Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

壱岐紀行(4)

2013年06月13日 22時14分28秒 | 山行・旅行・散策
予定どおりのコースで壱岐の最高峰の岳の辻に登った。途中市立美術館に立ち寄ったが残念の一言。その足で途中の神社等に寄り道をしながら213メートルの頂上に立った。東西に長い頂上からは壱岐の島の全体が見渡せ、豊かな島であること、弥生時代後期の集落の実態などが想像できた。やはり高いところから見渡すと言うことの大切さを実感した。

山の下をいろいろ歩き回りながら壱岐最後の時間を満喫。湯川温泉で1時間ほどつかった。昨日の温泉ほどではないがやはり鉄分で赤い。でも主要には塩分の多い熱海の温泉のように塩辛い。ずいぶんあたたまった。

15時頃食堂で昼兼夕食としてサザエ丼。対馬から壱岐と刺身ばかりだったのでとても美味しく食べた。

博多までの船は揺れもなく快適。明日は佐賀まで出来るだけ早めに行きたい。

本日の歩程 35000歩。

壱岐紀行(3)

2013年06月13日 06時42分53秒 | 山行・旅行・散策
本日もかなり蒸し暑そうだ。昨晩は持ち歩いている軽いリュックも汗臭くなっていたので洗ったばかり。電車内や飛行機内で嫌われないようにもう一度洗わなくてはいけないかもしれない。

本日は壱岐の島に敬意を表して、壱岐最高峰岳の辻、壱岐郷土美術館などを巡って、最後にもう一つの温泉湯川温泉に入る予定である。
夕方17時の船で博多港へ向かう。博多では夕食後ホテルに直行で、見学はなし。

壱岐紀行(2)

2013年06月12日 21時09分15秒 | 山行・旅行・散策
本日は、朝早くホテルを出て原の辻遺跡と一支国博物館を午前中に訪問。バスの便が悪く郷ノ浦からタクシーを利用した。午後からは、風土記の丘へ。途中まで歩いた後、さらにタクシーを利用した。
午前中が紀元200年以前の三国志ギ志倭人伝に記載があるとはいえ日本では無文字の世界社会、午後は紀元500年以降だが古墳時代も日本は無文字社会から文字社会に移行を始めた頃とはいえやはり無文字社会。こんな時代に思いをはせながら一日を楽しんだ。
しかし遺跡巡りは人気がないようだ。原の辻も風土記の丘も、説明板、案内標識、道路、いずれもキチンと整備されているが、まったく人に出会わなかった。博物館も来場者は少ない。しかもウォーキングを兼ねて実に体にも良い。
16時過ぎに歩いて湯ノ本温泉にたどり着き、長山旅館というところで200円で40分ほども湯に入れてもらった。濃い赤茶色の湯で、鉄分がきわめて多いような温泉である。汗をしっかり流して満足。郷ノ浦まではバスがあり530円ですんだ。助かった。
夜は夕食後、洗濯に精を出し、すっかりくたびれてしまった。
ということで、おやすみなさい。

本日の歩程 30000歩



対馬紀行(3)&壱岐紀行(1)

2013年06月11日 20時50分05秒 | 山行・旅行・散策
本日は午前中は、土産を購入・発送後、対馬の厳原の街並みを再度巡った。雨森芳洲の墓を訪れ、江戸時代の対馬藩の公用船の船着場跡などを雨の中一時間半以上ひたすら歩いた。
午後一番に高速船で芦辺の到着。
対馬は2泊3日の間、天気は思わしくなく厚い雲に覆われ時々降っていた。しかし壱岐は晴れ、日差しが強い。タクシーの運転手に聞いたところずうっと晴れ間が多かったとのこと。こんなにも天候が違うのかとビックリ。また暖かい。てんきの所為だけではなく植生も明らかに違う。南国的だ。棕櫚が多いし、紫陽花も横浜と対馬は同じくらいの開き具合だったが壱岐は満開の見頃を迎えている。

まずは芦辺から石田へタクシーで重家酒造という蔵元へ直行。説明を受けて試飲をさせて貰って四合瓶を購入、宅急便で発送。タクシーの運転手は親切に明日以降はバスが安いと路線を説明してくれた。蔵元のそばで、石田町ふるさと資料館・松永安左衛門記念館を100円で見学。その後教えて貰ったとおり宿を予約した郷ノ浦までバスを利用。
夕食は鼻がきかずチョット期待はずれの店で焼酎を2杯ほど。
洗濯を終えたので就寝予定。
明日は原の辻遺跡・風土記の丘を見学予定。

壱岐は晴れているからだけではなくあきらかに対馬より明るい。対馬より山が低いだけでなく、田圃と畑が広い。対馬が山に囲まれ山からの水に恵まれ尚且つ漁業が主で石の文化とすれば、壱岐は弥生的な稲作の文化で開放的な感じだ。
蔵元の説明では、壱岐は地下からの湧き水が豊かで、対馬より耕地が広く米麦が多くとれるので、対馬1軒に比して7軒もの蔵元がやっていけるとのことであった。
この蔵元は昔ながらの製法にこだわりながら、それゆえ生産量は少ないものの独自の道を歩んでいる様子。とても好感が持てた。横浜でも扱っている酒屋さんがあるようで、我が家から地下鉄で8つほどのところ。今度行ってみよう。

対馬は厳原に人口が集中しているらしい。そして厳原では夜遅くまで川沿いのスナック・バーなどの飲み屋が夜遅くまでやっている。タクシーの運転手に言わせると「人口12000で飲み屋が120軒。昔から漁師でもっているといわえれている」とのこと。ところが壱岐は人口は分散しているとのことだ。そして同じく漁港でありながら壱岐の郷ノ浦の夜は早い。先の石田の印通寺港も飲み屋街はごく小規模だったと思う。島民の、漁業従事者の気っ風の違いだけではないだろう。島の歴史や捕る魚の違いによるとも思えない。もこれはよくわからない。

取りあえず本日はここまで。

本日の歩程 30000歩

対馬紀行(2)

2013年06月10日 18時19分30秒 | 山行・旅行・散策
本日は、対馬中部の金田城跡を含む城山(273m)を2時間あまりで一周。
遺跡の説明は丁寧にたくさんあったが、道があれている箇所がいくつかあり、結構戸惑った。とても大規模な遺構で防人の悲鳴が聞こえてきそうであった。また壬辰の乱の根拠とも思われた。
壬辰の乱と1200年後の日本「帝国」の発想が同じというアイロニーは皆が学ぶべきだと実感した。
まったく人にあわなかった。これは人がもっと訪れてしかるべきところと思う。
さらに白嶽(518m)を2時間30分で往復。標識は完備されて迷うことはない。しかし頂上直下の急坂はなかなかのもの。
ここでもまったく人に会わない。訪れる人は韓国からの団体客ばかりらしい。
とても充実感がある。しかしとても疲れた。
私はやはり山歩きをしないと旅の充実感が得られない性格・体質になってしまったようだ。
しかしとても勉強にもなった。
聞いて知ったことと、体で体感することの差の大きさにあらためて驚いた。
同時に対馬がとても水の豊かな土地であることを実感した。水の豊かさは、文化の多様性、保養力の深さ、文化の違いを許容する懐の深さに比例するというのが私の勝手な、飛躍しすぎる妄想だが、皆さんはどのように判断されるのでしょうか?
さてその内容は帰ってからまとめるつもり。
本日は報告までに・・。

昨日の歩程 29000歩
本日の歩程 35000歩

明日は海路、壱岐に赴く予定。


対馬紀行(1)

2013年06月09日 22時27分09秒 | 山行・旅行・散策
正午前に対馬空港に到着。シャトルバスで中心地厳原(いずはら)へ約20分で到着。一時雨はやんだもののすぐに再び歩き始めた。
県立歴史民族資料館、清水山城跡、旧金石城庭園、金石城跡、八幡宮神社、武家屋敷、半井桃水館、対馬江口醤油店、硯石工房等々を訪問。

台風3号の影響が心配である。

詳細は後日。

荷物のチェック

2013年06月08日 21時37分48秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 100円ショップの紙製のパンツ、心配した蒸れはなかった。しかし履き心地は形容のしようがない。履いているという実感がない。パンツをはかずにズボンをはいているような感じもあり、どうも落ち着かない。折角購入したがやはりこれを利用することはなさそうだ。

 荷物の詰めなおしと採集チェックを完了。とりあえず旅行中は曇り空と仮定したものの、やはり傘と雨具はもっていくことにした。しかし靴は防水加工のない運動靴ということにしたまま。
 旅行も山登りと同じく荷物やザックの支度が楽しみでもある。何度も入れ替えたり、加えたり、はずしたり‥他人が見たら何をしているのかといぶかしいことでも本人にしてみれば大事な事なのだ。いつまでたっても子供のようなものかもしれない。
 明日は朝4時半起床で、5時半出発予定。普段は山にでも行かない限りこんな朝早く出かけることなどまずあり得ない。本当におきることが出来るであろうか。

 さて、ブログの更新は現地からスマートフォンで少しずつ行う予定にはしている。


100円ショップのパンツ

2013年06月07日 17時09分57秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 明後日からの旅行、楽をしようと100円ショップで使い捨ての紙製のパンツを購入してみた。105円で5つ入っているから便利かと思ったのだが、これがはいてみると思ったほどではない。どうもあくまでも緊急用だ。
 まず、男用だが穴がない。次にブリーフ形式なのでぴったりしすぎて、透けている。人に見せるものではないが、かなり恥ずかしい。さらにまた少し蒸れるようだ。また肌触りも良くない。今晩これで出かけてみて様子をみるが、あまり気乗りがしない。
 楽をしないで、洗濯洗剤をもって行って、ティーシャツと下着のシャツとパンツと靴下は自分で洗うのがやはり良いのだろう。かえってそのほうが荷物は軽くなる。荷物の詰め直しを今晩しなくてはいけない。


日曜から旅行

2013年06月07日 11時33分35秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日は午前中ウォーキングが出来ないなかったので、夜大久保駅からの帰途にウォーキングをすることにした。まず大久保駅から新宿三丁目駅まで歩き、東横線で綱島駅まで乗り、再びウォーキングを開始した。東横線沿いの道をほぼ横浜駅近くの家まで歩いた。1時間40分ほど、約1万4千歩ほど。途中で24時を過ぎて家に着いたのが日付を過ぎてしまって1時ちょうどであったのは少々予定外。9キロメートル以上は歩いただろうか。かなりの早歩きで大分汗をかいた。
 家の風呂はまだ暖かく気持ちよかった。しかしさすがに足の筋肉が疲労していて火照ってなかなか寝付けなかった。また朝も8時近くまでぐっすりと寝た。
 途中、白楽の駅の近くからは商店街を通るのだが、人通りが多い。24時を過ぎていても居酒屋を出入りする人がかなりいる。またジョギングをしている人ともかなりすれ違った。暗い道を若い女性も一人で走っていたのには少々びっくり。そして横浜駅方面からのタクシーがひっきりなしにバスどおりを飛ばしていく。
 また私のように酔狂に歩いて帰宅する人間がいるのだからそれらの人に奇異の眼を向けることなど出来ないのだが‥。

 さて昨日記載した日曜の朝出発する旅行。日曜の朝早くから出かける。対馬・壱岐・吉野ヶ里に各2泊ずつする予定。早割りの飛行機を予約し、ネットで割安の朝食つきの宿を予約した。
 壱岐と吉野ヶ里はそれぞれ原の辻遺跡、吉野ヶ里遺跡で大半の時間を費やすことになるので特にコースは決めていない。しかし最初に訪れる対馬はどこを訪れるか決めていない。硯石は購入する予定だ。また壱岐は焼酎の蔵元がいくつかあるので、訪れるところを二つほど候補に決めた。
 主な目的が歴史・遺跡探訪なのか、蔵元巡りなのか、写真撮影なのか、グルメ旅なのか、自然満喫旅なのか、島内一周マラソンなのか、決めていない。自然満喫、スポーツは目的からは最初にはずした。
 当然旅行後ここに行けば良かった、あそこを訪れ忘れた、などの後悔も出てくるかもしれないが、それはそれでやむを得ないと思っている。
 対馬を訪れた友人に聞くと、免許を持っていてレンタカー利用ならばいいが、徒歩とバス・レンタサイクルなら2日でまわり来るのは無理とのこと。島の道路は高低差もあるので自転車ではきついらしい。スポーツサイクルをしている人は多いようだが、それは目的とはしない。と、いうことで対馬についてはこれからもう一度情報を集めなければいけない。
しかし本日も午後は講座受講と友人との久しぶりの飲み会、明日は午前中が退職者会の集まり、午後が句会と懇親会となっており、時間がない。困った。

句会といつもの例会

2013年06月06日 11時29分42秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は東京での句会と、毎月の大久保でのいつもの例会・飲み会。退院したNさんの状況について参加者に報告しなければならない。ペーパーを用意した。
 句会に提出する句もようやくできたが、やはりいつもの事ながら満足の行くものは出来ない。
 今度の日曜の朝早くから7日間旅行する。その支度を午前中行い、ようやく終了。これから句会・飲み会に出かける。
 夜は雨らしい。傘の用意も必要のようだ。

「マルコ・ポーロが見たユーラシア 『東方見聞録』の世界」展

2013年06月05日 22時07分49秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
      

 本日は横浜ユーラシア文化館にて「マルコ・ポーロが見たユーラシア『東方見聞録』の世界」展を見に行ってきた。前から行こうと思ってなかなか行く機会がなかった。横浜都市発展記念館とあわせて300円也を払って会場へ。とても安い。これで経営が成り立つのだろうか、と余計な心配をしてしまう。

展示構成は
第1章 マルコ・ポーロとは?
第2章 マルコ・ポーロの見たユーラシア世界
第3章 マルコ・ポーロと黄金の国ジパング
第4章 世界に広がるマルコ・ポーロ
となっている。

 東方見聞録といっても私は読んだことが無い。東洋文庫で2分冊で発売されているが、読んだ人は極めて少ないと思われる。そのような書物があることは学校で教わる。しかし日本に関する記述の要約が高校の教科書に記載があったかな、という程度の知識しか持ち合わせていない。
 今回は大きな地図にマルコ・ポーロの全工程を記したり、主な都市の記述にあわせて現代の写真を展示したり、マルコ・ポーロがついたという官職に本当に彼の名が記されているのか書物を点検したりという試みがされている。実際には官職についた記録は残されていないようだ。また当時元に伝わっていたキリスト教諸派(ネストリウス派やマニ教など)の経典や遺物、中国風の紋様が書き込まれた鮮やかな色彩と特徴ある形のイスラムのタイル、西方に伝わった元時代の景徳鎮等の美しい青磁や陶器などが私の興味を惹いた。また当時の印刷された東方見聞録の本などもなかなか面白い装丁だ。往路とは違って、復路は海路。その工程にまつわる展示もある。
 同時に、佐賀県松浦市鷹島沖で発見された元寇の時の沈船から引き上げられた碇や「てつはう」などの遺物も展示され、現地での調査の写真パネルが展示されるなどしているのも興味を惹いた。松浦市鷹島の歴史民族資料館や埋蔵文化財センターのリーフレットなども置かれていた。

 しかし東方見聞録の日本についての記載などについてのコーナーはもう少し充実してほしいとも感じた。このような企画はやはり、自分の住んでいるところや時代にひきつけないと理解は難しい。折角の展示がもったいないなぁと感じた。

 何回かこのユーラシア文化館を訪れたことがある。しかし今日も含めて大勢の人の群れと出会ったことはない。これで採算がとれているとはとても思えない。どちらかというと、上級者向けの説明に終始している。そしてなかなか維持管理・経営は大変だと感ずる。赤字ではもろもろの施設の存続は今後ますます難しくなる時代だ。
 できるだけ存続して欲しい施設だけにさらなる展示の工夫を望みたい。

 

本日の晩酌

2013年06月04日 20時07分03秒 | 料理関連&お酒
 半年ほど前、とんでもない勘違いの買い物をしてしまった。あるスーパーで缶ビールを3本購入したつもりが間違ってノンアルコールビールを籠に入れてしまった。



 家について袋から取り出して気がついた。何とも情けない話である。以前にノンアルコールビールについて記載したことが祟ったのだろうか。とはいえその記事は別にノンアルコール飲料の悪口は書いていない。未成年に販売することの感想を書いたまで。しかもこのことについて否定してはいない。しかし申し訳ないが、このノンアルコールビール、私の口には合わないのでどのように消費するか何ヶ月も悩みながら放置していた。

 ただし以下の文章は製品に対する悪口ではないので、製品開発や販売に関係する人に対する文句ではないということで許してほしい。製品の関係者の皆さんゴメンナサイ。

 そして昨日ふと思いついたのが、ホッピーのようにして甲類の焼酎を継ぎ足せばいいのか?ということだ。昨日は甲類の焼酎が我が家にはないので(さすがに乙類のこだわり焼酎はもったいなくて利用したくなかった)、早速本日25度の甲類の焼酎を購入した。これはなかなか良いアイデアであった。これならばもう1本が明日にでも消費できそうだ。

   

 つまみは、先日Kさんにいただいた烏賊の塩辛。この塩辛、変な添加物が入っていないようだ。(写真で見ることも出来るが、一応化学調味料や化学物質の記載がない。ただし「調味料(アミノ酸)、味噌」と云う表示をどう解釈するかは今は問わない。味噌とだけの表示、味噌自体に何が添加されているかは書いていない)
 この塩辛、確かにうまい。本日は烏賊ゲソの塩辛から封を切ったが、歯ざわりも味もいい。昔の味がする。ただしとても塩辛い。賞味期限まではあと3週間ほどあるので、もう少し塩味が馴染んだ方がいいのかもしれないと感じないこともないが、しかし昔、私が函館に住んでいたそれこそ半世紀も前はこのように塩の効いた塩辛ばかりだったのかもしれない。そういった意味では実に懐かしい味の塩辛だと思う。懐かしい味を思い出させてくれたKさん、ありがとうございました。昨日まで現在の風味の塩辛が我が家の食卓にのぼっていたが塩味は感じられなかった。昨日まで食べた塩辛は現代の塩味敬遠の風潮を先取りしたような味であった。それに対していただいた塩辛は現代にこびない頑固な味ということだろうか。


東京都写真美術館「日本写真の1968」感想

2013年06月04日 12時45分11秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
            

 5月29日に東京都写真美術館を訪れた。「写真のエステ」とともに、「日本写真の1968」展を見た。というよりももともと訪れた目的がこれであった。この展覧会の趣旨というか展示の基本的な理念は以下の案内に示されている。

1960年代後半は、戦争、革命、暗殺など、世界中のあらゆる領域でこれまでの枠組みに対して新たな行動が勃発した時代でした。写真においても、近代的写真が構築した「写真」の独自性とそれを正当化する「写真史」への問いかけが始まりました。特に1968年は、今日の「写真」の社会的な枠組みを考える上で重要な出来事が集中して現れました。
本展では「写真100年-日本人による写真表現の歴史展」、「プロローグ 思想のための挑戦的資料」、「コンポラ写真」、「写真の叛乱」の4つのキーワードから展覧会を構成し、1966~74年の日本で「写真」という枠組みがどのように変容していったかをたどり、「写真とは何か?」を考えます。

 この趣旨をもとに、1960年代後半から1970年代に向かう写真の動向を展示してある。この感想は写真史にも疎いし、個々の表現者の言語による表現も目を通したことのない私の、あくまでも感覚的な直感的な、そして私的な感想である。トンチンカンがあるとしてら不勉強ゆえである。容赦願いたい。

 この展示で面白い指摘だと思ったのは「若い写真家たちや学生たちは、学生運動であれば学生側、三里塚であれば闘争する農民の側に立って撮るということが基本的な姿勢であり、だからこそ彼らは当事者に受け入れられて、現場で自由に撮ることが出来ました。ところが(フランスのパリ5月革命、アメリカのベトナム反戦運動では)それらを記録したものは雑誌社や新聞社のカメラマンが撮った報道写真しか残っていない」という指摘が書かれてある。
 1960年代後半の激動が、芸術表現の歴史からの視点ではこのような特徴があったのかとあらためて認識した。当時の写真ではいわゆる「アレ・ブレ・ボケ」と揶揄的に云われてきた試み、方法だが、現在の目で見ると極めて斬新で動的な表現に見える。かつ被写体の揺れる認識、不安な意識を一瞬で閉じ込めていると思う。
 表現意識が撮影する主体の技法を飛び越えて、それによって被写体との信頼関係を保ちながら作品として成立している。社会や芸術運動に対して溢れかえるような、ある意味過剰で非妥協的・非和解的な対置理念をかざした、表現意識過剰な作品がこのような技法を背景に成り立っていたのだと感ずる。
 表現者としての撮影者、被写体の身体表現が複雑に絡み合って、さらに鑑賞者の視点がそこに混ざり合って、三者の関係が成立している。実に動的で多次元の空間が現出していると思う。
 その中で私は中平拓馬という写真家のいくつかの写真に目を惹かれた。中平拓馬は学生運動に対してもかなりのアジテーターとして振舞ったようだが、そのようなあり方とは別に、私はあの過剰に「アレ・ブレ・ボケ」の写真ではあるものの、写真家の醒めた、計算した構図への志向、明と暗の対比に基づく画面構成を感じ取った。
 後年、といっても1973年というごく近い時代だが、彼が「撮り手の情緒を廃したカタログ写真や図鑑の写真のような写真を目指した」といわれるが、私にはその軌跡がとてもよくわかるように思えた。作家自身はそんなに解られてたまるか、と怒るだろうが、これが時間の累積の結果としての2013年から見た私の直感的な感想だ。

 「アレ・ブレ・ボケ」という社会性を帯びた写真は、この中平拓馬のような表現の深化のほか、荒木経惟の「センチメンタルな旅」などのように進展していく。これは「荒木経惟の作品から感じる気分が、井上陽水の「傘がない」を聴く時のそれととてもよく似ている」と解説にあるとおりだと思う。

 その他感想や感慨をもった作品はとても多かった。やはり同時代性というものであろう。この時代に社会への目を向けたものとしての共感ないし不満、肯定と否定の交じり合った感慨、充足感と不達成感、高揚と沈思‥が時間を飛び越えて脳髄から苦味を携えて滲み出て来た。
 それらは私の脳の中に閉じ込めておくしかないのだが、ひとつだけ述べたい。私は始めて知ったのだが、「今回初めて全日本学生写真連盟の学生・OBの集団撮影行動による」写真群。「集団的無名性によって撮影・発表された作品」も面白い。若い写真家たちの模索の作品も多くあり、「アレ・ブレ・ボケ」だけにはおさまらない多様な表現が垣間見えたように感じた。具体的に文章化できる力量がないのがもどかしいのだが、被写体と撮影者との関係のとり方に悩んだらしい視点が感じられるなど私には刺激になった。企画者の金子隆一という方のあるいは当時の関係者の中での掘り起こしなのだろう。
 当時は各大学ごとのさまざまなサークルの全国的な組織があった。写真についてもそのような組織があったのだろう。きっと今ではそんな横断的な組織など存在しないだろうし、あっても意味はないのだろう。フィルム写真もなくなり、携帯などのデジタル写真というものが主流となり、各自が徹底的に私的な写真表現に固執しているともいえる状況だ。
 写真に限らず芸術表現はそれぞれ極私的なところにその方向性を見出している。こんなときに全国的な統一理念に基づく写真を媒介とした社会運動など成立する要素などありえないと思われる。
 しかし企画者なりの無意味を承知のひとつの挑発なのかもしれない。他者からみると、しかし懐古趣味にはならない当時の視点と模索がそれなりに認識できたような気がする。




坂本繁二郎の絵との出会い

2013年06月03日 08時57分21秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 通りがかり人様から昨日の坂本繁二郎の絵についてコメントが寄せられた。コメントを読みながら、私が始めて坂本繁二郎の絵と出合った頃のことを思い出した。

 1970年の3月20から4月1日まで、東京日本橋の東急百貨店(今はなくなって日本橋一丁目ビル)で「坂本繁二郎追悼展」が行われた。当時大学の入学が決まり解放された気分で日本橋まで銀座を歩き、この展覧会を見に行った。
 実はそれまで坂本繁二郎の名はまったく知らなかったが、新聞広告だったかチラシだったかに掲載された絵を見て、無性に見たくなったのだ。追悼展というとおり、前年の7月14日に画家は亡くなっていた。
 絵画展はそれまでも中・高校の頃見ていたが、これほど印象に残った絵画展は初めてだったと思う。そこで馬・月・能面・牛で有名な画家であることを知った。そのときに印象に残ったのが、死の年の「月光」(1969年)という馬の絵と絶筆といわれる「月」(1969年6月)。そして「能面と謡本」(1946~47年)、「放水路の雲」(1927年)、それから昨日取り上げた「うすれ日」(1912年)の5点。
 今でも当時の図録を大事に取ってある。当時はまだカラーの掲載図ぱ12点のみで展示された作品120点の1割でしかない。そして残念ながら絶筆の「月」もモノクロであった。「うすれ日」と「月光」はカラーのカードを購入している。
 この時はこの「うすれ日」が第6回文展に出品され、夏目漱石の目にかなってあの「何か考えている」という有名な評が書かれたことは知らなかった。知ったのはその後2006年のブリヂストン美術館の開館50周年展で「坂本繁二郎展」を開催したときだ。
 坂本繁二郎のあの茫洋としたタッチ・色合いが好きだ。また画家の言葉で「自然を写生するときは、自我を消してしまうのです。そうした後に向こうを見て、自然から自分に宿ってくるものをいかにしてカンバスにとらえたらいいのか-これが私の模索するテーマのひとつでもありました」というのもこの図録で知った。「うすれ日」を描く前年の29歳のとき言葉という。
 同時にブリヂストン美術館での解説では画家の言葉として「「精神作用から来る深さ」を持ち、「象徴的の画とも、あるいは宗教義を持った画」だったに違いない」というのもあり、いまだ整理がつかない。
 私の心情はいつもこの画家の29歳の時の発想とはまったく反対の世界に近い。自分を消すことなどとてもできない。今でも自我にこだわって、そのことをとおして世界を見ることしかしていないと思う。だからこそこの言葉はいつも頭の片隅にある。自分の対極にある考え方として中では整理が出来ていない。そしてこの画家の言葉と漱石の評との落差についてもまだ私の頭の宿題として残しておこうと思う。
 夏目漱石はこの写生の考え方をあの「うすれ日」を見て直感したのだろうか。坂本の言う「写生」というのは正岡子規つながりの言葉なのか、それもわからない。ただ、私はあの静かな紫色がかった、茫洋とした、対象が背景に溶けてしまいそうな画面が好きだ。心が落ち着く。

 死の年の「月光」は、月も、そして厩から月に向けて頭を出している馬も、夜空の空気に溶けてしまいそうである。対象が全体として渾然一体となって意識の中から消失していくような画面が好きだ。馬がその存在を自らそっと消していくようにたたずんでいる。あの柔らかい感じを与える月の光すらその強さを恥じ入るように弱めて空間に漂っている。そして馬と月はひそかに何かを語り合っている。どんなことを語り合っているのか、鑑賞者にゆだねられていることは間違いない。
 スキャナーした43年以上前のカードにこの「月光」の絵がきれいに再現されればうれしいのだが‥。



 また絶筆と言われる「月」は次の画像のとおり。1970年の追悼展では「月」と表示されていたが、2006年の展覧会では「幽月」と表示されている。私は単に「月」の方がいいと思うのだが‥。これも微妙な色の具合がスキャナーで拾うことが出来ればいいのだけれど‥。