Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

久しぶりの晴間だったが‥、今夏の美術館と山行予定

2013年06月22日 10時52分16秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 朝の内、久しぶりの晴間であったが、もう曇ってきてしまった。全天厚い雲で覆われている。今年は入梅は早かったが、空梅雨の様相で推移してきた。ここ2~3日の雨も大した量は降っていない。

 「時には本の話でも‥」のブログに「秦テルオ」という画家のことがかかれていた。気になってネットで調べてみたら作家の秦恒平の2004年の京都近代美術館で行った講演録がアップされていた。早速印刷して昨晩ベッドに横になりながら眼を通したのだが、如何せん実際の絵を見ていないのでよく理解できない。2/3ほど読んだところで寝てしまった。
 でも管理人さんが竹橋の近代美術館で気になったというのは、信頼できる感性なので私も見てみたい。常設展ということなのでしばらくは展示されていると思う。美術館、いくつか気になっているのがある。
 ブリヂストン美術館のザオ・ウーキーの追悼展、江戸東京美術館の「ファインバーグ・コレクション「江戸絵画の奇跡」」展、これは9月からだからまだ余裕があるが「モローとルオー−聖なるものの継承と変容−」展、三菱一号館美術館の「浮世絵 Floating World-珠玉の斎藤コレクション-」展、これも10月からだが東京都美術館の「ターナー」展、そして横浜美術館の「プーシキン美術館」展は7月6日から。
 結構これは忙しい。
 梅雨が明けたら登山シーズン。今年はまず白馬岳-雪倉岳-朝日岳の稜線を歩きたい。これで北アルプスはほぼ歩いたことになるので、この後は懐かしい南アルプスにもどって南アルプスらしい長い尾根を堪能したい。果たして何回いけるだろうか。
 この山行の合間に美術館を訪れることになる。夏山シーズン前に行ける美術館は行っておきたい。

 本日はこれから横浜で句会。5句提出との事。これから添削して仕上げないと‥。

「ちんぐ」という言葉

2013年06月21日 20時05分57秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 先に「ちんぐ」と云う言葉、朝鮮・韓国語で友達という意味、と記載したところ、コメントにも寄せていただいたが、北九州で「慣れ親しんだ友」という意味で使っているとの指摘があった。
 ネットで調べてみると、そのとおり北九州では広く使われているようだ。「幼な友達」というようにかなり親密な関係の友に使うようだ。
 ただこれがいわゆる「方言」かというとそうでもないらしい。朝鮮語の「チング」の借用語という記載になっている。朝鮮語がその土地の言葉として流通するようになったものらしい。そのほかにも朝鮮語由来のことばはかなりあるようだ。
 重家酒造を訪ねたとき、製品名の「ちんぐ」の由来をキチンと聞くべきであった。反省である。

 本日、横浜は一日中小雨が降ったりやんだり。ぐずついた日であった。昨日帰宅途中も雨が降り、ことし始めて雨に当たる紫陽花の花を見ながら歩いた。幹線道路の大きな街路樹の植栽枡に地元の商店の人たちが草花を植えている。野放図にはみだして通行を邪魔するようなことはしておらず、キチンと管理されていて好ましい。
 その中で色の鮮やかな紫陽花も植わっている。これがなかなか見ごたえがあり、毎年楽しみにしている。ことしも割いてくれたのだが、空梅雨で雨の風情を目にしていなかった。やはり紫陽花は雨がないとさびしい。
 幹線道路を離れて古くからの商店街やその裏の住宅街を歩くとやはりさまざまな色や形の紫陽花が今見ごろである。この花を見ながらのウォーキングはこの時期の楽しみのひとつである。

 対馬・壱岐・吉野ヶ里の印象の記事、ようやく壱岐までが終了した。後は吉野ヶ里と九州の国立博物館の印象が残るだけとなった。なんとか今週中に終了して、藝大美術館での「夏目漱石の美術世界」展について来週はじめまでにはもう1回は書いておきたい。

 自分で始めたこととはいえ、なかなか大変である。

壱岐の印象(2)

2013年06月21日 14時18分57秒 | 山行・旅行・散策
      

 翌日は朝早くから原の辻遺跡(正式には、原の辻一支国王都復元公園。国指定特別史跡)にバスで出かけようとしたがバスの便が悪く、やむなくタクシーで向かった。周囲には店も何もなく、弥生時代の復元家屋が幾つも並んでいるだけ。もっとも私にはこの方が煩わしさもなくうれしい。20数件の復元家屋のひとつひとつの説明書きを丁寧に読みながらカメラにおさめた。
 ここは登呂遺跡と吉野ヶ里遺跡とならんで弥生遺跡として脚光を浴びているが、魏志倭人伝の王都として特定されている唯一の場所でもある。

 入口の鳥の形の柱については吉野ヶ里の訪問で疑問が解消。そちらで触れる事にする。
 復元家屋については本当かな、と思えるようなものもあるが、素人としての感想なので頓珍漢であるかもしれない。環濠集落の環濠がゴミ捨て場を兼ねていたことはわかるが、果たしてゴミの処理は環濠だけだったのか、という疑問を持っている。また便所はどうなっているのか、排水はどうなっていたのか、ということはどこの遺跡でもその復元を見るたびに、いつもこの疑問に納得のいく配慮がされていないので気になっている。
 そして「長老の家」「従者の宿舎」「迎賓の建物」「使節団の倉」「使節団の宿舎」「譯(やく)の家」「番小屋」などと書かれている。都市的な要素がある当時の集落に欠かせないと思われる諸施設であることはわかるがここまで断定してしまっていいのだろうか。そこまで具体的にできる根拠も記載して欲しいと思う。類推であることなど明確にしないと、一人歩きしてしまう。

            

