく、資本家によって雇われる労働者も、平均的な労働者なのである。時に、搾取される労働者数に比例して生産される剰余価値が増加しないという例外的ケースもあるが、この場合では、労働力の価値が一定値に留まってはいない。( 云わずもがなではあるが、訳者注: 労働力の価値が上昇する。)〉(インターネットから)


●第6パラグラフ

《初版》

 〈だから、一定量の剰余価値の生産では、一方の要因の減少は他方の要因の増加でもって補填できるわけである。可変資本が減少し、同時に同じ割合で剰余価値率が高くなれば、生産される剰余価値の量は不変である。資本家は、前記の前提のもとでは、毎日100人の労働者を搾取するためには100ターレルを前貸ししなければならず、しかも剰余価値率が50%であるとすれば、この100ターレルの資本は、50ターレルの剰余価値、すなわち 100×3労働時間 の剰余価値を産む。剰余価値率が2倍になれば、すなわち、労働日が6時間から9時間に延長されるのではなく、6時間から12時間に延長されれば、50ターレルという半減された可変資本も、やはり50ターレルの剰余価値、すなわち 50×6労働時間 の剰余価値を産む。だから、可変資本の減少は、労働力の搾取度を右の減少に比例して引き上げれば補填できるし、または、就業労働者の数の減少は、労働日を右の減少に比例して延長すれば補填できるわけである。したがって、ある程度の限界内では、資本が搾り出しうる労働の供給は、労働者の供給に依存していない(202)。逆に、剰余価値率が減少しても、この減少に比例して可変資本の量または就業労働者の数が増せば、生産される剰余価値の量は変わらない。〉(江夏訳343頁)

《フランス語版》 フランス語版では、このパラグラフは5つのパラグラフに分けられてより詳しい説明になっている。ここでは五つのパラグラフをすべて紹介する。

 〈したがって、一定量の剰余価値の生産では、その諸因数中のある一因数の減少が他の因数の増大によって相殺されることがある。
  こんなわけで、剰余価値率の減少は、可変資本または使用される労働者の数がこれに比例して増大すれば、生産される剰余価値量に影響を及ぼすものではない。
  100人の労働者を100%の率で搾取する100エキュの可変資本は、100エキュの剰余価値を生産する。剰余/価値率を半減しても同時に可変資本を倍加すれば、剰余価値量は相変わらず同じである。
  これとは逆に、可変資本は減少するがそれに反比例して剰余価値率が増大すれば、剰余価値量は相変わらず同じである。資本家が100人の労働者に日々100エキュを支払い、これらの労働者の必要労働時間が6時間、剰余労働時間が3時間に達する、と仮定せよ。100エキュの前貸資本は50%の率で自己増殖して、50エキュあるいは 100×3労働時間=300労働時間 の剰余価値を生産する。さて今度は資本家が自分の前貸しを100エキュから50エキュに半減しても、すなわち、もはや50人の労働者しか雇い入れなくても、それと同時に剰余価値率を2倍にすることに、あるいは結局同じことになるが、剰余労働を3時間から6時間に延長することに成功すれば、彼はやはり同じ剰余価値量を獲得するであろう。50エキュ×100/100エキュ=100エキュ×50/100=50エキュ であるからだ。労働時間で計算すれば、50労働力×6労働時間=100労働力×3時間=300労働時間 が得られるのである。
  したがって、可変資本の減少が、これに比例する剰余価値率の引き上げによって相殺されることもあれば、あるいは、使用される労働者の減少が、これに比例する労働日の延長によって相殺されることもある。こうして、資本によって搾取可能な労働量は、ある程度は、労働者の数から独立したものになる(2)。〉(江夏・上杉訳314-315頁)

《イギリス語版》

  〈(7) であるゆえ、剰余価値の一定量の生産においては、一要因の減少は他の増加で補完されるであろう。もし、可変資本が減少しても、同時に、剰余価値率が同じ比率で上昇すれば、剰余価値量は、変化なく留まる。もし、我々の前段の仮定で見るとして、資本家が、日100人の労働者を搾取するために、300シリングを前貸しせねばならぬとしたら、剰余価値率が50%として、この可変資本300シリングは、剰余価値150シリング、または、100人×3 労働時間 の剰余価値を産む。もし仮に、剰余価値率が2倍、(訳者注: 100%) または、労働日の超過が6時間から9時間に代わって6時間から12時間となり、 同時に可変資本が半分に減らされた つまり150シリングになったとすれば、剰余価値は、同様にして150シリング、または50人×6労働時間の剰余価値を産む。可変資本の減少は、このように、労働力の搾取率の比例的上昇によって補完される。または、労働日の拡大に相当する雇用労働者数の減少によって補完される。ある一定の限界はあるものの、かくして、資本によって搾取される労働の供給は、労働者の供給からは独立している。*1〉(インターネットから)


●原注202

《61-63草稿》

  〈労働の価値または労働時間の価格というこの表現では、価値概念は完全に消し去られているだけでなく、それと直接に/矛盾するものに転倒されている。標準的な労働日の一部分(つまり労働能力の再生産に必要な部分)しか体現されていない価値が、労働日全体の価値として現われる。このようにして、12時間労働の価値は、12時間労働で生産される商品の価値が6シリングに等しいにもかかわらず、そうなるのももともと12時間労働が6リングを表わすからであるにもかかわらず、3シリングに等しいのである。したがって、これは、たとえば代数学における√-2と同じような不合理な表現なのである。とはいえ、それは、生産過程の必然的な結果として生ずる表現なのである、つまり労働能力の価値の必然的な現象形態なのである。その不合理な表現は、すでに労賃という言葉自体のなかにある。そこでは労働の賃金イコール労働の価格イコール労働の価値なのである。しかし、労働者の意識のなかでも資本家の意識のなかでも同じように生きているこの没概念的な形態は、実生活において直接的に現われる形態なのであるから、それゆえこの形態こそ、俗流経済学が固執するところの形態なのである。彼らは、他のすべての諸科学から区別される経済学の独自性は次の点にあるというのである。すなわち他の諸科学が、日常の諸現象の背後にか〈れている、そして日常の外観(たとえば、地球をめぐる太陽の運動のような)とたいていは矛盾する形態にある本質を暴露しようとするのにたいして、経済学の場合には、日常の諸現象を同じく日常的な諸表象のうちへたんに翻訳することをもって科学の真の事業だと言明してはばからない、と。労働能力の価値が、労働の価値として、または貨幣で表現された労働の価格としてその日常的表現(その通俗的な姿)をえて、ブルジョア社会の表面に現われるさいの、この転倒した派生的形態にあっては、支払労働と不払労働のあいだの区別は完全に消し去られている。なぜといって、労賃とはまさに労働日の支払いのことだし、それは、労働日との等価、--実際のところ--労働日の生産物との等価なのだからである。それだから、生産物に含まれている剰余価値は、実際、一つの目にみえない、神秘的な性質から説明するほかはなく、不変資本から導きだすほかはないのである。この〔労働の価格という〕表現こそが、賃労働と賦役労働のあいだの区別を成すものであり、労働者自身の思い違いを生んでいるのである。〉(草稿集⑨350-351頁)

《初版》

 〈(202) この基本的法則を、俗流経済学者の諸氏は知っていないように思える。彼らは、さかさにされたアルキメデスたちは、需婆と供給とで労働の市場価格がきまるということのうちに見いだしたものは、世界を土台から変えるための支点ではなく、世界を静止させるための支点である、と思っている。〉(江夏訳344頁)

《資本論』第3部補遺》

 〈1 価値法則と利潤率
  この二つの要因のあいだの外観上の矛盾の解決はマルクスの原文が公表されてからもそれ以前と同様にさまざまな論議をかもすであろうということは、予想されることだった。ずいぶん多くの人々が完全な奇跡を期待していた。そして、いま彼らは失望落胆している。というのは、自分たちが予期していた手品のかわりに、簡単で合理的な、散文的で平凡な、対立の調停が目の前に現われたからである。いちばん喜んで失望しているのは、いうまでもなく例のローリア閣下である。彼はついにあのアルキメデスの挺子の支点を見つけたのだ。この支点からやれば彼のような一寸法師でもマルクスの堅固な巨大な建築を空中に持ち上げて粉砕することができるというのである。彼は怒って叫ぶ。こんなものが解決だというのか? こんなものはただのごまかしではないか!〉(全集第25b巻1136頁)

《フランス語版》

 〈(2) この基本法則は俗流経済学者諸君には知られていないようであって、これら逆さにされた新アルキメデスたちは、需要供給による労働の市場価格の規定のうちに、世界を隆起させるのではなく世界を静止状態に保っておくための支点を見出した、と信じている。〉(江夏・上杉訳315頁)

《イギリス語版》 訳者の余談がながながとついているが、省略する。

  〈本文注: 1 *この初歩的な法則は、アルキメデスが逆さまになったような俗流経済学者には未知のようなもので、供給と需要で労働の市場価値を決める場合の梃子の支点を見出したと思っているらしい。その梃子の支点が、世界を動かすようなことはなく、その動きを止めるものと思っているらしい。(訳者注: この梃子の支点、剰余価値(率と量)こそ、資本主義社会を拡大し、資本主義世界を変革して行くものなのであるが、その認識を欠いている。〉(インターネットから)


●第7パラグラフ

《初版》

 〈それにもかかわらず、労働者の数または可変資本の大きさを、剰余価値率の引き上げまたは労働日の延長でもって補填するばあいには、飛び越えられない絶対的な限界がある。労働力の価値がどれだけであろうと、したがって、労働者の維持に必要な労働時間が2時間であろうと10時間であろうと、1人の労働者が毎日生産することのできる総価値は、いつでも、24労働時間の対象化である価値よりも小さいし、対象化されている24労働時間の貨幣表現が12シリングまたは4ターレルであれば、この金額よりも小さい。われわれの前記の前提によると、労働力そのものを再生産するためには、または、労働力の買い入れに前貸しされた資本価値を補填するためには、毎日6労働時間を必要とするが、この前提のもとでは、100%の剰余価値率すなわち12時間労働日で、毎日50O人の労働者を使用している50Oターレルの可変資本は、毎日、50Oターレルの剰余価値または 6×500労働時間 の剰余価値を生産することになる。200%の剰余価値率すなわち18労働時間で、毎日100人の労働者を使用している100ターレルの資本は、200ターレルの剰余価値量または 18×100労働時間〔マイスナー第2版およびフランス語版では「12×100労働時間」に訂正〕の剰余価値量しか生産しない。そしてまた、この資本の総価値生産物、すなわち、前貸資本の等価・プラス・剰余価値は、けっして、毎日4OOターレルまたは 24×100労働時間 という額に達することができない。平均的な労働日の絶対的な限度は、本来いつでも24時間より短いのであって、可変資本を剰余価値率の引き上げでもって補填することの絶対的な限度、または、搾取される労働者の数を労働力の搾取度の引き上げでもって補填することの絶対的な限度、を成しているのである。この明白な法則は、後述する資本の傾向--この傾向は、資本が使用/する労働者の数、または労働力に転換される資本の可変成分を、最小限度に縮小するものであって、できるだけ大きな剰余価値量を生産するという資本のもう一つの傾向とは矛盾している--から生ずる多くの現象を説明するためには、重要である。逆に、使用される労働力の量または可変資本の量が増大しても、剰余価値率に比べて減少の速度がおそければ、〔マイスナー第2版では「剰余価値率の減少に比例していなければ」〕生産される剰余価値の量は低下する。〉(江夏訳344-345頁)

