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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ものすごく、いやあああなニュース

2020-12-18 11:45:58 | 自民党憲法改正草案を読む
共同通信が、こんなニュースを配信している。
安倍前首相、国会招致応じる意向/「桜」夕食会費用疑惑で

https://this.kiji.is/712482045412884480?fbclid=IwAR2ZoK-t3-fZqFrMU9HzA30OwjkPAChgoEQssrW4giFnKT8sUJ2bGJIaiRo

安倍晋三前首相は18日、「桜を見る会」前夜の夕食会費用補填疑惑に関し、捜査終結後の国会招致要請に応じる意向を示した。国会内で記者団に「誠実に対応していきたい」と語った。
↑↑↑↑
いやあああな感じのする「書き方」。
きのう夜、TBSが「安倍国会招致」の「特ダネ(?)」の形で報道した。
でも「特ダネ」ではなくて、「情報のばらまき」だったことは、きょう18日の新聞を見るとわかる。
そして。
TBSのニュースにも、各新聞にもなかったことばが、ここに書かれている。
「捜査終結後」
これって、どういうこと?
TBSや各紙の報道を読むかぎり、自民党(幹部)が安倍に働きかけているような印象。
つまり「捜査」とは関係ないような書き方だったが、実は「捜査」と密接に関係している。
そうすると、きのうのニュースの大元の「リーク元」は「捜査関係者」?
地検か特捜本部かしらないけれど、そこから何らかの「情報」が自民党関係者にもたらされ、打ち合わせがあった。それを踏まえて自民党関係者が「国会招致」を語った。
もちろん、その「情報」というのは、「安倍は逮捕しないから」ということなんだろうなあ。
「逮捕されないことを確認したから、国会で何か言えよ。そうすれば菅の人気もちなおす。自民党への批判も弱まる」
そういう「筋書き」か。
「逮捕されない」という確証を得たから「誠実に対応していきたい」と言ったんだろうなあ。
態度の急変の「根拠」は、それしかない。
このニュースのいちばんのポイントは、「捜査終結後」だね。
そして、TBSが最初に報じたように、「国会招致」が「年内」ということなら、年内に捜査が終わる、というとだ。
ニュースは、見だしにならないところにある、といえるかも。
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安倍国会招致の狙いは?(情報の読み方)

2020-12-18 10:36:08 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍国会招致(情報の読み方)

 「桜を見る会補填問題」をめぐり、「安倍国会招致」のニュースが17日の夜から飛び交った。私がそれを知ったのは、知人がTBSの報道を知らせてくれたからである。TBSの「特ダネ」かと思ったが、各紙の朝刊に載っている。「特ダネ」ではない。しかし、伝え方のトーンが微妙に違う。

①TBS
https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4154533.html?fbclid=IwAR2vqfo4GUSHiKM3vhiFLofsyq0yqdqp8vgL3_un1NQnZprKhLjGDQ9qOk0

安倍前首相の国会招致を検討、「桜を見る会」前夜祭の費用補てん問題
「桜を見る会」の前夜祭をめぐり自民党が、安倍前総理大臣の国会招致を検討していることが党幹部への取材でわかりました。
(略)自民党幹部の1人は「安倍さんに何らかの説明をしていただく必要はある」と話していて、与党側は司法の判断を待ったうえで、早ければ年内にも安倍氏を国会に参考人として招致する検討を進めています。

 最後のくだりは、当初は、「自民党幹部の1人は「何らかの説明をしていただく必要はある」と話していて、自民党は、早ければ年内にも安倍氏を国会に招致する検討をしているということです」だった。「検討している」が「検討をすすめている」にかわり、前にはなかった「参考人」が付け加わっている。
 これを読んで、私はフェイスブックに次のように書いた。

 国会は12月4日に閉会したのでは? もちろん閉会中も審議はできるが。わざわざ「年内」に開く? 「年内」って、実質何日? いままで野党の要求を拒否し続けてきたのに、急に方針転換をしたのは何故?
 私はなんだか菅の人気取りに利用されているような感じがする。学術会議、コロナ対策(菅自身の定員オーバー忘年会)で菅の人気はガタガタ。それを立て直すためなら、安倍を利用しようということなのでは? ほんとうに「年内招致」なら、それはそれで画期的な前進だけれど。
 私は、ずるずると引き延ばし、「年末年始のGOTO停止(コロナ感染の推移)」を見ながら、感染拡大がおさまるなら、「やっぱり、やめた」と方針転換するのでは、などと疑ってしまう。もしほんとうに「年内国会招致」なら、菅は、よほど「コロナ対策失敗」(人気の急落)が身にこたえていることになる。
 そして、自民党内が、いまテンヤワンヤなことがわかるニュースだなあ。なんとしても人気を回復したい一心なのだろう。

②東京新聞
https://www.tokyo-np.co.jp/article/74981?fbclid=IwAR39zCZ0gEiop0w5l2H1Cn-M2uPYkgpZFGsZSQKCza-CMHNRaoyBXr_tVkM

「桜を見る会」前夜祭 安倍前首相が国会で「虚偽答弁」陳謝へ 自民、年内実施を検討
 自民党は17日、安倍晋三前首相の後援会が主催した「桜を見る会」前夜の夕食会の費用補疑惑に関し、安倍氏を国会に招致する方向で調整に入った。東京地検特捜部の捜査や安倍氏の意向を考慮しながら早ければ年内にも実施したい考えだ。疑惑解明に努める姿勢を見せなければ世論が離反し、菅義偉首相の政権運営にも影響しかねないと判断した。安倍氏は国会での説明が結果的に「虚偽答弁」となったことを踏まえ、陳謝するとみられる。複数の関係者が明らかにした。
 来年1月18日召集の通常国会をにらみ、自民党内では「安倍氏を招致し、早めに区切りを付けなければ野党が追及を強める」(閣僚経験者)との懸念がある。次期衆院選への影響は不可避だとの危機感も判断を後押ししている。閉会中審査での対応を想定し、招致する場は野党と協議して決める見通しだ。

 TBS報道にはなかった「閉会中審査」と「陳謝するとみられる」がある。
 この記事の問題点は「陳謝するとみられる」。これは「複数の関係者」の見方。安倍が「陳謝する」と言ったわけではない。つまり、複数の関係者は「安倍に陳謝させる」という形で状況を打開したいと狙っているということだ。
 ここからも、菅の(あるいは菅を支える自民党内部の)混乱と、必死さがつたわってくる。

③毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20201217/k00/00m/010/419000c

「桜を見る会」前夜祭 安倍氏が国会で経緯説明 自民検討、年内の実施も視野
自民党は安倍晋三前首相の後援会が主催した「桜を見る会」前夜祭の費用の一部を安倍氏側が補 (ほてん)していた問題を受け、東京地検特捜部による捜査が終結するなど進展した場合、安倍氏が国会で一連の経緯について説明する検討に入った。安倍氏の意向も踏まえ、判断する。早ければ年内の実施も視野に入れている。
(略)自民党は安倍氏については衆院議院運営委員会などに出席し、一連の経緯を説明することを想定している。安倍氏が公的な場で直接説明することで、世論の反発や疑惑を払拭する狙いがある。

 「陳謝(謝罪)」ではなく「経緯説明」と毎日新聞は書いている。そしてここでも「説明する」は安倍の意志ではない。安倍がそう語ったのではない。自民党(菅総裁)が「安倍に説明させる」ということにある。目的は「世論の反発や疑惑を払拭する狙い」と指摘している。狙いはあくまでも「選挙対策」(菅の人気回復)である。

④読売新聞(18日朝刊、西部版・14版)は政治面(4面)で2段の見出し。

安倍氏招致 自民幹部が言及/「桜」前夜祭 「国会で説明 必要」
安倍前首相側が主催した「桜を見る会」の前夜祭を巡る問題で、自民党幹部は17日、「捜査に一定の区切りがつけば、安倍氏が国会で説明することも必要だろう」と語った。安倍氏の国会招致を検討する考えを示したものだ。ただ、党内では招致に反対する声が強く、実現は容易ではない。