 陽射しがとても暑く、まいったが、そのまま30分歩いて岡の上の壱岐市立一支国博物館まで山を登った。ここは長崎県埋蔵文化財センターとの併設施設らしい。博物館は石器時代から現代までの壱岐の歴史展示と、原の辻遺跡の人々の生活の再現を行っている。

 服装についても私が小さい頃に較べればかなりいい服装に復元されているが、それでもまだ何か余りにみすぼらしくないだろうかという疑問がある。魏志倭人伝では縫うことのない貫頭衣という表現だが、果たしてどうなのだろうか。
 復元された古代船についてはリアリティーもあり、頑丈な作りで、これはすごいものだと感心。
 さて、魏志倭人伝の引用は、18日にアップした壱岐の印象(1)で掲載したが、人口に結びつく表記は「戸数三千ばかり」である。対馬が「千余戸」でこれを5000人前後とすると、壱岐は1万5000人位となる。現在の人口の半分としてもこれはかなりの人口密度である。1平方キロあたり100人を越える。
 王都として支配の中心があり、さらに魏志倭人伝の記事は詳細に島全体を調査した記載ではないだろうから、原の辻の内部には数千人がいつも居住していたか、その周辺に住んでいたことになる。市には少なくとも数百軒以上が並び、壱岐以外の人の参加や、原の辻以外の住人の訪れも含めると数千人以上が市の日には集まっていたと私は勝手に推定している。そして模型展示ではこのように大勢の人を人形を並べて展示は困難であることはわかる。しかし「店」が点在していたりするのではなく、何軒も連なっていたであろう事は推定できる。するとあの展示は実際とはかけ離れていないだろうか。
 博物館の展示や、原の辻の復元遺跡がこのような大規模な市を想定しているのかどうかは、質問できる環境になかったので、私の疑問はそのまま今も頭の中に残っている。いつかどこかでこの疑問を解いて見たい。あるいは誰か専門家に聞いてみたい。

   

 博物館で250円也の「防人うどん」(これは美味しかった)を食べていたら、芦辺港に向かうバスが出てしまい、仕方なく風土記の丘と周囲の古墳群まで歩きと途中からタクシーを利用。途中足利尊氏由来という安国寺に寄った。

            

 壱岐には島全体に280もの古墳があるとのことだが、この島の中心部に「壱岐風土記の丘」がある。ここで散策コースに沿って掛木古墳、百合畑古墳群、笹塚古墳、双六古墳、鬼の窟古墳を見学。どの古墳も整備・説明はきちんとしており、散策路が整備されているが、見学者とは会うことはなかった。また散策路は人が最近歩いた形跡はほとんど感じられなかった。その分、静かな散策が楽しめた。



 その後3キロほど歩いて、湯ノ本温泉の長山旅館で200円を払って、バスの時間まで40分ほど入浴。ナトリウム塩化物泉だが、鉄分が極めて多い湯で、透明度がほとんどない赤い湯。あっという間にタオルが赤く染まった。残念ながらアルコールを売っている店はなく、郷ノ浦につくまでビールはおあずけ。
 郷ノ浦ではお勧めの店になっている寿司店にいったら予約で満席。その他の客は受け入れる余裕無しということで、断念。近くの店で刺身の盛り合わせと漬物で壱岐焼酎。帰りにこの島で1軒だけらしいコンビニでおにぎりを購入。

            

 翌日は、壱岐の最高峰という岳の辻に登った。遠回りをしているような舗装道を延々と登り、東西に長い頂上の尾根に沿って往復しながら、壱岐という島を鳥の視点で満喫。原の辻遺跡や一支博物館、風土記の丘、湯の本漁港、印通寺港、芦辺港まで見ることが出来た。無論眼下の郷ノ浦町も。下りも遠回りをしながらこの山を半周するように降りてきて、湯川温泉に1時間ほど入浴。ここもナトリウム塩化物泉で鉄分が多いようだが、湯ノ本温泉ほどの鉄分ではなく、若干透明度もある。ここは500円。入浴後の缶ビールを1本はとても美味しくいただけた。
 この日は生簀のある居酒屋でお勧めメニューから鯛のアラ煮と米ナスの田楽。やはりお勧めのイカの活き作りを食べたかったが、一人では食べ切れないので我慢。盛り付けも美しくとても惜しかった。ただし鯛のアラ煮はとても美味しかった。自分の家で食べるように骨にしゃぶりついて身を食べつくした。この日もコンビニのおにぎりで〆た。



 夕刻に博多港に向けて出発。


ちんぐ

2013年06月20日 20時44分52秒 | 料理関連&お酒
   

 朝鮮・韓国の言葉で「友達」という意味。壱岐焼酎の重家酒造の製品名になっている。なかなかいい名称だと思う。「ちんぐ、というのはどんな意味なのかな」と妻につぶやいたら、韓国語を習っている妻に「そんなこともしらないの?友達という意味だよ、知らないなんて情けない」と怒られた。今の時期、とてもいい名前だ。ますますおいしく感じてしまう。

 壱岐の北側にある勝本町の酒屋さんのホームページに、ちんぐ黒麹仕込み、の紹介として次のような文が載っている。

原料=米3/1、麦3/2。 貯蔵=ホーロータンク。
製造方法=壱岐焼酎400年の歴史そのままに木製こしき(木桶)で原料を蒸し上げかめで仕込んだ手造り焼酎です。また、二次仕込みは二日にかけて仕込む、いわゆる三段仕込み方式です。
内容=黒麹仕込みの焼酎を常圧蒸留し熟成させたもの。昔ながらの焼酎本来の香りと味を残し、個性豊な深い味わいに仕上げた焼酎です。

 昨日から少しずつ飲み始めた。食事前にお湯割りで1杯。夕食のおかずをツマミにお湯割でもう1杯。食後にストレートで1杯。本日はそのパターンに加えて、寝る前にもう一度ストレートで1杯としようかと思っている。

 私は鼻がきかないので、残念ながら大麦の香ばしさというのはわからないが、口に広がる甘味はとてもいい。見学させてもらった麹室の木の温もりが思い出される。

 あと二本はそれぞれ開封の時にまた掲載する予定。

台風4号と梅雨前線、体内時計

2013年06月19日 22時02分31秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は二つの講座をランドマークタワーと、クイーンズタワーで聞くためにみなとみらい地区に出かけたが、強い風がさらにビル風となって強烈な風が吹いていた。行きは歩いていく時間がなかったので電車で桜木町から、帰りは家まで歩いた。特に帰りは、歩くどころか立っているのがやっと。こんな日に歩くのは、何が飛んでくるかわからないので危険なのだ。普段は出歩くことはない。しかし旅行からかえって足を休めようと3日間静かにしていたが、どうしても歩きたくなってきた。
 風と湿気で予想外に汗をかいた。

 明日までは梅雨前線による雨・風、その後台風による風雨が本格化するらしい。先週の壱岐・対馬ではさいわいに台風はそれてくれた。今回も当初対馬・壱岐を直撃しそうだったが、それてきて3号と同じようなコースになるようだ。

 九州からかえってほっとしたことがひとつある。日の出、日の入が福岡と東京ではずいぶん違う。日の出で40分程度、日の入で30分程度それぞれ九州が遅い。朝6時半頃眼が覚め、夜は7時ごろの明るさを見るのがいつもの癖なのだが、これがずいぶん違う。九州では朝がなかなか明けず、夜がなかなか暮れない。
 太陽を感じて体が感ずる時間と、ずいぶん差がある。これはちょっと不思議な感覚だ。韓国旅行に行ったときとまったく同じ感覚を一週間味わった。私は大体が東北・北海道に出かけることが多いので、それほど時間については差を感じない。
 こんなに体内時計と実際の太陽の動きに違和感を感じたのは、歳の所為だよとある人に云われた。そうなのかもしれない。気がつきにくいところで体が過剰に反応するようになっているのだろうか。

 明日も出かけるのだが、午前中からは曇りらしい。少しでも雨の時間が短くなることを願いたいが、水不足もまた困る。身勝手なものである。

壱岐の印象(1) 重家酒造見学ほか

2013年06月19日 20時36分04秒 | 山行・旅行・散策
 まず14時ごろに壱岐の芦辺港についた。天気は曇りであったが、対馬のどんよりとした暗い感じの曇りではなく、雲が高く明るいうす曇りであった。それよりも山が低くなだらかで、山が迫ってくる感じがない。全体に空の面積が広いという印象である。緑の色も明るい。
 その印象は山が迫っていないだけかと思ったのだが、バスで移動するうちに田の明るさにもよるということに気付いた。対馬に較べて田が多いのだ。しかも田植えが終わったばかりだから水がきらめいていて空が映っており、余計に明るく感じる。地面からも光が照っている。山というよりも丘が低くなだらかな分、それなりの高さまで田がある。山が開かれているという印象がした。そしてとても懐かしい田園風景を見ている思いがした。一方で、対馬に較べて山が低い分、水は涸れるかことないのかという思いが頭をよぎった。

 魏志倭人伝を引用して今の対馬と壱岐を較べては、今に生きる人々には不本意であろうが、取っ掛かりとして書かせてもらう。
 壱岐に相当すると云われる一大国について「方三百里ばかり。竹木・叢林多く、三千ばかりの家あり。やや田地あり、田を耕せどもなお食するに足らず、また南北に市糴す」とある。対馬と較べると、
方四百里→方三百里、
深林多く→竹木・叢林多く、
千余戸→三千ばかりの家、
良田なく→やや田地あり、
海物を食して自活し、船に乗りて→田を耕せどもなお食するに足らず、
と違いが書かれている。
そして同じく、南北に市糴す、となっている。

 島の南北の距離は対馬が本島で約70キロ、壱岐が約17キロで合わない。東西の距離では対馬が約18キロ、壱岐が15キロと何となく合う。面積でみると700平方キロと133平方キロでこれはあわない。こうしてみると「方○○里」という表現は現実には即していないといえる。
 しかし自然の形態と田畑の状態については正確なのではないか。また対馬が海産物が主要な産業であるとの指摘の一方、壱岐が田はあるものの不足していることを指摘している。これも当時の状況を踏まえていると考えられる。
 私はこのことから、戸数三千というのも案外信用できるのではないかとおもう。少なくとも対馬よりも2~3倍の人口を抱え、市が発達しているというのは実情をキチンと踏まえていたと推量できるのではないだろうか。

 こんな印象が最初の壱岐の印象であった。現在の人口は対馬市が34000人に少し足りず、壱岐市29000人。人口密度は壱岐が対馬の約5倍近くもある。
 芦辺港についてまず感じたのは、ハングル表記がまずないということ。あれほど対馬では氾濫していたハングル表記がほとんど目につかない。そして韓国からの旅行客も目立つようなことはなかった。国境の島という対馬の雰囲気とはずいぶんと違う印象である。
 その次に対馬は少なくとも厳原の町並みでは、近世の対馬藩当時の記憶を呼び起こすような案内、標識が主流であった。しかしこの壱岐では、それは影を潜めている。原の辻遺跡で脚光を浴びたこともあるのだろうが、弥生時代や古代の古墳、そして元寇の記憶、そして壱岐焼酎の宣伝が中心である。
 対馬の町の記憶は、白村江-元寇-秀吉の朝鮮出兵-対馬藩政と朝鮮通信使-明治以降の朝鮮併合時代と、古代から戦前までの日本-朝鮮・中国との関係全般を対称にしている。特に対馬藩時代の掘り起しが中心だ。壱岐の町では、魏志倭人伝-元寇-明治時代の文化が中心の掘り起こしが私の目についた。
 都市や地域によりそれぞれに歴史へのこだわりが違っていて当然であるが、この現在の両市の違いは、それなりに歴史の雰囲気の違いを表しているようにも見える。それが何なのかはまだうまく整理が出来ない。しかし直接朝鮮半島に相対していて、そして田畑が少ない特徴と宗家という一島支配が続いた対馬と、九州により近く列島側の影響がより強く、近世は平戸藩という本土の藩の支配を受けた壱岐の違いは今も受け継がれているように感ずる。
 あえて対馬と壱岐を比較すること自体が今の時代それほど意味がないのかもしれない。しかし関東に住む人間が、歴史を紐解くよすがとして二つの島を訪ねるとすれば、比較はどうしてもしたくなる。



 初日はまず、焼酎の蔵元を訪れた。事前に調べていたのは重家酒造という蔵元。対馬からの船が着いた芦辺港からタクシーで印通寺(いんとうじ)という唐津へのフェリーが出ている港のすぐ傍にある。事前の予約をしていなかったが、電話をすると快く工場見学と試飲をさせてくれた。そこで3本とお土産用の1本を購入した。
 忙しい中、飛び込みの見学を受け入れてくれた専務をはじめ社員の方に感謝である。
 この重家酒造、「木製こしきで米・麦を蒸し、かめで仕込んだ手作り焼酎を続けている」というなかなか今の時代に迎合しない頑固な蔵元である。味がわかるほど舌が肥えてはいないが、このような蔵元にはつい応援をしたくなる。
 横浜で扱っている酒屋さんも教えてくれた。地下鉄でいけるところのようなので今度行ってみようと思う。
 さてこの蔵元での説明を受けたあと、先ほど記した私の壱岐での第一印象に添って「対馬は水は豊かなところに見えるが蔵元は一つしかない。壱岐では山が低く、森も深くなさそうなので水が豊かとは思えないが、蔵元は7つも頑張っている。この違いは何か」と質問してみた。
 次のように答えをもらった。「壱岐は対馬に較べて昔から米・麦がよく取れた。水も良い湧き水が湧いている」とのこと。私の冒頭に書いたことと話は符合するように感じて、合点がいった。同時に多分、近世になって田畑の収量がおそらく開発が盛んに行われたこともあり、飛躍的に増加したのかもしれない。
 そんなことを重家酒造の説明を受けながら感じた。

   

 さて蔵元見学が終わったあと、折角この石田町印通寺というところに来たので、壱岐市合併前の町立の博物館はないかと案内図を見ると、ふるさと資料館と松永記念館が併設されていた。松永記念館は石田町出身で電力王といわれた松永安左エ門の生家跡に建てられたとのこと。松永の事跡の紹介・展示と、地元の漁業関係の民具の展示がある。私は民具の展示を中心に見たが、初めて松永安左エ門という人の事跡を頭にいれた。

対馬の印象(3)

2013年06月17日 21時15分20秒 | 山行・旅行・散策
 白嶽の還り、タクシーで厳原まで行ってもらいながらタクシーの運転手から教わったことなど順不同でいくつか。
・最近は山でも猪が多くなり、時々人に被害が出る。→これは入山前に教えて欲しかった。
・韓国の人は山登りが好きで20名くらいのもの団体でこの白嶽にもよく来る。
・対馬には蘭が自生しているが、残念ながら自衛隊が演習で踏みにじり射撃でダメにしてしまう。
・韓国人の登山者も蘭を持ち帰ってしまう人が多い。日本人の登山者にも悪いのがいることは確かだが‥。
・対馬の人はお墓を立派なのに仕立てる。石も立派なものを建てるし、石に刻んだ文字も金箔で飾り立てる。
・上対馬(北部)は山が多少なだらかなので上対馬にも足を運んで欲しい。
・対馬は山が深く、水が豊かなので水不足ということはまずまい。
・厳原の川沿いにはスナック等が120件もひしめいている。厳原町15,000人に比して多すぎる数といわれる。客は漁師中心といわれ、観光客はあまり利用しない。漁師の気風といわれる。

   

 さて昨日記載忘れしたのが、「半井桃水」についての大納言様からの質問。対馬についたその日に半井桃水の旧居に寄ったのを忘れていた。大納言様のその日の質問に「桃水は樋口一葉のことをどう思っていたのか」というのがあった。この山登りの翌日、対馬最後の日に旧居を再度訪れたが休館日で詳しくは調べられなかった。私の記憶の範囲で展示内容を書いてみる。

   

 まず、桃水は一葉の才能を見出したものの想定以上であったことを後日語っていたらしい。また一葉の死後、一葉の思いが桃水にあったことを日記の公開で知ったらしいが、そのことについては論評は控えたらしい。
 桃水自身は妻を早くに亡くしたらしいが、当時の男としては珍しく24年間再婚はせずにいたらしい。最初の妻の死後24年後に再婚したが、出来た子は若くして亡くなったようだ。
 桃水がどのように一葉のことを考えていたかはわからなかったものの、人に口外するような軽薄な男ではなかったと思われる。

         


 そしてもうひとつ私が書きたいのは雨森(あめのもり)芳洲とその「誠信の交わり」について。

 1990年、盧泰愚(ノテウ)大統領は、「...二百七十年前、朝鮮との外交にたずさわった雨森芳洲は、<誠意と信義の交際>を信条としたと伝えられます。彼の相手役であった朝鮮の玄徳潤は、東莱に誠信堂を建てて日本の使節をもてなしました...」と述べ、日本では忘れられていた雨森芳洲が俄然脚光を浴びた。
 芳洲を顕彰する「雨森芳洲庵」が、1984年生地の高月町雨森に建設された。当時の滋賀県知事だった武村正義は、この事業を積極的に推進したようだ。

