『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第12回「『資本論』を読む会」の案内

2009-03-28 23:59:06 | 『資本論』

 

 AIG(アメリカン・インターナショナル・グループ)の巨額報酬が問題になっている。

 AIGと言えば、今回の金融危機のもとになった金融バブルを煽った張本人であり、昨年9月にリーマン・ブラザーズが破綻に追い込まれる一方で、米政府による救済を受け、公的資金が四回にわけて投入され、その総計が1700億ドル(約17兆円)にも達している保険大手である。

 今回、そのバブルを煽った金融商品部門の幹部に総額約160億円(一人当たりの最高額は約6億2700万円)ものボーナスが支払われたというのである。一方で政府の公的資金の支援を受けながら、他方で、破綻をもたらした“犯罪人”たちに巨額の報酬が支払われていたのである。これは事実上、税金を山分けしていたに等しい。

AIGに対する公聴会で抗議する人たち

 しかも高額報酬を受け取っていたのは、AIGの幹部だけではない。米銀最大手のバンク・オブ・アメリカに吸収合併された証券大手のメリルリンチの幹部も、昨年、巨額の報酬を受けとっていたことが明らかになっている。同社を統合したバンカメには総額450億ドル(約4兆5000億円)の公的資金が注入されているのである。

 ボーナスのトップ10の社員への支払い総額は約209億円(平均約20億円!)。しかも巨額報酬を受け取っていたのは、バブルを煽った専門家達である。例えば、投資銀行部門の責任者33億8000万円、トレーディングの責任者13億円、金融商品の責任者18億7000万円、商品取引の責任者16億5000万円、中東・アフリカの責任者15億円、グローバル戦略の責任者29億4000万円、グローバルセールスとトレーディングの責任者39億4000万円と凄まじい数字が並んでいる。

 彼らは自らの責任で破綻を招きながら、税金で穴埋めされることをよいことに、暴利を貪っていたのである。何と腐敗した連中であろうか。

 しかしこれは信用が極端まで膨張した腐敗した資本主義の避けることのできない一つの現象なのである。マルクスは資本主義的生産における信用の役割を論じるなかで、次のように指摘している。

 《それは、新しい金融貴族を再生産し、企画屋や発起人や名目だけの役員の姿をとった新しい種類の寄生虫を再生産し、会社の創立や株式発行や株式取引についての思惑と詐欺との全制度を再生産する。》(全集版25巻a559頁)
 《そして、信用はこれらの少数者にますます純粋な山師の性格を与える。》(同560頁)
 《信用制度が過剰生産や商業での過度な投機の主要な槓杆として現われるとすれば、それは、ただ、その性質上弾力的な再生産過程がここでは極限まで強行されるからである。……それゆえ、信用制度は生産力の物質的発展と世界市場の形成とを促進するのであるが、これらのものを新たな生産形態の物質的基礎としてある程度の高さに達するまでつくり上げるということは、資本主義的生産様式の歴史的任務なのである。それと同時に、信用は、この矛盾の暴力的爆発、恐慌を促進し、したがってまた古い生産様式の解体の諸要素を促進するのである。》(同562-3頁)

 バブルの破綻と世界恐慌の勃発が古い生産様式の解体を促進するものであるなら、こうしたバブルの中で暴利を貪った“寄生虫の大量発生”も、資本主義的生産様式が新しい生産様式によって置き換えられなければならないことを教えるものの一つでもあるのであろう。

 貴方も世界恐慌をより深く理解するためにも、ともに『資本論』を読んでみませんか。

──────────────────────────────────

第12回「『資本論』を読む会」・案内

                                                                                                                                                                                       ■日   時   4月19日(日) 午後2時~

   ■会   場   堺市立南図書館
                 (泉北高速・泉ヶ丘駅南西300m 駐車場はありません。)

   ■テキスト   『資本論』第一巻第一分冊 (どの版でも結構です)

   ■主   催   『資本論』を読む会 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第11回「『資本論』を読む会」の報告

2009-03-11 18:07:50 | 『資本論』

◎春は“花粉症”の季節?

