『資本論』学習資料No.33(通算第83回)(4)
◎第3パラグラフ(シーニアの「分析」は分析に値しない)
【3】〈(イ)そして、教授はこれを「分析」と呼ぶのだ! (ロ)もし彼が、労働者は1日のうちの最良の時間を建物や機械や綿花や石炭などの価値の生産に、したがってまたそれらの価値の再生産または補塡に浪費してしまう、という工場主たちの嘆きを信じたのであれば、およそ分析はよけいだったのである。(ハ)彼はただ単にこう答えれぽよかったのである。(ニ)諸君! もし諸君が11時間半ではなくて10時間作業させるとすれば、ほかの事情が変わらないかぎり、綿花や機械などの毎日の消費は1時間半分だげ減るであろう。(ホ)だから、諸君は諸君が失うのとちょうど同じだけを得るのである。(ヘ)諸君の労働者たちは、将来は、前貸資本価値の再生産また補塡のために1時間半少なく浪費するであろう、と。(ト)もしまた、シーニアが工場主たちの言うことをそのまま信じないで、専門家として分析が必要だと考えたのならば、なによりもまず、彼は、ただ労働日の長さにたいする純益の比率だけの問題では、工場主諸君にお願いして、機械類や工場建物や原料と労働とをごちゃまぜにしないで、一方の側には工場建物や機械類や原料などに含まれている不変資本を置き、他方の側には労賃として前貸しされる資本を置くようにしてもらうべきだったのである。(チ)そこで、次に、工場主たちの計算では労働者は2/2労働時間、すなわち1時間で労賃を再生産または補塡するということにでもなったなら、分析家は次のように続けるべきだったのである。〉
(イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ)(ヘ) そして、教授はこれを「分析」と呼ぶのです! もし彼が、労働者は1日のうちの最良の時間を建物や機械や綿花や石炭などの価値の生産に、したがってまたそれらの価値の再生産または補塡に浪費してしまう、という工場主たちの嘆きを信じたのであれば、およそ分析はよけいだったのです。彼はただ単にこう答えれぽよかったのです。諸君! もし諸君が11時間半ではなくて10時間作業させるとすれば、ほかの事情が変わらないかぎり、綿花や機械などの毎日の消費は1時間半分だげ減るでしょう。だから、諸君は諸君が失うのとちょうど同じだけを得るのです。諸君の労働者たちは、将来は、前貸資本価値の再生産また補塡のために1時間半少なく浪費するでしょう、と。
マルクスはシーニアの「分析」なるものは分析に値しないと言いたいようです。マンチェスターの工場主たちの言い分をそのまま受け売りしただけのものだからです。
工場主たちは労働者が1日のうち最良の時間(シーニアの数値では10時間)を建物や機械や綿花や石炭などの価値の生産に、だから彼らが最初に投じた資本の補塡に費やしてしまうという嘆きをそのまま信じているなら、最初から分析など必要なかった。つまり現象を現象のままに叙述するだけなら、科学的な分析など必要ないのだということです。
マルクスは1867年6月27日付けのエンゲルスへの手紙で〈もしも〔俗流経済学者の頭脳に--引用者〕内的な関連が反射するとすれば、いったいなんのために科学というものは必要なのだろうか?〉(全集第31巻260頁)と述べています。
現象をただ現象のままにいうだけなら、彼は次のように言えばよかった。つまり労働者がその労働日で生産物価値をすべて生産すると考えるなら(現象としてはそのように見える)、労働者の労働時間を減らせば、それだけ生産に必要な彼らの投資も減るのだから、彼らは失うものを他方で得ることになるでしょう。そしてその結果、労働者は前貸資本価値が減った分だけその再生産または補塡のために1時間半だけ少なく浪費(彼らは資本価値を補塡する労働を浪費と考えるわけですから)するでしょう、と。
(余談。以前、林 紘義氏はマルクスの再生産表式において、部門Ⅰと部門IIの総生産物が9000であれば、労働者はその9000の商品の使用価値とともに価値をも生産したのだから、支出された労働は3000ではなく、9000でなければならない、などと主張していました。これはブルジョア達とまったく同じようにただ現象を現象のままに受け止めているだけのものでしかなかったことが、ここでのマルクスの論述からも分ります。林氏は、マルクスの「具体的有用労働による生産手段の価値の移転」論を誤りとしたので、彼には生産物価値と価値生産物との区別ができなくなってしまったのです。内在的な関係を無視するなら、俗流経済学者と同様に、ただ表象に写るものを書き写すしかないわけです。こんな混乱した代物を後生大事に「画期的な大発見」であるかに持ち上げている人たちを私たちは何と評すべきでしょうか。一刻も早く目を覚ますことをただ願うばかりです。)