 略歴は、1668年(寛文8)~1755年(宝暦5)、対馬藩に仕えて李氏朝鮮との通好実務にも携わった。木下順庵の推薦で、当時、中継貿易で潤沢な財力をもつ対馬藩に仕官。対馬藩朝鮮方佐役として藩政に関する上申書『治要管見』や朝鮮外交心得『交隣提醒』を書いている。思想的には自身が日本人である事を悔やみ「中華の人間として生れたかった」と漏らした記録が後世に伝わる。朝鮮語通詞養成所を対馬府中に創設。明治期まで多くの名通詞を輩出させるこの学校では,当時軽視されていたハングルで書かれた小説を教材に用いるなど、芳洲独自の教育理念・方法が貫かれていた。
 盧泰愚大統領の言葉は芳洲のその内容はこの交隣提醒によっていて「朝鮮の風俗・習慣をよく理解し、違いを尊重して外交に当たるべきことを事例を挙げて説き、偏見や蔑視を抱いてはならないと強く主張している。また『誠信の交わり』については、互いに欺かず、争わず、真実をもって交わることこそ、まことの誠信である」との内容を踏まえている。

 列島に人間が住み着いて以来、半島と列島の間で人の交流が続いてきた。歴史家にいわせると戦い・争いも交流の一環ということだが、歴史の節目節目にはとてつもない戦いが行われる。白村江・元寇・秀吉の侵略・明治以降の侵略支配、その間に元寇に対する復習から始まったといわれる倭寇等にはじまり、再び緊張が高まりつつある現在、日本・韓国・中国の政治家に求められるのはこの芳洲の言葉かもしれない。芳洲は朝鮮通信使の儀礼についての日本側の傲慢に近い変更要求(新井白石発案)に朝鮮側との折衝に苦心しながら対応している。
 私などこの言葉に大いに惹かれる。国という思想上の足かせとも言える概念に振り回される昨今、本当の意味での国際化が必要なのだが、大いに噛み締めたいと思う言葉だ。
厳原町もこの人の顕彰に力を入れているようだ。小学校の通学路に横断防止策にこの人の言葉を鋳物にして掲げている。小学生にはとても難しい言葉が並ぶが、馴染むことはいいことだ。
 お墓はこの小学校の傍の長寿院というお寺にある。境内を登っていった竹やぶの中にひっそりと静かに建っている。人柄のように静かに周囲の竹林の雰囲気にぴったりと沿うように建っている。とてもいいところだ。訪れて良かったと思っている。

   

 このほか、対馬班の御用船のドック兼桟橋ともいえる「お船江跡」も見学した。明治はじめの頃の写真も案内に表示されており、当時の港のようすもわかるように公園として整備され興味深かった。
 しかし今回の訪問では、対馬の最高峰である矢立山(649m)に登ることが出来なかった。さらに下対馬だけを回ったことになり、上対馬については足を踏み入れなかった。また浅茅湾の美しい景色も城山から眺めただけで、逆に海岸から金田城を眺めることも敵なかった。さらに最北部の比田勝港も訪れることが出来なかった。 訪れる機会がもし人生の中で残されているとしたら、是非とも訪れてみたいものである。



対馬の印象(2)

2013年06月17日 12時29分42秒 | 山行・旅行・散策
               

 二日目、とりあえず行きたいと思っていた金田城(かねだのき)跡を目指して、空港に戻ってからタクシーで登山口まで。城山(じょうやま、276m)の北部東面全体を石垣で囲んだ金田城は想像以上の広大な山城であった。頂上からは西にリアス式海岸の美しい浅茅(あそう)湾を望めるのだが、この頂上の尾根から東の奥まった湾までを囲むように石垣が巡っている。唐と新羅の連合軍が日本に押し寄せるという危機感から、東国より防人を大量に動員して築いた城のひとつなのだろうが、どうも私にはこの城の目的とするところが今ひとつわからなかった。
 朝鮮半島から軍が押し寄せるとして、防備が調っていることの誇示ならば朝鮮半島を臨むことの出来る西の浅茅湾に向かって石垣を作ればいいはずだ。頂上の稜線に延々と続く石垣が残っており、樹林帯に隠れるように作ったのか、頂上の樹林を切って海から石垣が見えるようにしたのかは不明だ。しかし東斜面を海まで続く石垣は、その囲いの中に多くの兵を駐屯させ、海からの補給と出兵を可能にした砦という見方も出来る。軍事の知識がないだけに私にはわからないのでここら辺の解明も欲しいところ。しかもこの地点が他の地点と較べてどうして城の適地なのか、これも私にはよくわからない。
 残された石垣の規模はとてつもない規模であるし、また積み上げ方も整然としてはいないのだがそれでも念入りな計画とくずれにくい積み方を熟知した時つに計画的なものであると素人の私にも直感できる。戦国時代の石垣のように隙間なく寸部の狂いもなく、というわけではなく対馬特有の頁岩の石の形をうまく利用した摘み方でかなり短期間で積み上げたと思われる。しかし今まで残っているのだから念入りな摘み方であることは間違いはない。そのエネルギーに圧倒された。
 しかし百済という交流のあった国の滅亡に対応する方法として援軍の出兵という方法もあるのだろうが、またそのことによって大量の百済の人々が先進の文化を携えてきてくれたおかげで日本の古代国家の成立に大きく寄与してくれたことは充分理解できるが、国際感覚、戦いを避ける方途の模索という点ではこの出兵という選択は正しかったのだろうか。
 白村江の戦いというのがあったとして、今でいえばそれは朝鮮の人々にとっては侵略になる。当然防衛の意識は高く、政策の選択としては決していいものではない。しかも敗戦で大量の人的・物的損害を出した上に、防衛のために防人というとてつもない人員の投入に費やした労力、民の疲弊、国力の投入は決して望ましい選択ではなかったはずだ。現にそれにより壬申の乱が勃発しこの介入戦争を主導した政権は倒された。当時の倭という未熟な国家の国際感覚の欠如が招いた悲劇である。
 戦さというのは国を傾ける大きな原因なのだ。政権を担う人々に選択を誤ることは許されない。戦さは選択としては決してベストでもベターでもない、避けられるだけ避けたうえでの止むを得ざる選択でしかないことを肝に銘じなくてはならないと思う。

   

 この金田城の頂上には日露戦争による対馬要塞化の一環として砲台が築かれた。対馬全体が砲台要塞化の中で島内のあちこちに砲台遺跡が残っている。ここの頂上に西側の朝鮮半島に向けて砲台が据えられた。そこに向かう軍道がつくられている。明治の近代軍備であるが、その廃れた遺構は古代の遺構よりもとても虚しく、脆いものに感じられる。しかも威力は数百倍はあるだろうが、古代の城砦よりも城砦の規模としては小さい。
 日本の古代国家の成り立ちの頃の失敗と、近代国家の成り立ちの頃の選択の過ちの象徴のような遺跡が重なって存在している。感慨深い遺跡だ。対馬自体がさらに近世の中央集権国家の成立に際しての朝鮮への侵略という誤った選択の前線基地でもあった。政治体制の選択の誤りのたびにここの地がクローズアップされる。今もこの地は緊張が押し寄せてきている。
 この金田城の復元発掘はよくできていると思う。説明板も完備され、説明も詳しい。だが、残念ながらここを訪れる人は極めて少ないようだ。私も2時間半かけて一周したが誰にも合わなかった。それゆえか道が荒れていて迷い易い。実にもったいない。これだけ遺跡の復元と説明板設置に費やした労力を生かさなければならないと感じた。戦さというものを実感できる数少ない遺跡である。沖縄も広島もつい最近の戦争の悲惨さを実感させてくれる貴重な場所である。ここもそんなことに思いをはせさせてくれるとても大切な遺跡だと思う。

            

 タクシーの運転手のアドバイスで、午後からこの近くの白嶽(しらたけ、519m)に登っても夕方には登山口に戻ることができることを知った。タクシーでスーパーのあるところまで一端もどりパンと飲料水を購入して登山口へ。13時半に出発して16時に戻ることが出来た。タクシーはメーターを止めて待っていてくれた。
 この白嶽、対馬の最高峰ではないが白い大きな岩が双耳峰として特異な形を見せている。地元の古くからの信仰の山として大切にされている。沢沿いの道から出発してなだらかな道から始まる。頂上までや約1.95キロの表示がありパンを食べながらハイスピードで登った。羊歯の若葉の緑がとても美しい。午前中の金田城での2時間でそれなりに疲れていたが、快調である。
 しかし白嶽神社を過ぎると途端に登山道はきつくなってくる。この白嶽神社の鳥居には赤と白の大きな布が縛り付けられている。始めて見る習俗だと思った。さらにあと400mの標識では、頂上までの高度さも160mとある。これはかなりの急登と推察したとおりロープが張られなかなかののぼりだ。水天宮のあたりから深い樹林に囲まれているが本格的な岩稜帯。
 「あと105m」の地点からはスリル満点の大きな岩との格闘。首から提げているカメラは邪魔なのでリュックにしまう。道の東側が鋭く切れ落ちて怖いこと。これは山慣れていないと厳しい。さいわい雨にはならなかったが風出てきて頂上からの戻りはとても怖かった。休むこともなくひたすらもと来た道をもどり16時にタクシーの待つ登山口に到着。コースタイム3時間半を2時間半で終わらせることが出来た。登山口に近い沢で上半身裸になり汗を拭いようやく一心地つくことが出来た。500m級の山と侮ってはいけない。スリル満点の頂上であった。

 この白嶽に登って私は「やはり私の旅行のスタイルにはこの登山を抜きにしてはいけないのだ」とあらためて感じた。その土地土地の最高峰に登り、人々の生活や信仰のよりどころに登るということを忘れてはいけない。その土地に対する敬意というものだ。そして心地良い疲労感がうれしい。壱岐に行ったら低いとはいえ「岳の辻」に登らないとまずい、と決意をした。

これは大変なことに‥

2013年06月17日 01時02分43秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 先ほど今回の旅行の印象の第一回目をアップし終えたが、これを最後まで続けるとこれは大変な作業量になる。
 ちょっとあせっている。

 旅行で経験したことをまとめたいという気持ちもまだ強い。資料の準備等で時間がつぶれたから明日からは多少は楽になるが‥。続けられるだろうか、少々心もとない。対馬をあと1回、壱岐を2回、九州国立博物館等で1回位を頭の中に思い描いている。果たしてそのとおりにできるだろうか。

 まぁ義務ではないから途中でお手上げになっても、怒りのコメントは無しにして欲しいと、願うしかない。
 本日も一日外出の予定はないので、対馬は何とか本日中に終わりそう。明日・明後日が、退職者会の幹事会、講座で午後がうまっている。午前中にアップできるだけのゆとりがあればうれしいのだが‥。明々後日も友人に会う予定。