 3月にもなると、ようやく寒さも弛み、「山」も「里」も「野」も近くにはありませんが、「春~が来た♪」ことを実感します。
 「花~がさき、鳥~がなく、春」は、やはり心をウキウキさせるものですが、最近は、残念なことに、反対に憂鬱な季節になってしまったようです。“花粉症”です。街を歩くと何と「マスク人間」の多いことか!
 ピースさんも、JJ富村さんも、花粉症で、二人ともマスクをしています。ピースさんは8日の「読む会」の直前まで風邪でダウンしていたのですが、JJ富村さんも傍で見ていても気の毒なぐらい重い症状です。私たちが会議室に着いたとき、彼はすでに先にきて窓際の机に伏せていたので、眠っているのかと思ったのですが、そうではなく、花粉症が辛くて、伏せていたというのです。「読む会」の途中でも、時々、マスクを外して鼻などを洗浄する薬を噴霧したりしていました。
 幸い私、亀仙人は、山の中で育ったような人間であるためか、小さいときから漆の木の下を通っただけでもかぶれて顔全体を腫らしたりしていたのですが(この場合の治療法として、栗の葉の煮汁に顔を浸けさせられた)、いまだに花粉症の症状は出ていません。
 いずれにせよ、憂鬱で思考力も鈍る花粉症ですが、「読む会」の議論はなかなか充実したもので、11~15と五つもパラグラフを進み、第2節の最後のパラグラフを残すまで行きました。さっそく、その報告を行ないましょう。


◎第11パラグラフの位置づけとその内容

 まず、このパラグラフの位置づけというか、役割から考えてみましょう。第9パラグラフから、考察の対象は、それまでの商品の使用価値とそれに表されている有用労働から、商品の価値に移りました。そこでマルクスは第10パラグラフでは、まず上着とリンネルという二つの商品を価値の側面からみた場合にもっとも直接的な表象として捉えられる二商品の価値の量的比較から入っています。
 《上着はリンネルの二倍の価値をもっている》。
 しかし価値の量的区別にはどんな問題があるのか、ということはさしあたりは問題としないとして、そうした量的比較が可能である前提に質的同一性があること、だからまずその質的同一性から問題にすることが言われていました。
 ところで次の第12パラグラフは、この後回しにされた価値の量が問題になっています。だからこの第11パラグラフは、第9パラグラフから始まった価値の質的な考察の最後を締めくくるものであり、それの「まとめ」だということが分かります。
 その内容を理解するために、そもそも価値の質的考察がどのように進められてきたのかを少し振り返ってみましょう。第10パラグラフではマルクスは次のように考察を進めていました。
 まず上着とリンネルとは価値として量的に比較できるのは、両者が同じ実体を持つ物であるからであり、同種の労働の客観的表現であることが指摘されました。そしてこの「同種の労働」とは何かが明らかにされ、それは裁縫労働や織布労働の有用的性格を度外視した《人間労働力一般の支出》であること、それは《人間の脳髄、筋肉、神経、手などの生産的支出》という意味での《人間労働力の支出》であることが指摘されました。それはまた《平均的に、普通の人間ならだれでも、特殊な発達なしに、その肉体のうちにもっている単純な労働力の支出である》こと。だから価値の実体としては、複雑な労働も単純な労働に還元されていることが指摘されたのでした。
 そして第11パラグラフではもう一度、それまでの考察をまめているわけです。だから次に第11パラグラフを分節ごとに見て行きましょう。

【11】

・したがって、価値である上着およびリンネルにおいては、それらの使用価値の区別が捨象されているように、これらの価値に表されている労働においては、裁縫および織布労働というそれらの有用的形態の区別が捨象されている。

 われわれは以前は《使用価値に表されている労働》、すなわち《有用的労働》をみたが、
今は《価値に表されている労働》を問題にしている。上着とリンネルを価値という側面から見ると、まったく無区別な同質のものとして捉えられる。だからそれらを価値という側面で見るということは、それらを質的に区別している使用価値の相違を捨象することになる。それらを質的に違った使用価値たらしめているのは、裁縫労働や織布労働という有用労働なのだから、そうした使用価値を捨象するということは、裁縫労働や織布労働の有用的形態の区別も捨象するということになる。

・使用価値である上着およびリンネルが目的を規定された生産的活動と布および糸との結合したものであり、これに対して価値である上着およびリンネルは単なる同種の労働凝固体であるように、これらの価値に含まれている労働は、布および糸に対するその生産的なふるまいによってではなく、ただ人間労働力の支出としてのみ通用する。

