goo blog サービス終了のお知らせ 

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

なぜ、いまごろ?

2020-05-09 09:56:40 | 自民党憲法改正草案を読む
なぜ、いまごろ?
       自民党憲法改正草案を読む/番外350(情報の読み方)

 2020年05月09日の読売新聞(西部版・14版)の1面の見出し。

コロナ受診新目安/「息苦しさ」すぐ相談/「37・5度」削除

 この記事を読んでいちばん疑問に思うのは、「なぜ、いまごろ」かということ。
 「緊急事態宣言」はたしかに延長された。しかし14日にも、一部を見直すと報道されている。さらに24面には、

国内感染89人

 とあり、記事には

都内では39人の感染が確認され、6日連続で1日あたりの感染者が100人を下回ったとある。

 さらに、

都内陽性率7・5% PCR検査

 という見出しで、こう書いてある。

今月7日までの7日間の平均は7・5%だった。4月中旬に31・6%でピークに達して以降は下落傾向が続いている。

 ふつうに読むと、コロナ感染者は減っている。そういう状況のなかで、なぜ、わざわざ「受診しやすいように」するのか。感染者が減っているということは、受診希望者も減っているはずだ。
 親切に(?)考えれば、感染者は減っているが、完全に終息したわけではない。感染者を治療し、感染の拡大を防ぐことが大切だ。だから、疑問に思ったらすぐに受診しようという「呼びかけ」に読める。
 しかし、私は、これまでの動き、「医療崩壊の危機」を叫んでいた「医療現場」のひとのことを考えると、そうは思えない。「医療崩壊の危機」を叫んでいた人の主張は、「感染者かどうかわからない人が押し寄せると、ほかの治療ができなくなる。受診者に感染者がいる場合、態勢が整っていないと院内感染の恐れがある」というものだったと記憶している。
 でも、これからは?
 感染者は減りつつある。だから「医療崩壊の危機」はない。だから「受診して」。
 うがった見方をすれば、これは、「院内感染をおそれて(病院へ行くと感染するのではないかと恐れて)患者が減っている。金もうけにならない。困った。もっと、受診に来て」といっているように見える。
 「医療崩壊の危機」を叫んでいた医者は、単に金もうけがしたいだけなのだ。
 全国で、保健所や病院が統廃合されているのも、医者の数を減らすこと、逆に言うと医者一人当たりの患者を維持することで、収入を維持する、あるいはアップさせることが目的だろう。国民の健康と安全のためなら、医師ひとりあたりの患者数は少ない方が、はるかにていねいな検診・治療ができるだろう。患者から言わせると、そうなる。しかし、そうなると、医師の側から見れば、収入が減る、それは困る、ということなのだろう。医師の過剰は困る、と。そういう「医師会」の要請を受けて、病院の統廃合、保健所の統廃合は進んでいるのだろう。自民とにとって「医師会」は支持母体である。だから、その言い分を聞く。
 簡単に言い直すと、患者と医師の関係(人数のバランス)を保ち続けたい。そういう「意図」を私は感じてしまうのである。
 これは、これまでの「医療崩壊の危機」を叫んでいた医師の行動を見てもわかる。感染症の危険を指摘し、中国のように病院をつくれ、韓国のように安全な検査体制を確立し、より多くの検査を実施できるシステムをつくれ、と要求した医師の存在を知らない。(いたのかもしれないが。報道されないだけかもしれないが。)「医療崩壊の危機」を叫ぶ医師は、「感染しても8割は軽症。家にいればいい」と言っていた。感染したら、ヨーロッパの例では1割以上が死んでいる。そういう現実を見ながら、「8割は軽症」の方に重きをおいている。

 だいたい最初に「受診の目安(37・5度が4日つづく)」を出したのは2月である。いまはもう5月だ。3か月間、多くの国民が「目安」はおかしいと訴え続けているのに知らん顔をしている。それが、「感染が減り始めた」(このことには私は疑問をもっているが)いま、「目安」を緩和する。この動き自体が、変だろう。
 変えるなら変えるで、さいしょの「目安」が間違っていたと謝罪して変更しないといけない。加藤厚労相は国民と保健所が「誤解」した、「ぼくちゃんは悪くない」と言い放っている。国民と保健所に責任を押しつけている。
 感染が原因で死んでいる人が大勢いるのに、である。
 終息したら、絶対に「国家賠償請求訴訟」が起きるだろう。起こさないといけない。適切な対応をとらなかった安倍政権の責任をとわないといけない。中国、韓国の、成功例があるのに、それをみならわなかった。感染拡大を放置し、国民を死に至らしめたという「未必の故意」が問われなければならない。








#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

「天皇の悲鳴」(1000円、送料別)はオンデマンド出版です。
アマゾンや一般書店では購入できません。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

ページ右側の「製本のご注文はこちら」のボタンを押して、申し込んでください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵩文彦「へんしん」

2020-05-08 19:10:27 | 詩(雑誌・同人誌)
嵩文彦「へんしん」(「弦」77、2020年05月01日発行)

 詩は「ことば」でできている。そして、「ことば」というのは、それがとらえる「領域」はあいまいである。
 嵩文彦「へんしん」は、こう始まる。

蝶が一頭韃靼海峡の渡りについたのは
一九二六年のことでした
それはとても容易いことのようでした

 安西冬衛の詩が踏まえられている。「現実」ではなく「ことば」から出発している作品だ。でも、安西冬衛は「一頭」というふるめかしい蝶の数え方をしていたっけ? 私は「一匹」と記憶しているが、私の記憶はあてにならない。自分の都合にあわせて、記憶を、ではなく、事実をそのものを変えてしまうということがしゅっちゅうある。
 だから、私のことは(記憶のことは)さておいて。
 嵩は、あ、安西冬衛の書いたことを虚構ではなく「事実」としてとらえようとしている、というよりも、「ことば」のなかから「事実」を「一九二六年」に絞って書こうとしていることがわかる。この「絞る」は、しかし、「ずらす」でもある。安西冬衛は、ほんとうに蝶が韃靼海峡を渡っていったのを見たわけてはなく、「ことば」としてそう書いただけだ。
 ここに「ことば」の可能性がある。
 「事実」ではなくても、「ことば」は「ことば」にすることができる。それはいったい何なのか。そして、それが「容易」なのは、なぜなのか。その「うそ」(?)を書いてしまう「ことば」のなかには、いったい何があるのか。
 まあ、答えのことは、私は考えない。詩のつづきを読んでいく。そのうち「答え」が出てくるかもしれない。

