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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(57)

2020-05-16 11:00:36 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (何もない ぼくの空間に)

一日だけ ぼくがどこかに消えることがある

 「どこか」とは「どこ」を指しているのか。「ぼくの空間」の「どこか」なのか。そのとき、世界はどうなるか。

庭には
野菊の花が露にぬれている

 ここで終われば「俳句」になる。「ぼく」が消えて「野菊」になる。あるいは「露」になる。「ぬれる」という動詞になる。すべてが「一つ」になる。「遠心と求心」。
 しかし、嵯峨は「俳句」を拒絶して、このあとことばを動かしているのだが、それは逆に「俳句」を説明することになっている。だから、その二行は引用しない。






*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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基準明示は困難?

2020-05-16 10:18:26 | 自民党憲法改正草案を読む
基準明示は困難?
       自民党憲法改正草案を読む/番外353(情報の読み方)

 2020年05月16日の読売新聞(西部版・14版)の1面。4番手の見出し。

検察定年延長 採決見送り/衆院委 法相「基準明示は困難」

 この見出しが、なぜ、こんな小さい扱いなのか、わからない。
 「定年延長」を決めるのはいいが、決める限りは「基準」が先だろう。「基準」がないままに「延長」というのは、どうしたっておかしい。

内閣や法相の判断で検察幹部の定年を最大3年延長できる

 というのでは、「基準」がそのときの「内閣や法相の判断」になってしまう。「とき」と「ひと」によって変わってしまう。こういうことを「恣意的」という。
 この問題に先立つ黒川の定年延長も、また、安倍の「判断」(新しい解釈)によるものだ。「法」をたったひとりの「新しい解釈」によって変更し、それを「判断」というのであれば、「独裁」のはじまりだ。
 「基準」を明示せずに、「内閣や法相の判断で検察幹部の定年を最大3年延長できる」ということにしてしまえば、それは「内閣」の都合にあわせて判断してくれる検察幹部の定年を延長するということになる。
 安倍は、黒川が68歳になるまで「検事総長」にしたいのである。黒川の68歳というのは、5年後である。

 ここから、また、別のことも見えてくる。
 いま、河井の選挙法違反が問題になっているが、ほかにも佐川事件の再捜査要求や、桜を見る会の問題など、安倍がらみの問題がある。さらに、「アベノマスク」発注の問題も浮上してくるだろうし、新型コロナ問題では「検査をさせないことで死亡に至らしめる」という「未必の故意」も問われるだろう。
 安倍は、そういう山積する問題を、黒川を検事総長にすることで葬り去るだけではなく、今後5年間は「首相」に居すわるつもりなのだ。「独裁」の準備を「検察人事」の側からすすめているのである。来年9月で「総裁」の任期は切れるが、「4選」を手に入れ、続投し続けるのだ。その「意思表示」が「最大3年延長できる」にあらわれている。
 森は「基準明示は困難」と言ったが、「基準」があまりにも「安倍の欲望そのもの」なので、語ることができなかったということだ。
 単なる「機械的」な定年延長ではない。「内閣や法相の判断で検察幹部の定年を最大3年延長できる」という定年延長である。誰にでも適用されるのではなく「内閣や法相」が必要と判断した人間にだけ適用されるのである。
 安倍批判をする人間を次々に起訴し、安倍の「お友達」なら何をしても不起訴にしないという「検察」ができあがれば、安倍は「4選」といわず「5選」、さらには生きている限り「首相」に居すわり、「独裁」をつづける。恐慌政治が始まるのだ。

27面に「検察OB 反対意見書提出」という見出しの記事がある。その最後の部分に、こういうコメントが載っている。

「法律が改正されても、検察のやることは変わらない」と淡々と話す(検察)幹部もいた。

 「検察のやること」とは「不法行為者を取り締まる」ということだろう。もちろん「不法行為者を取り締まる」だろうが、一方で「やらないこと」が増えるのではないか。起訴し、裁判で判断しなければならない問題を、不起訴にするということが起きるのではないか。
 あるいは、このコメントをよせた検察幹部は「安倍や、安倍のお友達がかかわる問題は、どんなものであれ不起訴にする」ということを「検察のやること」と考えているのかもしれない。「安倍の基準」にあわせて「起訴する/起訴しない」を判断することが検察の仕事だと、すでに受け入れているのかもしれない。
 きっと「安倍の判断」に従えば、自分も「検事総長」になれると信じているのだろう。自分自身の「行動基準」をみつけたとよろこんでいるのだろう。