(ト)(チ) もしまた、シーニアが工場主たちの言うことをそのまま信じないで、専門家として分析が必要だと考えたのでしたら、なによりもまず、彼は、ただ労働日の長さにたいする純益の比率だけの問題では、工場主諸君にお願いして、機械類や工場建物や原料と労働とをごちゃまぜにしないで、一方の側には工場建物や機械類や原料などに含まれている不変資本を置き、他方の側には労賃として前貸しされる資本を置くようにしてもらうべきだったのです。そこで、次に、工場主たちの計算では労働者は2/2労働時間、すなわち1時間で労賃を再生産または補塡するということにでもなったなら、分析家は次のように続けるべきだったのです。
ここではもしシーニアが工場主たちのいいなりにならずに、科学的に分析をしようとするなら、原料と労賃を流動資本として一括りにせずに、工場建物や機械類や原料を不変資本として一方におき、他方に、労賃を可変資本として区別しておいて、前貸資本を考えるべきだということが述べられています。
そのうえで、工場主たちの計算で労働者が二つの半労働時間で、すなわち1労度時間で労賃を再生産または補塡するということにでもなったなら、分析家は次のように続けるべきだと述べて、次のパラグラフに続けています。
◎第4パラグラフ(シーニアの「最後の1時間」のカラクリ、労働者の5[3/4]紡績時間の価値生産物が1紡績時間の生産物価値に等しいということは、けっして魔術でもなんでもない)
【4】〈(イ)諸君の言うところでは、労働者は最後から2番めの1時間で自分の労賃を生産し、最後の1時間で諸君の剰余価値また純益を生産する。(ロ)彼は同じ長さの時間では同じ大きさの価値を生産するのだから、最後から2番めの1時間の生産物は、最後の1時間の生産物と同じ価値をもっている。(ハ)さらに、彼が価値を生産するのは、ただ彼が労働を支出するかぎりでのことであって、彼の労働の量は彼の労働時間で計られる。(ニ)それは、諸君の言うところによれば、1日に11時間半である。(ホ)この11時間半の一部分を彼は自分の労賃の生産または補塡のために費やし、他の部分を諸君の純益の生産のために費やす。(ヘ)そのほかには彼は1労働日のあいだなにもしない。(ト)ところが、陳述によれば、彼の賃金と彼の提供する剰余価値とは同じ大きさの価値なのだから、明らかに彼は自分の労賃を5[3/4]時間で生産し、そして諸君の純益を別の5[3/4]時間で生産するのである。(チ)さらに、2時間分の糸生産物の価値は、彼の労賃・プラス・諸君の純益という価値額に等しいのだから、この糸価値は11[1/2]労働時間で計られ、最後から2番めの1時間の生産物は5[3/4]労働時間で計られ、最後の1時間の生産物もやはりそれで計られていなければならない。(リ)われわれは、いま、やっかいな点にきている。(ヌ)そこで、注意せよ! (ル)最後から2番めの1労働時間も、最初のそれと同じに普通の1労働時間である。(ヲ)それより多くも少なくもない。(ワ)それでは、どうして紡績工は、5[3/4]労働時間を表わす糸価値を1労働時間で生産することができるのか? (カ)彼はじつはそんな奇跡は行なわないのである。(ヨ)彼が1労働時間で使用価値として生産するものは、一定量の糸である。(タ)この糸の価値は5[3/4]労働時間によって計られ、そのうち4[3/4]は、毎時間消費される生産手段すなわち綿花や機械類などのうちに彼の助力なしに含まれており、1/1すなわち1時間は彼自身によってつけ加えられている。(レ)つまり彼の労賃は5[3/4]時間で生産され、また1紡績時間の糸生産物もやはり5[3/4]労働時間を含んでいるのだから、彼の5[3/4]紡績時間の価値生産物が1紡績時間の生産物価値に等しいということは、けっして魔術でもなんでもないのである。(ソ)ところで、もし諸君が、綿花や機械類などの価値の再生産または「補塡」のために労働者が彼の労働日のただの一瞬間でも失うものと考えるならば、それはまったく諸君の思い違いである。(ツ)彼の労働が綿花や紡錘を糸にすることによって、つまり彼が紡績することによって、綿花や紡錘の価値はひとりでに糸に移るのである。