 私が読んだ記事の中ではいちばん淡々としている。毎日新聞は「経緯」と書いていたが、読売新聞は「経緯」を省略し、「安倍氏が国会で説明する」とあるだけで、何を説明するかが明示されていない。まだ安倍との間で調整が進んでいないことがわかる。さらにこの「説明する」には「ことも必要だろう」ということばが追加されている。「ことも必要だろう」にさらにことばを追加するなら「と考えている」である。言い直すと、「安倍氏が国会で説明することも必要だろうと考えている」である。あくまで、個人的な考えである。
 さらに「党内では招致に反対する声が強く、実現は容易ではない」と補足している。
 TBSの「特ダネ」と見えたのは、「リーク」というよりも「情報のばらまき」。「ばらまき」だとわかって、読売新聞は「リーク元」以外の自民党のほかのひとの声を取材し、「裏取り」をしようとしたのだろう。その結果「招致に反対する声が強く、実現は容易ではない」と書いたことになる。
 だからこそ、見出しも「自民党検討」ではなく、「自民幹部が言及」となっている。ある幹部が語った、というところで留めている。慎重である。一面ではなく、政治面に小さく載っているというのも、慎重な見方をあらわしている。
 読売新聞は、こんなところに「正直」を発揮している。TBSの「特ダネ」に見えたものは、実は「特ダネ」ではないと書くことで、まだ、安倍よりの姿勢も維持しているということか。

 さて、ここからわかることは何か。
 何もわからない。
 ただ、自民党内部が「菅の支持率下落」に動揺していることだけはわかる。このままでは選挙に勝てない。何をすればいいか。「悪人」を叩いて、菅の「正義」をアピールするしかない。
 ここで「正義」と書いたのは、安倍を国会に呼ぶことは「政策」でもなんでもないからだ。
 コロナ対策や学術会議は、国民生活の「今後」がかかっている。安倍の問題には安倍の今後がかかわっているが、国民の生活は関係ない。別なことばで言えば、「予算」が関係しない。もちろん「政治倫理」の問題として関係してくるともいえるが「政治倫理」ということばが象徴するように、それは「倫理」が基本問題である。
 「倫理」に対して「正義」を主張することは、国民に納得してもらえ、なおかつ菅自身には直接影響がない。
 そして、「正義」はいつでも「国民受け」がいい。「正義」が嫌いな人などいないからである。
 で、さらに、こんなことも考える。
 菅が「正義」をふりかざして安倍を追及し、菅自身の正しさをアピールするとき、その反動として安倍も「正義」をふりかざして菅を追い詰めることを考えるだろう。ひとりだけ政治の世界から追放されるということを受け入れるわけがない。すでに「鶏/卵」にからんでやり玉に挙がっている人がいる。
 もう「正義合戦」ははじまっているのだ。
 そして、この「正義合戦」がつづくとき(つづけてほしいと私は思うけれど)、コロナ対策や学術会議問題がわきにおいやられてしまう。そのことが心配だ。とくに「学術会議」の問題は、「批判」(反対意見)を民主主義にどう生かすかという問題と関係しているのに、いまは追及する声が聞こえにくくなっている。ジャーナリズムに登場しにくくなっていることが心配だ。






#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞



*

「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞



*

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粕谷栄市「小さい馬」

2020-12-17 11:11:31 | 詩(雑誌・同人誌)
粕谷栄市「小さい馬」(「森羅」26、2021年01月09日発行)

 詩は何か。詩はことばだ。そして、詩は何よりも音楽だ。粕谷栄市の「小さな馬」を読みながら、あらためて、そう思った。

 小さな馬だ。手のひらに、何頭も乗せられるほどの小
さい馬だ。誰にも言わないが、遠い草原に、私は、彼ら
の群れを放し飼いにしている。
 自分がどんなところにいようと、私は、好きなときに
彼らを見ることができる。自分の右手の親指と人差し指
で丸い輪を作り、そこを覗くと、青空の広がる小さい草
原の小さい樹木のまわりに、小さい馬たちが見える。

 ことばは少しずつしか進んでいかない。あまりに少しずつなので、進んだかどうか、動いているときは気がつかない。しかし、段落が変わるたびに、たしかにことばは動いているのだとわかる。
 このリズムが変わらない。
 粕谷の詩は、リズムが「正確」なのだ。
 いや、これは正確には「テンポ」と言い直すべきなのかもしれない。
 音楽には、簡単に分けると「古典」と「ポップス」がある。「古典」はメロディーは変わることがないが、テンポは演奏者(指揮者)によって変わる。一方、「ポップス」はリズムを変えないがメロディーは演奏者によって変わる。即興だ。
 粕谷は、何を書いてもいつも一定の「テンポ」でことばが動く。素材は変化する。もし、この粕谷の「テンポ」を「リズム」と言い換えてしまうと、「リズム」が一定で、素材(ストーリー? 音楽でいえばメロディー?)が変わるのだから「ポップス」になってしまうが、実は、そうではない。
 少し言い直そう。
 「ポップス」のなかの「リズム」の維持は、あくまでその曲においてのこと。別の曲では別の「リズム」がある。だから、曲(素材)が変わればリズムが変わる。
 粕谷の「テンポ」の維持は、ひとつの曲(素材)のなかでの維持ではなく、複数の素材(曲)を通しての維持なのである。どの作品も、きまった「テンポ」でことばが動く。「小さな馬」が「小さな猿」になっても、あるいは「白髪の老人」になっても、おなじ「テンポ」を守って動く。
 このために、どの曲もおなじだなあ、という印象を持ってしまうことがある。またおなじ「テンポ」か。マンネリだなあ。素材がつぎつぎにかわるのに、同工異曲に感じられるのは、この「テンポ」のせいである。
 ここからが、かなり微妙な問題になる。
 私はついさっき「マンネリ」ということばをつかったが、同じものに触れると「退屈」と感じるときと、「安心」を感じるときがある。そして、それは相手(粕谷)のことばの方に「原因」があるというよりも、私の「肉体」の方に原因がある。その日の「体調」で、その「テンポ」が気持ち良かったり、いらいらしたりする。
 これは、どういうことか。
 詩を読むとき、私は「意味」(論理)を読んでいないいうことなのだ。
 「論理」なら正しいか、正しくないかを基準にして、いつもおなじ結論へたどりつくことができる。これは私にとっては正しくない(同意できない/共に行動できない)結論である、これは私にとって正しい(実行できる)結論であるということができるし、そうしなければ「論理」を批判したことにはならない。
 けれど「生理的反応/体調次第の反応」は、「論理」とは無関係なのだ。「頭」で正しいと判断しても、「きょうは、それをしたくない」ということがおきる。これをしてはいけないと「頭」が判断しても、がまんでいない、してしまう、ということがおきる。
 これは、いいことか、悪いことか。
 私は判断しない。いや、いつでもその場限りで判断してしまうといった方がいいのか。よくわからないが、テキトウに揺れ動くままにしている。
 詩を、そういう揺れ動きのなかで読んでいる。揺れ動きを許容してくれるものが詩のことばだと思っている。

 だんだん脱線して行ってしまう。

 「テンポ」のことに話をもどそう。
 粕谷の詩には独特の「テンポ」がある。メロディーを聞いて、あ、これはだれそれの曲だとわかるように、「テンポ」を聞いてこれは粕谷の詩だとわかる、といえばいいのか。いったん採用した「テンポ」を、どの素材にも適用する。「テンポ」で素材の動きそのものを制御するのである。
 「ポップス」の「リズム」は、逆なのだ。「リズム」を守ることで、素材(メロディー、楽器)の動きを解放する。「リズム」さえ守れば、どんな音を出しても許容する。
 もちろん「制御」と「解放」は正反対の概念であるがゆえに、逆のこともいえる。
 粕谷は「テンポ」の維持によって音を自由にしている(どんな素材でも詩にしている)、「ポップス」は「リズム」による拘束に対して音が自由を求めて戦っている、と。

 また、脱線したか。

 「論理」を書こうとすれば、「後出しじゃんけん」でどうとでもことばを動かすことができるので、脱線、脱線、脱線の連続になってしまうのだ。
 今度こそ、粕谷の詩に戻ろう。
 粕谷の「テンポ」とは何なのか。
 詩の最後は、こう締めくくられている。

