「桜を見る会」と鶏(鶏卵?)わいろの影で「学術会議」問題が報道されることが少なくなったが、少ないからこそ書いておこう。
2020年12月10日の読売新聞(西部版・14版)の4面に次の見出しと「提言案のポイント」の箇条書き。(番号は、私がつけた。記事は▽で並記している。)
学術会議/「独立組織化 23年めど」/自民チームが提言了承
①独立行政法人など独立した法人格の組織にすべきだ
②組織の透明化を図るため第三者機関を設置
③2023年をめどに新組織に
④会員選出は投票などの透明で厳格な運用にし、第三者機関による推薦などの道も確保
⑤移行後も当面、政府の予算措置を継続
はっきりわかるのは見出しにとっている③の「23年度めど」ということだけで、他はどういうことなのか、よくわからない。「政権(権力)」と「学問」の関係がわからない。
①について。
私は、最初に言われている「独立」ということからして、疑問をもっている。きょうの紙面には書かれていないが、「独立」を提言するひとは、アメリカやイギリスのアカデミー(?)は「独立」している、国から補助が出ていない(出ていても少ない)というようなことを言う。
こんな形式的なことを言う前に、アメリカ、イギリスのアカデミー(学問)と政治の歴史を見ないといけないだろう。日本の学問と政治の関係を見ないといけないだろう。日本には政権によって学問の自由が奪われ、学問の自由(学問から政権への批判)がないところで「戦争」が引き起こされた。戦争の一方で、日本の政権は学問を弾圧したという歴史がある。そういうことを再び起こさせないためにも「学術会議」はある。
組織(政権)のなかに、「学問」の立場から発言できる機関を同時に併せ持つ。それは常に「批判」を受け入れる組織としての「政権」でありつづけることを「保障」する。「学問の自由」を保障しないと、政権は暴走するのである。
「憲法」に「学問の自由」は規定されている。だからそれで十分という考え方もあるかもしれないが、それだけでは不十分だという認識が「学術会議」を設立したときの考え方だろう。大事なことは何重にも規定しておかないといけない。
「政権」というものは、どんなときにも「批判」を受け入れる組織にしておかなければいけない。そして、その「批判」を客観的にするために「学問」がある。政権が戦争を起こさせないためにいくつもの「方法」(方策)があるが、「憲法9条」と同時に「学術会議」もそのひとつである。政策を、「学問」の立場から批判する。その「批判」を無視できないものにする。そのためには、考え(思想)としては「独立」している必要があるが、同時に「体制」としては「分離」していては意味がないのだ。
個人のことを考えてみればいい。一人の人間のなかに「隣人を殺して財産を奪ってしまえ」という欲望がある一方、「殺せば殺人罪、盗めば窃盗罪になる」と判断する理性がある。この「理性」は自分のなかにあるから意味を持つ。「理性」がなくて、自分とは別の人間が「殺せば殺人罪、盗めば窃盗罪になる」と言うだけではダメなのだ。これは殺人や窃盗がなくならないという「現実」からも簡単にわかる。「戦争をしてはいけない、侵略をしてはいけない、こういう政策は間違っている」ということを「政府」以外のものが言うだけではだめなのだ。日本の歴史は、そのことを証明している。
②はもっともらしく聞こえるが「透明化」は「第三者機関」が存在すれば保障できるものではない。「第三者機関」などなくても、会議が常に「公開」を原則としていれば透明化は確保できる。議事録を常に閲覧できる状態にしておけば十分なことである。「第三者機関」をもうけることで、逆に「不透明」になることもありうるだろう。「第三者機関」が学術会議に何らかの働きかけをするということが考えられるからである。「第三者機関」が学術会議に対して、どのような判断をしたかということが「公開」されるということが前提とされなければならない。「公開の前提」を不問にして「第三者機関」を設置することは、非常に危険だ。
④の「第三者機関による推薦」というのもよくわからない。「学問」の世界をいったい「学者」以外がどうやって評価できるのか。「学問」を構成しているのは「定説」だけではない。「新説」もあれば「研究中の仮説」もあるだろう。「第三者」がそういうことに対して、どれだけ客観的な判断ができるのか。「学問」とは別の恣意的判断が「推薦」に紛れ込むことが必ず起きる。そして、実際、この④は、そういう「恣意的操作」をするために(恣意的操作を保障、担保するために)「第三者機関」を設置すると言っているに過ぎない。