(ネ)これは彼の労働の質のおかげであって、その量のおかげではない。(ナ)もちろん、彼は1時間では半時間でよりも多くの綿花価値などを糸に移すであろう。(ラ)しかし、それはただ彼が1時間では半時間でよりも多くの綿花を紡ぐからにほかならない。(ム)そこで、諸君にもおわかりであろう、労働者が最後から2番めの1時間で彼の労賃の価値を生産し最後の1時間で純益を生産するという諸君の言い方の意味するものは、彼の労働日のうちの2時間の糸生産物には、その2時間が前にあろうがあとにあろうが、11[1/2]労働時間が、すなわち彼のまる1労働日とちょうど同じだけの時間が具体化されているということ以外のなにものでもないのである。(ウ)そして、労働者は前半の5[3/4]時間では自分の労賃を生産し後半の5[3/4]時間では諸君の純益を生産するという言い方の意味するところもまた、諸君は前半の5[3/4]時間には支払うが後半の5[3/4]時間には支払わないということ以外のなにものでもないのである。(ヒ)私が労働への支払と言い、労働力への支払と言わないのは、諸君にわかる俗語で話すためである。(ノ)そこで、諸君が代価を支払う労働時間と支払わない労働時間との割合を比べてみれば、諸君はそれが半日対半日、つまり100%であるのを見いだすであろう。(オ)とにかく、わるくないパーセンテージである。(ク)また、もし諸君が諸君の「働き手」を11時間半ではなく13時間こき使って、そして、いかにも諸君らしいやり方だと思われるのだが、余分の1時間半をただの剰余労働につけ加えるならば、剰余労働は5[3/4]時間から7[1/4]時間にふえ、したがって剰余価値率は100%から126[2/23]%に上がるだろうということにも少しも疑う余地はないのである。(ヤ)ところが、もし諸君が、1時間半の追加によって剰余価値率が100%から200%に、また200%より高くさえもなるだろう、すなわち「2倍より多くなる」だろう、と期待するとすれば、諸君はあまりにも度はずれな楽天家である。(マ)反対に--人の気持はおかしなものだ、ことに財布に気を取られているときには--、もし諸君が、11時間半から10時間半に労働日を短縮すれば諸君の純益は全部なくなってしまうだろうと心配するとすれば、諸君はあまりにもうろたえた悲観屋である。(ケ)けっしてそうはならない。(フ)他の事情はすべて元のままだと前提すれば、剰余労働は5[3/4]時間から4[3/4]時間に減るであろう。(コ)それでもなおまったく十分な剰余価値率、すなわち82[14/23]% になる。(エ)ところで、あの宿命の「最後の1時間」について、諸君は千年説の信者が世界の没落について語る以上に作り事を言ったのであるが、それは「ただのたわごと」〔“all bosh“〕なのである。(テ)その1時間がなくなったからとて、諸君の「純益」がどうなるものでもなければ、諸君にこき使われている少年少女たちの「魂の純潔」がどうなるものでもないであろう(32a)。〉
(イ)(ロ) ブルジョア諸君の言うところでは、労働者は最後から2番めの1時間で自分の労賃を生産し、最後の1時間で諸君の剰余価値また純益を生産するということです。もちろん労働者は同じ長さの時間では同じ大きさの価値を生産するのですから、最後から2番めの1時間の生産物は、最後の1時間の生産物と同じ価値をもっています。
シーニアの「分析」では労賃がどれだけかは分かりませんでした。しかしその前のパラグラフでマルクスは〈工場主たちの計算では労働者は2/2労働時間、すなわち1時間で労賃を再生産または補塡するということにでもなったなら〉と述べています。つまりシーニアの挙げている数値ではわからないが、仮に労賃が最後から2番目の1時間労働で補塡され、最後の1時間で工場主たちのいう純益(剰余価値)が生産されるとするなら、当然、この2番目であろうが、1番目であろうが、同じ1時間には同じ価値を生産することになる。つまり2/23×115,000=10,000ポンドで同じ価値を持っているというのです。
(ハ)(ニ)(ホ)(ヘ) さらに、労働者が価値を生産するのは、ただ彼が労働を支出するかぎりでのことであって、彼の労働の量は彼の労働時間で計られます。それは、諸君の言うところによれば、1日に11時間半です。この11時間半の一部分を彼は自分の労賃の生産または補塡のために費やし、他の部分を諸君の純益の生産のために費やす。そのほかには彼は1労働日のあいだなにもしないのです。
