『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.3(通算第53回)

2015-08-21 09:28:21 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.3(通算第53回)

 

◎亀仙人の個人ブログとして継続

 長らくご無沙汰していました。

 実はこの度、このブログを担当してきた亀仙人は、その前身組織も含めると40数年間所属してきたマルクス主義同志会(以下、「同志会」)を離れることになりました(退会する理由についてはここに書いてあります)。

 このブログを立ち上げる切っ掛けになった、泉州で開催された「『資本論』を読む会」は、同志会のメンバーが中心になっていました(だから以前は、このブログは同志会のサイトからリンクされていたのです)。亀仙人もそのメンバーの一人として参加し、学習会の報告をするためのブログの立ち上げと、毎回の更新を担当してきたのです。

 しかし「『資本論』を読む会」は諸般の事情で第50回で中断し、その後、ブログは、それまでの報告を資料として残すことを目的に「『資本論』学習資料室」と名前を変えて継続してきたのでした。だから更新はブログに広告が掲載されてテンプレートが大幅に変更されてしまうのを避けるために、必要最低限なものに限り、ただ定期的にすでにアップしたものを部分的に手直してアップし直すだけに止めてきたのです。

 しかし亀仙人が同志会を退会したのを期に、これを亀仙人の個人のブログとして再出発させることにしました(すでに同志会のサイトとのリンクも切れています)。そして今後は積極的に、『資本論』の学習に役立つような解説と資料を提供をするブログにしたいと考えています。

 今後も、不定期にしかアップできませんが、これまでの形式を踏襲して、とりあえずは、『資本論』第3章の続きを、各パラグラフごとに詳解し、関連する資料を提供するという形でやってゆく予定です。だから今回のものは、『資本論』学習資料No.2に直接続くものになります。

◎第6パラグラフ

【6】〈(イ)したがって、二つの異なった商品、たとえば金と銀とが同時に価値尺度として使われれば、すべての商品は二通りの異なる価格表現、すなわち金価格と銀価格とをもつことになり、金に対する銀の価値比率が不変のままである限り、たとえば一対一五である限り、両者は平穏無事に共存する。(ロ)しかし、この価値比率に変動が生じるたびに、商品の金価格と銀価格との比率が撹乱され、こうして、価値尺度の二重化はその機能と矛盾するということが、事実によって証明される(53)。〉

 (イ) だから二つの異なる商品、例えば金と銀とが同時に価値尺度として使われると、すべての商品は二通りの違った価格表現、すなわち金価格と銀価格というような価格を持つことになります。金と銀との価値の比率が不変であるなら、例えば1対15というように常に同じなら、こうした二重の価格表現は大きな混乱なしに推移します。

 このパラグラフは〈したがって〉と、その前の文章を受けたかたちになっており、前のパラグラフとの続き具合を見る必要があります。前回が中途半端なところで終わったために、こうしたブザマナものになってしまいました。フランス語版では、ここには段落はなく一続きの文章として繋がっています。しかし、とりあえず、その前のパラグラフの最後の部分を見てみることにしましょう。

 〈価値尺度機能のためには、ただ想像されただけの貨幣が役立つけれども、価格はまったく実在的な貨幣材料に依存している。たとえば、一トンの鉄に含まれる価値、すなわち人間労働の一定量が、等しい量の労働を含む貨幣商品の想像された一定量によって表現される。したがって、金、銀、銅のどれが価値尺度として使われるかに従って、同じ一トンの鉄の価値はまったく異なる価格表現を受け取るのであり、言いかえれば、金、銀、銅のまったく異なる量によって想像されるのである

 これについての前回の説明もついでに見ておくことにします。

 〈つまり金1グラムの価値(金1グラムを生産するに必要な労働時間)が、銀1グラムの価値の10倍であり、同じように銅1グラムの100倍であるとするなら、1グラムの金=10グラムの銀=100グラムの銅 という等式がなりたちます。今、鉄1トンの価値を、金で表すと1キロの金という形で表象されるとするなら、同じように鉄1トンを銀で表すなら、10キロの銀という形で、あるいは銅で表すなら、100キロの銅という形で表章されるわけです。つまり同じ鉄1トンの価値が、1キロ、10キロ、100キロというまったく異なる量によって表章されるというわけです。〉

 そして今回のパラグラフに続いているのです。つまり鉄1トンを金で尺度するなら、1キロの金、銀で尺度するなら10キロの銀となるわけですが、この例のように、金と銀とに含まれる労働の割合が1対10のままで推移するなら(マルクスは当時の金銀比価として一般的だった1対15を例として上げていますが)、こうした二重による価値の尺度はその限りでは特に問題なく共存することが出来ると述べているわけです。

 (ロ) しかし、この価値比率に変動が生じるなら、その度に、商品の金価格と銀価格との比率が混乱し、こうして、価値尺度の二重化は、その本来の機能と矛盾するということが、事実によって証明されるのです。

 しかし実際には、金銀の比価は歴史的には大きく変化しました。マルクスはその具体的な例を注53で『経済学批判』の一文を紹介するなかで示していますが、そうなると金価格と銀価格の比率も変化し、混乱します。だからこうした混乱を通じて、価値尺度が二つ以上の貨幣商品で測られるということは、その本来の機能と矛盾するということが、事実によって証明され、やがてそれは金という貨幣商品に集約していくわけです。

◎注53

 これまでにも注については、全文を紹介しますが、文節ごとの解読は省略し、一定の考察を加えるだけにとどめています。今回もその前例にならうことにします。まず全文です。

【注53】〈(53) 第2版への注。「金と銀とが法律上貨幣として、すなわち価値尺度として並存する場合には、両者を一つの同じ物質として取りあつかおうとするむだな試みが、つねに行われてきた。同じ労働時間があい変わらず同じ比率の銀と金とに対象化されているに違いないと想定することは、事実上、銀と金とが同じ物質であり、かつ、価値の低いほうの金属である銀の一定量が一定の金量の不変の一部分をなしていると想定することである。エドワード三世の治世からジョージ二世の時代にいたるまで、イギリスの貨幣制度の歴史は、金銀の比価の法律上の固定化と、金銀の現実の価値変動とのあいだの衝突から生じた一連の混乱に終始している。ある時は金が、ある時は銀が、過大評価された。過小評価された金属は、流通から引きあげられ、鋳つぶされ、輸出された。そこで、両金属の比価がふたたび法律上変更されたが、新しい名目価値は、以前のそれと同じく、すぐに現実の比価と衝突することになった。--現代では、インドや中国の銀需要の結果、銀に対する金の価値にごくわずかな一時的な低下が起こり、それがフランスで同じ現象を、すなわち銀の輸出と金による銀の流通からの駆逐とを、きわめて大規模に生じさせた。一八五五年、一八五六年、一八五七年のあいだに、フランスからの金輸出に対するフランスへの金輸入の超過は四一五八万ポンド・スターリングにのぼり、他方、銀輸入に対する銀輸出の超過は三四七〇万四〇〇〇ポンド・スターリング〔*〕にのぼった。実際、〔フランスでのように〕両金属が法定の価値尺度であり、したがって支払いに際して両金属が受け取られなければならないが、しかも各人は任意に銀か金で支払うことができるような諸国では、価値の上昇する金属に打歩(ウチブ)が生じ、他のどの商品とも同じように、過大評価された方の金属で自己の価格をはかることになり、この後者の金属だけが価値尺度として役立つのである。この領域でのすべての歴史的経験は、単純に次のことに帰着する。すなわち、法律上二つの商品に価値尺度機能が与えられている場合には、事実上つねに一つの商品だけが価値尺度の地位を占める、と」(カール・マルクス『経済学批判』、52~53ページ〔『全集』、第13巻、58~59ページ〕。
〔* 第2版から第4版まででは、一四七〇万四〇〇〇ポンドになっている。--ディーツ版編集者〕〉

 この注はすべて『経済学批判』からの引用です。その内容は大きくは三つに分けられ、前半はイギリスの貨幣制度の歴史を振り返ったものです。後半は現代において(つまりマルクスが生きていた当時、19世紀前半から半ばまで)、銀が価値尺度として通用しているインドや中国の銀の需給が両金属が法定の尺度であったフランスにどのような影響を与えているかという問題です。そして最後は、こうした歴史的経験の総括となっています。
 まず〈エドワード三世の治世〉というのは同王の在位は1327年 - 1377年となっており、〈ジョージ二世〉の在位は1727年 - 1760年ですから、14世紀前半から18世紀半ばまでということになります。
 ただこの〈ジョージ二世〉は、「ジョージ三世(在位:1760年 - 1820年)」の間違いではないかという指摘があります。
 同じ『批判』の注のなかで、マルクスは〈金とならんで銀を貨幣尺度として用いることは、なるほど1816年にジョージ三世の治世第56年法律第68号によってはじめて正式に廃止された。法律のうえでは1734年にジョージ二世の治世第14年法律第42号によって実質上廃止されており、慣行のうえではそれよりずっとまえに廃止されていたのである〉(全集13巻56頁)と書いているのですが、この一文に対する全集の編集者の注には次のように書かれているのです。
 〈ジョージ二世の治世第14年は1734年ではなく、1740年にあたる。しかし、ジョージ二世の治世には銀についての措置はおこなわれていないので、ジョージ三世の治世第14年にあたる1774年の銀貨25ポンド以上を法貨と認めるのを禁止した改革の誤記ではないかと思われる。この改革はジョージ三世の治世第14年法律第42号によっておこなわれているから、法律の番号も一致する。そうとすれば、五九(原)ぺージのジョージ二世(これが今回の注として採用されている部分に当たります--引用者)も三世の誤記とみなければならない〉(同)。
 まあいずれにせよ、例え誤記だとしても、マルクスが問題にしているのはほぼ14世紀前半から18世紀半ばと考えて大きな間違いではないでしょう。
 つまりこの時代においては、イギリスでは金と銀が法律上の貨幣として併存していたということです。この当時のイギリスの貨幣制度の詳しい歴史については、興味のある方は別途調べて頂くとして(例えば『ポンド・スターリング--イギリス貨幣史--』一ノ瀬他訳・新評論などがあります)、その歴史は〈金銀の比価の法律上の固定化と、金銀の現実の価値変動とのあいだの衝突から生じた一連の混乱に終始し〉、〈ある時は金が、ある時は銀が、過大評価された。過小評価された金属は、流通から引きあげられ、鋳つぶされ、輸出された。そこで、両金属の比価がふたたび法律上変更されたが、新しい名目価値は、以前のそれと同じく、すぐに現実の比価と衝突することになった〉というわけです。
 ここで〈過小評価された金属は、流通から引きあげられ、鋳つぶされ、輸出された〉という事情について少し考えてみましょう。どうしてそうなるのでしょうか。例えば、銀が過大評価され、その分だけ金が過小評価されているとします。それは1円金貨があるとすると、それと同じ重量の金地金の市場価格の方が高く、例えば1.5円になるということです。だから1円金貨を手にした人は、それで商品を買うより(それなら1円の価値ある商品しか買えません)、それを鋳潰して金地金にした売ったら、1.5円になり、0.5円儲けることになるわけです。だから1円金貨は、たちまち流通から引き上げられるというわけです。

 他方〈現代では〉、つまり19世紀の半ばにおいては、インドや中国でわずかですが、銀の価値が高くなり、そのためにフランスでは銀の輸出と金の輸入が大規模に生じたということです。つまりこの場合、フランス国内では、先の例とは反対に、銀の方が法定の価値比率に比べて過少評価されることになり、そのために銀は流通から引き上げられて、輸出され、その代わりに金が大量に輸入されたというわけです。
 そしてフランスのような両金属が法定の価値尺度になっている場合は、過大評価された方の金属(この場合は金)が実際には価値尺度として役立つことになるということです。
 ここで〈価値の上昇する金属に打歩(ウチブ)が生じ、他のどの商品とも同じように、過大評価された方の金属で自己の価格をはかることになり、この後者の金属だけが価値尺度として役立つ〉とありますが、これはどういうことでしょうか。ここで〈価値の上昇する金属〉というのは当時のフランスでは銀貨のことでしょう。そして〈過大評価された方の金属〉というのは、やはり当時のフランスでは金貨のことと思われます。過小評価された銀貨は流通から引き上げられて輸出されるわけですから、流通には金貨のみが流通することになるわけですから、金貨が価値尺度として役立つというのは分かりますが、〈価値の上昇する金属に打歩(ウチブ)が生じ〉るというのはどういうことでしょうか。しかしこれについてもすでに先の1円金貨の例で説明したとおりです。つまり当時のフランスでは銀貨は過少評価されたために、銀地金の方が市場価格が高くなったために、銀貨は鋳潰されて銀地金にした方が高く売れるということです。その差額がすなわち〈打歩〉というわけです。先の1円金貨の例でいうと0.5円がそれです。

 だからこうした歴史的経験からも言えることは、法律上二つの貨幣商品に価値尺度の機能が与えられている場合には、実際には常に一つの貨幣商品だけが価値尺度の地位を占めるようになるのだということです。そしてそれは歴史的に見ると、最終的には金がその地位につき、今日に至っているというわけです。

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 この注53で、私たちが注目しなければならないのは、マルクスが次のように述べているところです。

 〈この領域でのすべての歴史的経験は、単純に次のことに帰着する。すなわち、法律上二つの商品に価値尺度機能が与えられている場合には、事実上つねに一つの商品だけが価値尺度の地位を占める、と

 なぜ、この一文が重要かというと、今日では法律上は如何なる貨幣商品にも価値尺度機能が与えられているわけではないからです。この現実をどのように理解すべきか? 果たして現在の通貨(不換銀行券である円札やドル札)に価値尺度機能があるのか無いのか?
 この問題は、マルクス経済学者たちの間でも大きな議論になってきたのですが、その問題を考えるヒントがここにはあると思えるからです。
 一昔前には、日本でも1897年の貨幣法施行で純金750ミリグラムを1円とすると決められていました。つまり金に価値尺度の機能を法律上も与えられていたのです。しかしその後、第一次大戦を契機に世界の国々は金本位制を離脱しました。その後、1919年にアメリカが金本位制に復帰したのを皮切りに、再び世界の国々も復帰しました。しかし日本はなかなか復帰できず、ようやく1930年に金解禁をやり、復帰したものの、丁度その時は、世界は1929年の大恐慌に陥った直後であり、日本もそれに巻き込まれて、結局、翌1931年には再禁止に、つまり金本位制の停止に追いこまれたのです。その後、日本は二度と復帰することは出来ませんでした。本位金貨そのものは、その後も通用はしていましたが、1987年に制定された「通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律」によって、1988年3月31日限りで通用停止になり、日本は「名実ともに管理通貨制度の世の中になった」のだそうです(以上ウィキペディア)。
 こうして今日ではいわゆる「管理通貨制度」と言われている貨幣制度のもとに、法律上は金は貨幣ではなくなり、だから法律上は価値尺度機能も金には与えられていないわけです。
 こうした事実をもって、林紘義氏は(林氏だけではなく多くのマルクス経済学者も同じことですが)、だから現代の貨幣(通貨)には価値尺度機能はないのだと主張するのです。
 しかし上記の注53の一文を注意深く読むと、マルクスは〈法律上〉と〈事実上〉とを対比させて使っています。つまり法律上はどのように決められていようが、実際、どの貨幣商品が価値尺度の機能を果たすかは、商品流通の現実がそれを決めるのだということです。そして歴史上、それは最終的には金がその地位を占めたのです。そしてその事実は今日でも変わっていないのです。法律上は金には価値尺度の機能は与えられていませんが、しかしある特定の商品に価値尺度の機能を与えるのは、決して時の国王や政府ではありません。それは商品世界のなかで、ある特定の商品がその世界からはじき出されて一般的な等価にされることによって、つまり諸商品の共同作業によって成り立つようなものだからです。つまり商品流通の現実こそが金を貨幣にし、金に価値尺度の機能をあたえているのです。だから時の政府が法律によってどのように決めようが、どんな人為的な貨幣制度を打ち立てようが、マルクスが『資本論』の第1章や第2章、あるいはこの第3章で解明している貨幣の抽象的な諸機能や諸法則は、厳然として貫いているのです。それを林氏をはじめ多くのマルクス経済学者たちは忘れているのです。忘れているというより、マルクスが『資本論』の第1篇で解明している商品や貨幣の抽象的な概念やその諸法則について、その深い意味において理解できていないのです。彼らはこうした抽象的な概念や諸法則は、金が貨幣として通用していた昔の時代には適用できても、今のように不換銀行券が流通し、国家によって通貨が管理されているような時代にはそのままでは適用できないと考えているのです。
 では実際問題として、今現在、諸商品の価値はどのように金で尺度されているのでしょうか。私たちはスーパーの店頭に行けば、すべての商品には「○○円」という値札がついている現実を知っています。これらは明らかにそれぞれ商品の価格であり、それぞれ商品の価値が貨幣によって尺度されて表されたものだということが分かります。しかし円札というのは、単なる紙切れであり、それ自体にはほとんど価値のないものです。だから円札が直接、諸商品の価値を尺度できる筈はありません。つまり諸商品の価値を尺度しているのは、やはり貨幣金なのです。しかし貨幣である金は商品流通の現実にはどこにも現われていないのに、どのようにして商品の価値は尺度され、しかも紙幣である円で表示されているのでしょうか。
 しかしそれを知るためには、まず円札がそもそも現実の商品流通のなかで通貨として通用しているのは、それが何らかの金量を代理しているからだということを思い出す必要があります。そしてまさに円札が代理している金こそが諸商品の価値を尺度しているのです。もちろん、そうした現実は私たちには直接には目に見えません。そもそも例え実際に金貨が流通していたとしても、貨幣金が諸商品の価値を尺度する現実を私たちが見ることは不可能なのです。それは客観的な法則として、価値法則として貫いているものだからです。私たちは物体が落下するのを見て重力の法則が働いていることを知りますが、しかし重力の法則そのものを見ることはできません。法則というのは直接的なものの背後で本質的な関係として貫いているものであって、それらはただ直接的な物を通して現象して、初めて目にすることができるような性格のものなのです。だから価値法則についてもそれは言いうるのです。私たちが直接目にして知りうるのは、ただ諸商品が何らかの円の量的表現として表されている現実だけです。しかしそれこそ,客観的に貫いている価値法則が、現実の諸商品の価格として現象したものなのです。だからそのメカニズムを知るためには、まず円札がどれだけの金量を代理しているかを知らねばなりませんが、それについては、私は最近、自身が運営するもう一つのブログ(マルクス研究会通信)で連載している「現代貨幣論研究(4)」のなかで、次のような例を上げて説明しましたので、それを紹介しておきましょう。

 〈実際、金貨が流通していた古い時代においても、鋳造価格(これは国王が決めた)と一緒に金には市場価格がありました。金本位制の時代でも、銀行券の度量基準(これは国家が決めた)とともに金の市場価格があったのです。そして常に金の市場価格こそが実際の金の価格標準を示していたのです。……
 だから今日でも金の円価格、あるいは金のドル価格(それらの逆数)こそが円やドルの度量基準を表しているのです。例えば、今、金1グラムは2500円ほどしています。ということは、1万円札は4グラムの金量を代理しているのです。だから1万円の腕時計の価値は、金4グラムに相当するのです。だからわれわれが『資本論』で学んだ貨幣論は決して“抽象物”でもなんでもなくて、われわれの目の前の現実そのものなのです。〉

 つまり腕時計の価値は、金4グラムとして尺度され、そしてその金を代理する円を介して1万円の価格(値札)として表示されているのです。このように諸商品の価値の尺度は、やはり貨幣金によってなされているのです。しかし、こうした現実は、直接目にすることはできないために、林氏をはじめ、金が商品流通の現実には現われていないという現象に惑わされている多くのマルクス経済学者たちには分かっていません。

 (以下、続く)

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【付属資料】

●第6パラグラフ

《補足と改訂》

 〈1 0)それゆえ、二つの異なった商品、たとえば金と銀とが同時に価値尺度として使われれば、すべての商品は二通りの異なる価格表現、すなわち金価格と銀価格とをもつことになり、金にたいする銀の価値比率が不変のままである限り、たとえば1対15である限り、両者は平穏無事に共存する。しかし、この価値比率に変動が生じるたびに、商品の金価格と銀価格との比率が撹乱され、こうして、価値尺度の二重化はその機能と矛盾するということが、事実によって証明される。(注『批判~ p. 5 2、530 )〉(石黒訳下38頁)

《フランス語版》 フランス語版では、この第6パラグラフは独立しておらず、前のパラグラフとくっつけられてるので、前回の資料提供では、その部分も併せて紹介したが、今回はこの第6パラグラフに該当する部分だけを重複するが紹介しておくことにする。

 〈したがって、もし二つのちがった商品、たとえば金と銀とが価値尺度として同時に用いられるならば、すべての商品はその価格として二つのちがった表現をもつわけである。金にたいする銀の価値比率が相変わらず不変であるかぎり、たとえば一対一五の割合に維持されているかぎり、すべての商品は金価格と銀価格とをもち、両価格はともに相並んで悠々と流通する。この価値比率のどんな変化も、それがために商品の金価格と銀価格との割合を変え、こうして、価値尺度の機能がその二重化と両立しないことを事実でもって証明する(4)。〉(73-4頁)

●注53

《フランス語版》

 〈(4)「銀と金が貨幣として、すなわち価値尺度として、法律上相並んで保たれているところではどこでも、それらを同一の物質として取り扱おうとする無駄な試みが、いつも行なわれてきた。同じ労働量が金と銀との同じ罰合のうちに不変的に具現されていると想定するのは、事実上、銀と金が同じ物質であり、劣った価値をもつ金属である銀の与えられた分量が、金の与えられた分量の不変な部分である、と想定することである。エドワード三世の治世以降ジョージニ世の時代にいたるまで、イギリスの貨幣史は、銀と金との法定価値比率と金銀の現実の価値変動との衝突から生ずる一連の不断の撹乱を提示している。あるときは金が、またあるとぎは銀が、高く評価されすぎた。価値以下に評価された金属は流通から引きあげられ、鋳直されて、輸出された。二つの金属の価値比率が再び法律上変更された。だが、新しい名目価値も、以前と同じように、現実の価値率とやがて衝突した。
 現代でも、インドとシナとの銀需要から生じた、銀に比べての金の微弱で一時的な低落が、フランスでは同じ現象、すなわち銀の輸出と、流通における金による銀の代置とを、この上なく大規模に産んだのである。一八五五年、一八五六年、一八五七年の間に、フランスへの金の輸入はその輸出を四一五八万ポンド・スターリングも超過したのにたいし銀の輸出はその輸入を一四七四万ポンド・スターリングも超過した。二つの金属が法定の価値尺度であって、双方とも強制通用力をもっており、したがって、各人がどちらの金属ででも随意に支払いでぎるというフランスのような国では、実際に、価値の騰貴している金属は、打歩を生じ、他のすべての商品と同じに、過大評価されたほうの金属で自分の価格を測るが、他方、この過大評価された金属だけが価値尺度として用いられるのである。この点にかんして歴史が提供する経験は、ただたんに次のことに帰着する。すなわち、二つの商品が価値尺度の機能を法的に果たしているところでは、事実上一方だけが価値尺度の位置に維持されているのである、と」(カール・マルクス、同前、五二、五三ページ)。〉(74頁)

 

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