 いや、大げさなことをは言うまい。そんなことではない。
 私のように、誰からも遠ざけられて、いつも独りでい
る人間の、淋しく、小さい病気のような夢のなかのでき
ごとにすぎないのである。

 私は「テンポ」と書いたが、それはたしかに「テンポ」というようなことばをつかって書くことでも、また「リズム」と比較しなければならないような「大げさなことではない」のである。すべてを「大げさではない」という距離で向き合う。その「距離の取り方」がそのまま「テンポ」になっている。「誰からも遠」という距離が、そのまま「テンポ」を産み出している。
 対象がなんであろうが、自分の「テンポ」でことばを動かす。
 詩の途中には、こんなことばもある。

 その通りなのだ。それだけのはなしなのだ。手のひら
に、何頭も乗るほどの小さい馬を、私が、遠い野原に、
放し飼いにしていて、ときどき、それを見ているという
だけのことなのだ。

 「それだけ(のはなし)」「……だけのこと」。この突き放した距離感が粕谷の「テンポ」である。何が起きても「それだけ」という「距離」を保つ。
 この「距離」が、なぜ「テンポ」なのか。
 たぶん心臓の鼓動のようなもの、「肉体」そのもの「リズム」が影響しているのだろう。「肉体」はいつでもまわりにあるものの影響を受ける。まわりの「リズム」の変化によって興奮したり、落ち込んだり、鼓動そのものが変化する。つまり、どきどきしたり、元気がなくなったりする。
 そいういう「影響力」のある「リズム」(まさに、ポップスだね、いまのリズムだね)から離れることが、自分の「肉体」を取り戻す第一歩だからである。「いまの影響力の支配」と距離を取ることは「テンポ(他者とは共有できない固有の鼓動)」取り戻すことなのだ。
 で、ここから「古典」と「ポップス」の演奏に戻ってみよう。
 「古典」では演奏者がそれぞれ自分固有の「鼓動」にしたがって「テンポ」を主張し、それをメロディーに共有させる。「ポップス」では「いま、そこにあるリズム」を共有し、そのうえでメロディーを解放させる。
 粕谷のやっていることは、音楽でいえば「古典の演奏」なのである。「古典」は、そこにある、それだけのことである。でも、それでいい、と思ったとき、粕谷のことばが気持ちがいい。体調次第では、そこにあるだけなんて、いや、と思うときもある。
 そういうところに到達していることばである。



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黒田ナオ「島のわたし」、大井川賢治「元自衛隊」

2020-12-16 09:30:56 | 現代詩講座
黒田ナオ「島のわたし」、大井川賢治「元自衛隊」(通信講座受講生の作品)

 通信講座受講生の詩を2作品紹介する。もっと長い作品もあるのだけれど、今回はふつうの(?)長さの作品。

島のわたし   黒田ナオ

見おろすと
すーっと金色の魚が泳いできて
気がつくと、わたしも泳いでいた
そのうちだんだん体が透き通ってきて
突然、島だったときのことを思い出す

ああそうだ、ずっと昔わたしは
海に浮かぶ空豆みたいな島だった

懐かしい気持ちが
体じゅうから湧き上がってきて
海鳥の声が聞こえてくる

ほら
繰り返す波の音
きらきら光る水平線

ここだ、ここだ、ここにいる

じっとしたまま動かない

何千年、何万年

気の遠くなるような時間の中で
うつらうつらと夢見るように
島のわたしが呼んでいる

 ことばに自然なリズム、音楽がある。とも読みやすい響きがある。黒田が声を出して詩を読むかどうかはわからないが、「声」をもった人だと思う。
 一種の「幻想」なのだけれど、ことばに「声」があるので作り物という感じがしない。
 「突然、島だったときのことを思い出す」の「突然」というのは、「声」を持たない人のことばだと「ご都合主義」に響き、嘘っぽくなるけれど、「声」のたしかさが「嘘」という批判(批評)を封じ込めてしまう。
 この「声」のたしかさが、「ここだ、ここだ、ここにいる」という強い響きを引き立てる。この「ここだ、ここだ、ここにいる」というのは、みつけてくれてありがとう、という強い感謝のよろこび、また一緒になれるね、というよろこびにあふれている。とても美しく輝いている。その島は「じっとしたまま動かない」で待っていた。いまも待っている。
 その絶対的な「声」が生まれるまでの過程で、「ああそうだ」「ほら」という口語が自然に動いている。
 「何千年、何万年」ということばも、書き方次第では嘘っぽくなるのだけれど、つくりもの(むりやり)という感じがぜんぜんしない。「気の遠くなるような」、それこそ頭で考えないとわからない「時間」なのだけれど、「懐かしい気持ち」を誘う。「ここだ、ここだ、ここにいる」という一行に、嘘がないからだ。
 「ここだ、ここだ、ここにいる」というときの「ここ」は、正確に言うと「ここ」ではなく、「わたし」とは別な場所。「島のわたしが呼んでいる」の「呼んでいる」ということばが象徴的だけれど、「島」は「わたし」から離れている。離れているから「ここだ、ここだ」と呼んでいる。そして、呼ばれている「わたし」にはそこが手に取るようにはっきりわかる。「あそこ」でも「そこ」でもなく「ここ」。「島」と「わたし」がつながっているを通り越して一体になっている。
 連の構成も、無造作なようで、何かとても美しい。ひとつのことばが別のことばへ飛躍していくときのリズムがそのまま一行空きを生み出し、それが連の輪郭になっている。
 もっとたくさん詩を読みたい、という気持ちを誘うたいへんいい作品。



元自衛隊   大井川賢治

営繕課の鈴木さん、夕方まで手を抜かない
その日の最後には、施設をぐるりと点検する
不安や心配の気配が部屋から漏れていないか

鈴木さんには聞こえるのだ
鈴木さんには見えるのだ

ポパイのような腕を触られて
さすが、元自衛隊と褒められても
いやあ、大したことないです
と、やや薄くなった頭を掻く

毎年、八月も半ばになると
提灯を数珠をつなぐようにぶら下げて
盆踊りに来る近隣に楽しんでもらう
今年は、河内音頭のお囃子も聞こえず
玄関の楠木も心なしか沈んで見える

しかし鈴木さんは、すぐ気を取り直す
盆は、来年も再来年もやって来るじゃないか

高齢者施設は、あの世へ漕ぎ出す船出の港
そんな旧い持論を、後生大事に持ちつづけて
元気でいってらっしゃいと、きれいに整えつづける
後悔も無念も吹きだまっていない晴れやかな船着き場

南天フロアの百歳をこえたご婦人が
そろそろ危ないのではと噂されているのだが

お迎えの船は、ある日突然、時間を選ばずやってくる
鈴木さんのまわりは、真夜中でも明るく爽やかである

 二連目が非常に印象に残る。引きつけられる。何が聞こえるのか、何が見えるのか。一連目の「不安や心配の気配」だろうか。
 この二連目と対になっているのが六連目。
 「高齢者施設は、あの世へ漕ぎ出す船出の港」というのは、比喩。比喩とは、ほんとうはそこにないもの。それが「見える」。
 きっと、ほかの人には違ったものに見える。感じられる。ことばは悪いけれど、たとえば「現代のうば捨て山」として。でも、「鈴木さん」には、それを「船出の港」と「見える」。ただ鈴木さんにそう見えるだけではなく、みんなにもそう見えてほしいという気持ちがある。だから、それが「元気でいってらっしゃいと、きれいに整えつづける」という行動になる。仕事ぶりになる。
 この方針のようなものは「旧い持論」と書かれている。鈴木さんの持論として書かれているのだけれど、これはきっと作者の持論だろうと思う。大井川の持論に鈴木さんが共感して、鈴木さんが働いている。それを大井川は、鈴木さんから教えてもらったかのように、一歩引いて、鈴木さんを浮かびあがらせている。
 こういう「手法」は、私は大好きだ。「ひとがら」というものを自然に思い浮かべる。世の中には頭のいい人がいる。顔のいい人もいる。同じように、「ひとがら」のいいひともいる。そういうひとりを思い浮かべ、こころがおだやかになる。
 なんでも自分が自分がという時代にあって、そうではなくて、すべてのすばらしいことはその人がやっていること。自分は、それを脇から見ているだけ、という静かな感じがとてもいい。この一歩引いた感じが、鈴木さんの働きを「自由」にしている。「自由」というのはむりがないという意味。好きだからやっている、という感じになっている。
 それが「明るく爽やか」ということだろうと思う。
 「不安、心配」ということばからはじまった詩が、「お迎えの船は、ある日突然、時間を選ばずやってくる」ということばにたどりつきながら、そこに悲惨さや暗さがまったくない。それこそ「明るく爽やか」。
 これは、不思議だなあ、と感心する。
 大井川のひとがらが、鈴木さんのひとがらに重なって、ひとつになっているという作品だと思う。
 大井川の書いていることばは、いわゆる「現代詩」を書いている人からはなかなか受け入れてもらえないかもしれない。派手な強さというものがないから。でも、私は、大井川の書いているようなことばは誰かが書き、引き継いでいかないといけないのだと思う。