《資本論》

 〈資本主義体制の一般的基礎がひとたび与えられれば、蓄積の進行中には、社会的労働の生産性の発展が蓄積の最/も強力な槓杆となる点が必ず現われる。……労働の社会的生産度は、一人の労働者が与えられた時間に労働力の同じ緊張度で生産物に転化させる生産手段の相対的な量的規模に表わされる。彼が機能するために用いる生産手段の量は、彼の労働の生産性の増大につれて増大する。……だから、労働の生産性の増加は、その労働量によって動かされる生産手段量に比べての労働量の減少に、または労働過程の客体的諸要因に比べてのその主体的要因の大きさの減少に、現われるのである。〉(全集第23b巻811-812頁)

《フランス語版》  フランス語版ではこのパラグラフは三つのパラグラフに分けられている。三つ一緒に紹介しておく。

 〈しかし、この種の相殺は一つの乗り越えがたい限界に出会う。24時間という自然日は平均労働日よりも必ず長い。だから、平均的な労働者が1時間に1/6エキュの価値を生産しても、平均労働日はけっして4エキュの日価値をもたらすことができない。4エキュの価値を生産するためには、平均労働日は24時間を必要とするからである。剰余価値については、その限界はなおいっそう狭い。もし日々の賃金を補填するために必要な労働日部分が6時間に達するならば、自然日のうち残るのは18時間だけであって、生物学の法剥は、この18時間のうちの一部を労働力の休息のために要/求する。労働日を18時間という最高限度に延長して、この休息の最低限度として6時間を想定すれば、剰余労働は12時間にしかならず、したがって、2エキュの価値しか生産しないであろう。
  500人の労働者を100% の剰余価値率で、すなわち6時間が剰余労働に属する12時間の労働をもって、使用する500エキュの可変資本は、日々500エキュあるいは 6×500労働時間 の剰余価値を生産する。日々100人の労働者を200%の剰余価値率で、すなわち18時間の労働日をもって、使用する100エキュの可変資本は、200エキュあるいは 12×100労働時間 の剰余価値しか生産しない。その生産物は総価値で、1日平均400エキュの額あるいは 24×100労働時間 にけっして達することができない。したがって、可変資本の減少が剰余価値率の引き上げによって、または結局同じことになるが、使用される労働者の数の削減が搾取度の上昇によって、相殺できるのは、労働日の、したがって、労働日に含まれる剰余労働の、生理的な限界内にかぎられる。
  全く明白なこの法則は、複雑な現象の理解にとって重要である。われわれはすでに、資本が最大限可能な剰余価値を生産しようと努力することを知っているし、後には、資本がこれと同時に、事業の規模に比較してその可変部分あるいはそれが搾取する労働者の数を最低限に削減しようと努めることを見るであろう。これらの傾向は、剰余価値量を規定する諸因数中のある一因数の減少がもはや他の因数の増大によって相殺されえなくなるやいなや、あい矛盾したものになる。〉(江夏・上杉訳315-316頁)

《イギリス語版》  やはり訳者余談がながながと続くが省略する。

  〈 (8) 雇用される労働者数の減少に対する補填、または前貸しされた可変資本の量に対する補填は、剰余価値率の上昇によって補填されるものではあるが、それは労働日の超過時間によるものであって、従って、それは、超えることが出来ない限界を持っている。労働力の価値がどの様なものであれ、労働者の生命維持のための必要労働時間が2時間であれ10時間であれ、労働者が生産し得る全価値は、日の始まりから日の終りまで、常に、24時間の労働によって体現される価値よりは少ない。もし12シリングが24時間の労働が実現するものの貨幣的表現であるとしたら、12シリングよりは少ない。我々の前の前提によれば、日6時間の労働時間が労働力自体の再生産に必要である、または、その労働力の購入に前貸しされた資本の価値を置き換えるものである。1,500シリングの可変資本が、500人の労働者を雇用し、剰余価値率100% 12時間労働日であれば、日剰余価値1,500シリング または6×500労働時間を生産する。300シリングの資本が日100人の労働者を雇用し、剰余価値率200% または18時間労働日であれば、単に、600シリングの剰余価値量を生産する、または、12×100労働時間のそれである。そうして、だが、全生産物の価値、前貸しされた可変資本の価値+剰余価値であるが、それは、日の始めから日の終りまでの、計1,200シリング または、24×100労働時間に届くことはあり得ない。( 剰余価値率がどうなるかを、計算すればよい。訳者のお節介ではあるが。) 平均労働日の絶対的限界- これは自然そのものにより、24時間より常に少ない- は、可変資本の減額に対してより高い剰余価値率で補填する場合に、絶対的な限界を設ける。または、搾取される労働者の減員に対してより高い搾取率で補填する場合に、絶対的な限界を設ける。(訳者注: 一番目の法則) この誰でも分かる法則は、資本の、出来得る限り雇用する労働者数をこのように少なくする性向(今後とも作用し続ける) から生じる多くの現象を解く上で非常に重要である。また、別の性向として、出来得る限りの大きな剰余価値量を求めることから、前者とは逆に、可変資本部分を労働力に変換することもある。これまでのこととは全く違って、(訳者注: 以下が二番目の法則) 雇用された労働者数、または可変資本量が増大したとしても、剰余価値率の同比の下落はないし、生産される剰余価値量の下落もありはしない。〉(インターネットから)


●第8パラグラフ

《初版》

 〈第三の法則は、生産される剰余価値の量が剰余価値率と前貸可変資本の量という二つの要因によって規定される、ということから生ずる。剰余価値率あるいは労働力の搾取度、および、労働力の価値あるいは必要労働時間の長さが、与えられていれば、可変資本が大きければ大きいほど生産される価値および剰余価値の量がいっそう大きい、ということは自明である。労働日の限界が与えられ、労働日の必要成分の限界も与えられていれば、1人の単独資本家が生産する価値および剰余価値の量は、もっぱら、この資本家が動かす労働量によってきまる、ということは明白である。ところが、この労働量は、与えられた仮定のもとでは、この資本家が搾取する労働力の量あるいは労働者の数によってきまり、この数のほうは、この資本家が前貸しする可変資本の大きさによってきめられる。だから剰余価値率が与えられ労働力の価値が与えられていれば生産される剰余価値の量は前貸可変資本の大きさに正比例する。ところが、いまや周知のように、資本家は自分の資本を二つの部分に分ける。彼は一方の部分を生産手段に支出する。これは彼の資本の不変部分である。彼は他方の部分を生きている労働力に転換する。この部分は彼の可変資本を成している。同じ生産様式の基礎上でも、生産部面がちがえば、不変成分と可変部分とへの資本の分割がちがってくる。同じ生産部面のなかでも、この割合は、生産過程の技術的基礎や社会的結合が変わるにつれて変わる。しかし、ある与えられた資本が不変成分と可変成分とにどう分かれていようとも、すなわち、前者にたいする後者の比率が1:2であろうと1:10であろうと1:xであろうと、いま定められた法則は、そのことで影響を受けることはない。とい/うのは、さきの分析によると、不変資本の価値は、なるほど生産物価値のうちに再現しても、新しく形成される価値生産物のなかにははいり込まないからである。1000人の紡績工を使うためには、もちろん、100人の紡績工を使うために必要とするよりも多くの原料や紡錘等々を必要とする。しかし、これらの追加生産手段の価値は、増加することも減少することも不変なこともあろうし、大きいことも小さいこともあるだろうが、それだからといって、これらの生産手段を動かす労働力の価値増殖過程にはなんら影響を及ぼさない。だから、ここで確認された法則は、次のような一般的形態をとる。相異なる諸資本によって生産される価値および剰余価値の量は労働力の価値が与えられていて労働力の搾取度が等しい大いさのばあいにはこれらの資本の可変成分の大きさにすなわちこれらの資本のうち生きている労働力に転換される成分の大きさに正比例する。〉(江夏訳345-346頁)

《フランス語版》  フランス語版ではこのパラグラフは二つのパラグラフに分けられている。二つ一緒に紹介しておく。

 〈価値とは実現された労働にほかならないから、資本家の生産させる価値量がもっぱら彼の動かす労働量に依存することは、自明である。彼は同数の労働者を用いて、労働者の労働日がより長くまたはより短く延長されるのに応じて、労働量をより多くまたはより少なく動かすことができる。ところが、労働力の価値と剰余価値率とが与えられていれば、換言すれば、労働日の限界と、労働日の必要労働と剰余労働への分割とが与えられていれば、資本家の実現する剰余価値を含んでいる価値の総量は、もっぱら、彼が働かせる労働者の数によって規定され、労働者の数そのものは、彼が前/貸しする可変資本の量に依存している。
  そのばあい、生産される剰余価値の量は前貸しされる可変資本の量に正比例する。ところで、産業部門がちがえば、総資本が可変資本と不変資本とに分割される割合は非常にちがう。同種の事業では、この分割は技術的条件と労働の社会的結合とに応じて変化する。ところが、周知のように、不変資本の価値は、生産物のうちに再現するのに対し、生産手段に付加される価値は、可変資本、すなわち前貸資本のうち労働力に変わる部分からのみ生ずる。ある与えられた資本が不変部分と可変都分とにどのように分解しても、前者と後者の比が 2:1,10:1, 等々であっても、すなわち、使用される労働力の価値に比べた生産手段の価値が増大しても減少しても不変のままであっても、それが大きくても小さくても、どうでもよいのであって、それは生産される価値量にはやはり少しも影響を及ぼさない。このばあい、前貸資本が不変部分と可変部分とに分割される割合がどうありうるにしても、上述の法則を種々の産業部門に適用すれば、次の法則に到達する。平均労働力の価値とその平均搾取度が種々の産業で同等であると仮定すれば生産される剰余価値の量は使用される資本の可変部分の大きさに正比例するすなわち労働力に変えられる資本都分に正比例するのである。〉(江夏・上杉訳316-317頁)