ここから②を振り返れば、私が先に書いた「透明化」の問題がはっきりするだろう。「学問」とは無縁の「恣意的操作」によって学術会議を操作する。それは、どうみたって学術会議を「不透明化」するということなのだ。
⑤は、「金銭的補助(助成)」をするのだから、政府の言うことを聞け、ということだろう。政府批判をするなら予算をつけない。しばらくの間は予算をつけるが、学術会議が政府批判をつづけるなら、補助・助成は「継続しない」ということを「裏側」から言っているに過ぎない。
「学問の自由」は誰にでも開かれた自由であって、政府の「保証」や「助成」など必要がない。したい「研究(学問)」があるなら、個人が自分の「権利」としてやればいい、という考え方もあるが、これはあまりにも「楽観的」な考え方である。
たとえて言えば、菅が「敵国」を攻撃する新兵器を造りたい、その研究をしたいと思っても、菅にはその研究をする能力がないだろう。いまから菅が「学問」をしなおしても、間に合わないだろう。菅に対して「新兵器の研究をするな(それは憲法の精神に反する)」と誰かが批判しなくても、そういうことは菅にはできない。まず「学問的素養」が必要であり、つぎに「思考」を具体化していくための「設備」が必要である。そういうものには金がかかる。ときには膨大な資金がいる。どんな「学問」であろうと、個人の力(自由)だけではできないことがあるのだ。
「理系の学問」だけではなく、「文系の学問」もおなじである。金がかからないようにみえる。個人の自由でなんでもできるではないか、と思うのは、「学問」をしたことがないからではないのか。私の個人的体験で言えば、私のやっていることは「ことば」を読み、それについて感想を書くというだけのことだが、こういうことにしたって「自由(好き放題)」にはできない。読みたい本が「図書館」にあるとはかぎらない。必要な本を買うには金が要り、その金を稼ぐためには働かないといけない。「好き勝手」にみえて、「好き勝手」だけでは生きていけない。さらに、「あの本は発行禁止にする」と政府が決定すれば、その瞬間からその本さえ読めなくなる。
「自由」とは憲法に書いてあるように、国民の不断の努力によってしか成立しないのだ。
脱線したが。
権力にとっていちばん必要なのは、権力を批判する「自由」なのである。それを保障しないかぎり、権力は「独裁」になってしまう。
コロナ感染拡大ひとつをとってもみて、わかる。「gotoキャンペーン」の危険性を多くの専門家(医師)が指摘している。「専門家会議」も指摘している。しかし、その批判を拒み、菅はキャンペーンをつづけている。不都合な批判(指摘)を無視するというのは、菅が抱え込んでいる「専門家」というのは単に菅にとって都合がいいことを宣伝するための道具ということである。
学術会議は(その一部の会員候補)は菅にとって都合のいいことを言わないおそれがある、ということで任命を拒否された。(菅は名言はしていないが。)「独立化」ということばはまともにみえるが、やっていることは政府の言いなりになる学術会議にしてしまうということである。そのために「第三者機関」という政府のいいなりになる組織を新たにつくるということだ。「第三者機関」を「独裁」をすすめるための道具として利用するということだ。
「学問」の世界は、私のような人間にはなんのことかよくわからない。そういうよくわからないところで「弾圧」が起きても、その「弾圧された」という実感はわたしにはさらにわからない。こういう「わからない世界」(日常から遠い世界)からはじまる変化は非常に危険だ。気がつけば自分のすぐ側にまで来ていて身動きがとれないということが起きる。国民にとって「わかりにくい世界(遠い世界)」から弾圧を始める。それを弾圧と感じさせないために「第三者機関」というものさえつくろうとしている。
学術会議(学問の自由)は民主主義の根幹である。桜を見る会や鶏卵わいろのように、わかりやすい金の動きがない。そういうことも、この学術会議スキャンダルに影響して、その問題の大きさが見えにくくなっているが、絶対に見過ごしてはいけない。
#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞
*
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2020年12月10日の読売新聞(西部版・14版)の4面に次の見出しと「提言案のポイント」の箇条書き。(番号は、私がつけた。記事は▽で並記している。)
学術会議/「独立組織化 23年めど」/自民チームが提言了承
①独立行政法人など独立した法人格の組織にすべきだ
②組織の透明化を図るため第三者機関を設置
③2023年をめどに新組織に
④会員選出は投票などの透明で厳格な運用にし、第三者機関による推薦などの道も確保
⑤移行後も当面、政府の予算措置を継続
はっきりわかるのは見出しにとっている③の「23年度めど」ということだけで、他はどういうことなのか、よくわからない。「政権(権力)」と「学問」の関係がわからない。
①について。
私は、最初に言われている「独立」ということからして、疑問をもっている。きょうの紙面には書かれていないが、「独立」を提言するひとは、アメリカやイギリスのアカデミー(?)は「独立」している、国から補助が出ていない(出ていても少ない)というようなことを言う。
こんな形式的なことを言う前に、アメリカ、イギリスのアカデミー(学問)と政治の歴史を見ないといけないだろう。日本の学問と政治の関係を見ないといけないだろう。日本には政権によって学問の自由が奪われ、学問の自由(学問から政権への批判)がないところで「戦争」が引き起こされた。戦争の一方で、日本の政権は学問を弾圧したという歴史がある。そういうことを再び起こさせないためにも「学術会議」はある。
組織(政権)のなかに、「学問」の立場から発言できる機関を同時に併せ持つ。それは常に「批判」を受け入れる組織としての「政権」でありつづけることを「保障」する。「学問の自由」を保障しないと、政権は暴走するのである。
「憲法」に「学問の自由」は規定されている。だからそれで十分という考え方もあるかもしれないが、それだけでは不十分だという認識が「学術会議」を設立したときの考え方だろう。大事なことは何重にも規定しておかないといけない。
「政権」というものは、どんなときにも「批判」を受け入れる組織にしておかなければいけない。そして、その「批判」を客観的にするために「学問」がある。政権が戦争を起こさせないためにいくつもの「方法」(方策)があるが、「憲法9条」と同時に「学術会議」もそのひとつである。政策を、「学問」の立場から批判する。その「批判」を無視できないものにする。そのためには、考え(思想)としては「独立」している必要があるが、同時に「体制」としては「分離」していては意味がないのだ。
個人のことを考えてみればいい。一人の人間のなかに「隣人を殺して財産を奪ってしまえ」という欲望がある一方、「殺せば殺人罪、盗めば窃盗罪になる」と判断する理性がある。この「理性」は自分のなかにあるから意味を持つ。「理性」がなくて、自分とは別の人間が「殺せば殺人罪、盗めば窃盗罪になる」と言うだけではダメなのだ。これは殺人や窃盗がなくならないという「現実」からも簡単にわかる。「戦争をしてはいけない、侵略をしてはいけない、こういう政策は間違っている」ということを「政府」以外のものが言うだけではだめなのだ。日本の歴史は、そのことを証明している。
②はもっともらしく聞こえるが「透明化」は「第三者機関」が存在すれば保障できるものではない。「第三者機関」などなくても、会議が常に「公開」を原則としていれば透明化は確保できる。議事録を常に閲覧できる状態にしておけば十分なことである。「第三者機関」をもうけることで、逆に「不透明」になることもありうるだろう。「第三者機関」が学術会議に何らかの働きかけをするということが考えられるからである。「第三者機関」が学術会議に対して、どのような判断をしたかということが「公開」されるということが前提とされなければならない。「公開の前提」を不問にして「第三者機関」を設置することは、非常に危険だ。
④の「第三者機関による推薦」というのもよくわからない。「学問」の世界をいったい「学者」以外がどうやって評価できるのか。「学問」を構成しているのは「定説」だけではない。「新説」もあれば「研究中の仮説」もあるだろう。「第三者」がそういうことに対して、どれだけ客観的な判断ができるのか。「学問」とは別の恣意的判断が「推薦」に紛れ込むことが必ず起きる。そして、実際、この④は、そういう「恣意的操作」をするために(恣意的操作を保障、担保するために)「第三者機関」を設置すると言っているに過ぎない。
ここから②を振り返れば、私が先に書いた「透明化」の問題がはっきりするだろう。「学問」とは無縁の「恣意的操作」によって学術会議を操作する。それは、どうみたって学術会議を「不透明化」するということなのだ。
⑤は、「金銭的補助(助成)」をするのだから、政府の言うことを聞け、ということだろう。政府批判をするなら予算をつけない。しばらくの間は予算をつけるが、学術会議が政府批判をつづけるなら、補助・助成は「継続しない」ということを「裏側」から言っているに過ぎない。
「学問の自由」は誰にでも開かれた自由であって、政府の「保証」や「助成」など必要がない。したい「研究(学問)」があるなら、個人が自分の「権利」としてやればいい、という考え方もあるが、これはあまりにも「楽観的」な考え方である。
たとえて言えば、菅が「敵国」を攻撃する新兵器を造りたい、その研究をしたいと思っても、菅にはその研究をする能力がないだろう。いまから菅が「学問」をしなおしても、間に合わないだろう。菅に対して「新兵器の研究をするな(それは憲法の精神に反する)」と誰かが批判しなくても、そういうことは菅にはできない。まず「学問的素養」が必要であり、つぎに「思考」を具体化していくための「設備」が必要である。そういうものには金がかかる。ときには膨大な資金がいる。どんな「学問」であろうと、個人の力(自由)だけではできないことがあるのだ。
「理系の学問」だけではなく、「文系の学問」もおなじである。金がかからないようにみえる。個人の自由でなんでもできるではないか、と思うのは、「学問」をしたことがないからではないのか。私の個人的体験で言えば、私のやっていることは「ことば」を読み、それについて感想を書くというだけのことだが、こういうことにしたって「自由(好き放題)」にはできない。読みたい本が「図書館」にあるとはかぎらない。必要な本を買うには金が要り、その金を稼ぐためには働かないといけない。「好き勝手」にみえて、「好き勝手」だけでは生きていけない。さらに、「あの本は発行禁止にする」と政府が決定すれば、その瞬間からその本さえ読めなくなる。
「自由」とは憲法に書いてあるように、国民の不断の努力によってしか成立しないのだ。
脱線したが。
権力にとっていちばん必要なのは、権力を批判する「自由」なのである。それを保障しないかぎり、権力は「独裁」になってしまう。
コロナ感染拡大ひとつをとってもみて、わかる。「gotoキャンペーン」の危険性を多くの専門家(医師)が指摘している。「専門家会議」も指摘している。しかし、その批判を拒み、菅はキャンペーンをつづけている。不都合な批判(指摘)を無視するというのは、菅が抱え込んでいる「専門家」というのは単に菅にとって都合がいいことを宣伝するための道具ということである。
学術会議は(その一部の会員候補)は菅にとって都合のいいことを言わないおそれがある、ということで任命を拒否された。(菅は名言はしていないが。)「独立化」ということばはまともにみえるが、やっていることは政府の言いなりになる学術会議にしてしまうということである。そのために「第三者機関」という政府のいいなりになる組織を新たにつくるということだ。「第三者機関」を「独裁」をすすめるための道具として利用するということだ。
「学問」の世界は、私のような人間にはなんのことかよくわからない。そういうよくわからないところで「弾圧」が起きても、その「弾圧された」という実感はわたしにはさらにわからない。こういう「わからない世界」(日常から遠い世界)からはじまる変化は非常に危険だ。気がつけば自分のすぐ側にまで来ていて身動きがとれないということが起きる。国民にとって「わかりにくい世界(遠い世界)」から弾圧を始める。それを弾圧と感じさせないために「第三者機関」というものさえつくろうとしている。
学術会議(学問の自由)は民主主義の根幹である。桜を見る会や鶏卵わいろのように、わかりやすい金の動きがない。そういうことも、この学術会議スキャンダルに影響して、その問題の大きさが見えにくくなっているが、絶対に見過ごしてはいけない。
#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞
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