 (受講生の作品は、今後も機会を見て紹介していきたいと思う。)

*

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高橋睦郎『深きより』(19)

2020-12-15 11:04:36 | 高橋睦郎『深きより』


高橋睦郎『深きより』(19)(思潮社、2020年10月31日発行)

 「十九 詩の完成者」は「源実朝」。

 高橋のことばの奥には「死」がある。私は、いつもその「死」の匂いにぞっとする。近づきたくない。近づかないために、書く、とさえ言える。ふつうは対象に近づくために書くのだが、「ことば」を間に置くことで、私は距離を保ちたいと思うのだ。

血がいのちのしるしなら この身はその瞬間のみに生きたのだ
そのとき わが死の一族の死は荘厳され 完成した

 死ぬ瞬間を生きる。これを「生きざま」という。「死にざま」ということばがいつごろからか流行しているが、私は、このことばが嫌いだ。嘘っぽい。
 「生きざま」だからこそ「完成した」と言える。
 そして、こういうことは、同時にことばは「伝統」なのである。そして、(私は、あえて、そしてをくりかえすのだが、)そしてそれは「伝統」だからこそ、「定型」である。つまり、この二行には一種の「聞き覚え」がある。
 「わが死の一族の死は荘厳され」とあえて「死」ということばを二度つかい、乱調を導入しているのは、「聞き覚え」を破るための手段だろう。
 ここまでなら、あえて「死の匂い」と、私は言わない。「生きざま」ということばとともに、くりかえし語られてきたことだから。
 私はその次の二行に、立ち止まり、引きつけられ、「動いてはいけない」と自分に言い聞かせるのである。

そのことの栄誉を受けるべきは 殺されたこの身と共に
この身を殺してその身も殺された 一族最後の死者なる若者

 「最後の死者」。それはけっして死しない「死者」なのである。多くの死者は「この身を殺してその身も殺された」という悲劇(ドラマ)となる。つねに動きがある。動く輝きがある。その「悲劇」そのものと同じように「最後の死者」を見ることはできない。「最後の死者」は、もう殺されないのだ。ただ、「死者」として絶対的に存在してしまうのだ。「ドラマ」は激動であり、条件次第でどうとでも展開する。しかし「最後の死者」には、その後の展開がない。「絶対的存在」として、ドラマを超越して存在し、輝いてしまうのだ。「最後の」の何と言う強い閃光。
 高橋には、きっとことばによって選ばれたもの、「ことばの最後の死者」という自負があるに違いない。
 「それには触れてはいけない」私のなかの、何かわからないものが、いつも大声を出して、私を踏みとどまらせる。






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「勝手なことしやがって」は誰が言った?(情報の読み方)

2020-12-15 09:49:02 | 自民党憲法改正草案を読む
「勝手なことしやがって」は誰が言った?(情報の読み方)

 2020年12月15日の読売新聞(西部版・14版)1面。

GoTo年末年始停止/全国で28日-来月11日

 政府は14日の新型コロナウイルス感染症対策本部で、国の観光支援策「Go To トラベル」事業について、28日から来年1月11日まで全国一斉に停止することを決めた。27日までは、札幌、大阪両市に加え、東京都、名古屋市を目的地とする旅行を事業の対象から外す。

 これに、どれほどの「意味」があるのか、私は疑問を持っている。すでに、別のところで書いたのだが、28日-11日は「年末年始帰省期間」。旅行はいくぶん減るだろうが、帰省の移動はどれだけ減るのか。いま実施しているGoToの利用者よりも帰省者の数が多いのではないだろうか。そうだとするとGoToを停止しても感染者は減らないことが予想される。
 もし、減らなかったら、どうなるのだろうか。
 きっと「GoToと感染拡大は無関係」という主張の「エビデンス」として利用されるだろう。
 減ったら減ったで、菅の判断は正しかったと「宣伝」に利用されるだろう。
 どうなっても、菅にとって「利用できる」と判断したから、「停止」を決めたのだろう。

 で。
 きょう書きたいのは、別のこと。
 「対策本部」で「決めた」のはいいのだけれど、その「決めたこと」をどうやって発表したのか。これがよくわからない。
 読売新聞の1面には、菅の写真が載っているが「新型コロナウイルス対策本部で発言する菅首相」という説明。3面には「記者団の質問に答える菅首相」の写真。1面の写真はいわば「密室」。3面の写真は、いわゆる「ぶら下がり取材」とか「囲み取材」といわれる雰囲気。正式の記者会見ではない。
 全国民が気にしているのに、菅は、国民に向かって何も言わない?
 私はテレビを見ていないのでわからないのだが、読売新聞の記事を読むかぎりは、どうも「記者会見」で発表したものではなさそうである。

 国民の前で、堂々と(?)発表できないような「事情」や「心情」がからみあっているのか。
 そういうことを考えさせる記事が3面に載っている。(番号は、私がつけた。)

①政府が小出しの見直しを重ねたのは、「事業が感染者増の主因ではない」(首相)と見ているためだ。首相は11日のインターネット番組で「いつの間にかGoTo(トラベル)が悪いことになってきちゃった」と不満をあらわにした。
②首相は方針転換を決めた14日になっても、「移動によって感染は拡大しない。そこは変わらない。ただ、専門家の先生方から指摘をいただき、現実的に3000人の感染者が出ているから」と記者団に述べ、複雑な思いをにじませた。
③観光業界にとって「書き入れ時」ともいえる年末年始に事業を停止することへの懸念も出ている。政府内からは「事業を止めて利用者の混乱を招いた揚げ句、経済は落ち込み、感染拡大も止まらないかもしれない」と危ぶむ声が漏れる。土壇場での決断となり、根回しが不十分だった与党との間にしこりを残す恐れもある。自民党幹部は14日夜、「勝手なことしやがって」と政府の対応に毒づいた。

①の首相のことば、「いつの間にかGoTo(トラベル)が悪いことになってきちゃった」には大事な要素が欠けている。いま問題になっているのはGoToそのものと同時に「実施時期」である。「いまやる必要があるのか」。「いまやるのが悪い」というの多くの人の声であり、②に出てくる「専門家」の批判である。
 時期が問題だからこそ、今回の政府は「方針転換」をしたのだろう。
 「いつの間にかGoToが悪いことになってきちゃった」のではなく「いまGoToをやることが悪い」なのである。それを明確に伝える工夫を読売新聞はしていない。菅批判をおさえている。これを「忖度」という。
②の「移動によって感染は拡大しない。そこは変わらない」とは、何を踏まえての判断なのか、菅は言っていない。「専門家の先生方」は何と言っているのか。読売新聞は、そういう分析には足を踏み入れず、「複雑な思いをにじませた」と非常にあいまいな書き方をしている。
 「複雑な思い」って、何?
 菅はGoToをつづけたいのに、世論が許さない。(支持率が下がっている。)このままでは選挙に負ける? 選挙敗北の責任をとらされる? いまのことではなく、自分の将来のことを考えているのか。国民のいのちではなく、自分の金稼ぎの心配をしているのか。それが「複雑な思い」なのか。
 「身勝手な思い」ではないのか。
③は首相の「声」ではなく、首相周辺の「声」を書いているが、そこに「身勝手」に通じることばが、そのまま書かれている。
 「勝手なことしやがって」は「身勝手なことしやがって」なのである。このことばを言った自民党幹部とはだれなのか。二階なのか。それにしても、このことばには、菅よりも、菅を首相にしてやった俺の方が偉いんだぞ。俺に逆らう「身勝手は許せない」という気持ちが滲んでいるなあ。その直前に書かれている「事業を止めて利用者の混乱を招いた揚げ句、経済は落ち込み、感染拡大も止まらないかもしれない」の「政府内」の「声」は誰の「声」なのか。
 どちらも「主語」を明確にしていない。しかし、「政府内」「自民党幹部」はかならずしもGoTo停止で「一致」しているわけではない。菅を支える「基盤」が揺らいでいるということを読売新聞は伝えている。
 この揺らぎに対して、菅は「複雑な思い」を抱いているということか。
 読売新聞の記事を読むかぎり、菅は国民のいのちのことは何も考えていないということがわかる。読売新聞は、こういうことを「正直」に書いてしまうので、なかなかおもしろい。










#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞



*

「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞



*

「天皇の悲鳴」(1000円、送料別)はオンデマンド出版です。
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最果タヒ『夜景座生まれ』(3)

2020-12-14 09:53:25 | 詩集


最果タヒ『夜景座生まれ』(3)(新潮社、2020年11月25日発行)

 62ページから最後まで読んだ。思いついたことを思いついたままに書いていく。
 「海み」という作品。「うみ・み」ではなく「うみ」と読ませるのだと思う。

血の中を泳いでいた、海よりもずっと海だった、海なんかよりずっと果てがな
かった、私の体はこの血がなくなる場所まで続いているとも思えてならなくて、
泳いでいるのに一歩も、動けていないと感じていた、生まれると産むは、どう
いう関係なのだろうか、生まれる人間にとって、産む行為は関係あるようでな
いのではないか、

 「海よりもずっと海だった」、「海」を超える「海」が「海み」と書かせているのかもしれない。何か超越したもの、はみだすものを含んでいる。
 「関係」ということばが二度出てくる。これは「具体的」というこばのように、私の「肉体」に少しひっかかってくる。最果の詩によく出てくるのか、それとも出てこないのか、私はちょっと気になるのだが「具体的」ということばに出会ったときほどは驚きがない。「具体的」で驚きすぎて感覚がにぶっているのかもしれない。慣れてきた、ということかもしれない。
 この「生まれる/産む」のなかには「うむ」ということばが重なり、ずれている。それが「海み」という「ずれ」のようなものと思う。
 ちょっともどかしさを感じながら読み進んで行って、こんなことばに出会う。

血には痛点がない、いつも肉の方が痛い、

 私はこういうことを考えたことがないので、非常に驚いた。そして、これは、先に出てきた「関係」ということばをつかわずに、「生まれる/産む」ということばを、女の「肉体」をくぐりながら、こう続いているのである。

    かなりの生理痛。血の痛みではない痛み、血には痛点がない、いつも
肉の方が痛い、わたしはでも血のことを考える、血のように無痛の中にいたい
と思う、無痛の中で流されていく中にいたいと思う、血の中から生まれるとき、
血はわたしの方を見ていただろう、自分の一部であるはずのものが、生まれよ
うとするのはどんな感覚だろうか、血でなくなった途端に痛くて仕方がなくな
るよ。それは見送るんだから。かわいそうでならないよ。

 「考える」「思う」「感覚(感じる?)」とことばが動き、「見送る」という動詞を誘い出し、「かわいそう」に変わる。これが「生まれる/産む」。「血の中から生まれる」のを血は「産む」という立場で「見ていた」(見ている)。「見られる/見る」が「生まれる/産む」であり、「産む」方からは「生まれる」は「かわいそう」に感じられる。
 ここに書かれている「正直」は、「生理(痛)」というものを体験したことのない私には、まったく何も言うことがない。ただ、受け止めるしかない。「生理(痛)」というものについて、私は女性と話し合ったこともないので、どう感じていいかわからない。私の知らないことが私の知らないことばの動きとして書かれているので、そこに「正直」があると受け止めるだけである。
 ただ「血には痛点がない、いつも肉の方が痛い、」ということは、たとえば、手を切ったりして血を流した経験から、そうだなあ、と驚かされる。女は生理のとき、こんなふうに肉と血を見ているのか、と驚かされる。「痛点」というもの、非常に不思議なことばで、私自身が血を流したときの体験から言えば「痛点」ということばは思いつかない。「痛み」でしかない。
 「痛み」ではなく「痛点」と呼ぶところにも、「関係」というものが隠れていると思う。「点」によって血と肉がつながっている。「痛点」の「点」は血と肉体の「接点」の「点」なのである。それは「関係」によって初めてあらわれてくるものであって、「痛み」とは違う。「痛み」は「点」ではなく「量」というと変だが、もっと大きなものである。
 脱線したか。
 この詩にはまた、

肉体がなくても、命は不気味だし生臭い。

 という強烈な行がある。
 そういうことばを読み通すと「海み」は「いたみ」と読みたい衝動に襲われる。
 この詩は、私から見ると、あまりにも女の「正直」が出ているので、私が最果のことばにどれだけついていけているのか、わからない。
 だから、ここで感想を中断しておく。
 「静寂の詩」には、美しい二行がある。

美しい花が見えて、ぼくはいま、
何かから目をそらしたんだと気づいた。

 何かを見ることは、何かを見ないこと。それを「目をそらす」という動詞、その動きとして「関係」づけている。
 そんなことを思いながら読み進んで、「激愛」という詩に出会う。

彼女とわたしはいくつかの炎が自分たちのせいで制御不能に陥ったことを
知っていたが黙っていた、火をつけることは一度もできなかったが、燃料
ならいくらでも注いだ、この関係性に名前はつけられないけれど、誰も三
人目になろうとしないからこの世界はまだ未熟だ。

 「関係性」。このことばに、私はまた「傍線」を引いた。「関係」ではなく「関係性」。これは、「具体的」と同じように、私には「はじめてみることば」のように感じられる。非常に、異質な何かがある。
 「関係」ということば自体は、この詩にはもう一度出てくる。

          愛することの凶悪さに飲まれてどれだけの人が死ん
でいったのか、わからないけれど私たちはこの関係以外に何もない、

 この「関係」ならば、「読んだ」という感じがする。「海み」のなかの血と肉も「関係」である。「痛点」を「接点」とする「関係」と仮に呼ぶことができる。その呼び方が正しいかどうかは別にして。
 「関係性に名前はつけられない」ということばを頼りに言い直せば、血と肉の「関係」は「接点(を持っている)」ということであり、その「関係」に名前があるとすれば、それは「(痛)点」である。
 ここから私は逆に考え始めるのである。
 「海み」に書かれていたのは「関係」ではなく、実は「関係性」だったのだ。「痛点」は確かに「名前」であり、そこに最果の書きたいことは結晶している。しかし、書きたいことは結晶のようなものではない。「結論」ではない。そういう結晶(結論、到達点)ではなく、そこへ行くまでの、だれも通ったことのないことばの「道」。
 「痛点」と書いた後、その結晶を覆い隠すかのように動いていることば。

    かなりの生理痛。血の痛みではない痛み、血には痛点がない、いつも
肉の方が痛い、わたしはでも血のことを考える、血のように無痛の中にいたい
と思う、無痛の中で流されていく中にいたいと思う、血の中から生まれるとき、
血はわたしの方を見ていただろう、自分の一部であるはずのものが、生まれよ
うとするのはどんな感覚だろうか、血でなくなった途端に痛くて仕方がなくな
るよ。それは見送るんだから。かわいそうでならないよ。