《イギリス語版》

  〈(9) 三番目となる法則 (訳者注: 一番目、二番目の法則に続くものとして) が、二つの要素、剰余価値率と前貸しされた資本の量で、生産される剰余価値の大きさが確定されることから導かれる。剰余価値率、または労働力の搾取度 と、労働力の価値、または必要労働時間 が、与えられるならば、可変資本が大きくなればなるほど、生産された価値の量も剰余価値の量も大きくなる、のは自明であろう。もし、労働日の制限が与えられるならば、また、必要労働部分の制限が与えられるならば、一資本家が生産する剰余価値量は、彼が設定した労働者の数に明確に、排他的に依存する。つまり、前に述べた条件の下では、労働力の量に依存し、または、彼が搾取する労働者の数に依存する。そして、その数そのものは、前貸しされた可変資本の量によって決まるのである。従って、与えられた剰余価値率と、与えられた労働力の価値によって、生産される剰余価値の大きさは、直接的に、前貸しされた可変資本の大きさによって変化する。さて、ここで、資本家は彼の資本を、二つの部分に分割することを思い出して欲しい。その一部分を彼は、生産手段に配置する。これは資本の不変部分である。もう一つの部分を彼は、生きた労働力に配置する。この部分は、彼の可変資本を形成する。社会的な生産様式が同じ基盤の上にあっても、資本の不変部分と可変部分との分割線は、生産部門が違えば、異なった引かれ方をする。同じ生産部門であっても、同様に異なり、技術的な条件や生産過程の社会的な構成の変化に応じてこの関係は変化する。しかし、与えられた資本が、いかなる比率で不変と可変に分割されたとしても、そして後者、可変部分の不変部分に対する比率が、なんであれ、1:2 または 1:10 または 1:x,であれ、ここに置かれた法則は何の影響も受けない。なぜなら、我々の以前の分析によれば、不変資本の価値は、生産物の価値に再現されるが、新たに生産された価値、新たに創造された価値である生産物には入り込まないからである。1000任の紡績工を雇用するためには、100人を雇用する以上の原材料、紡錘等々が勿論のこと必要となる。とはいえ、これらの追加的な労働手段の価値が上昇しようと、低下しようと、変化なく保持されようと、それが大きかろうと小さかろうと、そこに投入された労働力による剰余価値の生産過程には、何の影響も生じない。従って、前述の法則は、かくて、次のような形式をとる。異なる資本により生産される価値の大きさと剰余価値の大きさは、-- 与えられた労働力の価値とその搾取率が同じならば、-- 直接的に、これらの資本の可変部分を構成する大きさにより変化する。すなわち、生きた労働力に変換されたそれらの構成部分に応じて変化する。〉(インターネットから)

 (【付属資料】(2)に続く。)

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(6)

2024-03-14 15:13:14 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(6)


【付属資料】(2)


●第9パラグラフ

《61-63草稿》

  〈競争がひき起こすものは、利潤の均等化--つまり諸商品の価値平均価格への還元である。個々の資本家は、マルサス氏の言うように、自分の資本のあらゆる部分について均等な利潤を期待する--これは言い換えれば、個々の資本家が資本のあらゆる部分を(その有機的な機能を無視して)利潤の独立な源泉とみなすということ--資本のあらゆる部分が彼にはそのように現われるということ--にほかならない、それと同じように、それぞれの資本家は、資本家の階級にたいして、自分の資本を、あらゆる他の同じ大きさの資本が個々の資本家にもたらすのと同じ大きさの利潤の源泉とみなすのである。すなわち、ある特殊な生産部面のそれぞれの資本は、総生産前貸しされている総資本の部分とみなされるにすぎないのであって、それぞれの資本は、--その大きさ、その持ち分に比例して--それが総資本の一可除部分であるのに比例して、総剰余価値にたいする--不払労働または不払労働生産物の全体にたいする--その分けまえを要求するのである。こうした外観は資本家にたいして--資本家には一般にすべてのことが競争のなかで転倒して見えるのである--次のことを保証する、またそれは資本家にたいしてだけでなく、若干の、資本家に最も傾倒しているパリサイの徒や学者たちにたい/しでも次のことを保証する。すなわち、資本は労働とは独立な所得源泉だということである。というのは、実際に、それぞれの特殊な生産部面における資本の利潤は、けっして、ただ、自分で「生産する」ところの不払労働の量によってのみ規定されているのではなく、これは総利得の壷(ツボ)のなかに引き寄せられるのであって、そこから個々の資本家は総資本にたいしてもつ自分たもの持ち分に比例して取り分を引き出すのだからである。〉(草稿集⑥87-88頁)
 〈{先に見たように、A・スミスは、はじめに価値を、またこの価値の諸成分としての利潤や賃金などの関係を、正しく把握しながら、次に逆の方向に進んで、賃金と利潤と地代との価格を前提し、それらを独立に規定して、それらのものから商品の価格を構成しようとしている。こうして、この逆転の意味するところは、はじめに彼は事柄をその内的関連に従って把握し、次に、それが競争のなかで現われるとおりの転倒した形態で把握している、ということである。この両方の把握が、彼においては、素朴に交錯しており、その矛盾に彼は気づいていない。これに反して、リ力ードウは、法則をそのものとして把握するために、意識的に競争の形態を、競争の外観を、捨象している。彼が非難されるべきことは、一方では、彼の抽象がまだ十分であるにはほど遠く完全に十分ではない、ということである。したがって、たとえば彼は、商品の価値を理解する場合に、すでに早くもあらゆる種類の具体的な諸関係への考慮によって決定的な影響を受けることになっている。他方では、彼が非難されるべきことは、彼が現象形態を、直接にただちに、一般的な諸法則の証明または説明と解して、それをけっして展開していない、ということである。前者に関して言えば、彼の抽象はあまりにも不完全であり、後者に関して言えば、それは、それ自体まちがっている形式的な抽象である。}〉(同145頁)
 〈リ力ードウの場合に一面性が出てくるのは、次のようなことからである。すなわち、彼は一般にいろいろな経済的/諸範疇または諸関係が価値理論と矛盾しないことを証明しようとするのであって、逆にそれらを、それらの外観的な諸矛盾とともに、この基礎〔価値理論〕から展開することはやっていないということ、すなわち、この基礎そのものの展開を明示することはやっていない、ということである。〉(同212-213頁)
  〈経済学は、A・スミスにおいてある一定の全体にまで発展し、それが包括する領域はある程度まで確定された。だからこそ、セーは経済学を一冊の教科書のなかに浅薄に体系的にとりまとめることができたのである。スミスとリ力ードウとのあいだには、なお、生産的および不生産的労働、貨幣制度、人口論、土地所有および租税に関する細部の研究が現われるにすぎない。スミス自身は、非常に素朴に、絶えまない矛盾のなかで動揺している。一面では、彼は、経済学的諸範疇の内的関連を、すなわちブルジョア的経済体制の隠れた構造を、追求する。他面では、彼は、これとならんで、競争の諸現象のうちに外観的に与えられているとおりの関連を、したがってまた、実際にブルジョア的生産の過程にとらわれてそれに利害関係をもつ人とまったく同様な非科学的な観察者にたいして現われるとおりの関連を、併置している。この二つの把握方法--そのうちの一方は、ブルジョア的体制の内的関連のうちに、いわばその生理学のうちに、突入するものであり、他方はただ、生活過程のうちに外面的に現われるものを、それが現われ現象するとおりに、記述し、分類し、物語り、それに図式的な概念規定を与えるにすぎないものである--が、スミ/スの場合には平気で併存しているだけでなく、入り乱れ絶えず矛盾し合っているのである。彼の場合には、このことは正当であった(貨幣に関する個々の細部の研究を除いて)。なぜならば、彼の仕事は事実上二重のものだったからである。一方では、ブルジョア社会の内的生理学に突入しようと試みているが、他方では、一部にはまずブルジョア社会の外的に現われる生活形態を描き、その外的に現われる関連を叙述し、また一部には、さらにこの現象にたいして専門用語と適切な知的概念を見つけだし、したがって一部にはこの現象をまず言葉と思考過程のうちに再生産しようと試みている。一方の仕事も他方の仕事も、同じように彼の関心をひく。そして、両方がそれぞれ独立に行なわれるので、ここにはまったく矛盾する考え方が出てくる。その一方は、内的関連を多かれ少なかれ正しく言い表わすものであり、他方は、同じ正当性をもって、そしてなんらの内的関係もなしに--他方の把握方法とまったく関連なしに--、現象として現われる関連を言い表わしている。ところで、スミスの後継者たちは、彼らがスミスに反対してもっと古いすでに克服された把握方法の反動を示さないかぎりでは、自分たちの細部の研究や考察において支障なく進行することができるし、また、つねにA・スミスを自分たちの土台とみなすことができる。それは、彼らがスミスの著書の深遠な部分に結びつくにしろ、通俗的な部分に結びつくにしろ、または、つねにほとんどの場合がそうであるが、両方をごちゃまぜにするにしろ、同じことである。しかし、最後にリ力ードウがそのあいだに踏み込んで、この科学にむかつて、止まれ! と号令する。ブルジョア的体制の生理学の--その内的な有機的な関連および生活過程を把握することの--基礎、出発点は、労働時間による価値の規定である。そこからリ力ードウは出発し、いまやこの科学にたいして、そのこれまでの慣行を放棄し、次のことについて答弁するように強要する。すなわち、この科学によって展開され叙述されたその他の諸範疇--生産関係と交易関係--や諸形態が、この基礎に、出発点に、どこまで一致するかまたは矛盾するかということ、すなわち単に過程の諸現象形態を再現し再生産するにすぎない科学(したがってまたこれらの現象そのもの)が、ブルジョア社会の内的関連つまり真実の生理学の土台またはそれの出発点をなすところの基礎に、そもそもどこまで適合するかということ、すなわちこの体制の外観上の運動と真実の運/動とのあいだの矛盾はそもそもどんな事情にあるのかということについてである。したがって、これこそは、この科学にたいするリ力ードウの偉大な歴史的意義なのであり、そのためにこそ、愚かなセーは、リ力ードウに自分の足場を奪われて、次のような文句で自分のうっぷんを晴らしたのである。「すなわち、それ(この科学)を拡張するという口実で、それを無に押しやってしまった」と。この科学的功績と緊密に結びついているのは、リ力ードウが諸階級の経済的対立を--その内的関連が示すとおりに--暴露し、言い表わしているということであり、したがってまた、歴史上の闘争と発展過程との根源が、経済学のなかで理解され発見されているということである。したがって、ケアリは、のちにその箇所を見よ、リ力ードウを共産主義の父として告発するのである。「リ力ードウ氏の体系は不和の体系である。……その全体が、階級間と諸国民間との敵意を生みだす傾向をもっている。……彼の本は、土地均分論、戦争および略奪の手段によって権力を得ょうとするデマゴーグのほんとうの手引き書である。」(=・〔C・〕ケアリ『過去、現在および未来』、フィラデルフィア、1848年、74、75ページ。)〉(同233-235頁)
  〈競争ではすべてのことがまちがって現われ、転倒しているので、個々の資本家は、1、自分は商品の価格の引下げによって商品1個当たりの自分の利潤を減少させるが、しかし量の増加によってより大きな利潤をあげるのだと思いこむ。(この場合にも、やはり、利潤率がいっそう低下する場合でも充用資本の増大から利潤量の増大が生ずることが思い違いされる) 2、自分は商品1個当たりの価格を確定してから掛け算によって生産物の総価値を決めるのだと思いこむ。ところが、本来の手続きは割り算なのであって、掛け算は、ただ、第二次的に、この割り算を前提したうえで、正しいだけなのである。俗流経済学者がやっているのは、実際には、競争にとらわれている資本家たちの奇妙な考えを外観上はもっと理論的な言葉に翻訳して、このような考えの正当性をでっちあげようと試みること以外のなにものでもないのである。〉(同377頁)
  〈質的には(量的には必ずしもそうでないとしても)価値としての表現であるにもかかわらず、価格は非合理的な表現にも、すなわち価値をもたない諸物象の貨幣表現にもなることができる。たとえば、誓言は価値をもつものでないにもかかわらず(経済学的に見ればここでは使用価値は問題にならない)、偽りの誓言が価格をもつことはありうる。というのは、貨幣は商品の交換価値の転化された形態にほかならず、交換価値として表示された交換価値にほかならないのではあるが、他面でそれは一定分量の商品(金、銀、あるいは金銀の代理物)なのであって、なにもかにもが、たとえば長子相続権と一皿の豆料理とが、互いに交換されうるのだからである。価格は、この点では、0/0などのよ/うな代数学における不合理な表現と同様の事情にある。〉(草稿集⑨397-3987頁)