蝶がヨットになることはできます
羽根だけが蟻にひかれて
固土にかげをゆらゆらさせてゆきました

 この「ヨット」は「韃靼海峡」のように「事実」ではない。「比喩」だ。
 と、書いた瞬間に、私はアレッと思う。「韃靼海峡」が比喩ではないとどうして言える? それが実在するにしろ、そこを実際に蝶が渡っていったのではなく、安西が感じている何かを「韃靼海峡」という比喩にしただけかもしれない。「蝶」だって比喩かもしれない。
 そんなことを考え始めたら、私はもともと安西の詩を「現実」ではなく、ある瞬間の心象風景、それ全体が「比喩」であると感じていたことに気がつく。
 安西の詩には「現実」などない。もし「現実」があるとしたら、嵩が書いているように、それを書いたとき「一九二六年」だったということだけかもしれない。
 蟻にひかれて「ヨット」になる蝶。そのとき蝶は死んでいるのだが、つまり、蝶が「ヨット」に「なる」のではなく、人間の視線(比喩を生み出す意識)が蝶を「ヨット」にしてしまうのだが、嵩は「なる」と書いたので、その「なる」を引き継いで、こう考えるのだ。

胴体のある蝶が生きたまま
生きたままヨットにならなくては
壮大なロマンではないのです、ね

 書いていることが「微妙」だね。
 どこに焦点をあてれば、「ことば」の運動が、運動として「一貫したもの」になるのか。
 「なる」というのは「生きている」ものができること。でも、蝶が「ヨット」に「なる」とき、それは生きていないし、たぶん、胴体もない。蝶が生きたまま「ヨット」に「なる」なら、それは「壮大なロマン」か。いや、死んだあと「ヨット」に生まれ変わるというのも、それは「壮大なロマン」ではないか。
 でも、だれにとって?
 どうも、「ことば」は蝶のためにあるものではないらしい。人間が勝手に「壮大なロマン」をつくるために動かしているだけのものかもしれない。
 じゃあ、その「壮大なロマン」って何なのか。
 嵩の「ことば」は転調する。「壮大なロマン」を「夢」と言い換えて(ずらして)、転調する。あ、転調は、「ずれ」のことか。で、ことばは「ずらされる」のだが「ずらされ」てもつづいてしまう。

ある朝夢から覚めてみると
ヒトが巨大な虫になっておりました
それはできたのです
やったヒトがいます

 カフカの「変身」だね。
 それは「なる」ことが「できた」のか。「やった」ことなのか。カフカはそれを書いたが、主人公が「なった」わけでも「やった」わけでもないだろうなあ。
 でも、なぜ、そんなことを書いたのか。
 蝶々が韃靼海峡を渡ったことと同じように、それはわからない。書いた人間にはそれなりの理由があるだろうけれど、読者には、それはわからない。しかし「わからない」といいながら、「わかった」気持ちになる。面倒くさいことに、それが「わかった」と言えるとき、実は、その「わかった」は「わかった」人だけの「わかった」であり、決して他人と「共有」できない。そして、「共有」できないものであると知っているからこそ、だれもが「わかった」と言う。つまり、その作品(ことば)を自分のものにしてしまう。
 面倒くさいぞ。

蝶がヨットになるのは難儀です
とてもやっかいです
まずはベッドがない
夢から覚めてみるべきベッドがありません

 私が「面倒くさい」と書いたことを、嵩は「難儀」と書き、「やっかい」と書き直している。
 「ことば」とは、「夢」なのだ。でも、その「夢」は覚めてから語る夢なのだ。覚めないと語れない「夢」なのだ。どこかに「矛盾」があり、「矛盾」があることによって、はじめて「真実/事実」になるような運動が「ことば」のなかで動いている。
 人間は「ことは」に「へんしん」する存在なのかもしれない。








*

評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076093


「詩はどこにあるか」2020年1月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168078050
(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)

オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Estoy loco por espana(番外篇54)Joaquinの作品

2020-05-08 16:51:57 | estoy loco por espana


Joaquinの作品。


Donde ves la escultura?
Lo ves en un museo?
Lo ves en unu propia casa?
Lo ves en su taller?
O los ves al aire libre?

El trabajo de este Joaquin sería divertido al aire libre.
Lo mejor esta en un bosque.
Hay varios sonidos en el bosque.
Hojas de arboles y flores que se mecen en el viento.
La voz del pajaro. La voz animal. El sonido del agua lejana del rio.
Incluso la luz del sol brilla intensamente tiene la voz.
Y las sombras tambien. Es una pausa en la musica. Silencio
Una melodia que sigue el ritmo que corre libremente.
La escultura de Joaquin esta tocando una trompeta para que coincida con esos sonidos.
El sonido en ese momento es el sonido de la trompeta,
NOOOO, pero NO es el sonido de la trompeta.
Es el sonido del corazon de Joaquin.

El circulo es un simbolo de perfeccion.
La forma que intenta convertirse en un circulo, es es un simbolo de libre.
La felicidad se extiende.