 このことばは、ほんとうはまだまだ続いている。それは、ある意味では「ずるずる」している。切実なことばなのだけれど、「不気味だし生臭い」。つまり「結晶(結論)」からはほど遠い。そこには「関係」というはっきりしたものではなく、「関係性」がひしめいてる。関係「性」そのものを、最果は「海み」で書いていることになる。
 思想(肉体)というのは、いつでも結論ではなく、私は、その「過程」で動いているものだと思う。「性(交)」がいつも動きとして存在するように、あるいは「性」は動くことで明確になるように、思想(ことば)は「関係」をめぐって、まさぐりあうとき(性交するとき)、そこに具体的な姿をあらわすのだと思った。
 「関係」を「具体的」に書き直したものが「関係性」であり、その「性」には必然的に「肉体」がからんでくる。ことばは、どうしてもそのひと個人の「肉体」を通って動くしかない。「絶対的個人」をくぐりぬけることで、ことば(詩)は、そのひと固有のことばになり、思想になる。「ことばの肉体」が確立される。

 わかったような、わからないようなことをだらだら書いてきたが、(たぶん何もわかっていないが、何かを考えようとしたことだけは確かだが)、「具体的」ということばと「関係性」ということばに出会ったことは、私にとっては、とても大きな収穫だった。
 最果は、いわゆる現代思想のことばを借用してことばを動かしている詩人よりもはるかに「正直」に肉体と向き合い、思想と向き合っていると思う。






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Estoy loco por espana(番外篇95)Joaquin Llorens Santa

2020-12-13 21:00:56 | estoy loco por espana


¿Es un pajaro?
¿Es una ola?
¿Es un barco?
¿Es esperanza?
¿Es libertad?
¿Es paz?
¿Es el viento?
¿Es luz?
¿Es música?
¿Qué hay al otro lado de los tres?
¿Es oración?
¿Es alegria?
¿Es bendición?
Hay infinito al otro lado de los tres..
¿Se extenderá?
¿Es altura?
¿Se superpondrá?
¿Es ala?
Es papel?
¿Es una hoja?

鳥だろうか。
波だろうか。
船だろうか。
希望だろうか。
自由だろうか。
平和だろうか。
風だろうか。
光だろうか。
音楽だろうか。
「対」を超えて三つになる。
祈りだろうか。
歓喜だろうか。
祝福だろうか。
「三つ」を超えて無限がはじまる。
高さだろうか。
重なりだろうか。
翼だろうか。
紙だろうか
葉だろうか。
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最果タヒ『夜景座生まれ』(2)

2020-12-13 11:01:52 | 考える日記

(新潮社、2020年11月25日発行)

 最果タヒ『夜景座生まれ』の31ページから61ページまで読んだ。61ページは空白なので60ページといった方が正しいのかもしれないけれど。書いてみたいことがふたつある。
 まず「5月」という作品。

ハサミで切断された髪の束は一瞬だけ、花束だった、
床に落ちる数秒前まで、花束だった、ぼくはそれを
見ていた気がする、いちごの匂いがした気がして、
でもどこからなのか結局わからなかったあの日から、
ぼくの少年期は終わり、あなたが新たに病院で生ま
れていた、ぼくは記憶の中にある、背の高い石垣に
もう戻ることができない、腰掛けることすら容易な
その場所を、見上げていたぼくの手にはアイスクリ
ームが少しついていて、甘い匂いがしていた、

 ことばは、まだつづく。そのことばは、読点だけでつづいている。句点は詩の終わりに一回だけ出てくる。引用はここまでにしておく。
 詩を読みながら、私は「ぼくは記憶の中にある」ということばに、私は思わず傍線を引いた。きのう書いた「具体的」ということばのように、そのことばだけが詩全体の中から飛び出してきているように感じたのだ。
 「ぼくは記憶の中にある」は前後を読点で挟まれている。そのことばは前のことばにつづいていると読むこともできるし、後のことばにつづいていると読むこともできる。さらには、それ自体で独立しているように見える。
 この意識的時間の流れの、行きつ戻りつを含んだ動きは書き出しの「髪の束=花束」にも、すでに書かれている。切断される前に花束だったのか。切断されて床に落ちたとき、一瞬花束に変わったのか。どう読むか悩んでいると「床に落ちる数秒前まで」ということばが追加され、切断されて、床に落ちるまで、空間に浮かんでいる一瞬のことを書いているのだとわかる。しかし、「ぼくはそれを見ていた気がする」ということばがそれを呑み込んでいくとき、いったい「髪の束=花束」という「一瞬」はいつのことかよくわからなくなる。わかるのは、それが「気がする」ということだけだ。そこにあるのは「気」だけである。「気持ち」か「気分」かわからないが、「もの」ではなく「もの(具体物)」をつかまえようとする「意識」だけがある。だいたい「髪の束」は「もの(実在)」だが「花束」は比喩であり、実物(もの)ではないから、そもそも存在しているのは、「髪の束」を「花束」と呼ぶ意識だけなのである。ことばの運動だけなのである。
 それを「気」と呼ぶ。「気」は、しかし、「いま」しか存在しない。不安定な、つねに動いてしまうものである。これを最果は「記憶」に変えていこうとしている。「気がする」「気がして」は、こう言い換えることができる。
 
ぼく(に)はそれを見ていた「記憶がある」、いちごの匂いがした「記憶がある」

 「記憶」は「記録」に通じる。いまり「記す」ということが含まれる。「気持ち/気分」は「記録」される(ことばにされる)ことで、「記憶」にかわる。そして、「記憶」になった瞬間、それは「記憶」自体として存在し始める。
 これが、いま書いたことが、私の意識の中で突然暴走するのである。

ぼくは記憶の中にある

は、前の文章にも後の文章にもつながらず、独立して存在し、それだけで「意味」をもつ。「ぼくは」「記憶の中に」「ある」という三つの要素にわかれたあと、「記憶の中にぼくはある」と「ぼく」と「記憶」が入れ替わってしまう。「ぼく」は「いま」「ここ」に存在しない。「ぼく」は「記憶」というもの(ことば)のなかにある、と主張しているように見えてくるのである。
 「髪の束」が「花束」に見えた、気がした。その「記憶」なのかなにあるのが「ぼく」なのだ。「髪の束」と「花束」と「ぼく」が「記憶」のなかでは同等の存在である。もしかすると「髪の束」「花束」が「ぼく」を見ていたのかもしないのだ。「髪の束」が切断されながら、自分自身を「花束」だと認識し、その「認識」を書きとめてくれる「ぼく」を出現させていたのかもしれない。あるいは「花束」そのものが「切断される髪の束」と「ぼく」を呼び寄せていたのかもしれない。それは、「ことば」が「髪の束」「花束」「ぼく」を呼び寄せたということであって、「もの」が「ことば」や「意識」を呼び寄せたのではない。
 「ことば」が世界を出現させる。

ぼくは記憶の中にある

 これは「ぼくはことばの中にある」であり、「ことばの中にぼくはある」でもある。「ことば」のなかに最果は「ぼく(わたし)」を探している。「ぼく」は「仮称」である。まだ存在しない「自己」というものだろう。
 若い読者がどういう感覚で最果の詩を(ことばを)読んでいるのかわからないが、きっと、「ことば」のなかに「自己」を探すとき、その「ことば」となってあらわれてくる「いま/ここ」にいない「自己」、どこか「記憶」として感じている「自己」を重ね合わせているのかもしれない。どこかに置き去りにしてきた「自己」と言い直せばいいのか。
 私自身は最果の「ことば」のそのものに私を重ね合わせ、自己の輪郭を確かめるということはしないが、最果の「ことばの運動(ことばの肉体)」そのものに、あ、そうなのか、と立ち止まるのである。

 「マッチの詩」には、強烈なことばがある。

ぼくが、あなたを好きだったことなど一度もなかった、
火のような、あなたへの感情はいつまでも黒い火薬のままで、
瞳の中に詰め込まれ、ずっと燃えることがない。

 「火のような」のに、「火」ではない。「燃えることがない」のだから。しかし、それは「火薬」であり、いつ爆発してもおかしくはない。むしろ、それは「火」よりも危険な存在である。燃えている火は消すことができる。やがて消えもする。しかし、「火薬」はどれくらいの爆発を起こすかわからない。少量の火薬なら、わざわざ火薬とは意識しないし「詰め込まれている」とも意識しない。
 矛盾だけが表現できる「いま/ここにない」もの、しかし、それを「知っている/覚えている」ことをことばは「いま/ここ」に出現させることができる。
 このとき「知っている/覚えている」は「記憶」をもっと「肉体」に引きつけたものである。「ことば」というよりも「肉体」そのものである。「記憶」は「ことば」によって「記す」ことができる。しかし、「知っていること/覚えていること」は「ことば」を必要としない。自転車に乗れるひと、泳げるひとは、長い間自転車に乗っていなくても、泳いでいなくても、「いま/ここ」で自転車に乗り、泳ぐことができる。「肉体」は、「過去の体験」を「覚えている」「忘れない」。そんなふうに「肉体」になってしまった何か、「肉体」にしみこんで「ことば」になることを放棄している何かをひっぱりだし、「矛盾」のようなものとして出現させる。
 こういう部分は、私のように、最果の世代から遠い人間にも、とても魅力的だ。「記憶の中のぼく」を一緒に生きている感じがする。これを私は「共感」と呼ぶ。