《初版》

 〈この法則は、外観にもとづくあらゆる経験とは明らかに矛盾している。周知のように、充用総資本の百分比を計算してみて、相対的に多くの不変資本と少ない可変資本とを充用する綿紡績業者は、だからといって、相対的に多くの可変資本と少ない不変資本とを運転する製パン業者に比べて、手に入れる利益あるいは剰余価値が小さいわけではない。この外観上の矛盾を解決するためには、なお多くの中間項が必要なのであって、このことはちょうど、0/0が一つの実数を表わしうることを理解するためには、初等代数学の立場からは多くの中間項が必要であるのと同じである。古典派経済学は、この法則をけっして定式化しなかったにもかかわらず、この法則に本能的に執着しているが、その理由は、この法則が価値法則一般の必然的な帰結であるからである。古典派経済学は、むりやりな抽象にたよって、この法則を現象との諸矛盾から救い出そうとする。リカード学派がどのようにしてこのつまずきの石につまずいたかは、あとになって(203)わかるであろう。「ほんとうはなにも学びはしなかった」俗流経済学は、いつものようにここでも、現象の法則を無視して外観にしがみついている。この経済学は、スピノザとは反対に、「無知は充分な根拠にな/る」と信じている。〉(江夏訳346-347頁)

《フランス語版》

 〈この法則は、外観にもとづくすべての経験と明らかに矛盾している。誰でも知っているように、相対的に多くの不変資本とわずかな可変資本とを使用する紡績業者は、それだからといって、相対的に多くの可変資本とわずかな不変資本とを使用する製パン業者よりも小さい利得または剰余価値を獲得するわけではない。この外観上の矛盾の解決が多くの中間項を必要とすることは、代数において0/0が一つの実数を表わしうることを理解するためには多くの中間項が必要である、のと同様である。古典派経済学は、この法測をけっして定式化しなかったとはいえ、この法則が価値の本性そのものから生じているがゆえに、この法則に本能的に執着しているのである。どのようにしてリカード学派がこのつまずきの石につまずいたかは、後に見るであろう(3)。俗流経済学はどうかといえば、それはいたるところでそうであるよ/うにここでも、現象の外観を盾にとって現象の法則を否定する。スピノザとは反対に、「無知は充分な根拠になる」と信じているのである。〉(江夏・上杉訳317-318頁)

《イギリス語版》

  〈(10) この法則は、外観を見る限りでのあらゆる経験とは、明らかに矛盾している。誰もが知っている様に、綿紡績工場主は、自分が注ぎ込んでいる資本の全部について、多くの部分を不変部分に、わずかな部分を可変部分に用いていることを知っており、だからといって、可変部分に多くを、不変部分には殆ど注ぎ込んでいない製パン工場主に較べて、少ない利益、または少ない剰余価値を懐にしていると云う分けではない。この外観的矛盾の解答のためには、多くの中間項が依然として必要なのである。丁度、初等代数の地点から見れば、0 / 0 が実際の大きさを表していることを理解するためには、多くの中間項が必要なのと同じ様なものである。この法則を未だに把握していない古典経済学ではあるが、この点に本能的に固執する。なぜかと云えば、これが価値の一般法則としての必然的帰結だからである。古典経済学は、強引なる抽象化によって、この矛盾する現象の混乱から法則を解消しようとする。リカード派が、この躓きの石を乗り越えるためにどのように嘆いたか*2 は、後に、明らかにする。(本文注: 2 *より詳細については、第4冊 剰余価値学説史で示されるであろう。) 全くのところ、「実際には何も学ばない」俗流経済学は、この点で、法則が明瞭に成り立ち、その内容を説明しているにも係わらず、いつもの様に、至るところで、その反対側にある外観に固執する。スピノザとは逆に、彼等は「無知であることが、その充分な理由である。」と信じている。〉(インターネットから)


●原注203

《初版》

 〈(203) これについての詳細は「第4部」で。〉(江夏訳347頁)

《フランス語版》

 〈(3) 第4部で。〉(江夏・上杉訳318頁)

《イギリス語版》 本文に挿入されている。


●第10パラグラフ

《初版》

 〈ある社会の総資本が毎日動かす労働は、1個の単一労働日と見なすことができる。たとえば、労働者の数が100万で、労働者1人の平均労働日が10時間であれば、社会的労働日は1000万時間から成り立っている。この労働日の限界が肉体的に画されていようと社会的に画されていようと、それの長さが与えられていれば、剰余価値の量は、労働者数すなわち労働者人口の増加によってしかふえることができない。労働者人口の増加が、このばあいには、社会的総資本による剰余価値生産の数学的限界を成している。逆に、労働者人口の大きさが与えられていれば、この限界を形成するものは、労働日の可能な延長である(204)。次章で見るように、この法則は、これまでに扱われた剰余価値形態にだけあてはまる。〉(江夏訳347頁)

《フランス語版》

 〈一社会の総資本が日々平均して動かしている労働は、ただ一つの労働日と見なすことができる。たとえば、労働者の数が100万であって平均労働日が10時間であれば、社会的労働日は1000万時間から成る。この労働日の長さが与えられておれば、その限界が肉体的にきめられていようと社会的にきめられていようと、剰余価値の量は、労働者の数すなわち労働者人口の増加によってしか増加することができない。ここでは労働者人口の増加が、社会資本による剰余価値生産の数学的限界をなす。逆に、労働者人口の大きさが与えられておれば、この限界を形成するものは労働日の延長の可能性である(4)。この法則がこれまで取り扱われてきた剰余価値の形態についてのみ有効であることは、次章でわれわれの見るところであろう。〉(江夏・上杉訳318頁)

《イギリス語版》

  〈(11) 朝になると同時に、そして夜が終わるまでの間、社会の全資本によって注ぎ込まれる労働を、一労働日の集合体とみなしてみよう。もし、そこに労働者が100万人いて、一労働者の平均労働日が10時間であるとすれば、この社会的労働日は、1,000万時間を構成する。この労働日の長さが与えられているならば、それが物理的に決められていようと、社会的に決められていようと、剰余価値の大きさは、労働者の数 すなわち 労働人口の増加によってのみ増加され得る。ここでは、人口の増大が、全社会的資本による剰余価値の生産の数学的限界を形成する。これとは逆に、人口の大きさが与えられるものであるとしたら、この限界は、労働日の可能的長さ*3 によって形成される。〉(インターネットから)


●原注204

《61-63草稿》

 〈著書『諸国民の経済学に関する一論』、ロンドン1821年には2、3の非常にすぐれた独創的論点が含まれてる。〉(草稿集⑨478頁)
  〈絶対的剰余労働相対的剰余価値
  「労働、すなわち社会の経済的時間は、ある一定の部分であり、たとえば100万人の1日当り10時間、または1000万時間である。」(四七ページ。)
  「資本にはその増加の限界がある。この限界は、たとえ共同社会の生産諸力はまだ改善の余地があるとしても、どの一定の時期においても、使用される経済的時間の現実の長さによって、画されるであろう。社会は、労働量を拡大することによって、または労働をより効果的にすることによって、言い換えれば、人口、分業、機械、科学的知識を増加させることによって、〔生産諸力を〕増大させることができる。」(49ページ。)「もし資本が、活動中の労働によって与えられた等価物または価値しか受け取ることができないとすれば(したがって経済的時間すなわち労働日が与えられているとすれば)、もしこのことが資本の限界であり、そのときどきにおいて現存する社会状態ではそれを/乗り越えることは不可能であるとすれば、賃金に割り当てられるものが大きければ大きいほど、利潤はそれだけ小さくなる。このことは一般的原理であるが、個々の場合において生じるのではない。なぜなら、個々の場合における賃金の増加は、普通、特定の需要の結果であり、この需要は、他の諸商品およびそれらの利潤との関係で価値の増加をもたらすのがつねだからである。」(49ページ。){利潤--および剰余価値率でさえも--は、ある個別の部門では、一般的水準を超えて上昇することがありうる。とはいっても、それと同時に賃金も、この部門では一般的水準を超えて上昇するのであるが。しかし資本家が、商品にたいする需要が平均を超えるのと同じだけの賃金を支払うならば(利潤を規定する他の諸事情を別にすれば)、資本家の利潤は増えないであろう。一般に、個別の部門における一般的水準を超える賃金および利潤の騰落は、一般的関係とはなんの関係もない。}〉(草稿集⑨479-480頁)

《初版》

 〈(204) 「社会の経済的時間である労働は、ある与えられた部分であって、たとえば100万人の1日につき10時間、すなわち1000万時間になる。……資本には、増加の限界がある。この限界の到達点は、どの与えられた時期においても、使用される経済的時間の現実の長さであろう。」(『国民経済学にかんする一論、ロンドン、1821年』48、49ページ。)〉(江夏訳347頁)

《フランス語版》

 〈(4) 「社会の経済的時間である労働は、一つの与えられた量、つまり、100万の人間の1日につき10時間、すなわち1000万時間である。……資本には増加の限界がある。この限界は1年のどの時期にも、使用される経済的時間の現実の長さの範囲内にあるだろう」(『国民経済学にかんする一論』、ロンドン、1821年、47、49ページ)。〉(江夏・上杉訳318頁)

《イギリス語版》

  〈(本文注:3 * 「社会の、経済的時間としての労働が与えられたものであるとしよう。例えば、100万人の日10時間 または 1,000万時間…. 資本は増加に境界線を持っている。この境界は、ある与えられた期間、雇用された経済時間の現実の延長によって獲得さる。」(「諸国の政治経済に関する一論」ロンドン 1821年 ) ) しかしながら、このことは、つまりこの法則は、ここまで取り上げて来た剰余価値の形成のためにのみ適用されているということを次章で知ることになろう。)〉(インターネットから)