労働者が1日に11時間半労働するのなら、11時間半分の価値を生産するだけで、その11時間半分の価値のうち、彼の労賃を補塡する部分と資本家たちの純益(剰余価値)を生産するだけで、それ以上には彼はなんの価値も生み出さないわけです。彼はそれ以上の労働をしないのですからそれは当然です。
(ト) ところが、工場主たちの陳述によりますと(先のパラグラフ)、彼の賃金と彼の提供する剰余価値とは同じ大きさの価値なのですから、明らかに彼は自分の労賃を5[3/4]時間(11.5÷2=5.75=5[3/4])で生産し、そして諸君の純益を別の5[3/4]時間で生産するのです。
ということは、彼の賃金と彼の生み出す剰余価値は同じ価値ですから、11時間半の価値がそれぞれ半分ずつに分けられ、一方は労賃を補塡するものであり、他方は剰余価値になるわけです。だから労賃も剰余価値も彼らの計算によれば最後から2番目の1時間と最後の1時間で生産されたことになっていましたが、実際には、それらはどちらも同じ5[3/4]時間で生産された価値になるわけです。
(チ) さらに、2時間分の糸生産物の価値は、労働者の労賃・プラス・諸君の純益という価値額に等しいのですから、この糸の価値は11[1/2]労働時間で計られます。つまり最後から2番めの1時間の生産物は5[3/4]労働時間で計られ、最後の1時間の生産物もやはりおな5[3/4]労働時間で計られていなければなりません。
彼らの計算によると最後の2時間分の糸生産物の価値は、労働者の労賃を補塡し、残りは彼らの純益になるわけですから、それは実際には11時間半分の労働が対象化されたものであることが分かります。つまり2時間の生産物の価値が11時間半の労働時間の対象化されたものだという奇妙なことになってしまうわけです。
(リ)(ヌ)(ル)(ヲ)(ワ) だから私たちは、いま、やっかいな点にきています。そこで、注意! 最後から2番めの1労働時間も、最初のそれと同じに普通の1労働時間である。それより多くも少なくもありません。それでは、どうして紡績工は、5[3/4]労働時間を表わす糸価値を1労働時間で生産することができるのでしょうか?
このように奇妙な結果を解きあかすことが肝心なのです。
まず確認しなければならないのは、最後から2番目の1労働時間であれ、最初の1労働時間であれ、それらは同じ普通の1労働時間であって、まったく同じであり、同じ価値を対象化するということです。それではどうして、労働者の半労働日である5[3/4]労働時間が対象化された糸価値(これは労賃や剰余価値に等しい)が、工場主たちの計算では1時間で生産された糸価値になってしまうのでしょうか?
(カ)(ヨ)(タ)(レ) しかし労働者は実際にはそんな奇跡は行なっていないのです。彼が1労働時間で使用価値として生産するものは、一定量の糸です。この糸の価値は5[3/4]労働時間の対象化されたものです。そのうちの4[3/4]は、毎時間消費される生産手段、つまり綿花や機械類などの価値が生産物の価値として移転されて含まれているものです。そして、残りの1時間分は彼自身によって新たにつけ加えられたものなのです。つまり彼の労賃は実際には5[3/4]時間で生産され、また1紡績時間の糸生産物もやはり5[3/4]労働時間を含んでいるのです。ですから、彼の5[3/4]紡績時間の価値生産物が1紡績時間の生産物価値に等しいということは、けっして魔術でもなんでもないのです。
ここでは2時間の労働生産物として表される生産物の価値が、実際には、1労働日、11時間半の労働が対象化されたものであり、だから11時間半の価値をもっているのはどうしてか、ということが解明されています。ようするに、労働者が労働して新たな価値を生産すると同時にその労働の具体的な有用な属性によって、生産手段の価値を"無償で"生産物に移転させるからです。生産物価値はその移転される生産手段の価値だけ新たに生産される価値生産物よりも大きいわけです。
だから1紡績労働時間の生産物の価値のうちには、1紡績労働時間で付加される新価値だけではなくて、移転された生産手段の旧価値(4[3/4]労働時間)も含んでいるのですから、それは5[3/4]労働時間の対象化された生産物になるわけです。だからここには魔術などはまったく存在しないのです。