彫刻をどこで見るか。
展覧会の会場で見るか。
個人の家で見るか。
アトリエで見るか。
屋外で見るか。

このホアキンの作品は、屋外で見ると楽しいだろう。
森の中が、いちばんいいだろう。
森の中にはいろいろな音がある。
風にそよぐ木の葉や草花。
鳥の声。動物の声。遠い川の水の音。
そこでは太陽の光さえ鮮やかな音を響かせている。
そして、影も。それは、音楽の中の休止。沈黙。
自由に走り出すリズムを追いかける旋律。
ホアキンの彫刻は、そういう音にあわせてラッパを吹いている。
そのときの音は、ラッパの音だけれど、ラッパの音ではない。
ホアキンの心の音だ。

円は完璧の象徴。
円になろうとする形は自由の自由がある。
よろこびがひろがる。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

数字は正確か(どの数字を信じるか)

2020-05-08 11:26:15 | 自民党憲法改正草案を読む
数字は正確か
       自民党憲法改正草案を読む/番外349(情報の読み方)

 2020年05月08日の読売新聞(西部版・14版)の28面の見出し。

国内感染100人下回る/3月30日以来 福岡は1人

 この「見出し」の数字は、記事そのものであり、「正確」だ。
 しかし、正確さを考えるとき、それが事実と合致しているかだけではなく、なぜその数字が選ばれたのかを考えないといけない。つまり、「事実」の取り出し方の「正確さ」というものがある。
 100人検査して100人陽性だったというのと、1000人検査して100人陽性だったというのでは、同じ100人でも「正確さ」に不備がある。「感染率」が違うから、100人と言っても「事実の重さ」が違う。
 この記事は、もうひとつ「情報」がある。見出しにはなっていない。(番号は、私がつけた。)

①国内では7日、新たな感染者が計96人確認された。(略)死者は東京都で5人、大阪府3人、兵庫県2人などだった。(合計数は不明)
②6日の国内の感染者は東京都38人、北海道23人、大阪府12人、福岡県1人など全国で105人。死者は東京5人、群馬2人など6都道県で計11人に上った。

 「死亡率」が以前は2%前後、最近は3%くらいで推移し、少しずつ上昇する傾向にある。8日午前0時現在の累計では、感染者1万6287人、死者603人、死亡率3・7%である。死亡率は、私が計算した。つまり新聞には書かれていない。
 で、6日だけの増えた感染者と死者の関係でみると。感染者105人、死者11人だから、死亡率は10・5%である。死者は当然、治療中だった人だろうから、その日の感染者と死者の割合を出してみてもどうしようもないのかもしれないが、死者が増えているなあ、という「実感」にはなる。最近、死者の割合が増えているなあ、ということを実感させてくれる。
 最終的にどうなるのかわからないが、このまま感染者は少なくなるけれど死者が増えていくということがつづけば、死亡率は当然高くなる。イギリス、フランス、スペイン、イタリアのように10%を越すだろう。フランスは20%近くの死亡率である。
 日本の死亡率を2%におさえるという「目標値(?)」はすでに破綻している。私は、公表されている数字が事実を正確に反映しているとは考えていない。操作された数字だと疑っている。その疑っている数字の中にあらわれる「変化」(死亡率の上昇)は、でも、ごまかせない。だから、ここにこそ、「真実」が隠れていると思う。死亡率はきっと10%に、これから近づいていくと思う。「肺炎」で死亡したが、新型コロナ感染者であるかどうかわからない(検査されていない人がいる)という告発がネットなどでは流布している。そういう人をふくめるとすでに10%を超えているかもしれないが、そういう「わからない」部分を除外しても、いまのように「感染者」を絞り込む(検査をさせない)という操作をつづけても、死亡率は徐々に上がると思う。
 どの国の対策がいちばん効果的だったのか(科学的に正しかったのか)という判断は難しいと思うが、ドイツの死亡率の低さ、感染者16万8276人、死亡者7277人、死亡率4%が際立つ。日本の現在の死亡率はそのドイツをさえも下回っているが、とても不思議である。数字の操作がおこなわれているとしか、思えない。その操作の「むり」が、これから徐々に表面化してくると思う。
 私はいつでも書かれていない情報に意味があると思う。「検査数」のように、新聞を読んでいるだけの私にはわからない情報もあれば、そこに書かれている情報を組み合わせることで見出せる隠れた情報(死亡率)のようなものもある。死亡率は「隠されている情報」というより、「隠すことのできない情報」と呼んだ方がいいかもしれない。私は、そういう「どうしても露顕してしまう情報」の方を信じる。






#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

「天皇の悲鳴」(1000円、送料別)はオンデマンド出版です。
アマゾンや一般書店では購入できません。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

ページ右側の「製本のご注文はこちら」のボタンを押して、申し込んでください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

すぐにはできない?

2020-05-08 11:21:53 | 自民党憲法改正草案を読む
共同通信のウェブサイトに、信じられない記事が載っていた。

https://this.kiji.is/630960520993457249?fbclid=IwAR1d0Sd6t-HMxFMuxyS0UedWZ-GSSgyisNANVBK7TgM9qK8eIZGaknDDASc

【ニューヨーク共同】「新型コロナウイルスのデータをファクスで集めていた日本が、ついにデジタルへ」―。米紙ニューヨーク・タイムズ電子版は6日までに、日本政府が医療機関に新型コロナ発生届を手書きしてファクスするよう求めていた仕組みから脱却し、今月中旬からオンラインで行われるようになると伝えた。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

知らなかったなあ。
笑いだしてしまう。
こんなことをするから「統計」をとるのに時間がかかる。
ネットで共有ファイルに送信すれば、即座に「統計」を共有できるだろう。
で、考えられること。
「統計」をまとめているのがどこか私は知らないが、「厚労省」と仮定しておく。
その責任機関の厚労省は、情報(統計)を共有したくなかったのだ。
言い換えると、情報を操作し、目指している「数字」に整えてから、それを公開したかったのだ。
コロナ感染者の、感染者に対する死者の割合は、長い間2%だった。
それが最近3%になっている。(私は、新聞の数字を見て、概算で計算しただけだから正確ではない。)
世界の状況をみながら5%くらいにまで上げていくのだろう。
たとえば東京都が「100人陽性、5人死亡」という報告をしてきたら、そのうちの「2人」をあすの統計にまわす、というような操作をすることで「死亡率3%」を維持できる。
次の日、検査対象者を増やし、陽性者を増やす。その結果「2人」の死亡が追加されても、「死亡率3%」を維持できる。
面倒くさいけれど、これくらいの面倒くささは、「安倍への忖度」で出世できると思えば、いまの官僚ならやってしまうのではないか。
それにしてもなあ。
緊急事態宣言下の感染者、死亡者の推移を見ていると、まだ、来年の五輪開催にこだわっている安倍への忖度が働いているかと疑いたくなる。
死者が何万人になってしまうと、いくらコロナが終息したからといってオリンピック気分にはならないだろう。
少ない数でおさまってこそ、コロナを克服できたということができる。
だからこそなのだけれど。
ここから、こんな具合に考えないといけない。
日本は少ない死者のままコロナ感染を終息できたとしても、何万人と死んでいる国は、たとえその国のコロナが終息したとしても、「さあ、オリンピック」という気持ちになれるだろうか。
あるいは、終息していない国は、どう感じるだろうか。
コロナは、日本だけの問題ではない。世界中の問題なのだ。
「忖度」するとしたら、安倍に対して忖度するのではなく、世界の人々に対して忖度しないといけない。
オリンピックを中止して(返上して)、これからオリンピックにかけるはずだった費用を、コロナ治療のためにつかう。日本だけではなく、世界のためにもつかう。ワクチンや新薬開発のための費用にまわすために、日本はオリンピックを中止する、と言えばいいのに。
私は安倍支持派ではないが、そういうことをすると安倍の信頼は高まると思うよ。
オリンピックを開きたい。オリンピックの会場で「ぼくちゃんが首相、いちばん偉いんだ」と言わなくても、世界中が安倍の決断(オリンピック返上、予算をコロナ対策に投資)を称賛してくれると思うよ。

