吉野ヶ里遺跡というと、1989年、確か昭和から平成に変わったばかりの頃、「邪馬台国時代のクニ」「魏志倭人伝に記載された卑弥呼の居住地」などとセンセーショナルに喧伝された大きな遺跡であることは有名だ。
この発表前にこの遺跡の発掘の前史は1910年代から注目を集めていたらしい。しかし魏志倭人伝に記載されている「クニ」とは比定されることはなく、その周辺の「クニ」として落ち着いてきた。また邪馬台国九州説だどうのと憶測・早とちり・願望記事がマスコミを躍らせていたことも覚えている。
国の史跡として整備が進められているので、一度は現地に行って実際に歩いて見たいとかねがね思っていた。栽培している紅花がさわやかで美しかった。
遺跡に入っていくとまず目につくのが、鳥をかたどった木の門柱のようなもの。これは壱岐の原の辻遺跡でも目についた。その遺跡ではこれは何か、何に基づいた復元かわからなかったのだが、今回展示を見てようやく理解した。韓国で実際に残されている民俗からヒントを得たらしい。これは鳥を神の使いとみなしたり、死者の霊魂が鳥にのって冥界に自由に移動できると考えに基づいた発想らしい。
これは私としてはなかなか面白い復元かと感じた。
実はこの吉野ヶ里の遺跡についていくつかの疑問と興味を私は持っていた。
1.まず、衣服について。弥生時代の遺跡での復元や私が習った頃の教科書ではとてもみすぼらしい衣服を人々は着ていることになっている。また魏志倭人伝でも縫うことをしらず、貫頭衣といって頭陀袋を頭から被っただけのような格好がそのイメージが教科書的なイメージだった。私はどうもこれがしっくりこないのだ。
魏志倭人伝の記述が正しいとしても、そんなにみすぼらしかったのだろうか。魏志倭人伝に記載があるからこそ、彩色もデザインもかなりしっかりしたものを着ていたのではないか、身分差が社会にあれば、上下で随分と差があり、上流身分の人は着飾っていたのではないか。という疑問だ。
2.次に、首のない人骨や骨まで達する疵を負った人骨が墓から出てきて、かなり激しい戦いが行われていたといつも言われている。しかしこれが私にはそのままストンと理解できないのだ。初期的な共同社会があるとして、戦闘による死だけと断定してしまっていいのだろうか。
私には、共同体間の戦いも当然あったと思うが、同時に深い傷というのは集中的な攻撃がその個人にされた可能性がある。内部での粛清・抗争、あるいは何らかの犠牲の方がより現実的ではないのか、と昔から感じていた。今回この疑問を解決できればうれしいと思っていた。
3.さらに、地理的な位置関係である。今回は残念ながら登る余裕は出来なかった背振山地だが、この山地を北にして南向きに有明海に面する立地はどのような景観をもっているのか肌身で感じたい。同時にそれが吉野ヶ里という遺跡全体の中でどのような役割を演じているのか探りたかった。
4.また、壱岐の原の辻遺跡でも感じたのだが、都市的な空間、市的な空間がこの吉野ヶ里にはあったとしてそれをどのように復元しているのだろうか。
以上の4つの疑問を携えながら広い遺跡を歩き回った。遺跡は実に広い。旅行の6日目で疲労も蓄積されていて、さらに蒸し暑い天気で太陽に晒され続けたので、後半はちょっと熱中症気味になり1時間ほど休憩をとった。
1.被服・衣について
衣服については遺跡内の展示館でもまた、古代植物館でも、扱っていた。特に養蚕の技術、染織の技術について試みが行われているようだ。植物由来・有明海の貝由来の染色技術を解明している。また遺物から縫った衣が出土しているとの事。これらから魏志倭人伝の記述とは違い、高度な染織技術が再現されようとしていることがわかった。
確かに上層階層の人以外は、そのような高度な衣服を常時着ていたとは思えないが、それでも紅花畑を復元している様子などからは一定の色は庶民も着用していたのではないだろうか。貝紫などの高度な技術が必要で、希少な色は特別な人しか着用できなかったと思われるが‥。
2.首のない人骨、疵のある人骨について
首のない人骨や腹部に矢を射込まれた人骨、骨に疵のある人骨などが甕棺墓から見つかっている。私は昔からこの腹部に矢を射込まれた人骨や首のない人骨については戦いとは思えなかった。矢などは威力があるが、混戦ではなかなか致命傷にならずに出血による衰弱をもたらし、最後は弓矢以外の刀剣・槍などによる刺創・打撃・切断などが必要と感じている。腹部に矢がいくつか残っていてそれが致命傷とするとそれはその個人に対する集中的な射掛があったということで、混戦による戦いとは考えられないのではないか。防御用の盾なども保持していたことでもある。だから内部制裁、あるいは処刑ということは否定できない。
しかし一方で甕棺墓で埋葬されていることでもあり、私の考えは間違いかもしれない。ただし処刑であっても埋葬はあり得る。
首の無い人骨というのも戦い以外が考えられないか、と思っていた。今回の展示では首のない人骨から腕や鎖骨に瑕があると言うことなので、これでは確かに戦いでの瑕を受けた後、首をとられた可能性がある。しかもこの人骨は甕棺墓からでているので、戦いの犠牲者のひとりというのは理解した。
私の疑問は、甕棺墓での埋葬ということで、確かに他の集団との戦闘の可能性が高いことについては納得した。しかし処刑されたとしても埋葬ということはあり得る。今ひとつ納得できない思いはある。
3.背振山地との位置関係
今回、晴間が出て北に背振山地を背負っている吉野ヶ里の景観は理解できた。当初はもう少し斜面が迫っていて勾配が海に向かっているのかと考えていたが、そうではなかった。山地は遠かった。しかし遠すぎることはない。そしてほぼ真北に背振山地の最高峰の背振山がそびえている。その背振山地を越えると同時代に栄えていたと思われる奴国がある。
さらに、これはとても重要なことと思えるが、有明海を越えてほぼ真南に雲仙岳が聳えている。これは私はまったく気付かなかった。当日も残念ながら雲仙岳を見ることは出来なかったのだが、展示館で写真が展示されていた。
この展示を撮影しなかったのはとても悔やまれる。なかなか雲仙岳の偉容を見る位置というのは、人々に何がしらかの観念を与えるのではないだろうか。
南北の線が背振山と雲仙岳に向かい、その南北の線に沿って遺跡がある。いわゆる宮室などのある北内郭と、その北にある墳丘墓もその線上に位置する。これは祭祀的にもこの地方の重要な位置的特質を与える場として吉野ヶ里が存在したのではないだろうか、と思えた。これは行って見なければ理解できなかった。
4.市、都市的空間について
これについては残念ながら展示や建物の復元からは日ごろの疑問は解消されなかった。高床式の倉庫群のあるところが、市的な場として想定されているが、大勢の人が集まる「市」がどうしてそこに想定されるのか、またどのような規模の市があったと考えられるのか、疑問は余計に膨らんだ。原の辻遺跡の復元でも感じたのだが、この人々が集まる「市」という場の復元について、もう少しエネルギーを配分してもらいたいな、と感じた。
さらに原の辻遺跡では、船着場跡の発見などもあり、船の復元が行われていた。とても刺激的な復元で合ったと思う。ここの吉野ヶ里も有明海の河口から川に沿って当然船が通っていたと思う。この舟運と市の関係、船の復元など市と云う場へのこだわりを感じられなかったのは私の見方が足りないのだろうか。
今回の訪問、行かなければわからなかったことを体験できて興味深かったが、残念ながら日ごろの疑問が解消されなかったこともある。いっぺんに解消されたならつまらないので、少しずつわかればそれが楽しいのだ。
この吉野ヶ里の遺跡公園はまだまだ整備途中のようである。引き続きの充実を期待した。