(ソ)(ツ)(ネ) ところで、もし工場主たちが、綿花や機械類などの価値の再生産または「補塡」のために労働者が彼の労働日のただの一瞬間でも失うものがあると考えるのでしたら、それはまったく諸君の思い違いです。労働者の労働が綿花や紡錘を糸にすることによって、つまり労働者が紡績労働をすることによって、綿花や紡錘の価値はひとりでに糸に移るのです。これは彼の労働の質のおかげであって、その量のおかげではありません。
工場主たちは〈労働者は1日のうちの最良の時間を建物や機械や綿花や石炭などの価値の生産に、したがってまたそれらの価値の再生産または補塡に浪費してしまう〉などと嘆いたのですが、しかしそもそもこれらの生産手段の価値を生産物の価値として再現し補塡するのに、労働者はただの一瞬たりともそのための労働をすることはないのです。それは労働者が紡績労働をすることによって、つまり1労働日を対象化して新たな価値を付加すると同時に、その労働の具体的な有用的属性によって、生産手段の価値を移転させるのであって、そのためには彼は一瞬たりとも別の労働をするわけではないのです。これは労働の質、つまり紡績労働という具体的な有用な性質のおかげであって、その量、つまり新たな価値を形成するという抽象的な人間労働によるものではないわけです。
『61-63草稿』から引用しておきましょう。
〈労働者が自分自身の労働時間のほかに、それに加えてさらに、彼が加工する原料と彼が使用する機械類とに含まれている労働時間をも同時に労働するという、つまり、原料と機械類とが完成生産物として彼の労働の条件となっている、その同じときにそれらを生産するという、この子供じみていてばかげた観念は、シーニアが工場主たちから授けられた御講義にすっかり支配されてしまって、彼らの実用的な計算方法を思わず知らず改悪した、ということから説明がつく。この方法は、たしかに理論的にもまったく正しいのではあるが、しかしそれは、一方ではシーニアが考察していると称している関係、すなわち労働時間と利得との関係についてはまったくどうでもよいことであり、他方では、労働者が彼の労働諸条件に追加する価値ばかりでなくてこの労働諸条件そのものの価値をも彼は生産するのだ、というばかげた観念を容易に生みだすものなのである。〉 (草稿集④313頁)
(ナ)(ラ)(ム)(ウ) もちろん、労働者は1時間では半時間でよりも多くの綿花価値などを糸に移すでしょう。しかし、それはただ彼が1時間では半時間でよりも多くの綿花を紡ぐからにほかなりません。だから、ブルジョア諸君にも分かるでしょう。労働者が最後から2番めの1時間で彼の労賃の価値を生産し最後の1時間で純益を生産するという君たちの言い分は、彼の労働日のうちの2時間の糸生産物には、その2時間が前にあろうがあとにあろうが、11[1/2]労働時間が、すなわち彼のまる1労働日とちょうど同じだけの時間が具体化されているということ以外の何ものでもないのです。そして、労働者は前半の5[3/4]時間では自分の労賃を生産し後半の5[3/4]時間では諸君の純益を生産するという言い方の意味するところもまた、諸君は前半の5[3/4]時間には支払うが後半の5[3/4]時間には支払わないということ以外のなにものでもないのです。
労働者が1時間では半時間でよりも多くの棉花の価値などを糸に移転させるでしょう。しかしそれはただ彼が1時間では半時間よりも多くの棉花を紡いで糸にするからにほかなりません。
だから労働者が最後の2番目の1時間で自分の労賃の価値を補塡し、最後の1時間で資本家のために純益を生産するという工場主たちの主張は、つまりその2時間が最後であろうが最初であろうが、それは労働者が自分の労賃部分(可変資本部分)を補塡し、剰余価値を生産する時間なのですから、それはまる1労働日の労働時間、つまり11時間半の労働時間が対象化されたものと、その2時間の生産物の価値とが同じだという不合理なことを言っていることになるわけです。
だから実際には、労働者は1労働日の前半の5[3/4]時間で自分の労賃を生産し、後半の5[3/4]時間で君たちの純益、つまり剰余価値を生産するのです。そしてそれは諸君たちは前半の5[3/4]労働時間に対しては労賃として労働者に支払うが、後半の5[3/4]時間に対しては支払わないということをも明らかにしているのです。
(ヒ) 私が労働への支払と言い、労働力への支払と言わないのは、諸君にわかる俗語で話すためです。
ここではマルクスは自分が労働への支払いと述べて、労働力への支払いと言わないのは、ブルジョアたちにも分かるような俗語で話しているからだ、と述べています。これはマルクスが『61-63草稿』で「支払労働」や「不払労働」という言葉をそれまでは使っていたが、それは適切ではなかったと述べていたことを思い出します。次のように述べていました。
〈* 私は、不払労働/支払労働という表現を、すでに剰余価値率の最初の検討のさいに用いたが、それは用いらるべきではない。というのは、この表現は、労働能力への支払いでなくて、労働量への支払いということを前提にしているからである。不払労働は、ブルジョア自身の用語であって、普通でない超過時間をさしているのである。〉 (草稿集⑨339頁)
(ノ)(オ) そこで、ブルジョアの諸君が代価を支払う労働時間と支払わない労働時間との割合を比べてみると、諸君はそれが半日対半日、つまり100%であるのを見いだすでしょう。これはなかなか、わるくないパーセンテージです。
そこで工場主たちが支払う労働時間、つまり労働者に賃金として支払う部分と、支払わない労働時間、つまり君たちが純益として自分の懐に入れる部分との割合を比べてみると、それは1労働日の半分半分です。つまり100%の利益率ということです。あなた方は〈総収益が15%になるものと前提〉して計算していましたが、とんでもないことです。労働者から搾り取る割合は何と100%なのです。だからこれはあなた方にとっては決して悪くない数値ではないでしょうか。
(ク) だからまた、もし君たちが君たちの「働き手」を11時間半ではなく13時間こき使って、そして、いかにも君たちらしいやり方だと思われるのですが、余分の1時間半をただの剰余労働につけ加えるのでしたら、剰余労働は5[3/4]時間から7[1/4]時間にふえます。だから剰余価値率は100%から126[2/23]%に上がるでしょう。これは疑う余地ない事実です。
だからシーニアが想定しているように、もし工場主が労働者に11時間半ではなく、13時間労働を強いたとしたら、労働者は5[3/4]時間の剰余労働時間にさらに1時間半の剰余労働をつけ加えることになり、合計7[1/4]時間の剰余労働になります。
ですから、剰余価値率は100%から、7[1/4]÷5[3/4]×100=126[2/23]%になります。つまり1時間半の追加労働で26%以上の剰余価値率(搾取率)が増えるということです。
(ヤ) ところが、もし諸君が、1時間半の追加によって剰余価値率が100%から200%に、また200%より高くさえもなるだろう、すなわち「2倍より多くなる」だろう、と期待するとすれば、諸君はあまりにも度はずれな楽天家です。
ところがシーニア氏は、1労働日が11時間半ではなくて、13時間になれば〈純益は2倍よりも多くなるであろう〉などと計算しています。つまり剰余価値率が100%ではなくて200%からそれよりも高くなるなど計算しているのです。しかしこれはありにも度はずれな期待であり、とんでもない楽天家としか言いようがありません。
(マ)(ケ)(フ)(コ) 反対に--人の気持はおかしなものです、特に金勘定に気を取られているときにはそうです--、もし君たちが、11時間半から10時間半に労働日を短縮したとすれば君たちの純益は全部なくなってしまうだろうと心配するのは、あまりにもうろたえた悲観屋のやることです。というのは、けっしてそうはならないからです。他の事情はすべて元のままだと前提しますと、1労働日が1時間だけ減るわけですから、剰余労働は5[3/4]時間から4[3/4]時間に減ることになります。しかしそれでも君たちの純益(剰余価値)はゼロではなく4[3/4]時間あるのであり、まったく十分な剰余価値率、すなわち82[14/23]% になるからです。
シーニアは〈もし労働時間が毎日1時間だけ短縮されるならば純益はなくなるであろう〉などと述べていましたが、しかし1労働日が11時間半から10時間半になったとしても、
必要労働時間は変わらないとすれば、確かに剰余労働時間は5[3/4]時間から4[3/4]時間に減りますが、決してゼロにはなりません。つまり君たちのいう純益はゼロではないのです。そして4[3/4]時間の剰余価値になったとしても、剰余価値率は4[3/4]÷5[3/4]×100=4.75÷5.75×100=82[14/23]%です。つまり確かに以前の100%よりは低くはなりますが、まだまだ十分な数値ではないでしょうか。