しかしねえ。
「今月中旬からオンラインで行われるようになる」
というのは、のんびりしているなあ。
ファイルの共有なんて、すぐにできるんじゃないの?
なぜ、そんなに時間がかかる?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(50)

2020-05-06 22:49:58 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (心の奥の方へかけだした)

哀しさが二重になり 誕生祝いの銀のスプーンを落としてしまった
それに灰をかけよう

 心の奥には隠している哀しみがある。隠していたものに出会ってしまった。
 「誕生祝い」は嵯峨の誕生祝いではなく、嵯峨が贈った誕生祝いだろう。
 だから「哀しみ」はほんとうは「よろこび」だったかもしれない。哀しくて、こころの奥に隠してある「よろこび」のところまで行ったら、そこに「よろこび」があったために、いまの哀しみをもう一度確かめることになってしまった。
 詩は、読むたびに表情を変える。







*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山本育夫書下ろし詩集「薬缶(やかん)」十八編

2020-05-06 22:24:24 | 詩(雑誌・同人誌)
山本育夫書下ろし詩集「薬缶(やかん)」十八編(「博物誌」46、2020年04月15日発行)

 新型コロナウィルスは思いもかけないところにも影響を及ぼす。たとえば山本育夫が発行している「博物誌」もしばらく発行されなかった。46号も「04月15日発行」と奥付には書いてあるが、それよりも遅れた。
 私も、実は、こんなことになるとは思わなかったが、突然、書くスピードが鈍った。奇妙な不安が私のまわりに漂っていて、それが気になってしようがない。
 私は子どものときから病弱だった。風邪には年中悩まされる。気管支が弱い。扁桃腺もすぐはれる。だが、不思議なことに、インフルエンザにはかかったことがない。医者から「雑菌が原因だから、他人にはうつらない」と言われる。インフルエンザが流行する前に、風邪を引いて寝込んでいて、インフルエンザにかかる暇がなかったということなのか。予防注射も受けたことがない。風疹にかかったのは24歳のときだし、水疱瘡にかかったのは50歳のときだ。一週間、入院した。どうも「流行」からずれたところで、私の肉体は動いているようなのだ。
 しかし、それゆえなのか、どうかわからないが。
 新型コロナウィルスに感染すると、きっと死んでしまうなという予感、いままでの病気とはまったく違うものが襲ってくるという予感が、目の前に漂っている。

 奇妙なことを書いたが、書かずにはいられないのである。
 で、どうしてこんなことを書いたかというと、実は、山本育夫の新作を読めば、ことばが動いてくれるかなあと、期待していた部分があったのだ。ところが、山本も新型コロナウィルスに圧力を感じているようなのだ。いつものような「勢い」がない。何か、自制、自粛している感じがする。
 
18凶吉

凶吉のほとりで
祈っている人が老いる
あんなにクレバーな人だったのに
占星術にはまり込んでいる

 私は、思いついたら、その瞬間から書き出すので、詩(詩集)を最後まで読んで書き始めることは少ない。今回は、なぜか、最後まで読んでしまった。
 そして、まあ、ここから書くしかないなあ、と思い始めた。
 「凶吉」ということばは、私は知らない。私は「吉凶」ということばになじんでいる。それがひっくり返されている。私が感想を「終わり」から書き始めるのを見越しているのかもしれない。そういうことにして、その「見越されている」ところから出発してみるしかない。
 「凶吉」にもつまずいたが、つぎの「祈っている人が老いる」にもつまずくのだ。「祈っている人がいる」ではなく、そこに一文字、



 が割り込んでいる。これが、まるで「凶」そのもののように、私を立ち止まらせる。私は「祈る」ということはしないが、祈らなくても「老いる」。この、なんといえばいいのか「人間の自然」がことばの運動のなかに割り込んでくる感じが、まるで病気が(新型コロナウィルス)が肉体に割り込んでくる感じに似ている。
 意識できない。避けられない。向こうからやってきて、肉体の中に住みついて、内部から肉体を破壊していく。もし、



 の文字が闖入してきていなかったら、その後の二行は単なる「批評」だ。「批評」とは他人を自分から切り離す方法であり、手段だ。自分とは違う人間。そんな人間のことなんか知るもんか、と言ってしまうのが批評。「共感としての批評」があるという人がいるかもしれないが、「共感」というのは自分と相手の区別がなくなることだから、そこには「批評」などない。「溺愛」というのとも違う。もっと激しく、乱暴なものだ。作者が私のものだと主張しているのに、「それは認めない、これは私が書きたかったことであり、私が読んでしまったのだから、もう私のものなのだ」というのが「共感」である。
 で、今回の場合、ややこしいことに。
 私は、山本の詩に割り込んできた



 これに「共感」してしまったのだ。
 「祈っている人がいる」という行だったら、次の二行に「クレバーはクレバスを思い起こさせる。深い裂け目、墜落を誘い込む深淵が、凶吉のほとりということばによってさらに深くなる。占星術が、それに拍車をかける」とかなんとか、テキトウなことばを動かして行ける。でも、そんなテキトウなことばをこの