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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(107)

2020-12-12 15:51:07 | 『嵯峨信之全詩集』を読む


どこからでも手が出る
足ものばすことができる
だが心がでないのはなぜか

 この「心がでない」は「出ない」だろうか。
 「円の中心」ということばがある。それは「ことば」として存在するが、ふつうは見えない。必要に応じて「点」が記される。この「中心」ということばから「心」を取り出し、手、足と対比させたところがとてもおもしろい。たしかに「円」から「(中)心」は出ることができない。中にあるからこそ「(中)心」なのだ。

 こういう「肉体」をつかった表現が、嵯峨には、ほかにあっただろうか。
 私は思い出せない。
 このあと詩のことばは抽象化していく。書き出しの三行も抽象といえば抽象なのだが、手、足という具体的な肉体と「心」が交錯するので、不思議なおもしろさがある。「頭」だけではなく「肉体」を刺戟してくる抽象だと感じる。



*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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最果タヒ『夜景座生まれ』

2020-12-12 10:50:08 | 詩集


最果タヒ『夜景座生まれ』(新潮社、2020年11月25日発行)

 最果タヒ『夜景座生まれ』の「36°C」という詩に、あっ、と叫んでしまった。とても珍しいことばがあったからだ。私はまだ31ページまでしか読んでいないから、そのあとの詩のなかに出てくるかもしれない。確証はないのだが、私の記憶のなかでは、いままで最果がつかってこなかったことばだ。そして、それは最果の詩を読むときの「キーワード」になることばであるとも思った。
 
ぼくの恋人は(ぼくに恋人はいないが)(水色や白色の
混ざった景色を見ていると、それでもいるような予感が
して、というより、ぼくの恋人は、と語り始めることが
許されているように感じる、そこに具体的な人間がいな
くても、想像の中にある一言や、一つの動きだけであっ
たとしても、それだけで語り出すことが許されているよ
うに感じる、愛するとは、なんなのかについて、虫も葉
も水も興味がないのに、こんなにも主題となって、人間
の呼吸、人間の木漏れ日、人間の波に変わっていき、ぼ
くはぼくが恋人を得るまで、人間というものを自然の景
色のひとつとして捉えられない気がしている)

 私が驚いたのは四行目に出てくる「具体的」ということばである。最果は、これまで「具体的」なことを何か書いてきただろうか。すべては「抽象」ではなかったか。最果にとっては「抽象」こそが「具体」ではなかったのか。
 なぜ、ここで「具体的」ということばが出てきたのか。
 書くしかなかったからである。「抽象こそが具体である」という考え方、そう考えることばの運動が最果の「肉体」になってしまっているからである。そのことを説明するのに、しかたなく(?)「具体的」とういうことばが顔をだしたのである。
 私は何年か前、谷川俊太郎の『女に』を読んだとき、同じことを感じた。「少しずつ」ということばが詩集の中に一回だけ出てくるのだが、それは一回しか出てこないからこそキーワードなのである。いつも、どこにでも「少しずつ」は隠れて動いている。ことば全体を動かしている。けれども、それはもう「ことば」ではなく「肉体」になっている。たとえていえば、自転車に乗るとか、泳ぐとかというときの「肉体」の動きである。長い間自転車に乗っていなくても、泳いでいないくても、ひとはいつでも自転車に乗れるし、泳げる。「肉体」が覚えてしまっていて、からだをどう動かすかなど意識しない。無意識に動かしてしまう。その無意識を支えるのが『女に』の場合は「少しずつ」だった。
 同じことが最果の詩についても言える。「具体的」はいつでも最果のことばを動かしているのである。それも「無意識」の力で。

 言い直そう。

ぼくの恋人は(ぼくに恋人はいないが)

 と最果は書き始める。「恋人」は「現実」には存在しない。いわば、それは「概念」である。概念とは抽象化された思考の運動である。ある方向に向かって意識をひっぱっていくものである。そこには、「具体的」なもの何もない。もしあるとすれば、「考える」ときに動かす「ことば」だけが「具体」なのである。
 「恋人」がいなくても「ぼくの恋人は」と考え始めることができる。このとき「考え」をひっぱっていくものを最果は「予感」と読んでいる。「予感が現実に変わる」を、「ことばが現実にかわる」と言い直せば、あるいは「ことばが現実になる(現実をかえる)」と言い直せば、それはいわゆる「言霊(ことだま)」になってしまうが、最果のことばを支えているのは、いまはまだ存在しない「予感」というものだけが最果にとって「現実」であるという意識だ。
 最果のつかっている「具体」は、「現実」には存在しない「具体」である。だからこそ、それは「具体的」と「的」ということばと一緒に存在している。
 谷川の「少しずつ」がいつでもどこでも補えることばであった(だからこそ、それは多くの場所では無意識的に省略されてしまった)と同じように、最果の「具体的」もまた多くの場所に補うことができる。
 たとえば、

ぼくの恋人は、といっても「具体的に」言うと(言い直すと)ぼくに恋人はいないが

というより、ぼくの恋人は、と「具体的に」語り始めることが許されているように感じる
想像の中にある「具体的な」一言や、「具体的な」一つの動きだけであったとしても、それだけで「具体的に」語りだすことが許されているように感じる

 「想像の中にある具体的なもの」とは、実際には「想像の中にある想像したもの」なのだから、「想像の中にある具体的なもの」というのは矛盾であり、論理(ことばの運動)を否定してしまうものだから、意識は無意識的にそれを遠ざける。つまり「省略」することで論理(ことば)を動かす。これは、ことばの運動にとっての「必然(絶対)」なのであるが、それを最果は無意識的に意識している。

 ここから最果の詩がなぜ若い人に人気があるかを考えていくことができると思う。
 たとえば「恋人」というのは「超個人的」なものである。自分の「肉体」を超える「絶対的な他者」、抽象化できない存在(具体でしかありえない存在)なのだが、そういう「絶対的存在」さえも「抽象」として把握することが、たぶん、現代の若者の「感覚」に合致しているのだろう。
 なぜ「超個人」を抽象化するか。「超個人」に触れることは、結局自分が自分でなくなる可能性(危険性)を生きることだが、つまり自分自身が「超自分」になることなのだが、この「超自分」を引き受ける覚悟が、たぶん若い世代にはないのだ。
 これは自分を傷つけることを恐れる、と言い直すことができるだろう。生きるというのは、はてしなく傷つきながら、その傷をなおすことで生まれ変わり続けることなのだが、こういうことを「具体的」に体験したくない、できるかぎり「抽象」にしておいて、自分の「肉体(思想)」を守る、という意識が若い人には強いのだと思う。

愛することで解決するんだろうか
誰かを愛することで解決するんだろうか、だとしたら今
のぼくの頭の中の方が、ずっと幻で、ぼくのいやしない
恋人よりもずっと幻で、ぼくは、人を失いたい自然界の、
見る夢みたいじゃないか。

 「愛することで解決する」と私は言ってしまいたいけれど、それは若い人には通じないだろう。愛するということは「超自分」になることだから、その瞬間にすべては解決しているのだが、それは同時に「解き得ない問題」のはじまりという解決だから、まあ、納得してもらえるはずがない。
 で、そういうことは考えずに、また「具体(的)」を最果のことばのなかに補ってみる。「具体」はこの二連目では「解決」ということばに、「抽象(このことばは書かれていないが)」は「幻」ということばになっているが、言い換えずに補うと、こうなる。

誰かを愛することで「具体的に」解決するんだろうか、
だとしたら「いない恋人の方が具体的であり」
今のぼくの頭の中の方が、ずっと幻(抽象=非現実的=非具体)で、
ぼくのいやしない恋人よりもずっと幻(抽象=非現実的=非具体)で、
ぼくは、「具体的な」人を失いたい自然界の、見る夢(幻=抽象=非現実的=非具体)みたいじゃないか。

 こう補ってみるとわかるのだが、どんな「幻、抽象、非現実、非具体」も、「具体的」なことばでしかあらわすことができない。ここにとんでもない「矛盾」があるのだが、その矛盾をどういう視点から捉えなおすか。
 最果は、これまで「具体的」ということばを省略するという形で乗り越えてきた。「具体的」なことばを実際につかっても、それを「具体(的)」と呼ばないかぎり、ことば(抽象、幻、夢)と弁明できた。つまり、これは「詩」であって、現実ではない、あるいは「具体的な私」ではないと言い張ることができた。
 この詩では「ぼく」という一人称がつかわれているが、それはあくまで「ぼく」であって最果自身ではない。「ことばとしての最果」の仮称に過ぎない。そう言い張ることができた。
 いまの若い人たちは、この「ことばとしての私」という仮称のなかで生き延びようとしているように、私には見える。いつも、全員が、というわけではないが、そう感じられることがある。そういう若い人にとって、最果のことばは、確かにひとつの「夢の輝き」を発しているように感じられる。

「具体的な」ぼくは
ぼくが「具体的な」恋人を得るまで、
「具体的な」人間というものを自然の景色のひとつとして捉えられない気がしている

「具体的な」ぼくは
ぼくが「具体的な」恋人を得るまで、
「具体的なぼく」というものを自然の景色のひとつとして捉えられない気がしている

 「人間」という「他者」をではなく、「ぼく」という存在そのものを「具体的」に捉えることができない、「自然の景色(世界)」の「ひとつ(具体的存在)」として捉えることができない、という気がしている、と私は「誤読」するのだ。
 この「ぼく」の稀薄さ(具体性の欠如、抽象化された概念)は、繰り返しになってしまうが「愛することで解決する」と私は思っているけれど、こういう考えは、もう古いかもしれない。
 私の「誤読」が、最果と最果の読者に届くとは思えないが、届かないと思っていても、私は書くのである。書くことで、私は「きのうのことばの私」を超える。こういうことは、他人にとっては何の意味もないことだが、なぜ私が書いているかというと、そういうことなのである。







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考えない菅(その2)

2020-12-11 17:32:16 | 自民党憲法改正草案を読む
菅首相は11日、インターネット番組に出演し、観光支援策「Go To トラベル」事業の一時停止について「考えていない」と述べた。
↑↑↑↑
「考えていない」というよりも、菅の場合は「考える」ということができないのではないか。
何も「考えない」。
ただ「思いつく」。そして、ただそれを実行する。
問題は。
コロナウィルスは官僚ではない、人間ではないから、菅にかわって「考える」ということをしてくれない。
左遷がこわくて、菅のつごうにあわせて「論理(ことば)」を考えるのは官僚だけ。
コロナウィルスはただひとにくっついて生き延びる。
お盆の帰省をあきらめたひとは、せめて正月くらいは帰省ができるだろうと思っていたのではないだろうか。
年末年始の医療機関の「休日」はお盆期間よりも長い。
感染拡大がつづくと、その受け入れ機関はどうなるのだろうか。
この問題を「考える」のは、いったい誰なのか。
「考える」ことをすべて国民に「まる投げ」している。
あまりに無責任だ。
読売新聞も読売新聞。
「考えていない」ということばを聞き出すだけではなく、「では、何を考えているのか」と質問して、菅の「考えている」ことを書かないといけない。
「考えていない」はひとことでおしまい。
「考えている」ことを語るには、多くのことばがいる。
「ことば」をつたえるのがジャーナリズムの仕事であるはずだ。
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「考えない」菅(その1)

2020-12-11 17:31:35 | 自民党憲法改正草案を読む
菅の「ことば」の特徴は、いつも「結論(答え)」だけがあり、「経過」がないということ。つまり「論理」がない。
官房長官のときは、すでに他人(安倍)が「答え」を出していた。記者会見ではその「答え」に対して質問が出るだけだから「問題ありません(安倍の結論が正解です)」でつっぱねることができた。
しかし、今度は自分で「答え」を出さないといけない。「答え」を出すためには、問題をどう解釈し、そこからどう論理を組み立てていくかということが求められる。その論理を組み立てた経験がない。
この論理を組み立てた経験がないということは、別のいい方をすれば、論理を組み立てることができないであるだけではなく、論理を組み立てることが嫌い(論理を前面に出してくるひとは嫌い)につながる。
これは、学術会議問題にあてはめると、そのまま菅の「生き方」として理解できる。
菅は、「論理を組み立て、その論理のあり方」を問題にする「学術会議(学者の方法)」が大嫌いなのだ。
「経過」を説明し、その「経過」の正しさで他人を説得するということが大嫌いなのだ。
そういう訓練をしていないのだ。
「goto」も経済を動かすという「結論」だけしかない。どういういときに「goto」をすれば経済が動くか、国民の健康と両立できるかという「論理的根拠」がない。
「事実」を分析し、それを抽象化し、理論にしていく。そのあと「答え」を仮説として提示する。さらに、その「仮説(答え)」が正しかったかどうか、「実証」の「結果」と照らし合わせて、ほんとうに「答え(結論)」が正しいかどうか見直すという方法が確立されていない。
「答え(結論)」のために、それ以前の「論理」を作り替えてしまうという安倍の手法が、「論理」を作り替えることのデイない「現実(コロナ感染)」の前で破綻したとき、どうしていいかわからなくなっている。
コロナウィルスは「官僚」ではないから、「論理(感染経路や感染拡大の数字)」、「結論(gotoが正しい)」にあわせて説明してくれない。
コロナウィルスは「官僚」ではない(方針に反対なら「異動させる」)という具合に行かないのだ。
官僚が「しりぬぐい」をしてくれない問題に直面したとき、菅には何もできないのである。
安倍にしてもおなじである。
そういうい意味では、菅は安倍を「継承」している。
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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(106)

2020-12-11 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (たしかにぼくは過ぎ去つていつた)

ふりかえると
それぞれがあまりに遠い

 「それぞれ」と複数なのが興味深い。
 「ぼく」と「ひとり」であって「ひとり」ではない。それぞれのときと場所によって、そのときと場所の「ぼく」というものが存在する。
 そして、それが複数であるからこそ「たしかに」ということばも必要なのだ。
 「たしかに」は漢字で書き直せば「確かに」。「確認」なのである。
 そして、その「確認」は「過ぎ去る」という動詞に焦点を当てているのではなく、そこには一行目には書かれていない「それぞれ」に焦点が当たっている。そのとき、その場所で、それぞれの「ぼく」があらわれ、過ぎ去る。それは「消えていく」。いなくなる。
 あいまいな認識が、ことばを書くことで「たしかな」ものとなってあらわれてくる。


*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(105)

2020-12-10 11:14:53 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (夕空の鳥たちのように)

ぼくは想いのなかに消える しかし行くことははたさず
ぼくによみがえることがなければ
ぼくは待つしかない

 「行くことははたさず」ということばがおもしろい。
 「ぼく」はいったいどこへ行こうとしていたのか。そのことがわからないから「はたさず」の前で、私は立ち止まるのだ。
 「消える」という動詞は、そのとき、どう動いているか。
 私は「消えつづける」と読む。
 なぜ「消えつづける」ことができるか。「ぼく」は消しても消してもけっして消し去ることができないものだからである。「消す」という動詞が、その瞬間にあらわれつづけるという矛盾が、そこにある。

 このとき「ぼく」は何を待つのか。
 嵯峨は「答え」を書いているが、私はその答えを「消して」、私の答えを探し続ける。それが「読む」ということだ。




*

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メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

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「詩はどこにあるか」11月号を発売中です。
142ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=1680710854

(バックナンバーは、谷内までお問い合わせください。yachisyuso@gmail.com)
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