* (火はそこで語る)
水にはたしかに「手足」はない。だから「水」を「手足をもがれてながれゆくみなし児」と言い換えているのだが、なぜ「みなし児」なのか。なぜ、おとなではなく、こどもなのか。
そう考えるとき、「時に」の「時」の意味がわかれていく。
ひとつは「ある時」、もうひとつは「時間」というものそのもの。
ここでは「時間」そのものを「時」と読んでいる。「時(間)」が流れることによって「みなし児」の「手足」をもいでしまうのだ。
「時間」がながれなければ、「みなし児」の「手足がもがれる」という悲惨なことは起きない。
一回だけ「脇役」のように登場する「時」こそが、この詩の主役であり、「むなしさ」はすべて「時」に起因する。
それを、また別の主体(火)が語る。これは、すべて主役を隠すためである。
*
詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
水のながれの空しさを 時に手足をもがれてながれゆくみなし児を
水にはたしかに「手足」はない。だから「水」を「手足をもがれてながれゆくみなし児」と言い換えているのだが、なぜ「みなし児」なのか。なぜ、おとなではなく、こどもなのか。
そう考えるとき、「時に」の「時」の意味がわかれていく。
ひとつは「ある時」、もうひとつは「時間」というものそのもの。
ここでは「時間」そのものを「時」と読んでいる。「時(間)」が流れることによって「みなし児」の「手足」をもいでしまうのだ。
「時間」がながれなければ、「みなし児」の「手足がもがれる」という悲惨なことは起きない。
一回だけ「脇役」のように登場する「時」こそが、この詩の主役であり、「むなしさ」はすべて「時」に起因する。
それを、また別の主体(火)が語る。これは、すべて主役を隠すためである。
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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
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私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)