 の一文字が拒絶する。
 山本は、祈っている人を見たのではなく、「老いる」という動詞そのものを見たのだ。それは「いや」なものかもしれない。しかし、見た以上は、それは「共感」なのだ。山本の「肉体」が、山本を裏切って「老」と一体になっている(セックスしてしまっている)ということだ。私が、ここで「一体」を「セックス」と言い直したのは、セックスというのは「共感」の言い直しになるが、相手の気持ち良さよりも自分の気持ち良さの方に重心が移っていく、自己中心的なものであると言いたいからである。欲望、あるいは本能的なものである、と言いたいからだ。

 だから、というのはかなり強引な結びつけ方だが。

03・・・・・

きのふ
こころというものがゆっくりと冬蜘蛛の

にのっかっていた

 この詩の「こころ」ということばはつまらない。「こころ」というものはだれにでもあって、だれでも「自分のこころ」しか考えない。だから、だれでもこの詩に「自分のこころ」を重ねあわせ、「共感した」と言ってしまえる。この「共感」は私のつかっている「共感」とはまったく別のもので、いわば「好意的批評」の類である。
 「きのう」というもの抽象的で、これもまたそれぞれの「自分のきのう」というものがあるのだが、それを拒絶するように、やまもとは「きのふ」と書いている。「ふ」という旧仮名が「老」のように、私を立ち止まらせる。
 きの「ふ」の「ふ」なんて、見たくない。「老」のように、見たくない。見たくないけれど、見てしまった。
 この詩は、「こころ」を追い出して、゛

きのふというものがゆっくりと冬蜘蛛の

にのっかっていた

 であった方が、私は「共感」しやすい。「誤読」し、好き勝手に、私はこう感じたと言える。「時間」を、という「もの」にして濁らせている。
 透明なものが「詩」なのではなく、不透明で、見えない「もの」、抽象であっても抽象を拒んで、普遍化されず、そこに存在してしまう「もの」。まだ、だれの「もの」でもない。だから、書いた人から、それを奪って「私のもの」と言ってしまえるのが「詩」なのだ。
 余分なことを書いたが、この余分なことを書くことで、私は、書こうかどうしようか迷っていた最初の詩にもどることができる。つまり、何か書けそうな気がしてくる。

01薬缶

ゆびさき、が黒ずんできた
目の縁とか、も
足の指

副作用が、気づかぬうちにからだ、のあちこちに微細な異常、を
ふきだめていく、印のように

 これが「老」というものだろうが、「老」という抽象的なもの(考えを整理するときにつごうのいいもの)にはなかなか変わってくれない。「ふきだめ」のように、整理とは逆の動きになっていく。「ふきだめる」という動詞として山本はつかっているが、これが、私に言わせれば「共感」というものだ。「共感」は「こころ」が感じるものではない。「肉体」がどうしようもなく感じてしまう「本能/欲望」なのだ。だから、セックスというのだ。こんなことを書くと怒る人がいるかもしれないが、「こころ(愛)」がなくても肉体は本能として動くのだ。あとから本能を美しくみせるために「愛(こころ)」ということばで世界を整えるのだ。
 「肉体」が「もの」になる。自分の「肉体」なのに、「もの」として見てしまう。「もの」のなかに、何か、自分の意思ではととのえられないものがあって、それはそれで動いていく。そして、それが「共感」を呼び込んでしまう力なのだ。
 詩は、こうつづく。

涙目になりながらねこがすりよってくるからねこねことぼくはいい
ねこはみゃおみゃおと、副作用をなめる、だめだめそんなことをすると、
うつるよ、といいかけて。
ハッとする。

 「人間の肉体」と「ねこ」は完全に違う。そんなものが「共感」していいはずがない。「共感」なんかするから「コロナウィルス」なんてものが野生の動物から人間に移ってしまうのだ。それは「共感」してはいけないものなのだ。しかし、「人間」の「肉体」はなんにでも「共感」する。そして、そのとき「(病気が)うつるよ」などという「科学で整理したことば」までつかってしまう。「肉体」の「共感」のためなら「理性/科学」さえもつかってしまう凶暴なものが人間にはあるのだ。無軌道なバカなのだ。これを、別な人は「愛」ということばで整理するかもしれないけれど。
 山本のことばはそこではとまらない。言い換えると無軌道なバカから、さらに逸脱していく。

夕暮れにて、のにて、に感動したことがあったじゃないか
ぼくの夕暮れにて、ぼんやりと予感が薬缶からそそぎ出る、

 何の関係があるかわからない(他人の肉体のなかでおきていることだからね、いわば「共感」というのは病気だからね)「にて」ということばへの感動(私がつかっている「共感」のことだ)をへて「薬缶」までことばは暴走する。
 もちろん副作用の原因となっている薬を飲むために湯を沸かす薬罐という具合に「意味」をつくろうとすれば意味はいつでも捏造できる(論理を整理できる)が、大事なのは意味でも論理でも、それを整理することでもない。
 「黒ずんできた肉体」と「ねこ」と「にて(ということば)」と「薬缶」というものをくっつけてしまう凶暴な「共感」がいま、ここで、動いているということなのだ。その「もの」、何のつながりもないはずのものが「詩という病気」に感染して、いままでそこにあった「黒ずみ」でも「ねこ」でも「にて」でも「薬缶」でもないものになってしまっている。
 で、このあと、どうなる?
 誰もが「結論」を求めてしまう。そこからたとえば「抒情病」というものが始まるのだが、コロナウィルスのように感染したら二割が重症化し、一割が死んでしまうというおそろしい事態がはじまるのだが……。

死は日常のものなのに
なんだって特別なものになってしまったんだろうな

 ね。
 重症でしょ?
 私は自分の病気ではないから、つっぱねるしかない。感染したくない。ここには「共感」しないぞ、と決めているのだ。(もちろん「共感的批評」などは書かない。)
 「予感」「薬缶」というような「ことば遊び」をしているから、「死」ということばにつかまってしまうのだ。何がなんでも「薬缶」そのものを「もの」にしてしまわないとおもしろくない。この詩のなかでは、「薬缶」はまだ「山本の薬缶」のままであり、私は「この薬缶がほしい、山本から盗んでやる、盗んだら絶対に返したりはしない」という気持ちになれない。
 「ねこ」は私は苦手だし、嫌いだから盗んでやりたいという気持ちはないが、このねこ隠してしまったら、山本は探し回るだろうなあ、と思うくらいには「共感」している。「黒ずんできた肉体」も、「にて」ということばへのこだわりも「共感」できるが。

