『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第10回「『資本論』を読む会」の案内

2009-01-15 05:12:38 | マルクス

 昨年末、「トヨタショック」が世界を駆け巡った。

 11月にトヨタは09年3月期の大幅減益の見通しを発表したが、そのわずか一カ月後、すぐにその見通しを修正して、12月には営業損益が前期実績の2兆2703億円の黒字から一転して1500億円の赤字に転落する見通しを明らかにした。

 あの「世界のトヨタ」が苦境に陥っている。欧米メディアはトップニュースで伝えた。「ビックスリー(米自動車3大メーカー)を超えて、最強の自動車メーカーにさえ打撃」(米紙ウォールストリート・ジャーナル)。「日本経済の象徴であるトヨタの不振は、不況が日本経済にいかに打撃を与えているかを示す例になっている」(南ドイツ新聞)(08年12月26日産経)。

 昨年9月の米大手金融機関のリーマン・ブラザーズの破産は、「リーマンショック」として、世界を金融恐慌の嵐に巻き込んだが、それに続く「トヨタショック」は、バブルの破綻と金融恐慌の勃発は、単にそれに続く全般的な過剰生産恐慌の先駆けに過ぎなかったことを明らかにしている。

 日本の自動車業界は08年の前半は我が世の春を謳歌してきた。円安や新興市場における販売増などの追い風を受けて、2008年の3月期は軒並み増収増益を達成し、その利益体質はまさに磐石のように見えたのである。主要3社の営業利益は、トヨタ自動車が前年比1.4%増の約2.3兆円、日産自動車が1.8%増の約7900億円、ホンダに至っては12%増の約9530億円、それぞれ過去最高益を実現した。しかしそれはただ世界的な信用膨張によるバブル景気に浮かれていただけに過ぎなかった。

 今や、各社とも一転して業績予想を大幅に下方修正している。トヨタの幹部は「09年の販売見通しを立てようにも、数字が次から次へと動いて立てられない」と悲鳴を上げているという。

 

 しかも苦境は、何も自動車業界だけではない。同じように好景気を謳歌してきた家電業界にも軒並み荒波が押し寄せつつある。ソニー、東芝は09年3月期連結業績が営業赤字へ転落の見通しであり、シャープやパナソニックは液晶パネル工場など巨額の投資が裏目に出ていると指摘されている。さらに自動車業界に鋼板を供給してきた鉄鋼業界も、粗鋼生産量が過去最高を記録した「30年ぶりの春」から、一転して「減産の嵐が吹き荒れている」。

 かくして〈ブルジョア的生産のすべての矛盾は、一般的世界市場恐慌において集合的に爆発〉しているのである(『剰余価値学説史』全集26巻672頁)。

 恐慌は、この資本主義的生産様式そのものの歴史的限界を暴露するものである。それは何か絶対的な生産様式ではなく、ただ歴史的な発展段階に対応したものでしかないことを、純粋に経済学的な仕方で、すなわちブルジョア的な立場から、示すものである。それは多くの人たちにさまざまな災厄をもたらすが、しかしまさにそのことによって、人類は資本主義社会そのものを乗り越えて進まなければならないこと教えるものなのである。

 今、まさに生じつつある世界的な大恐慌を理論的に解明するためにも、是非、貴方も『資本論』を一緒に読んでみませんか。

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 第10回「『資本論』を読む会」・案内

                                                                                                    ■日時   1月25日(日) 午後2時~

  ■会場   堺市立南図書館
        (泉北高速・泉ヶ丘駅南西300m 駐車場はありません。)

  ■テキスト 『資本論』第一巻第一分冊(どの版でも結構です)

  ■主催   『資本論』を読む会



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第9回「『資本論』を読む会」の報告

2009-01-06 17:41:50 | マルクス

◎師走の学習会

 第9回の「『資本論』を読む会」は、28日の暮れも押し詰まってからの慌ただしい開催となった。しかし議論は内容の充実したものになり、会場を借りている午後5時近くまで行なったのであった。というわけで、今回はさっそく、議論の紹介に移ることにしよう。

◎各パラグラフの位置づけ

 今回は「第二節 商品に表される労働の二重性」の第6パラグラフから「使用価値と有用労働」を取り上げている最後の第8パラグラフまで学習したが、最初に問題になったのは、第6パラグラフと第5パラグラフとの関係であった。この二つのパラグラフはほぼ同じような内容を述べているように思えるのだが、それぞれどういう役割を持っているのかが問題になったのである。そしてそれに関連して、この第二節の前半部分(「使用価値と有用労働」が対象になっている)の各パラグラフのそれぞれの位置づけが問題になった。

 まず第6パラグラフの冒頭が《したがって、われわれは次のことを見てきた。--》という言葉から始まっているところを見ると、この第6パラグラフはそれまで述べてきたことを振り返って、全体の総括を行なっているところと見ることができる。
 ではそれはどこからどこまでを振り返っているのかというと、第二節の第1パラグラフと第2パラグラフは第二節全体の導入部分と考えることができるから(第1パラグラフは第一節を振り返り、それを踏まえて、第二節で取り上げる「労働の二重性」の重要性を確認している。第2パラグラフは第二節全体で取り上げる二商品〔上着とリンネル〕の具体例の説明)、第6パラグラフで総括しているのは、第3~5パラグラフまでで述べてきたことと考えられる。

 まず第6パラグラフの最初の二つの分節は、それぞれ第3パラグラフと第4パラグラフの内容を確認している。そして最後の分節は、第5パラグラフで確認した内容を違った観点からみていることが分かる。

 第3パラグラフは使用価値の分析から入っている。これは第二節の表題が「商品に表される労働の二重性」とあるように、「商品に表される労働」が問題だからである。第1パラグラフでは、第一節で見たように、商品は《使用価値および交換価値として、われわれの前に現われた》ことが確認され、第2パラグラフでは、リンネルと上着が例しとて上げられる。だから第3パラグラフでは使用価値としての上着の考察から入っているわけである。そしてその有用性が使用価値として表されている労働を考察し、それを有用労働と規定する。この観点のもとでは労働は常にその有用効果との関連から考察される。第4パラグラフでは、使用価値が異なれば、労働も異なることが指摘される。質的に異なる使用価値は商品の前提であること。第5パラグラフでは、さまざまな種類の使用価値は、多様な有用的労働の総体--社会的分業--を示すことが指摘され、同時に社会的分業は商品の前提だが、その逆は成り立たないこと、商品を生産する分業は「自立的な、互いに独立の、私的労働」にもとづくものであることが明らかにされている。

 そして第6パラグラフでは、それらをもう一度確認しているのである。特に《生産物が一般的に商品という形態をとっている社会》とは「資本主義社会」のことであるから、資本主義社会では、社会的分業は「一つの多岐的な体制」に発展していることが確認されている。

◎「商品生産者の社会」と「商品生産社会」

 またこれと関連して、マルクスは《生産物が一般的に商品という形態をとっている社会》を言い換えて、《すなわち商品生産者の社会》と述べているが、これは「商品生産社会」と同じと考えるべきかどうかが議論になった。

 まずここで《商品生産者》というのは、資本家のことだろう。ただ第1章では資本関係は捨象されているから、単に「商品生産者」となっているだけである、との指摘があった。

 ピースさんは「商品生産社会」「資本主義社会」と対比させ、それは資本主義以前の商品を生産する社会と理解していたと述べたが、亀仙人は、そもそもマルクス自身は、「商品生産社会」という用語自体を使っていないのではないかと指摘した(そして実際、後に『資本論』のテキスト版全体を検索してみたが1~3巻からは「商品生産社会」という用語は一件も検索に引っ掛からなかった。またマル・エン全集の事項索引にもない)。もし「商品生産社会」をマルクスがいうように、《生産物が一般的に商品という形態をとっている社会》という意味で使うなら、それは資本主義社会と同義であるし、その場合は、それを資本主義社会と対比させて、それ以前の商品を生産する社会と理解するなら間違いであろうとも指摘された。

◎「一定の合目的的な生産活動」

 このパラグラフでは、どの使用価値にも合目的的な労働が含まれている、しかもそれらが商品として相対するためには、諸使用価値は質的に違った有用労働の生産物でなければならない、ということが言われ、資本主義社会では、それらの質的に違った有用労働が、一つの社会的分業に発展すると言われている。
 つまり商品に対象化されている労働は、一定の合目的的な活動であるが、しかしそれは私事であり、その限りで限界のある合目的性であることが分かる。社会主義社会でも、その労働は合目的的であるが、しかしそれはその労働が直接社会的であるが故の合目的性でもあり、その意味では資本主義社会のそれとは異なる側面を持っている。マルクスは『土地の国有化について』という小論のなかで、将来の社会では《生産手段の国民的集中は、合理的な共同計画に従って意識的に行動する、自由で平等な生産者たちの諸協同組合(諸アソシエーション--引用者)からなる一社会の自然的基礎となるであろう》(全集18巻55頁)と述べているが、将来の社会主義社会を形成する自由な生産者たちのさまざまなアソシエーションは、生産諸手段相互の物的・技術的関連という「自然的土台」に直接規定されて存在するものなのである。だから資本主義社会における労働の「合目的性」はその限りでは「一定」の限界のあるものである。つまりそれは特定の使用価値を生産するという合目的性であるが、しかしそれらの社会的な関連を直接に持っているわけではない、あるいは意識していない合目的性なのである。しかし社会主義社会では、生産諸手段の諸使用価値が示す自然的基礎にもとづいて、諸労働は意識的に社会的に関係づけられている。社会主義社会では、どういう使用価値をどれだけ生産するかは、使用価値そのものが示す一定の物質的・技術的関連によって規定され、また最終的な使用価値の実現においてもそれを欲求する人々の合目的な意識性が想定されている。
 つまりこのパラグラフは、最初の「一定の合目的的な生産的労働」が、さまざまな有用労働の質的区別をなしているが、しかしそれらは「自立した生産者達の私事として互いに独立に営まれる有用労働」としての、「一定の」制限ある「合目的性」である、というふうに展開されているわけである。

◎第7・8パラグラフの位置づけとその内容

 次に第7・8パラグラフに入ったが、ここから若干、内容が変わっていることが確認されたが、やはりこの二つのパラグラフの全体のなかでの位置づけが問題になった。
 この二つのパラグラフは、いわば第二節の前半で問題になっている「使用価値と有用労働」歴史的な位置づけを論じている部分と考えることができる。
 『資本論』の各部・篇・章・節等々の敍述の特徴として、最初は直接的な表象に現われる現象の分析から入り、その背後にある本質を探り出し、それらの内的関連を明らかにして、最初の諸現象をその本質から展開して説明する(概念を明らかにする)、そして最後に対象となっているカテゴリーの歴史性を示す、という展開が指摘できるが、この第7・8パラグラフは、そうした最後の歴史性を明らかにする部分と考えることができる。
 これは例えば「第一章 商品」「第4節 商品の呪物的性格とその秘密」、あるいは「第一部 資本の生産過程」「第8篇 本源的蓄積」(ただしフランス語版)と同じような位置づけをもっていると考えることができる、との指摘があった。

 第7パラグラフでは、特に第6パラグラフまでで論じられている問題と関連させて、使用価値と有用労働の歴史的な性格を論じていると考えることができる。
 最初の《上着にとっては、それが裁縫師自身によって着られるか、それとも裁縫師の顧客によって着られるかは、どうでもよいことである。どちらの場合でも、上着は使用価値として作用する》というのは、使用価値のどういう特性をいわんとしているのかが問題になった。上着にとって、それを誰が着るかはどうでもよい、つまり使用価値として作用する場合の、対象はどういう社会的関係にある存在かは問わない。上着とそれを使用する人との関係は直接的であって、媒介するものは何もない、ということであろうか。確かにパンを食べる人は、誰であろうが、その行為そのものは生物的な自然的な行為でもあるということであろう。ただ使用価値によっては、一定の社会的関係を前提する場合もある。例えば奢侈品は資本家を想定し、労働者の消費は、必要生活手段に限定されている、等々。しかしそれは諸使用価値の特性からというより、それを実際に消費する人間の社会的関係に規定されたものといえるだろう。使用価値そのものは、その有用効果を実現する人間とは直接的な関係をもっており、それは物質代謝そのものであり、その限りでは自然的であるといえる。
 次に「同じように」やはり上着という特定の使用価値という立場から問題を見て、今度は《上着とそれを生産する労働との関係》を見ている。つまりその労働がどういう社会的関係の下に支出されるかは、やはり上着そのものにとってはどうでもよいことだというのである。ここで《社会的分業の自立した一分岐となる》というのは、商品を生産する労働ということであろう。裁縫労働は、商品生産以前からあったということである。
 しかし諸使用価値の定在は、自然素材を特殊な欲求に適合させるある一つの特有な目的にそった生産活動が必要であった。ここで《特殊な自然素材を人間の特殊な欲求に適合させるある一つの特有な目的にそった生産活動》というのは、やはり第6パラグラフで出てきた《一定の合目的的な生産的活動》と同義であろう。
 こうした考察を前提に、《だから、労働は、使用価値の形成者としては、有用労働としては、あらゆる社会形態から独立した、人間の一存立条件であり、人間と自然との物質代謝を、したがって人間の生活を、媒介する永遠の自然必然性である》ということが結論的に言われている。

 つまり最初の使用価値そのものはそれを使う人やそれをつくる人が誰であるか、どういう社会的関係にある人であるかは問わないが、しかし一定の合目的的な労働が含まれていることだけは示している。だから使用価値を形成する労働は社会的関係を問わないのであり、それは一つの自然必然性なのだ、というのがここでの結論である。

 これは使用価値の生産とその消費というのは、その限りでは人間が他の動物と共有する自然的な物質代謝活動そのものであって、それは社会関係如何を問わないということである。もっとも「生産」というのは人間に固有のものであるが、人間は社会的である前にすでに生産していたといえるのかも知れない。いずれにしても、人間が進化の過程で猿から人間になるにしても、そのあいだもやはり生きていなければならず、そのためには特定の自然素材を自身の欲求に合うように摂取していたことはだけは確かであろう。

 第8パラグラフでは、使用価値は二つの要素(自然素材と労働)の結合であること、しかしこの二つの要素のうち、自然こそが基底であることが指摘されている。《人間は、彼の生産において、自然そのものがやる通りにふるまうことができるだけである。すなわち、素材の形態を変えることができるだけである。それだけではない。形態を変えるこの労働そのものにおいても、人間はたえず自然力に支えられている》
 つまり第8パラグラフでは、さらに「使用価値や有用労働」のその基底にあるもの(自然)を指摘し、そういう意味でそれらが限界づけられていることを明らかにする役割を持っているといえる。またそういう意味で、それらの歴史的性格が示されているとも考えることができる。

◎還元主義?

 マルクスは注13で、ピエートロ・ヴェッリ『経済学に関する諸考察』からの引用を行なっているが、そこでは「宇宙のすべての現象は、人間の手によって生み出されようと物理学の一般的諸法則によって生み出されようと、事実上の創造ではなく、単に素材の変形であるにすぎない」と述べている。マルクスはヴェッリが「使用価値」について述べていることを自覚していなかったが、しかしそれは使用価値について本質的なことを述べていると考えて、引用していると考えることができる。しかしこの引用文では、いささか自然還元主義的な内容があるのではないか、という疑問が出された。

 確かに使用価値に表される労働は、ただ自然がやるとおりにふるまうだけであり、ただ「素材の変形」をするだけともいえるが、しかしそれらが「事実上の創造では」ないというのは言い過ぎではないだろうか、という疑問である。というのは、自然にある素材を変形するだけとはいえ、そこには必ず新たな「質」を生み出すという契機が存在しており、ある場合には自然界にも存在しない、「新しい質」を生み出しているといえるのであり、その限りではそれは「創造」以外の何ものでもないからである。
 例えば、パソコンはそれを構成する諸部分に分解して、それぞれの素材を辿れば、さまざまな物的素材をただ変形させただけともいえるが、しかしそうした変形によって明らかに「新しい質」を生み出しており、そうした「新しい質」「新しい使用価値」として、「創造」されたということを確認することも重要ではないか、それをただすべて素材に、あるいは自然に分解・還元してしまうなら、それはある種の還元主義ではないか、というのである。

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第9回「『資本論』を読む会」の案内

2008-12-06 12:59:29 | マルクス

 

 世界的な金融恐慌は、経済恐慌の様相を深めて、いよいよ現実資本の「価値の破壊」、すなわち倒産や人員整理の段階に突入しつつあります。世界中で労働者の“首切り”の嵐が吹き荒れようとしているのです。

 アメリカの自動車産業はいまや“風前の灯火”で、政府に1兆4千億円もの支援をと泣きついています。それは同時に大幅なリストラを意味します。すでにGMは4工場の閉鎖と3工場合わせて2000人の人員削減計画を発表。IBMは最大1万3000人の人員削減、サンマイクロシステムズは6000人、AT&Tは全従業員の約4%に相当する約1万2000人削減、等々、人員削減の記事を追っていくと枚挙に暇がないくらいです。

 日本でも自動車関連企業主要十社だけで15000人(トヨタ6000人、日産1500人、ツマダ1400人等々)の削減が予定されています。今は、いわゆる「派遣切り」といわれるように、派遣労働者など非正規雇用の労働者に集中していますが、しかしそれだけに留まる保証は何もありません。

 12月4日、東京で2000人の労働者が「派遣を切るな」と決起し、「僕たちにも2009年を迎えさせて下さい」「寮から追い出さないで」「ホームレスにしないで」等々と訴えたといいます(12月5日『朝日』)。また契約を打ち切られたいすずの期間従業員や派遣社員440人のうち有志が解雇撤回を求めて労働組合を結成し、闘いに立ち上がったことも報じられています。まさに労働者階級と資本家階級との死に物狂いの闘いの火蓋が切って落とされたのです。

 (12月5日『朝日』より) 

 マルクスは次のように述べています。

 〈“わが亡き後に洪水は来たれ! ”これがすべての資本家およびすべての資本家国民のスローガンである。したがって、資本は、社会によって強制されるのでなければ、労働者の健康と寿命に対し、何らの顧慮も払わない。肉体的、精神的萎縮、早死、過度労働の拷問に関する苦情に答えて資本家は言う--われらが楽しみ(利潤)を増やすがゆえに、それが何でわれらを苦しめるというのか?と。しかし、全体として見れば、このこともまた、個々の資本家の善意または悪意に依存するものではない。自由競争は、資本主義的生産の内在的な諸法則を、個々の資本家に対して外的な強制法則として通させるのである。〉(『資本論』第1巻全集版23a352-3頁)

 だから資本家たちも生き残りをかけて必至の立場に追い込まれているのです。だから労働者はただ団結して自分たちの要求を資本に突きつけて闘うしか、その生活を守り未来を切り開くことはできません。

 『資本論』は、資本主義のもとで、労働者が置かれた状態を労働者に自覚させ、彼らこそがこの社会をその労働によって支え動かしていること、彼らこそがこの社会の主人公であり、未来を切り開く力であることを知らせ、その団結と闘いを呼びかけるものです。貴方も、是非、『資本論』を読んで闘いに立ち上がりましょう。

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 第9回「『資本論』を読む会」・案内

                                                                                           

    ■日時   12月28日(日) 午後2時~

   ■会場   堺市立南図書館
           (泉北高速・泉ヶ丘駅南西300m駐車場はありません。)

    ■テキスト 『資本論』第一巻第一分冊(どの版でも結構です)

    ■主催   『資本論』を読む会

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第8回「『資本論』を読む会」の報告

2008-12-05 17:25:39 | マルクス

●紅葉

 秋も深まり紅葉の季節になりました。会場の堺市立南図書館の三階の第一会議室の窓には、紅葉した桜などが色鮮やかに映えています。

 「実りの秋」とか「読書の秋」と言われますが、「『資本論』を読む会」には新しい参加者はいまだ現われず、さびしい状態が続いています。残念ながら、実りの時期はいま少し先のようです。

 ただ二階の図書館掲示板に備えつけのケースに入れてあった「『資本論』を読む会」の案内は、10枚全部が無くなっており、誰かがそれらを持ち帰ったのでしょう。必ずや何らかの連絡があるものと信じています。

 新しい参加者があり、その人の希望によっては、もう一度最初から、『資本論』を始めても良いと私たちは思っています。もっとも新しい参加者がある度に最初に戻っていたら、いつまでたっても先に進めないではないかと、思われるかも知れませんが、それははまあそれで、臨機応変、適切な対処を考えることにしましょう。

 是非、多くの皆様のご参加をお待ちしております。

◎「労働の二重性」が経済学の理解にとって決定的な点であるとは?

 ようやく第2節に入りました。つまり第1節を7回に分けて学習したことになります。何ともゆっくりした進み方ですが、これが私たちのやり方なのです。とにかく徹底して議論するのが、我が「『資本論』を読む会」のモットーなのですから。

 まず最初に問題になったのは、マルクスが第一パラグラフで〈労働の二面的性質は、私によって始めて批判的に指摘された〉として、〈この点は、経済学の理解にとって決定的な点であるから、ここで立ち入って説明しておこう〉と述べているのですが、経済学の理解にとってどのように決定的なのかについて何も説明がそのあとにもないのではないか、それをどう理解したらよいのか、という質問がでました。しかしこれについてはズバリとその内容を説明できる人はありませんでした。だから少しマルクスが「労働の二重性」について述べている箇所を調べてみることにしましょう。

 まずマルクスが〈私によって始めて批判的に指摘されたものである〉として上げている『経済学批判』の箇所があります。それは次のような部分を指すと思えます。

 〈諸商品の交換価値は、じつは同等で一般的な労働としての個々人の労働相互の関係にほかならず、労働の独特な社会的形態の対象的表現にほかならないのであるから、労働は交換価値の、したがってまた富が交換価値から成りたつかぎりでは富の唯一の源泉である、と言うのは同義反復である。自然素材そのものは労働をふくまないから交換価値をふくまず、また交換価値そのものは自然素材をふくんでいないということも、同じ同義反復である。しかしウィリアム・ペティが「労働は富の父であり、大地はその母である」と言い、あるいはバークリ主教が「四原素とそのなかにふくまれる人間の労働が富の真の源泉ではないか?」と問うたとき、あるいはまたアメリカ人Th・クーパーが「試みに一塊のパンからそれについやされた労働を、パン屋、粉挽き屋、小作農等々の労働をとりさってみなさい、あとにいったいなにが残るか? ひとつかみの、野生の、どんな人間にとっても使いものにならない雑草だけだ」とわかりやすく説明したとき、これらすべての見方で問題とされているのは、交換価値の源泉である抽象的労働ではなく、素材的富の一源泉としての具体的労働、つまり使用価値をつくりだすかぎりでの労働である。商品の使用価値が前提されているのだから、商品についやされた労働の特殊な有用性、一定の合目的性が前提されているわけであるが、商品の立場からすれば、これでもって同時に有用労働としての労働にたいするすべての関心は尽きている。使用価値としてのパンにわれわれの関心を起こさせるのは、食料品としてのそれの諸属性であって、小作農、粉晩き屋、パン屋等々の労働ではない。もしなんらかの発明によってこれらの労働の20分の19がはぶかれたとしても、一塊のパンはそれまでと同じ役を果たすであろう。もしもパンができあがったものとして天から降ってきたところで、その使用価値の一片をも失わないであろう。交換価値を生みだす労働は、一般的等価物としての諸商品の同等性のうちに実現されるのにたいして、合目的な生産的活動としての労働は、諸商品の使用価値の無限の多様性のうちに実現される。交換価値を生みだす労働は抽象的な一般的な同等の労働であるのにたいして、使用価値を生みだす労働は、形態と素材とにおうじて際限なくさまざまな労働様式に分かれる具体的な特殊な労働である。
 使用価値をつくりだすかぎりでの労働については、労働が、それによってつくりだされた富、すなわち素材的富の唯一の源泉であると言うのは誤りである。この労働は素材的なものをあれやこれやの目的に充用する活動であるから、それは前提として素材を必要とする。いろいろな使用価値では、労働と自然素材との割合は非常に違っているが、しかし使用価値はいつも自然的基礎をふくんでいる。自然のものをなんらかの形態で取得するための合目的活動としては、労働は人間存在の自然条件であり、人間と自然とのあいだの物質代謝の、すべての社会的形態から独立した一条件である。これに反して、交換価値を生みだす労働は、労働の独特な社会的一形態である。たとえば裁縫労働は、特殊な生産的活動としてのその素材的規定性では上着を生産するが、しかし上着の交換価値は生産しない。裁縫労働が上着の交換価値を生産するのは、裁縫労働としてではなくて、抽象的一般的労働としてであり、そしてこの抽象的一般的労働は、裁縫師が縫いあげたのではない一つの社会的関連に属する。だから古代の家内工業では、女子は上着の交換価値を生産することなく、上着を生産した。素材的富の一源泉としての労働は、税関吏アダム・スミスにわかっていたのと同じように、立法者モーセにもわかっていたのである。〉
(全集版20~22頁、原注は省略、下線はマルクスによる強調)

 まあ、これを読んだだけでは、最初の疑問、つまり「労働の二重性」は、なぜ〈経済学の理解にとって決定的な点である〉のかは必ずしも明確ではありません。むしろそれは、引用した少し前の次のような部分から分かるのではないでしょうか。

 〈最後に、交換価値を生みだす労働を特徴づけるものは、人と人との社会的関係が、いわば逆さまに、つまり物と物との社会的関係としてあらわされることである。一つの使用価値が交換価値として他の使用価値に関係するかぎりでだけ、いろいろな人間の労働は同等な一般的な労働として互いに関係させられる。したがって交換価値とは人と人とのあいだの関係である、というのが正しいとしても、物の外被の下に隠された関係ということをつけくわえなければならない。……(中略)……社会的生産関係が対象の形態をとり、そのために労働における人と人との関係がむしろ物相互の関係および物の人にたいする関係としてあらわされること、このことをあたりまえのこと、自明のことのように思わせるのは、ただ日常生活の習慣にほかならない。商品では、この神秘化はまだきわめて単純である。……(中略)……もっと高度の生産諸関係では、単純性というこの外観は消えうせてしまう。重金主義のすべての錯覚は、貨幣が一つの社会的生産関係を、しかも一定の属性をもつ自然物という形態であらわすということを貨幣から察知しなかった点に由来する。重金主義の錯覚を見くだして嘲り笑う現代の経済学者たちにあっても、彼らがもっと高度の経済学的諸範疇、たとえば資本を取り扱うことになると、たちまち同じ錯覚が暴露される。彼らが不器用に物としてやっとつかまえたと思ったものが、たちまち社会関係として現われ、そして彼らかようやく社会関係として固定してしまったものが、こんどは物として彼らを愚弄する場合に、彼らの素朴な驚嘆の告白のうちに、この錯覚が突然現われるのである。〉(同上19-20頁、同)

 だから「労働の二重性」を理解するということは、経済学が対象にする経済的事象とはそもそも何なのかを理解することでもあるのです。だからマルクスは〈この点は、経済学の理解にとって決定的な点であるから、ここで立ち入って説明しておこう〉と述べているのではないでしょうか。

 実際、「労働の二重性」は、これから学ぶ『資本論』の各所に(第1巻にも第2巻にも第3巻にも)登場します。しかしそれらは、それらを学ぶときのためにとっておき、前もって紹介するのはやめておきましょう。

●『経済学批判要綱』における「労働の二重性」への言及

 しかし『経済学批判』の前に書かれた、『資本論』の最初の草稿といわれている『経済学批判要綱』では、「労働の二重性」についてどのように論じているのかを見てみることにしましょう。『要綱』でも「労働の二重性」に言及した部分は多いのですが、これまで学習した部分の理解にも役立つと思える部分を一つだけ紹介しておきます。

 〈個々人の労働は、生産の行為それ自体の内部で考察すれば、彼が直接に生産物を、かれの特殊な活動の対象を買うための貨幣である。しかしこの貨幣は、まさにこの限定された生産物だけを買う特殊的な貨幣であるにすぎない。直接に一般的貨幣であるためには、個々人の労働は初めから特殊的な労働ではなくて、一般的労働でなければならず、すなわち初めから、一般的生産の分肢として措定されていなければならないであろう。しかしこうしたことが前提されるとすれば、交換によって初めて労働に一般的性格が与えられることにはならず、労働の前提としてなっている共同社会的性格が個々人の生産物への参与の仕方を規定することになろう。生産の共同社会的性格が初めから生産物を共同社会的、一般的なものにすることになろう。本源的に生産の内部で行なわれる交換--諸交換価値の交換ではなくて、共同社会のもろもろの必要によって、共同社会の諸目的によって規定されている諸活動の交換--が、初めから個々人の共同社会的な生産物世界への参与を含んでいるであろう。諸交換価値の基礎の上では、労働は交換を通じて初めて一般的なものとして措定される。上記の〔共同社会的な〕生産の基礎の上では、労働は交換に先立ってそのような一般的労働として措定されているであろう。すなわち諸生産物の交換は、およそ個々人の一般的生産の参加が媒介される媒体ではないであろう。媒介はもちろん行なわれなければならない。個々人の自立した生産から出発する前者の場合には--この自立したもろもろの生産が、それらの相互間の諸関連によって事後的にどれほど規定され、変容を被るにしても--、媒介は、諸商品の交換、交換価値、貨幣--これらはすべて、一個同一の関係の表現である--によって行なわれる。第二の場合には、前提自体が媒介されている。すなわち共同社会的生産、生産の基礎としての共同社会性が前提されている。個々人の労働は初めから社会的労働として措定されている。それゆえ彼がつくり、またつくるのをたすける生産物の特殊的な物質的姿態がどうであろうとも、彼が彼の労働で買ったものは一つの規定された特殊的な生産物ではなくて、共同社会的生産への一定の参加分なのである。したがってまた彼はなんら特殊的な生産物を交換する必要はない。彼の生産物は決して交換価値ではない。生産物は、個々人にとっての一般的性格を受け取るために、まず一つの特殊的な形態に転置される必要はない。諸交換価値の交換において必然的につくりだされる労働の分割〔分業〕にかわって、個々人の共同社会的消費への参加を帰結としてもたらすような一つの労働の有機的組織ができてくるであろう。第一の場合には、生産の社会的性格は、まず諸生産物を諸交換価値に引き上げること、こうした諸交換価値の交換とによって初めて、事後的に措定される。第二の場合には、生産の社会的性格は前提されており、生産物世界への参加、消費への参加は、相互に独立した諸労働または諸労働生産物の交換によって媒介されてはいない。生産の社会的性格は、個人がその内部で活動している社会的な生産諸条件によって媒介されている。〉(『資本論』草稿集第一巻160-161頁、下線はマルクスによる強調)

 ながながと引用しましたが、まあ、今回はこれぐらいにします。

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第8回「『資本論』を読む会」の案内

2008-10-25 14:55:39 | マルクス

 株価が激しい乱高下を繰り返しながら暴落し続け、10月24日の東京株式市場の日経平均株価は8000円を大きく割り込み、03年のバブル後の最安値とほんとど同じ状態に戻ってしまった。

 こうした株価の低迷が実体経済に影響を及ぼし、深刻な経済停滞が予想されるとマスコミでは報じている。なるほど現象的にはそうではある。しかし現象は必ずしも本質を示すわけではない。現象的には金融の破綻が株式の暴落をもたらし、それが実体経済にも影響及ぼして深刻な不況と停滞をもたらしつつあるかにみえる。

  しかし本質的な関係はその逆である。マルクスは貨幣・金融恐慌は一般的な生産恐慌の特殊的局面として現われると指摘し、《経済学の浅薄さは、とりわけ、産業循環の局面転換期の単なる兆候に過ぎない信用の膨張・収縮をこの転換の原因にするということのうちに現われている。》(『資本論』第1巻全集版825頁)と指摘する。

 そしてさらに次のようにもいう。

  《生産過程の全関連が信用に立脚しているような生産体制においては、急に信用が停止されて、もはや現金払いしか通用しなくなれば、明らかに、恐慌が、支払手段を求めての殺到が、起こらざるをえない。だから、一見したところでは、全恐慌がただ信用恐慌および貨幣恐慌としてのみ現れるのである。そしてじっさい、問題はただ手形の貨幣への転換可能性だけなのである。しかしこれらの手形の多くは現実の売買を表しているのであって、この売買が社会的な必要をはるかにこえて膨張することが、結局は全恐慌の基礎になっているのである。》(『資本論』第3巻同627頁)

 つまり現実の再生産の構造そのものにすでに破綻が内在しているのに、信用制度がその破綻を覆い隠し、再生産の弾力性を極限まて引き延ばしてさらにその破綻を拡大するが、やがてそれは自ずからその限界に突き当たり、破局が現実化する。株価の崩落はその前兆を示すに過ぎないのである。

 もちろん、国家信用が崩壊しないかぎり、現代の政府は公信用を拡大して、こうした破局が暴力的に生じることを防ぐことは出来る。しかしいずれにせよ調整は不可避である。政府の介入は、その調整過程を暴力的にではなく、ただ過程をダラダラとした長期の停滞のなかで行うことを可能にするに過ぎない。しかも国家財政の膨大な赤字と引換にである。主要な先進国は総力を上げて、資本の救済に乗り出している。しかし、それは他方で国家破綻の可能性をますます増大させるのみであろう。

 貴方も、現象に隠れた本質を見抜くために、是非、『資本論』を読んでみませんか?

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第8回「『資本論』を読む会」・案内

  ■日時   11月23日(日) 午後2時~

  ■会場   堺市立南図書館
       (泉北高速・泉ヶ丘駅南西300m
            駐車場はありません。)

  ■テキスト 資本論』第一巻第一分冊

                 (どの版でも結構です)

  ■主催   『資本論』を読む会


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第7回「『資本論』を読む会」の報告

2008-10-23 17:26:42 | マルクス

◎ポスターも作成

 “天高く馬肥ゆる秋”と言いますが、第7回の「『資本論』を読む会」の開催日も、天高く秋晴れの好天日でした。
 ところが“紅一点”のクミさんは季節外れのインフルエンザに罹ったとかでお休み。寂しい開催となりました。
 おまけに、われわれ以外には、会場を使う人も少ないのか、全体にガランとして侘しさがつのります。
 今回、我が「『資本論』を読む会」はポスターを作成しました(写真参照)。というのはどうやら図書館の掲示板にポスターを貼り出してもらえそうだとピースさんが提案したからです。さっそく、埼玉の「所沢・『資本論』を読む会」のポスターが迫力があるので利用させてもらうことにし、連絡して送ってもらい、それを加工してつくりました。なかなかよいポスターが出来たと思ったのですが、残念ながら、図書館の掲示板には掲載できないとのことでした。掲載するのは、図書館が後援したり、支援する団体に限っているのだそうです。しかしわれわれの案内ビラを入れる箱を作ってくれるなど協力的なので、作ったポスター(A4)もそこに入れていたところ、さっそく無くなっていたので、持ち帰る人があったのだと思います。
 今後も案内ビラとポスターを裏表に印刷して、ボックスに入れておくことにしました。

 

◎金やダイヤモンドは価値どおりに支払われていない?

 今回は第16パラグラフから第1節の終わりまで進みました。テキストに入る前に、前回の「報告」に関連して、「抽象的人間労働」の概念について、それは歴史的なものなのか、それとも歴史貫通的なものなのか、という議論が行われたのですが、これは次の第2節でも必ずと言ってよいほど議論になる問題なので、ここではその報告は割愛します。

 今回はテキストは比較的進捗したのですが、それはあまりゴチャゴチャした議論が無かったからでもあります。しかしそのなかでも議論になったのは17パラグラフでした。

 ここではマルクスは《ある一つの商品の生産に必要とされる労働時間が不変であれば、その商品の価値の大きさは不変のままであろう。しかし、その労働時間は、労働の生産力が変動するたびに、それにつれて変動する》と述べて、《労働の生産力》を規定する諸事情については色々とあるとしながら、とりわけ、(1)《労働者の熟練の平均度》(2)《科学とその工学的応用可能性との発展段階》(3)《生産過程の社会的結合》(4)《生産手段の規模とその作用能力》(5)《自然諸関係によって、規定される》としています。

 まずここで、上げられている生産力を規定する五つの事情について、それぞれ具体的にはどういうものが考えられるかについて議論になりました。例えば、「協業」や「分業」などによる生産力のアップはどれに入るのか、という問題がピースさんから出され、それはやはり(3)に入るのではないかということになりました。しかし、それに対しては亀仙人から、コンビナートなどのようなさまざまな産業分野が有機的に結合されるような場合はどうか、という質問も出されました。後者も(2)や(4)の要素もあるように思うが、どちらかというと(3)に入る感じがするが、しかしそうなると両者はかなり内容的に違う感じもするわけで、果たしてどう考えたらよいのかという疑問だったと思います。これは未解決です。

 次にマルクスは価値の大きさを規定する労働時間は生産力によって規定されるとし、その生産力を規定する事情はさまざまあるとしながら、そのあとにそのことの例として書いていること--《たとえば、同じ量の労働でも、豊作の時には八ブッシェルの小麦に表され、凶作の時にはただ四ブッシェルの小麦に表されるにすぎない。同じ量の労働でも、豊かな鉱山では貧しい鉱山でよりも多くの金属を供給する、等々》--は、すべて(5)の《自然諸関係》に関連するものばかりではないか、その点、展開としては疑問がある、との指摘がありました(ただこれについては、そのあとの議論のなかでマルクスが《もしもほんのわずかの労働で石炭をダイヤモンドに変えることに成功すれば、ダイヤモンドの価値はレンガの価値以下になりうる》と述べている例は(2)の《科学とその工学的応用可能性との発展段階》に該当するだろうとの指摘はありました)。

 さらに問題になったのは、そのあとでマルクスが金とダイヤモンドの例を上げて述べていることです。まず引用しておきましょう。

 《ダイヤモンドは地表にはめったにみられないので、その発見には平均的に多くの労働時間が費やされる。そのため、ダイヤモンドはわずかな体積で多くの労働を表すことになる。ジェイコブは、金がかつてその全価値を支払われたことがあるかどうかを、疑っている。このことは、ダイヤモンドにはいっそうよくあてはまる。エッシュヴェーゲによれば、一八二三年の時点で、ブラジルのダイヤモンド鉱山の過去八〇年間の総産出高は、ブラジルの砂糖農園またはコーヒー農園の一年半分の平均生産物の価格にも達していなかった。ダイヤモンドの総産出高がはるかにより多くの労働を、したがって、より多くの価値を表していたにもかかわらず、そうだったのである。》(全集版s.54-55)

 つまりダイヤモンドは小さな体積で多くの労働を表し、だから小さなダイヤでも恐ろしく高いものだが、しかしマルクスがここで述べていることは、そういうことだけではなく、だから実際には、ダイヤモンドはその価値どおりには支払われたためしはない、ということのようである。つまりダイヤモンドは実際に売買されているよりももっと高価なものなのだ、とでも言いたいかである。
 しかしこれは果たして事実なのかどうかがまず疑問として出されました。そして、もしそれが事実なら、それは生産力が商品の価値を規定する例としては、むしろダイヤモンドは例外だということではないのか、それともここでマルクスが言いたいのは、ダイヤモンドの価格はその価値から乖離して売買されているということであろうか、もしそうならそれはどんな理由によるのか、ただ価値があまりにも膨大すぎるからなのか、そもそもそんなことをここで論じる意義が果たしてあるのか、という疑問が出されました。この疑問も解決されていません。

◎価値であることなしに、使用価値である、商品であることになしに、有用である

 次は最後の第18パラグラフが問題になりました。まず引用しておきましょう。

 《ある物は、価値であることなしに、使用価値でありえる。人間にとってのその物の効用が労働によって媒介されていない場合がそれである。たとえば、空気、処女地、自然の草原、原生林などがそうである。ある物は、商品であることなしに、有用であり、人間労働の生産物でありえる。自分の生産物によって自分自身の欲求を満たす人は、たしかに使用価値を作りだすが、商品を作りだしはしない。商品を生産するためには、彼は、使用価値を生産するだけでなく、他人のための使用価値を、社会的使用価値を、生産しなければならない。》(s.55)

 ここでまず最初に《ある物は、価値であることなしに、使用価値でありえる》例として、マルクスは《人間にとってのその物の効用が労働によって媒介されていない場合がそれであり。たとえば、空気、処女地、自然の草原、原生林などがそうである》と説明しているが、しかしその説明だとむしろ〈ある物は、労働生産物であることになしに、使用価値でありえる〉とすべきではないのか、という意見が出されました。
 というのは、その次にマルクスは《ある物は、商品であることなしに、有用であり、人間労働の生産物でありえる》と述べているからです。つまり今度は労働生産物であり、有用なものだが、商品ではない、すなわち価値ではないものを例として上げています。だから順序としては、まず最初に使用価値はあるが、労働生産物ではないもの、そしてその次は労働生産物であり、使用価値ではあるが、価値でないものを上げるというのが順序としてはよい様に思うというのです。
 しかしこれに対しては、マルクスはここでは《ある物が、価値である》とは、そもそもどういう場合かを論じるために書いているのであって、だから最初から《ある物が、価値であることなしに、……》と書きはじめているのは、これでよいのだ、という意見もでました。

 またエンゲルスが先に引用した文章に続けて、次の様な注を挿入していることについても少し意見がでました。

 《(しかも、ただ単に他人のためというだけではない。中世の農民は、封建領主のために年貢の穀物を生産し、僧侶のために十分の一税の穀物を生産した。しかし、年貢穀物も十分の一税穀物も、それらが他人のために生産されたということによっては、商品にはならなかった。商品になるためには、生産物は、それが使用価値として役立つ他人の手に、交換を通して移譲されなければならない)》(同)

 ここでマルクスは《商品を生産するためには、彼は、使用価値を生産するだけでなく、他人のための使用価値を、社会的使用価値を、生産しなければならない》と述べているだけであって、《他人のための使用価値を、社会的使用価値を、生産》したもの、その生産物はすべて商品になるとは言っていないのだから、エンゲルスの注は不要である、との意見がでました。しかし他方で、まあエンゲルスが注で書いているように、「誤解」を取り除くためなのだから、別に良いのではないかという意見もでました。

 全体に議論としては淡白でしたが、これは天気が良すぎたからか、まあ、こんな学習会もあるということです。

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第7回「『資本論』を読む会」の案内

2008-10-02 17:05:51 | マルクス

 

 世界的な金融恐慌が勃発しつつあります。

 アメリカのサブプライムローン問題に端を発した世界的な信用収縮は、留まるところを知らず、リーマン・ブラザーズなど米大手金融機関の破綻へと発展し、欧州の金融機関にも波及して、国有化や国家の大幅な介入を招いています。

 9月29日のニューヨークの株式市場は777ドルという史上最大の下げ幅を記録しました。金融危機対策としてブッシュ政権が打ち出した緊急経済安定化法案を米議会下院が否決したからです。最大7千億ドル(約75兆円)の公的資金で金融機関の不良債権を買い取るというものですが、「金持ち優遇」「ボロ儲けのツケを国民に押しつけるな」という圧倒的な国民の批判の前に、与党の共和党議員でさえ7割近くも造反する有り様。

 しかしこれは当然です。これまでことあるごとに、“新自由主義”の理念を振りかざし、「小さな政府」を呼号し、自己責任を云々して、弱者を切り捨ててきたのですから、今更、泡銭に群がって荒稼ぎしてきた連中が、そのツケを払わされる段になって、政府に泣きつき救済せよなどというのは虫が良すぎます。

 というわけで、アメリカの金融危機はますます深刻の度を加えつつあります。世界経済の牽引役を果たしてきたアメリカ経済の破綻は、単にアメリカ一国に留まらず、世界的な経済恐慌へと発展しかねません。世界のブルジョアジーが震え上がり、米政府のみならず欧米や日本の政府が救済に必死になる所以でもあります。

 こうした金融恐慌や経済恐慌はどうして起こってくるのでしょうか。世界の資本家たちは何度もそれを経験しながら、やはりそれを繰り返すしか能がありません。

 マルクスは《世界市場恐慌は、ブルジョア的経済のあらゆる矛盾の現実的総括および暴力的調整としてつかまなければならない》(『学説史』II689頁)と述べています。

 そして恐慌は、資本主義的生産様式そのものの歴史的な限界を示すものだとも指摘しています。

 《尖鋭な諸矛盾、恐慌、痙攣においてこそ、社会の豊かな発展にとってはその従来の生産諸関係が、ますます適合しなくなったことが示される。資本にとって外的な諸関係を通じてではなく、資本の自己維持の条件としての資本の暴力的な破壊は、去って社会的生産のより高い段階に席を譲れと言う資本に対する忠告の最も適格な形態である。》(『経済学批判要綱』高木訳IV702頁)

 『資本論』はある意味では、どうして資本主義社会では恐慌が繰り返されるのか、それは歴史的にはどういう意味があるのか、を明らかにするために書かれていると言っても過言ではありません。

 貴方も、是非、現在の世界的な金融危機を解明するためにも『資本論』を読んでみませんか?

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 第7回「『資本論』を読む会」・案内


   ■日時   10月19日(日) 午後2時~

  ■会場   堺市立南図書館
       (泉北高速・泉ヶ丘駅南西300m
            駐車場はありません。)

  ■テキスト 『資本論』第一巻第一分冊(どの版でも結構です)

  ■主催   『資本論』を読む会

 


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第6回「『資本論』を読む会」の報告

2008-09-30 13:51:50 | マルクス

◎すでに冬近し?

 急に冷え込んできました。今回、報告を行う第6回「『資本論』を読む会」が開催された9月21日はまだ気温も高く、午前中はよい天気でした。天気予報は「雨」とありましたが、こんなよい天気だから予報は外れだな、と思いながら、傘も持たずに図書館に行ったのでした。ところが学習会が終わりに近づくと天気は一転し、土砂降りの雨になりました。私たちは、帰ろうにも帰ることができず、しばらく図書館で雨宿りをしていましたが、少し小降りになったところで、私はショルダーバッグを頭に乗せて、ピースさんやクミさんなどは持っていた汗ふきタオルを頭に乗せて、一散に駅まで走りました。さすがピースさんはフルマラソンをやっているだけあって、軽快でしたが、太っている私などは走っているつもりでも、現実には早足で歩いている程度で惨めなものでした。しかしそれでもなんとか駅にたどり着き、私などはかなり雨に濡れましたが、しかしまだ気温は温かかったので気にならなかったのです。何しろピースさんやクミさんはまだ汗ふきタオルを持っていたぐらいなのですから。
 ところがその日から一週間余りたっただけなのに、この寒さはどういうことでしょう。歳をとると時の経つのは早く感じるものですが、これはどう考えても早すぎます。これもやはり異常気象の一つなのでしょうか。この急激な気温の変化で体調を崩し、この報告もやや遅れることになりました。都合のよい言い訳ですが、ご容赦、ご容赦。

◎「抽象的人間労働」の議論を継続

 学習会はテキストのパラグラフとしてはまったく進まず、前回議論になった問題をもう一度議論することになりました。
 というのは、前回の議論に関連して、亀仙人から資料が配布され、その資料をもとにもう一度議論が再燃したからです。
 その資料というのは、埼玉の「『資本論』を読む会」の第110回の報告(http://shihonron.exblog.jp/9470612/)の中に、久留間鮫造氏や宇野弘蔵氏などが参加した研究会の記録をまとめた『資本論研究--商品および交換過程』(河出書房1948年)の中から引用されているものです。まずその議論になった引用文を紹介しておきましょう。

 〈相原 一寸、その前に、生産力と必要労働時間との関係を分かり易く教えていただきたいのです。
 労働生産力が大であればある程、或る品物の産出に必要とされる労働時間は小となり、価値も従って小となる。逆の場合は逆になるといって、必要労働時間は直接労働生産力の凡ゆる変化につれて変化する、ということが書いてある。ところが少し先には、労働の生産力は、労働の具体的な有用的な形態に属しているから、それは、労働の具体的な有用的な形態が抽象されるや否やもう労働には関係しない、云々、と述べられている。
 その間のつながりというのはどういうことになるのか。価値の大きさを定める社会的必要労働時間は直接に生産力の変化に逆比例して変化するようにも云われ、次にこの生産力の変化がそういった価値を作る抽象的な労働とは直接関係がない様にも云われていること、この点は生産力の増減が使用価値の増減であって、それを媒介としてつまり商品の単位当たりにすればそこに含まれている労働が増えたり減ったりするものだと理解していいのか、何かそこに品質と分量とのむずかしい関係がある様でもあり櫛田さんのものも読んだが、よく読まないせいか未だ安心ができない節があります。

 久留間 その疑問は価値の大いさに関する二つの異なった問題をはっきりと区別しないことから来るのではないでしょうか。いま引き合いにだされたマルクスの二つの命題はいずれも価値の大いさに関するものではあるがそれを問題にする視角が全然異なっていると思う。すなわち、生産力と無関係だといっている場合には、価値の大いさは本質的にはなんの大いさによってきめられるかを問題にしているのであって、それに対してマルクスは、専ら価値を形成する実体の大いさによって、即ち支出の態様の如何を問わない単なる人間労働力の支出としての労働の分量、即ち抽象的人間的労働の分量によってきまるのだと云っているのです。即ちこの観点からすれば、等しい人間労働力の支出は、それがどのような種類の使用価値のどれだけの分量に結果しようが、常に一定の価値を造り出すということになる。即ち労働の生産力には無関係だということになる。これはもともと、価値の大いさの問題とは云っても、価値の大いさをその実体の大いさに還元する問題に外ならないのであるから、本質的には価値そのものの問題、云わば価値の品質の問題と見ることができる。これに反して今ひとつの問題は、価値の大いさをその実体である労働分量に還元した後に生じる、云わば固有の意味においての価値の大いさの問題に関するのであって、ある特定の使用価値を生産するために社会的に必要な労働時間そのものが何によってきめられるかを問題にしているのである。だからそれは生産力に逆比例してきまると云って答えられるのが当然である。なぜかと云うに、この場合にはある特定の使用価値の生産に必要な労働時間が問題とされているのであり、人間の労働力のある特定の態様における支出が問題にされているからです。

 相原 必要労働時間の労働と、品質の方の時にいっている労働とは違いますか。

 久留間 必要労働時間というのは。いうまでもなく。一定の使用価値を作るのに必要な労働時間例えば米一升を作るのに必要な労働時間、糸一斤を作るのに必要な労働時間、等々であって、従ってそれは、一定の使用価値との関連なしには、従ってまた労働の有用的具体的な性質に即することなしには考えられない。だからこそ、それは労働の生産力に逆比例することにもなるのである。ところで単にこの面のみから見るならば、必要労働時間なるものは生産の社会的形態には無関係な、人間と自然との交換の関係を云い現すものに過ぎないのであるが、商品生産社会においては、この必要労働時間は同時にまた価値の大いさを規定するものとして現れる。そしてこの場合には労働は、有用的・具体的な性質を捨象された、単なる人間労働力の支出としてゲルテン(gelten)するのである。だから必要労働時間と云う場合には、労働は同時に二重の性質において現れるものと考えなくてはならない。それは有用的・具体的性質においては一定時間内に一定の使用価値を作り、抽象的性質においては一定時間内に一定の価値を作る。だから一定時間内に作られた一定の使用価値が一定の価値をもつと云うことになる。〉(110-111頁)

 ここで久留間氏が説明していること、すなわち〈価値の大いさに関する二つの異なった問題〉が〈区別〉して論じられているのが、すなわち14パラグラフと15パラグラフの違いであり、また両者の関連でもあるのではないか、というのが亀仙人の問題提起でした。
 つまり第14パラグラフ--

 《(14)したがって、ある使用価値または財が価値をもつのは、そのうちに抽象的人間労働が対象化または物質化されているからにほかならない。では、どのようにしてその価値の大きさははかられるのか? それに含まれている「価値を形成する実体」、すなわち労働の、量によってである。労働の量そのものは、その継続時間によってはかられ、労働時間はまた、時間、日などのような一定の時間部分を度量基準としてもっている。》

 で述べていることは、久留間氏が次のように説明していることを含意しているのではないか、

 〈価値の大いさは本質的にはなんの大いさによってきめられるかを問題にしているのであって、それに対してマルクスは、専ら価値を形成する実体の大いさによって、即ち支出の態様の如何を問わない単なる人間労働力の支出としての労働の分量、即ち抽象的人間的労働の分量によってきまるのだと云っているのです。……これはもともと、価値の大いさの問題とは云っても、価値の大いさをその実体の大いさに還元する問題に外ならないのであるから、本質的には価値そのものの問題、云わば価値の品質の問題と見ることができる。〉

 また次の15パラグラフ--

 《 (15)一商品の価値がその生産のあいだに支出された労働の量によって規定されるならば、ある人が怠惰または非熟練であればあるほど、彼はその商品の完成にそれだけ多くの時間を必要とするのだから、彼の商品はそれだけ価値が大きいと思われるかもしれない。しかし、諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働であり、同じ人間労働力の支出である。商品世界の諸価値に現される社会の総労働力は、たしかに無数の個人的労働力から成りたっているけれども、ここでは同一の人間労働力として通用する。これらの個人的労働力のそれぞれは、それが一つの社会的平均労働力という性格をもち、そのような社会的平均労働力として作用し、したがって、一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて、他の労働力と同じ人間労働力である。社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的・標準的な生産諸条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、何らかの使用価値を生産するのに必要な労働時間である。たとえば、イギリスで蒸気織機が導入されてからは、一定の量の糸を織物に転化するためには、おそらく以前の半分の労働でたりたであろう。イギリスの手織り工はこの転化のために実際には以前と同じ労働時間を必要としたが、彼の個人的労働時間の生産物は、今ではもう半分の社会的労働時間を表すにすぎず、したがって、以前の価値の半分に低下したのである。》

 は、やはり久留間氏がもう一つの価値の大きさの問題として述べている説明--

 〈これに反して今ひとつの問題は、価値の大いさをその実体である労働分量に還元した後に生じる、云わば固有の意味においての価値の大いさの問題に関するのであって、ある特定の使用価値を生産するために社会的に必要な労働時間そのものが何によってきめられるかを問題にしているのである。だからそれは生産力に逆比例してきまると云って答えられるのが当然である。なぜかと云うに、この場合にはある特定の使用価値の生産に必要な労働時間が問題とされているのであり、人間の労働力のある特定の態様における支出が問題にされているからです。〉

 に該当するというわけです。

 つまりこの二つのパラグラフ(14と15)の関連は、14パラグラフではそもそも価値の大きさは何よって決められるかを問題にし、15パラグラフはある特定の商品の価値の大きさは何によって決められるかを問題にしているということができます。

 特定の商品の価値の大きさというのは、当然、その商品が何であるかということを不問にしては論じることはできません。つまりその商品の使用価値を無視しては論じられないのです。価値の大きさは対象化されている抽象的人間労働の量によって決まるが、しかしそれがどれだけの大きさであるか、つまりその限度は、結局、使用価値によって決まってくるわけです。もともと抽象的人間労働は現実の労働の一つの側面にすぎません。現実の労働は具体的有用労働と抽象的人間労働という二つの契機を持っており、両者を切り離すことはできません。抽象的人間労働の量の限度は、まさにそれが統一している他のもう一つの契機である具体的有用労働によって決まってくるのです。だからその量の限度は、具体的有用労働に関連する生産力によって規定されることになるのだと思います。
 他方、この具体的有用労働というのは、個人的にはまちまちです。特定の使用価値を生産するために支出される具体的有用労働は、その限りではその具体性も有用性も同じ質を持ちながら、やはり個別にはまちまちでしかありません。だから一律同一である抽象的人間労働の量的限度もやはり個別的にはまちまちなわけです。だから15パラグラフでは「個人的労働力」と「社会の総労働力」や「社会的平均労働力」との関連を説明しているのだと思います。

◎「必要労働時間という場合は、労働は同時に二重の性質において現われる」

 次に議論になったのは、もう一つは久留間氏の説明に関連してでした。
 久留間氏は「必要労働時間なるものは生産の社会的形態には無関係な、人間と自然との交換の関係を云い現すものに過ぎない」とか「必要労働時間という場合は、労働は同時に二重の性質によって現われる」と述べ、必要労働時間を歴史貫通的なものとして捉えています。果たしてこれは正しいのかどうかが議論になりました。

 これを検討するために、前回の15パラグラフにおけるマルクスの考察をもう一度、再現してみましょう。そこでは次のような命題が展開されていました。今それぞれの命題に便宜的に番号を打ってみます。

(1)《諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働であり、同じ人間労働力の支出である》

(2)《商品世界の諸価値に現される社会の総労働力は、たしかに無数の個人的労働力から成りたっているけれども、ここでは同一の人間労働力として通用する》

(3)《これらの個人的労働力のそれぞれは、それが一つの社会的平均労働力という性格をもち、そのような社会的平均労働力として作用し、したがって、一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて、他の労働力と同じ人間労働力である》 

(4)《社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的・標準的な生産諸条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、何らかの使用価値を生産するのに必要な労働時間である》

 このようなマルクスの展開と、久留間氏の次のような説明とを比較検討してみましょう。

 〈必要労働時間というのは。いうまでもなく。一定の使用価値を作るのに必要な労働時間例えば米一升を作るのに必要な労働時間、糸一斤を作るのに必要な労働時間、等々であって、従ってそれは、一定の使用価値との関連なしには、従ってまた労働の有用的具体的な性質に即することなしには考えられない。だからこそ、それは労働の生産力に逆比例することにもなるのである。ところで単にこの面のみから見るならば、必要労働時間なるものは生産の社会的形態には無関係な、人間と自然との交換の関係を云い現すものに過ぎないのであるが、商品生産社会においては、この必要労働時間は同時にまた価値の大いさを規定するものとして現れる。そしてこの場合には労働は、有用的・具体的な性質を捨象された、単なる人間労働力の支出としてゲルテン(gelten)するのである。だから必要労働時間と云う場合には、労働は同時に二重の性質において現れるものと考えなくてはならない。それは有用的・具体的性質においては一定時間内に一定の使用価値を作り、抽象的性質においては一定時間内に一定の価値を作る。だから一定時間内に作られた一定の使用価値が一定の価値をもつと云うことになる。〉

 久留間氏の説明をマルクスの展開と同様に、命題化して、番号をつけてその展開を見てみると次のようになります。

[1]〈必要労働時間というのは。……一定の使用価値を作るのに必要な労働時間……であ〉る。


[2]〈この面のみから見るならば、必要労働時間なるものは生産の社会的形態には無関係な、人間と自然との交換の関係を云い現すものに過ぎない〉

[3]〈商品生産社会においては、この必要労働時間は同時にまた価値の大いさを規定するものとして現れる。そしてこの場合には労働は、有用的・具体的な性質を捨象された、単なる人間労働力の支出としてゲルテン(gelten)するのである。〉

[4]〈だから必要労働時間と云う場合には、労働は同時に二重の性質において現れるものと考えなくてはならない。それは有用的・具体的性質においては一定時間内に一定の使用価値を作り、抽象的性質においては一定時間内に一定の価値を作る。だから一定時間内に作られた一定の使用価値が一定の価値をもつと云うことになる。〉

 この久留間氏の説明の展開は、[1]、[2]は必要労働時間が歴史貫通的なものであることの説明であり、[3]はそれが商品生産社会では価値の大いさを規定するものとして現れることを指摘し、[4]では、この両者を統一した説明になっています。

 これをマルクスの展開と比較すると、マルクスの(4)は久留間氏の[1]に該当します。またマルクスの(1)は久留間氏の[3]に該当すると思われます。ただマルクスの展開の場合は、あくまでも価値の大きさの説明として一貫しているように思え、(4)の説明からはそれが直ちに歴史貫通的なものとして理解することできないように思えます。

 マルクスの説明は、《諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働であり、同じ人間労働力の支出である》から始まり、その「同等な人間労働」「同じ人間労働力の支出」とはそそもなにかを個別労働との関連から説明するものになっています。すなわち《これらの個人的労働力のそれぞれは、それが一つの社会的平均労働力という性格をもち、そのような社会的平均労働力として作用し、したがって、一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて、他の労働力と同じ人間労働力である》と。すでにここでは「社会的に必要な労働時間」が説明されており、(4)はそれをさらに厳密に言い換えたに過ぎないと言えます。
 マルクスの説明は、価値を形成する労働は同一の人間労働であり、それは個別の労働とは異なる。だから価値を形成する労働としては個別の人間労働は、他の労働と同一の人間労働力として通用しなければならない。それは一つの社会的平均的な労働力という性格をもち、そのようなものとして作用し、一つの商品の生産に社会的に、平均的に必要な、労働時間のみを用いる限りにおいて、そうしたものとして認められる、というものです。
 このようにマルクスの説明はあくまでも一商品の価値の大きさを説明するものとして終始しているように思われます。

 もしマルクスの命題の(4)が歴史貫通的なものであるという久留間氏の説明が正しいのであれば、このマルクスの展開にそって遡及すると、マルクスが「諸価値の実体をなす労働」として説明している「同等な人間労働」「同じ人間労働力の支出」もやはり歴史貫通的なものとして理解すべきではないでしょうか。なぜなら、マルクスの(3)の命題から考えるなら、ここで「同じ人間労働力」というのは、「一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて」とらえられた労働であり、だからそれは抽象的人間労働の契機だけではなく、具体的有用労働の契機からも捉えられており、久留間氏によれば〈生産の社会的形態には無関係な、人間と自然との交換の関係を云い現すものに過ぎない〉と言えるように思えるからです。ところが久留間氏は[3]では次のように述べています。

 〈商品生産社会においては、この必要労働時間は同時にまた価値の大いさを規定するものとして現れる。そしてこの場合には労働は、有用的・具体的な性質を捨象された、単なる人間労働力の支出としてゲルテン(gelten)するのである。〉。

 つまりこの久留間氏の説明だと「単なる人間労働力の支出」、つまりマルクスのいう「同一の人間労働」「同じ人間労働力の支出」というのは、有用的・具体的な性質を捨象されたものだというのです。しかしマルクスによれば、個別労働が「同じ人間労働力」として認められるのは、それが社会的平均労働力という性格を持つからであり、《一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる》から、つまり「社会的必要労働時間」である限りにおいてなのです。ところが久留間氏によると〈必要労働時間と云う場合には、労働は同時に二重の性質において現れるものと考えなくてはならない〉というのです。つまり具体的・有用的な性質も含んだものだというのです。これでは一体どう理解したらよいのでしょうか?

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第6回「『資本論』を読む会」の案内

2008-09-02 14:00:11 | マルクス

 

 福田首相があっさりと政権を投げ出し、自公政権は混迷を深めている。
 もはや、さっさと解散・総選挙でも行い、政権交代でも何でもやってもらいたいものだ。

 景気後退が顕著になるなかで、政府は小泉政権が掲げた「構造改革路線」を転換し、財政膨張に依存した“景気浮揚策”へと後戻りしつつある。福田内閣が8月末にまとめた「総合経済対策」(事業規模11.7兆円、08年度補正1.8兆円)がそれだ。

 もし福田首相の後を、麻生太郎自民党幹事長が引き継ぐなら、財政の膨張はより一層野放図になるであろう。麻生氏は、幹事長就任後、「景気がその気になるまで、財政出動以外に手はない」(『朝日』9月2日)などと公言してきたからである。

 しかし日本の国家的債務は国・地方合わせて約1000兆円(実質GDPのほぼ倍!)と言われ、平成20年度の公債残高は約553兆円(国民一人当たり約433万円)である。これではほとんど国家的破産に近いといわなければならない。

 マルクスは国債制度は資本主義が歴史的に生まれてくる上で重要な役割を果たした、と次のように指摘している。

  《公債は本源的蓄積の最も強力なテコの一つとなる。それは、魔法の杖を振るかのように、不妊の貨幣に生殖力を与えてそれを資本に転化させ、そのためには貨幣は産業的投資や高利貸し的投資にさえつきものの骨折りや危険を犯す必要はない。国家に対する債権者は現実には何も与えはしない。というのは、貸しつけた金額は、容易に譲渡されうる公債証書に転化され、それは、ちょうどそれと同じ額の現金であるかのように、彼らの手中で機能し続けるからである。しかも、このようにして生み出される有閑金利生活者の階級や、政府と国民とのあいだに立って仲介者の役割を演じる金融業者たちの即製の富を別としても……国債は、株式会社やあらゆる種類の有価証券の取り引きや株式売買を、一言で言えば、取引所投機と近代的銀行支配とを、勃興させたのである。》(『資本論』第1部第24章、全集23b984-5頁)

 そして今日の公債制度、すなわち国債制度は、今度は、資本主義延命の「最も強力なテコの一つ」である。資本はさまざまな経済危機を国家に依存して、その財政や信用の膨張に依存して切り抜けてきた、その結果が、今日の膨大な国家的債務の累増なのだ。

 そしてその行き着く先は、国家の破綻か戦争か、それとも猛烈なインフレか、あるいは国民への徹底した重税かに帰着するしかない。いずれにしてもすべての負担は国民に転嫁される!

 だから労働者はこうした無責任な“景気浮揚策”などは御免である。この社会のより深い理解を得るためにも、是非、貴方も『資本論』を読んでみませんか?

…………………………………………………………………………………………

 第6回「『資本論』を読む会」・案内

 

    ■日時   9月21日(日) 午後2時~

   ■会場   堺市立南図書館
         (泉北高速・泉ヶ丘駅南西300m、駐車場はありません)

   ■テキスト 『資本論』第一巻第一分冊(どの版でも結構です)                                

   ■主催   『資本論』を読む会



 

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第5回「『資本論』を読む会」の報告

2008-08-29 17:03:07 | マルクス

◎暑かった夏もおさらば

  8月も終わりに近づくと、急に涼しくなりました。私は友人夫婦と一緒に19~21日にかけて恒例の2泊3日の旅行に出かけ、標高1000m近くの高原の宿舎で過ごし、さすがは高原は涼しいなあ、などと言っていたのですが、帰ってくると、何のことはない、大阪の方が涼しくて、夜は窓を開けて寝ていると風邪を引きそうなほどでした。これでは何のための避暑旅行かといった次第でした。それほど今年の夏は短く、秋は早足で訪れつつあるようです。 これを喜ぶべきか、それとも悲しむべきか、子供達にとっては、楽しい夏休みが終わり、学校が始まるという何とも言えない複雑な気持ちではあるでしょうが、年寄りには、まあ身体が楽になるという点では、喜ぶべきなんでしょう。 “実りの秋”と言います。しっかり『資本論』を研究して、実り多い秋にしたいものではあります。

◎「抽象的人間労働」と「同等な人間労働」

  最近は秋雨前線が停滞して、天気の悪い日が続きますが、わが「『資本論』を読む会」も、やや停滞気味で、ほとんど“移動”がありませんでした。

 といっても、何も議論もせずに終わったということではありません。問題が難しく何度議論してもなかなか埒が開かなかったからです。

 「抽象的人間労働」を如何に理解するかが問題でした。これは戦前から多くの学者が議論してきたものですから、私たちがたった数時間議論したからと言って埒が開くような性格のものではないと言えばそれまでですが、とにかく議論になった点を紹介しましょう。まず当該パラグラフを全部引用しておきましょう。

 《(14)したがって、ある使用価値または財が価値をもつのは、そのうちに抽象的人間労働が対象化または物質化されているからにほかならない。では、どのようにしてその価値の大きさははかられるのか? それに含まれている「価値を形成する実体」、すなわち労働の、量によってである。労働の量そのものは、その継続時間によってはかられ、労働時間はまた、時間、日などのような一定の時間部分を度量基準としてもっている。

(15)一商品の価値がその生産のあいだに支出された労働の量によって規定されるならば、ある人が怠惰または非熟練であればあるほど、彼はその商品の完成にそれだけ多くの時間を必要とするのだから、彼の商品はそれだけ価値が大きいと思われるかもしれない。しかし、諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働であり、同じ人間労働力の支出である。商品世界の諸価値に現される社会の総労働力は、たしかに無数の個人的労働力から成りたっているけれども、ここでは同一の人間労働力として通用する。これらの個人的労働力のそれぞれは、それが一つの社会的平均労働力という性格をもち、そのような社会的平均労働力として作用し、したがって、一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて、他の労働力と同じ人間労働力である。社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的・標準的な生産諸条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、何らかの使用価値を生産するのに必要な労働時間である。たとえば、イギリスで蒸気織機が導入されてからは、一定の量の糸を織物に転化するためには、おそらく以前の半分の労働でたりたであろう。イギリスの手織り工はこの転化のために実際には以前と同じ労働時間を必要としたが、彼の個人的労働時間の生産物は、今ではもう半分の社会的労働時間を表すにすぎず、したがって、以前の価値の半分に低下したのである。》

  これはパラグラフで言うと、14と15パラグラフです(いま便宜的に引用文にパラグラフの番号を記してみました)。この二つのパラグラフの論理的な関係が今一つよく分からないのです。

 まず最初に気付くのは、14パラでは「抽象的人間労働」というタームが使われていますが、15パラではそれが見当たらないということです。「価値の大きさ」が問題になると、どうして「抽象的人間労働」(の量)ではなく、15パラで問題になっている「同等な人間労働」とか「同じ人間労働力の支出」とか「同一の人間労働力」とか「社会的平均労働力」「社会的平均労働」「社会的に必要な労働時間」等々が問題になるのか、前者と後者はどのように関連しているのか、が問題になったのです。

◎まず最初は15パラグラフから

 15パラグラフでは、さまざまなタームがでてきますが、それらは次のような展開になっています。

 《諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働であり、同じ人間労働力の支出である》               

                        

 《商品世界の諸価値に現される社会の総労働力は、たしかに無数の個人的労働力から成りたっているけれども、ここでは同一の人間労働力として通用する》  

                       

  《これらの個人的労働力のそれぞれは、それが一つの社会的平均労働力という性格をもち、そのような社会的平均労働力として作用し、したがって、一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて、他の労働力と同じ人間労働力である》 

                     ↓

  《社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的・標準的な生産諸条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、何らかの使用価値を生産するのに必要な労働時間である》

 ここでは、まず《諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働、同じ人間労働力の支出である》との命題が述べられ、だから個々の労働は諸価値に現される限りは、《同一の人間労働力として通用する》こと、そして《同一の人間労働力として通用する》ということは、個々の労働が《社会的平均労働力という性格をもち、そのような社会的平均労働力として作用》する限りにおいてであること、というのは、《一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて、他の労働力と同じ人間労働力である》と言えるからだ、とされています。

 つまりここでは「価値の実体をなす労働」と「個別の諸労働」との関連が明らかにされているように思えます。個々の労働はその総計によって「社会の総労働力」の一部を構成しますが、しかし個々の労働それ自体としては価値を形成する労働としては通用しないこと、それが価値の実体をなす労働として通用するためには、それらが社会的な平均労働力として作用しなければならず、《したがって、一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて》価値を形成すること、というのは、それらはそうしたものとしてのみ、「同等な人間労働」として通用するのであり、よってまた価値の実体となることができるのだからである、等々。

 だからここでは「諸価値の実体をなす、同等な人間労働」が量的に、より具体的により深くその内容が規定されているように思えます。

 ◎14パラグラフと二つのパラグラフの関連

  まあ、15パラグラフはこの程度でよいとして、それではそれが14パラグラフとどのように関連しているのか、それが問題です。次に14パラグラフを考察してみましょう。 14パラグラフで問題になったのは次の一文です。

 《では、どのようにしてその価値の大きさははかられるのか? それに含まれている「価値を形成する実体」、すなわち労働の、量によってである。》

  ここでマルクスは《「価値を形成する実体」、すなわち労働の、量によって》と書いていますが、ここに出てくる「労働」は、その前の分節--《したがって、ある使用価値または財が価値をもつのは、そのうちに抽象的人間労働が対象化または物質化されているからにほかならない》--に出てくる「抽象的人間労働」と同じなのか違うのかが問題になりました。

 ピースさんは同じではないかというし、亀仙人は「同じならどうして単に『労働』ではなく、『抽象的人間労働』という言葉を使わないのか」と疑問を呈したのですが、結論はでませんでした。

 この両者は同じと言えば同じですし、違うと言えば違うと言えます。明らかにマルクスはここで単に「労働」とのみ述べているのは、その次の15パラグラフとの絡みからだと思います。両者の違いは、「抽象的人間労働」は諸商品に対象化された労働であり、いわば「過去の労働」ですが、「価値を形成する実体」としての「労働」は、これから価値を形成する労働、つまり「生きた労働」という点にあるように思えます。「抽象的人間労働」は諸商品の交換関係から、それらの諸商品に共通なものとして、諸生産物に対象化され結晶している「社会的実体」として、抽出されたものです。それはもちろん、価値の実体をなすわけですから、社会的に共通な質に還元された労働であり、その具体的姿態が捨象された、一般化・抽象化された労働です。しかしわれわれが「価値を形成する実体」として捉えている「労働」は、これから価値を形成する労働として、その内容が問われています。それは「価値を形成する実体」とマルクスが説明しているように、すでに個別の労働とは異なる、何らかの社会的実体になった労働なわけです。だからそれは単に個別の労働から、その具体的姿態を捨象して、単なる労働一般として捉え、その継続時間を問題にすればよいというものではないわけです。

 商品に対象化された労働の場合、それはすでに商品のなかに物質化されたものなのてすから、その具体的姿態を捨象して「抽象的人間労働」に還元すれば、それはすでに一つの「社会的実体」ということができます。それは諸商品の交換関係、という一つの社会的関係から抽出されたものでもあるからです。つまり具体的な労働からその具体性を捨象し、抽象的人間労働に還元して、そのことによってその労働が社会的に共通な質を獲得するということのなかには、その労働が「同じ人間労働」「同じ人間労働力の支出」として捉えられるということが含まれているのです。だからその労働は個別に支出された労働とはすでに異なるものなのです。個別の労働の具体的姿態をただ捨象しただけでは不十分であり、そうした抽象された労働がその抽象性によって社会的な共通の質を獲得するためには、その労働が「同じ人間労働」「同じ人間労働力の支出」として通用するものに変わっていなければならないわけです。そこから第15パラグラフの説明に繋がって行くわけです。

 つまり「諸価値の実体をなす労働」である「同じ人間労働」「同じ人間労働力の支出」というのは、より具体的にその内容をみると、「社会的平均的労働力の支出」という意味を持ち、だからその継続時間というのは、「社会的に必要な労働時間」なのです。それは「現存の社会的・標準的な生産諸条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、何らかの使用価値を生産するのに必要な労働時間である」とも規定されています。

 だから「価値を形成する実体」としての「同じ人間労働」とか「同じ人間労働力の支出」、あるいは「社会的平均的労働力の支出」、さらには「社会的に必要労働時間」というのは、「価値の実体」としての「抽象的人間労働」をより具体的にその内容を展開したものということができるのではないでしょうか。 

 一応、不十分ながら、結論らしきものとして、以上のことを述べておきます。もし、異論があればどしどし出してください。歓迎します。

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第5回「『資本論』を読む会」の案内

2008-07-31 16:49:26 | マルクス

 総務省が7月25日に発表した6月の全国消費者物価指数は、前年同月比1.9%も上昇し、9カ月連続のプラスとなった。消費税率引き上げの影響で物価が上がった1998年1月以来、10年5カ月ぶりの高い伸び率だという。ガソリンの高騰や、穀物価格上昇に伴う食品の値上げなどが影響したなどと言われている。

 実際、身の回りの生活必需品を見回しても、値上げラッシュである。パンやスパゲッティ、チーズ、インスタントラーメン等々、食料品はいうに及ばず、電気やガスも値上げが予定されている。テレビのニュースでは教育費やPTAの会費まで値上げしているなどと報じていた。そして唯一労働者の賃金だけが低下し続けている、と。

 すでにインフレは明らかになりつつある。6月に大阪で開かれたG8財務相会合でも世界インフレが指摘され、「警戒を怠らず、共同で適切な行動を」などと訴えていたが、インフレは世界中で広がろうとしているのである。

 世界的なインフレは、サブプライム問題などによって、オイルマネーなど世界的な投機資金が金融商品を回避し、石油や穀物など現物商品の先物市場に流れ込んでいるからだとも言われているが、しかしその背景にはドルの“タレ流し”による過剰な貨幣資本があることは明らかである。

 こうした国家信用で膨れ上がった架空な貨幣資本は、為替や有価証券などに向かっている限りは、ただ剰余価値の上前をハネルための権利のやりとりでしかないし、物価に対する影響はほんどないのだが、しかし一旦、現物商品に向かうと、たちまちその架空性が暴露されて(というのはこうした架空な貨幣資本は現実資本に対する直接な請求権を代表していないから)、物価の騰貴を引き起し、結果として、その貨幣“価値”の下落、すなわちインフレをもたらすことになるのである。

 だから今日のインフレは国家的な信用膨張と深く結びついた現象であり、なかなか複雑ではあるが、しかしインフレそのものは、直接的には貨幣的現象であり、それを解明するためには、やはり『資本論』で明らかにされている「貨幣論」が必要なのである。

  だから貴方も是非、今日の複雑な経済現象を理論的に読み解くためにも、共に『資本論』を読んでみませんか?

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第5回『資本論』を読む会・案内

 

  ■日時   8月17日(日) 午後2時~

  ■会場   堺市立南図書館

      (泉北高速・泉ヶ丘駅南西300m駐車場はありません。)

 ■テキスト 『資本論』第一巻第一分冊(どの版でも結構です)                                                       

 ■主催   『資本論』を読む会

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第4回「『資本論』を読む会」の報告

2008-07-31 12:23:14 | マルクス

◎夏真っ盛り、とにかく暑い!(@_@)

 関西地方も梅雨が明け、第4回「『資本論』を読む会」が開催された20日も、お日さんがカンカンと照りつける好天日だった。こんな日には、若い者なら海や山に、あるいはプールへと、老人たちは静かに家でクーラーの効いた部屋で昼寝でもやりたいものではある。何が因果かこのクソ暑い中、昼日中にノコノコと出かけなければならないのか、などと愚痴をこぼしながら、とにかく出かける羽目に相成った。

 泉が丘駅から会場の図書館までほんの2~300m歩道橋を歩いていくのだが、途中から日差しを避けるものが何もなく、私は持っていた汗ふきタオルを頭に乗せて、照り返しの強い歩道橋を汗をタラタラ流しながら歩いた。

 しかしこんなに暑くても、ありがたい事に会場はクーラーが効いていた。私たちは第2集会室を利用したのだが、この部屋も4~50人規模の大きな部屋。それを私たちはたった4人で利用した。こんな大きな部屋をたった4人で、しかもクーラーを効かせて、タダで使用するのは何となく気が引けるというか、後ろめたい気持ちが否めない。私たちはもっと小さな部屋があればそれで十分なのだが、あいにく図書館に併設されている集会室にはそうした適当な大きさのものがない。もっとも私たちの隣の第1集会室(これも4~50人規模の大きな部屋だが)を利用しているグループもたったの3人ほどのようだったので、まあ何とかその後ろめたさがやや和らいだというか、私たちだけが罪深いことをしているのではないという安堵感のようなものがあったことは確かである。

 こんな大きな集会室だが、部屋を借りてくれているピースさんの話では、案外に土日は空いているのだそうである。平日の夜はさまざまなサークルで一杯のようだが、土日は誰もが休みたいのか、利用者は少ないという。それに図書館に併設されていることから、その利用目的が制限されている(「読書会」や「読み聞かせ会」、「お話し会」等々のグループの利用が多いようです)ことも、会場が案外空いている理由のように思える。いずれにせよ、とにかくありがたい事ではある。

 ◎「価値」を導き出すややこしい論理

 さて、いよいよ私たちの『資本論』を読む会も佳境に入り、これまで多くの人達が議論し、論争してきた部分にさしかかってきた。まずその部分を全文引用しておこう。

 《使用価値としては、諸商品は、何よりもまず、相異なる質であるが、交換価値としては、相異なる量でしかありえず、したがって、一原子の使用価値も含まない。

 そこで、諸商品体の使用価値を度外視すれば、諸商品体にまだ残っているのは、ただ一つの属性、すなわち労働生産物という属性だけである。しかし、労働生産物もまたすでにわれわれの手で変えられている。もしもわれわれが労働生産物の使用価値を捨象するならば、われわれは、労働生産物を使用価値にしている物体的諸成分と諸形態をも捨象しているのである。それはもはや、テーブル、家、糸、あるいはその他の有用物ではない。その感性的性状はすべて消しさられている。それはまた、もはや、指物(サシモノ)労働、建築労働、紡績労働、あるいはその他の一定の生産的労働の生産物ではない。労働生産物の有用的性格と共に、労働生産物に表れている労働の有用的性格も消えうせ、したがってまた、これらの労働のさまざまな具体的形態も消えうせ、これらの労働は、もはや、たがいに区別がなくなり、すべてことごとく、同じ人間労働、すなわち抽象的人間労働に還元されている。

 そこで、これらの労働生産物に残っているものを考察しよう。それらに残っているものは、幻のような同一の対象性以外の何物でもなく、区別のない人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の、単なる凝固体以外の何物でもない。これらの物が表しているのは、もはやただ、それらの生産に人間労働力が支出されており、人間労働が堆積されているということだけである。それらに共通な、この社会的実体の結晶として、これらの物は、価値--商品価値である。 諸商品の交換関係そのものにおいては、それらの物の交換価値は、それらの物の諸使用価値とはまったくかかわりのないものとして、われわれの前に現れた。そこで今、実際に労働諸生産物の使用価値を捨象すれば、今まさに規定された通りのそれらの価値が得られる。したがって、商品の交換関係または交換価値のうちにみずからを表している共通物とは、商品の価値である。……》(全集版51-2頁)

 何とも複雑な論理で、頭がこんがらがってしまいそうである。

 ピースさんは、「どうして、マルクスはこんなに回りくどい説明をしているのかなあ、“諸商品を互いに質的に区別している諸使用価値を捨象したら、あとに残るそれらの共通物がすなわち価値である”とスッキリ説明したらどうしてアカンのやろ」と疑問を出した。

 実際、マルクスも引用文の最後のパラグラフでは《実際に労働諸生産物の使用価値を捨象すれば、……それらの価値が得られる》とスッキリ説明している。

 もっともこれだと価値の実体が説明されたことにはならないのだが、だからマルクスはそれを説明するために色々と工夫したのではないか、ということになった。

 そこで初版ではここはどのように説明していたのかを見てみた。次のようになっている。

  《交換価値の実体が商品の物理的な手でつかある存在または使用価値としての商品の定在とはまったく違ったものであり独立なものであるということは、商品の交換関係がひと目でこれを示している。この交換関係は、まさに使用価値の捨象によって特徴づけられているのである。すなわち、交換価値から見れば、ある一つの商品は、それがただ正しい割合でそこにありさえすれば、どのほかの商品ともまったく同じなのである。

 それゆえ、諸商品は、それらの交換関係からは独立に、またはそれらが諸交換-価値として現われる場合の形態からは独立に、まず第一に、単なる諸価値として考察されるべきなのである。

 諸使用対象または諸財貨としては、諸商品は物体的に違っている諸物である。これに反して、諸商品の価値存在は諸商品の統一性をなしている。この統一性は、自然から生ずるのではなくて、社会から生ずるのである。いろいろに違う諸使用価値においてただ違って表わされるだけの、共通な社会的な実体、それは--労働である。 諸価値としては諸商品は結晶した労働よりほかのなにものでもない。(以下、価値の量の考察に移っている)》(岡崎訳・国民文庫24-5頁)

  なるほど、初版では全体に簡潔だし、ここにはまだ「抽象的人間労働」といったタームもでて来ない。ただ「共通な社会的実体」としての「労働」が指摘されているのみである。そして論理としてはむしろスッキリしているような印象を与える。

 しかしこれが第二版のための「補足と改訂」(1871年12月-1872年2月執筆)だと次のようになってくる。

 《そこで,諸商品体の使用価値を度外視すれば,諸商品体にまだ残っているのは,一つの属性,労働生産物という属性だけである。しかし,労働生産物もまたすでにわれわれの手によって変えられている。もしわれわれが労働生産物の使用価値を捨象するならば,われわれは,労働生産物を有用にしている,すなわち使用価値にしている肉体的諸成分と形態をも捨象しているのである。それはもはや,テーブル,家,糸,等その他なんらかの使用対象ではない。その感性的性状はすべて消し去られている。したがって,それはまた,もはや,指物労働,建築労働,紡績労働,あるいはその他何かある一定の有用的生産的労働の生産物ではない。労働生産物の有用的性格とともに,労働生産物に含まれている労働の有用的性格も消えうせ,したがってまた,ある労働がなにかある一つの使用対象を生産するときの,一定の具体的形態も消えうせる。

 そこで,これらの労働生産物にのこっているものを考察しよう。いま,一つの商品は他の商品と同しようにみえる。それらはすべて,何かあるものの同じまぼろしのような対象性以外の物ではない。何のか? 区別のない,人間的労働の,すなわち,その支出の特殊な,有用的な,規定された形態にかかわりのない人間的労働力の支出の対象性である。これらの物が現わしているのは,それらの生産に人間的労働力が支出されており,人間的労働が堆積されている,ということ以外のなにものでもない。それらに共通な,この社会的実体の結晶として--これらの物は価値である。

 われわれは次のことを見てきた。--諸商品の交換関係あるいはそれらの交換価値の形態そのものは,交換価値を使用価値の抽象と,特徴づけた。使用価値の抽象が現実に行われ,いままさに規定されたとおりのそれらの価値が得られる。(以下、略)》(小黒正夫訳『マルクス・エンゲルス・マルクス主義研究』第5・7号56頁)

 これは現行版にかなり近くなっているが、まだ「抽象的人間労働」というタームそのものはこの範囲では出て来ない。しかしこの『補足と改訂』にはそのすぐあとに次のような注目すべき言及がある。

 《労働生産物を,それらの非常に多様な使用対象性とは異なる,同し種類の価値対象性に還元するさいに,一つの状況を見過ごしてはならない。すなわち,諸労働生産物が価値対象性を持つ,あるいは価値つまり単なる労働凝固であるのは,それらのなかに実現されているさまざまな具体的諸労働が,すべて抽象的人間的労働に還元されているからに他ならない,ということである。》(同)

  第二版ではこの二つが合わさって現行のような敍述になったと考えられるであろう。

  さて、この部分について、戦前から今日に至るまで多くの議論がなされてきたのだが、それについては次回の報告の時にでも検討することにして、今回はこのぐらいにしよう。

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第4回「『資本論』を読む会」の案内

2008-07-04 18:22:34 | マルクス
                
 7月7日から洞爺湖サミットが開かれる。今回のサミットのテーマは「環境・気候変動」「開発・アフリカ」「世界経済」そして「不拡散をはじめとする政治問題」だという。
 特に地球の環境変動問題は待ったなしと言われている。昨年2月、国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が発表した第4次評価報告書によれば、2100年には地球の平均気温が最大で6.4℃上昇し、海面水位は平均38.5cm(最大59cm)上昇するとされている。地球規模の生態系の変化、異常水温現象の増加、太平洋熱帯域でのエルニーニョ現象の増強、海流の大規模な変化、深層循環の停止、あるいはこれらに伴う気候の大幅かつ非可逆的な変化等々、さまざまな恐ろしい未来図が予想されている。

 こうした地球環境の破壊も、資本主義の無政府的な生産が地球規模に広がり、あまりにも大規模になってしまった結果でしかない(世界の人口のほぼ3分の1を占める中国とインドの急速な資本主義的発展が決定的な影響を及ぼしつつある!)。

 われわれが地球環境破壊の原因とその本質を考え、その真の解決の方向を見いだすための理論的武器も、やはり『資本論』は与えている。

 マルクスは資本の無政府的な生産の本性を次のように明らかにしている。

 《資本が、人類の将来の退廃や結局どうしても止められない人口減少やの予想によって、自分の実際の運動をどれだけ決定されるかということは、ちょうど、地球が太陽に落下するかもしれないということによって、どれだけそれが決定されるかというようなものである。どんな株式投機の場合でも、いつかは雷が落ちるにちがいないということは、だれでも知っているのであるが、しかし、だれもが望んでいるのは、自分が黄金の雨を受けとめて安全な所に運んでから雷が隣人の頭に落ちるということである。われ亡きあとに洪水はきたれ! 〔Apres moi le deluge!〕これが、すべての資本家、すべての資本家国の標語なのである。》(第1巻352-3頁)

 だから世界の主要国の首脳がいくらサミットと称して鳩首会談をやろうと、すべての資本家国家はこの標語どおりのこと以上のことはしようとはしない。

 《資本主義的生産様式は、それが大中心地に集積させる都市人口がますます優勢になるに従って、一方では、社会の歴史的原動力を蓄積するが、他方では、人間と大地とのあいだの物質代謝を、すなわち、人間が食糧・衣料の形態で消費した耕地成分の耕地への回帰を、したがって持続的な耕地肥沃度の永久的自然条件を撹乱する。こうしてこの資本主義的生産様式は、都市労働者の肉体的健康と農村労働者の精神生活とを、同時に破壊する。しかしそれは同時に、あの物質代謝の単に自然発生的に生じた諸状態を破壊することを通じて、その物質代謝を、社会的生産の規制的法則として、また完全な人間の発展に適合した形態において、体系的に再建することを強制する。》(1巻656-7頁)

 今日の地球規模の環境破壊も、われわれに地球規模の《物質代謝を社会的生産の規制的法則として、完全な人間の発展に適合した形態において、体系的に再建することを強制する》ものの一つではないだろうか!

 《資本主義的生産の真の制限は、資本そのものである。資本とその自己増殖とが生産の出発点と終点、動機と目的として現われるということである。生産はただ資本のための生産だということ、そしてそれとは反対に生産手段が生産者たちの社会のために生活過程を絶えず拡大形成して行くための単なる手段なのではないということである。生産者大衆の収奪と貧困化とにもとづく資本価値の維持と増殖とはただこのような制限のなかでのみ運動することができるのであるが、このような制限は、資本が自分の目的のために充用せざるをえない生産方法、しかも生産の無制限な増加、自己目的としての生産、労働の社会的生産力の無条件的発展に向かって突進する生産方法とは、絶えず矛盾することになる。手段――社会的生産力の無条件的発展――は、既存資本の増殖という制限された目的とは絶えず衝突せざるをえない。それだから、資本主義的生産様式が、物質的生産力を発展させこれに対応する世界市場をつくりだすための歴史的な手段だとすれば、それはまた同時に、このようなその歴史的任務とこれに対応する社会的生産関係とのあいだの恒常的矛盾なのである。》(3巻313-4頁)

 だから問題の根本的解決のためには、現代の資本主義的生産様式そのものを革命的に変革しなければならない。人間の自然に対する働きかけを資本の無政府性のままに放置するのではなく、それを人間自身の意識的な統制のもとに取り戻さなければならないのである。

 《すなわち、社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行なうということである。》(3巻1050-1頁)

 しかし、そのためにはこの資本主義社会を変革する労働者階級の闘いが必要であり、その階級闘争の発展が何よりも望まれる。

 貴方も是非、この資本主義社会を変革する武器として、『資本論』を学んでみませんか?

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        第4回『資本論』を読む会・案内


 ■日時   7月20日(日) 午後2時~

 ■会場   堺市立南図書館
       (泉北高速・泉ヶ丘駅南西300m
        駐車場はありません。)

 ■テキスト 『資本論』第一巻第一分冊
       (どの版でも結構です)                  

 ■主催   『資本論』を読む会

           
       
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第3回「『資本論』を読む会」の報告

2008-07-02 16:43:30 | マルクス
◎図書館は閉まり、フロアも真っ暗

 今回の「『資本論』を読む会」は、初めて夕方の6時開始でした。会場の堺市立南図書館に行くと、どうしたことか、入り口の自動ドアは開かず、中は電気も落ちて真っ暗でした。一瞬、曜日を間違えたかと思いました。しかし、そんなはずはないと思いなおし、ウロウロするうちに、中の守衛室には電気が灯っているので、守衛さんが部屋から出てくるのを待って、ドアの外から声をかけると、彼は自動ドアを手で開けて顔を出してくれたので、「実は、今日は読書会があるハズなんですかが…」というと、「ああ、あの『資本論』のやつですね」という。「まだ時間が早いのでそこて待っていてください」と薄暗いフロアーの椅子を指さします。ということは、やはり曜日は間違っていなかったのだと思い、なかに入る。そのうちJJ富田さんも半信半疑で別の自動ドアを手動で開けて入ってくるということで、ようやく一安心。
 しかしそれにしても、もう少し分かりやすい案内があってもよいのではないでしょうか。どうやら集会室は開いているが、図書館は土・日は午後5時までらしい。だから入り口の自動ドアも電気を切り、フロアの電灯も消してあるらしい。なるほど“節約精神”は買うにしても、しかしこれでは集会室の利用者は、とまどうだろう。私のように読書会が必ずあると確信しているような者でさえ、一瞬、曜日を間違えたかと疑ったほどだから、もし案内ビラやこのブログを見て初めて参加された方があったとしたら(そんな人はいないだろうって? そうとも限らないでしょう)、恐らくその人は入り口の自動ドアが開かず、中のフロアの電灯が消えているから、そのまま帰ってしまったに違いないのです。せめて自動ドアに「集会室の利用者は手でドアを開けて入ってください」ぐらいの案内があってしかるべきではないでしょうか(自動ドアを手動で開けるという発想は通常はなかなか出て来ないものです)。
 なになに、「タダで借りているのに、文句は言うな」ですって? しかし利用料が無料だから、サービスがいい加減でよいということはないでしょう。それに利用料が無料といっても図書館や集会室は市民税で運営されているのですから、まったく負担がないわけではないのです。
 というわけで(もちろん、それだけが理由ではないでしょうが)、今回の「『資本論』を読む会」も新参加者はゼロでした。

◎《幾何学上の一例》は問題を分かりやすくしているのか?

 さて、今回も進んだのは、たったの三つのパラグラフのみでした(第7~9パラグラフ)。参加者も同じ顔ぶれでややマンネリ化したのか、議論もあまり盛り上がらず、比較的短時間で終わりました。
 ここで問題になったのは、マルクスは第7パラグラフで、二つの商品の等式《1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄》から《同じ大きさのある共通物が、二つの異なった物の中に、……存在する》こと、だから《両者はどちらも、それが交換価値である限り、この第三のものに還元されうるものでなければならない》という結論を引き出しています(これはまあ良い)。そしてさらにそのことを説明して、第8パラグラフでは、《幾何学上の一例》を上げています。ところがこの《幾何学上の一例》が今一つよく分からないのです。ここでは出された疑問点をとにかく列挙してみましょう。

 (1)まず第7パラグラフでは二商品の等式から、第三のものへの還元を説明していますが、第8パラグラフでは等式ではなく、《直線形の面積をはかり、比較する》ことが課題になっています。これは第7パラグラフの説明としては、あまり適切とはいえないのではないか、という疑問です。
 もし幾何学上の一例の方も等式から説明するとなると、例えば、四角形と六角形がイコールで結ばれるなら、両者の中に《同じ大きさのある共通物が、二つの異なった物の中に、……存在する》こと、ということになり、結局、両者の共通物は何かというと、ただ面積が等しい、というような説明になるのではないか、ということなのです。

 (2)第7パラグラフでは、《同じ大きさのある共通物が、二つの異なった物の中に、……存在する》ことを見出しています。ということは《幾何学上の一例》でも、さまざまな形状の《直線形》の中に《同じ……共通物》を見い出さなければならないハズですが、マルクスはまずそれを《いくつかの三角形に分解》し、さらに《三角形そのものは、その目に見える形とはまったく異なる表現--底辺×高さ/2--に還元される》としています。
 ここでマルクスがさまざまな《直線形》の《共通物》として見ているのは、果たして《三角形》なのか、それともその三角形の面積を求める公式である《底辺×高さ/2》なのか、ということが問題になりました。

 (3)もし《共通物》として《三角形》を見ているだけなら、それだけでは面積は比較できないから、当然、後者であろうということになります。しかしもし後者なら、果たしてそれはさまざまな《直線形》の中に存在する《共通物》といえるのかどうか、三角形を求める公式《底辺×高さ/2》は果たして何か一つの質といえるようなものなのかどうか、という疑問が出されました。
 もしさまざまな形状の《直線形》の共通の質を問題にするのなら、やはりそれはそれらの「面積」ではないのか、と。面積を求める公式と面積そのものとはやはり違うのであり、公式を一つの質と考えることが果たしてできるのかどうか、という疑問です。

 (4)またマルクスが《三角形そのものは、その目に見える形とはまったく異なる表現--底辺×高さ/2--に還元される》ということで強調したいことは、《その目に見える形とはまったく異なる》もの《に還元される》ということではないか、という意見が出されました。
 一クォーターの小麦やaツェントナーの鉄の《その目に見える形とはまったく異なる》《第三のものに還元されうる》ということを、マルクスはこの一例で示そうとしているのではないか、ということなのです。
 しかしそう考えると、またおかしなことがでてきます。というのは、マルクスは《三角形そのものは、その目に見える形とはまったく異なる表現-- 底辺×高さ/2--に還元される》と述べているだけであり、《その目に見える形とはまったく異なる》としているのは《三角形》に対してであって、決して最初の比較の対象であるさまざまな《直線形》に対してではないからです。もちろん、《底辺×高さ/2》が《三角形》と《その目に見える形とはまったく異なる》のだから、当然、最初の《直線形》とも《その目に見える形とはまったく異なる》といえるのではないか、とはいえますが、果たして《その目に見える形とはまったく異なる(もの)に還元される》ことが、ここでのポイントなのかどうか、どうなんでしょう?

 結局、この問題は未解決のままで終わり、まあ、そんなに細かく詮索しなくても良いのではないかという結論になりました。皆さんはどうお考えでしょうか?

 以上のように、今回の議論は内容的にはあまり面白くもなく、また時間も短く終わりましたが、とりあえず、報告しておきます。

(そろそろこの「『資本論』を読む会」も“終末”が見えつつあるですって? 誰ですか、そんな陰口を叩くのは!)
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第3回「『資本論』を読む会」の案内

2008-05-30 16:02:31 | マルクス
                     

 『蟹工船』ブームなのだという。もちろん、あの小林多喜二の『蟹工船』である。異常とも言える売れ行きに、新潮社は5月の時点で10万7千部増刷することを決定したという。
 買ってゆくのは「格差社会」の真っ只中にある「30代から50代の働きざかりの人が多い」とも言われ、「ワーキングプア」との関連で特設スタンドをおいたら飛ぶように売れた、などとも言われている。

 『蟹工船』で描かれている世界は、多喜二自身が「この一篇は、『植民地に於ける資本主義侵入史』の一頁である」と小説の最後の「付記」で書いているように、当時はまだ開拓途上にあって「植民地」とほとんど変わらなかった北海道における資本の「原始的な」「虐使」の実態である。人を人とも思わない資本の過酷な搾取の有り様がこれでもかこれでもかと描かれている。つまり『蟹工船』で描かれている世界は、当時でも最も劣悪な労働条件で酷使されていた労働者たちなのである。

 「ここの百に一つくらいのことがあったって、あっちじゃストライキだよ」と元芝浦の工場にいた労働者は語る。

 「--内地では、労働者が『横柄』になって無理がきかなくなり、市場もだいたい開拓されつくして、行き詰まってくると、資本家は『北海道・樺太へ』鉤爪をのばした。そこでは、彼らは朝鮮や、台湾の植民地と同じように、面白いほど無茶な『虐使』ができた。」

 と多喜二は書いている。

 それほど過酷な労働の実態がそこにはある。それがこの現在の高度に発達した資本主義の下で働く労働者たちに共感を呼んでいるのである! 働いても働いてもカツカツの生活を維持するのがやっとの「ワーキングプア」たち。多くの労働者が超過密で長時間の労働に追いまくられるなかで、明日の生活の不安にさいなまれている。資本主義は80年前と何一つ変わっていないではないか、と誰もが思っている。

 『資本論』は“古くさくなった”と何度も言われてきた。しかし『資本論』で明らかにされている現実は、まさに今の資本主義の現実なのである。

 《資本主義制度の内部では、労働の社会的生産力を高めるいっさいの方法は、個々の労働者の犠牲として行われるのであり、生産を発展させるいっさいの手段は、生産者の支配と搾取との手段に転化し、労働者を部分人間へと不具化させ、労働者を機械の付属へとおとしめ、彼の労働苦で労働内容を破壊し、科学が自立的能力として労働過程に合体される程度に応じて労働過程の精神的能力を労働者に疎遠なものにするのであり、またこれらの方法・手段は、彼の労働条件をねじゆがめ、労働過程中ではきわめて卑劣で憎むべき専制支配のもとに彼を服従させ、彼の生活時間を労働時間に転化させ、彼の妻子を資本のジャガノートの車輪のもとに投げ入れる。しかし、剰余価値の生産のいっさいの方法は、同時に蓄積の方法であり、その逆に、蓄積のどの拡大も、右の方法の発展の手段となる。それゆえ資本が蓄積されるのにつれて、労働者の報酬がどうであろうと--高かろうと低かろうと--労働者の状態は悪化せざるをえないということになる。最後に、相対的過剰人口または産業予備軍を蓄積の範囲と活力とにたえず均衡させる法則は、ヘファイストスの楔(クサビ)がプロメテウスを岩に縛りつけたよりもいっそう固く、労働者を資本に縛りつける。この法則は資本の蓄積に照応する貧困の蓄積を条件づける。したがって、一方の極における富の蓄積は、同時に、その対極における、すなわち自分自身の生産物を資本として生産する階級の側における、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、野蛮化、および道徳的堕落の蓄積である。》(『資本論』第1巻・全集版840-1頁)

 『資本論』は『蟹工船』の背後で何がどのように作用し、その過酷な搾取を必然ならしめているかを明らかにしている。

 『蟹工船』でストライキに立ち上がった労働者たちから現代の労働者は何を学ぶのだろうか? 彼らが『蟹工船』だけでなく、さらに『資本論』からも学び始めることだけは確かではないだろうか。

 貴方も是非『資本論』を私たちと一緒に読んでみませんか?

 【なお下記サイトからは「漫画蟹工船」が無料でダウンロードできます。
  http://www.takiji-library.jp/announce/2007/20070927.html

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          第3回『資本論』を読む会・案内

 ■日時   6月21日(土) 午後6時~

 ■会場   堺市立南図書館
       (泉北高速・泉ヶ丘駅南西300m 駐車場はありません。)

 ■テキスト 『資本論』第一巻第一分冊(どの版でも結構です)

 ■主催   『資本論』を読む会

            

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