 使用価値として見た上着やリンネルは、裁縫労働や織布労働という目的を規定された生産的活動と労働対象である布や糸との結合の産物であるように、それらを価値という側面で見るということは、それらの価値に含まれている労働も、布や糸に対する生産的な振る舞いによってではなく、ただそうした有用的性格を捨象された単なる人間労働力の支出としてのみ通用するものとなるのである。

・裁縫労働と織布労働とが使用価値である上着およびリンネルの形成要素であるのは、まさにこれらの労働の異なる質によってである。
・裁縫労働と織布労働とが上着価値およびリンネル価値の実体であるのは、ただ、これらの労働の特殊な質が捨象され、両方の労働が等しい質、人間労働という質をもっている限りでのことである。

 要するに上着やリンネルを価値の側面で見るということは、それらに支出されている労働を、上着やリンネルの使用価値に表されている裁縫労働や織布労働という具体的な特殊な目的を持った側面、労働のそういう形態を捨象して、単なる人間労働力の支出として見ることになる、ということが再確認されたわけです。

◎商品の価値に表される労働の量的考察

 次の第12パラグラフから価値に表される労働の量的考察が始まります。これも分節ごとに紹介しておきましょう。まず第12パラグラフです。

【12】

・だが、上着もリンネルも単に価値そのものであるだけではなく、一定の大きさをもつ価値であり、われわれの想定では、一着の上着は一〇エレの二倍の価値がある。
・これらの価値の大きさのこの相違はどこから生じるのか? それは、リンネルが上着の半分の労働しか含んでおらず、したがって、上着を生産するにはリンネルを生産する時間の二倍にわたって労働力が支出されなければならない、ということから生じる。

★このパラグラフでは商品の価値の量が、商品に含まれる労働の大きさにもとづくこと、そして労働の大きさは,労働力の支出の大きさに、故に労働力が支出される継続時間に関係することが明らかにされています。次は第13パラグラフです。

【13】

・したがって、商品に含まれている労働は、使用価値との関連ではただ質的にのみ意義をもつのだが、価値の大きさとの関連では、それがもはやそれ以上の質をもたない人間労働に還元されたのち、ただ量的にのみ意義をもつ。

 ここで《もはやそれ以上の質をもたない人間労働に還元さ》されているというのは、価値に表されている人間労働も一つの質であるが、それは使用価値がもつ特殊な質を一つの質に還元したものなのです。そしてそれはそれ以上に還元しようのない質になっているために、もはや量的な区別しか問題にならないというわけです。これはヘーゲルの論理学の「有論」を彷彿とさせる敍述です。つまり「質のどん詰まり」としての向自有が、すなわち人間労働一般というわけです。

・前の場合には、労働のどのようにしてと、何をするかが問題となり、後の場合には、労働のどれだけ多くが、すなわちその継続時間が問題となる。

 使用価値として表されている労働の場合には、《労働のどのようにして》、つまりその具体的形態が問われ、《何をするか》、すなわちその目的意識性が問われたのですが、価値として表される労働においては、ただその《どれだけ》が、つまり量だけが問題となり、よってその継続時間が問題というわけです。

・一商品の価値の大きさは、その商品に含まれている労働の量だけを表すから、諸商品は、一定の比率においては、つねに等しい大きさの価値でなければならない。

★最後の分節にある《商品に含まれている労働》という文言が少し問題になりました。これまでマルクスは《商品に表される労働》とか《使用価値に表される労働》あいは《価値に表される労働》という言い方はしてきましたが、ここでは《含まれる労働》という表現をしていることです。しかしこれはそれが指摘されただけで特にそれ以上問題にはなりませんでした。
 さて、このパラグラフでは、価値の量との関連で見た労働が、使用価値との関連で見た労働の質的相違を還元して、それ以上還元できないまでに還元されているから、量的にのみ意義をもつことが明らかにされています。つまりこのパラグラフでは価値の量として表されている労働と使用価値として表されている労働との関連が考察されたわけです。そうした考察の端緒としての位置づけを持っているように思われます。つまり使用価値との関連で見た労働では、「どのようにして」「何をするか」が問われ、価値の大きさとの関連で見た労働では、「どれだけ」が問われる、と。これは次のパラグラフでは使用価値に関連する生産力と価値との関連を考察するための、いわばその導入部分であり、その前提である、といえわけです。それでは、次の第14パラグラフを見てみましょう。