 この奇妙な「不全感」のようなものをひきずって、私は詩集の最後まで読んで、最後に何か書けそうという感じをつかんで引き返してきたのだけれど。
 でも、「不全感」は残った。
 やっぱりコロナウィルスが、どこかで影響しているんだろうなあ。山本にも、私にも。「うつるよ、うつっちゃいけない」という意識が、どこかで動いているのだ。「肉体」を自由にしてくれないのだ。




 「18凶吉」と読んだのは私の「見間違い」でした。「吉凶」です。山本さんから指摘がありました。引用するとき、なぜ「凶吉」なのか、疑問に思い、しっかり確かめたつもりなのだけれど。
 正しい作品を引用しなおしておきます。「見間違い/読み間違い」にはそれなりの理由があると思うので、前に書いたものは、そのままにしておきます。

 
18吉凶

吉凶のほとりで
祈っている人が老いる
あんなにクレバーな人だったのに
占星術にはまり込んでいる








*

評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076093


「詩はどこにあるか」2020年1月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168078050
(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)

オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Estoy loco por espana(番外篇53)Joaquinの作品

2020-05-06 17:45:15 | estoy loco por espana


Joaquinの「母の日」によせた作品。
(スペインの「母の日は5月の第一日曜日」

母に抱かれる子ども。
手前の小さな三角形が子どもだろうか。
そうではない。
手前の三角形は母親の腕だ。
中央の三角形が子どもだ。
母親にとって、「小さな子ども」は存在しない。
母親にとって、すべての子どもは自分のいのちと同じもの。
同じ大きさ。
そして、たとえ子どもが成長しても、自分よりは少し小さい。
抱いて守らなければならないいのちなのだ。

母親の強い愛と、それに気づいた子ども(ホアキン)だけがつくることのできる作品。
ホアキンの作品には、鉄のいのちが引き継がれているが、同時に母のいのちと愛も引き継がれている。

La obra de Joaquin para el dia de la Madre.

un nino sostenido por una madre.
el pequeno triangulo es un nino?
No!
el triangulo pequno es el brazo de la madre.
el triangulo en el centro es el nino.
no hay "nino pequeño" para madre.
para madre, cada nino es igual a su vida.
es mismo tamano de su vida.
incluso si el nino crece, es un poco mas pequeno que madre.
para madre, es una vida que debe ser mantenida y protegida.

este trabajo que solo puede hacer por Joaquin quien nota el fuerte amor de la madre.
el trabajo de Joaquin ha heredado la vida de hierro, pero al mismo tiempo, ha heredado la vida y el amor de su madre.
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Estoy loco por espana(番外篇52)Joaquinの作品

2020-05-06 10:48:19 | estoy loco por espana


Joaquinの作品

すでに紹介した作品かもしれない。
しかし見る角度によって、印象が違ってくる。
これが彫刻のいちばんの面白みかもしれない。

私は葛飾北斎の「裏波」を思い出した。
天にとどけといわんばかりに立ち上がる波。
崩れ落ちるのだが、崩れ落ちたら終わりというのではなく、何度も立ち上がる巨大な力を思うのだ。

El trabajo de Joaquín

Puede ser el trabajo ya presentado.
Sin embargo, la impresión cambia segun el angulo de vision.
Este puede ser el aspecto más interesante de la escultura.

Recuerdo el "Uranami" de Katsushika Hokusai.
Las olas subiendo al cielo.
Se derrumba, pero cuando se derrumba, no es el final, pero pienso en una gran fuerza que se eleva muchas veces.


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なりゆきまかせで休業要請終了?

2020-05-06 10:31:23 | 自民党憲法改正草案を読む
なりゆきまかせで休業要請終了?
       自民党憲法改正草案を読む/番外348(情報の読み方)

 2020年05月06日の読売新聞(西部版・14版)の1面の見出し。

「特定警戒」休業要請正続/13都道府県 都は協力金追加

 という見出しの一方で、

山口や長崎 きょうまで/休業要請 17県が終了方針

 という見出し。「緊急事態宣言」は31日まで延長されるのに、17県は「休業要請」をしない。この17県というのは、「特定警戒」自治体以外の34県のちょうど半分だ。この数の多さに驚く。
 なぜ、こんなことが起きるのか。
 休業要請をすれば「補助金(協力金?)」を要求される。それにこたえる財源がない、ということなのだろう。
 しかし、これは県の責任なのか。国が責任をもって休業補償をしないことが問題なのだ。税金の「再配分」で乗り切るしかないのに、国が知らん顔をする。
 病気になって死ぬのも、収入がなくなって死ぬのも、個人の責任。国は税金を徴収し、安倍が満足する政策をすすめればそれでいい、という考えなのだろう。
 国が、責任を持って休業補償をすれば、こんなことは起きないだろう。

 休業要請をしないということは、休業する業種がなくなるということ、簡単に言い直すと、どの店も開くということ。人の動きが活発になる。人と人が触れる。感染の危険が高まる。そして、死んでいく人が増える。(26面には、「子どもの感染急増/10歳未満240人 4月以降判明9割」という不気味な記事が載っている。)
 感染者が増え、死ぬ人も増える。このとき、それは、だれの責任なのか。
 安倍は、休業要請をしなかった知事の責任であり、店を開いた人の責任であり、「不要不急の用事(買い物)」なのに街へ出掛けた人の責任というに違いない。
 「だって、ぼくちゃん、緊急事態宣言の延長をする、と言ったんだもん」
 言って、それから何をしたか。官僚の書いた原稿をプロンプターをつかって読み上げただけだ。しかも、読み違えている。実質的には何もしていない。
 いったい、これから先、どうなっていくのだろうか。



