『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第5回「『資本論』を読む会」の報告

2008-08-29 17:03:07 | マルクス

◎暑かった夏もおさらば

  8月も終わりに近づくと、急に涼しくなりました。私は友人夫婦と一緒に19~21日にかけて恒例の2泊3日の旅行に出かけ、標高1000m近くの高原の宿舎で過ごし、さすがは高原は涼しいなあ、などと言っていたのですが、帰ってくると、何のことはない、大阪の方が涼しくて、夜は窓を開けて寝ていると風邪を引きそうなほどでした。これでは何のための避暑旅行かといった次第でした。それほど今年の夏は短く、秋は早足で訪れつつあるようです。 これを喜ぶべきか、それとも悲しむべきか、子供達にとっては、楽しい夏休みが終わり、学校が始まるという何とも言えない複雑な気持ちではあるでしょうが、年寄りには、まあ身体が楽になるという点では、喜ぶべきなんでしょう。 “実りの秋”と言います。しっかり『資本論』を研究して、実り多い秋にしたいものではあります。

◎「抽象的人間労働」と「同等な人間労働」

  最近は秋雨前線が停滞して、天気の悪い日が続きますが、わが「『資本論』を読む会」も、やや停滞気味で、ほとんど“移動”がありませんでした。

 といっても、何も議論もせずに終わったということではありません。問題が難しく何度議論してもなかなか埒が開かなかったからです。

 「抽象的人間労働」を如何に理解するかが問題でした。これは戦前から多くの学者が議論してきたものですから、私たちがたった数時間議論したからと言って埒が開くような性格のものではないと言えばそれまでですが、とにかく議論になった点を紹介しましょう。まず当該パラグラフを全部引用しておきましょう。

 《(14)したがって、ある使用価値または財が価値をもつのは、そのうちに抽象的人間労働が対象化または物質化されているからにほかならない。では、どのようにしてその価値の大きさははかられるのか? それに含まれている「価値を形成する実体」、すなわち労働の、量によってである。労働の量そのものは、その継続時間によってはかられ、労働時間はまた、時間、日などのような一定の時間部分を度量基準としてもっている。

(15)一商品の価値がその生産のあいだに支出された労働の量によって規定されるならば、ある人が怠惰または非熟練であればあるほど、彼はその商品の完成にそれだけ多くの時間を必要とするのだから、彼の商品はそれだけ価値が大きいと思われるかもしれない。しかし、諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働であり、同じ人間労働力の支出である。商品世界の諸価値に現される社会の総労働力は、たしかに無数の個人的労働力から成りたっているけれども、ここでは同一の人間労働力として通用する。これらの個人的労働力のそれぞれは、それが一つの社会的平均労働力という性格をもち、そのような社会的平均労働力として作用し、したがって、一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて、他の労働力と同じ人間労働力である。社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的・標準的な生産諸条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、何らかの使用価値を生産するのに必要な労働時間である。たとえば、イギリスで蒸気織機が導入されてからは、一定の量の糸を織物に転化するためには、おそらく以前の半分の労働でたりたであろう。イギリスの手織り工はこの転化のために実際には以前と同じ労働時間を必要としたが、彼の個人的労働時間の生産物は、今ではもう半分の社会的労働時間を表すにすぎず、したがって、以前の価値の半分に低下したのである。》

  これはパラグラフで言うと、14と15パラグラフです(いま便宜的に引用文にパラグラフの番号を記してみました)。この二つのパラグラフの論理的な関係が今一つよく分からないのです。

 まず最初に気付くのは、14パラでは「抽象的人間労働」というタームが使われていますが、15パラではそれが見当たらないということです。「価値の大きさ」が問題になると、どうして「抽象的人間労働」(の量)ではなく、15パラで問題になっている「同等な人間労働」とか「同じ人間労働力の支出」とか「同一の人間労働力」とか「社会的平均労働力」「社会的平均労働」「社会的に必要な労働時間」等々が問題になるのか、前者と後者はどのように関連しているのか、が問題になったのです。

◎まず最初は15パラグラフから

 15パラグラフでは、さまざまなタームがでてきますが、それらは次のような展開になっています。

 《諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働であり、同じ人間労働力の支出である》               

                        

 《商品世界の諸価値に現される社会の総労働力は、たしかに無数の個人的労働力から成りたっているけれども、ここでは同一の人間労働力として通用する》  

                       

  《これらの個人的労働力のそれぞれは、それが一つの社会的平均労働力という性格をもち、そのような社会的平均労働力として作用し、したがって、一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて、他の労働力と同じ人間労働力である》 

                     ↓

  《社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的・標準的な生産諸条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、何らかの使用価値を生産するのに必要な労働時間である》

 ここでは、まず《諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働、同じ人間労働力の支出である》との命題が述べられ、だから個々の労働は諸価値に現される限りは、《同一の人間労働力として通用する》こと、そして《同一の人間労働力として通用する》ということは、個々の労働が《社会的平均労働力という性格をもち、そのような社会的平均労働力として作用》する限りにおいてであること、というのは、《一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて、他の労働力と同じ人間労働力である》と言えるからだ、とされています。

 つまりここでは「価値の実体をなす労働」と「個別の諸労働」との関連が明らかにされているように思えます。個々の労働はその総計によって「社会の総労働力」の一部を構成しますが、しかし個々の労働それ自体としては価値を形成する労働としては通用しないこと、それが価値の実体をなす労働として通用するためには、それらが社会的な平均労働力として作用しなければならず、《したがって、一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて》価値を形成すること、というのは、それらはそうしたものとしてのみ、「同等な人間労働」として通用するのであり、よってまた価値の実体となることができるのだからである、等々。

 だからここでは「諸価値の実体をなす、同等な人間労働」が量的に、より具体的により深くその内容が規定されているように思えます。

 ◎14パラグラフと二つのパラグラフの関連

  まあ、15パラグラフはこの程度でよいとして、それではそれが14パラグラフとどのように関連しているのか、それが問題です。次に14パラグラフを考察してみましょう。 14パラグラフで問題になったのは次の一文です。

 《では、どのようにしてその価値の大きさははかられるのか? それに含まれている「価値を形成する実体」、すなわち労働の、量によってである。》

  ここでマルクスは《「価値を形成する実体」、すなわち労働の、量によって》と書いていますが、ここに出てくる「労働」は、その前の分節--《したがって、ある使用価値または財が価値をもつのは、そのうちに抽象的人間労働が対象化または物質化されているからにほかならない》--に出てくる「抽象的人間労働」と同じなのか違うのかが問題になりました。

 ピースさんは同じではないかというし、亀仙人は「同じならどうして単に『労働』ではなく、『抽象的人間労働』という言葉を使わないのか」と疑問を呈したのですが、結論はでませんでした。

 この両者は同じと言えば同じですし、違うと言えば違うと言えます。明らかにマルクスはここで単に「労働」とのみ述べているのは、その次の15パラグラフとの絡みからだと思います。両者の違いは、「抽象的人間労働」は諸商品に対象化された労働であり、いわば「過去の労働」ですが、「価値を形成する実体」としての「労働」は、これから価値を形成する労働、つまり「生きた労働」という点にあるように思えます。「抽象的人間労働」は諸商品の交換関係から、それらの諸商品に共通なものとして、諸生産物に対象化され結晶している「社会的実体」として、抽出されたものです。それはもちろん、価値の実体をなすわけですから、社会的に共通な質に還元された労働であり、その具体的姿態が捨象された、一般化・抽象化された労働です。しかしわれわれが「価値を形成する実体」として捉えている「労働」は、これから価値を形成する労働として、その内容が問われています。それは「価値を形成する実体」とマルクスが説明しているように、すでに個別の労働とは異なる、何らかの社会的実体になった労働なわけです。だからそれは単に個別の労働から、その具体的姿態を捨象して、単なる労働一般として捉え、その継続時間を問題にすればよいというものではないわけです。

 商品に対象化された労働の場合、それはすでに商品のなかに物質化されたものなのてすから、その具体的姿態を捨象して「抽象的人間労働」に還元すれば、それはすでに一つの「社会的実体」ということができます。それは諸商品の交換関係、という一つの社会的関係から抽出されたものでもあるからです。つまり具体的な労働からその具体性を捨象し、抽象的人間労働に還元して、そのことによってその労働が社会的に共通な質を獲得するということのなかには、その労働が「同じ人間労働」「同じ人間労働力の支出」として捉えられるということが含まれているのです。だからその労働は個別に支出された労働とはすでに異なるものなのです。個別の労働の具体的姿態をただ捨象しただけでは不十分であり、そうした抽象された労働がその抽象性によって社会的な共通の質を獲得するためには、その労働が「同じ人間労働」「同じ人間労働力の支出」として通用するものに変わっていなければならないわけです。そこから第15パラグラフの説明に繋がって行くわけです。

 つまり「諸価値の実体をなす労働」である「同じ人間労働」「同じ人間労働力の支出」というのは、より具体的にその内容をみると、「社会的平均的労働力の支出」という意味を持ち、だからその継続時間というのは、「社会的に必要な労働時間」なのです。それは「現存の社会的・標準的な生産諸条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、何らかの使用価値を生産するのに必要な労働時間である」とも規定されています。

 だから「価値を形成する実体」としての「同じ人間労働」とか「同じ人間労働力の支出」、あるいは「社会的平均的労働力の支出」、さらには「社会的に必要労働時間」というのは、「価値の実体」としての「抽象的人間労働」をより具体的にその内容を展開したものということができるのではないでしょうか。 

 一応、不十分ながら、結論らしきものとして、以上のことを述べておきます。もし、異論があればどしどし出してください。歓迎します。

コメント
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