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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(101)

2020-09-28 10:09:35 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (火はそこで語る)

水のながれの空しさを 時に手足をもがれてながれゆくみなし児を

 水にはたしかに「手足」はない。だから「水」を「手足をもがれてながれゆくみなし児」と言い換えているのだが、なぜ「みなし児」なのか。なぜ、おとなではなく、こどもなのか。
 そう考えるとき、「時に」の「時」の意味がわかれていく。
 ひとつは「ある時」、もうひとつは「時間」というものそのもの。
 ここでは「時間」そのものを「時」と読んでいる。「時(間)」が流れることによって「みなし児」の「手足」をもいでしまうのだ。
 「時間」がながれなければ、「みなし児」の「手足がもがれる」という悲惨なことは起きない。
 一回だけ「脇役」のように登場する「時」こそが、この詩の主役であり、「むなしさ」はすべて「時」に起因する。
 それを、また別の主体(火)が語る。これは、すべて主役を隠すためである。



*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
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私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)


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