●第11パラグラフ

《61-63草稿》

 〈同職組合や中世的な労働組織の側からの禁止令、であって、まさに二人といないすぐれた親方といえども〔きめられた〕最大数をこえる労働者の使用を禁じられ、親方でない、ただの商人にいたってはそもそも労働者の使用自体を禁じられていたのである。〉(草稿集⑨253頁)

《初版》

 〈剰余価値の生産にかんするこれまでの考察から明らかなように、任意の貨幣額または価値額がどれも、資本に転化できるわけではなく、この転化には、むしろ、個々の貨幣所持者または商品所持者の手中にある貨幣または交換価値の一定の最小限が、前提になっている。可変資本の最小限は、まる1年じゅう毎日剰余価値の獲得のために使われている1個の労働力の費用価格である。この労働者が、自分自身の生産手段をもっていて労働者として生活することに甘んずれば、彼にとっては、自分の生活手段の再生産に必要な労働時間たとえば毎日8時間で、充分であろう。だから、彼が必要とする生産手段も、8労働時間分だけでよいであろう。これに反して、この8時間以外にたとえば4時/間の剰余労働を彼に行なわせる資本家は、追加生産手段を調達するための追加貨幣額を必要とする。ところが、われわれの仮定では、この資本家は、毎日奪取する剰余価値で労働者と同じように暮らすことができるためには、すなわち、不可欠な必要をみたしうるためには、すでに2人の労働者を使っていなければならないであろう。このばあい、彼の生産目的は、単なる生活維持であって富の増加ではないであろうが、後者は、資本主義的生産では前提されている。彼が普通の労働者の2倍だけよい暮らしをし、しかも、生産された剰余価値の半分を資本に再転化するためには、彼は、労働者数と同時に前貸資本の最小限を、8倍にふやさなければならないだろう。もちろん、彼自身が、彼の労働者と同じように生産過程で直接に働いてもかまわないが、そのばあい、彼は、資本家と労働者との中間物、「小親方」でしかない。資本主義的生産のある程度の高さは、資本家が、資本家すなわち擬人化された資本として機能している全時間を、他人の労働の奪取したがって統御のためにも、この労働の生産物の販売のためにも、費やすことができる、ということを条件としている(205)。中世の同職組合事業は、手工業親方が資本家になることを、1人の親方が使ってもかまわない労働者数の最大限を非常に小さく制限することによって、むりやり阻止しようとした。貨幣または商品の所持者は、生産のために前貸しされる最小額が中世の最大限をはるかに越えるときに初めて、現実に資本家になるのである。ヘーゲルがその論理学のなかで発見した法則、すなわち、単なる量的な変化がある点で質的な差異に一変するという法則の正しいことが、自然科学のばあいと同様にここでも実証されている(205a)。〉(江夏訳347-348頁)

《フランス語版》

 〈いまわれわれが行なったばかりの剰余価値の生産についての考察からは、どの価値額または貨幣額も資本に転化できるわけではない、という結果が生ずる。最小限度の貨幣または交換価値が資本家の位を志願する者の手中に見出されなければ、この転化は起こりえない。可変資本の最小限度は、剰余価値の生産に1年中使用される1個の労働力の平均価格である。この1個の労働力の所有者が自分の生産手段を用意していて、労働者として生活することに満足するならば、自分の生活手段の支払いをするために必要な時間、たとえば1日に8時間労働するだけで充分であろう。彼はまた、8労働時間のための生産手段しか必要としないであろう。これに反して、この8時間以外にたとえば4時間の剰余労働を彼に行なわせる資本家は、追加の生産手段を調達するための追加の貨幣額を必要とする。われわれの与件にしたがえば、/彼が毎日ふところに入れる剰余価値をもって1人の労働者と同じように生活しうるためには、すなわち、自分の不可欠な必要をみたすためには、彼はすでに2人の労働者を使っていなければならないであろう。このばあい、彼の生産の目的はただたんに自分の生活を維持することであって、富の獲得ではないであろう。ところで、後者が、資本主義的生産の、言外に意味された目的なのだ。彼が普通の労働者よりも2倍だけよい生活をし、生産された剰余価値の半分を資本に転化するためには、彼は労働者の数と同時に前貸資本を8倍に増加しなければならないであろう。もちろん彼自身も彼の労働者と同様に作業につくこともあるが、そのばあいには彼はもはや雑種生物、資本家と労働者との中間物、「小親方」でしかない。ある程度の発展段階では、資本家は、彼が擬人化された資本として機能するあいだの全時間を、他人の労働の奪取と監督のためにもこの労働の生産物の販売のためにも使うことができる、ということが必要である(5)。中世の同職組合事業は、同職組合の頭(カシラ)である親方が使用権をもつ労働者の数を、非常に限られた最大限度に制限することによって、この親方が資本家に変わるのを妨げようと努めた。貨幣または商品の所有者は、彼が生産のために前貸しする最小額が、中世の最大限度をすでにはるかに越えたときにはじめて、現実に資本家になる。ここでも、自然科学においてと同様に、へーゲルがその論理学で証明した法則、すなわち、単なる量における変化はある程度に達すると質における差異を惹き起すという法則が、確証されている(6)。〉(江夏・上杉訳318-319頁)

《自然弁証法》(エンゲルス)

  〈したがって自然および人間社会の歴史からこそ、弁証法の諸法則は抽出されるのである。これらの法則は、まさにこれら二つの局面での歴史的発展ならびに思考そのものの最も一般的な法則にほかならない。しかもそれらはだいたいにおいて三つの法則に帰着する。すなわち、
 量から質への転化、またその逆の転化の法則、
 対立物の相互浸透の法則、
 否定の否定の法則。
 これら三法則はすべて、ヘーゲルによって彼の観念論的な流儀にしたがってたんなる #思考# 法則として展開されている。すなわち第一の法則は『論理学』の第一部、存在論のなかにあり、第二の法則は彼の『論理学』のとりわけ最も重要な第二部、本質論の全体を占めており、最後に第三の法則は全体系の構築のための根本法則としての役割を演じている。誤謬は、これらの法則が思考法則として自然と歴史とに天下り的に押しつけられていて、自然と歴史とからみちびきだされてはいないという点にある。そしてここからあの無理にこしらえあげられ、しばしば身の毛もよだつものとなっている構成の全体が生じてきている。すなわちそこでは、世界は、好むと否とにかかわらず、ある思想体系――じつはそれ自体がやはり人間の思考のある特定の段階の産物でしかないところの、――に合致していなければならないのである。われわれがもし事柄をひっくりかえしてみるならば、すべては簡単になり、観念論的哲学ではことのほか神秘的に見えるあの弁証法の諸法則はたちどころに簡単明瞭となるのである。……/
  一、量から質への転化とその逆の転化の法則。上述のわれわれの日的からすれば、この法則は次のように表現することができる。すなわち、自然のなかでは、各個の場合ごとにそれぞれ厳密に確定しているある仕方で、質的な変化はただ物質または運動(いわゆるエネルギー)の量的な加減によってのみ起こりうる、と。
 自然のなかでの質的区別はすべて化学的組成の相違にもとづくか、運動の量ないしは形態(エネルギー)の相違にもとづくか、あるいは、これはほとんどいつでもそうなのだが、これら二つのものの相違にもとづいている。だから物質あるいは運動を付加ないしは除去することなしには、つまり当該物体の量的変化なしには、その質を変化させることは不可能である。こうしてヘーゲルの神秘的な命題もこのような形式のもとではまったく合理的にみえるばかりでなく、ほとんど自明でさえある。/
  しかしながらヘーゲルによって発見されたこの自然法則が最大の勝利をおさめた領域は、化学の領域である。化学は、組成の量的な変化による物質の質的な変化にかんする科学とよぶことができる。このことはすでにヘーゲル自身も知っていた(『論理学』、全集、第三巻、四三三ページ)。まず酸素をとろう。通常の二原子のかわりに三原子が結合して一つの分子になれば、われわれは、臭気と作用とによって普通の酸素とははっきり異なる一物質、オゾンを得る。そして酸素が窒素または硫黄と結合するさいのあのさまざまな比にいたってはどうだろう! じつにそれらの比のどれからも、他のすべての物質と質的に異なる物質が一つずつ形成されてゆくのである。笑気(一酸化窒素〔亜酸化窒素〕N2O)と無水硝酸(五酸化窒素〔五酸化二窒素〕N2O5)とはなんと異なっていることだろう! 前者は常温で気体であり、後者は常温では固体結晶をした物質である。しかも組成上の区別はといえば、後者が前者より五倍多い酸素をもつというのがそのすべてである。そして両者のあいだにはなお別の三つの窒素酸化物(NO,N2O3,NO2)があって、それらはさきの二者ともおたがいどうしとも質的に異なっているのである。
 このようなことは炭素化合物の同族列、とくに比較的簡単な炭化水素の同族列ではなおいっそう適切なものとして現われてくる。正パラフィン系のうちの最低位のものはメタン CH4 である。この場合には炭素原子の四個の結合単位は四個の水素原子で飽和している。第二番目のエタン C2H6 はたがいに結合した二個の炭素原子をもち、遊んでいる六個の結合単位は六個の水素原子で飽和している。このようにして公式 CnH2n+2 にしたがって C3H8,C4H10 等々とすすみ、CH2 が付加されるごとにそのまえのものとは質的に異なる物質が形成されてゆく。この系列の最低位の三つの成員は気体であり、既知の最高位のもの、ヘキサデカン C16H34 は沸点が摂氏二七八度の固体である。パラフィン系からみちびきだされる(理論的に)公式 CnH2n+2O の第一アルコールの系列と、一塩基脂肪酸(公式 CnH2nO2 )についても事情はまったく同じである。C3H6 の量的付加がいかなる質的区別をもたらしうるかは、どうにか飲めるかたちにしたエチルアルコール C2H6O を他のアルコール類と混ぜないで飲んだ場合と、同じエチルアルコールを飲むにしても、こんどは悪名高いフーゼル油の主成分をなすアミールアルコール C5H12O を少量つけくわえておいた場合の、二つの場合の経験が教えてくれるだろう。われわれの頭は翌朝には確実に、しかも頭痛とともに、これをさとることだろう。だから酔いとその後の二日酔いとは、一方はエチルアルコールの、他方はこれにつけくわえられた C3H6 の、ともに同じく質に転化された量だとさえいえるのである。〉(全集第20巻379-383頁)

《イギリス語版》

  〈(12) これまでの、剰余価値の生産で取り上げたことからは、あらゆる貨幣総額、またはあらゆる価値が、気ままに資本に変換できるものではないということが云える。この変換がなされるためには、実のところ、ある最小限の貨幣、または、交換価値が、貨幣とか商品の個人的所有者の手の中に、予め必要条件として前提されていなければならない。最小限の可変資本とは、一単位労働力の費用価格と云うことである。1年間を通して、朝から夕まで、剰余価値の生産のために用いられる一単位労働力の価値と云うことである。もし、この労働者が彼自身の生活手段を所有している状態にあるならば、そして労働者として生きていくことに満足しているならば、彼は、彼の生活手段の再生産に必要な時間を超えて働く必要はない。例えばそれは日8時間で足りよう。彼は、他には、ただ、8労働時間に必要な生産手段を求めることだけであろう。他方、資本家は自身をしてどうするか。これらの8時間の他に、云うなれば4時間の剰余労働を、追加的な生産手段を装備するための追加的な貨幣を要求する。とはいえ、我々の仮説によれば、彼は、日々妥当な剰余価値を得た上で、一労働者と同じように、それ以上ではなく、生活して行くためには、2人の労働者を雇わねばならないであろう。すなわち、彼の必要な欲求を満足させることができるためには。この場合、彼の生産の行き着く先は、単に生活の維持であって、富の増加ではない。だが、この後者こそ資本家的生産を意味している。通常の労働者の2倍の生活を送り、それに加えて、その剰余価値の半分を資本に転換するためには、彼は、労働者の数とともに、前貸し資本の最小限度額を8倍に増額しななければならないであろう。勿論、彼は労働者の様に、自身をして働かせることはできる。直接的に生産過程に加わればよい。だがしかし、そうしたからと言って、どうなるか。ただの資本家と労働者のハイブリッド、小工場主である。資本家的生産のある段階では、資本家は全ての時間を資本家として機能するように身を捧げることができる。すなわち人格化した資本として、従って、他の労働者の管理をし、この労働の生産物の販売を管理する者として、特化するに至る。*4
  それ故、中世のギルドは、親方が資本家に変態しないように力をもって阻止することを試みた。一親方が雇用し得る労働者の数の最大限を小さく制限したのである。ただ一つ、この中世の最大限数を大きく超えて生産のために前貸しされることで、実際に、貨幣または商品の所有者が、資本家に転化するのである。ここに、自然科学のごとく、ヘーゲル ( 彼の「論理」) によって発見された法則の正しさが現われている。すなわち、単なる量的な違いが、ある一点を超えれば、質的な変化へと転じる。*5〉(インターネットから)


●原注205

《初版》

 〈(205) 「借地農業者は自分自身の労働をあてにすることはできない。もしあてにすれば、あてにしたことで損をする、と私は主張するだろう。彼の仕事は、全体にたいする一般的な注意でなければならない。彼の打穀夫は監視されていなければならない。そうでないと、彼はやがて、打穀されない穀物の分だけ賃金を損するであろう。彼の草刈り夫や刈り入れ夫なども、監視されていなければならない。彼は絶えず、自分の柵(サク)の周囲を歩き回っていなければならない。なおざりにされていないか気をつけなければならない。どこか一箇所に閉じこもっていようものなら、必ずや、なおざりにされるであろう。」(『食糧の〔現/在〕価格と農場規模との関連の研究、借地農業者著、ロンドン、1773年』、12ページ。)この本は非常に面白い。この本では、「資本家的借地農業者」または「商人的借地農業者」--はっきりそう名づけられている--の発生史を研究することができるし、また、もともと生計を維持さえすればよい「小借地農業者」に対抗的な自己賛美を、とくと聞くことができる。「資本家階級は、最初は部分的に、しまいには全面的に、手の労働の必要から解放される。」(『国民経済学にかんする講義の教科書、リチャード・ジョーンズ師著、ハートフォード、1852年』、第3講。)〉(江夏訳348-349頁)

《フランス語版》

 〈(5) 「借地農業者は自分自身の労働をあてにすることはできない。もし彼がそうすれば損をするだろう、と私は主張する。彼の職分は全体を監督することである。彼は自分の打穀夫、草刈夫、刈入夫などを監視しなければならない。彼は絶えず自分の柵を一周してなにごとも粗略にされていないかどうか注意していなければならず、もし彼がどこか1ヵ所にじっとしていれば、必ず万事が粗略にされるだろう」(『食糧の現在価格と農場規模との関連の研究、一借地農業者著』、ロンドン、1773年、12ページ)。この著者は非常に興味深い。この著書のなかでは、「資本家的借地農業者」または「商人的借地農業者」と略さずに呼ばれているとおりのものの発生を研究することができるし、また、自分の生計の気苦労しかもたない「小借地農業者」に比べての自己賛美を読みとることができる。「資本家階級は当初は部分的に、しまいには全面的に、手の労働の必要性から解放される」(『国民経済学にかんする講義教科書』リチャード・ジョーンズ師著、ハートフォード、1852年、第3講、3/9ページ)。〉(江夏・上杉訳319-320頁)

《イギリス語版》

  〈注:4 *「借地農場経営者は、彼自身の農業労働に勤しむことはできない。もし、そう彼がしたら、彼はそれによって、損をすることになる。と私なら云うであろう。彼のやるべきことは、農場すべての全般的監視でなければならない。彼の脱穀作業者は監視されねばならぬ。そうでないと、脱穀されぬままの小麦のために、直ぐに彼の賃金を失うことになろう。彼の干し草の刈り取り作業者も、その他の者も監視されねばならない。彼は、常に、農場の柵を巡らねばならない。なにものも放置されないことを見て行かねばならない。彼がもし、ある一ヶ所に留められていたなら、このようには行かない。」(J.アーバスナット 「食糧の現在価格と農場規模との関係についての一研究」ロンドン 1773年) この本は非常に興味深い。この本から、「資本家的借地農場経営者」または「商人的借地農場経営者」と系統だって呼称される者の起源を学ぶことができる。そして、生存だけしかなし得ない小農場者を踏みつけにしての自己称賛の記録を見出す。「資本家階級は最初は部分的に、そして、自分の手作業から解放されて、最終的には完璧にそのようになる。」(「諸国の政治経済についての講義教科書 聖リチャード ジョーンズ」ハートホード 1852年 第三講義 ) 〉(インターネットから)


●原注205a

《初版》

 〈(205a) 近代化学で応用され、ロランジェラールが開拓し、ヴュルツ教授がパリで初めて科学的に述べた分子説は、これ以外のどんな法則にも立脚しているものではない。〉(江夏訳349頁)

《フランス語版》

 〈(6) ロランとジェラールがはじめて科学的に展開した近代化学の分子説は、この法則を基礎にしている。〉(江夏・上杉訳320頁)

《自然弁証法》(エンゲルス)

  〈しかし最後にこのヘーゲルの法則は化合物だけではなく、化学的元素そのものにたいしてもなりたつのである。われわれは今日、
  「元素の化学的性質は原子量の周期関数であること」(ロスコー=ショルレンマー『詳解化学教程三第二巻、八二三ページ)、
  したがってその質が原子量という量によって条件づけられていることを知っている。そしてこのことの検証はみごとになしとげられた。メンデレーエフが立証したように、原子量の順に配列された親縁な元素の系列中にはさまざまな空位があり、それらはその箇所になお新元素が発見されるべきことを示唆するものである。これらの未知の元素の一つで、アルミニウムにはじまる系列中でアルミニウムの次にあるところからエカアルミニウムと彼が命名した元素について、彼はその一般的な化学的性質をまえもって記述し、おおよそその比重と原子量および原子容を予言しておいた。数年後ルコック・ド・ボアボドランはこの元素を実際に発見したが、メンデレーエフが予想していたことはごくわずかのずれを除いては的中した。エカアルミニウムはガリウムとして実在のものとなった(48)(前掲書、八二八ページ)。量の質への転化についてのヘーゲルの法則の--無意識的な--適用によって、メンデレーエフは、未知の惑星、海王星の軌道の計算におけるルヴェリエの業績(49)に堂々と比肩しうるほどの科学的偉業をなしとげたのである。〉(全集第20巻384頁)

《イギリス語版》

  〈注:5 *近代化学の分子理論が最初に科学的に系統建てられたのは、ローランとジェラールによってであり、他の法則に依拠してはいない。(第三版への追加) この理論の説明ために、化学者でない者にとっては、なかなか難しいが、我々は、1843年に、C.ジェラールによって最初にそのように命名された炭素複合物の同族系列について、命名者本人が、この時、述べていることを書き留めておこう。この系列は、この物 独特の一般的な代数的公式を持っている。すなわち、パラフィン系列ではCnH2n+2 、標準アルコールは、CnH2n+2 O 、標準脂肪酸は、CnH2nO2 、他いろいろと。ここに述べた例は、CH2という単純な形のものを量的に 分子公式に追加して行くもので、その度ごとに、質的に違った物質が形成されるのである。この重要な事実の決定に関するローランとジェラールの功績(マルクスによって過大評価されている) については、コップの「化学の発達」(ドイツ語) ミュンヘン 1873年 と、スコークマーの「有機化学の起源と発展」ロンドン1879年を見よ。--エンゲルス (マルクスからエンゲルスへの手紙1867年6月22日、MIA英文にはそれへのリンクも施されている。) (また、ヘーゲルの論理についても、同様、リンクがある。) ( 量の、質変換への可及性は、これらの化学的事項に加えて、今日的には、DNAや、脳の生化学的な解明や、コンピュータや、証券とか国債とか、中国産の鰻の蒲焼に検出された、極微量の化学物質にすら及ぶ。イトーヨーカドーの名をマラカイトグリーンから隠さしめる迄に至る。このようなどうでもいい訳者小余談的追加にも及ぶ。)〉(インターネットから)

 (【付属資料】(3)に続く。)

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(7)

2024-03-14 14:56:20 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(7)


【付属資料】(3)


●第12パラグラフ

《初版》

 〈個々の貨幣所持者または商品所持者が資本家として姿を現わすために自由に処理できなければならない価値額の最小限は、資本主義的生産の発展段階がちがえば変わってくるし、また、与えられた発展段階でも生産部面がちがえばその部面の特殊な技術的諸条件に応じてちがいがある。ある種の生産部面には、すでに資本主義的生産の発端でも、個々の個人の手のなかにはまだ存在していないような資本の最小限が、必要である。このことは、あるときは、コルベール時代のフランスのばあいのように、また、われわれの時代にいたるまでの多くのドイツ諸邦のばあいのように、このような私人にたいする国家の補助金を誘発するし、あるときは、ある種の産業部門および商業部門の経営について法的独占権をもつ会社(206)--近代的株式会社の先駆--の形成を誘発するのである。〉(江夏訳349頁)

《資本論》

  〈植民制度は商業や航海を温室的に育成した。「独占会社」(ルター)は資本蓄積の強力な槓杆だった。〉(全集23b983頁)

《フランス語版》

 〈貨幣または商品の所有者が、資本家に変態するために自由に処分することができなければならない価値額の最小限度は、生産の発展段階が異なるにしたがって変化する。発展段階が与えられていても、この最小限度はまた、事業が異なれば、それらの個々の技術的条件にしたがって変化する。資本主義的生産の端初でさえ、これらの事業の幾つかは、個人の手中にはまだ存在しなかった最小限度の資本をすでに必要としていた。このことは、私的事業主に与えられる国家の補助金--コルベール時代のフランスにおけるような、また、現代にいたっても多くのドイツ諸邦で実行されているような--を必要としたし、若干の工業・商業部門経営についての法的独占権をもつ会社(7)--近代的株式会社の先駆--の形成を必要としたのである。〉(江夏・上杉訳320頁)

《イギリス語版》

  〈(13) 貨幣または商品の所有者個々が、彼自身を資本家に変態させるために指揮をとるその価値総額の最小値は、資本主義的生産の発展段階によって変化する。それぞれの与えられた段階や生産局面の違いによって、彼等の特別なる条件や技術的な条件によって変化する。生産のある局面では、その最初の資本主義的生産局面であってすら、一単独の手の中では見出せないほどの最小限の資本を要求する。このことが、ある部分では、私人達への国家的補助金をして、そのきっかけを与える。コルベールの時のフランスや、多くのドイツ諸州が我々の時代を作り上げた様に。またある部分では、工業 商業のある部門での搾取のために、法的独占*6 を社会的に形成する。我々の近代の株式会社の先駆である。〉(インターネットから)


●原注206

《初版》

 〈(206) マルティン・ルターは、この種の社団を「独占会社」と名づけている。〉(江夏訳349頁)

《フランス語版》

 〈(7) 「独占会社」、これがマルティン・ルターがこの種の機関に与える名称である。〉(江夏・上杉訳320頁)

《イギリス語版》

  〈注:6 *マーティーン ルーサーは、これらの種類の会社を「独占的会社」と呼ぶ。〉(インターネットから)


●第13パラグラフ

《初版》

 〈われわれは、資本家と賃金労働者との関係が生産過程中にこうむった諸変化の詳細については触れないし、したがって、資本そのもののさらに立ち入った規定についても触れない。わずかばかりの要点だけをここで強調しておこう。〉(江夏訳349頁)

《フランス語版》  フランス語版にはこのパラグラフはない。


《イギリス語版》 イギリス語版にはこのパラグラフは省略されている。


●第14パラグラフ

《初版》

 〈生産過程のなかで、資本は労働にたいする指揮、すなわち活動しつつある労働力つまり労働そのものにたいする指揮を行なうほどまでに、発展した。擬人化された資本である資本家は、労働者が自分の仕事をきちんと、しかるべ/き強度で行なうように、監視している。〉(江夏訳349-350頁)

《フランス語版》

 〈われわれがすでに見たように、資本は労働の主人公になる。すなわち、運動中の労働力または労働者自身を、資本の法則のもとに服従させることに成功する。資本家は、労働者が自分の仕事を念入りにまた必要な強度で遂行するように監視する。〉(江夏・上杉訳320頁)

《イギリス語版》

  〈(14) 我々が見て来たように、生産過程の内部においては、資本が労働に対する命令権を要求する。すなわち、労働力または労働者そのものに対して指図する。擬人化した資本、資本家は、労働者が彼の仕事を規則正しくなすように、また適切な集中度をもってなすように、管理する。〉(インターネットから)


●第15パラグラフ

《61-63草稿》

  〈加えられる強制が、すなわち剰余価値、剰余生産物、あるいは剰余労働の生みだされる方法が、違った種類のものなのである。もろもろの明確な区別は、次の項目〔Abschnitt〕で、つまり蓄積を論じるときに、はじめて考察することになる。この資本のもとへの労働の形態的包摂にあって本質的なことは次の点である。/
  (1) 労働者は、自分自身の人格の、だからまた自分自身の労働能力の所有者として、この労働能力の時間極(ギ)めでの消費の売り手として、貨幣を所持する資本家に相対しているのであり、だから両者は商品所持者として、売り手と買い手として、それゆえ形式的には自由な人格として相対しているのであって、事実、両者のあいだには買い手と売り手との関係以外の関係は存在せず、この関係とは別に政治的または社会的に固定した支配・従属の関係が存在するわけではない、ということである。
  (2) これは第一の関係に含まれていることであるが--というのは、もしそうでなかったら労働者は自分の労働能力を売らなくてもいいはずだから--、彼の客体的な労働諸条件(原料、労働用具、それゆえまた労働中の生活手段も)の全部が、あるいは少なくともその一部が、彼にではなく彼の労働の買い手かつ消費者に属し、それゆえ彼自身にたいして資本として対立しているということである。これらの労働諸条件が彼にたいして他人の所有物として対立することが完全になればなるほど、形態的に資本と賃労働との関係が生じるのが、つまり資本のもとへの労働の形態的包摂が生じるのが、それだけ完全になる。〉(草稿集⑨369-370頁)

《初版》

 〈資本は、さらに、労働者階級自身の範囲の狭い生活欲求が命ずるよりも多くの労働をこの階扱に強制するところの強制関係にまで、発展した。そして、他人の勤勉の生産者として、剰余労働の汲み取り人および労働力の搾取者として、資本は、エネルギーの点でも限度を知らない点でも効果の点でも、直接の強制労働にもとづく過去のあらゆる生産制度を凌駕している。〉(江夏訳350頁)

《フランス語版》

 〈資本は、その上、労働者階級に自分の狭い範囲の必要が要求するよりも多くの労働を遂行させざるをえなくする強制的関係として、現われる。他人の活動の生産者および利用者として、労働力の搾取者および剰余労働の詐取者として、資本主義制度は、種々の強制的労働制度に直接にもとづくあらゆる従前の生産制度を、エネルギー、効果、無限の力という点で凌駕している。〉(江夏・上杉訳320頁)

《イギリス語版》

  〈(15) さらに資本は、強制的な関係にまでこれを発展させ、労働者自身の生活に必要と処方された狭い範囲を超えて、労働者階級にそれ以上の労働を強要する。あたかも、他人の活動の演出者のごとく、剰余労働のポンプ係、労働力の搾取者として、直接的に労働者を追い立てた、初期の全ての生産システムを超えて、その熱中、規範の無視、無謀、効率一辺倒なやり方で、これを強要する。   〉(インターネットから)


●第16パラグラフ

《61-63草稿》

   〈絶対的剰余価値にもとづく形態を、私は資本のもとへの労働の形態的包摂と名づける。この形態は、現実の生産者たちが剰余生産物、剰余価値を提供しているが、すなわち必要労働時間を超えて労働しているが、それが自分のためではなく他人のためであるような、それ以外の生産様式と、ただ形態的に区別されるにすまない。〉(草稿集⑨369頁)
  〈この場合には、生産様式そのものにはまだ相違が生じていない。労働過程は--技術学的に見れば--以前とまったく同じように行なわれるが、ただし、今では資本に従属している労働過程として行なわれるのである。けれども、生産過程そのもののなかでは、前にも述ぺたように{これについて前述したことのすべてがここではじめてその場所に置かれることになる}、第一に、資本家による労働能力の消費が、それゆえ資本家による監視と指揮とが行なわれることによって、支配・従属の関係が発展し、第二に、労働のより大きな逮続性が発展する。〉(同370頁)

《初版》  初版では全集版の第16パラグラフと第17パラグラフが一つのパラグラフになっている。ここでは全集版の第16パラグラフに該当する部分だけを紹介しておく。

 〈資本は、さしあたり、歴史上現存している与えられた技術的諸条件を用いて、労働を自分に従属させる。だから、資本は生産様式を直接に変えるものではない。だから、これまでに考察した形態での、労働日の単純な延長に依拠する剰余価値生産は、生産様式そのもののどんな変化にもかかわりなく現われていたのである。この剰余価値生産は、古風な製パン業でも、近代的綿紡績業のばあいに劣らず効果的であった。〉(江夏訳350頁)

《フランス語版》 フランス語版では、第16パラグラフと第17パラグラフは明確にわけられず、第16パラグラフの途中から第17パラグラフがはじまり、それが途中で改行されて続いている。ここではフランス語どおりにまず第16パラグラフを紹介し、第17パラグラフがはじまるところに[/全集版の第17パラグラフがはじまる]という印を入れておく。

 〈資本はまず、歴史的発展から与えられた技術的条件のもとで、労働をとらえる。それは生産様式を即座には変化させ/ない。それだから、先に考察した形態のもとでの、労働日の単純な延長による剰余価値の生産は、生産様式のどんな変化にもかかわりなく現われたのである。それは現在、原始的な工程がいまなお適用されている製パン業でも、自動式の紡績業に劣らず生きている。[/全集版の第17パラグラフがはじまる]われわれが使用価値という単純な観点で生産を考察していたとぎには、生産手段は労働者にたいし、少しも資本という役割を演じていたのではなく、彼の生産活動の単なる手段および素材という役割を演じていたのである。たとえば鞣(ナメシ)皮業では、彼が鞣すのは皮であって資本ではない。〉(江夏・上杉訳320-321頁)

《イギリス語版》

  〈(16) まず最初、資本は、歴史的に見出される技術的条件の基盤において、労働を服従させる。であるから、生産様式を直接的に変化させることはしない。剰余価値の生産は、 -- これまで我々が考察したような形式で、 -- 証明済の単純な労働日の延長によって、従って、生産様式自体のいかなる変化からも独立して行われる。だから、旧式の製パン業者においても、近代的な綿製造工場に劣らないほど活発にそれが行われる。〉(インターネットから)


●第17パラグラフ

《初版》  初版では全集版の第17パラグラフは第16パラグラフと一緒になっているが、それをここでは分割して、第17パラグラフとして紹介しておく。

 〈したがって、生産過程をたんに労働過程の観点のもとで考察すれば、労働者は、資本としての生産手段に関係したのではなく、自分の合目的な生産活動の単なる手段および材料としての生産手段に関係したのである。たとえば製革業では、この労働者は、皮を自分の単なる労働対象として扱う。別に資本家のために皮をなめすわけではない。生産過程を価値増殖過程のもとで考察すると、もはやそうではなくなる。生産手段は早速、他人の労働を吸収するための手段に転化した。もはや労働者が生産手段を使うのではなくて生産手段が労働者を使うことになる。生産手段は、労働者の生産活動の素材的要素として、この労働者の手で消費されるわけではなく、労働者を生産手段そのものの生活過程の酵素として消費するのであって、資本の生活過程とは、自分自身を増殖する価値としての資本の運動にほかならない。夜間には休止していて生きている労働を吸収しない熔鉱炉や作業用建物は、資本家にとっては「純損」(“a mere loss")になる。それだから、熔鉱炉や作業用建物は、労働力の「夜間労働にたいする請求権」を構成しているわけである。貨幣が生産過程の対象的諸要因/すなわち生産手段にたんに転化されるということだけで、生産手段が他人の労働および剰余労働にたいする権原および強制権に転化されることになる。資本主義的生産に特有であって資本主義的生産を特徴づけているこういった顛倒が、いかにも、死んでいる労働と生きている労働との関係の顛倒が、価値と価値創造力との関係の顛倒が、資本家たちの意識にどのように反映しているか、最後になお一つの例をあげて示しておこう。1848年-50年のイギリスの工場主反逆のさいちゅうに、「西スコットランドの最も古くて最も声望の高い商会の一つでペイズリーの亜麻およぴ木綿紡績工場、すなわち1752年以来存続し代々同じ家族の手で経営されているカーライル同族会社、この会社の社長」は、--このきわめて聡明な紳士は、1849年4月25日の『クラスコー・デーリー・メール』紙に、「リレー制度」と題する書簡(207)を寄せたが、この書簡には、なかんずく、次のような怪奇なほど素朴な文言がまぎれ込んでいる。「さて、労働時間を12時間から10時間に短縮することから生ずる弊害を考察してみよう。……これらの弊害は、工場主の期待と財産にたいするきわめて重大な損傷に『なる』。彼(すなわち彼の『入手』)がこれまで12時間働いていたのに、10時間に制限されれば、彼の工場の機械または紡錘の各12個が10個に縮小する(“then every 12 machines or spindles,in his establishment,shrink to 10")のであって、彼が自分の工場を売ろうとしても、それらは10個にしか評価されず、このため、全国の各工場の価値の6分の1が失われることになろう8 208)」と。〉(江夏訳350-351頁)