 実は先ほど計算したら、この旅行中7日間で合計214,515歩も歩いている。一日平均30,645歩となった。毎日平均20キロメートル、7日で140キロメートル歩いたことになる。これはさすがに後から効いてくる。江戸時代の旅人はもっと歩いたそうだから、自慢にしてはいけないが、自分なりには「よしよし」という気持ちである。
 昨日は腰から下が何となく筋肉痛。といってもつらい筋肉痛ではなく、何となくだるいという感じに近い。昨晩は寝ながら足を勝手に屈伸していたようだ。足を少し上げて寝るために厚めの座布団を二つ折りにして踵を乗せて寝ているが、その座布団を足元にベッドから蹴落としていた。昨日今日はまったくの休養日にしたい。

 購入した焼酎とぐい呑みの使用は、まだだ。これは明後日以降になりそう。心ははやっても、まずは今飲んでいる焼酎を空にしてから出ないと、新規開封のお許しが出ない。
 とりあえず、ぐい呑みの写真は掲載しておこう。2625円の割には立派な箱に入っていてちゃんと作者名も入っている。




対馬の印象(1)

2013年06月16日 21時07分37秒 | 山行・旅行・散策
 対馬に行くまでは、対馬で何を見、何をするか特にこれといったことは考えていなかった。ただ防人の歌にみられる古代の民の怨嗟の、その象徴とも言うべき金田城跡は見たいと思っていた。
 対馬空港に昼前について、そのままバスで対馬市の中心へむかった。バスの中での印象は山深い島だということ。周囲の山が500メートルはないのだが、急峻でそそり立っている感じであることと、緑に囲まれて森がとても深いかんじであること、そして多分水が豊かな島であるらしいということだ。その分田畑は限られているらしいことも垣間見えた。耕作単位の田畑の面積が広くないと思えた。昔から農業での生産は厳しかったのだろう。
 岩波文庫の魏志倭人伝の対馬国について読み下しでは「方四百余里ばかり。土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿の径の如し。千余戸あり。良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴(してき)す」とある。この魏志倭人伝の記述は地形や生産の特徴としてはとても正確なような気がする。農業ではなく海産物が生産物で、かつ交易が盛んな地域ということなのであろう。もし千余戸というのも正しければこれは人口を何人と想定すればいいのだろうか。5~6千人ということと理解できるのだろうか。

 現在は対馬市の人口が34000人にわずかにかけるようだ。また江戸時代の大火の歴史によると厳原の約4割が焼けたときの焼けた戸数が1214戸となっている。厳原の総戸数は3000余戸と推計される。対馬全体でたとえば6000個とすると江戸時代の島の人口は30000人と推定すると現在と人口はそう違わないことになる。日本全体が倍の人口になっているのだからそれだけ過疎化が進んでいるということになる。
 方400里というはどうなのか。現在の本島の南北は約70キロ位だ。一里180メートルとするとほぼ正しいことになる。字通だと周時代1里=100歩、後に180歩。あるいは「方」という表現が面積がらみなのか?後漢・三国の時代の制度で考えなければならないのだろう。私にはお手上げだ。
 こんなことをバスの中で考えた。

 厳原町の港の傍のホテルに荷物をあずけ、まずは長崎県立津島歴史民族資料館を訪れた。ここの展示の中心は対馬宗家の文書8万点を中心とした近世=江戸時代の藩政記録と朝鮮通信使。パンフレット類は安く解り安いものがいくつかあり、「津島市の文化財」(2010年)を500円で購入。韓国の窃盗団に盗まれ、返還が拒否されている観音寺の「観世音菩薩坐像」も掲載されている。

 厳原は藩政時代の行政の中心地だけあり、厳原町の街並み景観も今はこの時代が中心になっているように見受けられた。

         

 それでも秀吉の朝鮮出兵の折りの築造という清水山(206m)の山城跡を目指して登り始めたが、雨で途中の二の丸跡の石垣までで断念した。しかし厳原の町を一望できて見晴らしは良好。兵站用の城とのことだが、具体的な役割等は不明。ただし短期間にこの膨大なエネルギーを費やした秀吉の政権の財力をはじめとした力にあらためて驚いた。

            

 その足で宗家の城に当たる金石城跡の門と、心字池の庭園を散策した。庭園は1993年以降の発掘と整備により復元されたようだが、実に美しい。小熊笹の薄緑色の葉が雨に映えて心の落ち着く庭である。ここも人が訪れることは稀なようで入口で入場券を担当していた方が説明もしてくれた。そしてお茶もご馳走になった。
 どうもありがとうございました。

               

 その後は万松院という対馬宗家の菩提寺を訪れた。百雁木(ひゃくがんぎ)という長い階段の先にある御霊屋に当主ごとに巨大な石で祀られている。仙台の伊達家の御霊屋の墓石の立派さが記憶にあるのだが、それを大きく上回っている。この墓石の大きさはすごい。人を圧倒する偉容ではない。何か人を丸く包み込むような落ち着きを感じる。大きな樹木と苔の為かもしれないが、対馬の自然を感じさせる。
 ここも静かに散策できるいいお寺である。

 総じて山城の石垣といいこのような墓所といい、対馬は石の文化だと感じた。



 その後、八幡宮神社を訪問。奉納された絵馬が日本語による合格祈願等であるが、ほぼ同じ数だけハングルの書かれた絵馬が、対馬という島のもつ性格を物語っていると感じた。

 最後に再び清水山城の登山口の傍にある、特産品の若田硯の工房=岩坂芳秀堂を訪ね、硯石の材料の頁岩のこと、硯作成の方法、自然の造形を生かした硯作成のことなどを詳しく説明してもらった。とてもありがたく、勉強になった。親切な説明に対しては申し訳ないのだが、金銭的にもつらいのでごく小さな硯を購入させてもらった。

 初日はこの訪問で時間切れ。夜は居酒屋で特産の「ろくべい」を食した。

 しかし韓国からの訪問者がとても多い町であることは、すぐわかる。すれ違う旅行者の言葉から判断すると私の感覚では9割が韓国人。日本人観光客はほぼいない。案内標識も、店の看板も日本語とハングルの併記。時にはハングルのみの店の看板もある。リーフレットに書いてある国境の島という言葉も頷ける。遠い人類史始まって以来の文化の伝わってきた極めて重要な地域的な特質があるのだが、争い・戦争という節目の歴史だけでなく、江戸時代の貿易と朝鮮通信使受け入れのように重要な役割を担ってきた人々の交流の歴史。苦労を重ねた経験が受け継がれているのであろう。そしてこの韓国からの観光客がいなければ産業も経済全体も成り立たない対馬の現在が充分うかがえる。

無事羽田着

2013年06月15日 20時27分17秒 | 山行・旅行・散策
揺れるという予報が機内であったもののほとんど揺れず快適な飛行。
雨も降っておらず大助かり。
いろいろアドバイスをいただいたり、ご心配をおかけしたり、申し訳なく思っております。
詳しい補足等は後日アップします。

本日はこれにておやすみなさい。

佐賀空港へ

2013年06月15日 16時43分49秒 | 山行・旅行・散策
ようやく今回の旅行も、見学予定の箇所は終了。
これより佐賀駅よりリムジンバスで佐賀空港へ向かう。
さすがにこの7日間よく動いたと思う。

九州国立博物館は太宰府の横にでんと構えて立派なもの。むかし20数年前大宰府を訪れた時はなかった。
佐賀県立美術館&博物館、これも立派なものであったが、美術館会館30年展、今は書なのでわからなかった。

いずれも詳細は後日アップしたい。

九州国立博物館へ

2013年06月15日 06時23分10秒 | 山行・旅行・散策
本日佐賀市は雨。九州北部はどこも雨のようだ。
夕方佐賀空港から出立する頃には晴れる予想だが、夕方から夜にかけて羽田空港のある関東地方が雨が降るらしい。
少し気温が下がってくれるとうれしいが、それでも湿気はすごい。

九博では何が見ものなのだろう。

吉野ヶ里遺跡探訪

2013年06月14日 21時01分36秒 | 山行・旅行・散策
朝9時半頃吉野ヶ里公園前駅に着き、同駅に戻ったのが15時半過ぎ。正味6時間あまりかかって吉野ヶ里歴史公園を歩いたことになる。確かに園内は広い。今も整備が進められている。特に当時の森の復元が予定されているようで、これは面白い試みだと思う。
しかし本日は蒸し暑くさすがにこたえた。それほどの歩数ではないのに途中で、汗が吹き出るように出て、「熱中症」という言葉が頭をよぎった。休憩所でポカリスエットを飲んで40分ほど休養して落ち着いた。危うし、危うし。その間には便所の手洗い場で上半身裸になって濡らしたタオルで汗を拭い冷やした。休憩所は日陰で風通しもよく心地よかった。

14時過ぎに一回り終えて一旦園外の併設施設で「茶そば・天ぷらセット」を注文。これが実においしかった。併設のレストランとは思えない味にご満悦。塩分補給のため塩と唐辛子で天ぷらを食べた。これですっかり体力を回復できた。再度園内に戻り30分ほど展示を再度みることができた。
しかし広い園内、夏に見学するのは大変である。

15時半の列車で佐賀駅に到着。ホテルに荷物を預けて市の中心部を散策し明日の見所を探った。

明日は、葦原の山姥様のアドバイスに従い一旦太宰府に戻り九州国立博物館に行き、14時頃佐賀に戻って、佐賀県立美術館と博物館を見てから佐賀空港という計画を立てた。その下見を兼ねて佐賀城公園そばの県産業振興センターにおもむき、伊万里焼の小さな猪口を購入した。私の購入したのは2625円なりのもの。私としてはとても高価で、奮発物だが、展示品の中では最も安いもの。私のお猪口のコレクションでは一番高い。贅沢をしてしまった。妻には内緒にしなくては・・と思ったが書いてしまった(^_^;)

夕食のつもりで居酒屋へ。金曜のためか3軒も断られてようやく入った店、魚もお酒もおいしかった。佐賀のお酒、東一と、菱を使って作ったという、菱娘という焼酎を飲み、さしみはエツという魚の刺身と胡麻鯖、キュウリの梅ドレッシングがけ。

佐賀市の駅前はビジネスホテルが実に多い。高校生も多い。なかなか落ち着いていて暮らしやすそうな感じである。

ということで明日に備えて就寝。

本日の歩程 31000歩。
しかし実にシッカリと日焼けしている。両腕と頭と顔と首筋。これは恥ずかしい。





吉野ヶ里へ

2013年06月14日 08時46分16秒 | 山行・旅行・散策
昨日は壱岐で岳の辻に登ったが午後からは日差しが強くなり、顔がかなり日焼けしたようだ。
19時前にホテルに到着したが、シャワーを浴びたら顔がヒリヒリと痛かった。洗濯のためホテルのランドリーに行ったら洗濯機が300円、乾燥機が200円と驚きの値段。手洗いはつらいのでやむなく利用。中学生の団体がいたがやはり戸惑っていた。立派な大きなホテルの割に格安だったが、こういうところで費用がかかる。もっとも宿泊費全体では安いのでやむを得ないが・・。
洗濯が終了して20時半、どこにも出かけることなく事前にコンビニで購入したワンカップの焼酎と生ハムでご機嫌になって就寝。
朝の福岡の博多周辺は当然ながら対馬・壱岐とは大違い。活気と人混みに圧倒される。一挙に日常に戻された感じがする。人口が150万人を越えたらしい。神戸に匹敵する規模である。

現在、鳥栖経由で吉野ヶ里に向かっている。