Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「ちんぐ」という言葉

2013年06月21日 20時05分57秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 先に「ちんぐ」と云う言葉、朝鮮・韓国語で友達という意味、と記載したところ、コメントにも寄せていただいたが、北九州で「慣れ親しんだ友」という意味で使っているとの指摘があった。
 ネットで調べてみると、そのとおり北九州では広く使われているようだ。「幼な友達」というようにかなり親密な関係の友に使うようだ。
 ただこれがいわゆる「方言」かというとそうでもないらしい。朝鮮語の「チング」の借用語という記載になっている。朝鮮語がその土地の言葉として流通するようになったものらしい。そのほかにも朝鮮語由来のことばはかなりあるようだ。
 重家酒造を訪ねたとき、製品名の「ちんぐ」の由来をキチンと聞くべきであった。反省である。

 本日、横浜は一日中小雨が降ったりやんだり。ぐずついた日であった。昨日帰宅途中も雨が降り、ことし始めて雨に当たる紫陽花の花を見ながら歩いた。幹線道路の大きな街路樹の植栽枡に地元の商店の人たちが草花を植えている。野放図にはみだして通行を邪魔するようなことはしておらず、キチンと管理されていて好ましい。
 その中で色の鮮やかな紫陽花も植わっている。これがなかなか見ごたえがあり、毎年楽しみにしている。ことしも割いてくれたのだが、空梅雨で雨の風情を目にしていなかった。やはり紫陽花は雨がないとさびしい。
 幹線道路を離れて古くからの商店街やその裏の住宅街を歩くとやはりさまざまな色や形の紫陽花が今見ごろである。この花を見ながらのウォーキングはこの時期の楽しみのひとつである。

 対馬・壱岐・吉野ヶ里の印象の記事、ようやく壱岐までが終了した。後は吉野ヶ里と九州の国立博物館の印象が残るだけとなった。なんとか今週中に終了して、藝大美術館での「夏目漱石の美術世界」展について来週はじめまでにはもう1回は書いておきたい。

 自分で始めたこととはいえ、なかなか大変である。

壱岐の印象(2)

2013年06月21日 14時18分57秒 | 山行・旅行・散策
      

 翌日は朝早くから原の辻遺跡(正式には、原の辻一支国王都復元公園。国指定特別史跡)にバスで出かけようとしたがバスの便が悪く、やむなくタクシーで向かった。周囲には店も何もなく、弥生時代の復元家屋が幾つも並んでいるだけ。もっとも私にはこの方が煩わしさもなくうれしい。20数件の復元家屋のひとつひとつの説明書きを丁寧に読みながらカメラにおさめた。
 ここは登呂遺跡と吉野ヶ里遺跡とならんで弥生遺跡として脚光を浴びているが、魏志倭人伝の王都として特定されている唯一の場所でもある。

 入口の鳥の形の柱については吉野ヶ里の訪問で疑問が解消。そちらで触れる事にする。
 復元家屋については本当かな、と思えるようなものもあるが、素人としての感想なので頓珍漢であるかもしれない。環濠集落の環濠がゴミ捨て場を兼ねていたことはわかるが、果たしてゴミの処理は環濠だけだったのか、という疑問を持っている。また便所はどうなっているのか、排水はどうなっていたのか、ということはどこの遺跡でもその復元を見るたびに、いつもこの疑問に納得のいく配慮がされていないので気になっている。
 そして「長老の家」「従者の宿舎」「迎賓の建物」「使節団の倉」「使節団の宿舎」「譯(やく)の家」「番小屋」などと書かれている。都市的な要素がある当時の集落に欠かせないと思われる諸施設であることはわかるがここまで断定してしまっていいのだろうか。そこまで具体的にできる根拠も記載して欲しいと思う。類推であることなど明確にしないと、一人歩きしてしまう。

            

 陽射しがとても暑く、まいったが、そのまま30分歩いて岡の上の壱岐市立一支国博物館まで山を登った。ここは長崎県埋蔵文化財センターとの併設施設らしい。博物館は石器時代から現代までの壱岐の歴史展示と、原の辻遺跡の人々の生活の再現を行っている。

 服装についても私が小さい頃に較べればかなりいい服装に復元されているが、それでもまだ何か余りにみすぼらしくないだろうかという疑問がある。魏志倭人伝では縫うことのない貫頭衣という表現だが、果たしてどうなのだろうか。
 復元された古代船についてはリアリティーもあり、頑丈な作りで、これはすごいものだと感心。
 さて、魏志倭人伝の引用は、18日にアップした壱岐の印象(1)で掲載したが、人口に結びつく表記は「戸数三千ばかり」である。対馬が「千余戸」でこれを5000人前後とすると、壱岐は1万5000人位となる。現在の人口の半分としてもこれはかなりの人口密度である。1平方キロあたり100人を越える。
 王都として支配の中心があり、さらに魏志倭人伝の記事は詳細に島全体を調査した記載ではないだろうから、原の辻の内部には数千人がいつも居住していたか、その周辺に住んでいたことになる。市には少なくとも数百軒以上が並び、壱岐以外の人の参加や、原の辻以外の住人の訪れも含めると数千人以上が市の日には集まっていたと私は勝手に推定している。そして模型展示ではこのように大勢の人を人形を並べて展示は困難であることはわかる。しかし「店」が点在していたりするのではなく、何軒も連なっていたであろう事は推定できる。するとあの展示は実際とはかけ離れていないだろうか。
 博物館の展示や、原の辻の復元遺跡がこのような大規模な市を想定しているのかどうかは、質問できる環境になかったので、私の疑問はそのまま今も頭の中に残っている。いつかどこかでこの疑問を解いて見たい。あるいは誰か専門家に聞いてみたい。

   

 博物館で250円也の「防人うどん」(これは美味しかった)を食べていたら、芦辺港に向かうバスが出てしまい、仕方なく風土記の丘と周囲の古墳群まで歩きと途中からタクシーを利用。途中足利尊氏由来という安国寺に寄った。

            

 壱岐には島全体に280もの古墳があるとのことだが、この島の中心部に「壱岐風土記の丘」がある。ここで散策コースに沿って掛木古墳、百合畑古墳群、笹塚古墳、双六古墳、鬼の窟古墳を見学。どの古墳も整備・説明はきちんとしており、散策路が整備されているが、見学者とは会うことはなかった。また散策路は人が最近歩いた形跡はほとんど感じられなかった。その分、静かな散策が楽しめた。



 その後3キロほど歩いて、湯ノ本温泉の長山旅館で200円を払って、バスの時間まで40分ほど入浴。ナトリウム塩化物泉だが、鉄分が極めて多い湯で、透明度がほとんどない赤い湯。あっという間にタオルが赤く染まった。残念ながらアルコールを売っている店はなく、郷ノ浦につくまでビールはおあずけ。
 郷ノ浦ではお勧めの店になっている寿司店にいったら予約で満席。その他の客は受け入れる余裕無しということで、断念。近くの店で刺身の盛り合わせと漬物で壱岐焼酎。帰りにこの島で1軒だけらしいコンビニでおにぎりを購入。

            

 翌日は、壱岐の最高峰という岳の辻に登った。遠回りをしているような舗装道を延々と登り、東西に長い頂上の尾根に沿って往復しながら、壱岐という島を鳥の視点で満喫。原の辻遺跡や一支博物館、風土記の丘、湯の本漁港、印通寺港、芦辺港まで見ることが出来た。無論眼下の郷ノ浦町も。下りも遠回りをしながらこの山を半周するように降りてきて、湯川温泉に1時間ほど入浴。ここもナトリウム塩化物泉で鉄分が多いようだが、湯ノ本温泉ほどの鉄分ではなく、若干透明度もある。ここは500円。入浴後の缶ビールを1本はとても美味しくいただけた。
 この日は生簀のある居酒屋でお勧めメニューから鯛のアラ煮と米ナスの田楽。やはりお勧めのイカの活き作りを食べたかったが、一人では食べ切れないので我慢。盛り付けも美しくとても惜しかった。ただし鯛のアラ煮はとても美味しかった。自分の家で食べるように骨にしゃぶりついて身を食べつくした。この日もコンビニのおにぎりで〆た。



 夕刻に博多港に向けて出発。