『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第15回「『資本論』を読む会」の報告(その1)

2009-08-26 12:44:42 | 『資本論』

第15回「『資本論』を読む会」の報告(その1)

 

◎お盆休みの最終日

  第15回「『資本論』を読む会」はお盆休みの最終日になる8月16日に開催されました。
 図書館は開いていましたが、3階の集会室はわれわれ以外は誰も使っておらず、閑散としていました。
 泉が丘駅前では、行きは自民党、帰りは共産党と、公示を前にそれぞれ候補者本人が来て挨拶し、ビラを配布していました。改革クラブも宣伝カーで回っていました。ビラを見ると、自民党は「責任力」が謳い文句。何でも「力」をつけて良いなら、民主党はせいぜい「バラマキ力」、公明党は「変節力」、共産党は「ルール力」、社民党は「護憲力」でしょうか。選挙は30日。果たして政権交代はなるのでしょうか。

 ◎「相対的価値形態の内実」

 今回は、「第3節 価値形態または交換価値」の「A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態」の「2 相対的価値形態」の「a 相対的価値形態の内実」の最初からはじめたのですが、結局、たった三つのパラグラフを進んだだけでした。
 これはお盆だから、簡単に切り上げたからではなく、それだけ議論が紛糾したからなのです。とにかくパラグラフごとに紹介してゆきましょう。

 しかしパラグラフに移る前に、まず表題についてです。表題はそこでの課題を明らかにしていますから、それをまず見ておきましょう。

  《2 相対的価値形態》

  これは《1 価値表現の両極--相対的価値形態と等価形態》で、20エレのリンネル=1着の上着(x量の商品A=y量の商品B)という等式のうち、その価値を表す商品20エレのリンネルは、自らの価値を別の商品である1着の上着で相対的に表しており、その場合は、リンネルは「相対的価値形態」にあると説明されていました。その「相対的価値形態」が、つまりリンネルの「価値」が「相対的」に表される「形態」が、まず考察の対象にされるというわけです。

  《a 相対的価値形態の内実》

  これは「相対的価値形態」として、まずその「内実」(Inhalt・内容)を問題にするということです。興味深いことに、初版付録では、この部分はさらに次のような小見出しに細分されていることです。

 a 同等性関係
 b 価値関係
 c 価値関係のなかに含まれている相対的価値形態の内実

 つまり現行版の表題は、初版付録の三つ目の表題に一致していると考えることができます。現行版は初版付録と比べても、この項目は厳密化されて膨らんでいますから、現行版の「a 相対的価値形態」の最初の数パラグラフは、内容的には、初版付録の「a 同等性関係」と「b 価値関係」に該当すると考えてよいでしょう。私の考えでは、これは第1・3パラグラフがそれに当たるのではないかと思っています。しかしそれはそれぞれのパラグラフを詳しく見ていくなかで考えることにしましょう。

 ◎価値関係に価値表現が潜んでいるとは?

  それでは、次は、第1パラグラフに移ります。

  《ある一つの商品の単純な価値表現が二つの商品の価値関係のうちにどのように潜んでいるかを見つけだすためには、この価値関係を、さしあたりその量的関係からまったく独立に、考察しなければならない。人は、たいてい、これと正反対のことを行っており、価値関係のうちに、二種類の商品の一定量同士が等しいとされる割合だけを見ている。その場合、見落とされているのは、異種の物の大きさは、それらが同じ単位に還元されてはじめて、量的に比較されうるものとなるということである。それらは、同じ単位の諸表現としてのみ、同名の、したがって通約可能な大きさなのである(17)。》