 1面には、また、

大阪 解除へ独自3基準

 という記事が書かれている。それによると、

①感染経路が不明な感染者が10人未満
②検査件数に対する感染者の割合を示す「陽性率」が7%未満
③重症者の病床使用率が60%未満

 の3条件を「7日間連続」で満たせば、段階的に要請を解除するという。
 私はきのう、コロナウィルスの感染状況を把握するためには、①感染者数②感染率③感染経路の特定、この三つが必要だと書いた。大阪の「解除基準」はそれに「病院の状況」を付け加えたものだ。
 大阪の基準の③は、私には医療現場のことがわからないので判断のしようがないが、①は、そんなに数が多くていいのか、と思う。
 感染経路が分かっていれば、感染者が1日100人、極端に言えば1000人という状況でもいいのか。感染者総数の「目標値」がない。さらに「経路不明の感染者」の「割合目標」がない。つまり、感染者が「9人」だと仮定して、その9人とも「経路不明」でも大丈夫なのか。①②を合わせて考えると、130人検査して、9人が陽性だとわかる。陽性率は7%未満。しかし、その9人とも感染経路が不明の時は安全な状態に近づいているといえるのか。
 130人といえば、小さな小学校の児童の数くらいである。(私が通っていた小学校は、山の中にあった。私が小学生だったときの児童総数が最大時で130人もいなかった。)これは、簡単に考えてクラスに1人から2人の感染不明の児童がいるということである。
 具体的に考えると、怖くない?
 もちろん、判明した陽性者のすべてが感染経路がわからないということはほとんとありえない状況だろう。いま書いた小学校を例にとれば、きっと「学校内の集団感染(クラスター)」と定義されて、どこから感染したかわからなくても「感染経路不明」からは除外されるかもしれない。
 でも、どんなクラスターも、「発生源」の「感染経路」をつきとめるのはなかなかむずかしい。クラスターが発生したあと、その「感染経路」の集団が「クラスター」と呼ばれるだけだろう。

 2面には、ニューヨークの「経済再開」に関する7基準が載っている。感染者1人が何人に感染させるかという数字が「1・1」以下の条件をつけた上で、

①入院患者数が14日連続で減少
②死者数が14日連続で減少
③1日の新規入院患者が10万人あたり2人未満

 「陽性率」は条件にしていない。入院患者と総人口の割合を問題にしている。「医療現場」から現実をとらえる、ということだろう。

④地域内での空き病床30%以上
⑤集中治療室のベッドの空き30%以上

 という具合につづく。
 医療現場から遠い私には、これらの「基準」をどうとらえていいのか見当がつかないが、わかることがひとつある。
 大阪にしろニューヨークにしろ、市民に「目標数値」を明確に示していることだ。しかも、その「目標値」は「ひとつ」ではない。複数だ。条件がさまざまにからみあってくるから、「ひとつ」達成すればいいというものではない。
 安倍は、

1日あたりの新規感染者数は全国で100人を下回る水準を目指す

 と「ひとつ」しか目標数値をあげなかった。ほんとうはいくつもあげたのかもしれないが、きのうの読売新聞には、きょうの大阪、ニューヨークのような整理された記事はなかった。

 「休業要請」を中止した知事は、中止するにあたっての「基準」をどう設定したのか。またひとの往来が簡単ないま、隣県との調整などをどうおこなったのか。そういうことが、よくわからない。
 新聞では個別の「基準」を明示しにくいのかもしれない。しかし、これは、また、国が(安倍が)、きちんと「基準」を示していないということに原因があるとも言える。
 「基準」が明確にされないままでは、「なりゆきまかせ」にとしか思えない。
 不安が募るばかりだ。









#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

「天皇の悲鳴」(1000円、送料別)はオンデマンド出版です。
アマゾンや一般書店では購入できません。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

ページ右側の「製本のご注文はこちら」のボタンを押して、申し込んでください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(49)

2020-05-05 09:54:46 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (わたしは幾日も筏を待っている)

筏はながれてくる
単なる川しもへ 失われた方角へ

 「単なる川しも」とは、どういうことだろうか。「単なる」がわからない。これを「失われた方角」と言い直している。
 「単なる」は「失われた」状態なのだ。
 何が失われたら「単なる」になるのか。「思い入れ」のようなものだろう。「気持ち」だろう。それまでは嵯峨には「川しも」に思い入れがあった。「川しも」には海がある。あるいは街がある。そこへ行きたい。行けば、何かが始まる。そういう「夢」のようなものが失われた。
 「行く」というのは必然的に「方角」をもつが、「行く」という意欲がなくなれば「方角」もなくなる。
 「単なる」は「失望」がとらえる世界である。そこには「もの」しかない。気持ちを拒絶する「もの」、気持ちの存在しない「世界」が「単なる」と呼ばれている。







*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ばらばらの情報を統合すると、こうなる。

2020-05-05 08:57:20 | 自民党憲法改正草案を読む
ばらばらの情報を統合すると、こうなる。
       自民党憲法改正草案を読む/番外347(情報の読み方)

 2020年05月05日の読売新聞(西部版・14版)の1面の見出し。

緊急事態宣言を延長/31日まで 一部で制限緩和/14日めどに分析、解除も

 解説記事には

解除の目安 具体化を

 この記事構成からみると、読売新聞は「解除には一定の目安が必要」と考えていることがわかる。では、その目安は? 読売新聞は、独自の見解を出していない。
 安倍は、どんな「目安」をもっているのか。
 一面の記事中に、こうある。記者会見で語っている。

1日あたりの新規感染者数は全国で100人を下回る水準を目指す

 この「1日あたり100人」は、どの面にも見出しになっていない。ひっそりと書かれている。
 さて。
 この「1日あたり100人」は、しかし、頼りになる基準なのか。
 私はまず、どういう検査をして「100人」なのかが気になる。「100人検査をして100人陽性」だと感染率は100%。それでも解除できるのか。解除には、「人数」だけてはなく、「感染率」も重要なはずである。
 これに気づいているからこそ、読売新聞は25面(社会面)に、

PCR検査 保険所多忙で遅れ

 という見出しと共に「人口10万人当たりのウイルス検査数」を掲載している。それによると日本は187・8件、イタリア3159件、アメリカ1752・3件、韓国1198件に比べると、「明らかに少ない」。検査数が少ないということは、結果的に「陽性」者が少ないということになる。「陽性者数」だけではなく「感染率」も重要なポイントになるはずだ。
 この「感染率」は、当然、各都道府県でも比較しないといけない。「特定警戒都道府県」が指定されているのだから。そして、規制の緩和は都道府県単位でおこなわれるのだから。
 どう判断するのか。
 3面に「都道府県別の人口10万人あたりの累積感染者数が掲載されており、こういう記述がある。「特定警戒都道府県(13都道府県)」指定に関係してくる記述だ。

富山は、人口10万人あたりの累積感染者数で、「特定警戒」の石川に迫る勢いだが、感染源が不明な患者が少ないことなどを配慮して追加指定が見送られた。

 つまり「感染経路の特定」も解除の重要な要素なのだ。単に全国の新規感染者数や感染率だけでは解除できないのだ。

 まとめなおすと。
 コロナウィルスの感染状況を把握するためには
①感染者数
②感染率
③感染経路の特定
 この三つが必要なのだ。

 ところが、そういうことを読売新聞は理解しながら、それを「ひとつの記事」としてまとめていない。1面、25面、3面と、どんばらばらに書いてある。これは、不親切だ。
 この問題は、同時に、記者会見(私は冒頭しか見ていないのだが)で、追及しなければならないことでもある。
 安倍は「新規感染者1日100人」を目安にするといったが、「感染率」ではどうなるのか、「感染経路の特定」の問題はどういう目標をもっているのか。それを問わないといけない。安倍が用意された原稿を読むのと同じように、記者も用意してきた質問を読んでいるだけだ。安倍の「答え」を聞いたあと、自分が用意してきた質問は捨てて、安倍のことばから出てくる疑問(他の記者が明るみに出した問題)を引き継いで追及しないと、「真実」が見えてこない。
 「事実」は細部にあるが、その細部は統合しないことには「全体」にはならない。安倍が、こういう「目安の全体像」を明確に示さないのは、「一部」だけを基準にして「全体」をごまかすという意識があるからだ。
 マスクを2枚配っておけばいい、10万円を全国民に配ればいい。あとは、2枚のマスク、10万円で国民が解決すればいいと、ひとごととして見ている証拠がここにある。









#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

「天皇の悲鳴」(1000円、送料別)はオンデマンド出版です。
アマゾンや一般書店では購入できません。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

ページ右側の「製本のご注文はこちら」のボタンを押して、申し込んでください。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Estoy loco por espana(番外篇52)Luciaonoの作品

2020-05-04 10:41:22 | estoy loco por espana


Lucianoの作品
(スペインは、5月第一日曜日が「母の日」)

Luciano自身が、詩を添えているので、私の詩は省略。
母が子どもを膝の上に載せている。
全体が細いのに、右足(右膝)だけが異様に太い。ごつごつしている感じもする。左足は極端に細い。
この右足と左足の造形の違いに、母親の気持ちが表れている。
自分がどうなっても、子どもを絶対に支えるという意志があらわれている。
ルシアーノは、単純に母と子の「形」を再現しているのではない。母の気持ちを表しているのだ。
そっとみつめるまなざし。誇らしげにふくらんだ乳房がとても美しい。

Luciano ha escrito el poema, por eso yo no escribo mi poema.
pero quiero algo.....

La madre tiene a su hijo en su regazo.
Aunque todo es delgado, solo la pierna derecha (rodilla derecha) es inusualmente gruesa. También se siente resistente.
La pierna izquierda es extremadamente delgada.
Los sentimientos de la madre se reflejan en la diferencia en la forma entre los pies derecho e izquierdo.
Esto es lo que piensa esta madre: "Absolutamente apoye a mi hijo, sin importar lo que me haga".
La voluntad de la madre aparece en su pie derecho.
Luciano no simplemente reproduce la "forma" de madre e hijo. Expresa los sentimientos de la madre.
Una mirada que mira suavemente. El pecho orgullosamente inflado es muy hermoso.
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(48)

2020-05-04 10:06:25 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくが不在でも)

時の幕がゆれ 噴き上げの水が空に消える
死がやってきた

 「死」を批評することもむずかしい。死を体験したことがないから、肉体のなかでどういう変化が起きているか、わからない。ことばの「よりどころ」がない。
 あえて言えば。
 私は「時の幕」を見たことがない。だから「ゆれる」もわからない。しかし、「吹き上げの水」(噴水の水、と考えてみる)が「空に消える」は、見たことがある。「空のなかに消える」のではなく、「空に届かず、地上に落ちる」のだが、この「空に届かず」を嵯峨は「空に消える」という。そのとき消えるのは「水」ではなく「空に届きたい」という気持ちだ。
 何かを思うこころ、それが消えることが「死」というのなら、この比喩は切実で悲しい。「ぼくが不在でも」とは、ぼくがいるのに、ぼくを不在としてあつかうだれかがいて、そのためにぼくの「気持ち」がどこにも届かずに消えていく。それが「ぼくの死」だ。






*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Estoy loco por espana(番外篇51)Joaquinの作品

2020-05-03 18:14:48 | estoy loco por espana


スペインはコロナウィルスの「クアレンテーナ」から一部解放された。
それによせたホアキンの作品。
私は、こんなことを感じた。

ひとりが問う。
「私たちに何の罪があるだろう。
なぜ私たちは円でないのだろう」
ひとりが答える。
「わたしたちは完全ではない。
だから完全を夢みることができる」
ひとりが付け加える。
「わたしたちはつながる。
つながりはいつでも完全だ」
ひとりがよろこびの声を上げる。
「わたしたちは、ひとつの円ではない。
わたしたちはつながることで複数の円になる」
みんなが言う。
「わたしたちはひとりではない。
わたしたちは世界だ」


Una persona pregunta a una persona.
"Que pecado tenemos?
Por que no somos circulos? "
Una persona responde.
"No somos perfectos.
Por eso pdemos sonar con la perfeccion ".
Una persona agrega.
"Estamos conectados.
La conexion siempre es perfecta ".
Una persona habla alegremente.
"No somos un solo circulo.
Nos convertimos en multiples círculos al estar conectados ".
Todos dicen
"No estamos solos.
Somos el mundo "
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする