対馬に行くまでは、対馬で何を見、何をするか特にこれといったことは考えていなかった。ただ防人の歌にみられる古代の民の怨嗟の、その象徴とも言うべき金田城跡は見たいと思っていた。
対馬空港に昼前について、そのままバスで対馬市の中心へむかった。バスの中での印象は山深い島だということ。周囲の山が500メートルはないのだが、急峻でそそり立っている感じであることと、緑に囲まれて森がとても深いかんじであること、そして多分水が豊かな島であるらしいということだ。その分田畑は限られているらしいことも垣間見えた。耕作単位の田畑の面積が広くないと思えた。昔から農業での生産は厳しかったのだろう。
岩波文庫の魏志倭人伝の対馬国について読み下しでは「方四百余里ばかり。土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿の径の如し。千余戸あり。良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴(してき)す」とある。この魏志倭人伝の記述は地形や生産の特徴としてはとても正確なような気がする。農業ではなく海産物が生産物で、かつ交易が盛んな地域ということなのであろう。もし千余戸というのも正しければこれは人口を何人と想定すればいいのだろうか。5~6千人ということと理解できるのだろうか。
現在は対馬市の人口が34000人にわずかにかけるようだ。また江戸時代の大火の歴史によると厳原の約4割が焼けたときの焼けた戸数が1214戸となっている。厳原の総戸数は3000余戸と推計される。対馬全体でたとえば6000個とすると江戸時代の島の人口は30000人と推定すると現在と人口はそう違わないことになる。日本全体が倍の人口になっているのだからそれだけ過疎化が進んでいるということになる。
方400里というはどうなのか。現在の本島の南北は約70キロ位だ。一里180メートルとするとほぼ正しいことになる。字通だと周時代1里=100歩、後に180歩。あるいは「方」という表現が面積がらみなのか?後漢・三国の時代の制度で考えなければならないのだろう。私にはお手上げだ。
こんなことをバスの中で考えた。
厳原町の港の傍のホテルに荷物をあずけ、まずは長崎県立津島歴史民族資料館を訪れた。ここの展示の中心は対馬宗家の文書8万点を中心とした近世=江戸時代の藩政記録と朝鮮通信使。パンフレット類は安く解り安いものがいくつかあり、「津島市の文化財」(2010年)を500円で購入。韓国の窃盗団に盗まれ、返還が拒否されている観音寺の「観世音菩薩坐像」も掲載されている。
厳原は藩政時代の行政の中心地だけあり、厳原町の街並み景観も今はこの時代が中心になっているように見受けられた。
それでも秀吉の朝鮮出兵の折りの築造という清水山(206m)の山城跡を目指して登り始めたが、雨で途中の二の丸跡の石垣までで断念した。しかし厳原の町を一望できて見晴らしは良好。兵站用の城とのことだが、具体的な役割等は不明。ただし短期間にこの膨大なエネルギーを費やした秀吉の政権の財力をはじめとした力にあらためて驚いた。
その足で宗家の城に当たる金石城跡の門と、心字池の庭園を散策した。庭園は1993年以降の発掘と整備により復元されたようだが、実に美しい。小熊笹の薄緑色の葉が雨に映えて心の落ち着く庭である。ここも人が訪れることは稀なようで入口で入場券を担当していた方が説明もしてくれた。そしてお茶もご馳走になった。
どうもありがとうございました。
その後は万松院という対馬宗家の菩提寺を訪れた。百雁木(ひゃくがんぎ)という長い階段の先にある御霊屋に当主ごとに巨大な石で祀られている。仙台の伊達家の御霊屋の墓石の立派さが記憶にあるのだが、それを大きく上回っている。この墓石の大きさはすごい。人を圧倒する偉容ではない。何か人を丸く包み込むような落ち着きを感じる。大きな樹木と苔の為かもしれないが、対馬の自然を感じさせる。
ここも静かに散策できるいいお寺である。
総じて山城の石垣といいこのような墓所といい、対馬は石の文化だと感じた。
その後、八幡宮神社を訪問。奉納された絵馬が日本語による合格祈願等であるが、ほぼ同じ数だけハングルの書かれた絵馬が、対馬という島のもつ性格を物語っていると感じた。
最後に再び清水山城の登山口の傍にある、特産品の若田硯の工房=岩坂芳秀堂を訪ね、硯石の材料の頁岩のこと、硯作成の方法、自然の造形を生かした硯作成のことなどを詳しく説明してもらった。とてもありがたく、勉強になった。親切な説明に対しては申し訳ないのだが、金銭的にもつらいのでごく小さな硯を購入させてもらった。
初日はこの訪問で時間切れ。夜は居酒屋で特産の「ろくべい」を食した。
しかし韓国からの訪問者がとても多い町であることは、すぐわかる。すれ違う旅行者の言葉から判断すると私の感覚では9割が韓国人。日本人観光客はほぼいない。案内標識も、店の看板も日本語とハングルの併記。時にはハングルのみの店の看板もある。リーフレットに書いてある国境の島という言葉も頷ける。遠い人類史始まって以来の文化の伝わってきた極めて重要な地域的な特質があるのだが、争い・戦争という節目の歴史だけでなく、江戸時代の貿易と朝鮮通信使受け入れのように重要な役割を担ってきた人々の交流の歴史。苦労を重ねた経験が受け継がれているのであろう。そしてこの韓国からの観光客がいなければ産業も経済全体も成り立たない対馬の現在が充分うかがえる。
対馬空港に昼前について、そのままバスで対馬市の中心へむかった。バスの中での印象は山深い島だということ。周囲の山が500メートルはないのだが、急峻でそそり立っている感じであることと、緑に囲まれて森がとても深いかんじであること、そして多分水が豊かな島であるらしいということだ。その分田畑は限られているらしいことも垣間見えた。耕作単位の田畑の面積が広くないと思えた。昔から農業での生産は厳しかったのだろう。
岩波文庫の魏志倭人伝の対馬国について読み下しでは「方四百余里ばかり。土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿の径の如し。千余戸あり。良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴(してき)す」とある。この魏志倭人伝の記述は地形や生産の特徴としてはとても正確なような気がする。農業ではなく海産物が生産物で、かつ交易が盛んな地域ということなのであろう。もし千余戸というのも正しければこれは人口を何人と想定すればいいのだろうか。5~6千人ということと理解できるのだろうか。
現在は対馬市の人口が34000人にわずかにかけるようだ。また江戸時代の大火の歴史によると厳原の約4割が焼けたときの焼けた戸数が1214戸となっている。厳原の総戸数は3000余戸と推計される。対馬全体でたとえば6000個とすると江戸時代の島の人口は30000人と推定すると現在と人口はそう違わないことになる。日本全体が倍の人口になっているのだからそれだけ過疎化が進んでいるということになる。
方400里というはどうなのか。現在の本島の南北は約70キロ位だ。一里180メートルとするとほぼ正しいことになる。字通だと周時代1里=100歩、後に180歩。あるいは「方」という表現が面積がらみなのか?後漢・三国の時代の制度で考えなければならないのだろう。私にはお手上げだ。
こんなことをバスの中で考えた。
厳原町の港の傍のホテルに荷物をあずけ、まずは長崎県立津島歴史民族資料館を訪れた。ここの展示の中心は対馬宗家の文書8万点を中心とした近世=江戸時代の藩政記録と朝鮮通信使。パンフレット類は安く解り安いものがいくつかあり、「津島市の文化財」(2010年)を500円で購入。韓国の窃盗団に盗まれ、返還が拒否されている観音寺の「観世音菩薩坐像」も掲載されている。
厳原は藩政時代の行政の中心地だけあり、厳原町の街並み景観も今はこの時代が中心になっているように見受けられた。
それでも秀吉の朝鮮出兵の折りの築造という清水山(206m)の山城跡を目指して登り始めたが、雨で途中の二の丸跡の石垣までで断念した。しかし厳原の町を一望できて見晴らしは良好。兵站用の城とのことだが、具体的な役割等は不明。ただし短期間にこの膨大なエネルギーを費やした秀吉の政権の財力をはじめとした力にあらためて驚いた。
その足で宗家の城に当たる金石城跡の門と、心字池の庭園を散策した。庭園は1993年以降の発掘と整備により復元されたようだが、実に美しい。小熊笹の薄緑色の葉が雨に映えて心の落ち着く庭である。ここも人が訪れることは稀なようで入口で入場券を担当していた方が説明もしてくれた。そしてお茶もご馳走になった。
どうもありがとうございました。
その後は万松院という対馬宗家の菩提寺を訪れた。百雁木(ひゃくがんぎ)という長い階段の先にある御霊屋に当主ごとに巨大な石で祀られている。仙台の伊達家の御霊屋の墓石の立派さが記憶にあるのだが、それを大きく上回っている。この墓石の大きさはすごい。人を圧倒する偉容ではない。何か人を丸く包み込むような落ち着きを感じる。大きな樹木と苔の為かもしれないが、対馬の自然を感じさせる。
ここも静かに散策できるいいお寺である。
総じて山城の石垣といいこのような墓所といい、対馬は石の文化だと感じた。
その後、八幡宮神社を訪問。奉納された絵馬が日本語による合格祈願等であるが、ほぼ同じ数だけハングルの書かれた絵馬が、対馬という島のもつ性格を物語っていると感じた。
最後に再び清水山城の登山口の傍にある、特産品の若田硯の工房=岩坂芳秀堂を訪ね、硯石の材料の頁岩のこと、硯作成の方法、自然の造形を生かした硯作成のことなどを詳しく説明してもらった。とてもありがたく、勉強になった。親切な説明に対しては申し訳ないのだが、金銭的にもつらいのでごく小さな硯を購入させてもらった。
初日はこの訪問で時間切れ。夜は居酒屋で特産の「ろくべい」を食した。
しかし韓国からの訪問者がとても多い町であることは、すぐわかる。すれ違う旅行者の言葉から判断すると私の感覚では9割が韓国人。日本人観光客はほぼいない。案内標識も、店の看板も日本語とハングルの併記。時にはハングルのみの店の看板もある。リーフレットに書いてある国境の島という言葉も頷ける。遠い人類史始まって以来の文化の伝わってきた極めて重要な地域的な特質があるのだが、争い・戦争という節目の歴史だけでなく、江戸時代の貿易と朝鮮通信使受け入れのように重要な役割を担ってきた人々の交流の歴史。苦労を重ねた経験が受け継がれているのであろう。そしてこの韓国からの観光客がいなければ産業も経済全体も成り立たない対馬の現在が充分うかがえる。