 最初に、先にも紹介しましたが、「初版付録」と「補足と改訂」および「フランス語版」では、この部分はどうなっているのかをみておくことにしましょう。

《《初版付録》
 〈a 同等性関係
 自分の価値を表現しようとするものはリンネルなのだから、リンネルのほうかちイニシアチブは出ている。リンネルは、上着にたいして、すなわち、なんらかの別な、リンネル自身とは種類の違う商品にたいして、ある関係にはいる。この関係は等置の関係である。20エレのリンネル=1着の上着という表現の基礎は、事実上、リンネル=上着であって、これは、言葉で表わせば、ただ、商品種類上着は自分とは違う商品種類リンネルと同じ性質のもの同じ実体のものである、ということでしかない。人々はたいていはこのことを見落とすのであるが、そのわけは、注意が、量的な関係によって、すなわち、一方の商品種類が他方の商品種類と等置されている特定の割合によって、奪われてしまうからである。人々が忘れているのは、違う諸物の大きさは、それらが同じ単位に換算されたのちに、はじめて量的に比較されうる、ということである。ただ同じ単位の諸表現としてのみ、それらは同じ分母の、したがってまた通約可能な大きさなのである。だから、前述の表現では、リンネルが自分と同じものとしての上着に関係するのであり、言い換えれば、上着が同じ実体の同じ本質の物としてのリンネルに関係させられるのである。だから、上着はリンネルに質的に等置されるのである。〉(国民文庫版133-134頁)

《補足と改訂》〈
                    [A]
 ある一つの商品,たとえばリンネル,の相対的価値表現--20エレのリンネル=1着の上着 すなわち20エレのリンネルは1着の上着に領する--において,人は,たいてい,量的な関係だけを,すなわちある商品が他の商品と等しいとされる一定の割合だけを,見ようとする。その場合,見落とされているのは,異なった物の大きさは,それらが同じ単位に還元されてはじめて,量的に比較されうるものとなるということである。それらは,同じ単位のもろもろの表現としてのみ,同名の,それゆえ同じ単位で計量されうる大きさなのである。
                    [B]
 ある一つの商品の簡単な価殖表現が二つの商品の価値関係のうちにどのように潜んでいるかをみつけ出すためには,この価値関係を,さしあたりその量的関係からまったく独立に,考察しなければならない。人は,たいてい,これと正反対のことを行っており,価値関係のうちに,二種類の商品の一定分量どうしが等しいとされる一定の割合だけを見ている。その場合,見落とされているのは,異なった物の大きさは,それらは同じ単位に還元されて〈Zrückfürung〉はじめて,量的に比較されうるものとなるということである。それらは,同じ単位のもろもろの表現としてのみ,同名の,それゆえ同し単位で計量されうる大きさなのである。〉(『補足と改訂』前掲61-63頁)

《フランス語版》
 〈一商品の単純な価値表現がどのように二つの商品の価値関係のうちに含まれているか、を見つけ出すためには、まず、この価値関係を、その量的な側面は無視して、考察しなければならない。一般に行なわれているのはこれと逆のことであって、価値関係のうちに、二種の商品の一定量が相互に等しいと表わされている割合を、もっぱら考察するのである。相異なる物は、同じ単位に換算されたのちにはじめて量的に比較しうることが、忘れられている。ただそのばあいにだけ、これらの物は同じ分母をもち、通約可能になる。〉(前掲19-20頁)

 さて、ここで問題になったのは冒頭の《ある一つの商品の単純な価値表現が二つの商品の価値関係のうちにどのように潜んでいるか》という部分でした。
 これを見ると、価値表現は価値関係のなかに「潜んでいる」と読めるが、両者の関係はどういうものか、そもそも価値関係とは何か、交換関係とはどう違うのか、そして価値表現が「潜んでいる」ということは、そのなかに隠れているということか、とするなら価値関係は一見すると見えている(明らかである)ことになるのか、そして価値表現はそうではなくてそこに隠されているということか、等々と、それはそれは、大変な議論が、例によってJJ富村さんなどから次々と出されて、紛糾しました。順序を追って考えてゆきましょう。

 まず確認しなければならないのは、20エレのリンネル=1着の上着(x量の商品A=y量の商品B)という等式は、次のような意味をもっているということです。すなわちわれわれの住むこの社会は、われわれが生きていくのに必要もののほとんどを商品として生産し、それを社会的に交換することによって維持されているということです。だから二商品の等式は、そうした社会の物質代謝をなしている商品交換のもっとも基本的な関係として、二商品が交換される関係を取り出しているということです。しかもそれは現実に存在している客観的な商品交換の関係から、それに付随するさまざまなもの、例えばそれらが資本の生産した商品であるという属性や、商品の売買にまつわる信用や、商品所有者や購買者の思惑や欲望、貨幣等々、実際に商品が交換され売買されている諸関係に付随するさまざまな諸問題はとりあえずはすべて捨象されて、とにかく商品と商品が社会的に交換されるという物質代謝のもっとも抽象的な関係だということです。だからそれは直接には、ある一つの商品の一定量が別の他の商品の一定量と交換されるという現実としてわれわれの前には現われているのです。これが交換関係です。それは直接にはそれぞれの一定の使用価値量の交換割合としてわれわれには見えています。

 しかし二つの使用価値が交換されるということは、それらが同等であり、等置されるものであるからです。リンネルと上着が等置されるから、それらは交換可能なのであって、実際に交換されているわけです。それが初版付録にいう「同等性関係」ということではないでしょうか。そして二商品の同等性関係というのは、それらの価値の関係であるということです。つまり価値として両者は等しいことを意味しているということです。だから20エレのリンネル=1着の上着という等置は、リンネルと上着を両者のもつ価値の側面から観た場合の等置関係なわけです。これが、すなわち価値関係です。価値はもちろん目に見えないから、価値関係も見えません。しかし交換関係は現実の客観的な過程ですから、目に見えています。ただ等置されている関係(同等性関係)は見えても、何が等しいのかは見えていません。そして何が等しいかと言えば、それらは価値として等しいということです。だから《価値としてはリンネルと上着は同じ本質のものである》わけです。

 価値表現は、価値関係をさらに論理的に解剖するなかから見出すことができるように思えます。価値表現は、それは「表現」ですから、価値が表され、見えているわけですが、しかしその見えているカラクリは直接には見えませんし分かりません。それを説明するのが「相対的価値形態の内実」というわけです。

 以前、大阪で「『資本論』を学ぶ会」で学習したときに、そのニュースのなかで、これらの諸カテゴリーの関係を図示した次のようなへたくそな図を紹介しましたが、参考のために再び紹介しておきます。

 (その2に続きます。)

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第15回「『資本論』を読む会」の報告(その2)

2009-08-26 12:40:41 | 『資本論』

第15回「『資本論』を読む会」の報告(その2)

 

◎ベイリーが価値形態と価値とを混同しているとは?

 次は、注17です。

 《 (17) S・べイリーのように、価値形態の分析にたずさわった少数の経済学者たちが何の成果もあげることができなかったのは、一つには、彼らが価値形態と価値とを混同しているからであり、第二には、実際的なブルジョアからの生(ナマ)の影響のもとに、はじめからもっぱら量的規定性だけに注目しているからである。「量の支配が・・・・価値をなす」(『貨幣とその価値の転変』、ロンドン、1837年、11ページ)。著者はS・ベイリー。》

 ここではベイリーが「価値形態と価値とを混同している」というのは、どういうことかという質問がでました。これについてはマルクス自身が『剰余価値学説史』のベイリー批判のなかで論じているものを紹介するだけにします。

 《われわれは、価値が価格で計られ、表現されているのを見いだす。したがって、〔べーリはこう主張するのである〕・われわれは--価値とはなにかを知らないで満足することができる、〔と〕。価値尺度の貨幣への発展、さらにまた価格の度量標準としての貨幣の発展と、その発展のなかで価値そのものの概念を交換される諸商品の内在的尺度として発見することとを、彼は混同しているのである。彼が正当なのは、この貨幣は不変の価値をもっている商品であることを要しない、としている点である。だが彼は、このことから、こう推論する、商品そのものとは独立な、それとは区別される価値規定は、不必要である、と。
 諸商品の価値が諸商品の共通な単位として与えられるようになれば、そのときには諸商品の相対的価値の測定とそれの表現とは一致することになる。だが、われわれは諸商品の直接的定在とは違っている一単位に到達しないかぎり、表現に到達することはない。
 AとBとのあいだの距離という、べーリの事例にあっても、両方のあいだの距離について語るには、両方がすでにともに空間のなかの点(または線) であることが想定される。それらは、点に、しかも同一線上の点に、変えられるから、それらの距離がインチとかフィートなどで表現されうるのである。二つの商品AとBとの共通な単位は、一見したところでは、それらの交換可能性である。それらは「交換可能な」物である。「交換可能な」物としてそれらは同じ単位名称の大きさなのである。だが、このような「交換可能な」物としての「諸商品の」存在は、使用価値としての諸商品の存在とは違っていなければならない。それは、なんであろうか。…(中略)…貨幣は、単に、諸商品の価値が流通過程で現われる形態にすぎない。だが、私は、どのようにしてx量の綿花をy量の貨幣で表わすことができるであろうか? この問題は次のような問題に帰着する。すなわち、私は一般にどのようにして一商品を他の商品で、または諸商品を等価物として、表わすことができるであろうか? というのがそれである。これに解答を与えるのは、ただ、価値の発展、つまり一商品の他の商品での表示にはかかわりのない価値の説明だけである。》(『学説史』III215-6頁)

◎園児20人=関取1人

 次は第二パラグラフです。

 《20エレのリンネル=1着の上着 であろうと、=20着の上着 であろうと、=x着の上着 であろうと、すなわち、一定量のリンネルが多くの上着に値しようと少ない上着に値しようと、このような割合はどれも、リンネルと上着とは、価値の大きさとしては、同じ単位の諸表現であり、同じ性質の物であるということを、つねに含んでいる。リンネル=上着 が等式の基礎である。》

 「フランス語版」もほぼ同じような内容なので、「補足と改訂」から類似する部分を紹介しておきましょう。

《補足と改訂》
                  [A1]
 実際,20エレのリンネル=1着の上着という表現において,リンネルは上着に等しい大きさとして,上着に関係させられている,すなわち,上着に質的に等置されている。リンネル=上着が等式の基礎であり,ある一つの商品の,他の違う種類の商品との等置関係が,どのような割合で結ばれていようとも,それはその商品の価値関係である。上着とリンネルとは、両者が価値である限りにおいて同じ物である。使用価値あるいは商品体としては、リンネルは上着と区別される,価値としてはリンネルは上着と同じ本質の物である。
                  [A2]
 実際,表現--20エレのリンネル=1着の上着--においては,リンネルと上着とは同名の大きさとして意味をもっている。リンネル=上着がこの等式の基礎である。20エレのリンネル=1着の上着であろうと,2着の上着であろうと,x着の上着であろうと,どの場合においても,商品リンネルは,同じ牲質の物としての自分と等しい物としての,異なる種類の商品・上着と関係させられているのであり,すなわち,リンネルは上着に質的に等置されているのである。
                  [B]
 20エレのリンネル=1着の上着であろうと,=20着の上着であろうと,=x着の上着であろうと,すなわち,一定分量のリンネルがどれだけ多くの上着に値しようと,どれだけ少ない上着に値しようと,このような割合はどれもリンネルと上着とは,価値の大きさとしては同し単位の諸表現であり,同じ性質の物であるということを,つねにふくんでいる。リンネル=上着が等式の基礎である。したがって,異なる種類の商品の質的等置が,価値関係の現実的内容である。今や,この内容が現象している形態を考察することが重要である。〉(61-63頁)

 

 まずここでは20エレのリンネルに等置される上着の使用価値の量がどれほどであろうと、とにかくそれが上着の一定量として表されるということは、リンネルと上着が量的に比較されているということであり、そのためには二つの商品は同じ質に還元されているということです。先の『学説史』のベーリ批判でも《AとBとのあいだの距離という、べーリの事例にあっても、両方のあいだの距離について語るには、両方がすでにともに空間のなかの点(または線) であることが想定される。それらは、点に、しかも同一線上の点に、変えられるから、それらの距離がインチとかフィートなどで表現されうるのである》と述べていましたが、AとBとの距離を問う、ということはAとBが同じ空間で同一線上にある点という質的同一性が前提されているわけです。だからリンネルと上着が量的に比較される(等置される)ということは、リンネルと上着が同じ質に還元されて初めて言いうることだということです。

 JJ富村さんは、この議論の途中でやおら立ち上がって、黒板に次のような等式を書きました。

 園児20人=1人の関取

 つまりこの等式では園児も関取も、ともに重量という単位に還元されて比較されているのだというわけです。この場合は重量が共通の単位といわけです。

 ピースさんが用意してくれたレジュメでは「二つの商品は同じ単位の表現をしており、抽象的人間労働という同質性をもっていることが基礎となる」と説明されていましたが、まだこの時点では、同質性として問題になっているのは、「価値」であって、その実体としての「抽象的人間労働」そのものが問題になっていないのではないかということになりました。

◎「価値物」とは?

 次は第三パラグラフです。

 《しかし、質的に等置された二つの商品は同じ役割を演じるのではない。リンネルの価値だけが表現される。では、どのようにしてか? リンネルが、その「等価」としての上着、またはリンネルと「交換されうるもの」としての上着に対して関係させられることによって、である。この関係の中では、上着は、価値の存在形態として、価値物として、通用する。なぜなら、ただそのようなものとしてのみ、上着はリンネルと同じものだからである。他方では、リンネルそれ自身の価値存在が現れてくる。すなわち、一つの自立した表現を受け取る。なぜなら、ただ価値としてのみ、リンネルは、等価物としての上着、またはそれと交換されうるものとしての上着に関係するからである。たとえば、酪酸は、蟻酸プロピルとは異なる物体である。しかし、両者は、同じ化学的実体--炭素(C)、水素(H)、および酸素(O)から成りたち、しかも同じ比率の組成、すなわち C4H8O2 で成りたっている。今酪酸に蟻酸プロピルが等置されるとすれば、この関係の中では、第一に、蟻酸プロピルは単にC4H8O2の存在形態としてのみ通用し、第二に、酪酸もまた C4H8O2 から成りたっていることがのべられるであろう。すなわち、蟻酸プロピルが酪酸に等置されることによって、その化学的実体が、その物体形態から区別されて、表現されるであろう。》

 まず、類似した説明として「初版付録」と「補足と改訂」および「フランス語版」から紹介しておきます。

《初版付録》
 〈b 価値関係
 上着がリンネルと同じものであるのは、ただ両方とも価値であるかぎりにおいてのことである。だから、リンネルが自分と同じものとしての上着に関係するということ、または、上着が同じ実体をもつものとしてリンネルに等置されるという、このことは、上着がこの関係において価価として認められている、ということを表現している。上着はリンネルに等置されるが、それもやはりリンネルが価値であるかぎりにおいてのことである。だから、同等性関係価値関係なのであるが、しかし、価値関係は、なによりもまず、自分の価値を表現する商品の、価値または価値存在の表現なのである。使用価値または商品体としては、リンネルは上着とは違っている。これに反して、リンネルの価値存在は、上着という別の商品種類がリンネルに等置されるところの、またはリンネルと本質の同じものとして認められるところの、関係において、出現し自分を表現するのである。〉(国民文庫版134-5頁)

《補足と改訂》--〈
                  [A1]
 さて,ある一つの商品A,例えばリンネルは,どのようにして、自分と等しい価値の物すなわち自分の等価物としての,何かある他の商品B,例えば上着と関係するのだろうか。
 答えは簡単に商品価値の本性から明らかになる。ある一つの商品は,それが単に,それの生産に支出された人間的労働力の物的表現,物的外皮である限りにおいて,したがって,人間的労働そのものの,抽象的人間的労働の,結晶である限りにおいて,それは価値なのである。そのことは,石炭が暖房材料としては,それによって吸収された太陽光線の物質的外皮に他ならない,というのと同じことである。
 したがって,ある一つの商品A,例えばリンネル,は他のある商品B,例えば上着と,価値として等置されることができるのは,その他の商品,上着がこの関係のなかで単なる価値物として通用する,すなわちその唯一の素材が人間的労働から成っている物として通用する,あるいはそれゆえその肉体が人間的労働以外の何物をもあらわさない物として通用する限りにおいてのみである。〉(62-3頁)

《フランス語版》
 〈だが、等質であり同一の本質であることがこのように確認された二つの商品は、このばあい同じ役割を演じるわけではない。このぼあい表現されるのは、リンネルの価値だけである。それでは、どのようにして? リンネルの等価物としての、すなわち、リンネルに代位しうるかこれと交換しうる物としての上衣という別種の商品に、リンネルを比較することによって。まず明らかなことだが、上衣がこの関係に入るのは、もっぱら、価値の存在形態としてである。上衣は価値を表現することによってはじめて、他の商品に相対する価値として現われることができるからである。他方、リンネル自体が価値であることは、ここで姿を現わす、すなわち別の一表現を獲得する。実際、もしリンネルがそれ自体価値でな.ければ、上衣の価値がリソネルとの等式に置かれ、あるいはリンネルに等価物として役立ちうるだろうか?
 化学から一つの類推を借用しよう。酪酸と蟻酸プロピルは、外観も物理的、化学的性質もちがう二つの物体である。それにもかかわらず、両者は同じ元素--炭素、水素、酸素--を含んでいる。その上、両者はこれらの元素をC4H8O2という同じ割合で含んでいる。さて、もし蟻酸プロピルを酪酸との等式に置くか、あるいは酪酸の等価物とすれば、蟻酸プロピルはこの関係では、C4H8O2の存在形態としてのみ、すなわち、酪酸と共通である実体の存在形態としてのみ、現われるだろう。したがって、蟻酸プロピルが酪酸の等価物としての役割を演じる等式は、酪酸の実体をそれの物体形態とは全くちがうあるものとして表現する、いくらかぎこちないやり方であろう。〉(20-21頁)

 

 ここでは「価値物」というものを如何に捉えたらよいのか、という問題を少し論じておきましょう。この解釈については「価値体」と関連させて、さまざまに主張されていますが、「価値体」については、今回はとりあえずはおいておきます。

 久留間鮫造著『貨幣論』(大月書店、1979.12.24)のなかで、「価値物と価値体との区別について」と題して、この問題が論じられています。そこで大谷禎之介氏は久留間鮫造氏の旧著『価値形態論と交換過程論』では両者が区別されずに論じられ、事実上、価値物を価値体と同じものとしているが、しかしそれだと価値物は等価形態に立つ商品についてのみ言いうることになる、しかしマルクス自身はそうは述べていないと『資本論』からいくつかの引用文を紹介し、それらの引用文から結論されることとして次のように述べています。

 〈これらの個所からは、次のようなことが読み取れるのではないでしょうか。すなわち、労働生産物が商品になると、それは価値対象性を与えられているもの、すなわち価値物となる。しかし、ある商品が価値物であること、それが価値対象性をもったものであることは、その商品体そのものからはつかむことができない。商品は他商品を価値物として自分に等置する。この関係のなかではその他商品は価値物として意義をもつ、通用する。またそれによって、この他商品を価値物として自己に等置した商品そのものも価値物であることが表現されることになる。約言すれば、商品の価値表現とは、質的にみれば、商品が価値物であることの表現であり、等価物とはその自然形態がそのまま価値物として意義をもつ商品だ、ということです。/いま申しました、《その自然形態がそのまま価値物として意義をもつもの》、これが先生の意味での「価値物」ですが、マルクスはこれをさす言葉としては、むしろ「価値体」というのを使っているのではないかと思われるのです〉(『貨幣論』97~98頁)。

 これに対して、久留間氏は〈この点については、いま君が言われたことはまったくそのとおりです。「価値体」あるいは「価値物として通用する物」と言うべきであったのを「価値物」と言ったのはぼくのたいへんなミスでした〉(同99頁)と間違いを認め、大谷説に同調しています。つまり「価値物」とは「価値対象性をもったもの」という意味だというのです。だからまたそれはリンネルについても言いうるものと捉えられているわけです。しかし果たしてそうなのでしょうか。

 われわれは以前、紹介したモストの『資本論入門』の次の一文(これはマルクス自身が書き直したと思われるものです)をもう一度紹介しておきましょう。

 《さてここで交換価値に、つまり諸商品の価値が表現されるさいの形態に、立ち戻ろう。この価値形態は生産物交換から、また生産物交換とともに、しだいに発展してくる。
 生産がもっぱら自家需要に向けられているかぎり、交換はごくまれに、それも交換者たちがちょうど余剰分をもっているようなあれこれの対象について、生じるにすぎない。たとえば毛皮が塩と、しかもまず最初はまったく偶然的なもろもみの比率で交換される。この取引がたびたび繰り返されるだけでも、交換比率はだんだん細かに決められるようになり、一枚の毛皮はある一定量の塩とだけ交換されるようになる。生産物交換のこの最も未発展の段階では、交換者のそれぞれにとって、他の交換者の財貨が等価物として役立っている。すなわち、それ自体として彼の生産した財貨と交換可能であるばかりでなく、彼自身の財貨の価値を見えるようにする鏡でもあるような、価値物として役立つのである。》(10頁)

 ご覧の通り、マルクスは《生産物交換のこの最も未発展の段階では、交換者のそれぞれにとって、他の交換者の財貨が等価物として役立っている。すなわち、それ自体として彼の生産した財貨と交換可能であるばかりでなく、彼自身の財貨の価値を見えるようにする鏡でもあるような、価値物として役立つのである》と述べています。つまり等価物というのは、相対的価値形態にある商品の価値を見えるようにする鏡であり、そのようなものとして価値物として役立つと述べているわけです。だから「価値物」というのは、相対的価値形態にある商品の価値が「見えるようにする鏡」の役割を果たしているものという意味であるわけです。単に「価値対象性をもったもの」ということでは、価値が見えるものとはならないでしょう。

 またすでに紹介した「補足と改訂」では、次のようにも述べています。

 《したがって,ある一つの商品A,例えばリンネル,は他のある商品B,例えば上着と,価値として等置されることができるのは,その他の商品,上着がこの関係のなかで単なる価値物として通用する,すなわちその唯一の素材が人間的労働から成っている物として通用する,あるいはそれゆえその肉体が人間的労働以外の何物をもあらわさない物として通用する限りにおいてのみである。》

 つまりここでは「価値物」を説明して、《すなわちその唯一の素材が人間的労働から成っている物として通用する,あるいはそれゆえその肉体が人間的労働以外の何物をもあらわさない物として通用する》と述べています。つまり「価値物」としての上着は、ただ人間労働だけから成っている(つまり具体的な裁縫労働からはなっていない、あるいは具体的な裁縫労働そのものが人間労働として通用している)ものであり、だから《その肉体が人間労働以外の何物をも表さない物》だと説明してされています。だから「価値物」としての上着はまさにその肉体が価値そのものであるような物なのです。すなわち価値の実存形態、すなわち価値が物(Ding)として現われているものだということができます。

 さらにこれは前回紹介したものですが、マルクスは初版本文のなかで「等価物」を説明して、次のように述べていました。

 《等価物という規定は、ある商品が価値一般であるということを含んでいるだけではなく、その商品が、それの物的な姿において、それの使用形態において、他の商品に価値として認められており、したがって、直接に、他の商品にとっての交換価値として現存している、ということをも含んでいる。》(夏目訳36頁)

 だから「等価物」である上着がリンネルの「価値物」として認められる(通用する)ということは、やはりその上着という物的な姿において、リンネルの価値として認められる(直接に、リンネルの交換価値として存在している)ということではないかと思います。

 では、「価値物」と「価値体」とはどう異なるのか、それとも同じものなのか、ということについては、すぐにまた議論する機会があるでしょうから、今回は論じるのはやめておきましょう。

 だからこのパラグラフの説明としては、次のようになると思います。

 リンネルの価値はどのように表現されるのか? リンネルが、自分に等しいものとしての、自分と「交換されうるもの」としての上着に、関係することによってである。この関係のなかでは、上着は、価値の存在形態として、つまり価値が物として現われているものとして、すなわち「価値物」として認められる。そうしたものとしてのみ上着はリンネルに等置されるのだからである。するとリンネルの価値存在もそうした関係のなかで自らの表現を受け取ることになる。つまりリンネルの価値は、上着という姿で、一つの物として目に見える形で表されているわけである。上着は、ここではリンネルの価値の目に見える存在形態として、つまり価値物として通用しているのである。

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