《フランス語版》 重複するが、第16パラグラフに組み込まれている部分から紹介しておく。

 〈われわれが使用価値という単純な観点で生産を考察していたときには、生産手段は労働者にたいし、少しも資本という役割を演じていたのではなく、彼の生産活動の単なる手段および素材という役割を演じていたのである。たとえば鞣(ナメシ)皮業では、彼が鞣すのは皮であって資本ではない。
  われわれが剰余価値の観点で生産を考察するようになるやいなや、事態は変わった。生産手段は直ちに他人の労働の吸収手段に転化した。もはや労働者が生産手段を使うのではなく、反対に生産手段が労働者を使う。生産手段は、労働者によって彼の生産活動の素材的要素として消費されるのではなく、生産手段自身の生活に不可欠な酵母として労働者自身を消費するのであって、資本の生活は、永遠に増殖途上にある価値としての資本の運動にほかならない。夜間には休止していて、生きた労働をなんら吸収しない熔鉱炉や工場の建物は、資本家にとっては純損になる。だからこそ、熔鉱炉や工揚の建物は、労働者の「夜間労働にたいする請求権、権利」を構成しているのだ。これについてこれ以上述べることは、いまのところ無用である。こういった、資本主義的生産を特微づけている役割の転倒が、死んだ労働と生きた労働との関係の、価値と価値創造力との関係の、こうした奇妙な転倒が、資本の所有主の意識のうちにどのように反映しているかを、ただ一例によって示すことにしよう。
  1848-50年のイギリスの工場主の叛乱中に、西スコットランドの最も古くて最も名望の高い社名の一つであり、ペーズリの亜麻・木綿紡績工場で1752年以来存続していて代々変わらず同じ家族によって経営されているカーライル同族会社、この会社の社長、この非凡の叡知の持ち主である紳士は、1849年4月25日の『グラスゴー・デーリー・メール』紙上に、「リレー制度」と題する書筒(8)を書き送ったが、そのなかにはなかんずく、奇怪なまでに素直な次の一章句がある。「労働時間を12時問から10時間に短縮することから生ずる弊害を考察してみよう。……これらの/弊害は工場主の特権と財産に最も重大な損害をもたらす。彼がこれまで12時間労働していた(彼の人手を労働させていた、という意味である)のに、いまでは10時間しか労働しなくなれば、たとえば彼の事業所の機械または紡錘の各12個が10個に縮まる のであって、彼が自分の工場を売ろうとしても、それらは実際には10個にしか評価されず、そのため全国の各工場はその価値の6分の1を失うであろう(9)」。〉(江夏・上杉訳321-322頁)

《イギリス語版》

  〈 (17) もし、我々が、単純な労働過程の視点から、生産過程を見るとすれば、労働者は、生産手段との関係に立っており、資本のなんやらの性質にあるのではなく、彼自身の知的な生産活動の単なる手段と材料に対して立っている。例えば、皮なめしでは、彼は皮を単純な労働対象として取り扱う。資本家の皮をなめすのではない。( 訳者注: 資本家が所有する価値としての皮のことと分かるのであるが、資本家本人の皮膚とも訳せないではない、なにしろ資本擬人の皮膚という代物だからね ) しかし、これを剰余価値の創造過程という視点から見れば、生産過程はたちまち違ったものとなる。生産手段は、たちまち、他人の労働の吸収手段に換わる。もはや労働者が生産手段を用いるのではなく、生産手段が労働者を用いる。彼の生産的活動の材料的要素として彼が消費するものではなくて、それらがそれら自身の生命過程の必要な酵素として彼(訳者挿入 労働者)を消費する。そして資本の生命過程が、絶え間なく価値拡大の活動だけを作りだす。絶え間なく自身を倍増するだけの活動を作りだす。溶鉱炉や工場が、夜何もせずに突っ立っているだけで、生きた労働を吸収しないならば、それは資本家にとっては、「ただの損失」なのである。故に、溶鉱炉や工場は、労働者たちの夜間労働を、正当なる要求とするのである。単純な、貨幣の生産過程の材料的要素への転化が、生産手段への転化が、夜間労働への要求を、他人の労働と剰余労働に対する一命題に、一権利に転化するのである。死んだ労働と生きた労働間の、価値と価値を創造する力間の関係の完全なる倒錯、資本主義的生産の特徴でありかつ特異な珍妙論が、どのようにして、資本家の意識、それ自体の鏡像となるのか、後段の一つの例が明らかにするであろう。1848年から1850年の間、英国工場主の反抗の頃、「西スコットランドの最も古く、最も尊敬される工場の一つ カーライル一族会社、ペイスレーのリネンと綿の繊維工場、1752年に創業し1世紀に及ぶ存続を誇り、4世代の同家族によって経営されてきた、その工場主」…. この「非常に知的な紳士」が手紙*7 ( 本文注: 7 *工場査察官報告書 1849年4月30日) を書いた。1849年4月25日付けグラスゴー ディリー メール紙に、「リレー システム」と題するもので、いろいろとある中で、次のような珍妙で朴訥な文章があった。「我々は今、…. 悪魔が工場の労働を10時間に制限するやもしれない…. やつらは、工場主達の将来と財産に最も重大な損害を及ぼそうとしている。もし、彼 ( 彼の「労働者」のこと ) は以前12時間働いていたが、10時間に制限されると、彼の工場では、あらゆる12の機械または紡錘が10に縮んでしまう。工場を畳まねばならなくなるに違いない。その価値はただの10になるだろう。そうなれば、この国の全ての工場の価値の1/6の部分が差し引かれることとなるであろう。」*8〉(インターネットから)


●原注207

《初版》

 〈(207) 『1849年4月30日の工場監督官報告書』、59ページ。〉(江夏訳351頁)

《フランス語版》

 〈(8) 『1849年4月30日の工場監督官報告書』、59ページ。〉(江夏・上杉訳322頁)

《イギリス語版》 本文に挿入。


●原注208

《初版》

 〈(208) 同前、60ページ。工場監督官ステュアートは、彼自身スコットランド人であって、イングランドの工場監督官とは反対に、資本家的な考え方にすっかりとらわれているが、自分の報告書に収録したこの書簡について、これは、「工場主のうちリレー制度を用いているなに者かの手で書かれ、この制度にたいする偏見と疑念を取り除くことを格別にねらっているところの、きわめて有益な通信である。」と明言している。〉(江夏訳351頁)

《フランス語版》

 〈(9) 同前、60ページ。工場監督官ステュアートは、彼自身スコットランド人であって、イングランドの工場監督官とは反対に資本家的な考え方がすっかりしみこんでいるが、彼の報告書に収録したこの書簡は、「リレー制度を使用する工場主によって書かれた最も有益な通信であり、それは主として、この制度から生じた偏見や疑念を取り除くことを目的としている」と明言している。〉(江夏・上杉訳322頁)

《イギリス語版》

  〈注:8 *前出報告書 工場査察官 スチュアートは、彼自身はスコットランド人、は、英国人工場査察官達とは逆に、全く、資本家的な思考方式に捕らわれているのであるが、彼の報告書に加えたこの手紙について、次のように明確に述べている。「これは、同じ商売に従事する工場主達に与えられたリレー方式の採用についての最も有益な内容であり、作業時間の調整による変化への疑念と云う先入観を取り除くには最も明解なものである。」〉(インターネットから)


●第18パラグラフ

《初版》

 〈西スコットランドのこの先祖伝来の資本頭脳にとっては、紡錘等々という生産手段の価値と、自分自身を価値増/するという、すなわち毎日一定量の他人の無償労働を呑み込むという、生産手段の資本属性とが、全くみさかいがつかなくなっているのであって、そのために、このカーライル同族会社の社長は、自分の工場を売れば、自分には、紡錘の価値だけでなく、おまけに紡錘の価値増殖も支払われるのだと、すなわち、紡錘のなかに含まれていて同種の紡錘の生産に必要な労働だけでなく、毎日ぺイズリーの健気な西スコットランド人から汲み出される剰余労働も支払われるのだと、じっさいに妄想しているのであって、それだからこそ、彼は、労働日を2時間短縮すれば、各12台の紡績機の売却価格が各10台の売却価格に下がってしまう! と思っているのである。〉(江夏訳351-352頁)

《フランス語版》

 〈われわれの見るとおり、スコットランドのこの石頭にとっては、生産手段の価値が、自己増殖しあるいは一定量の無償労働を日々同化するという生産手段のもつ資本属性と、全く混同されている。そして、カーライル同族会社のこの社長は、工場を売却するさいには、機械の価値だけでなく、おまけに機械の価値増殖も支払われる、すなわち、機械のなかに含まれていて同類の機械の生産に必要な労働だけでなく、機械の役立ちでぺーズリの律義なスコットランド人から日々詐取されている剰余労働までも支払われる、と信ずるほどに妄想を抱いている。彼の意見によれば、それだからこそ、労働日の2時間の短縮は、彼の機械の販売価格を引き下げるであろう。機械1ダースはもはや10個の価値しかないことになろう!〉(江夏・上杉訳322頁)

《イギリス語版》

  〈(18) この、西スコットランドのブルジョワの頭脳にとっては、「4代」もの間受け継がれ、積み上げられた資本家的品質の頭脳にとっては、生産手段の価値、紡錘等々は、それらの財産、資本としての、それら自体の価値と、日々飲み込む他人の不払い労働のある一定量、が切り離しがたく混ざり合っており、カーライル一族会社の社長は、実際のところ、もし彼が工場を売れば、彼に支払われる紡錘の価値のみではなく、それに加えて、剰余価値を追加する力も、紡錘の中に体現されている労働、そしてその種の紡錘の生産に必要な労働のみでなく、勇敢なるスコットランドのペイスレーの土地が日々の汲み出しを手助けする剰余労働もまた支払われると思っているようだ。だからこそ、彼は労働日の2時間の短縮が、12の紡績機械の売値が10 ! のそれになると思っている分けだ。〉(インターネットから)

  (第9章終わり)

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする