第15回「『資本論』を読む会」の報告(その1)
◎お盆休みの最終日
第15回「『資本論』を読む会」はお盆休みの最終日になる8月16日に開催されました。
図書館は開いていましたが、3階の集会室はわれわれ以外は誰も使っておらず、閑散としていました。
泉が丘駅前では、行きは自民党、帰りは共産党と、公示を前にそれぞれ候補者本人が来て挨拶し、ビラを配布していました。改革クラブも宣伝カーで回っていました。ビラを見ると、自民党は「責任力」が謳い文句。何でも「力」をつけて良いなら、民主党はせいぜい「バラマキ力」、公明党は「変節力」、共産党は「ルール力」、社民党は「護憲力」でしょうか。選挙は30日。果たして政権交代はなるのでしょうか。
◎「相対的価値形態の内実」
今回は、「第3節 価値形態または交換価値」の「A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態」の「2 相対的価値形態」の「a 相対的価値形態の内実」の最初からはじめたのですが、結局、たった三つのパラグラフを進んだだけでした。
これはお盆だから、簡単に切り上げたからではなく、それだけ議論が紛糾したからなのです。とにかくパラグラフごとに紹介してゆきましょう。
しかしパラグラフに移る前に、まず表題についてです。表題はそこでの課題を明らかにしていますから、それをまず見ておきましょう。
《2 相対的価値形態》
これは《1 価値表現の両極--相対的価値形態と等価形態》で、20エレのリンネル=1着の上着(x量の商品A=y量の商品B)という等式のうち、その価値を表す商品20エレのリンネルは、自らの価値を別の商品である1着の上着で相対的に表しており、その場合は、リンネルは「相対的価値形態」にあると説明されていました。その「相対的価値形態」が、つまりリンネルの「価値」が「相対的」に表される「形態」が、まず考察の対象にされるというわけです。
《a 相対的価値形態の内実》
これは「相対的価値形態」として、まずその「内実」(Inhalt・内容)を問題にするということです。興味深いことに、初版付録では、この部分はさらに次のような小見出しに細分されていることです。
a 同等性関係
b 価値関係
c 価値関係のなかに含まれている相対的価値形態の内実
つまり現行版の表題は、初版付録の三つ目の表題に一致していると考えることができます。現行版は初版付録と比べても、この項目は厳密化されて膨らんでいますから、現行版の「a 相対的価値形態」の最初の数パラグラフは、内容的には、初版付録の「a 同等性関係」と「b 価値関係」に該当すると考えてよいでしょう。私の考えでは、これは第1・3パラグラフがそれに当たるのではないかと思っています。しかしそれはそれぞれのパラグラフを詳しく見ていくなかで考えることにしましょう。
◎価値関係に価値表現が潜んでいるとは?
それでは、次は、第1パラグラフに移ります。
《ある一つの商品の単純な価値表現が二つの商品の価値関係のうちにどのように潜んでいるかを見つけだすためには、この価値関係を、さしあたりその量的関係からまったく独立に、考察しなければならない。人は、たいてい、これと正反対のことを行っており、価値関係のうちに、二種類の商品の一定量同士が等しいとされる割合だけを見ている。その場合、見落とされているのは、異種の物の大きさは、それらが同じ単位に還元されてはじめて、量的に比較されうるものとなるということである。それらは、同じ単位の諸表現としてのみ、同名の、したがって通約可能な大きさなのである(17)。》
最初に、先にも紹介しましたが、「初版付録」と「補足と改訂」および「フランス語版」では、この部分はどうなっているのかをみておくことにしましょう。
《《初版付録》
〈a 同等性関係
自分の価値を表現しようとするものはリンネルなのだから、リンネルのほうかちイニシアチブは出ている。リンネルは、上着にたいして、すなわち、なんらかの別な、リンネル自身とは種類の違う商品にたいして、ある関係にはいる。この関係は等置の関係である。20エレのリンネル=1着の上着という表現の基礎は、事実上、リンネル=上着であって、これは、言葉で表わせば、ただ、商品種類上着は、自分とは違う商品種類リンネルと同じ性質のもの、同じ実体のものである、ということでしかない。人々はたいていはこのことを見落とすのであるが、そのわけは、注意が、量的な関係によって、すなわち、一方の商品種類が他方の商品種類と等置されている特定の割合によって、奪われてしまうからである。人々が忘れているのは、違う諸物の大きさは、それらが同じ単位に換算されたのちに、はじめて量的に比較されうる、ということである。ただ同じ単位の諸表現としてのみ、それらは同じ分母の、したがってまた通約可能な大きさなのである。だから、前述の表現では、リンネルが自分と同じものとしての上着に関係するのであり、言い換えれば、上着が同じ実体の、同じ本質の物としてのリンネルに関係させられるのである。だから、上着はリンネルに質的に等置されるのである。〉(国民文庫版133-134頁)
《補足と改訂》〈
[A]
ある一つの商品,たとえばリンネル,の相対的価値表現--20エレのリンネル=1着の上着 すなわち20エレのリンネルは1着の上着に領する--において,人は,たいてい,量的な関係だけを,すなわちある商品が他の商品と等しいとされる一定の割合だけを,見ようとする。その場合,見落とされているのは,異なった物の大きさは,それらが同じ単位に還元されてはじめて,量的に比較されうるものとなるということである。それらは,同じ単位のもろもろの表現としてのみ,同名の,それゆえ同じ単位で計量されうる大きさなのである。
[B]
ある一つの商品の簡単な価殖表現が二つの商品の価値関係のうちにどのように潜んでいるかをみつけ出すためには,この価値関係を,さしあたりその量的関係からまったく独立に,考察しなければならない。人は,たいてい,これと正反対のことを行っており,価値関係のうちに,二種類の商品の一定分量どうしが等しいとされる一定の割合だけを見ている。その場合,見落とされているのは,異なった物の大きさは,それらは同じ単位に還元されて〈Zrückfürung〉はじめて,量的に比較されうるものとなるということである。それらは,同じ単位のもろもろの表現としてのみ,同名の,それゆえ同し単位で計量されうる大きさなのである。〉(『補足と改訂』前掲61-63頁)
《フランス語版》
〈一商品の単純な価値表現がどのように二つの商品の価値関係のうちに含まれているか、を見つけ出すためには、まず、この価値関係を、その量的な側面は無視して、考察しなければならない。一般に行なわれているのはこれと逆のことであって、価値関係のうちに、二種の商品の一定量が相互に等しいと表わされている割合を、もっぱら考察するのである。相異なる物は、同じ単位に換算されたのちにはじめて量的に比較しうることが、忘れられている。ただそのばあいにだけ、これらの物は同じ分母をもち、通約可能になる。〉(前掲19-20頁)
さて、ここで問題になったのは冒頭の《ある一つの商品の単純な価値表現が二つの商品の価値関係のうちにどのように潜んでいるか》という部分でした。
これを見ると、価値表現は価値関係のなかに「潜んでいる」と読めるが、両者の関係はどういうものか、そもそも価値関係とは何か、交換関係とはどう違うのか、そして価値表現が「潜んでいる」ということは、そのなかに隠れているということか、とするなら価値関係は一見すると見えている(明らかである)ことになるのか、そして価値表現はそうではなくてそこに隠されているということか、等々と、それはそれは、大変な議論が、例によってJJ富村さんなどから次々と出されて、紛糾しました。順序を追って考えてゆきましょう。
まず確認しなければならないのは、20エレのリンネル=1着の上着(x量の商品A=y量の商品B)という等式は、次のような意味をもっているということです。すなわちわれわれの住むこの社会は、われわれが生きていくのに必要もののほとんどを商品として生産し、それを社会的に交換することによって維持されているということです。だから二商品の等式は、そうした社会の物質代謝をなしている商品交換のもっとも基本的な関係として、二商品が交換される関係を取り出しているということです。しかもそれは現実に存在している客観的な商品交換の関係から、それに付随するさまざまなもの、例えばそれらが資本の生産した商品であるという属性や、商品の売買にまつわる信用や、商品所有者や購買者の思惑や欲望、貨幣等々、実際に商品が交換され売買されている諸関係に付随するさまざまな諸問題はとりあえずはすべて捨象されて、とにかく商品と商品が社会的に交換されるという物質代謝のもっとも抽象的な関係だということです。だからそれは直接には、ある一つの商品の一定量が別の他の商品の一定量と交換されるという現実としてわれわれの前には現われているのです。これが交換関係です。それは直接にはそれぞれの一定の使用価値量の交換割合としてわれわれには見えています。
しかし二つの使用価値が交換されるということは、それらが同等であり、等置されるものであるからです。リンネルと上着が等置されるから、それらは交換可能なのであって、実際に交換されているわけです。それが初版付録にいう「同等性関係」ということではないでしょうか。そして二商品の同等性関係というのは、それらの価値の関係であるということです。つまり価値として両者は等しいことを意味しているということです。だから20エレのリンネル=1着の上着という等置は、リンネルと上着を両者のもつ価値の側面から観た場合の等置関係なわけです。これが、すなわち価値関係です。価値はもちろん目に見えないから、価値関係も見えません。しかし交換関係は現実の客観的な過程ですから、目に見えています。ただ等置されている関係(同等性関係)は見えても、何が等しいのかは見えていません。そして何が等しいかと言えば、それらは価値として等しいということです。だから《価値としてはリンネルと上着は同じ本質のものである》わけです。
価値表現は、価値関係をさらに論理的に解剖するなかから見出すことができるように思えます。価値表現は、それは「表現」ですから、価値が表され、見えているわけですが、しかしその見えているカラクリは直接には見えませんし分かりません。それを説明するのが「相対的価値形態の内実」というわけです。
以前、大阪で「『資本論』を学ぶ会」で学習したときに、そのニュースのなかで、これらの諸カテゴリーの関係を図示した次のようなへたくそな図を紹介しましたが、参考のために再び紹介しておきます。
(その2に続きます。)