【14】

・たとえば、一着の上着の生産に必要とされるすべての有用労働の生産力が不変のままにとどまるならば、上着の価値の大きさは、上着自身の量が増えるにつれて増大する。

 ここで《すべての有用労働》と述べられているのは、単に裁縫労働だけではなく、裁縫労働と結合されるリンネルを織る労働も、織布労働と結合される糸を紡ぐ製糸労働も、とにかく最終的な個人的消費手段である上着という使用価値を生産するに必要とされるすべての有用労働がここでは問題になっていると考えられます。そしてそれらのすべての労働の生産力が不変であるなら、上着の価値の大きさは、上着の量が増えれば、増えるというわけです。

・一着の上着がx労働日を表すなら、二着の上着は2x労働日を表す、等々。
・しかし、一着の上着の生産に必要な労働が二倍に増加するか、あるいは半分に減少するものと仮定しよう。
・前の場合には、一着の上着は以前の二着の上着と同じ価値をもち、後の場合には、二着の上着が以前の一着と同じ価値しかもたない。
・もっとも、どちらの場合でも、一着の上着はあい変わらず一着の上着として役立ち、それに含まれている有用労働もあい変わらず同じ質のものである。ただ、その生産に支出された労働量が変わったのである。

★生産力の変化と上着という使用価値との関連をまず問題にし、さらにそれが上着の価値とどういう関係にあるかを見ています。生産力の変化は、有用労働に関連するが、しかし生産力が変化しても、一着の上着という使用価値はもとのままの相変わらず同じ一着の上着として役立つだけで、使用価値としての役割も、またそれに含まれている有用労働にも何の変化もないというわけです。にも拘らず、生産力は有用労働に関連し、だから価値には直接関連しないはずなのに、生産力の変化は、一着の上着という使用価値そのものには何の変化ももたらさないのに、逆に価値には変化をもたらすというわけです。この逆説的な現実を指摘しています。
 ところで、ここでは生産力が変わっても、《有用労働も相変わらず同じ質のもの》といえるのかどうかが問題になりました。例えば裁縫労働の場合、手縫いするのとミシンを使って縫うのとでは、有用労働の質が変化しているのではないか、むしろ有用労働の質的変化こそ、生産力を変化させる要因の一つではないのか、という疑問が出されました。これはハッキリ決着がついたといえないのですが、要するに上着という有用性そのものは、生産力が変わっても変わらないのだから、その使用価値の有用性からみた場合に、それを形成する労働の有用性というもの、そいう意味での質にも変化がないと言っているのではないかと、という結論になりました。だから裁縫労働の具体的形態に変化があっても、同じ有用性に結実するという限りで、同じ質を持っているといえるのではないかというのですが、まあ、今一つよく分からないのが正直なところです。

【15】

・より大きい量の使用価値は、それ自体としては、より大きい素材的富をなす。
・二着の上着は、一着の上着より大きい素材的富をなす。
・二着の上着があれば、二人に着せることができるが、一着の上着では一人にしか着せられない、等々。
・といっても、素材的富の量の増大に対応して、同時にその価値の大きさが低下することもありえる。
・このような対立的運動は、労働の二面的性格から生じる。

 使用価値の量が増大しているのに、その価値が低下するというような、対立的な運動は、使用価値に表される労働と価値に表される労働という労働の二面的性格から生じることが指摘されています。

・生産力は、もちろんつねに、有用な具体的労働の生産力であり、実際、ただ、与えられた時間内における目的にしたがった生産活動の作用度だけを規定する。

 ここでは生産力について、厳密に規定がされています。すなわち、有用な具体的労働の生産力であって、与えられた時間内に目的にしたがった生産活動の作用度だけを規定する。

・だから、有用労働は、その生産力の上昇または低下に正比例して、より豊かな生産物源泉ともなれば、より貧しい生産物源泉ともなる。
・これに対して、生産力の変動は、それ自体としては、価値に表される労働にはまったく影響しない。

 これもすでに指摘したことですが、もう一度、生産力の変動は、それ自体としては、価値に表される労働にはまったく影響しない、ことが述べられています。

・生産力は、労働の具体的な有用な形態に属するから、労働の具体的な有用な形態が捨象されるやいなや、生産力は、当然、もはや労働に影響を与えることはできなくなる。

 ここでは、どうして生産力の変動は、それ自体として価値に表される労働に影響しないのか、その理由が述べられています。

・だから、生産力がどんなに変動しても、同じ労働は、同じ時間内には、つねに同じ価値の大きさを生み出す。
・ところが、同じ労働は同じ時間内に、異なった量の使用価値を--生産力が上がれば、より大きい量を、生産力が下がれば、より小さい量を--提供する。