(エ)(テ) ところで、あの宿命の「最後の一時間」について、君たちは千年説の信者が世界の没落について語る以上の作り話を語ったのですが、それは「ただのたわごと」〔“all bosh“〕としかいいようがありません。その1時間がなくなったからといって、君たちの「純益」がどうなるものでもなければ、君たちにこき使われている少年少女たちの「魂の純潔」がどうかなるものでもないでしょう。
このように君たちが大騒ぎしている「最後の1時間」なるものは、結局、千年説の信者が世界の没落について大騒ぎする以上のものではないということです。それはただのたわごとに過ぎないことが明らかになったのです。その1時間がなくなったからといって、君たちの「純益」はまったくなくならないばかりか、君たちにこき使われている少年少女たちの苦役もどれほど軽減されるというのでしょうか。
新日本新書版では〈千年説〉(新書版では「千年王国説」)に次のような訳者注がついています。
〈近い将来にキリストが再臨し、1000年統治した世界は終末に達するであろうという、キリスト教の神秘的な説〉 (388頁)
最後の〈諸君にこき使われている少年少女たちの「魂の純潔」がどうなるものでもないであろう〉という一文には注32aが付いています。そこには次のような一文があります。
〈シーニアが、「最後の1労働時間」には工場主たちの純益、イギリス綿業の存立、世界市場でのイギリスの偉大さがかかっているということを証明したとき、もう一つおまけとして、ドクター・アンドルー・ユアは、工場の児童や18歳未満の少年が暖かく澄んでいる作業室の道徳的空気のなかにまる12時間閉じ込めておかれないで、「1時間」早く冷たく濁った外界に追い出されると、怠惰や悪習のために彼らの魂の救いを奪われるということを証明した。〉
つまりユアが「最後の1時間」が短縮されることによって少年少女の〈魂の救いを奪われる〉などと述べていることに対して皮肉を込めて、〈諸君にこき使われている少年少女たちの「魂の純潔」がどうなるものでもないであろう〉と述べていることが分かります。
ところで、先にシーニアの主張を要領よく纏めている深澤氏は、マルクスのシーニア批判も同じように要領よく纏めていますので、それもついでに紹介しておきましょう。
〈① .機械設備、工場建築物、原料、および労働を、一緒にせず、機械設備、工場建築物、原料などに含まれている不変資本と、労賃に前貸しされた資本(労働力という可変資本でこれが価値を創出する)、この二つを峻別すべきである。
この二つを峻別する形で、シーニアの【解説1】①の例をマルクスに従って把握すると、 11.5w=9.5c+1v+1m
このようになる。(工場の建物・機械設備分として8、原料分として1、工場・機械設備の摩滅補塡にあてられる分として0.5。これらが不変資本9.5cを形成。これを用いて生産的労働が行なわれる。行なわれる労働は労賃分1部分〔可変資本1vを形成する分〕を生み出しながら、さらにそれ以上に、工場主の得る純利得1m部分をも生産する。しかし、そこでは以下の観点と考察が重要である。)
② .労働者が労働力を支出する限り価値を生産するのであるから、シーニアのように労働時間を区分するのでなくて、次のように労働の等質性という観点で捉えていくべきである。
労働者の行なう労働は、最後の1時間の労働でも、最後から二番目の1時間の労働でも、最初の1時間の労働でも、すべて同じ等質な1時間の労働である。それ以上でも、それ以下でもない。各々の1時間の労働生産物の中には、その1時間が初めにあろうと終わりにあろうと、11.5の労働時間つまり全労働時間と同じ質の労働時間が体化されている。
③ .11.5w=9.5c+1v+1m からすれば、剰余価値率(v :m)は1:1(すなわち100%)であるから、労働者は11.5時間という全労働時間の半分、すなわち5.75時間の労働で、自身の労賃分を生産しながら、残りの5.75時間の労働で純利得を生産しているのである。
労働日が11.5時間から10.5時間に短縮することによって、純利得の全部が消失するということはない。剰余労働は5.75時間から4.75時間に減少するとしても、剰余価値率は4.75/5.75で、およそ82.6%であって、今までどおり相当高い。
④ .よってシーニアの言う「最後の1時間」なるものは、作り話で全くのたわごとである。それが失われるからといって、工場主の得る純利得が犠牲となることはない。〉 (同上、107-108頁)
((5)に続きます。)