詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「現代詩手帖」12月号(1)

2022-12-10 18:05:06 | 詩(雑誌・同人誌)

「現代詩手帖」12月号(1)(思潮社、2022年12月1日発行)

 2022年は(まだ20日間残っているが)、あまり詩を読まなかった。私のことばと、詩を書いているひとのことばが、あまりにもかけ離れてしまって、「わざわざ」詩を読む必要はないなあと感じるようになった。ちょっと思いなおして書いてみようかな、と考えたのは谷川俊太郎の詩に出会ったからだ。
 「わざわざ書く」。一連目は、こうはじまっている。

物でも人の生き方でも
美しいなと思うと
一呼吸おいてこれでいいのか
と思うのはなぜだろう
どこにも悪が見えないと不安になる
ほんの少しでも醜いものが隠れていないと
本当でないような気がする

 うーん。
 「本当でないような気がする」のなら、それこそなぜこんなことを「わざわざ書く」のか。たぶん、「わざわざ」書くことが詩なのだ。言い換えると「わざわざ」書かなければ、詩は存在しないのだ。詩だけに限らない。ことばは、「わざわざ」書かなければ、存在しない。「わざわざ」書けば、それは詩なのだが、この「わざわざ」が意外と面倒なのである。「わざわざ書く」ということばに出会って、ようやく私は「わざわざ書く」ことを思い出したと言えるかもしれない。
 で、「わざわざ」書けば。
 「本当でないような気がする」という一行には、「本当」があるかのように書いているが、たぶん「本当」というものははっきりした形で存在しないだろう。「本当でない気がする」という意識のなかにだけ、求めている「本当」がある。それは「実在」というよりも「本当を求めずにはいられない気持ち」のことだろう、と思う。その「求める気持ち」を後戻りさせないために、「わざわざ書く」のだ。
 このあと、谷川は、「わざわざ」こう書いている。

自然を目にする時は違う
不安も何もない
雨が降っても風が吹いても
自分が今そこで生きているだけ
無限の自然が自分を受け入れている
と言うより自分が自然の生まれだと知って
そう思える自分が嬉しい
心は雲とともに星とともに動く

 ここで谷川が言う「自然」とは美しいかどうかを判断しない存在ということだろう。そこに悪があるか、醜いものが隠れているかも判断しない。言い直せば、そのときどきで、どっちでもいい。「心は雲とともに星とともに動く」という一行のなかにある「ともに」が、この詩を支えている。谷川は、世界と(自然と)「ともに」ある。
 「ともに」をつかわずに、谷川が書いていることを書くことはできない。谷川は「ともに」を「わざわざ」書いている。こういう「わざわざ」書くしかないことばを、私はキーワードと呼んでいると、私は「わざわざ」書いておく。

 青野暦「雲がゆくまで待とう」。

よくみえなかった。しゃがみ込んで、足下の
きこえない音楽に耳をすますと
視界の端にすべりこんできた、電車の扉がひらいて
ぞろぞろとでてきたひとたちはきみとわたしを避けてとおった

 この部分が「わざわざ」書かれている行だ。「きこえない音楽に耳をすますと」は「わざわざ」書いたというよりも、余分な行だが、つまり「詩を狙った一行」だが、それはつまらない。
 もし「わざわざ」を補うならば、「ぞろぞろとでてきたひとたちはきみとわたしを避けてとおった」に補いたい。ぞろぞろとでてきたひとたちはきみとわたしを「わざわざ」避けてとおった。つまり、「じゃまだ、どけよ」といわずに、自主的に「わざわざ」そうしたのだ。他人の、だれかわからない人の「わざわざ」を青野は感じて、それをことばにしている。
 ここがおもしろい。

青柳菜摘「今日」。

今日という日の一日がいつまでも終わらない日だったその時、今の日、という言葉の意味はそっくりそのままで、今、以外にありえなかった。

 ということがくだくだと(わざわざ)書いてある。その部分はおもしろい。しかし、

今の今日と明日を終わらせないよう、地球は外側でゆらゆら回っている。

 たぶん、このことばを青柳は「わざわざ書いた」(つまり、詩を書いた)のだろうが、「わざわざ」になっていない。では、何になっているかといえば「定型」になっている。「わざわざ」は「わざわざ」定型を破って書くのである。
 つけくわえておけば、青野の「きこえない音楽に耳をすますと」がつまらないのは、それが「定型」だからである。

 


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