 所沢の「『資本論』を読む会」では、ここに出てくる《同じ労働》とは何かということが議論になったようです(ttp://shihonron.exblog.jp/m2008-09-01/)。〈「次の部分で使用価値を与えるとされているのだから、あるがままの労働(具体的労働の側面と抽象的労働の側面をあわせもつ労働)ではないか」という発言が〉あった、と報告されています。

・したがって、労働の多産性を増大させ、したがって、労働によって提供される使用価値の総量を増大させるような生産力の変動は、もしもそれがこの使用価値総量の生産に必要な労働時間の総計を短縮させるならば、この増大した使用価値総量の価値の大きさを減少させる。反対の場合には逆になる。

 この最後の分節の解釈を巡ってかなり長い時間議論し、JJ富村さんなんかは、黒板を使って問題を整理しながら論じたりしましたが、今一つスッキリと解決したとは言えませんでした。
 まずここでは「使用価値総量」が問題になっていますが、どうしてここで使用価値総量が問題になっているのでしょう。このパラグラフは量的考察の最後でもあり、しかもその最後の分節です。だから単なる一着の上着の使用価値だけではなく、「使用価値総量」が問題になっていると考えることができます。ただここで「使用価値総量」と言っても、すべての使用価値全体を意味するのではなく、例えば上着なら上着の総量を意味しているのではないかということになりました。
 さらにこの分節の理解を困難にさせているのは、生産力の変動が使用価値総量も価値総量も同時に変化させる場合について述べているからです。
 例えば、使用価値総量を増大させる生産力の変動は、使用価値の一単位の価値を減少させるというのなら、まったく問題なく理解できます。この場合は生産力の変動が使用価値総量を増大させても、その使用価値総量の価値そのものには変化がないために(なぜなら、《生産力は、もちろんつねに、有用な具体的労働の生産力であり、実際、ただ、与えられた時間内における目的にしたがった生産活動の作用度だけを規定》し、《生産力の変動は、それ自体としては、価値に表される労働にはまったく影響しない》から)、一単位の使用価値の価値量は減少するのだと理解することができるわけです。しかしマルクスが述べているのは、こうしたことでは必ずしもないわけです。だからややこしいのです。
 マルクスが述べているのは、使用価値総量を増大させる生産力の変動が、その生産された使用価値総量の価値をも減少させる場合についてです。というのは、その生産力の増大は、使用価値総量を増大させるだけでなく、その増大した使用価値総量を生産するのに必要な労働時間の総計をも短縮するケースについて述べているのだからです。そして確かにこのように理解すれば、それはその限りではまったくそのとおりなのですが、どうしてこうしたケースの考察が量的考察の最後になされる必要があるのか、しかも《使用価値総量》とその生産に必要な《労働時間の総計》が問題にされる必要があるのか、ということが今一つよく分からないのです。これはとりあえず、疑問として出すだけにしておきます。

【追記】
 この最後の分節の理解について、補足しておきます。私たちは「使用価値総量」を「例えば上着なら上着の総量を意味している」と理解したのですが、それがそもそもマルクスがこの分節で何を言いたいのかを分からなくさせたようです。ここは文字どおり「使用価値総量」とは、その社会が必要とする使用価値総量と理解すべきなのです。そうすると、マルクスが言いたいことは次のようなことです。

 生産力が高度化すれば、社会が必要とする使用価値総量を増大させ、社会が享受する素材的富を増大させるが、同時にその使用価値総量の生産に必要な労働時間も短縮させもする。そうした生産力の変動は、しかし資本主義的生産においては、使用価値総量の価値の大きさを減少させ、それは資本主義的生産の攪乱・恐慌に繋がるのである。しかし将来の社会であるなら、それは自由時間の拡大に結果する。しかしもし戦争などで生産力が破壊されるなら、逆の結果を生み出す。第二次世界大戦はまさにそうした形で資本主義を延命させたといえるであろう。云々。

 もちろん、かなり脚色して書いてみましたが、このように理解するなら、この分節が商品の価値に表される労働の量的考察の最後に相応しい内容であることがお分かりになるでしょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする