『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.33(通算第83回)(4)

2023-02-28 23:40:02 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.33(通算第83回)(4)



◎第3パラグラフ(シーニアの「分析」は分析に値しない)

【3】〈(イ)そして、教授はこれを「分析」と呼ぶのだ! (ロ)もし彼が、労働者は1日のうちの最良の時間を建物や機械や綿花や石炭などの価値の生産に、したがってまたそれらの価値の再生産または補塡に浪費してしまう、という工場主たちの嘆きを信じたのであれば、およそ分析はよけいだったのである。(ハ)彼はただ単にこう答えれぽよかったのである。(ニ)諸君! もし諸君が11時間半ではなくて10時間作業させるとすれば、ほかの事情が変わらないかぎり、綿花や機械などの毎日の消費は1時間半分だげ減るであろう。(ホ)だから、諸君は諸君が失うのとちょうど同じだけを得るのである。(ヘ)諸君の労働者たちは、将来は、前貸資本価値の再生産また補塡のために1時間半少なく浪費するであろう、と。(ト)もしまた、シーニアが工場主たちの言うことをそのまま信じないで、専門家として分析が必要だと考えたのならば、なによりもまず、彼は、ただ労働日の長さにたいする純益の比率だけの問題では、工場主諸君にお願いして、機械類や工場建物や原料と労働とをごちゃまぜにしないで、一方の側には工場建物や機械類や原料などに含まれている不変資本を置き、他方の側には労賃として前貸しされる資本を置くようにしてもらうべきだったのである。(チ)そこで、次に、工場主たちの計算では労働者は2/2労働時間、すなわち1時間で労賃を再生産または補塡するということにでもなったなら、分析家は次のように続けるべきだったのである。〉

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ)(ヘ) そして、教授はこれを「分析」と呼ぶのです! もし彼が、労働者は1日のうちの最良の時間を建物や機械や綿花や石炭などの価値の生産に、したがってまたそれらの価値の再生産または補塡に浪費してしまう、という工場主たちの嘆きを信じたのであれば、およそ分析はよけいだったのです。彼はただ単にこう答えれぽよかったのです。諸君! もし諸君が11時間半ではなくて10時間作業させるとすれば、ほかの事情が変わらないかぎり、綿花や機械などの毎日の消費は1時間半分だげ減るでしょう。だから、諸君は諸君が失うのとちょうど同じだけを得るのです。諸君の労働者たちは、将来は、前貸資本価値の再生産また補塡のために1時間半少なく浪費するでしょう、と。

  マルクスはシーニアの「分析」なるものは分析に値しないと言いたいようです。マンチェスターの工場主たちの言い分をそのまま受け売りしただけのものだからです。
  工場主たちは労働者が1日のうち最良の時間(シーニアの数値では10時間)を建物や機械や綿花や石炭などの価値の生産に、だから彼らが最初に投じた資本の補塡に費やしてしまうという嘆きをそのまま信じているなら、最初から分析など必要なかった。つまり現象を現象のままに叙述するだけなら、科学的な分析など必要ないのだということです。
  マルクスは1867年6月27日付けのエンゲルスへの手紙で〈もしも〔俗流経済学者の頭脳に--引用者〕内的な関連が反射するとすれば、いったいなんのために科学というものは必要なのだろうか〉(全集第31巻260頁)と述べています。
  現象をただ現象のままにいうだけなら、彼は次のように言えばよかった。つまり労働者がその労働日で生産物価値をすべて生産すると考えるなら(現象としてはそのように見える)、労働者の労働時間を減らせば、それだけ生産に必要な彼らの投資も減るのだから、彼らは失うものを他方で得ることになるでしょう。そしてその結果、労働者は前貸資本価値が減った分だけその再生産または補塡のために1時間半だけ少なく浪費(彼らは資本価値を補塡する労働を浪費と考えるわけですから)するでしょう、と。

   (余談。以前、林 紘義氏はマルクスの再生産表式において、部門Ⅰと部門IIの総生産物が9000であれば、労働者はその9000の商品の使用価値とともに価値をも生産したのだから、支出された労働は3000ではなく、9000でなければならない、などと主張していました。これはブルジョア達とまったく同じようにただ現象を現象のままに受け止めているだけのものでしかなかったことが、ここでのマルクスの論述からも分ります。林氏は、マルクスの「具体的有用労働による生産手段の価値の移転」論を誤りとしたので、彼には生産物価値と価値生産物との区別ができなくなってしまったのです。内在的な関係を無視するなら、俗流経済学者と同様に、ただ表象に写るものを書き写すしかないわけです。こんな混乱した代物を後生大事に「画期的な大発見」であるかに持ち上げている人たちを私たちは何と評すべきでしょうか。一刻も早く目を覚ますことをただ願うばかりです。)

  (ト)(チ) もしまた、シーニアが工場主たちの言うことをそのまま信じないで、専門家として分析が必要だと考えたのでしたら、なによりもまず、彼は、ただ労働日の長さにたいする純益の比率だけの問題では、工場主諸君にお願いして、機械類や工場建物や原料と労働とをごちゃまぜにしないで、一方の側には工場建物や機械類や原料などに含まれている不変資本を置き、他方の側には労賃として前貸しされる資本を置くようにしてもらうべきだったのです。そこで、次に、工場主たちの計算では労働者は2/2労働時間、すなわち1時間で労賃を再生産または補塡するということにでもなったなら、分析家は次のように続けるべきだったのです。

  ここではもしシーニアが工場主たちのいいなりにならずに、科学的に分析をしようとするなら、原料と労賃を流動資本として一括りにせずに、工場建物や機械類や原料を不変資本として一方におき、他方に、労賃を可変資本として区別しておいて、前貸資本を考えるべきだということが述べられています。
  そのうえで、工場主たちの計算で労働者が二つの半労働時間で、すなわち1労度時間で労賃を再生産または補塡するということにでもなったなら、分析家は次のように続けるべきだと述べて、次のパラグラフに続けています。


◎第4パラグラフ(シーニアの「最後の1時間」のカラクリ、労働者の5[3/4]紡績時間の価値生産物が1紡績時間の生産物価値に等しいということは、けっして魔術でもなんでもない)

【4】〈(イ)諸君の言うところでは、労働者は最後から2番めの1時間で自分の労賃を生産し、最後の1時間で諸君の剰余価値また純益を生産する。(ロ)彼は同じ長さの時間では同じ大きさの価値を生産するのだから、最後から2番めの1時間の生産物は、最後の1時間の生産物と同じ価値をもっている。(ハ)さらに、彼が価値を生産するのは、ただ彼が労働を支出するかぎりでのことであって、彼の労働の量は彼の労働時間で計られる。(ニ)それは、諸君の言うところによれば、1日に11時間半である。(ホ)この11時間半の一部分を彼は自分の労賃の生産または補塡のために費やし、他の部分を諸君の純益の生産のために費やす。(ヘ)そのほかには彼は1労働日のあいだなにもしない。(ト)ところが、陳述によれば、彼の賃金と彼の提供する剰余価値とは同じ大きさの価値なのだから、明らかに彼は自分の労賃を5[3/4]時間で生産し、そして諸君の純益を別の5[3/4]時間で生産するのである。(チ)さらに、2時間分の糸生産物の価値は、彼の労賃・プラス・諸君の純益という価値額に等しいのだから、この糸価値は11[1/2]労働時間で計られ、最後から2番めの1時間の生産物は5[3/4]労働時間で計られ、最後の1時間の生産物もやはりそれで計られていなければならない。(リ)われわれは、いま、やっかいな点にきている。(ヌ)そこで、注意せよ! (ル)最後から2番めの1労働時間も、最初のそれと同じに普通の1労働時間である。(ヲ)それより多くも少なくもない。(ワ)それでは、どうして紡績工は、5[3/4]労働時間を表わす糸価値を1労働時間で生産することができるのか? (カ)彼はじつはそんな奇跡は行なわないのである。(ヨ)彼が1労働時間で使用価値として生産するものは、一定量の糸である。(タ)この糸の価値は5[3/4]労働時間によって計られ、そのうち4[3/4]は、毎時間消費される生産手段すなわち綿花や機械類などのうちに彼の助力なしに含まれており、1/1すなわち1時間は彼自身によってつけ加えられている。(レ)つまり彼の労賃は5[3/4]時間で生産され、また1紡績時間の糸生産物もやはり5[3/4]労働時間を含んでいるのだから、彼の5[3/4]紡績時間の価値生産物が1紡績時間の生産物価値に等しいということは、けっして魔術でもなんでもないのである。(ソ)ところで、もし諸君が、綿花や機械類などの価値の再生産または「補塡」のために労働者が彼の労働日のただの一瞬間でも失うものと考えるならば、それはまったく諸君の思い違いである。(ツ)彼の労働が綿花や紡錘を糸にすることによって、つまり彼が紡績することによって、綿花や紡錘の価値はひとりでに糸に移るのである。(ネ)これは彼の労働の質のおかげであって、その量のおかげではない。(ナ)もちろん、彼は1時間では半時間でよりも多くの綿花価値などを糸に移すであろう。(ラ)しかし、それはただ彼が1時間では半時間でよりも多くの綿花を紡ぐからにほかならない。(ム)そこで、諸君にもおわかりであろう、労働者が最後から2番めの1時間で彼の労賃の価値を生産し最後の1時間で純益を生産するという諸君の言い方の意味するものは、彼の労働日のうちの2時間の糸生産物には、その2時間が前にあろうがあとにあろうが、11[1/2]労働時間が、すなわち彼のまる1労働日とちょうど同じだけの時間が具体化されているということ以外のなにものでもないのである。(ウ)そして、労働者は前半の5[3/4]時間では自分の労賃を生産し後半の5[3/4]時間では諸君の純益を生産するという言い方の意味するところもまた、諸君は前半の5[3/4]時間には支払うが後半の5[3/4]時間には支払わないということ以外のなにものでもないのである。(ヒ)私が労働への支払と言い、労働力への支払と言わないのは、諸君にわかる俗語で話すためである。(ノ)そこで、諸君が代価を支払う労働時間と支払わない労働時間との割合を比べてみれば、諸君はそれが半日対半日、つまり100%であるのを見いだすであろう。(オ)とにかく、わるくないパーセンテージである。(ク)また、もし諸君が諸君の「働き手」を11時間半ではなく13時間こき使って、そして、いかにも諸君らしいやり方だと思われるのだが、余分の1時間半をただの剰余労働につけ加えるならば、剰余労働は5[3/4]時間から7[1/4]時間にふえ、したがって剰余価値率は100%から126[2/23]%に上がるだろうということにも少しも疑う余地はないのである。(ヤ)ところが、もし諸君が、1時間半の追加によって剰余価値率が100%から200%に、また200%より高くさえもなるだろう、すなわち「2倍より多くなる」だろう、と期待するとすれば、諸君はあまりにも度はずれな楽天家である。(マ)反対に--人の気持はおかしなものだ、ことに財布に気を取られているときには--、もし諸君が、11時間半から10時間半に労働日を短縮すれば諸君の純益は全部なくなってしまうだろうと心配するとすれば、諸君はあまりにもうろたえた悲観屋である。(ケ)けっしてそうはならない。(フ)他の事情はすべて元のままだと前提すれば、剰余労働は5[3/4]時間から4[3/4]時間に減るであろう。(コ)それでもなおまったく十分な剰余価値率、すなわち82[14/23]% になる。(エ)ところで、あの宿命の「最後の1時間」について、諸君は千年説の信者が世界の没落について語る以上に作り事を言ったのであるが、それは「ただのたわごと」〔“all bosh“〕なのである。(テ)その1時間がなくなったからとて、諸君の「純益」がどうなるものでもなければ、諸君にこき使われている少年少女たちの「魂の純潔」がどうなるものでもないであろう(32a)。〉

  (イ)(ロ) ブルジョア諸君の言うところでは、労働者は最後から2番めの1時間で自分の労賃を生産し、最後の1時間で諸君の剰余価値また純益を生産するということです。もちろん労働者は同じ長さの時間では同じ大きさの価値を生産するのですから、最後から2番めの1時間の生産物は、最後の1時間の生産物と同じ価値をもっています。

  シーニアの「分析」では労賃がどれだけかは分かりませんでした。しかしその前のパラグラフでマルクスは〈工場主たちの計算では労働者は2/2労働時間、すなわち1時間で労賃を再生産または補塡するということにでもなったなら〉と述べています。つまりシーニアの挙げている数値ではわからないが、仮に労賃が最後から2番目の1時間労働で補塡され、最後の1時間で工場主たちのいう純益(剰余価値)が生産されるとするなら、当然、この2番目であろうが、1番目であろうが、同じ1時間には同じ価値を生産することになる。つまり2/23×115,000=10,000ポンドで同じ価値を持っているというのです。

  (ハ)(ニ)(ホ)(ヘ) さらに、労働者が価値を生産するのは、ただ彼が労働を支出するかぎりでのことであって、彼の労働の量は彼の労働時間で計られます。それは、諸君の言うところによれば、1日に11時間半です。この11時間半の一部分を彼は自分の労賃の生産または補塡のために費やし、他の部分を諸君の純益の生産のために費やす。そのほかには彼は1労働日のあいだなにもしないのです。

  労働者が1日に11時間半労働するのなら、11時間半分の価値を生産するだけで、その11時間半分の価値のうち、彼の労賃を補塡する部分と資本家たちの純益(剰余価値)を生産するだけで、それ以上には彼はなんの価値も生み出さないわけです。彼はそれ以上の労働をしないのですからそれは当然です。

  (ト) ところが、工場主たちの陳述によりますと(先のパラグラフ)、彼の賃金と彼の提供する剰余価値とは同じ大きさの価値なのですから、明らかに彼は自分の労賃を5[3/4]時間(11.5÷2=5.75=5[3/4])で生産し、そして諸君の純益を別の5[3/4]時間で生産するのです。

  ということは、彼の賃金と彼の生み出す剰余価値は同じ価値ですから、11時間半の価値がそれぞれ半分ずつに分けられ、一方は労賃を補塡するものであり、他方は剰余価値になるわけです。だから労賃も剰余価値も彼らの計算によれば最後から2番目の1時間と最後の1時間で生産されたことになっていましたが、実際には、それらはどちらも同じ5[3/4]時間で生産された価値になるわけです。

  (チ) さらに、2時間分の糸生産物の価値は、労働者の労賃・プラス・諸君の純益という価値額に等しいのですから、この糸の価値は11[1/2]労働時間で計られます。つまり最後から2番めの1時間の生産物は5[3/4]労働時間で計られ、最後の1時間の生産物もやはりおな5[3/4]労働時間で計られていなければなりません。

  彼らの計算によると最後の2時間分の糸生産物の価値は、労働者の労賃を補塡し、残りは彼らの純益になるわけですから、それは実際には11時間半分の労働が対象化されたものであることが分かります。つまり2時間の生産物の価値が11時間半の労働時間の対象化されたものだという奇妙なことになってしまうわけです。

    (リ)(ヌ)(ル)(ヲ)(ワ) だから私たちは、いま、やっかいな点にきています。そこで、注意! 最後から2番めの1労働時間も、最初のそれと同じに普通の1労働時間である。それより多くも少なくもありません。それでは、どうして紡績工は、5[3/4]労働時間を表わす糸価値を1労働時間で生産することができるのでしょうか?

  このように奇妙な結果を解きあかすことが肝心なのです。
  まず確認しなければならないのは、最後から2番目の1労働時間であれ、最初の1労働時間であれ、それらは同じ普通の1労働時間であって、まったく同じであり、同じ価値を対象化するということです。それではどうして、労働者の半労働日である5[3/4]労働時間が対象化された糸価値(これは労賃や剰余価値に等しい)が、工場主たちの計算では1時間で生産された糸価値になってしまうのでしょうか?

  (カ)(ヨ)(タ)(レ) しかし労働者は実際にはそんな奇跡は行なっていないのです。彼が1労働時間で使用価値として生産するものは、一定量の糸です。この糸の価値は5[3/4]労働時間の対象化されたものです。そのうちの4[3/4]は、毎時間消費される生産手段、つまり綿花や機械類などの価値が生産物の価値として移転されて含まれているものです。そして、残りの1時間分は彼自身によって新たにつけ加えられたものなのです。つまり彼の労賃は実際には5[3/4]時間で生産され、また1紡績時間の糸生産物もやはり5[3/4]労働時間を含んでいるのです。ですから、彼の5[3/4]紡績時間の価値生産物が1紡績時間の生産物価値に等しいということは、けっして魔術でもなんでもないのです。

  ここでは2時間の労働生産物として表される生産物の価値が、実際には、1労働日、11時間半の労働が対象化されたものであり、だから11時間半の価値をもっているのはどうしてか、ということが解明されています。ようするに、労働者が労働して新たな価値を生産すると同時にその労働の具体的な有用な属性によって、生産手段の価値を"無償で"生産物に移転させるからです。生産物価値はその移転される生産手段の価値だけ新たに生産される価値生産物よりも大きいわけです。
  だから1紡績労働時間の生産物の価値のうちには、1紡績労働時間で付加される新価値だけではなくて、移転された生産手段の旧価値(4[3/4]労働時間)も含んでいるのですから、それは5[3/4]労働時間の対象化された生産物になるわけです。だからここには魔術などはまったく存在しないのです。

  (ソ)(ツ)(ネ) ところで、もし工場主たちが、綿花や機械類などの価値の再生産または「補塡」のために労働者が彼の労働日のただの一瞬間でも失うものがあると考えるのでしたら、それはまったく諸君の思い違いです。労働者の労働が綿花や紡錘を糸にすることによって、つまり労働者が紡績労働をすることによって、綿花や紡錘の価値はひとりでに糸に移るのです。これは彼の労働の質のおかげであって、その量のおかげではありません。

 工場主たちは〈労働者は1日のうちの最良の時間を建物や機械や綿花や石炭などの価値の生産に、したがってまたそれらの価値の再生産または補塡に浪費してしまう〉などと嘆いたのですが、しかしそもそもこれらの生産手段の価値を生産物の価値として再現し補塡するのに、労働者はただの一瞬たりともそのための労働をすることはないのです。それは労働者が紡績労働をすることによって、つまり1労働日を対象化して新たな価値を付加すると同時に、その労働の具体的な有用的属性によって、生産手段の価値を移転させるのであって、そのためには彼は一瞬たりとも別の労働をするわけではないのです。これは労働の質、つまり紡績労働という具体的な有用な性質のおかげであって、その量、つまり新たな価値を形成するという抽象的な人間労働によるものではないわけです。

  『61-63草稿』から引用しておきましょう。

  〈労働者が自分自身の労働時間のほかに、それに加えてさらに、彼が加工する原料と彼が使用する機械類とに含まれている労働時間をも同時に労働するという、つまり、原料と機械類とが完成生産物として彼の労働の条件となっている、その同じときにそれらを生産するという、この子供じみていてばかげた観念は、シーニアが工場主たちから授けられた御講義にすっかり支配されてしまって、彼らの実用的な計算方法を思わず知らず改悪した、ということから説明がつく。この方法は、たしかに理論的にもまったく正しいのではあるが、しかしそれは、一方ではシーニアが考察していると称している関係、すなわち労働時間と利得との関係についてはまったくどうでもよいことであり、他方では、労働者が彼の労働諸条件に追加する価値ばかりでなくてこの労働諸条件そのものの価値をも彼は生産するのだ、というばかげた観念を容易に生みだすものなのである。〉 (草稿集④313頁)


  (ナ)(ラ)(ム)(ウ) もちろん、労働者は1時間では半時間でよりも多くの綿花価値などを糸に移すでしょう。しかし、それはただ彼が1時間では半時間でよりも多くの綿花を紡ぐからにほかなりません。だから、ブルジョア諸君にも分かるでしょう。労働者が最後から2番めの1時間で彼の労賃の価値を生産し最後の1時間で純益を生産するという君たちの言い分は、彼の労働日のうちの2時間の糸生産物には、その2時間が前にあろうがあとにあろうが、11[1/2]労働時間が、すなわち彼のまる1労働日とちょうど同じだけの時間が具体化されているということ以外の何ものでもないのです。そして、労働者は前半の5[3/4]時間では自分の労賃を生産し後半の5[3/4]時間では諸君の純益を生産するという言い方の意味するところもまた、諸君は前半の5[3/4]時間には支払うが後半の5[3/4]時間には支払わないということ以外のなにものでもないのです。

  労働者が1時間では半時間でよりも多くの棉花の価値などを糸に移転させるでしょう。しかしそれはただ彼が1時間では半時間よりも多くの棉花を紡いで糸にするからにほかなりません。
  だから労働者が最後の2番目の1時間で自分の労賃の価値を補塡し、最後の1時間で資本家のために純益を生産するという工場主たちの主張は、つまりその2時間が最後であろうが最初であろうが、それは労働者が自分の労賃部分(可変資本部分)を補塡し、剰余価値を生産する時間なのですから、それはまる1労働日の労働時間、つまり11時間半の労働時間が対象化されたものと、その2時間の生産物の価値とが同じだという不合理なことを言っていることになるわけです。
  だから実際には、労働者は1労働日の前半の5[3/4]時間で自分の労賃を生産し、後半の5[3/4]時間で君たちの純益、つまり剰余価値を生産するのです。そしてそれは諸君たちは前半の5[3/4]労働時間に対しては労賃として労働者に支払うが、後半の5[3/4]時間に対しては支払わないということをも明らかにしているのです。

  (ヒ) 私が労働への支払と言い、労働力への支払と言わないのは、諸君にわかる俗語で話すためです。

  ここではマルクスは自分が労働への支払いと述べて、労働力への支払いと言わないのは、ブルジョアたちにも分かるような俗語で話しているからだ、と述べています。これはマルクスが『61-63草稿』で「支払労働」や「不払労働」という言葉をそれまでは使っていたが、それは適切ではなかったと述べていたことを思い出します。次のように述べていました。

  〈* 私は、不払労働/支払労働という表現を、すでに剰余価値率の最初の検討のさいに用いたが、それは用いらるべきではない。というのは、この表現は、労働能力への支払いでなくて、労働量への支払いということを前提にしているからである。不払労働は、ブルジョア自身の用語であって、普通でない超過時間をさしているのである。〉 (草稿集⑨339頁)

  (ノ)(オ) そこで、ブルジョアの諸君が代価を支払う労働時間と支払わない労働時間との割合を比べてみると、諸君はそれが半日対半日、つまり100%であるのを見いだすでしょう。これはなかなか、わるくないパーセンテージです。

  そこで工場主たちが支払う労働時間、つまり労働者に賃金として支払う部分と、支払わない労働時間、つまり君たちが純益として自分の懐に入れる部分との割合を比べてみると、それは1労働日の半分半分です。つまり100%の利益率ということです。あなた方は〈総収益が15%になるものと前提〉して計算していましたが、とんでもないことです。労働者から搾り取る割合は何と100%なのです。だからこれはあなた方にとっては決して悪くない数値ではないでしょうか。

  (ク) だからまた、もし君たちが君たちの「働き手」を11時間半ではなく13時間こき使って、そして、いかにも君たちらしいやり方だと思われるのですが、余分の1時間半をただの剰余労働につけ加えるのでしたら、剰余労働は5[3/4]時間から7[1/4]時間にふえます。だから剰余価値率は100%から126[2/23]%に上がるでしょう。これは疑う余地ない事実です。

  だからシーニアが想定しているように、もし工場主が労働者に11時間半ではなく、13時間労働を強いたとしたら、労働者は5[3/4]時間の剰余労働時間にさらに1時間半の剰余労働をつけ加えることになり、合計7[1/4]時間の剰余労働になります。
  ですから、剰余価値率は100%から、7[1/4]÷5[3/4]×100=126[2/23]%になります。つまり1時間半の追加労働で26%以上の剰余価値率(搾取率)が増えるということです。

  (ヤ) ところが、もし諸君が、1時間半の追加によって剰余価値率が100%から200%に、また200%より高くさえもなるだろう、すなわち「2倍より多くなる」だろう、と期待するとすれば、諸君はあまりにも度はずれな楽天家です。

  ところがシーニア氏は、1労働日が11時間半ではなくて、13時間になれば〈純益は2倍よりも多くなるであろう〉などと計算しています。つまり剰余価値率が100%ではなくて200%からそれよりも高くなるなど計算しているのです。しかしこれはありにも度はずれな期待であり、とんでもない楽天家としか言いようがありません。

  (マ)(ケ)(フ)(コ) 反対に--人の気持はおかしなものです、特に金勘定に気を取られているときにはそうです--、もし君たちが、11時間半から10時間半に労働日を短縮したとすれば君たちの純益は全部なくなってしまうだろうと心配するのは、あまりにもうろたえた悲観屋のやることです。というのは、けっしてそうはならないからです。他の事情はすべて元のままだと前提しますと、1労働日が1時間だけ減るわけですから、剰余労働は5[3/4]時間から4[3/4]時間に減ることになります。しかしそれでも君たちの純益(剰余価値)はゼロではなく4[3/4]時間あるのであり、まったく十分な剰余価値率、すなわち82[14/23]% になるからです。

  シーニアは〈もし労働時間が毎日1時間だけ短縮されるならば純益はなくなるであろう〉などと述べていましたが、しかし1労働日が11時間半から10時間半になったとしても、
必要労働時間は変わらないとすれば、確かに剰余労働時間は5[3/4]時間から4[3/4]時間に減りますが、決してゼロにはなりません。つまり君たちのいう純益はゼロではないのです。そして4[3/4]時間の剰余価値になったとしても、剰余価値率は4[3/4]÷5[3/4]×100=4.75÷5.75×100=82[14/23]%です。つまり確かに以前の100%よりは低くはなりますが、まだまだ十分な数値ではないでしょうか。

  (エ)(テ) ところで、あの宿命の「最後の一時間」について、君たちは千年説の信者が世界の没落について語る以上の作り話を語ったのですが、それは「ただのたわごと」〔“all bosh“〕としかいいようがありません。その1時間がなくなったからといって、君たちの「純益」がどうなるものでもなければ、君たちにこき使われている少年少女たちの「魂の純潔」がどうかなるものでもないでしょう。

  このように君たちが大騒ぎしている「最後の1時間」なるものは、結局、千年説の信者が世界の没落について大騒ぎする以上のものではないということです。それはただのたわごとに過ぎないことが明らかになったのです。その1時間がなくなったからといって、君たちの「純益」はまったくなくならないばかりか、君たちにこき使われている少年少女たちの苦役もどれほど軽減されるというのでしょうか。
  新日本新書版では〈千年説〉(新書版では「千年王国説」)に次のような訳者注がついています。

  〈近い将来にキリストが再臨し、1000年統治した世界は終末に達するであろうという、キリスト教の神秘的な説〉 (388頁)

  最後の〈諸君にこき使われている少年少女たちの「魂の純潔」がどうなるものでもないであろう〉という一文には注32aが付いています。そこには次のような一文があります。

  〈シーニアが、「最後の1労働時間」には工場主たちの純益、イギリス綿業の存立、世界市場でのイギリスの偉大さがかかっているということを証明したとき、もう一つおまけとして、ドクター・アンドルー・ユアは、工場の児童や18歳未満の少年が暖かく澄んでいる作業室の道徳的空気のなかにまる12時間閉じ込めておかれないで、「1時間」早く冷たく濁った外界に追い出されると、怠惰や悪習のために彼らの魂の救いを奪われるということを証明した。〉

  つまりユアが「最後の1時間」が短縮されることによって少年少女の〈魂の救いを奪われる〉などと述べていることに対して皮肉を込めて、〈諸君にこき使われている少年少女たちの「魂の純潔」がどうなるものでもないであろう〉と述べていることが分かります。

  ところで、先にシーニアの主張を要領よく纏めている深澤氏は、マルクスのシーニア批判も同じように要領よく纏めていますので、それもついでに紹介しておきましょう。

  〈① .機械設備、工場建築物、原料、および労働を、一緒にせず、機械設備、工場建築物、原料などに含まれている不変資本と、労賃に前貸しされた資本(労働力という可変資本でこれが価値を創出する)、この二つを峻別すべきである。
 この二つを峻別する形で、シーニアの【解説1】①の例をマルクスに従って把握すると、  11.5w=9.5c+1v+1m
このようになる。(工場の建物・機械設備分として8、原料分として1、工場・機械設備の摩滅補塡にあてられる分として0.5。これらが不変資本9.5cを形成。これを用いて生産的労働が行なわれる。行なわれる労働は労賃分1部分〔可変資本1vを形成する分〕を生み出しながら、さらにそれ以上に、工場主の得る純利得1m部分をも生産する。しかし、そこでは以下の観点と考察が重要である。)
② .労働者が労働力を支出する限り価値を生産するのであるから、シーニアのように労働時間を区分するのでなくて、次のように労働の等質性という観点で捉えていくべきである。
 労働者の行なう労働は、最後の1時間の労働でも、最後から二番目の1時間の労働でも、最初の1時間の労働でも、すべて同じ等質な1時間の労働である。それ以上でも、それ以下でもない。各々の1時間の労働生産物の中には、その1時間が初めにあろうと終わりにあろうと、11.5の労働時間つまり全労働時間と同じ質の労働時間が体化されている。
③ .11.5w=9.5c+1v+1m からすれば、剰余価値率(v :m)は1:1(すなわち100%)であるから、労働者は11.5時間という全労働時間の半分、すなわち5.75時間の労働で、自身の労賃分を生産しながら、残りの5.75時間の労働で純利得を生産しているのである。
 労働日が11.5時間から10.5時間に短縮することによって、純利得の全部が消失するということはない。剰余労働は5.75時間から4.75時間に減少するとしても、剰余価値率は4.75/5.75で、およそ82.6%であって、今までどおり相当高い。
④ .よってシーニアの言う「最後の1時間」なるものは、作り話で全くのたわごとである。それが失われるからといって、工場主の得る純利得が犠牲となることはない。〉 (同上、107-108頁)

  ((5)に続きます。)

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『資本論』学習資料No.33(通算第83回)(5)

2023-02-28 23:08:13 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.33(通算第83回)(5)


◎注32a

【注32a】〈32a (イ)シーニアが、「最後の1労働時間」には工場主たちの純益、イギリス綿業の存立、世界市場でのイギリスの偉大さがかかっているということを証明したとき、もう一つおまけとして、ドクター・アンドルー・ユアは、工場の児童や18歳未満の少年が暖かく澄んでいる作業室の道徳的空気のなかにまる12時間閉じ込めておかれないで、「1時間」早く冷たく濁った外界に追い出されると、怠惰や悪習のために彼らの魂の救いを奪われるということを証明した。(ロ)1848年以来、工場監督官たちは、飽きもせずに、彼らの半年ごとの「報告書」のなかで、工場主たちを「最後の」、「宿命の1時間」でからかっている。(ハ)たとえば、ハウエル氏は1855年5月31日の彼の工場報告書のなかで次のように言っている。(ニ)「もし次のような抜け目のない計算」(彼はシーニアを引用する)「が正しいとすれば、イギリス王国のなかの綿工場はみな1850年以来欠損続きで営業していることになるであろう。」(『工場監督官報告書。1855年4月30日に至る半年間にわたる』、19、20ぺージ。) (ホ)1848年に10時間法案が議会を通過したとき、工場主たちは、ドーセット州とサマセット州とのあいだに散在する田舎の亜麻紡績工場の何人かの正規労働者に反対請願を強要したのであるが、そのなかにはとりわけ次のように言われている。(ヘ)「われわれ請願者は、人の子の親として、追加される余暇の1時間はわれわれの子供の堕落以外にはなんの成果ももちえないということを確信する。というのは、安逸は悪徳の始まりだからである。」(ト)これについて、1848年10月31日の工場報告書は次のように述べている。(チ)「この道徳家で情け深い親たちの子供が働いている亜麻紡績工場の空気は、無数の塵埃や繊維の粉でいっぱいで、わずか10分間を紡績室で過ごすのでさえも非常に不愉快である。じっさい、避けようのない亜麻のほこりが目にも耳にも鼻にも口にもすぐにいっぱいになるので、諸君はひどい苦痛なしにはそこにいられないであろう。労働そのものは、機械類の恐ろしい忙しさのために、疲れることのない注意力の制御のもとで、絶えず熟練と運動とを用いることを要求する。そして、食事時間を除いてまる10時間このような空気のなかでこのような仕事に縛りつけられている自分たちの子供にたいして『怠惰』という言葉を向けるようなことを、その親たちにさせるのは、少しひどいように思われる。……この子供たちは、近村の農僕よりも長い時間労働する。……『怠惰と悪徳』についてのこのような非情な文句は、まったくただ空念仏(カラネンブツ)として、最も無恥な偽善として、烙(ラク)印を押されなければならない。……およそ12年以前に、工場主の全『純益』は『最後の1時間』の労働から流出するのだから、労働日の1時間の短縮は純益をなくしてしまうということが、高い権威の是認のもとに、公然と大まじめに確信をもって宣言されたとき、この確信にたいして一部の公衆は憤慨した。いま、この公衆は、『最後の1時間』の徳についての最初の発見がその後大いに改良されて、『道徳』と『利潤』とを一様に含むものとなり、したがって、児童労働の長さがまる10時間に短縮されるならば、児童の道徳も児童使用者の純益も、両方ともこの最後の、この宿命の1時間にかかるものとして、いっしょに消えてしまうということを見いだすとき、おそらく、彼らは自分の目を信じないであろう。」(『工場監督官報告書。1848年10月31日』、101ページ。)(リ)同じ工場報告書は、次に、これらの工場主諸氏の「道徳」や「徳性」の見本をあげている。(ヌ)すなわち、わずかばかりのまったくよるべのない労働者たちにこのような請願に署名させて、次にはそれを一産業部門全体の、諸州の全体の請願として議会に押しつけるために彼らが用いた好策、狡智、誘惑、脅迫、偽造、等々の見本である。(ル)のちには彼の名誉のために熱心に工場立法を支持したシーニア自身も、彼の当初および後年の反対者たちも、「最初の発見」のこじつけを解決できなかったということは、いわゆる経済「学」の今日の水準についても、やはりきわめて特徴的なことである。(ヲ)彼らは事実の経験に訴えた。why〔なぜ〕とwherefore〔なんのために〕とは、やはり不可解だったのである。〉

  この原注は先のパラグラフの〈諸君にこき使われている少年少女たちの「魂の純潔」がどうなるものでもないであろう(32a)〉という本文に付けられた原注です。
 しかしここでは理論的な問題が論じられているわけではなく、特に難しい内容でもないので、平易に書き下す必要も、解説も必要ないように思えます。だから全体を簡単に分割して気づいたことを書いておくことにします。

  (イ) シーニアが、「最後の1労働時間」には工場主たちの純益、イギリス綿業の存立、世界市場でのイギリスの偉大さがかかっているということを証明したとき、もう一つおまけとして、ドクター・アンドルー・ユアは、工場の児童や18歳未満の少年が暖かく澄んでいる作業室の道徳的空気のなかにまる12時間閉じ込めておかれないで、「1時間」早く冷たく濁った外界に追い出されると、怠惰や悪習のために彼らの魂の救いを奪われるということを証明した。

  シーニアが〈「最後の1労働時間」には工場主たちの純益、イギリス綿業の存立、世界市場でのイギリスの偉大さがかかっているということを証明したとき〉というのは、彼の『綿業に及ぼす影響から見た工場法についての手紙』という小冊子が敢行された時ですから、1837年ということです。その時期のユアの著書としては『工場哲学,または,大ブリテンの工場制度の科学的,精神的および商業的経済の説明』(ロンドン,1835)、あるいは『工場哲学,または,綿・毛・亜麻・絹の製造の工業経済.付.イギリスの工場で使用されている各種の機械の説明.著者校閲の翻訳.フランス綿工業に関する未発表の一章を増補』(フランス語版),第1. 2巻,パリ,1836年)等が考えられます。しかしその詳しい内容はわかりません。
  ただ『61-93草稿』にはユアの主張と同じような工場主たちの偽善的な詭弁(抗弁)について、次のようなレッドグレイヴの報告が紹介されています。

  10時間法案に反対するイギリスの工場主たちの偽善的な詭弁(抗弁)には、次のようなものがあった、--「10時間法案にたいしてなされた多くの反対のうちの一つは、それだけの余暇を少年少女の手にゆだねるのは、彼らには教育が欠けているので浪費するか悪用するであろうから、危険である、というものであった。そして、教育が進んで、10時間法案が工場人口に与えることを企てている暇な何時間かを有益な知的ないし社会的な仕事に用いるための手段が与えられるまでは1日全部を工場で過ごすことのほうが、風紀のために、むしろ望ましいのだ、と主張されたのである」(同前、87ページ、A・レッドグレイヴ)。〉 (草稿集④352頁)

  なおユアについては『資本論辞典』から引用しておきましょう。

  ユア Andrew Ure (1778-1857)イギリスの化学者・経済学者.……彼の経済学上の主著には『工場哲学』(1835)がある. そこでは,当時の初期工場制度における労働者の状態が鮮細に記述されているのみならず,機械や工場制度や産業管理者にたいする惜しみなき讃美と無制限労働日のための弁解とが繰返されている.……彼の視点はまったく工場主の立場のみに限られ,一方ではシーニアと同じく工場主の禁欲について讃辞を呈するとともに.他方では断乎として労働日の短縮に反対する.そして1833年の12時間法案を‘暗黒時代への後退'として.罵倒するのみならず,労働者階級が工場法の庇護に入ることをもって奴隷制に走るものとして非難する(KⅠ-284,314:青木3-469,509:岩波3-235,284)というごとく露骨をきわめている.〉 (572頁)

  新日本新書版では〈工場の児童や18歳未満の少年〉に次のような訳者注がついています。

  〈工場法の規定で、13または14歳を基準に児童と年少者を区別し、その保護をはかるとされた〉 (389頁)

(ロ)(ハ)(ニ) 1848年以来、工場監督官たちは、飽きもせずに、彼らの半年ごとの「報告書」のなかで、工場主たちを「最後の」、「宿命の1時間」でからかっている。たとえば、ハウエル氏は1855年5月31日の彼の工場報告書のなかで次のように言っている。「もし次のような抜け目のない計算」(彼はシーニアを引用する)「が正しいとすれば、イギリス王国のなかの綿工場はみな1850年以来欠損続きで営業していることになるであろう。」(『工場監督官報告書。1855年4月30日に至る半年間にわたる』、19、20ぺージ。)

  1848年以来というのは10時間法案が議会を通過して以来ということでしょう。つまり「最後の1時間」が消失したときから、ということです。工場主たちの主張では、彼らの「純益」がなくなったのだから、彼らの事業は欠損続きでなければならなかったのだが、しかしそんなことはまったく生じなかったということで、工場監督官たちは彼らをからかったということです。

   (ホ)(ヘ) 1848年に10時間法案が議会を通過したとき、工場主たちは、ドーセット州とサマセット州とのあいだに散在する田舎の亜麻紡績工場の何人かの正規労働者に反対請願を強要したのであるが、そのなかにはとりわけ次のように言われている。「われわれ請願者は、人の子の親として、追加される余暇の1時間はわれわれの子供の堕落以外にはなんの成果ももちえないということを確信する。というのは、安逸は悪徳の始まりだからである。」

  この10時間法案が議会を通過したのに対して、工場主たちは何人かの正規労働者に、その法案に反対する請願書を出すことを強要したということです。その内容は、1時間の余暇は子供たちを堕落させるなどと書かれていたということてす。

  (ト)(チ) これについて、1848年10月31日の工場報告書は次のように述べている。「この道徳家で情け深い親たちの子供が働いている亜麻紡績工場の空気は、無数の塵埃や繊維の粉でいっぱいで、わずか10分間を紡績室で過ごすのでさえも非常に不愉快である。じっさい、避けようのない亜麻のほこりが目にも耳にも鼻にも口にもすぐにいっぱいになるので、諸君はひどい苦痛なしにはそこにいられないであろう。労働そのものは、機械類の恐ろしい忙しさのために、疲れることのない注意力の制御のもとで、絶えず熟練と運動とを用いることを要求する。そして、食事時間を除いてまる10時間このような空気のなかでこのような仕事に縛りつけられている自分たちの子供にたいして『怠惰』という言葉を向けるようなことを、その親たちにさせるのは、少しひどいように思われる。……この子供たちは、近村の農僕よりも長い時間労働する。……『怠惰と悪徳』についてのこのような非情な文句は、まったくただ空念仏(カラネンブツ)として、最も無恥な偽善として、烙(ラク)印を押されなければならない。……およそ12年以前に、工場主の全『純益』は『最後の1時間』の労働から流出するのだから、労働日の1時間の短縮は純益をなくしてしまうということが、高い権威の是認のもとに、公然と大まじめに確信をもって宣言されたとき、この確信にたいして一部の公衆は憤慨した。いま、この公衆は、『最後の1時間』の徳についての最初の発見がその後大いに改良されて、『道徳』と『利潤』とを一様に含むものとなり、したがって、児童労働の長さがまる10時間に短縮されるならば、児童の道徳も児童使用者の純益も、両方ともこの最後の、この宿命の1時間にかかるものとして、いっしょに消えてしまうということを見いだすとき、おそらく、彼らは自分の目を信じないであろう。」(『工場監督官報告書。1848年10月31日』、101ページ。)

  しかしこの反対請願書について、工場監督官たちは実際の工場内の労働環境の酷さや少年少女の労働の厳しい現実を暴露して、その偽善ぶりを徹底して批判したということです。

  (リ)(ヌ)(ル)(ヲ) 同じ工場報告書は、次に、これらの工場主諸氏の「道徳」や「徳性」の見本をあげている。すなわち、わずかばかりのまったくよるべのない労働者たちにこのような請願に署名させて、次にはそれを一産業部門全体の、諸州の全体の請願として議会に押しつけるために彼らが用いた好策、狡智、誘惑、脅迫、偽造、等々の見本である。のちには彼の名誉のために熱心に工場立法を支持したシーニア自身も、彼の当初および後年の反対者たちも、「最初の発見」のこじつけを解決できなかったということは、いわゆる経済「学」の今日の水準についても、やはりきわめて特徴的なことである。彼らは事実の経験に訴えた。why〔なぜ〕とwherefore〔なんのために〕とは、やはり不可解だったのである。

  そしてこうして反対請願書を強要した工場主たちこそ、その「道徳」や「徳性」が疑われるということです。
  最後の〈のちには彼の名誉のために熱心に工場立法を支持したシーニア自身も、彼の当初および後年の反対者たちも、「最初の発見」のこじつけを解決できなかったということは、いわゆる経済「学」の今日の水準についても、やはりきわめて特徴的なことである。彼らは事実の経験に訴えた。why〔なぜ〕とwherefore〔なんのために〕とは、やはり不可解だったのである〉という一文でマルクスは何を言いたいのでしょうか?
  最初は10時間労働法や10時間労働運動に反対して有名な「最後の1時間」の発見をしたシーニアもその後は自身の名誉のために工場立法を支持したのだそうですが、しかしそのことは、彼の最初の主張に反対した人たちもそうですが、その「最後の1時間」のカラクリについて分からなかったのは同じだということです。それは〈いわゆる経済「学」の今日の水準〉を示しているというのですが、ここで〈経済「学〉と学をカギ括弧で強調しているのは、学というのはヴィッセンシャフト(Wissenschaft)ということで、本来は科学と同義でなければならないわけです。つまりそれは学にも値しないということをこの学の強調は示しているわけです。結局、彼らは彼らの経験的に知りうる事実だけしか分からず、その内的な本質的な関係を問うことをしなかったのだと言いたいのでしょう。
  2時間で生産される労働生産物の価値(これが生産物価値です)が1労働日の、すなわち11時間半の労働時間の対象化した価値(これが価値生産物です)と同じだというこの奇妙な謎を彼らは解き得なかったということです。つまり生産物価値(c+v+m)と価値生産物(v+m)の違いに誰も至らなかったということです。これが分かるためは不変資本と可変資本との区別や不変資本の価値を移転させる労働の二重性についても分かっていなければなりませんが、それらはすべてマルクスによって明らかにされたのであって、彼らが知らなかったのはある意味では当然だったと言えるでしょう。


◎第5パラグラフ(シーニアによって発見された「最後の1時間」の警報は、12年後、経済高官の一人であるジェームズ・ウィルソンによって、またもや吹き鳴らされた)

【5】〈(イ)いつか諸君の「最後のとき」がほんとうに告げられたら、オックスフォードの教授を思い出されよ。(ロ)ではまた、あの世でよろしくお願いする。(ハ)さらば!(33)…… (ニ)1836年にシーニアによって発見された「最後の1時間」の警報は、1848年4月15日、10時間法に反対して、経済高官の一人であるジェームズ・ウィルソンによって、『ロンドン・エコノミスト』誌上でまたもや吹き鳴らされたのである。〉

  (イ)(ロ)(ハ) いつか君たちの「最後のとき」がほんとうに告げられましたたら、オックスフォードの教授を思い出されますように。ではまた、あの世でよろしくお願いします。さようなら!……

  ここでマルクスが〈諸君の「最後のとき」がほんとうに告げられたら〉と述べているのはシーニアの「最後の1時間」を皮肉ってこのように述べているのでしょう。工場主たちが最後を迎えるときにはせいぜいシーニアを思い浮かべよ、シーニアの「最後の1時間」はまがい物であったが、君たちの「最後の時間」は現実であり、あの世への旅立ちを意味する。まあそうなればあの世なるものにすがりたまえということでしょう。

  (ニ) 1836年にシーニアによって発見された「最後の1時間」の警報は、1848年4月15日、10時間法に反対して、経済高官の一人であるジェームズ・ウィルソンによって、『ロンドン・エコノミスト』誌上でまたもや吹き鳴らされたのです。

  シーニアはブルジョアたちに追従する俗流経済学者ですが、その12年後に経済高官である(新日本新書版では〈経済学上の主要な大立物の一人である〉、フランス語版では〈公認経済学の主要な大立物の一人〉)ウィルソンによっても「最後の1時間」は10時間法を論難するために主張されたということです。
  ウィルソンは『エコノミスト』誌を刊行し、多くの論文を書いており、マルクスも第3部第5篇の利子生み資本や信用制度を論じているところではいろいろと引用しています。その意味ではトゥックやフラートンなどと同様に単なる俗流経済学者とは言えないのですが、それでもやはり「最後の1時間」のカラクリを見抜くことができなかったということです。


◎注33

【注33】〈33 (イ)とはいえ、この教授も彼のマンチェスター旅行でいくらかは得るところがあったのだ! (ロ)『工場法についての手紙』のなかでは、全純益、「利潤」と「利子」とおまけに「もう少しなにか」が労働者の支払われない1労働時間にかかっているのだ! (ハ)その1年前、オックスフォードの学生と教養ある俗物との共通の利益のために書かれた彼の『経済学概要』〔岩波書店『経済学古典叢書』版、高橋・浜田訳『シィニオア経済学』〕のなかでは、まだ彼は、リカードの労働時間による価値規定に反対して、利潤は資本家の労働から、利子は資本家の禁欲、彼の「節欲」から生ずるということを「発見」していたのである。(ニ)このたわごと自体は古いものだったが、「節欲」〔"Abstubebz"〕という言葉は新しかった。(ホ)ロッシャー氏はこれを"Enthaltung"〔「節制」〕と正しくドイツ訳している。(ヘ)彼ほどラテン語に通じていない彼の同国人、ヴィルトやシュルツェやミヘルのたぐいは、これを"Entsagung"〔「禁欲」〕と坊主くさく言うのである。〉

  (イ)(ロ) とはいえ、シーニア教授も彼のマンチェスター旅行でいくらかは得るところがあったのです! 『工場法についての手紙』のなかでは、全純益、「利潤」と「利子」とおまけに「もう少しなにか」が労働者の支払われない1労働時間にかかっているのでした!

  これは〈いつか諸君の「最後のとき」がほんとうに告げられたら、オックスフォードの教授を思い出されよ。ではまた、あの世でよろしくお願いする。さらば!(33)…〉という本文につけられた原注です。
  ここではシーニアにもマンチェスターまでわざわざ工場主たちの講義を聞きにいっただけのものがあったのだと述べています。つまり労働者の「最後の1時間」でブルジアョ達が得た「総純益」のうち利潤と利子のほかにおまけとして「もう少し何か」つまりシーニアの懸賞論文に対する報奨もやはりその労働者の「最後の1時間」から支払われたのであろうとマルクスは皮肉を込めて述べているわけです。

  (ハ) その1年前、オックスフォードの学生と教養ある俗物との共通の利益のために書かれた彼の『経済学概要』のなかでは、まだ彼は、リカードの労働時間による価値規定に反対して、利潤は資本家の労働から、利子は資本家の禁欲、彼の「節欲」から生ずるということを「発見」していたのです。

  この有名な「最後の1時間」が発見される1年前にもシーニアは『経済学概要』という俗物たちのための教科書を書いているが、そこではリカードの労働時間による価値規定に反対して、利潤は資本家の労働から、利子は資本家の禁欲(節欲)から生じるという「発見」をしていたというのです。
  これは第1パラグラフの解説のなかで紹介した『資本論辞典』からの引用のなかにも〈シーニアの時代は,リカードの労働価値説およびそれを基礎とする資本主義の説明を中心とする論戦が白熱化し,リカードの権威が高くなって行った時期であった.そのなかに出て,シーニアは有名な〈節欲説〉を提唱し.資本家が取得する利潤を労働者の剰余労働からではなくして,資本家の節欲にたいする報酬として説明しようとした(→節欲説).シーニアはこの節欲説をはじめて明確に定式化した人とされており,彼の後にミル(J.S.Mill),マーンャル(A.Marshall)など多数の人がこれを祖述している.……〉と説明されていました。

  (ニ)(ホ)(ヘ) このたわごと自体は古いものだったのですが、「節欲」〔"Abstubebz"〕という言葉は新しかったのです。ロッシャー氏はこれを"Enthaltung"〔「節制」〕と正しくドイツ語に訳しています。彼ほどラテン語に通じていない彼の同国人、ヴィルトやシュルツェやミヘルのたぐいは、これを"Entsagung"〔「禁欲」〕と坊主くさく言うのです。

  シーニアが〈「自分の収入を資本に転化させる者は、その支出が彼に与えるはずの享楽を節約するのである。」〉(草稿集⑦31頁)と述べたように、資本家の利潤を労働者の剰余労働からではなくて、資本家の労働や彼らの節欲から説明するというのは、古いものです。というのは現象的には、資本家が蓄積をするためには、彼らが得た利潤の一部を個人的な消費に回すのではなく、新たな生産に投資する必要がありますから、資本の蓄積は資本家が自身の個人的消費を「節欲」することから生じるかのように見えるからです。
 ここでマルクスは、シーニアが主張した〈「節欲」〔"Abstubebz"〕という言葉は新しかった〉とか〈ロッシャー氏はこれを"Enthaltung"〔「節制」〕と正しくドイツ訳している〉とか〈ヴィルトやシュルツェやミヘルのたぐいは、これを"Entsagung"〔「禁欲」〕と坊主くさく言う〉と述べて、〈「節欲」〔"Abstubebz"〉〈"Enthaltung"〔「節制」〕〉〈"Entsagung"〔「禁欲」〉などと書き分けていますが、なかなかそうした微妙な言葉のニュアンスは浅学者にはお手上げです。

  ロッシャーについてはすでに原注30で次のように述べられていました。

  〈30 まさにゴットシェト的な独創力でヴィルヘルム・トゥキュディデス・ロッシャー氏が発見するところでは、剰余価値または剰余生産物の形成、そしてそれにともなう蓄積は、今日では資本家の「節約」のおかげであり、そのかわりに資本家は「たとえば利子を要求する」のであるが、これに反して「最低の文化段階では……弱者が強者から節約を強制される」というわけである。(『国民経済学原理』、82ぺージ、78ページ。)強制されるのは、労働の節約なのか? それとも存在しない過剰生産物の節約なのか? ロッシャーやその仲間に、現存の剰余価値の取得についての資本家の多少とももっともらしい弁明根拠を剰余価値の発生根拠だとこじつけることを強要するものは、ほんとうの無知であるが、また、価値と剰余価値との良心的な分析にたいする、またおそらく危険な反警察的な結論にたいする弁護論的な恐怖でもあるのである。〉

  そしてそのときの解説では『資本論辞典』から引用文を紹介しましたが、それにやや加えて今回も紹介しておきます。

 ロッシャー Wilhelm Georg Friedrich Roscher (1817-1894) ドイツの経済学者. ……彼が究明しようとする歴史的発展法則なるものの概念が,いかに科学的な吟味にたええないものだったかは,彼のいわゆる〈経済発展段階説〉をみるだけでも,たちまち明瞭になる.すなわち,彼は生産の要素を自然,労働,資本の三つとなし. そのうちのどれが優位を占めるかによって,経済発展段階を(1)自然に依存する原始段階. (2)労働を主とする手工業段階. (3)機械の使用が支配的となる大工業段階の三つに区分するのであるが.このような段階区分は,少しも真の意味の歴史的発展,すなわち人間の社会的諸関係の発展をあらわすものではない.それにもかかわらず,彼の大著がたんにドイツ国内でだけではなく,多くの外国語に翻訳されて,海外(ことにアメリカ)でもひろく読まれたのは,それが古典学派にたいして理論的にあらたなものをふくんでいたからではなく,古典学派が研究の対象としたよりもはるかに広大な領域(たとえば学説史,社会政策,植民政策等々)にわたる雑多な知識にもっともらしい学問的粉飾を施していたからにすぎなかった. しかし,その影響がこのようにひろい範囲に及んでいただけに,マルタスは.ロッシャーのやり方を当時の俗学的態度の見本としてやっつける必要を痛感しており. 1862年6月16日づけのラサールあての手紙では,ロッシャーの〈折衷主義〉を口をきわめて罵倒し. その非科学性を暴露することの必要と意図とを述べている。しかし.『資本論』中には, ロッシャーの方法や所税にたいするまとまった批判は見出されず,ロッシャーの概念的混乱や弁護論的見解が指摘されるに止まる.その主要なものをあげれば,第1巻では,貨幣の概念規定のめちゃくちゃな混乱(KI-98;青木1-203;岩波1-180),資本家的利子要求からの価値観念の展開(KI-214,青木2-371,岩波2-114),剰余価値の源泉と蓄積とを資本家の節約に帰する弁護論的見解 (K1-225,青木 2-385:岩波 2-132).資本家のいない所で資本主務的生産を考察するというナンセンス(Kl-339 ,青木3-546;岩波3-27).〈原始林のプロレタリア〉 という非歴史的幻想(KⅠ-645;青木4-954;岩液4-95)などが指摘され,第3巻でも,価格変動(KIII-338;青木9-488;岩波9-162),商業資本の機能(KIII-355;青木9-460;岩波9-188).諸所得の源泉(KI-880;青木13-1164;岩波11-357)などにかんする俗学的見解がひきあいにだされている. 〉 (586-587頁)

  ヴィルトやシュルツェについては『資本論辞典』にはないので、全集版の人名索引から紹介しておきます。

ヴィルト,マックス Wirth,Max(1822-1900)ドイツの俗流経済学者,政論家.〉
シュルツェ・デーリッチ,ヘルマン・フランツ Schulze-Delitzsch,Hermann.Franz(1808-1883)ドイツの政治家,経済学者.協同組合の組織化によって労働者を革命闘争からそらせようとした.〉

  〈ミヘルのたぐい〉については人名索引にもありません。


◎第3節の意義

  〈第3節 シーニアの「最後の1時間〉は第2節の最後の〈強欲(ゴウヨク)がこのような奇跡を信ずるということ、また、この奇跡を証明する学者的追従者にもけっしてことかかないということは、いま、歴史的に有名な一つの例によって示されるであろう〉という一文を受けて論じられています。
  つまりシーニアこそ〈この奇跡を証明する学者的追従者〉の一人というわけです。シーニアの「最後の1時間」の問題は〈歴史的に有名な一つの例〉ということなのですが、この問題はあまり『資本論』の解説書の類でも取り上げられずに省略されるか簡単に触れられる程度で、一見するとそれはそれほど重要な問題ではないのかと思ったりします。
  しかし解説のなかの「余談」でも述べましたが、こうした総生産物をいろいろな価値構成部分に分解するやり方は、資本家たちが日常的に実務上使っているものでもあり、それだけに現象的には誤った観念を植えつけるものでもあることを知ることは重要なことです。そこでそもそもこのシーニアの「最後の1時間」の問題はどんな意義があるのかということについて少し考えてみたいと思います。
 マルクスはエンゲルスと交わした書簡のなかでこのシーニアの「分析」なるものを批判する部分の意義について論じているところがあります。その彼らの書簡のやりとりを紹介してみましょう。
  1867年6月27日のエンゲルスのマルクスに宛てた書簡をまず紹介します。『資本論』初版の最初のあたり(第7章 剰余価値率ぐらいまで)の抜き刷りをマルクスがエンゲルスに送ったことに対するエンゲルスの感想が次のように述べられています。

  〈剰余価値の発生についてはなお次のようなことがある。工場主は、そして彼とともに俗流経済学者は、すぐに君に異議を唱えてこう言うだろう。すなわち、資本家が労働者に彼の12時間の労働時間にたいして6時間分の価格しか支払わないとしても、そこからは剰余価値は生じえない、というのは、その場合には工場労働者の各労働時間はただ2分の1労働時間に等しいものとして、すなわちそれに、代価として支払われるものとして、計算されるだけで、ただそれだけの価値として労働生産物の価値のなかにはいるだけだからだ、と。それから次にその実例として普通の計算方式が続く。原料生産物としてこれだけ、損耗分としてこれだけ、賃金(実際の1時間の生産物当たりで実際に支出されるもの)としてこれだけ、等々。たとえこの議論がどんなにひどく浅薄だとしても、たとえそれがどんなに交換価値と価格とを、労働の価値と労賃とを、混同しているとしても、また、1労働時間に2分の1時間分だけしか支払われなけれは1労働時間が2分の1時間としてしか価値のなかにはいらない、というその前提がどんなにばかげたものだとしても、僕が不思議でならないのは、どうして君がはじめからこれを顧慮しなかったのか、ということだ。なぜなら、君にたいしてすぐにこういう抗議がなされるということはまったく確かだし、これははじめから片づけておくほうがよいからだ。〉 (全集第31巻260-261頁)

  これに対するマルクスの返答です。

  〈君が言及した俗物や俗流経済学者が当然抱くにちがいない疑念について言えば(彼らは、もちろん、彼らが支払労働労賃という名で計算するときには不払労働利潤などの名で計算しているのだ、ということは忘れているのだが)、それは、科学的に言いあらわせば、次のような問題に帰着するだろう。
 商品の価値はどのようにして商品の生産価格に転化するのか。生産価格では、
  (1) 全労働が労賃という形態のもとで支払労働として現れる
  (2) ところが、剰余労働は、または剰余価値は、利子や利潤などの名のもとに費用価格(不変資本部分の価格・ブラス.労賃)を越える価格付加という形態をとる。
  この問題への答えは次のことを前提する。
  Ⅰ たとえば労働力の日価値の賃金または日労働の価格への転化が述べられているということ。これはこの巻の第五章でなされる。
  II 剰余価値の利潤への転化利潤の平均利潤への転化、等々が述べられているということ。これはまた、資本の流通過程がまえもって述べられていることを前提する。というのは、そこでは資本の回転などがある役割を演じているからだ。だから、この問題は第三部ではじめて述べることができる(第2巻は第2部と第3部とを含む)。ここでは、俗物や俗流経済学者の考え方がなにから出てくるか、ということが明らかになるだろう。すなわち、それは、彼らの頭脳のなかではつねにただ諸関係の直接的な現象形態が反射するだけで、諸関係の内的な関連が反射するのではない、ということから出てくるのだ。もしも内的な関連が反射するとすれば、いったいなんのために科学というものは必要なのだろうか?
  ところで、もし僕がいっさいのこの種の疑念をまえもって刈り取ってしまおうと思うならば、僕は弁証法的な展開方法をことごとくだめにしてしまうだろう。これとは反対に、この方法がもっている利点は、こいつらに絶えずわなを仕掛けて、それが彼らの愚かさの時ならぬ告白を挑発する、ということなのだ。
  なお、君の手にあるうちの最後の部分、第三節「剰余価値の率」のすぐあとには「労働日」(労働時間の長さをめぐる闘争)という節が続くのだが、その取扱いは、ブルジヨアだんなが自分の利潤の源泉や実体を実地の上でどんなによく知っているか、ということを目に見えるように明らかにする。このことはシーニアの場合にも示されるが、そこではブルジョアは、自分の利潤や利子の全体が最終1時間の不払労働から生ずる、ということを断言しているのだ。〉 (全集第31巻262-263頁)

 ここでエンゲルスが労働生産物について〈原料生産物としてこれだけ、損耗分としてこれだけ、賃金(実際の1時間の生産物当たりで実際に支出されるもの)としてこれだけ、等々〉と述べているものこそ、シーニアが総生産物の一部を工場建物や機械設備などを補塡するものとし、他の一部を原料および労賃を補塡するものと考え、残りを総収益に数え、さらにそこから損耗の補塡分を差し引いたものを純益として、それが「最後の1時間」で生産されるのだとした考えそのものなのです。
  エンゲルスはそうした考えは〈ひどく浅薄〉で〈混同〉したものだとしても、そうしたものをどうしてマルクスは顧慮して、最初に〈片づけて〉おかなかったのか、と疑問を述べています。
  それに対して、マルクスはエンゲルスが指摘するような〈俗物や俗流経済学者が当然抱くにちがいない疑念について言えば……科学的に言いあらわせば、次のような問題に帰着する〉と述べて、そうした問題は『資本論』の第3部で取り上げることができるのであって、そのためには『資本論』の第1部や第2部(資本の流通)などのさまざまな前提をまず論じておく必要があるのだと答えています。そして第3部では〈俗物や俗流経済学者の考え方がなにから出てくるか、ということが明らかになるだろう〉と述べて〈すなわち、それは、彼らの頭脳のなかではつねにただ諸関係の直接的な現象形態が反射するだけで、諸関係の内的な関連が反射するのではない、ということから出てくるのだ〉と述べています。
  そしてそれらを〈まえもって刈り取ってしまおうと思うならば、僕は弁証法的な展開方法をことごとくだめにしてしまうだろう〉とも述べています。
  そして最後に第8章の「労働日」について〈ブルジヨアだんなが自分の利潤の源泉や実体を実地の上でどんなによく知っているか、ということを目に見えるように明らかにする。このことはシーニアの場合にも示されるが、そこではブルジョアは、自分の利潤や利子の全体が最終1時間の不払労働から生ずる、ということを断言しているのだ〉と述べています。
  つまりブルジョア達自身は自分達の利潤の源泉については実践的には、明確に理解しながらシーニアの「最後の1時間」のような出鱈目を叫んでいるのだということです。つまりそれは資本家の得る利潤が自分たち労働や節欲等々によってではなく、労働者から搾り取ることから生まれてくるということを彼らは明確に分かっているのであり、それを「労働日」の章では目に見えるように暴露するのだと述べているのです。そして同じことはシーニアの「最後の1時間」の問題でも示されるのだとも述べています。
 彼らは「最後の1時間」でこそ自分たちの純益が得られるのだから、労働時間の短縮はその純益が失われて大欠損に陥るかに大騒ぎしたが、しかしそれは「10時間労働法」や10時間労働運動に反対するためのでたらめな方便であり、実際には彼らは〈自分の利潤の源泉や実体を実地の上ではよく知っている〉のだいうことです。
  だから第7章の第3節はブルジョアやその御用学者たちの表象に捉えられる現象形態を論じているという点ではやや特異な性質を持っています。そしてその「最後の1時間」のカラクリをそれまでの展開で解明した本質的な諸関係において解きあかすというものなのです。
  その意味では同じような性格を持つ次の第8章「労働日」にも通じるものでもあるといえるでしょう。

  ((6)に続きます。)

 

 

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『資本論』学習資料No.33(通算第83回)(6)

2023-02-28 22:17:57 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.33(通算第83回)(6)



  第4節  剰余生産物


◎第1パラグラフ(生産物のうち剰余価値を表わしている部分をわれわれは剰余生産物(surplus produce,produit net)と呼ぶ。)

【1】〈(イ)生産物のうち剰余価値を表わしている部分(第2節の例では20ポンドの糸の10分の1、すなわち2ポンドの糸)をわれわれは剰余生産物(surplus produce,produit net)と呼ぶ。(ロ)剰余価値率が、資本の総額にたいする剰余価値の比率によってではなく、資本の可変的成分にたいする剰余価値の比率によって規定されるように、剰余生産物の高さは、総生産物の残余にたいするそれの比率によってではなく、必要労働を表わしている生産物部分にたいする剰余生産物の比率によって規定される。(ハ)剰余価値の生産が資本主義的生産の規定的な目的であるように、生産物の絶対量によってではなく剰余生産物の相対量によって富の高さは計られるのである(34)。〉

  (イ) 生産物のうち剰余価値を表わしている部分(第2節の例では20ポンドの糸の10分の1、すなわち2ポンドの糸)を私たちは剰余生産物(surplus produce,produit net)と呼びます。

  第2節の例というのは次のようなものです。第10パラグラフから紹介しておきます。

  〈紡績工の12労働時間は6シリングに対象化されるのだから、30シリングという糸価値には60労働時間が対象化されている。それは20ポンドの糸となって存在するのであるが、この糸の10分の8すなわち16ポンドは、紡績過程以前に過ぎ去った48労働時間の物質化、すなわち糸の生産手段に対象化された労働の物質化であり、これにたいして、この糸の10分の2すなわち4ポンドは、紡績過程そのもので支出された12労働時間の物質化である。〉

  だから20ポンドの糸の10分の2の半分、すなわち10分の1(3シリング)が剰余労働の物質化であり、剰余価値を表しています。
  それを「剰余生産物」と呼ぶと述べています。「剰余生産物」という言葉そのものは、すでに先に紹介しました原注30のなかで〈ロッシャー氏が発見するところでは、剰余価値または剰余生産物の形成、そしてそれにともなう蓄積は、今日では資本家の「節約」のおかげであり、そのかわりに資本家は「たとえば利子を要求する」のであるが、……〉という形で出てきていましたが、本文としては今回が始めてです。なおフランス語版では〈剰余生産物(surplus produce,produit net)〉ではなく〈純生産物〈surplus produce〉〉という訳文が使われています。

  (ロ) 剰余価値率が、資本の総額にたいする剰余価値の比率によってではなく、資本の可変的成分にたいする剰余価値の比率によって規定されるように、剰余生産物の高さは、総生産物の残余にたいするそれの比率によってではなく、必要労働を表わしている生産物部分にたいする剰余生産物の比率によって規定されます。

  剰余価値率に対応する剰余生産物の高さというものを考える場合に、剰余価値率が資本の総額に対してではなく可変資本部分に対する割合で示されたように、剰余生産物の高さも、総生産物に対するその比率ではなくて、必要労働を表している生産物部分に対する剰余生産物の比率によって規定されるということです。

  (ハ) 剰余価値の生産が資本主義的生産の規定的な目的であるように、生産物の絶対量によってではなく剰余生産物の相対量によって富の高さは計られるのです。

  剰余価値の生産が資本主義的生産を規定的する目的です。しかし剰余価値というのは価値という抽象的な物であり、具体的なものではありません。しかし生産物そのものは具体的なものです。しかし資本は何か具体的な生産物を目的に生産するのではなく、例え生産物で資本を規定するものを表すとしても、それは剰余生産物の相対的な量によって(必要労働を表す生産物に対する相対的な量によって)彼らの目的を規定する富の高さが計られるということです。

  『直接的生産過程の諸結果』には次のような一文があります。

  〈純生産物(剰余生産物)こそが生産の究極かつ最高の目的だとする学説は、労働者のことを顧みることのない資本の価値増殖こそが、したがって剰余価値の創出こそが、資本主義的生産を推進する魂であるということを、ただ粗野に(だが正しく)表現したものにすぎないのである。〉(光文社文庫283頁)


◎注34

【注34】〈34 (イ)「20,000 ポンド・スターリングの資本をもっていて毎年2000ポンドの利潤をあげる個人にとっては、彼の資本が労働者を100人働かせるか1000人働かせるか、生産された商品が10,000ポンド。スターリングで売れるか20,000ポンド・スターリングで売れるかは、彼の利潤がどの場合にも2000ポンドよりも下がらないことをつねに前提すれば、まったくどうでもよいことであろう。一国の真の利益も同じことではあるまいか? その国の真の純所得、その地代と利潤とが変わらないことを前提すれば、その国が1000万の住民から成っているか1200万の住民から成っているかは、少しも重要なことではない。」(リカード『原理』、416ページ。〔岩波文庫版、小泉訳、下巻、87ページ。〕)(ロ)剰余生産物の狂信者、アーサー・ヤング、とにかくおしゃべりで無批判な著述家で、その名声がその功績に反比例している彼ではあるが、彼はリカードよりもずっと前にとりわけ次のように言った。(ハ)「ある州の土地が古代ローマふうに小さな独立農民たちによってどんなによく耕作されようとも、そのような州の全体が近代の王国ではなんの役にたつだろうか? 人間を繁殖させるというただ一つの目的("the mere purpose of breeding men")、それはそれ自体としてはなんの目的ももたない("is a most useless pupose") のであるが、このような目的のほかにはなんの役にたつだろうか?」(アーサー・ヤング『政治算術』、ロンドン、1774年、47ページ。)〉

  これは〈剰余価値の生産が資本主義的生産の規定的な目的であるように、生産物の絶対量によってではなく剰余生産物の相対量によって富の高さは計られるのである(34)〉という本文に付けられた原注ですが、あいだにマルクスのコメントが入る以外はすべて引用文からなっています。だから平易な書き下し文はマルクスのコメント部分だけにして、引用部分はそのまま書き写します。とりあえず引用文献によって分けて、その内容を検討することにしましょう。

  (イ) 「20,000 ポンド・スターリングの資本をもっていて毎年2000ポンドの利潤をあげる個人にとっては、彼の資本が労働者を100人働かせるか1000人働かせるか、生産された商品が10,000ポンド。スターリングで売れるか20,000ポンド・スターリングで売れるかは、彼の利潤がどの場合にも2000ポンドよりも下がらないことをつねに前提すれば、まったくどうでもよいことであろう。一国の真の利益も同じことではあるまいか? その国の真の純所得、その地代と利潤とが変わらないことを前提すれば、その国が1000万の住民から成っているか1200万の住民から成っているかは、少しも重要なことではない。」(リカード『原理』、416ページ。〔岩波文庫版、小泉訳、下巻、87ページ。〕)

   ここではリカードの一文が引用されていますが、要するに、資本の目的は純所得(利潤、地代、利子等)であり、それがどういう条件で生じるかということは二の次であることが赤裸々に語られています。そして同じことは一国の真の利益なるものそうなのだというのです。

  (ロ)(ハ) 剰余生産物の狂信者、アーサー・ヤング、とにかくおしゃべりで無批判な著述家で、その名声がその功績に反比例している彼ではありますが、彼はリカードよりもずっと前にとりわけ次のように言いました。「ある州の土地が古代ローマふうに小さな独立農民たちによってどんなによく耕作されようとも、そのような州の全体が近代の王国ではなんの役にたつだろうか? 人間を繁殖させるというただ一つの目的("the mere purpose of breeding men")、それはそれ自体としてはなんの目的ももたない("is a most useless pupose") のであるが、このような目的のほかにたつだろうか?」(アーサー・ヤング『政治算術』、ロンドン、1774年、47ページ。)

  リカードの『原理』は1817年刊行ですから、ヤングの『政治算術』はそれよりもほぼ半世紀前ごろに出たものです。ここでは土地が耕作されるのは人間を繁殖させるという目的のためであり、それがどのように耕作されているかというようなことは何の役にも立たないと述べています。つまり人間を繁殖させる剰余生産物がどれほどあるのかということが重要なのであって、小さな独立農民によってとんなにうまく耕作されているかというようなことはどうでもよいのだということです。
  リカードの場合は純益(剰余価値)という抽象的な富を問題にしており、それこそが重要なのであって、それがどのような条件で得られるか、というようなことはどうでもよいと主張されているのに対して、ヤングは直接に剰余生産物、つまり人間を繁殖させるに足る使用価値量を問題にしているように思えます。

  ヤングについては『資本論辞典』から紹介しておきます。

  ヤング Arthur Young (1741-1820)イギリスの農学者.……ヤングがもっとも関心をもったのはノーフォクの農法で,これはチャールズ.タウンゼント(Charles Townsend)によってイギリスに持ちこまれたあたらしい農法であった.封建的農業経営の非合理を打破するものとして,従来は休閑地とされていたところに蕪を総裁することによって,近代的輪作による経営の合理化をはかるものであった.ヤングはこの方法こそイギリス農業の近代化をもたらすものであり,そしてこの経営は大農場においてこそもっとも合理的に行ないうるものとして,大農場経営を強調した.その結果.いままで小農経営の基盤であった開放耕地を徹底的に排除し,大規模の囲い込みをなすべきであるとした.……このようにヤングはもっぱら資本家的農業家の立場に立って,イギリス農業近代化の方向を主張し. 余剰の人口は臨海軍に用いて国力を増進し. またこれを商工業に転じて国の富を増大すべきであるとした.……マルクスはヤングを‘饒舌で無批判的な著述家で,その名声は功績に逆比例している(KI-238:青木2-403:岩波2-155) とか,‘話にならない統計的饒舌家たるポロニアス' (KI-286:青木2-472:岩波2-238)とか,'皮相な思家ではあったが,精密な観察者'(K Ⅰ-710:青木4-1036:岩波4-196) とか評している……〉(571-572頁)

  最後に同じ問題を論じている『直接的生産過程の諸結果』から引用しておきます。

  〈資本主義的生産の(したがって生産的労働の)目的は、生産者の生存ではなく、剰余価値の生産なのだから、剰余労働を行なわないすべての必要労働は、資本主義的生産にとっては余分で無価値である。それは一国全体の資本家(Nation von Capiraliseen)にとっても同じである。労働者を再生産するだけで純生産物(剰余生産物)をいっさい生産しないあらゆる総生産物は、先の労働者自身と同じく余分なのである。あるいは、ある労働者たちが生産のある一定の発展段階では純生産物を生産するのに必要だったとしても、生産のより高度な発展段階ではもはや必要としなくなれば、彼らは余分な存在になってしまう。言いかえれば、資本に利潤をもたらすだけの人数が必要なのである。それは一国全体の資本家にとっても同じである。
  1人の私的資本家にとっては、彼の資本が「1OO人を動かすのか1000人を動かすのか」は、2万[ポンド] の資本に対する利潤が「けっして2000ポンドを下回らないならば」、まったくどうでもいい問題であり、「一国民の現実の利益もそれと同じではないか?」[とリカードは言う]。つまり、「ある一国民の現実の純収入が、すなわちその地代と利潤とが同じであるならば、その国が1000万人の住民で構成されているのか、1200万人の住民で構成されているのかは、何ら重要ではない。…… もし5OO万人が1000万人にとって必要な食料や衣服を生産することがきるならば、差し引き500万人分の食料ど衣服が純収んになるだろう。もし、これと同じ純収入[つまり500万人分の食料と衣服]を生産するのに700万人が必要だとすれば、つまり、1200万人分の食料と衣服が生産するのに700万人が仕事に従事するとすれば、それはその国にとって何か利益になるだろうか? 依然として純収入は500万人分の食料と衣服のままなのだから」(リカード『原理』第26章)。
  博愛主義者といえども、リカードのこの命題に異議を差しはさむことはできないだろう。なぜなら、1000万人のうち50%だけが残る500万人のために純粋な生産機械として生きていくほうが、1200万人のうち700万人が、すなわち58[1/3]%もの人がそうするよりも、まだしもましだからである。
  「現在の王国において、一地方全体がこのように(つまり、古代ローマの初期におけるように自営小農民たちのあいだに)分割されているとすれば、どれほどきちんと耕作されていようと、ただ人間を養うという目的以外でいったい何の役に立つだろうか? これはそれ自体として見ればまったく無用な目的である」(アーサー・ヤング『政治算術』、ロンドン、1774年、47ページ)。
  資本主義的生産の目的が純生産物--これは実際にはただ、剰余価値が表わされている剰余生産物のことなのだが--であるということは、資本主義的生産が本質的に剰余価値の生産だということである。〉(光文社文庫277-280頁)


◎注34への補足

【注34への補足】〈注34への補足 (イ)奇妙なのは、「純粋な富は労働者階級にとって有利だと主張する強い傾向」である。(ロ)「しかし、そうだとしても、明らかにそれはこの富が純粋だからではない。」(トマズ・ホプキンス『地代……について』、ロンドン、1828年、126へージ。)〉

  (イ)(ロ) 奇妙なのは、「純粋な富は労働者階級にとって有利だと主張する強い傾向」であす。「しかし、そうだとしても、明らかにそれはこの富が純粋だからではない。」(トマズ・ホプキンス『地代……について』、ロンドン、1828年、126へージ。)

  フランス語版ではこの補足は注(12)のなかに一つに纏められ、この部分は次のようになっています。

  〈ホプキンスはいとも正しくこう指摘する。「純生産物は労働者階級を労働させることを可能にするという理由から、純生産物を労働者階級にとって有利なものとして示す非常に強い傾向があるのは、奇妙なことである。しかし、たとえそれがこういう力をもっていても、けっしてそれが純生産物であるからでないことは、いとも明らかである」(トーマス・ホプキンス『地代……について』、ロンドン、1828年、126ページ)。〉(江夏・上杉訳225-226頁)

  ここでは純生産物、つまり剰余生産物は、労働者階級を労働させることを可能にするから労働者階級にとって有利だという主張は奇妙だとするホプキンスの主張が紹介されています。剰余生産物は資本家やその取り巻きの消費のためのものか、あるいは拡大された生産のために役立つのであって、それ自体は決して労働者階級のためにあるわけではないのですから、これはこの限りではまったく正当な評価です。
  ホプキンスについては『剰余価値学説史』のなかでは〈絶対地代差額地代との区別を正しくつかんでいる〉(第26巻II 170頁)と評価されています。また生産的労働と不生産的労働の区別についての諸説(彼はそれを第一次的労働と第二次的労働と述べています)も詳しく検討されていますが、『資本論辞典』には解説はないのでとりあえず人名索引から紹介しておきます。

 〈ホプキンズ,トマスHopkins,Thomas(19世紀初頭)イギリスの経済学者.〉(全集第23b巻84頁)


◎第2パラグラフ(必要労働と剰余労働との合計は彼の労働時間の絶対的な大きさ--1労働日(working day)--をなす)

【2】〈(イ)必要労働と剰余労働との合計、すなわち労働者が自分の労働力の補塡価値と剰余価値とを生産する時間の合計は、彼の労働時間の絶対的な大きさ--1労働日(working day)--をなしている。〉

  (イ) 必要労働と剰余労働との合計、つまり労働者が自分の労働力の補塡する価値と剰余価値とを生産する時間の合計は、彼の労働時間の絶対的な大きさ--1労働日(working day)--をなしています。

    これはこれまでにも述べられてきたことです。例えばマルクスはシーニアの例では可変資本が明示的に述べられていないのに対して、第3節の第3パラグラフで〈工場主たちの計算では労働者は2/2労働時間、すなわち1時間で労賃を再生産または補塡するということにでもなったなら〉と仮定して、第4パラグラフでは〈彼が価値を生産するのは、ただ彼が労働を支出するかぎりでのことであって、彼の労働の量は彼の労働時間で計られる。それは、諸君の言うところによれば、1日に11時間半である。この11時間半の一部分を彼は自分の労賃の生産または補塡のために費やし、他の部分を諸君の純益の生産のために費やす。そのほかには彼は1労働日のあいだなにもしない〉と述べていました。
  つまり労賃の補塡のための労働、すなわち必要労働と、資本家の純益、つまり剰余価値の生産のための労働、すなわち剰余労働との合計は1労働日であることが語られていました。
  ここで敢えてこうしたことを再び確認しているのは、いうまでもなく、次の第8章「労働日」への移行としてだと考えられます。

  (付属資料(1)に続きます。)

 

 

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『資本論』学習資料No.33(通算第83回)(7)

2023-02-28 22:00:00 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.33(通算第83回)(7)

 

付属資料(1)


第2節 生産物の比例配分的諸部分での生産物価値の表示


●第1パラグラフ

《初版》すでに紹介したように、マルクスは「第2版への後記」のなかで〈第7章、特に第2節は、かなり書きなおしてある〉(全集23a巻13頁)と書いているように、現行版(第2版)は初版をかなりの程度書き直してあるので、両者の対応関係は明確ではない。ここでは内容的におおまかに対応するものを紹介しておくことにする。

 〈剰余価値は、剰余生産物(surplus produce) のうちに表わされている。〉(江夏訳235頁)

《フランス語版》

 〈資本家がどのようにして自分の貨幣を資本に変えるかを示すのにわれわれに役立った事例を、再び用いることにしよう。彼の紡績工の必要労働は剰余労働と同じく6時間に達し、労働の搾取度は100% に達していた。〉(江夏・上杉訳214頁)

《イギリス語版》

  〈(1)それでは、ここで、どのようにして資本家が 貨幣を資本に変換したか を見せてくれた例に戻ってみることにしよう。〉(インターネットから)


●第2パラグラフ

《初版》

 〈われわれのさきの仮定によると、紡績工の12時間労働日が6時間の必要労働と6時間の剰余労働とから成り、20ポンドの綿花が20ポンドの糸になり、この綿花に6シリングの価値がつけ加わり、そしてさらに、1ポンドの綿花が1シリングに値し、全過程中に消耗された労働手段が4シリングに値し、したがって、総生産物の価値が3Oシリングに値し、1ポンドの糸の価値が1シリング6ペンスに値する、ということであった。〉(江夏訳235頁)

《フランス語版》

 〈12時間の労働日の生産物は、30シリングの価値をもつ20ポンドの糸である。この価値の8/10である24シリングだけが、消費された生産手段、すなわち、20シリングに値する20ポンドの綿花と4シリングに値する紡錘との価値によって形成されており、この価値は再現するにすぎない。換言すれぽ、糸の価値の8/10 は不変資本から成っている。残る2/10 が、紡績作業中に産み出された6シリングの新しい価値であって、その半分が、前貸しされた労働力の日価値、すなわち3シリングの可変資本を補塡し、他の半分が、3シリングの剰余価値を形成する。20ポンドの糸の総価値は次のように構成されている。糸価値30シリング=24シリング(c)+3シリング(v)+3シリング(p)。〉(江夏・上杉訳214頁)

《イギリス語版》

  〈(2)12時間の一労働日の生産物は、20重量ポンドの撚糸であって、30シリングの価値を持っている。この価値の8 /10 または24シリングは、単に、生産手段の価値 (20重量ポンドの綿 20シリングと紡錘の磨耗分 4シリング) を再現しているものである。従って、それは、不変資本である。残りの 2 /10 または6シリングは、紡績過程で新たに創造された価値である。このうちの半分は、日労働力の価値を置き換えたものであり、または可変資本である。もう一つの残りの半分は、剰余価値 3シリングを成している。であるから、20重量ポンドの撚糸の価値は、次の様な数式で示されよう。

30シリングの撚糸の価値 = 24シリング 不変資本 + 3シリング 可変資本 + 3シリング 剰余価値〉(インターネットから)


●第3パラグラフ

《初版》

 〈1ポンドの糸はどれも同じ使用価値を表わしている。どの糸も、同じ原料である綿花が、同じ労働手段を媒介にして、同じ生産労働である紡績と結合して、産んだ産物なのである。また、どの個々の1ポンドの糸の価値も、綿花1シリング、消耗された労働手段2[2/5]ペンス、必要労働が具現されている1[4/5]ペンス、剰余労働が具現されている1[4/5]ペンス、であるという同じ構成を示している〉(江夏訳236頁)

《フランス語版》

 〈この総価値は20ポンドの糸という生産物のうちに現われているから、この価値のさまざまな要素は生産物の比例部分のうちに表現されうるにちがいない。〉(江夏・上杉訳214頁)

《イギリス語版》

  〈(3)生産された20重量ポンドの撚糸に、これらの全ての価値が含まれているのであるから、この価値の様々な構成要素は、この生産物の該当する部分に、それぞれ含まれているものとして表わされることができる。〉(インターネットから)


●第4パラグラフ

《初版》

 〈一定量の糸は、それはそれとして切り離せば、あるいは、総生産物の部分として考察されれば、必ず、紡績という同じ生産労働の形成物である。ところが、もう一方の観点に立つと、部分生産物の立場は、この部分生産物が独立してかまたは総生産物と関連させて考察されるのに応じて、すなわち、それが部分生産物としてかまたは生産物部分として考察されるのに応じて、全く別のものになる。〉(江夏訳236頁)

《フランス語版》

 〈30シリングの価値が20ポンドの糸のうちに存在するならば、この価値の8/10、すなわち24シリングという不変都分は、生産物の8/10、すなわち16ポンドの糸のうちに存在するのであって、後者のうち、13[1/3]ポンドは原料の価値、紡がれた20ポンドの綿花の価値、すなわち20シリングを表わし、2[2/3]ポンドは紡錘など消費された補助材料や労働手段の価値、すなわち4シリングを表わす。〉(江夏・上杉訳214-215頁)

《イギリス語版》

  〈(4)30シリングの価値が、生産された20重量ポンドの撚糸に含まれているとすれば、8 /10の価値 あるいは不変資本を構成する部分 24シリングが、生産物の8 /10の部分 16重量ポンドの撚糸と言える。その撚糸のうち、13 1/3重量ポンドは、原料の価値を表しており、紡がれた綿の価値である。そして 2 2/3重量ポンドは、4シリングを表し、紡錘 他の、過程での摩損分の価値である。〉(インターネットから)


●第5パラグラフ

《初版》 初版では全集版の第⑤、⑥、⑦、⑧、⑨パラグラフが一つのパラグラフになっている。だからだいたい対応するパラグラフの番号を挿入しておく。

 〈⑤1ポンドの糸は1シリング6ペンスに値し、屑を度外視すれば、この糸に紡がれてしまった1ポンドの綿花は、1シリングに、したがってこの糸の価値の2/3に値している。だから、2/3ポンドの糸=1ポンドの棉花 であり、13[1/3]ポンドの糸=20ポンドの棉花 である。13[1/3]ポンドの糸のうちには、確かに、13[1/3]シリングの価値をもつ13[1/3]ポンドのンドの綿花しか含まれていないが、6[2/3]シリングというこれにつけ加えられる価値は、残りの6[2/3]ポンドの糸に紡がれてしまったすべての棉花、すなわち総生産物の原料を表しているだけのことである。このことはちょうど、他の6[2/3]ポンドの糸から綿花が引き抜かれて、総生産物のすべての綿花が13[1/3]ポンドの糸のうちに圧縮されたようなものである。他方、この13[1/3]ポンドの糸のうちに含まれている紡績労働と、消費された労働手段がつけ加える価値部分とは、自分たち自身であることをやめて、自分たちとは別物の生産物部分である6[2/3]ポンドの糸に移行している。⑥同様に、この残りの6[2/3]ポンドの糸の一部--すなわち2[2/3]ポンド--もやはり、総生産物に消費された労働手段を4シリングの価値のうちに表現するだけのものとして、表わすことができる。⑦したがって、総生産物の1O分の8、すなわち16ポンドの糸は、使用価値として、すなわち糸として、現身のまま考察すれば、生産物の残りの1O分の2である4ポンドの糸と全く同じに、紡績労働の形成物であるにもかかわらず、右の関連においては、紡績労働、つまり紡績過程そのもののあいだに吸収された労働を、微塵も含んでいない。このことはちょうど、16ポンドの糸が紡績ぬきで糸になったかのようであり、この糸の糸姿態はまっかなつくりごとでもあるかのようである。じっさい、資本家がそれを24シリングで売って、この金額で自分の生産手段を買い戻せば、16ポンドの糸は装いを変えた綿花や紡錘や石炭等々にほかならないことが、明らかになる。⑧あとに残る4ポンドの糸のほうは、いまでは、原料や労働手段を微塵も含んでいない。この糸に含まれていた原料や労働手段は、すでにぬき出されて、最初の16ポンドの糸に合体されてしまった。だから、4ポンドの糸は、綿花や機械や石炭等々の生産に支出された労働を、微塵も含んでいない。6シリングというこの糸の価値は、紡績工自身が支出した12労働時間のまじりけない具象物である。20ポンドの糸という生産物のうちに具現された紡績労働は、いまでは、4ポンドの糸に、生産物の1/5に、集積されている。ちょうど、紡績工が、この4ポンドの紡糸を空中で紡いだか、または、人間労働の助けなしに天然に存在していて生産物には少しも価値をつけ加えない綿花や紡錘で、紡いだかのようである。⑨最後に、この4ポンドの糸のうち、半分は6時間の必要労働だけを、他の半分--最後の2ポンドの糸--は剰余労働だけを、具現している。総生産物のこの最後の部分だけが、剰余生産物を形成しているわけである。〉(江夏訳236-237頁)

《フランス語版》

 〈実を言うと、13[[1/3]ポンドの糸のなかには、13[1/3]シリングの価値をもつ13[1/3]ポンドの綿花しか存在しないのだが、これにつけ加えられる6[2/3]シリングという糸の価値は、残る6[2/3]ポンドの糸のうちに含まれる綿花の等価を形成しているのである。13[1/3]ポンドの糸は、20ポンドの糸という総生産物のうちに含まれるすべての綿花、総生産物の原料を表わすが、それ以上のなにものも表わさない。それはちょうど、総生産物中のすべての綿花が、13[1/3]ポンドの糸のうちに圧縮されてしまって、残る6[2/3]ポンドの糸のうちには、もはや綿花がわずかばかりも存在しないかのようである。他方、この13[1/3]ポンドの糸は、われわれの例では、消費された補助材料と労働手段の価値も、紡績作業によって創造された新しい価値も、微塵も含んでいないのである。〉(江夏・上杉訳215頁)

《イギリス語版》

  〈(5)であるから、撚糸20重量ポンドの紡績に使用された綿の全ては、その撚糸のうちの13 1/3重量ポンドで表されている。この後者重量ポンドの撚糸の中には、確かに重量としては、13 1/3重量ポンド以上の綿はなく、13 1/3シリングの価値しか含んでいないが、6 2/3シリングの追加的な価値がそれに含まれているのである。それが、残りの6 2/3重量ポンドが紡績において費やされた綿の等価分なのである。結果的には、言うなれば、全ての綿20重量ポンドが、13 1/3重量ポンドの撚糸に凝縮されて、あたかも6 2/3重量ポンドの撚糸には、綿が含まれていないかのように見えることになる。他方、この撚糸13 1/3重量ポンドの重量には、補助材料や労働手段の価値の、過程において新たに創造された価値の いずれの1原子も含まれてはいない。〉(インターネットから)


●第6パラグラフ

《初版》  第5パラグラフを参照。

《フランス語版》

 〈同様に、不変資本の残り4シリングを構成する別の2[2/3]ポンドの糸は、生産の全経過中に消費された補助材料と労働手段の価値のほかには、なにも表わしていないのである。〉(江夏・上杉訳215頁)

《イギリス語版》

  〈(6)同様、2 2/3重量ポンドの撚糸には、4シリングの、綿部分を除いた残りの不変資本が、体現化されている。他でもなく、20重量ポンドの撚糸の生産に費やされた補助材料や労働手段を表している。〉(インターネットから)


●第7パラグラフ

《初版》 第5パラグラフを参照。

《フランス語版》 フランス語版では第⑦、⑧、⑨パラグラフが一つのパラグラフにまとめられている。ここではその全体を紹介しておく(全集版でパラグラフが変わるところに/とパラグラフ番号を入れた)。

 〈⑦したがって、生産物の8/10、すなわち16ポンドの糸は、使用価値としては、残りの生産物部分と全く同様に、紡績工の労働によって形成されていても、全体としては、紡績作業期間そのもののあいだに吸収された労働を少しも含んでいない。ちょうど、この8/10 が労働の媒介なしに糸に変わって、その糸形態が幻想でしかないかのようである。そして実際に、資本家が16ポンドの糸を24シリングで売ってこの金額で自分の生産手段を買い戻すときに、この糸は装いを変えた綿花や紡錘や石炭などにほかならないことが、明らかになる。/⑧)他方、残る2/10の生産物、すなわち4ポンドの糸は、いまでは、12時間の作業継続中に生産された6シリングの新しい価値以外にはなにも表わしていない。消費された原料と労働手段との価値のうち4ポンドの糸に含まれていたものは、すでに抜き出されてしまって最初の16ポンドの糸に体現されている。いまでは、20ポンドの糸という生産物のうちに具現された紡績工の労働は、4ポンドの糸に、生産物の2/10に集積されているのだ。それはちょうど、紡績工がこの4ポンドの糸を空中で紡いだか、あるいは、人間労働の助けなしに無償で空中に存在していて生産物にはなんの価値も付加しないような綿花と紡錘とを用いて、紡いだかのようである。/⑨最後に、この4ポンドの糸のなかには、12紡績時間中に生産された価値全体が凝結しているが、この4ポンドの糸のうち、半分は充用された労働力の等価だけを、すなわち、前貸可変資本の3シリングだけを表わし、他の半分は3シリングの剰余価値だけを表わす。〉(江夏・上杉訳215-216頁)

《イギリス語版》

  〈(7)従って、我々は次のような結果に行き着く。生産物の 8 /10の部分、または16重量ポンドの撚糸は、その物の有用性という性格において、その他の残余の生産物と同様に、紡績工の労働の成果のごとく見える。が、この関連において見れば、何も、紡績過程で支出された労働を含んではいないし、吸収してもいないのである。それはまるで、あたかも綿が自身で、誰の助けも受けずに、撚糸に変化したかのようである。その外観はまさに奇策というか、騙しのようである。直ぐに、資本家が、これを24シリングで売れば、つまり、彼の生産手段を貨幣に置き換えれば、この16重量ポンドの撚糸が、相当する綿と紡錘摩損分の偽装以外の何物でもないことの証明となる。〉(インターネットから)


●第8パラグラフ

《初版》 第5パラグラフを参照。

《フランス語版》 第7パラグラフで紹介。

《イギリス語版》

  〈(8)他方の、残りの 2 /10の生産物、または4重量ポンドの撚糸は、12時間の紡績過程で創造された、新たな価値 6シリング以外の何物でもない。この4重量ポンドに移管された全ての価値は、いはば、最初の紡績分の16重量ポンドの中に一体化されるべき原料と労働手段から掠め取ったようなものと云えるかも知れぬ。この場合、あたかも、紡績工が空気の中から4重量ポンドの撚糸を紡ぎ出したようでもあり、または、彼がそれらを、綿や紡錘の助けを得て、まるで降って湧いた自然の贈り物のごとく、何らの価値を移管することもなく生産物を紡いだかのようでもある。〉(インターネットから)


●第9パラグラフ

《初版》 第5パラグラフを参照。

《フランス語版》 第7パラグラフで紹介。

《イギリス語版》

  〈(9)この4重量ポンドの撚糸の中には、この過程で新たに創造された全ての価値が濃縮されている。その一方の半分は、消費された労働の価値 または3シリングの可変資本と等価である。もう一方の半分は、剰余価値 3シリングを表す。〉(インターネットから)


●第10パラグラフ

《初版》

 〈したがって、20ポンドの糸という総生産物は、次のように分解することができる。

              20ポンドの糸という総生産物、価値は30シリング。
     24シリングの不変資本
     13[1/3]ポンドの糸(=原料)    +    2[2/3]ポンドの糸(=労働手段)
     20ポンドの綿花20シリング  +    紡錘、石炭等々4シリング
     4O労働時間の具象物             +    8労働時間
     紡績過程以前の過去の48労働時間の具象物=24シリング

     3シリングの可変資本                    剰余生産物
     2ポンドの糸                                   2ポンドの糸
     3シリングという労働力の価値      3シリングという剰余価値
     紡績工の6時間の必要労働              紡績工の6時間の剰余労働
     紡績過程で支出された12労働時間の具象物=6シリング〉(江夏訳237-238頁)

《フランス語版》

 〈紡績工の12労働時間は、6シリングの価値のうちに具現されているから、30シリングに達する糸の価値は、60労働時間を表わす。それは20ポンドの糸のうちに存在するが、そのうちの8/10 、すなわち16ポンドは、紡績作業に先行した48労働時間の具現、すなわち、糸の生産手段のなかに含まれた労働の具現であり、2/10すなわち4ポンドの糸は、紡績作業中に支出された12労働時間の具現である。〉(江夏・上杉訳216頁)

《イギリス語版》

  〈(10)紡績工の12労働時間が、6シリングを体現するのであるから、30シリングの価値がある撚糸には、60労働時間が体現されていなければならない。そして、この労働時間の量は実際に20重量ポンドの撚糸に存在しているのである。撚糸の8 /10、または16重量ポンドのそれには、生産手段として、紡績過程の始まる前に、48時間の労働が支出され、物体化されているのである。そして、残りの2 /10、または4重量ポンドには、12時間の作業が過程自体において物体化されるのである。〉(インターネットから)


●第11パラグラフ

《初版》

 〈20ポンドの糸という総生産物のうち、16ポンドすなわち4/5は、不変資本だけを代表しているが、1/5すなわち4ポンドのほうは、紡績過程そのものにおいて支出された労働だけを代表している。それにもかかわらず、2Oポンドの糸は、12時間の紡績労働の生産物になっている。ここでまたもや、労働過程と価値増殖過程との区別が現われている。1労働日の生産物の価値すなわち生産物価値は、日々の価値生産物よりも大きいということが、既知のことながら、繰り返されている。たとえば、日々生産される20ポンドの糸は30シリングに等しいが、1日のあいだに生産されるそれの価値部分は6シリングに等しいにすぎない。この表現は、生産物価値の機能的または概念的に相異なる諸成分が、生産物そのものの比率的諸部分で表現されているという点で、さきの表現とはちがう。〉(江夏訳238頁)

《フランス語版》

 〈どうして糸の全価値が、その生産中に産み出された価値と、すでにその生産手段のうちに先在していた価値とを加えたもの、に等しくなるかは、先に見たところである。われわれがいましがた見たのは、機能上ちがいのある価値諸要素が、生産物の比例部分でどのように表現されうるか、ということである。〉(江夏・上杉訳216頁)

《イギリス語版》 イギリス語版ではこのパラグラフは二つに分けられているが、ここでは一緒に紹介しておく。

  〈(11)前のページで、我々は、撚糸の価値が、その撚糸の生産において新たに創造された価値と、それ以前に、生産手段として存在していた価値の総計と 等価であることを見た。
   (12)今、生産物の価値の様々な構成要素が、それぞれ機能的には互いに違っている部分が、生産物自体の比例部分に該当するものによって、いかに表されているかが、ここに示されている。〉(インターネットから)


●第12パラグラフ

《初版》

 〈生産物--生産過程の成果--が、生産手段に含まれている労働だけを表わしている生産物量なり、生産過程でつけ加えられた必要労働だけを表わしているもう一つの生産物量なり、この同じ過程でつけ加えられた剰余労働だけを表わしているしんがりの生産物量なりに、このように分かれていることは、のちにこのことをめんどうで未解決な問題に応用するさいに明らかになるように、簡単であるとともに重要なことでもある。〉(江夏訳238-239頁)

《フランス語版》

 〈生産物--生産の結果--は、生産手段に含まれている労働または不変資本部分だけを表わすある分量と、生産の経過中に付加された必要労働または可変資本部分だけを表わす他の分量と、この同じ過程で付加された剰余労働または剰余価値だけを表わす最後の分量とに分解されるが、この分解は、後にこれがいっそう複雑でまだ未解決な問題に応用されるとき示されるであろうように、単純であると同時に重要でもある。〉(江夏・上杉訳216頁)

《イギリス語版》

  〈(13)生産物を、それぞれ違った部分に分けるというこの方法、そのうちの一つは、ただ、生産手段のために費やされた以前の労働を表し、または不変資本を表し、その他の部分は、ただ、生産過程の中で費やされた必要労働を表し、または可変資本を表し、さらにもう一つの最後の部分は、ただ剰余労働を表し、または剰余価値を表すという このように分けるという方法は、後に、その応用から複雑極まるこれ迄の解けなかった問題において、この簡単な分割の形以上に、重要な分析的な支点となるであろう。〉(インターネットから)


●第13パラグラフ

《初版》

 〈われわれはたったいま、総生産物を、12時間労働日の完成した成果であると見なしたところだ。だが、われわれはまた、この総生産物の成立過程をたどりながら、しかもなお、いろいろの部分生産物を、機能的に区分されたまちまちな生産物部分として表わすこともできるのである。〉(江夏訳239頁)

《フランス語版》

 〈ある期間たとえば1日のうちに得られた総生産物を、その価値のさまざまな要素を表わす諸部分にこのように分解するかわりに、部分生産物を、1労働日の諸部分から生ずるものとして表わすことによって、同じ結果に到達することもできる。われわれは、前者のばあい総生産物を与えられたものとして考察し、後者のばあいこれをその進展の諸段階において追跡するのである。〉(江夏・上杉訳216-217頁)

《イギリス語版》

  〈(14)前述の考察において、我々は、総計生産物を、直ぐに使えるものとして、12時間労働日の 最終的な結果として取り扱った。とはいえ、我々は、そのように生産の全段階を通しての総計生産物として見るだけでなく、最終または、総計生産物の 機能的に異なる部分として、それぞれ違った段階で与えられた部分的生産物として表すようにして見ても、前と同じ結果を必然的に得る。〉(インターネットから)


●第14パラグラフ

《初版》

 〈紡績工は、12時間で20ポンドの糸を生産するから1時間では1[2/3]ポンドの糸を生産し、8時間では13[1/3]ポンドの糸を生産する。つまり、まる1労働日中に紡がれてしまう綿花の総価値に相当する部分生産物を、生産する。同じようにして、次の1時間36分の部分生産物は、2[2/3]ポンドの糸に等しく、したがって、12労働時間中に消費された生産手段労働手段の誤記〕を表わしている。全く同じように、紡績工は、次の1時間12分では、2ポンドの糸=3シリング を、すなわち、彼が6時間の必要労働で作り出す全価値生産物に等しい生産物価値を、生産する。最後に、彼はしんがりの5/4時間でも同様に2ポンドの糸を生産するが、この糸の価値は、彼の半日の剰余労働によって生産された剰余価値に等しい。この種の計算は、イギリスの工場主には常用のものであって、彼はたとえばこう言うであろう。自分は1労働日の最初の8時間すなわち2/3で自分の綿花を回収した、云々と。明らかにこの方式は正しい。それは、実は、最初の方式を、生産物の諸部分が出来あがって並びあっている空聞から、それらが次々に出来あがってくる時間に翻訳したものである。ところが、この方式はまた、いたって組野な考えをも伴うものであって、価値増殖過程に実践的には関心をもちながら、この過程を理論的には曲解することを利益ともしている人々の頭には、ことさらにそうである。そこで、次のように想像することができる。たとえば、わが紡績工は、彼の労働日の最初の8時間では綿花の価値を、次の1時間36分では消耗された労働手段の価値を、次の1時間12分では労賃の価値を、生産または補塡し、大いに有名な「最後の1時間」だけを、工場主に剰余価値の生産のためにささげるのだ、と。こうして、この紡績工には二重の奇跡が背負わされる。それは、綿花や紡錘や蒸気機関や石炭や油等々を、彼がそれらを用いて紡ぐのと同じ瞬間に生産し、そして、与えられた強度をもつ1労働日を、それと同じ強度の5労働日にする、という奇跡である。なぜならば、このばあいには、原料や労働手段の生産には四つの12時間労働日が必要であり、それらを糸にするにはもう一つの12時間労働日が必要であるからだ。強欲がこのような奇跡を信ずるということ、また、この奇跡を証明する学説上のおべっか使いにこと欠かないということは、次の例で明らかである。〉(江夏訳239-240頁)

《フランス語版》

 〈紡績工は12時間に20ポンドの糸、したがって1時間では1[2/3]ポンドを生産する。8時間では13[1/3]ポンド、すなわち、1労働日のあいだに紡がれた綿花全体に値する部分生産物を、生産する。同じようにして、これにつづく1時間36分の部分生産物は、2[2/3]ポンドの糸に等しく、したがって、12労働時間中に消費された労働手段の価値を表わす。さらに同様に、紡績工はつづく75分〔マィスナー第2版および第4版、現行版の各ドイツ語版では72分〕では、3シリング--彼が6必要労働時間中に創出する価値全体に等しい価値--に値する2ポンドの糸を生産する。最後に、彼は最終の75分〔ドイツ語現行版では72分〕でやはり2ポンドの糸を生産するが、その価値は、彼の半日の剰余労働によって生産された剰余価値に等しい。イギリスの工場主は、この種の計算を自分用に用いている。彼はたとえば、1労働日のうちの最初の8時間すなわち3分の2で、自分の綿花の出費を償うのだ、と言うだろう。われわれが見るとおり、この方式は正しい。これは実は、第一の方式を、空間から時間に、すなわち、生産物の諸部分がすっかり完成されて一緒に並べられた空間から、それらがあいついで現われてくる時間に、移し変えたものである。ところが、この方式は同時に、野蛮で奇妙ないろいろの考え方を伴うこともありうるのであって、実践のうえでは価値の増殖に関心をもちながら理論のうえでは相変わらずこの過程の意味を取り違えることに関心をもっている人々の頭脳では、とりわけそうである。たとえば、われわれの紡績工が彼の労働の最初の8時間には綿花の価値を、次の1時間36分には消費された生産手段〔労働手段のこと〕の価値を、つづく1時間12分には賃金を、生産または更新し、工場主には剰余価値の生産のために有名な「最終1時間」だけをささげる、と想像することもありうる。こうして、紡績工には二重の奇跡が、すなわち、綿花や紡錘や蒸気機関や石炭や油などを、彼がそれらを用いて紡ぐのと同じ瞬間に生産し、こうして1労働日を5労働日にするという奇跡が、負わされるのである。たとえばわれわれの例では、原料と労働手段の生産は12時間の4労働日を必要とし、それらの糸への転化のほうは、さらに12時間の1労働日を必要とするのである。ところが、利殖の渇望は、このような奇跡の存在をやすやすと信じさせ、その合理性の証明を引き受ける学説上のおべっか使いを見出すのになんの苦労もいらない。このことはやがて、歴史上有名な次の事例によって証明されるのである。〉(江夏・上杉訳217-218頁)

《イギリス語版》

  〈(15) 紡績工は、12時間で、20重量ポンドの撚糸を生産する。または、1時間に、1 2/3重量ポンドのそれを生産する。であるから、8時間では、13 1/3重量ポンドのそれを、または全日で紡がれた全綿量の価値と等価の部分生産物を生産する。同様に、次の1時間36分での部分生産物は、2 2/3重量ポンドの撚糸であり、12時間で費やされた労働手段の価値を表す。これに続く1時間12分で、紡績工は、2重量ポンドの撚糸、3シリングの価値を有するものを生産する。この価値は、彼が6時間の必要労働で創造する全価値と等価である。最終的に、最後の1時間12分で、彼はもう一つの2重量ポンドの撚糸を生産する。その価値は、彼が半日間の剰余労働によって創造する剰余価値と等価である。この計算方法は、毎日の英国工場主の狙いに迎合する。こんな具合に彼は云うだろう。最初の8時間または2/3労働日において、彼は彼の綿の価値を取り返すと。そして、以下残り時間云々と。この方法は、前者と同様、完璧に正確である。事実は、先に述べた最初の方法は、ここでとの違いで云えば、空間に応用したものであって、そこには完成した生産物の違った部分が次々と並んでおり、ここでは連続して生産されたそれらの部分が時間的に取り扱われていると云うことである。しかしながら、この方法は、粗暴極まる思考が伴い易く、もっとはっきり云えば、実際的に価値を産む価値を作る過程に関心を持つばかりに、その過程そのものを理論的に誤解している者の頭の中では、そんな具合となる。そのような人々の頭の中には、次のような思考が入り込むであろう。例えば、我が紡績工が、彼の労働日の最初の8時間において、綿の価値を生産、または置き換える。続く1時間36分で、労働手段の摩損分の価値を、次の1時間12分で、賃金の価値を、そして、剰余価値の生産を工場主に捧げる、それがよく知られるところの、「最後の時間」であると。(赤字イタリック)これでは、我が貧しき紡績工は、綿、紡錘、蒸気機関、石炭、オイル、その他を、生産し、同時にそれらを用いて紡績するだけでなく、1労働日を5労働日に拡大するという二重の不可思議を行う者に作り替えられる。なぜなら、我々が今検討している例で云うなら、原料と労働手段の生産が、12時間1労働日の4労働日を要求し、そして彼等の願う撚糸が、もう一日のそのような労働日を要求するからである。利益の渇望が、愚かな心情を、このような不可思議の中に想起する。そして、これらを検証する意志など少しも持ち合わせていない おべっか使いの空論家達によって、この愚かな心情が、次のような歴史的にも有名になった論述で主張された。〉(インターネットから)


第3節 シーニアの「最後の1時間」


●第1パラグラフ

《61-63草稿》

 〈第二の例として、ここに、剰余労働および剰余価値についての経済学者たちの誤解〔を示すもの〕としてシーニアを引用しなければならない。〉(草稿集④278頁)

《初版》 第3節は初版と現行版とはだいたい対応している。

 〈1836年のある朝、経済学と「名文」とで有名なナッソー・W・シーニァーは、イギリスの経済学者中のいわばクラウレン〔センチメンタルな物語の著者カール・ホインのペンネーム〕は、オックスフォードで経済学を教える代わりに、マンチェスターでそれを学ぶために、オックスフォードからマンチェスターに呼び出された。工場主たちは、最近制定された工場法とかさらにそれ以上のものを要求する10時間運動に対抗して、彼を懸賞剣士として選んだのである。彼らは、常日ごろの実務的な洞察力を働かせて、この教授先生には「うんと磨きをかけることが必要だ」ということを、認めていた。だから、彼らは彼をマンチェスターに呼び寄せたわけである。教授先生のほうは、マンチェスターで工場主たちから受けた講義を、次のパンフレットに書き上げた。『綿業に及ぼす影響から見た工場法についての手紙、ロンドン、1837年』が、それである。そのなかで、なかんずく、次のようなお説教を聞くことができる。〉(江夏訳240頁)

《フランス語版》

 〈1836年のある朝、イギリス経済学者のノルマリアソ〔エリート〕と呼ばれてよい、その経済学でも「その名文」でもひとしく有名な、ナッソー・W・シーニアは、オックスフォードで教えていた経済学をマンチェスターに学びにくるように招かれた。工場主たちは、新たに公布された工場法となおそれを越えて進んで行く10時間運動とに反対する弁護人として、彼を選んだのである。しかし、彼らは平素の実践的な感覚を働かせて、この教授が奥義をきわめた学者になるためには最後の仕上げを大いに必要とする〈"wanted a good deal of finishing"〉ことを、承知していたのであった。だから、彼らは彼をマンチェスターに呼び寄せたのである。この教授は、工場主たちから受けた授業を、生き生きとした文体で、『綿業に及ぼす影響から見た工場法にかんする書簡』、ロンドン、1837年、という表題のパンフレットに書いた。それは、次の一節から判断できるように、おもしろい読み物である。〉(江夏・上杉訳218頁)

《イギリス語版》

  〈(1)1836年のあるよく晴れた朝、英国経済学者の才人(フランス語)とよばれるやも知れぬ、かつ、彼の経済学的科学のようなものと、彼の作文の美しきスタイルとでよく知られている ナッソー W. シーニョアは、オックスフォードからマンチェスターに呼び出された。後所において、前所で教えた政治経済学を学ぶために。工場主達は、彼を、彼等の代表選手に選出したのである。単に、新たに通過した工場法に反対するためだけではなく、依然として、より脅威的な10時間運動の議論に 対抗するためである。彼等のいつもの実用的な鋭い感覚では、この学者先生には最後の仕上げ部分がもう少し必要であり、そのことがあるので、彼等は彼に手紙を送ったのであった。マンチェスターの工場主らの授業を受けた教授の側だが、それを体現化して、小冊子を記した。そのタイトルは、「工場法に関する諸論 綿工業に及ぼす影響について」 1837年 ロンドン となる。ここに、我々は、様々の記述の中に、次のようなご指摘を見つけることとなる。「現在の法のもとでは、18歳以下の人間を雇い、1日に11 1/2時間以上働かせることができる工場はない。すなわち、週5日間は12時間で、土曜日は9時間だからである。」〉(インターネットから)


●第2パラグラフ

《経済学批判要綱》

 〈「現行法のもとでは、18歳未満の人員を充用する工場は、1日に11時間半、すなわち5日間は1日12時間、土曜日は9時間を越えて操業することはできない。ところで次の分析は、このように操業している工場では、純利潤の全部が最後の1時間から引き出されていることを示している。ある製造業者が1OO,000ポンド・スターリングを--彼の工場と機械装置に8O,000ポンド・スターリングを、そして原材料と賃銀に2O,000ポンド・スターリングを--投資するとしよう。この工場の年間の売上高は、資本が一年に1回転し、また粗利潤が15%であると仮定すれば、115,000ポンド・スターリングの価値をもつ商品にならなければならない。この商品は、2O,000ポンド・スターリングの流動資本が2か月よりもいくぶん長い期間ごとに、貨幣から商品へ、商品から貨幣へとたえず転化し、また再転化することによって生産されたものである。〔」〕(実際には剰余労働の転化および再転化は、まず商品に、そのあとでふたたび必要労働等々に、となるのだ。)〔「〕23の半労働時間のそれぞれは、この115,000ポンド・スターリングのうちの5/115を、すなわち1/23を生産する。115,000の全体をなす23/23のうちの20/23は、すなわち115,000のうちの100,000ポンド・スターリングは、ただ資本を補塡するだけである。1/23(すなわち115,000のうちの5OOO)は工場および機械装置の減価を補塡する。あとに残る2/23は、すなわち毎日の23の半時間のうちの最後の2つの半時間は、1O%の純利潤を生産する。それゆえ、もしも(価格は同じままであるとして)この工場が11時間半に代わって13時間操業を続けることができるとすれば、流動資本に約2600ポンド・スターリングを追加することによって、純利潤は2倍以上になること、であろう。」(すなわち、それに比例してより多くの固定資本が使用されることもなく、また労働の支払もまったく行なわれること/なしに、26OOが加工されることになる。総利潤と純利潤は、資本家のために無償で加工される原料とイコールであり、またそういうわけで、もちろん1時間の増加は100%の増加にイコールである。ただしそれは、もしも剰余労働が、この糞ったれ氏が誤って前提しているように1/12労働日にすぎず、あるいはシーニアが言うように2/23労働日にすぎないとすれば、の話である。)「他方、もし労働時間が毎日、日に1時間だけ短縮されるならば(価格が同じままであるとして)、純利潤はなくなるであろうし、もしそれが1時間半短縮されるならば、総利潤もなくなるであろう。流動資本は補塡されるであろうが、固定資本のますます増大する減価の償却基金はないであろう。」(12、13〔ぺージ〕。)……(中略)……「わが国の木綿工場では、操業当時は、24時間をとおして操業されていた。機械装置の掃除や修/理がむずかしいことと、監視人、記帳係、等々の人員を2倍雇う必要から生じる責任の分散のために、このような慣行はほとんど廃止されたが、しかしホブハウス法(20)によって週操業時間が69時間に短縮されるまでは、わが国の工場は一般に週70時間から80時間操業していた。」(同前、15ページ。)
  (20)〔注解〕サー・ジョン・カム・ホブハウスによって提案きれた1831年の工場立法は、すべての工場における18歳未満の者の労働時間の最大限が、1日12時間、土曜日は9時間であるべきことを定めていた。〉(草稿集②694-697頁)

《61-63草稿》

 〈第一。著書『綿業に及ぼす影響から見た工場法についての手紙』、ロンドン、1837年、のなかで、ナソー・W・シーニアは次のように言う(12、13ページ)。――
  「現行法のもとでは、18歳未満の人員を使用している工場は、1日に11時間半--すなわち週の初めの5日間は12時間、土隠日は9時間--よりも長く作業することができない。ところで次の分析は、このような工場では純利得(Net Profit)の全部が最後の1時間から引き出されている(出ている、is derived)ことを示す。ある工場主が1OO,000ポンド・スターリングを--8O,000ポンド・スターリングを工場建物と機械類とに、2O,000ポンド・スターリングを原料と労賃とに--投資するとしよう。総資本の回転が年1回で、総収益(gross profits)が15%だと仮定すれば、この工場の年収益は、2O,000ポンド・スターリングの流動資本が2か月よりもやや長い期間ごとに貨幣から商品へ、また商品から貨幣へと、不断に転化、また再転化されることによって再生産される、115,000ポンド・スターリングの価値ある商品とならなければならない。この115,000ポンド・スターリングのうち、〔11時間半労働日に含まれる、〕23個の半労働時間のそれぞれが日々生産するのは、5/115、すなわち1/23である。115,000ポンド・スターリングの全体をなす(constituting the whole 115,000 l.)この23/23のうちの20/23、すなわち115,000ポンド・スターリングのうちの100,000ポンド・スターリングは、単に資本を補塡するだけであり、その1/23、すなわち15,000ポンド・スターリング(利得)のうちの5OOOポンド・スターリングは、工場と機械類との損耗を補塡する。残る2/23、すなわち毎日の最後の二つの半時間が10%の純利得を生産するのである。それゆえ、かりに(価格が同じままで)工場が11時間半に代わって13時間作業してもよいとするならば、流動資本に約2600ポンド・スターリングの追加をすることによって、純利潤は倍以上になるであろう。他方、かりに労働時間が毎日1時間だけ短縮されるとするならば、価格が同じままであれば、純利益がなくされているであろうし、またかりにそれが1時間半短縮されるとするならば、総利潤さえもなくされているであろう。」〉(草稿集④310-311頁)

《初版》

 〈「現行法のもとでは、18歳未満の者を使用する工場は、1日に11[1/2]時間以上、すなわち〔週の〕初めの5日間は12時間以上、土曜日は9時間以上、作業することはできない。ところで、次の分析(!)は、このような工場では純益の全部が最後の1時間から引き出されている、ということを示している。ある工場主が1O万ポンド・スターリングを投資する--8万ポンド・スターリングは工場建物と機械に、2万ポンド・スターリングは原料と労賃に。この工場の年間売上げは、資本が1年に1回転して総収益が15%であると仮定すれば、11万5000ポンド・スターリングの価値をもつ商品であるにちがいない。……この11万5000ポンド・スターリングのうち、23の半労働時間のおのおのは、毎日5/115すなわち1/23を生産する。11万5000ポンド・スターリングの全体を構成している(constituting the whole 115000 pd.st.)この23/23労働時間のうち、20/23すなわち11万5OOOのうちの1O万は、資本を補塡するにすぎない。1/23、すなわち総収益(!)1万5OOOのうちの5000ポンド・スターリングは、工場と機械の損耗を補塡する。残りの2/23、すなわち毎日の二つの最後の半時間は、1O%の純益を生産する。だから、価格が変わらないとして、この工場が11[1/2]時間ではなく13時間作業してもかまわなければ、流動資本として約2600ポンド・スターリングを追加すると、純益が2倍以上になるであろう。他方、労働時間が毎日1時間だけ短縮されれば純益はなくなるであろうし、1[1/2]時間短縮されれば総収益もなくなるであろう(32)!」〉(江夏訳240-241頁)

《フランス語版》

 〈「現行法では、18歳未満の人を使用するどんな工場も、1日に11[1/2]時間、すなわち、週の初めの5日間には12時間、土曜日には9時間を越えて、作業することができない。ところで、次の分析(!) は、この種の工場では純益の全部が最終の1時間から生ずることを証明している。ある工場主が10万ポンド・スターリングを支出する。8万ポンド・スターリングを建物と機械に、2万ポンド・スターリングを原料と賃金に。資本が年にただ1回転して総収益が15%に達すると仮定すれば、この工場は商品を年々11万5000ポンド・スターリングの価値だけ引き渡すことになるはずである。23の半労働時間のおのおのは、日々この総額の5/115、すなわち1/23を生産する。11万5000ポンド・スターリングの全体をなす〈constituting the whole £115,000〉この23/23 のうち20/23 、すなわち、11万5000ポンド・スターリングのうち10万ポンド・スターリングは、たんに資本だけを更新または補塡する。1/23、すなわち、総収益(!)1万5000のうち5000ポンド・スターリングは、工場と機械との損耗を償う。残る2/23、日々の二つの最終の半時間が、10%の純益を生産する。したがって、価格が同じままであって、工場が11[1/2]時間のかわりに13時間作業することができれば、そしてまた、約2600ポンド・スターリングの流動資本が増加されれば、純益は2倍以上になろう。他方、労働時間が1日当り1時間短縮されれば純益は消減し、その短縮が1[1/2]時間にまで進めば総収益もまた同じように消滅するであろう」(9)。〉(江夏・上杉訳218-219頁)

《イギリス語版》

  〈(2) 「さて、以下の分析( ! ) によれば、その様に操業する工場では、全純利益は、最後の時間 (イタリック) から引き出されていることが示されるであろう。私は、工場主が、10万英ポンドを投資したものと想定することにする。8万英ポンドは工場と機械類に、2万英ポンドを原材料と賃金にである。資本が年に1回転するものとし、粗利が15%あるものとすれば その粗利は1万5千英ポンドに相当するものでなければならない。…工場の年の回収額 11万5千英ポンドのうち、各23/2時間の作業が生産するもののは、5/115 または1/23 である。(訳者注: ここはシーニョアの文字がそうなっているというだけのことなので、字句の意味の追及も、比例計算をしてみることも必要はないが、彼の云いたいことが何であるかを、頭に入れながら以下読み進めてもらいたい。) この23/23(全体の11万5千英ポンドを構成するものであるが) のうち、20/23、言うなれば11万5千英ポンドのうちの10万英ポンドは、単純に資本を置き換えるものであり、- 1/23 (または、11万5千英ポンドのうちの5千英ポンド) は、工場や機械類の損耗分を補うものである。残った2/23は、毎日の23時間半(訳者注: 分母のということ)の、最後の二つに該当するのであるが、10%の純利益を生産する。従って、(価格が変わらないものとすれば) もし、工場が11時間半に代わって13時間の作業を保持することができれば、運用する資本に、2千600英ポンドを追加することで、純利益は二倍になる。他方、もし、作業時間が1日1時間減らされることになったなら、(価格が変わらないものとすれば) 純利益は破壊されるであろう。もし、1時間半が減らされれば、粗利も壊滅されるであろう。」〉(インターネットから)

 (付属資料(2)に続きます。

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『資本論』学習資料No.33(通算第83回)(8)

2023-02-28 21:00:07 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.33(通算第83回) (8)

 

  【付属資料】 (2)

●注32

《61-63草稿》

 〈第一。シーニアが挙げている実証的なデータの正否は、われわれの研究の対象にとってはどうでもよいことである。にもかかわらず、ついでに述べておいていいのは、その完壁な専門知識によっても何物にも惑わされるととのない真理への愛によっても卓越した人物である、イギリスの工場監督官レナド・ホーナが、シーニア氏によってマンチェスターの工場主たちの忠実な受け売りだとして1837年に挙げられたこれらの記述が誤っていることを証明した、ということである。(レナド・ホーナ『シーニア氏への手紙』、ロンドン、1837年、を見よ。〉〉(草稿集④311頁)

《初版》

 〈(32) シーニァー、前掲書、12、13ページ。われわれは、われわれの目的にとってはどうでもよい珍説には、たとえば、工場主たちが損耗した機械等々つまり資本成分の補塡を、利益--総収益であろうと純益であろうと、不浄であろうと清浄であろうと--として計算する、という主張には、立ち入らないことにする。また、あげられた数字が正しいか誤っているかということにも、立ち入らないことにする。それらがいわゆる「分析」なるものにしか値いしないことを、レナード・ホーナーは、『シーニァー氏宛の手紙、ロンドン、1837年』のなかで立証している。レナード・ホーナーは、1833年の工場調査委員の一員であり、1859年までは工場監督官、というよりも実は工場監察官であって、イギリスの労働者階級にたいして不朽の功績を立てた。彼は、腹を立てた工場主にたいしてだけでなく、工場での「入手」の労働時間を数えるよりも下院での工場主の「票」を数えるほうがはるかに重要であった大臣たちにたいしても、終生の戦いを続けたのである。〉(江夏訳241頁)

《フランス語版》  フランス語版では注33とその補足は注(9)として一つに纏められている。ここでは注(9)として纏めたものを紹介しておく。

 〈(9) シーニア、前掲書、12、13ページ。多かれ少なかれ好奇心をそそってもわれわれの目的にとってはどうでもよい詳細には、立ち入らない。たとえば、工場主たちが、機械などの損耗の補塡、すなわち資本の一構成部分の補塡を、総収益であろうと純益であろうと、清浄な収益であろうと不浄な収益であろうと、彼らの収益のうちに算入する、という主張は検討しない。持ち出された数字の正確さまたは誤りも検証しない。レナード・ホーナーは、『シーニア氏に与える書簡』、ロンドン、1837年、のなかで、持ち出された数字がいわゆる「分析」以上の値うちがない、ということを証明した。レナード・ホーナーは、1833年の工場調査委員の一員であり、1859年までは工場監督官というよりも実は工場監察官であって、イギリスの労働者階級から感謝される不滅の権利を得たのである。彼の生涯は、激怒した工場主たちにたいするばかりでなく、さらになお、工場の「人手」の労働時間よりも下院での工場主諸君の「投票数」を数えることのほうがはるかに重要であると思っていた閣僚たちにたいする、長い闘争にほかならなかった。
  シーニアの叙述は、その内容の誤りとは関係なしに、混乱している。厳密に言えば、彼の言おうとしたことは、次のことである。
  工場主は労働者を、毎日11[1/2]時間すなわち23[1/2]時間働かせる。まる1年の労働も個々の各労働日の労働と同じように、11[1/2]時間すなわち23[1/2]の半時間から(すなわち、23[1/2]時間に1年間の労働日数を乗じたものから)成り立っている。このことが認められれぱ、23[1/2]労働時間は11万5000ポンド・スターリングの年生産物を引き渡す。1/2労働時間は1/23×115000ポンド・スターリングを生産する。20/2労働時間は20/23×115000ポンド・スターリング=100000ポンド・スターリングを生産する。すなわち、前貸資本をたんに補墳するだけである。三つの半労働時間が残るが、それは3/23×115000ポンド・スターリング=15000ポンド・スターリングという総収益を、生産する。この三つの半労働時間のうち1/2時間は、1/23×115000ポンド・スターリング=5000ポンド・スターリングを生産する。すなわち、工場と機械との損耗をたんに補塡するだけである。二つの最終の半時間、すなわち最終の1時間労働は、2/23×115000ポンド・スターリングを生産するが、この金額が純益を形成する。本文では、シーニアは、生産物の最終の2/23を労働日そのものの諸部分に転化している。〉(江夏・上杉訳219-220頁)

《イギリス語版》  フランス語版と同様、注33とその補足は一つに纏められている。

  〈本文注: この様な我々の目的にとって重要でもなんでもない常軌を逸した見解、例えば、工場主が正規の機器類の磨耗分を粗利としてまたは純利として認識しているとか、資本の一部を置き換えるためにと認識しているとか言う主張は無視しておこう。また、彼の数字が正確かどうかについても無視しておこう。レオナード・ホーナーは、「シーニョア氏への書簡」ロンドン 1837年で、俗に云う分析ものと大した違いがないことを明らかにしている。レオナード・ホーナーは、1833年の工場査問委員会の一委員であり、1859年まで、検査官、いや、工場監査官であった人である。彼は、労働者階級のために不滅の功績を成した。彼は、敵意すら抱く工場主と生涯を掛けて戦っただけではなく、工場で何時間も働く「手」よりも工場主の票を重要視する内閣とも戦ったのであった。

  理論への骨折りがどうであれ、シーニョアの論述は混乱している。彼が真に云いたいと意図したことは、次のことであった。工場主は、作業者を日11時間半または23/2時間雇う。労働日と同様に、労働年とすれば、それが、11時間半または23/2時間の、その労働日数の1年倍であることに思い当たる。この思いつきによれば、23/2時間 (訳者注: 1/2時間単位で、その23単位分) が年 11万5千英ポンドの生産物を産む、1/2時間 (訳者注: 1/2時間単位で、その1単位分)では、1/23×£115,000、 20/2時間 (訳者注: 1/2時間単位で、その20単位分)では、20/23 x £115,000 = £100,000、すなわち、前貸しした資本と同額と代るものとなる。残りの3/2時間 (訳者注: 1/2時間単位で、その3単位分)は、3/23 x £115,000 = £15,000 または粗利である。この3/2時間のうちの一つは、1/23 x £115,000 = £5,000 を産み、すなわち、機器類の損耗分を補う。更に残った 2/2時間 (訳者注: 1/2時間単位で、その2単位分)、最後の時間が、2/23 x £115,000 = £10,000 または純利益を産む。シーニョアは、彼の小冊子本文で、この最後の2/23 の生産物を、労働日そのものの該当部分にすり替えている。〉(インターネットから)

●注32への補足

《初版》 初版にはこの補足はない。

《マルクスからエンゲルスへの1871年11月9日付け書簡》

   〈同、192ページ注32のあとにつぎを補足する、
  「注32への著者の補足。シーニアの言うことは、内容はまったく別としても、混乱している。彼が言おうとしているのは、じつはこうなのだ。
  工場主は毎日労働者を11時間半、すなわち23/2時間働かせる。1個の労働日と同様に、年問労働も23/2時間(すなわち、23/2労働時間かける年間労働日総数)からなっている。このことを前提すれば、
  23/2労働時間は115,000〔ポンド〕の総生産物を生産し、
    1/2労働時間は1/23×115,000ポンドを生産し、
    23/2労働時間は23/23×115,000ポンド=115,000ポンドを生産し、
    20/2労働時間は20/23×115,000ポンド=100,000ポンドを生産し、
つまり、ただ前貸資本100,000ポンドを補塡するだけである。
  残った3/2労働時間は3/23×115,000ポンド=15,000ポンドすなわち
    総収益を生産する。
  この3/2労働時間のうち、1/2労働時間は1/23×115,000ポンド=5,000ポンドを生産する、すなわち、それはただ工場や機械類の損耗の補塡分を生産するだけである。
  最後の2/2労働時間、すなわち最後の1労働時間は、生産物の最後の2/23、つまり2/23×115,000ポンド=10,000ポンドを生産する、すなわち、純益を生産する。これを証明すべきであったのだ。
  ところが、文中シーニアは言う、「残りの2/23時間、すなわち毎日の最後の両半時間は10パーセントの純益を生産する」。つまり彼は突然、彼が生産物を分けた23分の1を、彼が労働日を分けた1/2時間ととり違えているのだ。〉(全集第33巻250頁)

《フランス語版》  注33のところですでに紹介。

《イギリス語版》

   注33のところで紹介。


●第3パラグラフ

《初版》

 〈ところで、教授先生はこんなものを「分析」と呼んでいる! 彼が、労働者たちは1日のうちの最大時間を建物や機械や綿花や炭等々の価値の生産に浪費し、したがってそれらの価値の再生産あるいは補塡に浪費している、という工場主たちの嘆きを信じたとすれば、分析という分析はどれも余計であったことになる。シーニァーは簡単にこう答えるべきであった。「諸君! 諸君が11[1/2]時間ではなく10時間作業させるならば、ほかの事情が変わらなければ、綿花や機械等々の毎日の消耗は1[1/2]時間だけ減るであろう。だから、諸君は、損するのとちょうど同じだけ得をすることになる。諸君の労働者たちは、これから先は、前貸資本価値の再生産または補塡のために1[1/2]時間少なく浪費するであろう」と。シーニァーが、工場主たちの言うことを信じないで、専門家として分析が必要だと考えれば、彼は、なによりもまず、もっぱら労働日の長さにたいする純益の比率という問題では、工場主諸君にお願いして、機械や工場建物や原料労働をごたまぜにしないで、一方の側には工場建物や機械や原料等々に含まれている不変資本を置き、他方の側には労賃に前貸しされている資本を置くようにしてもらうべきであった。次に、工場主の計算によると労働者は1労働日の2/23おすなわち1時間で労賃を再生産または補塡している、ということがたまたま明らかになったならば、この分析家は次のように言い続けるべきであった。〉(江夏訳241-242頁)

《フランス語版》

 〈これこそ、この教授が分析と呼ぶものである! もし彼が、工場主たちの泣き言を信じていたとすれば、もし彼が、労働者たちは1日の最良部分を建物や機械や綿花や石炭などの価値の再生産あるいは更新に充てると信じていたとすれば、そのばあいには、この分析全体は無用のものになったであろうに。彼はただたんにこう答えればよかったのである。
「諸君、もし諸君が11[1/2]時間のかわりに10時間働かせるならば、すべての事情が同じままであれば、綿花や機械などの日々の消費は1[1/2]時間だけ減少するであろう。諸君は、失うものと全く同じだけのものを得るであろう。諸君の労働者たちは将来、前貸資本の再生産または更新のために費やす時間は1[1/2]時間少なくなるであろう」、と。反対にもし彼が、これらの旦那衆の言葉は再検討を要すると考え、専門家として分析が必要だと判断していたら、彼はなによりもまず、もっぱら労働日の長さにたいする純益の比率を中心とする問題では、機械、建物、原料、労働ほどにちぐはぐな物を、一まとめに同じ袋のなかに放りこまないで、一方の側にはこれらの機械や原料などに含まれている不変資本を、他方の側には賃金に前貸しされた資本を入れるようにご配慮くださいと、工場主たちに懇願すべきであったろうに。次いで彼が、労働者が工場主の計算にしたがって自分の労働日の2/23 すなわち1時間で賃金を再生産または更新することを、偶然発見していたならば、この分析家は続けて次のように言うべきであったろうに。〉(江夏・上杉訳220頁)

《イギリス語版》

  〈(3)そして、教授はこれを「分析!」と呼ぶ。もし、工場主達のご講義に彼の信頼を寄せるならば、彼は以下のことを信じたということになる。作業者は、生産において、1日の最も良い部分を、建物や機器類や綿や石炭等々の価値の再生産、あるいは置き換えに費やしたと。ならば、彼の分析は無駄であった。彼の解答は単純に、次のようなものとなろう。-- 紳士諸君! もしも、諸君が工場を、11時間半に替わって10時間稼働とするならば、他の物事にも変動が無ないとすれば、日当りの綿、機器その他の消費は、それに比例して減少する。すなわち、諸君は、諸君が失ったのと同じものを得る。諸君の作業人達は、将来において、1時間半少ない時間を、少なく前貸しされた資本の再生産または置き換えに費やすであろう。- 逆に、教授が工場主達のご講義を更なる質問をすることもなく信じないならば、そして、その筋の専門家として、分析が必要と考えるならば、いろいろ工場主連中に尋ねる前に、他でもなく、作業日の長さと純利益の関係に関する問題ならば、教授は、注意深く、機械類や作業所や原料や労働者を一塊にしないで、まずは建物や機械類や原料 他に投資された不変資本を一つの勘定側におき、そして、賃金に前貸しされた資本を別の勘定側に置くのが妥当である。さて、その上で、教授が、工場主達の計算に従って、1/2時間単位でその2単位分で、作業者が彼の賃金を再生産または置き換えていると言うことを発見したならば、その時は、次のような分析を続けて述べるべきである。〉(インターネットから)


●第4パラグラフ

《61-63草稿》

 〈第二。シーニアからの引用は、科学の解説者がいったん支配階級の追従屋に成り下がるや救いがたく陥る愚鈍化を示すものとして、特徴的である。シーニアはこの引用書を綿工場主の利益のために書いたのであり、またその執筆のまえには、工場主たち自身から自著の材料をもらうためにわざわざマンチェスターにまでおもむいたのであった。右の引用中で、オックーフォードの経済学教授であり、またイギりスの現存する最も高名な経済学者の一人であるシーニアは、自分の学生にはけっして許さないであろうようなすごいへまをやらかしている。彼はこう主張する、--綿工場の年労働は、あるいは同じことであるが、年聞を通して日々11[時間]半の労働は、この労働そのものによって機械類を使って原料である綿花に付加される労働時間あるいは価値のほかに、それに加えてさらに、生産物のなかに含まれている原料の価値と生産中に消耗された/機械類および工場建物の価値とをつくりだす、と。これに従うとすれば、たとえば綿紡績業では労働者たちは、紡績労働(すなわち価値)のほかに--彼らの11時間半の労働時間のあいだに同時に--彼らが加工する綿花を生産し、彼らが綿花の加工に用いる機械とこの過程が行なわれる工場建物とを生産する、ということになる。シーニア氏が、23/2時間の日々の労働時間は一年のあいだに115,000ポンド・スターリングを、すなわち年総生産物の価値を形成する、と言うことができるのは、右のような場合だけであろう。シーニアは次のように計算するのである、--1日のあいだに労働者たちは、これこれの時間、綿花の価値を「補塡する」ため、つまりつくりだすために労働し、これこれの時間、機械類と工場との損耗部分の価値を「補塡する」ために労働し、これこれの時間、自分自身の労賃を生産するために労働し、これこれの時間、利潤を生産するために労働する、と。労働者が自分自身の労働時間のほかに、それに加えてさらに、彼が加工する原料と彼が使用する機械類とに含まれている労働時間をも同時に労働するという、つまり、原料と機械類とが完成生産物として彼の労働の条件となっている、その同じときにそれらを生産するという、この子供じみていてばかげた観念は、シーニアが工場主たちから授けられた御講義にすっかり支配されてしまって、彼らの実用的な計算方法を思わず知らず改悪した、ということから説明がつく。この方法は、たしかに理論的にもまったく正しいのではあるが、しかしそれは、一方ではシーニアが考察していると称している関係、すなわち労働時間と利得との関係についてはまったくどうでもよいことであり、他方では、労働者が彼の労働諸条件に追加する価値ばかりでなくてこの労働諸条件そのものの価値をも彼は生産するのだ、というばかげた観念を容易に生みだすものなのである。この実用的な計算とは次のようなものである。われわれは、たとえば12時間の労働時間の総生産物の価値のうち、たとえば1/3が労働材料の、つまりたとえば綿花の価値から成り、1/3が労働手段、たとえば機械類の価値から成り、1/3が新たに付加された労働、たとえば紡績から成っていると仮定しよう。ここに示した数の割合はどうでもよいことである。それでもなんらかのきまった割合を仮定しなければならない。この生産物の価値が3ポンド・スターリングに等しいとしよう。この場合、工場主が次のように計算するのはもっともなことである。--日々の労/働時間の1/3、すなわち4時間の労働時間の生産物の価値は、私が12時間のために必要とする綿花の、言い換えれば総生産物に加工されている綿花の価値に等しい。日々の労働時間の第二の1/3の生産物の価値は、私が12時間のあいだに消耗する機械類の価値に等しい。最後に、日々の労働時間の第三の1/3の生産物の価値は、労賃プラス利潤に等しい、と。つまり、彼が、私のために日々の労働時間の1/3が綿花の価値を、第二の1/3が機械類の価値を補塡してくれ、最後に第三の1/3が労賃と利潤とを形成してくれるのだ、と言うのにも一理はあるのである。けれどもこのことはじつは、日々の全労働時間は一方では、この労働時間からは独立にすでに存在している、綿花と機械類との価値に、自己自身しか、つまり、一方では労賃を他方では利潤を形成する価値しか付加しない、ということにほかならない。というのは、[こういうわけである。〕1日の最初の1/3、すなわち最初の4時間の生産物の価値は、12労働時間の総生産物の価値の1/3に等しい。12時間の総生産物の価値が3ポンド・スターリングである以上、この最初の4時間の生産物の価値は1ポンド・スターリングに等しい。しかし、この1ポンド・スターリングの価値のうち、その2/3、つまり13[1/3]シリングは、(前提に従えば)綿花および機械類の既存の価値から成っている。付け加わった新たな価値は、1/3、すなわち6[2/3]シリングの価値、4労働時間の価値でしかない。労働日の最初の1/3の生産物の価値が1ポンドに等しいのは、この生産物のうち2/3、すなわち13[1/3]シリングが、原料と消耗された機械類との、前提されていた、そして生産物中に再現するにすぎない価値だからである。労働が4時間のうちに創造した価値は6[2/3]シリングにすぎず、したがってまた、12時間では20シリング、すなわち1ポンド・スターリングにすぎない。4時間労働の生産物の価値は、新たに付け加えられた労働である紡績労働が新たに創造した価値とは、まさにまったく異なったものであって、この労働は、前提に従えば、既存の価値を1/3だけ増加させるにすぎない。紡績労働が最初の4時間に加工するのは12時間分の原料ではなくて、4時間分の原料なのである。しかし4時間による紡糸の価値は12時間のあいだに加工された綿花の価値に等しいではないか、と言うのであれば、それはただ、前提に従えば綿花の価値が各個の1時間の紡糸の価値の1/3を、したがってまた12時間に生産された紡糸の価値の1/3をなしていたから、すなわち4時間に生産さ/れた紡糸の価値に等しいからでしかない。工場主はまた、自分のために12時間労働の生産物が3日間の綿花の価値を補塡してくれるのだ、と計算することも大いにありうるであろうし、またそうしたからと言って、問題となっている関係そのものに手をつけたことにもならないであろう。工場主にとっては、この計算は実用的な価値をもっているのである。彼が労働しているような生産段階では、彼は綿花を、一定分量の労働時間を吸収するのに必要な量だけは加工しなければならない。綿花が12時間の総生産物の価値のうちの1/3をなすときには、12時間という総労働日の1/3、すなわち4時間の生産物は、12時間のあいだに加工された綿花の価値をなすわけである。こうしたことからもわかるのは、ある特定の生産過程、したがってたとえば紡績をとるならば、労働者がこのなかで創造する価値は、彼自身の労働時間(ここでは紡績)--この労働時間の一部分が賃銀を補塡し、他の部分が資本家のものとなる剰余価値を形成する--によって測られる価値のほかにはない、ということを堅持することがどんなに重要か、ということである。
    (じっさい労働者たちは、原料のかちのどんな小部分をも、機械類等々のどんな小部分をも、生産もしなければ再生産もしない。原料の価値と生産中に消費された機械類の価値とに彼らが付加するのは彼ら自身の労働でしかなく、これが、そのうちの一部分が彼ら自身の賃銀に等しく、他の部分が資本家の入手する剰余価値に等しい、あらたに創造された価値なのである。したがって、資本家と労働者とのあいだで分配できるのも--生産が継続されなければならない以上--、全生産物ではなくて、生産物マイナスそれに前貸しされた資本だけである。労働は1時間といえどもシーニアの意味での--したがって、労働が二重に、つまりそれ自身の価値とそれの材料等々の価値とを生産する、という--資本の「補塡」にささげられてはいない。シーニアの主張は、帰するところ、労働者が労働する11時間半のうち10時間半は彼の賃銀をなし、2/2すなわち一時間だけが彼の剰余労働時間をなす、ということにすぎない。)
  第三。肝心なものを、すなわち賃銀に投下される資本をきちんと規定することはぜんぜんしないで、それと原料に投下される資本とをごっちゃにするのが、シーニア氏のまったく非科学的な論述というものである。しかしながら、かりに彼が示している割合が正しいとすれば、労働者は11時間半すなわち23個の半時間のうち、21個の半時間を自分のために労働し、2個の半時間の剰余労働だけを資本家に提供することになる。これによれば、必要労働にたいする剰余労働の割合は2:21であり、1:10[1/2]である。これはつまり9[11/21]%ということである。そしてこれが資本全体にたいして1O%の利潤を与えるものだと言うのだ! 彼が剰余価値の本性についてまったくなにも知らないことを示している、このうえもない奇抜さは、次の点にある。彼は、23個の半時間すなわち11時間半のうち1時間だけが剰余労働、つまり剰余価値を形成する、と仮定し、そこで次に、もしも労働者がこの1時間の剰余労働にさらに1時間半の剰余労働を追加するならば、つまり2個の半時間の代わりに5個の半時間(したがって全部で13時間)を労働するならば、純利得が2倍以上にも増大する、ということにびっくりするのである? 同様に無邪気なのは、全剰余労働すなわち剰余価値が1時間に等しいという前提のもとでは、労働時間がもしこの1時間だけ短縮されるなら、つまり剰余労働がぜんぜん行なわれなくなるなら、純利潤がすっかりなくなってしまう、という発見である。彼が見せてくれるのは、一方では、剰余価値が、したがって利得も、単なる剰余労働に帰着するということを発見しての驚きぶりであり、他方では同時に、この関係の無理解ぶりである。この関係がシーニア氏の目を驚かしたのは、工場主たちの影響下にあって、綿製造における珍事としてにすぎなかったのである。〉(草稿集④312-318頁)
 〈あのどえらいシーニア(ナソー)ももちろんやはり産業利潤を監督賃金に転化させる。だが、彼も、問題が学者的な文句ではなくて労働者と工場主とのあいだの実際的な闘争となると、このごまかしを忘れてしまう。そこでは彼はたとえば労働時間の制限に反対する。なぜかといえば、たとえば11[1/2]時間の場合には労働者たちはたった1時間だけ資本家のために労働し、この1時間の生産物が資本家の利潤をなすからだ、というわけである(利子は別としてであって、この利子のためにも労働者たちは、彼の計算によれば、やはり1時間労働する)。だから、ここでにわかに産業利潤は、資本家の労働が生産過程で商品につけ加える価値に等しいのではなくて、労働者たちの不払労働時間が商品につけ加える価値に等しいということになるのである。もし産業利潤が資本家自身の労働の生産物であるならば、S〔シーニア〕は、労働者たちが2時間ではなくたった1時間しか無償で労働しないということを嘆く必要はなかったであろう。そして、もし彼らが11[1/2]時間ではなくたった10[1/2]時間しか労働しないならば利潤はまったくなくなる、などと言う必要はいっそうなかったであろう。彼は次のように言うべきだったであろう。もし労働者たちが11[1/2]時間ではなくたった10[1/2]時間しか労働しなければ、資本家は11[1/2]時間分の監督賃金ではなく10[1/2]時間分の監督賃金だけを受け取ることになり、したがって1時間分の監督賃金を失うことになるのだ、と。これにたいして労働者たちは資本家に次のように答えるであろう。白分たちに/とって10[1/2]時間分の普通の賃金で十分であるならば、資本家にとっては10[1/2]時間分のより高い賃金で十分でなければならない、と。〉(草稿集⑦485-486頁)

《初版》 初版では第④と第⑤パラグラフが一つのパラグラフになっている(パラグラフ番号を挿入しておく)。

 〈④諸君の言うところによると、労働者は、最後から2番目の1時間で自分の労賃を生産し、最後の1時間で諸君の剰余価値あるいは純益を生産する。彼は同じ時間内に同じ価値を生産するから、最後から2番目の1時間の生産物は、最後の1時間の生産物と同じ価値をもっている。さらに、彼が価値を生産するのは、彼が労働を支出するかぎりのことであって、彼の労働の量は彼の労働時間によって測られる。諸君の言うところによると、彼の労働時間は1日当たり11[1/2]時間である。この11[1/2]時間の一部分を、彼は、自分の労賃の生産または補塡のために費やし、他の部分を、諸君の純益の生産のために費やす。彼は1労働日を通じそれ以上のことはなにもしない。ところが、申し立てによると、彼の賃金と彼の提供する剰余価値とは、同じ大きさの価値であるから、彼は明らかに、自分の労賃を5[3/4]時間で生産し、諸君の純益を別の5[3/4]時間で生産する。さらに、2時間分の糸生産物の価値は、彼の労賃・プラス・諸君の純益という価値額に等しいから、この糸価値は11[1/2]労働時間で測られ、最後から2番目の1時間の生産物は5[3/4]労働時間で測られ、最後の1時間の生産物も同上のもので測られているにちがいない。われわれはいま、やっかいな点に達している。だから、気をつけてほしい! 最後から2番目の1労働時間も、最初のそれと同じに普通の1労働時間である。それより多くもなければ少なくもない。それでは、どうして紡績工は、5[3/4]労働時間を表わす糸価値を、1労働時間で生産することができるのか? 彼はそんな奇跡をじっさいには行なわない。彼が1労働時間で使用価値として生産するものは、一定量の糸である。この糸の価値は5[3/4]労働時間によって測られ、そのうちの4[3/4]労働時間は、毎時間消耗される綿花や機械等々の生産手段のなかに彼の助力をまたずして含まれており、4/4すなわち1時間が彼自身の手でつけ加えられている。だから、彼の労賃が5[3/4]時間で生産され、また、1紡績時間の糸生産物のなかにもやはり5[3/4]時間が含まれているのであるから、彼の5[3/4]紡績時間の価値生産物が1紡績時間の生産物価値に等しいということは、断じて魔術ではない。だが、もし諸君が、労働者は、綿花や機械等々の価値を再生産または「補塡」することによって、彼の労働日のただの一瞬でも失う、と考えるならば、諸君は絶対に誤っている。彼の労働が綿花や紡錘を糸にすることによって、つまり、彼が紡ぐことによって、綿花や紡錘の価値ひとりでに糸に移ってゆく。このことは、彼の労働ののおかげであって、彼の労働ののおかげではない。もちろん、彼は1時間では1/2時間でよりも多くの綿花価値等々を糸に移すであろうが、そうであるのは、彼が1時間では1/2時間でよりも多くの綿花を紡いだからにほかならない。だから、諸君はおわかりだろう、労働者が最後から2番目の1時間で自分の労賃の価値を生産し最後の1時間で純益を生産するという諸君の表現は、彼の1労働日中の2時間の糸生産物のうちには、その2時間が前にあろうと後にあろうと、11[1/2]労働時間が、すなわち、彼のまる1労働日とちょうど同じだけの時間が、具現されている、と言っているだけのことである。そして、労働者が前半の5[3/4]時間で自分の労賃を生産し後半の5[3/4]時間で諸君の純益を生産するという表現も、やはり、諸君が前半の5[3/4]時間には支払いをするが後半の5[3/4]時間には支払いをしない、と言っているだけのことである。私が労働への支払いと言い労働力への支払いと言わないのは、諸君の俗語で話すためである。さて、諸君が、代価を支払う労働時間と代価を支払わない労働時間との割合を比べてみれば、諸君は、それが半日対半日、つまり1OO%であるのを、見いだすであろうが、これはもちろん結構なパーセンテージである。また、少しも疑う余地のないことだが、諸君が、諸君の「人手」を11[1/2]時間ではなく13時間こき使い、そして、きっと諸君はそうすると思われるのだが、余分の1[1/2]時間を剰余労働にだけつけ加えるならば、この剰余労働は5[3/4]時間から7[1/4]時間にふえ、したがって、剰余価値率は1OO%から126[2/23]%にふえるであろう。ところが、諸君が、1[1/2]時間を追加して剰余価値率が1OO%から2OO%に、それどころか2OO%以上すなわち「2倍以上」に上がるものと期待すれば、諸君はあまりにもとっぴきわまる楽天家である。他方--人間の心は不思議な物であって、人間の心が財布に気を奪われているときにはとりわけそうである--、諸君が、労働日が11[1/2]時間から10時間に短縮すると、自分たちの純益が全部なくなってしまうだろうと心配すれば、諸君はあまりにも気の狂った悲観屋である。けっしてそんなことはない。他のすべての事情が不変であると前提すれば、剰余労働は5[3/4]時間から4[3/4]時間に減るであろうが、それでもなお、全く多大な剰余価値率すなわち82[14/23]%になる。ところで、例の宿命の「最後の1時間」--これについて、諸君は、千年王国の信者が世界の滅亡について語るにまさる作り話を語ったのだが--は、「全くのたわごと」である。それが失われたからといって、諸君の「純益」が犠牲になることもなければ、諸君にこき使われている男女児童の「魂の純潔」が犠牲になることもないであろう(32a)。⑤いつか諸君の「最後の時」がほんとうに鳴るとき、オックスフォードの教授を思いたまえ。では、あの世でまたお目にかかろう。さようなら!(33)……1836年にシーニァーが発見した「最後の1時間」の警報は、1848年4月15日には、10時間法に反対だということで、経済学の最高権威の一人であるジェームズ・ウィルソンの口から、『ロンドン・エコノミスト』紙上でまたも吹き鳴らされたのである。〉(江夏訳242-245頁)

《フランス語版》  フランス語版では第4パラグラフと第5パラグラフが合体されて、そのあいだにある注はそのあとにつけられている。ここでは合体されたものを紹介する。

 〈④「諸君のデータによると、労働者は、最終から2番目の1時間で自分の賃金を生産し、最終の1時間で諸君の剰余価値または純益を生産する。彼は相等しい時間中に相等しい価値を生産するのであるから、最終から2番目の1時間の生産物は最終の1時間の生産物に等しい。さらに、彼は、労働を支出するかぎりでしか価値を生産しないのであって、彼の労働の分量は、その継続時間を尺度とする。この継続時間は、諸君の言うところによれば、1日に11[1/2]時間である。彼はこの11[1/2]時間の一部を自分の賃金の生産または補塡のために消費し、別の部分を諸君の純益のために消費する。この労働日が継続しているかぎり、彼はこれ以上なにもしない。ところが、やはり諸君の言うところによれば、彼の賃金と彼が諸君に引き渡す剰余価値とは等しい価値であるから、彼は明らかに、自分の賃金を5[3/4]時間で生産し、諸君の純益を別の5[3/4]時間で生産する。さらに、2時間で生産された糸は、彼の賃金に諸君の純益を加えたものと等価であるから、この価値は11[1/2]労働時間によって、最終から2番目の1時間の生産物は5[3/4]時間によって、最終の1時間の生産物も同じように5[3/4]時間によって、測られるべきである。われわれはいま、微妙な一点に到達している。それだから、注意せよ! 最終から2番目の1労働時間は、最初のそれと全く同じように、1労働時間である。それ以上でも以下でもない。どうして紡績工は、5[3/4]時間を表わす価値を1労働時間で生産することができるのか? 彼は実際、こんな奇跡を全く行なわないのである。彼が1労働時間で使用価値として生産するものは、一定分量の糸である。この糸の価値は5[3/4]労働時間によって測られ、そのうちの4[3/4]時間は、消費された綿花や機械などの生産手段のうちになんら彼の関与なしに含まれており、4/4時間すなわち1時間は、彼自身のために付加されたのである。彼の賃金は5[3/4]時間で生産され、彼が1時間で供給する糸も同じ総量の労働を含んでいるのだから、彼が5[3/4]紡績時間で生産するものは、ただの1紡績時間で生産する糸の等価でしかないということには、少しも魔術はない。ところが、もし諸君が、労働者は綿花や機械などの価値を再生産または更新するために自分の時間をわずかばかりでも失う、と考えるならば、諸君は完全に誤りに陥っている。彼の労働が綿花と紡錘を糸に変えること自体によって、彼が紡ぐこと自体によって、綿花と紡錘の価値は糸のうちに移るのである。これは、少しも彼の労働の量に負うものではなく、その質に負うものである。確かに彼は、1時間では半時間よりも多く、綿花などの価値を移すであろうが、それはただたんに、彼が1時間では半時間よりも多くの綿花を紡ぐからである。そこで、諸君は、次のことを決定的に理解するであろう。すなわち、自分の1労働日が11時間半である労働者は、最終から2番目の1時間で自分の賃金の価値を生産し、最終の1時間で純益を生産する、と諸君が言うばあい、それは明らかに、彼の2時間の生産物のなかには、この2時間が1労働日の始めにあろうと終りにあろうと、彼のまる1労働日が含んでいるのと全く同じだけの労働時間が体現されている、ということを意味しているのである。また、彼は最初の5[3/4]時間で自分の賃金を生産し最後の5[3/4]時間で諸君の純益を生産する、と諸君が言うばあい、それもやはりただたんに、諸君が最初の5[3/4]時間にたいしては支払い、最後の5[3/4]時間にたいしては支払わない、ということを意味しているのである。諸君の隠語に合わせるために、私は労働力の支払いと言わず労働の支払いと言う。さて、全然支払わない労働時間にたいする支払う労働時間の比率を考察するならば、それが半日対半日、すなわち100%であることを、諸君は見出すであろう。これは確かに、充分にほどよい利益率である。もし諸君が、諸君の人手を11時間半のかわりに13時間労働させて、この超過分を剰余労働の領域に併合するだけならば、この剰余労働が5[3/4]時間のかわりに7[1/4]時間を含み、剰余価値率が100%から126[2/23]に上昇するであろうということにも、いささかの疑念もない。しかし、この1時間半の追加が諸君の利潤を100%から200%またはそれ以上に、すなわち『2倍以上に』高めるであろう、と期待するならば、諸君は極端に走ることになる。他方--特に人間が財布に気をとられているばあいには、人間の気持は奇妙なしろものである--、11時間半から10時間半への労働日の短縮が諸君の純益を全部消滅させるのではないかとおそれるならば、諸君の悲観主義は狂気に近い。すべての事情が同じままであれば、剰余労働は5[3/4]時間から4[3/4]時間に下がるであろうが、それでもなお、全く莫大な剰余価値率、すなわち82[14/23]%を提供するであろう。この『最終1時間』--これについて諸君は、千年王国の信者が世界の終末について語る以上に、つくり話を語ったのだが--の教理は、どれも全くのたわ言〈all bosh〉である。それが失われても、どんな致命的な結果も生じないであろうし、諸君から諸君の純益も奪われず、諸君が生産的に消費する男女の児童から、諸君にあれほど親しい『魂の純潔』も奪われないであろう(10)。/⑤いつか諸君の最後の時が鳴るとき、オックスフォードの教授のことを想いたまえ。では、あの世で諸君ともっと懇意になりたいものだ。さようなら(11)」。シーニアが彼の「最終1時間」を発見したのは、1836年である。12年後の1848年4月15日に、公認経済学の主要な大立物の一人であるジェームズ・ウィルソンは、ロンドンの『エコノミスト』誌上で、10時間法について、同じメロディで同じきまり文句を歌いはじめた。〉(江夏・上杉訳220-223頁)

《イギリス語版》

  〈(4)諸君の数字によれば、作業者は、最後の1時間の手前の1時間で、彼の賃金を生産し、そして、最後の1時間で、諸君の剰余価値または純利益を生産するという。さて、同じ期間では、作業者は同じ価値を生産するのであるから、最後の1時間の手前の1時間の生産は、最後の1時間のそれと同じ価値でなければならない。さらに云えば、彼の労働する間だけが、その全てだけが、彼が様々な価値を生産するものなのである。そして、彼の労働の量は、彼の労働時間で計量されるのである。諸君は、この量を日11 1/2時間と云う。彼は、これらの11 1/2時間の一部を彼の賃金の生産または置き換えに費やし、そして残りの部分を諸君の純利益のために費やす。これ以上には、彼は絶対に何もしない。しかるに、であるから、諸君の説に従えば、彼が生産する彼の賃金も、剰余価値も同じ価値であるから、彼は5 3/4時間で彼の賃金を生産し、もう半分の5 3/4時間で諸君の純利益を生産する。このことは明瞭である。もう一度繰り返すが、2時間で生産される撚糸の価値は、彼の賃金の価値と諸君の純利益の合計額に等しいのであるから、この撚糸の価値の計量は11 1/2時間でなければならず、そのうちの最後の一つ前の5 3/4時間は、その間に生産された撚糸の価値を示しており、そして5 3/4時間は最後の時間で生産された撚糸の価値である。今、我々はどう見るかによって大きく異なる場面に直面している。だから、充分注意 ! してほしい。最後の作業時間の一つ手前の作業時間は、最初の時間と同じで、ごく普通の作業時間であり、それ以上でもそれ以下でもない。ならば、紡績工はいかにして1時間で、5 3/4時間を体現する価値、撚糸の姿となっているものを生産するのか? 真実は、彼がそのような奇跡を行うものではない。彼によって1時間に生産された使用価値は、一定量の撚糸である。この撚糸の価値は、5 3/4作業時間で計量される。そのうちの4 3/4時間は、彼の助けによらず、予め生産手段、綿、機械類、他で体現されている。残りの1時間のみが彼によって加えられたものである。従って、彼の賃金の価値は5 3/4時間の中で生産されるのであり、そして1時間で生産された撚糸の価値も同様5 3/4時間の紡績から成り立っているのであるから、彼の5 3/4時間の紡績によって創造された価値は、1時間で紡がれた生産物の価値に等しいのである。この結果に、なんら魔法はない。もし、諸君が、彼が労働日のほんの一瞬でも、綿や機械類やその他の再生産や置き換えのために、失っていると考えるならば、諸君は皆、間違った道の上に居る。そうではなくて、彼の労働が、綿や紡錘を撚糸に変換するのであり、彼が紡ぐからこそ、綿や紡錘の価値が、それらの自らの価値のまま撚糸に行き着くのである。この成り行きは、彼の労働の質に依存しており、彼の労働の量に依存してはいない。確かに、彼は1時間では、半時間でやるよりも多くの価値を、綿の形から、撚糸に移管するであろう。だが、それは単に、半時間で紡ぐよりは1時間の方がより多くの綿を紡ぐと言うだけのことである。かくて、諸君は気づかれたものと思うが、諸君の主張、作業者は最後の時間の一つ前の時間に彼の賃金の価値を生産し、最後の時間に諸君の純利益を生産するという主張は、彼によって2作業時間で生産される撚糸が、労働日の最初の2時間であれ、最後の2時間であれ、11 1/2作業時間または丁度全日作業、すなわち、彼自身の2時間の作業と9 1/2時間のその他の人々の作業が一体化している撚糸である、ということ以上のものを表してはいない。そして、私の主張、最初の5 3/4時間で、彼は彼の賃金を生産し、最後の5 3/4時間で諸君の純利益をという主張は、只一つ、諸君は、前者分を彼に支払い、後者分は彼に支払わないということなのである。労働者への支払いと、本来ならば労働力への支払いと云うべきところを、簡略化して述べたが、ここはただ、私が、諸君らの専用俗語で話しただけのものである。さて、紳士諸君、もし、諸君が、諸君が支払った作業時間に対して、諸君が支払わなかった時間を較べるならば、それらが、互いに、半日に対して半日であり、その比率が100%、なんとまあ可愛らしい比率であることか、を発見するであろう。さらに、なんの疑いもないことだが、諸君が、11 1/2時間に替えて13時間を法的に獲得するならば、諸君らならやり兼ねないだろうが、作業に追加の1時間半を、純余剰労働として持ち込むならば、後者の時間が5 3/4時間から7 1/4時間労働に増加し、剰余価値の比率は100 %から、126 2/23 %となる。そうなると、諸君ら皆、血色が奇怪しくなって、さらに1時間半のこのような追加を作業日に加えることを求める。率は100 %から200 %かそれ以上となる。別の言葉で云えば、2倍以上ということである。一方、人間の心は面白いものである。特に、財布のことになるとそうしたものである。- 労働時間の減少が、11 1/2時間から10時間へと進めば、諸君の全純利益が捨て犬同然となるのではないかと大げさに悲観する。そんなことはない。他の状況が同じに留まるならば、剰余労働が5 3/4時間から4 3/4時間に縮小する。結末としては、依然として利益をもたらすもので、剰余価値の比率が要するに82 14/23 %となる。しかるに、このような、世にも恐ろしい「最後の時間」という諸君がでっちあげたお説は、至福千年を少しも疑わない信者が最後の審判の日を迎えるというお話以上のお話で、「全く馬鹿げた話」である。もし最後の時間が消えたとしても、諸君にはなんの損失もないし、諸君の純利益もなくならない。また、諸君が雇った少年少女の「心の純粋さ」もなくならない。〉(インターネットから)

 (付属資料(3)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.33(通算第83回)(9)

2023-02-28 20:49:29 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.33(通算第83回) (9)

 

  【付属資料】 (3)

●注32a

《61-63草稿》

 〈10時間法案に反対するイギリスの工場主たちの偽善的な詭弁(抗弁)には、次のようなものがあった、--「10時間法案にたいしてなされた多くの反対のうちの一つは、それだけの余暇を少年少女の手にゆだねるのは、彼らには教育が欠けているので浪費するか悪用するであろうから、危険である、というものであった。そして、教育が進んで、10時間法案が工場人口に与えることを企てている暇な何時間かを有益な知的ないし社会的な仕事に用いるための手段が与えられるまでは1日全部を工場で過ごすことのほうが、風紀のために、むしろ望ましいのだ、と主張されたのである」(同前、87ページ、A・レッドグレイヴ)。〉(草稿集④352頁)

《初版》

 〈(32a) シーニァーが、「最後の1労働時間」には、工場主たちの純益、イギリス綿業の存立、世界市場でのイギリスの偉大さがかかっている、ということを立証したとき、もう一つおまけとして、ドクター・アンドルーユアは、工場の児童や18歳未満の青少年を、作業室の温かくて澄んでいる道徳的空気のなかにまる12時間閉じ込めておかないで、「1時間」早く冷酷で浮薄な外界に追い出すと、怠惰と悪徳が彼らから魂の救いをだましとるにちがいない、ということを立証した。1848年以来、工場監督官たちは、飽きもせず、自分たちの半年ごとの「報告書」のなかで、「最後の」、「宿命の1時間」と言っては工場主たちをからかっている。かくして、ハウエル氏は、1855年5月31日の彼の工場報告書のなかでこう言っている。「次の明断な計算(彼はシーニァーを引用している)が正しければ、イギリス王国のどの木綿工場も、185O年以来欠損を出して営業してきたことになろう。」(『1855年4月3O日に終わる半年間の工場監督官報告書』19、20ページ。)1848年に10時間法案が議会を通過したとき、工場主たちは、ドーセット州とサマーセット州とのあいだに散在している田舎の亜麻紡績工場の幾人かの正規労働者に、反対請願を強要したが、この反対請願ではとりわけ次のように言われている。「私たち請願者は、人の親として、閑な1時間の追加から得られる成果といえば、わが子を堕落させるだけである、と確信しています、というのは、小人閑居して不善をなすからです。」この点について、1848年1O月31日の工場報告書はこう述べている。「この有徳の情け深い親たちの子供が働いている亜麻紡績工場の空気は、原料から生ずる無数の塵埃や繊維の粒子で充満しているから、わずか10分間でも紡績室ですごすことは非常に不快である。なぜならば、避けようのない亜麻のほこりが、目にも耳にも鼻孔にも口にもすぐにいっぱいたまるので、ひどい苦痛を感じないではそこにはいられないからである。労働そのものには、機械の熱狂的なせわしさのために、倦むことを知らぬ注意カを働かせて、絶えず熟練と運動とを充用することが、要求される。そして、食事時間を除いてまる10時間このような空気のなかでこのような仕事に縛りつけられている自分たちの子供にたいし、親たちをして『怠惰』という言葉を用いさせるのは、いささか酷のように忠われる。……これらの子供は、隣村の農僕よりも長時間労働する。……『怠惰と悪徳』についてのこのような冷酷なおしゃべりは、この上なくまぎれもない空念仏として、この上なく恥知らずな偽善として、烙印を押されるべきである。……工場主の全『純益』は『最後の1時間』の労働から流れ出ており、労働日を1時間だけ短縮すれば純益はなくなってしまうにちがいないということが、立派な権威者の是認を得て、公然と大まじめに、確信を抱いて、宣言されたが、この確信にたいして一部の公衆は約12年前に激怒した。この一部の公衆が、いまや、『長後の1時間』という功徳についての独創的発見が、その後大いに改良されて『道徳』と『利潤』とを一様に含むものになるということ、したがって、児童労働の持続時間がまる10時間に短縮されれば、児童の道徳も児童使用の純益とともに消え去ってしまう--なぜならば、両方とも、この最後の・この宿命の・1時間に、かかっているから--ということ、を見いだせば、彼らは、自分たちの目をほとんど信じないであろう。」(『1848年1O月31日の工場監督官報告書』、101ページ。)同じ工場報告書は、次に、これらの工場主諸氏の「道徳」や「徳性」にかんする見本、すなわち、全くほったらかしにされていた少数の労働者をこのような請願に署名させるために、次いで、それが一産業部門全体の・州全体にまたがる請願であることを議会に信じ込ませるために、彼らの用いた奸策、たくらみ、誘惑、脅迫、偽造等々の見本、をあげている。のちには自分の名誉のために工場立法精力的に味方したシーニァー自身も、彼の当初および後年の論敵も、「独創的発見」のこじつけを解決できなかったことは、いわゆる経済「学」の現状を示すものとして、きわめて特徴的である。彼らは、事実にもとづく経験に訴えた。なぜとなんのためにとが、相変わらず不可解であった。〉(江夏訳245-246頁)

《フランス語版》

 〈(10) シーニアが、工場主たちの純益もイギリス綿業の存立も大ブリテンの市場も「最終の1労働時間」に依存している、ということを証明したのであれば、ドクター・アンドルー・ユアのほうはおまけに、児童や18歳未満の青少年を、工場内の焼けつくような、しかし道徳的な空気のなかで、労働で衰弱させるかわりに、1時間早く、冷たくもあり浮薄でもある外界に送り返すならば、閑居と悪徳が彼らに彼らの魂の救済を失わさせる、ということを証明した。1848年以来、監督官たちは飽きもせずに、彼らの半年毎の報告書のなかで、「最終の、宿命的な1時間」を持ち出して工場主たちをあざけり、いらだたせている。たとえば、1855年5月31日のハウエル氏の報告書には、こう書かれてある。「もし次の巧みな計算(彼はシーニアを引用する)が正しいならば、連合王国内のすべての木綿工場は1850年以来、欠損を出しながら仕事をしてきたことになろう」(『1855年4月30日に終わる半年間についての工場監督官報告書』、19、20ぺージ)。10時間法案が1848年に議会を通過したとぎ、工場主たちは、ドーセット州とサマセット州とのあいだに散在する諸地方の幾人かの労働者たちをして、反対請願に署名させたが、この反対請願にはなかんずく次のように書かれてある。「われわれ請願者は、ことごとく家族の父として、追加される1時間の余暇がわれわれの子供を堕落させること以外になんの結果も産まないであろう、と信ずる。閑居はあらゆる悪徳の母だからである」。この点について、1848年10月31日の工場監督官報告書は若干の観察を行なっている。「このやさしい有徳の親をもつ子供たちが働く亜麻紡績工場の空気は、まことに法外な量のほこりや糸やその他の物質の粒子でいっぱいなので、ただの10分でもそこで過ごすことは、非常に不快なほどである。この上なく苦痛な気持を感じないでは、そこで過ごすことさえできない。それというのも、目や耳や鼻孔や口が、避けられない雲のような亜麻のほこりでたちどころにいっぱいになるからである。目がまわるほど速く機械が動いているので、労働そのものは、倦まず注意を払いながら迅速な運動と適時の行為とを間断なく用いることを、必要とするのである。そして、食事の時間を除いてまる10時間、このような仕事に、しかもこのような空気のなかに釘づけされている自分の子供たちに向け、その親をして『無為』という言葉を用いさせるのは、かなり苛酷のように思われる。……これらの子供たちは、近村の農僕よりも長時間労働する。……『閑居と怠惰』について絶えず繰り返されているこの話題は、この上なく純粋な偽善的な言葉づかいであって、最も恥知らずな偽善として烙印を押されるべきだ。……工場主の『純益』は最終1時問の労働全体から生ずるのであり、したがって、1労働日につき1時間の短縮はこの純益を消滅させるということが、最高の権威の承認のもとで、率直かつ公然と確信をもって宣言されたのだが、数年前この確信にひどく仰天した一部の公衆は、最終1時間の効能のうちにいまでは道徳と利潤とを同等に含むこの理論が、それ以来どんなに進歩をとげ、その結果、子供たちの労働のまる10時間への短縮が、幼い子供たちの道徳と彼らの雇主の純益、すなわち、双方ともこの宿命的な1時間にかかっている道徳と利潤とを漂流させてしまう、と知ったとき、この一部の公衆は、自分の眼をほとんど信じないであろう」 (『1848年10月31日の工場監督官報告書』、101ぺージ)。この報告書は次には、工場主諸君の「道徳」と「徳性」との見本を提供する。それは、少数の脅かされた労働者をしてこの種の請願に署名させ、次いで、一産業部門全体の、一州全体または幾つかの州の請願として議会に提出させるために、彼らが用いた奸策、企み、陰謀、術策、誘惑、強迫、偽造などを、詳しく記載している。いわゆる経済「科学」の現状をきわめて強く特徴づけている事実は、相変わらず元のままである。この事実とは、自分の名誉のために後になって労働日の法的制限に精力的に賛意を表したシーニア自身も、彼の最初のそして最近の反対者も、「最初の発見」の背理を発見できなかった、ということである。彼らは、どんな解決のためにも経験に訴えざるをえなかった。なんのために、そしてまた、なぜかは、依然として神秘であった。〉(江夏・上杉訳223-224頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: もし、一方で、シーニョアが、工場主の純利益が、英国の綿工業の存在が、世界市場における英国の支配力が、「最後の作業時間」に依存していることを証明したと云うならば、他方では、アンドリュー・ユア博士は、もし、子供達や18歳以下の青年達が、まるまる12時間 暖かで 純粋に道徳的な雰囲気にある工場に置かれる代わりに、1時間早く 残酷で 不真面目な外の世界に追い出されるとしたら、怠惰や悪習のためこころの純粋さを奪われるであろうことを明らかにした、と云うことになる。だが、実際は、1848年以降、工場検査官達は、この「最後の」、この「破滅的な時間」なるもので、工場主達をからかい続けるのを 止めたことがない。1855年5月21日づけの検査報告書で、ホーベル検査官は、「このような狡賢い計算 ( 彼はシーニョアを引用する) が正しいとするならば、英王国の全ての綿工業は、1850年このかた、赤字で作業してきたことになる。」1848年、10時間法が議会を通過した後、ドーセット州の境界からサマセット州にかけて散在するごく少ない亜麻紡績工場のある雇い主は、この法への反対請願をかれらの幾人かの作業者達の肩に強制したのである。この請願の条項には、次の様に書かれている。「貴下の請願人は、子の親として、追加的な暇な1時間は他でもなく、やる気をより損なうことになるであろうと思われる。怠惰は悪徳の始まりであると思っている。」1848年10月31日のこの工場に関する報告書は、次のように云っている。亜麻紡績工場の雰囲気は、これらの有徳で優しいご両親のお子さん達がその中で働くのであるが、原料からの塵や繊維くずで充満している。その紡績室に10分居るのですら極めて不快なものである。なぜなら、繊維くずの雲が、直ぐに、目も耳も、鼻も口も、と入り込むのである。逃れようもない。最も苦痛な感覚なしにはそこに居られないからである。その労働そのものは、機械の発狂的な性急さが、絶え間ない技能と動作を要求し、その疲れをしらぬ監視と制御下で、なされている。ご両親をして、わが子に「怠惰」なる言葉を云わせるのは、何か冷酷無比というべきであろう。子供達は、食事時間を許される他は、まる10時間をこのような雰囲気の中の仕事に拘束され続けるのである。 .... これらの子供達は、近隣の村の労働者より長時間働くのである。 .... この様な「怠惰と悪徳」なる冷酷無比のご高説は、単なる空文句であり、かつ最も恥ずかしい偽善的な言葉として銘記されるべきである。....約12年前、一部の人々が、工場主の全純利益が最後の時間の労働から湧き出すものであって、従って、作業日を1時間減らすことは、彼等の純利益を破滅させるであろうという説に衝撃を受けて、政府筋もその説を是認したことから、そのことを強く公的にも宣言したものだが、その最初の「最後の時間」というお題目の発見が、今、かなり改良されて、利益と同様に道徳も含まれ、子供達の労働時間がまる10時間へと短縮されるならば、彼等の道徳も彼等の雇い主の純利益も共に消えてしまい、これらが、この最後の致命的な時間のいかんに掛かっているという説として再発見する時、かっての一部の人々は、自らの目をほとんど信じられないであろう。(工場検査報告書. 1848年10月31日) そして、その同じ報告書が、純粋な心を持ったこれらの同じ工場主の道徳性と高潔さの例をいくつか紹介している。策略、ごまかし、騙し、脅し、偽造、を用いて、身を守ることも出来ない作業者達に、この種の請願に署名を強いた。そして、彼等をして、全工業界あるいは全国の請願という形で、議会に、押し込ませた、と。これが、いわゆる科学的経済学と云われるものの特徴的現状なのである。すなわちシーニョア彼自身も、彼の反対者も、最初から最後まで、「根源的発見」なる間違った結論について説明することが少しもできなかったのである。彼等の訴えたものは、現実的な体験を申し立てたものであって、何故そのようになるのかも、またその結果としてどこに行き着くのかも、不明のまま残った。シーニョアの名誉のために云っておくが、後に、彼は工場法を精力的に支持した。〉(インターネットから)


●第5パラグラフ

《初版》 第4パラグラフと一体になっている。

《フランス語版》 第4パラグラフと合体されているので、第4パラグラフを参照。

《イギリス語版》 イギリス語版では第5パラグラフの前半分が第4パラグラフの続きとされており、そのあと(5)パラグラフが来て、その間に、注33が入り、また本文に戻るという複雑な形になっている。

  〈(本文に戻る) 諸君らの「最後の時間」の兆しが、諸君らを襲うような時は、いつでも、オックスフォードの教授でも思い出せばいいだろう。では、これにて、諸君、「さようなら」、また先の、昔の世とは違う良き世で合ことになるやもしれぬ。
  (5)シーニョアは、「最後の時間」なる叫びを、1836年に発明したが、……(本文に戻る) 同じ叫びが、1848年4月15日のロンドン・エコノミスト誌上で、経済学の大御所でもある ジェームス・ウイルソンによって、10時間法に反対する論として再現した。〉(インターネットから)


●注33

《初版》

 〈(33) とはいえ、この教授先生もマンチェスター旅行で幾らかの利益を得た! 『工場法についての手紙』のなかでは、全純益が、「利潤」 と「利子」とそれどころか「それ以上のあるもの」とが、労働者の支払われない1時間に依存している! その1年前、オックスフォードの学生と教養ある俗物との共通の利益のために彼が書いた『経済学概要』のなかでは、彼は相変わらず、リカードが労働時間によって価値を規定したことに反対して、利潤は資本家の労働から生じ、利子は彼の禁欲、彼の「節制」から生ずる、ということを発見していた。このたわごと自体は古くさくても、「節制」という言葉は新しかった。ロッシャー氏はこの言葉を"Enthaltung"とドイツ語にしたが、これは正しい。彼ほどにはラテン語に通暁していない彼の同国人、ヴィルト某々やシコルツェ某々やそのほかミヘル某々も、これを"Entsagung"〔禁欲〕と坊主くさく言っている。〉(江夏訳246頁)

《フランス語版》

 〈(11) とはいえ、この教授は輝かしいマンチェスター遠征から、幾らかの利益を引き出した。彼の『工場法にかんする書簡』では、純益全体が、「利潤」と「利子」と「それ以上のあるもの」までが、労働者の不払労働時間に依存している。彼は1年前に、オックスフォードの学生と「啓発された階級」とを楽しませるために書いた『経済学概要』という表題の著書のなかで、価値は労働時間によって規定されるというリカード学説に反対して、利潤は資本家の労働から生じ利子は資本家の節制から生ずる、ということを「発見」していた。この嘘は古いものであったが、この語〔節制〕は新しかった。ロッシャー先生はこの語をかなり正しく、同じ意味をもつEnthaltungという語に翻訳して、ドイツ語化した。彼ほどにはラテン語をかじっていない彼の同国人であるヴィルト某、シュルツェ某、その他ミヒェル某は、この語をいたずらに坊主くさくした。節制〈Enthaltung〉が禁欲〈Entsagung〉になったのである。〉(江夏・上杉訳224頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: にも係わらず、この学習した教授が、彼のマンチェスターへの旅行からなんらの恩恵もなしであったというものでも無かった。「工場法に関する諸論」の中で、彼は、「利益」、「利子」、その他の「なんらかのより以上のもの」を含めた全純利得が、純粋に、労働者の不払い労働に依存していることを記している。1年前、オックスフォードの学生達や教養をつけた無教養なペリシテ人達のために「政治経済学概論」を書いたが、「リカードの労働による価値の決定論に対置して、利益は資本家の労働から得られ、利子は彼等の禁欲から、別の言葉で云えば、節制から得られることを発見した。」とある。この俗説は古めかしいものだが、「節制」なる文句は目新しい。(以下この本文注を抄訳させてもらった。) でもこれがドイツ語では坊主語の「禁欲」と翻訳されてしまった。〉(インターネットから)


  第4節  剰余生産物


●第1パラグラフ

《直接的生産過程の諸結果》

  〈すでに見たように、全体として資本主義的生産の法則は、[第一に]可変資本と、剰余価値すなわち純生産物とに対して不変資本を増大させることであり、第二に、生産物のうち可変資本を補塡する部分、すなわち賃金に対して純生産物を増大させることである。ところがこの二つのことが取り違えられる。生産物全体を総生産物と呼ぶとすれば、資本主義的生産においては純生産物に対して総生産物が増大する。生産物のうち賃金+純生産物に分解しうる部分を総生産物と呼ぶとすれば、今度は総生産物に対して純生産物が増大するのである。農業においてのみ(耕作地を牧羊地に転用することなどを通じて)、純生産物がしばしば、総生産物(全生産物最)を犠牲にして増大する。それは地代に特有のある規定性の結果なのだが、それについてはここは論じる場所ではない。
  この点を別とすれば、純生産物こそが生産の究極かつ最高の目的だとする学説は、労働者のことを顧みることのない資本の価値増殖こそが、したがって剰余価値の創出こそが、資本主義的生産を推進する魂であるということを、ただ粗野に(だが正しく)表現したものにすぎないのである。
  資本主義的生産の最高の理想--純生産物の相対的増大[相対的剰余価値の生産のこと] に照応した理想--は、賃金で生活する者の数をできるだけ減少させつつ、純生産物で生活する者の数をできるだけ増大させることである。〉(光文社文庫282-283頁)

《初版》

 〈剰余価値率が、前貸資本の総額にたいする剰余価値の比率によって規定されるのではなく、前貸資本のうち労働力に投資された可変成分にたいする剰余価値の比率によって規定されているように、剰余生産物の大きさは、総生産物のうち剰余生産物を除いた部分にたいする剰余生産物の比率によって規定されるのではなく、もっぱら、必要労働を表わす生産物部分にたいする剰余生産物の比率によって規定されている。剰余価値の生産が資本主義的生産の決定的な目的であるように、生産物の絶対量ではなく剰余生産物の絶対量だけが、富の大きさの度合いを測るのである(34)。〉(江夏訳246-247頁)

《フランス語版》

 〈われわれは、剰余価値を表わす生産物部分を、純生産物〈surplus produce〉と名づける。剰余価値率が、資本の総額にたいする剰余価値の比率によって規定されるのではなく、資本の可変部分にたいする剰余価値の比率によって規定されるのと同様に、純生産物の量は、総生産物の残余額にたいする純生産物の比率によって規定されるのではなく、必要労働を表わす生産物部分にたいする純生産物の比率によって規定される。剰余価値の生産が、資本主義的生産の決定的な目的であるのと同様に、富の上昇度は、総生産物の絶対量によって測られるのではなく、純生産物の相対量によって測られる(12)。〉(江夏・上杉訳225頁)

《イギリス語版》

  〈(1)剰余価値を表す生産物のその部分、(第二節の例で与えられた、20重量ポンドの1/10、または2重量ポンドの撚糸) を我々は「剰余生産物」という。剰余価値率について云えば、それは、資本総計との関係ではなく、その可変部分との関係で決定される。それは、相対的剰余生産物量が、この生産物がかかわったそれ以外の全生産物との比で決められるものではなく、その一部分、体現化した必要労働との比率で決められるのと、同じ方法と言える。剰余価値の生産が資本主義体制における生産の最高・最終の目的なのであるから、人の、または国家の富の大きさは、生産された絶対的量によって計られるものではなく、剰余生産の相対的大きさによって計られるべきものなのである。 〉(インターネットから)


●注34

《直接的生産過程の諸結果》

  〈資本主義的生産の(したがって生産的労働の)目的は、生産者の生存ではなく、剰余価値の生産なのだから、剰余労働を行なわないすべての必要労働は、資本主義的生産にとっては余分で無価値である。それは一国全体の資本家(Nation von Capiraliseen)にとっても同じである。労働者を再生産するだけで純生産物(剰余生産物)をいっさい生産しないあらゆる総生産物は、先の労働者自身と同じく余分なのである。あるいは、ある労働者たちが生産のある一定の発展段階では純生産物を生産するのに必要だったとしても、生産のより高度な発展段階ではもはや必要としなくなれば、彼らは余分な存在になってしまう。言いかえれば、資本に利潤をもたらすだけの人数が必要なのである。それは一国全体の資本家にとっても同じである。
  1人の私的資本家にとっては、彼の資本が「1OO人を動かすのか1000人を動かすのか」は、2万[ポンド] の資本に対する利潤が「けっして2000ポンドを下回らないならば」、まったくどうでもいい問題であり、「一国民の現実の利益もそれと同じではないか?」[とリカードは言う]。つまり、「ある一国民の現実の純収入が、すなわちその地代と利潤とが同じであるならば、その国が1000万人の住民で構成されているのか、1200万人の住民で構成されているのかは、何ら重要ではない。…… もし5OO万人が1000万人にとって必要な食料や衣服を生産することがきるならば、差し引き500万人分の食料ど衣服が純収んになるだろう。もし、これと同じ純収入[つまり500万人分の食料と衣服]を生産するのに700万人が必要だとすれば、つまり、1200万人分の食料と衣服が生産するのに700万人が仕事に従事するとすれば、それはその国にとって何か利益になるだろうか? 依然として純収入は500万人分の食料と衣服のままなのだから」(リカード『原理』第26章)。
  博愛主義者といえども、リカードのこの命題に異議を差しはさむことはできないだろう。なぜなら、1000万人のうち50%だけが残る500万人のために純粋な生産機械として生きていくほうが、1200万人のうち700万人が、すなわち58[1/3]%もの人がそうするよりも、まだしもましだからである。
  「現在の王国において、一地方全体がこのように(つまり、古代ローマの初期におけるように自営小農民たちのあいだに)分割されているとすれば、どれほどきちんと耕作されていようと、ただ人間を養うという目的以外でいったい何の役に立つだろうか? これはそれ自体として見ればまったく無用な目的である」(アーサー・ヤング『政治算術』、ロンドン、1774年、47ページ)。
  資本主義的生産の目的が純生産物--これは実際にはただ、剰余価値が表わされている剰余生産物のことなのだが--であるということは、資本主義的生産が本質的に剰余価値の生産だということである。〉(光文社文庫277-280頁)

《初版》

 〈(34) 「2万ポンド・スターリングの資本をもっていて毎年2000ポンド・スターリングの利潤をあげる個人にとっては、彼の資本が労働者を1OO人働かせるか1000人働かせるか、生産された商品が1万ポンド・スターリングで売れるか2万ポンド・スターリングで売れるか、そんなことは、彼の利潤がどんなばあいでも2000ポンド・スターリング以下に下がらないことが必ず前提されていれば、全くどうでもよいことであろう。一国の真の利益も同じではなかろうか? その国の真の純所得、すなわちその国の地代と利潤が、相変わらず同じであれば、その国が1000万の住民から成っているか1200万の住民から成っているかは、少しも重要なことではない。」(リカード、前掲書、416ページ。)剰余生産物を狂信しているアーサー・ヤング、とにかく冗長なおしゃべり屋で無批判な著述家であって、その名声がその功績に反比例しているこの人は、リカードよりもはるか以前に、とりわけ次のように述べた。「ある州全体の土地が、古代ローマ風に独立の小農民の手でどんなによく耕されていようとも、この州全体が近代的王国ではなんの役に立つだろうか? 人間を産むというただ一つの目的("the mere purpose of breeding men")、それは、それ自体全くなんの目的ももってない("is a most useless purpose")が、この目的以外になんの目的があろうか?」(アーサー・ヤング『政治算術、ロンドン、1774年』、47ページ。)〉(江夏訳247頁)

《フランス語版》  注34とその補足とが注(12)として一つに纏められている。ここではその纏められたものを紹介する。

 〈(12) 2万ポンド・スターリングの資本を所有しその利潤が年々2000ポンド・スターリングに達する個入にとっては、彼の資本が100人の労働者を使おうと1000人の労働者を使おうと、また、生産された商品が1万ポンド・スターリングで売られようと2万ポンド・スターリングで売られようと、彼の利潤がどんなばあいにも2000ポンド・スターリング以下に下がることさえなければ、全くどうでもよいことであろう。一国の真の利益もこれと同じではないか? その国の純所得、地代と利潤が同じままであると前提すれば、その国が1000万の住民から成るか1200万の住民から成るかは、少しも重要なことではない」(リカード、前掲書、416ページ)。リカードよりずっと前に、純生産物の狂信者であるアーサー・ヤング、冗長でおしゃべりであると同時に判断力を欠き、その名声がその功績に逆比例しているこの著述家は、なかんずく次のように述べた。「ある州の土地が独立の小農民によって古代ローマ風に耕作されており、たとえそれができるかぎりうまく耕作されていても、この州全体は近代的な国ではなんの役に立つであろうか? それは、人間を養う〈the mere purpose of breeding men〉--これはそれ自体としてはなんの目的もない〈is a most useless purpose〉--結末になる、ということだけを除けば、ほかにどんな結末になるだろうか?」(アーサー・ヤング『政治算術』、ロンドン、1774年、47ページ)。ホプキンスはいとも正しくこう指摘する。「純生産物は労働者階級を労働させることを可能にするという理由から、純生産物を労働者階級にとって有利なものとして示す非常に強い傾向があるのは、奇妙なことである。しかし、たとえそれがこういう力をもっていても、けっしてそれが純生産物であるからでないことは、いとも明らかである」(トーマス・ホプキンス『地代……について』、ロンドン、1828年、126ページ)。〉(江夏・上杉訳225-226頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 「2万英ポンドの資本を用いて、彼の利益が年2千英ポンドである個人に関して云うならば、何が起ころうと、彼の利益が年2千英ポンド以下に減らずにもたらされるならば、彼の資本が100人を雇用しようと、1,000人を雇用しようと、どうでもいいことである。また、生産された商品が、1万英ポンドで売れようと、2万英ポンドで売れようと、どうでもいいことである。国家の実際の関心も似たようなものではないと云えるか? もたらされる純現実的収入、その地代や利益が同じなら、その国の人口が1千万であろうと、1千2百万であろうと、そのことに重要性はない。」(リカード「原理」) リカードよりかなり以前に、アーサー・ヤングは、次のように云っている。もっとも彼は、剰余生産物とそれ以外の生産物との関係を狂信的に支持する、饒舌で無批判な論者で、彼の評判は彼の功績に反比例しているのだが、「近代の王国においては、全ての領地が、[古代ローマの様式で、小さな独立した農民に分割され、] よく耕されていたとしても、単に、人を繁殖させるという目的を除けば、最も役にも立たない目的の一つであろう。(アーサー・ヤング 「政治の算術論他云々」ロンドン 1774) 〉(インターネットから)


●注34への補足

《初版》 初版には補足はない。

《フランス語版》  注33に纏めて紹介。

《イギリス語版》

  〈非常に奇妙なことに、「強い傾向が見られる… 純国富が労働者階級にとっても有益であると…とはいえ、明らかに、それが純国富の目的ではない。」(Th . ホプキンス, 「土地地代他云々」 ロンドン1828.)〉(インターネットから)


●第2パラグラフ

《初版》

 〈必要労働と剰余労働との合計が、労働者が自分の労働力の価値のみを再生産する時間と彼が剰余価値を生産する時間との合計が、彼の労働時間の絶対量--労働日(working day)を規定しているのである。〉(江夏訳247頁)

《フランス語版》

 〈必要労働と剰余労働との合計、労働者が自分の労働力の等価と剰余価値とを生産するに要する時間部分の合計は、彼の労働時間の絶対量、すなわち労働日〈working day〉を形成する。〉(江夏・上杉訳226頁)

《イギリス語版》

  〈(2)必要労働と剰余労働の合計、すなわち、作業者が彼の労働力の価値を置き換え、そして剰余価値を生産する過程期間の時間の合計、この合計時間 実際の時間が、彼が働く期間、すなわち労働日を構成する。〉(インターネットから)


  (第7章終わり。)

 

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