#検察庁法改正に反対 #安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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長嶋南子「嫌われながら」、新井啓子「旅の話」

2020-05-15 21:17:24 | 詩(雑誌・同人誌)
長嶋南子「嫌われながら」、新井啓子「旅の話」(「Zero」14、2020年05月15日発行)

 長嶋南子「嫌われながら」の一連目。

パチンコ屋にそうじに行く
朝七時から九時まで二時間
他人の汚した便器をこすり
他人の汚した指紋をふき取り
どこもかしこも舐めても平気なようにと
店長さんはいうのです
店長さんは舐めるのが好きですか
汚れたものを舐めると気持ちがいいですか

 「他人の」と明確にいうところが、嫌悪感が強くあらわれていて、ぞくっとする。店長への反論というか、質問が、「肉体的」でいいなあ。こういうことば、「毒」があって魅力的だ。「おじさん」も発するけれど、「おじさん」がいうと「論理」になってしまって、その分「毒」が減る。「おばさん」は「毒」を「毒」のまま投げつける。つまり、「論理」ではなく、感情だね。
 感情だから「毒」の論理ではない方向へことばが動いていく。
 男(おじさん)なら、このあと、何がなんでも店長をやっつけるのだが、「おばさん」は妙にやさしいところがある。(あるいは、このやさしさが、冷酷なのかもしれないが。つまり、店長がその後どうなろうが知るもんか、と突き放したところがある。)

わたしはきのう死にました
きょうも明日も死にます
カラダをこすって汚れをふき取り
夜はきれいなカラダになります
夢の中で死んだチビ犬がわたしを舐めまわします
朝です あらまあ また生きかえっちゃった
わたしのカラダから死臭がただよううので
香水をドバドバ振りかけて出かける
電車に乗るとわたしの隣の席が空いているのに
誰も座りません
きつい匂いは嫌われます
嫌われながら死んでいくカラダです

 この「カラダ」と「匂い」へのこだわりは、一連目の「便器」と関係しているのだろうけれど、よくわからない。よくわからないけれど、妙にしんみりとしていて、哀しさを誘う。きっと店長を「毒」でいじめたことが、どこかにひっかかっているのだろう。
 何ともいえず、やさしいのだ。
 と簡単に思ってはいけない。
 三連目。

家にはノウミソを削られた男が
死臭をただよわせて待っています
遠くの高速道路の中央分離帯あたりに
男とチビ犬のノウミソのかけらが貼りついていて
道路のそうじ人がこすっています

 もうひとり「男」が出てくる。連れ合いか、息子か。生きている限りは、いっしょに生きていかなければならない。きっと、不平をいわれるのだろう。不平をいうことが「甘え」であり、「愛」なのだが、そういう「論理」はばかばかしくてやってられない。
 「論理」ではなくて、ただだれかがそれをやらなければならないだけなのだ。
 これを、受け入れる。ここが「おばさん」の「度量」というものなのだ。

 そうだねえ、パチンコ屋のトイレ掃除ではなく、高速道路の動物の死骸の掃除だと、どうなんだろうねえ。それはそれで、非常にさびしいかもしれない。奇妙な言い方だが、パチンコ屋の掃除の方が「店長さんは舐めるのが好きですか/汚れたものを舐めると気持ちがいいですか」と毒を吐けるだけ、感情にとっては、価値があるかもしれない。
 高速道路の情景、ことばは「美しい」。いわゆる「詩」そのものを感じる。しかし、そこには「毒」を吐ける相手がいない。吐き出したいものがあっても、しまいこむしかない。そんなことをすれば、人間は死んでしまう。
 「毒」は吐かねばならない。「おばさん」は、それを知っている。



 新井啓子「旅の話」は二、三連目がおもしろい。

集まるたびに
みなが思い出話をする
何度もなんども同じ話が語られる
語る人数は減っていくが
語られる人数はかわらない

いなくなってもいつも語られる人がいる
本当にあれだよね
全くあれさ なとどと
よくもわるくも
何度もなんども繰り返し語られる

 私の「おもしろい」には、少し註釈がいる。新井が書いていることは、「親族」が集まると自然におきることなのだろうが、読みながら私が思い出した(?)のは別のことである。
 長嶋南子は、いま生きていて、詩を書いているから、こういうことを書くのは不謹慎なのだろうけれど、長嶋が死んだら、きっと私は「何度もなんども繰り返し」長嶋のことを語りそうな気がする。そして、そのとき、口をついて出てくるのが「本当にあれだよね/全くあれさ」なのである。
 明確なことばではない。しかし、肉体の中に生き続けている記憶なのである。「おばさん」の記憶。長嶋には会ったこともないのだけれど。
 変な感想、新井にも長嶋にも、迷惑な感想になってしまったが。
 思ったことなので、しかたがない。




*

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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
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検察庁法改正に反対

2020-05-15 17:33:42 | 考える日記
以下は朝日新聞デジタル版に掲載されていた記事の全文。
そのまま引用します。
https://www.asahi.com/articles/ASN5H4RTHN5HUTIL027.html?iref=comtop_8_01&fbclid=IwAR1Y_ZZHy-qJ5QK6KtMIBRHoun0o4HERfnUrdPWbLoySdgA5Na0d4U_V75o

【意見書全文】首相は「朕は国家」のルイ14世を彷彿
 検察庁法改正に反対する松尾邦弘・元検事総長(77)ら検察OBが15日、法務省に提出した意見書の全文は次の通り。
    ◇
 東京高検検事長の定年延長についての元検察官有志による意見書
 1 東京高検検事長黒川弘務氏は、本年2月8日に定年の63歳に達し退官の予定であったが、直前の1月31日、その定年を8月7日まで半年間延長する閣議決定が行われ、同氏は定年を過ぎて今なお現職に止(とど)まっている。
 検察庁法によれば、定年は検事総長が65歳、その他の検察官は63歳とされており(同法22条)、定年延長を可能とする規定はない。従って検察官の定年を延長するためには検察庁法を改正するしかない。しかるに内閣は同法改正の手続きを経ずに閣議決定のみで黒川氏の定年延長を決定した。これは内閣が現検事総長稲田伸夫氏の後任として黒川氏を予定しており、そのために稲田氏を遅くとも総長の通例の在職期間である2年が終了する8月初旬までに勇退させてその後任に黒川氏を充てるための措置だというのがもっぱらの観測である。一説によると、本年4月20日に京都で開催される予定であった国連犯罪防止刑事司法会議で開催国を代表して稲田氏が開会の演説を行うことを花道として稲田氏が勇退し黒川氏が引き継ぐという筋書きであったが、新型コロナウイルスの流行を理由に会議が中止されたためにこの筋書きは消えたとも言われている。
 いずれにせよ、この閣議決定による黒川氏の定年延長は検察庁法に基づかないものであり、黒川氏の留任には法的根拠はない。この点については、日弁連会長以下全国35を超える弁護士会の会長が反対声明を出したが、内閣はこの閣議決定を撤回せず、黒川氏の定年を超えての留任という異常な状態が現在も続いている。
 2 一般の国家公務員については、一定の要件の下に定年延長が認められており(国家公務員法81条の3)、内閣はこれを根拠に黒川氏の定年延長を閣議決定したものであるが、検察庁法は国家公務員に対する通則である国家公務員法に対して特別法の関係にある。従って「特別法は一般法に優先する」との法理に従い、検察庁法に規定がないものについては通則としての国家公務員法が適用されるが、検察庁法に規定があるものについては同法が優先適用される。定年に関しては検察庁法に規定があるので、国家公務員法の定年関係規定は検察官には適用されない。これは従来の政府の見解でもあった。例えば昭和56年(1981年)4月28日、衆議院内閣委員会において所管の人事院事務総局斧任用局長は、「検察官には国家公務員法の定年延長規定は適用されない」旨明言しており、これに反する運用はこれまで1回も行われて来なかった。すなわちこの解釈と運用が定着している。
 検察官は起訴不起訴の決定権すなわち公訴権を独占し、併せて捜査権も有する。捜査権の範囲は広く、政財界の不正事犯も当然捜査の対象となる。捜査権をもつ公訴官としてその責任は広く重い。時の政権の圧力によって起訴に値する事件が不起訴とされたり、起訴に値しないような事件が起訴されるような事態が発生するようなことがあれば日本の刑事司法は適正公平という基本理念を失って崩壊することになりかねない。検察官の責務は極めて重大であり、検察官は自ら捜査によって収集した証拠等の資料に基づいて起訴すべき事件か否かを判定する役割を担っている。その意味で検察官は準司法官とも言われ、司法の前衛たる役割を担っていると言える。
 こうした検察官の責任の特殊性、重大性から一般の国家公務員を対象とした国家公務員法とは別に検察庁法という特別法を制定し、例えば検察官は検察官適格審査会によらなければその意に反して罷免(ひめん)されない(検察庁法23条)などの身分保障規定を設けている。検察官も一般の国家公務員であるから国家公務員法が適用されるというような皮相的な解釈は成り立たないのである。
 3 本年2月13日衆議院本会議で、安倍総理大臣は「検察官にも国家公務員法の適用があると従来の解釈を変更することにした」旨述べた。これは、本来国会の権限である法律改正の手続きを経ずに内閣による解釈だけで法律の解釈運用を変更したという宣言であって、フランスの絶対王制を確立し君臨したルイ14世の言葉として伝えられる「朕(ちん)は国家である」との中世の亡霊のような言葉を彷彿(ほうふつ)とさせるような姿勢であり、近代国家の基本理念である三権分立主義の否定にもつながりかねない危険性を含んでいる。
 時代背景は異なるが17世紀の高名な政治思想家ジョン・ロックはその著「統治二論」(加藤節訳、岩波文庫)の中で「法が終わるところ、暴政が始まる」と警告している。心すべき言葉である。
 ところで仮に安倍総理の解釈のように国家公務員法による定年延長規定が検察官にも適用されると解釈しても、同法81条の3に規定する「その職員の職務の特殊性またはその職員の職務の遂行上の特別の事情からみてその退職により公務の運営に著しい支障が生ずると認められる十分の理由があるとき」という定年延長の要件に該当しないことは明らかである。
 加えて人事院規則11―8第7条には「勤務延長は、職員が定年退職をすべきこととなる場合において、次の各号の1に該当するときに行うことができる」として、①職務が高度の専門的な知識、熟練した技能または豊富な経験を必要とするものであるため後任を容易に得ることができないとき、②勤務環境その他の勤務条件に特殊性があるため、その職員の退職により生ずる欠員を容易に補充することができず、業務の遂行に重大な障害が生ずるとき、③業務の性質上、その職員の退職による担当者の交替が当該業務の継続的遂行に重大な障害を生ずるとき、という場合を定年延長の要件に挙げている。
 これは要するに、余人をもって代えがたいということであって、現在であれば新型コロナウイルスの流行を収束させるために必死に調査研究を続けている専門家チームのリーダーで後継者がすぐには見付からないというような場合が想定される。
 現在、検察には黒川氏でなければ対応できないというほどの事案が係属しているのかどうか。引き合いに出されるゴーン被告逃亡事件についても黒川氏でなければ、言い換えれば後任の検事長では解決できないという特別な理由があるのであろうか。法律によって厳然と決められている役職定年を延長してまで検事長に留任させるべき法律上の要件に合致する理由は認め難い。
 4 4月16日、国家公務員の定年を60歳から65歳に段階的に引き上げる国家公務員法改正案と抱き合わせる形で検察官の定年も63歳から65歳に引き上げる検察庁法改正案が衆議院本会議で審議入りした。野党側が前記閣議決定の撤回を求めたのに対し菅義偉官房長官は必要なしと突っぱねて既に閣議決定した黒川氏の定年延長を維持する方針を示した。こうして同氏の定年延長問題の決着が着かないまま検察庁法改正案の審議が開始されたのである。
 この改正案中重要な問題点は、検事長を含む上級検察官の役職定年延長に関する改正についてである。すなわち同改正案には「内閣は(中略)年齢が63年に達した次長検事または検事長について、当該次長検事または検事長の職務の遂行上の特別の事情を勘案して、当該次長検事または検事長を検事に任命することにより公務の運営に著しい支障が生ずると認められる事由として内閣が定める事由があると認められるときは、当該次長検事または検事長が年齢63年に達した日の翌日から起算して1年を超えない範囲内で期限を定め、引き続き当該次長検事または検事長が年齢63年に達した日において占めていた官及び職を占めたまま勤務をさせることができる(後略)」と記載されている。
 難解な条文であるが、要するに次長検事および検事長は63歳の職務定年に達しても内閣が必要と認める一定の理由があれば1年以内の範囲で定年延長ができるということである。
 注意すべきは、この規定は内閣の裁量で次長検事および検事長の定年延長が可能とする内容であり、前記の閣僚会議によって黒川検事長の定年延長を決定した違法な決議を後追いで容認しようとするものである。これまで政界と検察との両者間には検察官の人事に政治は介入しないという確立した慣例があり、その慣例がきちんと守られてきた。これは「検察を政治の影響から切りはなすための知恵」とされている(元検事総長伊藤栄樹著「だまされる検事」)。検察庁法は、組織の長に事故があるときまたは欠けたときに備えて臨時職務代行の制度(同法13条)を設けており、定年延長によって対応することは毫(ごう)も想定していなかったし、これからも同様であろうと思われる。
 今回の法改正は、検察の人事に政治権力が介入することを正当化し、政権の意に沿わない検察の動きを封じ込め、検察の力を殺(そ)ぐことを意図していると考えられる。
 5 かつてロッキード世代と呼ばれる世代があったように思われる。ロッキード事件の捜査、公判に関与した検察官や検察事務官ばかりでなく、捜査、公判の推移に一喜一憂しつつ見守っていた多くの関係者、広くは国民大多数であった。
 振り返ると、昭和51年(1976年)2月5日、某紙夕刊1面トップに「ロッキード社がワイロ商法 エアバスにからみ48億円 児玉誉士夫氏に21億円 日本政府にも流れる」との記事が掲載され、翌日から新聞もテレビもロッキード関連の報道一色に塗りつぶされて日本列島は興奮の渦に巻き込まれた。
 当時特捜部にいた若手検事の間では、この降って湧いたような事件に対して、特捜部として必ず捜査に着手するという積極派や、着手すると言っても贈賄の被疑者は国外在住のロッキード社の幹部が中心だし、証拠もほとんど海外にある、いくら特捜部でも手が届かないのではないかという懐疑派、苦労して捜査しても造船疑獄事件のように指揮権発動でおしまいだという悲観派が入り乱れていた。
 事件の第一報が掲載されてから13日後の2月18日検察首脳会議が開かれ、席上、東京高検検事長の神谷尚男氏が「いまこの事件の疑惑解明に着手しなければ検察は今後20年間国民の信頼を失う」と発言したことが報道されるやロッキード世代は歓喜した。後日談だが事件終了後しばらくして若手検事何名かで神谷氏のご自宅にお邪魔したときにこの発言をされた時の神谷氏の心境を聞いた。「(八方塞がりの中で)進むも地獄、退くも地獄なら、進むしかないではないか」という答えであった。
 この神谷検事長の国民信頼発言でロッキード事件の方針が決定し、あとは田中角栄氏ら政財界の大物逮捕に至るご存じの展開となった。時の検事総長は布施健氏、法務大臣は稲葉修氏、法務事務次官は塩野宜慶(やすよし)(後に最高裁判事)、内閣総理大臣は三木武夫氏であった。
 特捜部が造船疑獄事件の時のように指揮権発動に怯(おび)えることなくのびのびと事件の解明に全力を傾注できたのは検察上層部の不退転の姿勢、それに国民の熱い支持と、捜査への政治的介入に抑制な政治家たちの存在であった。
 国会で捜査の進展状況や疑惑を持たれている政治家の名前を明らかにせよと迫る国会議員に対して捜査の秘密を楯(たて)に断固拒否し続けた安原美穂刑事局長の姿が思い出される。
 しかし検察の歴史には、捜査幹部が押収資料を改ざんするという天を仰ぎたくなるような恥ずべき事件もあった。後輩たちがこの事件がトラウマとなって弱体化し、きちんと育っていないのではないかという思いもある。それが今回のように政治権力につけ込まれる隙を与えてしまったのではないかとの懸念もある。検察は強い権力を持つ組織としてあくまで謙虚でなくてはならない。
 しかしながら、検察が萎縮して人事権まで政権側に握られ、起訴・不起訴の決定など公訴権の行使にまで掣肘(せいちゅう)を受けるようになったら検察は国民の信託に応えられない。
 正しいことが正しく行われる国家社会でなくてはならない。
 黒川検事長の定年延長閣議決定、今回の検察庁法改正案提出と続く一連の動きは、検察の組織を弱体化して時の政権の意のままに動く組織に改変させようとする動きであり、ロッキード世代として看過し得ないものである。関係者がこの検察庁法改正の問題を賢察され、内閣が潔くこの改正法案中、検察幹部の定年延長を認める規定は撤回することを期待し、あくまで維持するというのであれば、与党野党の境界を超えて多くの国会議員と法曹人、そして心ある国民すべてがこの検察庁法改正案に断固反対の声を上げてこれを阻止する行動に出ることを期待してやまない。
 【追記】この意見書は、本来は広く心ある元検察官多数に呼びかけて協議を重ねてまとめ上げるべきところ、既に問題の検察庁法一部改正法案が国会に提出され審議が開始されるという差し迫った状況下にあり、意見のとりまとめに当たる私(清水勇男)は既に85歳の高齢に加えて疾病により身体の自由を大きく失っている事情にあることから思うに任せず、やむなくごく少数の親しい先輩知友のみに呼びかけて起案したものであり、更に広く呼びかければ賛同者も多く参集し連名者も多岐に上るものと確実に予想されるので、残念の極みであるが、上記のような事情を了とせられ、意のあるところをなにとぞお酌み取り頂きたい。
令和2年5月15日
 元仙台高検検事長・平田胤明(たねあき)
 元法務省官房長・堀田力
 元東京高検検事長・村山弘義
 元大阪高検検事長・杉原弘泰
 元最高検検事・土屋守
 同・清水勇男
 同・久保裕
 同・五十嵐紀男
 元検事総長・松尾邦弘
 元最高検公判部長・本江威憙(ほんごうたけよし)
 元最高検検事・町田幸雄
 同・池田茂穂
 同・加藤康栄
 同・吉田博視
 (本意見書とりまとめ担当・文責)清水勇男
 法務大臣 森まさこ殿



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Estoy loco por espana(番外篇57)Jose Valladares Morenoの作品

2020-05-15 10:36:41 | estoy loco por espana


Jose Valladares Morenoの作品

El contraste de colores es intenso.
Madera y metal. Un rasgun'o que me hace sentir agotado.
Los objetos comparten "TIEMPO".
Es el pasado, pero no es el tiempo que ha pasado, sino el tiempo que todavi'a esta' vivo.

色の対比が強烈。
木と金属。使い古されたことを私に感じさせる傷。
物体は時間を共有している。
過去なのだが、それは過ぎ去った時間ではなく、いまも生きている時間だ。
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Estoy loco por espana(番外篇56)Luis Serranoの写真

2020-05-14 18:36:27 | estoy loco por espana


La ffoto de Luis Serrano

Clavi’cula.
Hombro desnudo, barba y tela.
El hombre en esta foto no es joven.
Cabello blanco mezclado con barba, Venas visibles a trave’s de la piel a’spera.
Pero por que el hombre tiene la clavi’cula?
Hasta que mire’ esta foto, habi’a olvidado que el hombre viejo tambie’n teni’a clavi’cula.
(Mujer joven…. Siempre puedo recordar la depresio’n de la clavi’ícula en el hombro brillante.
Pero…..
Es una depresio’n misteriosa.
Para que’ sirve el agujero?
Co’mo vivio’ un hombre usando este agujero?
Debe haber algu’n reclamo en la barba, hombros, cuello. Su barba, hombros y cuello son todos si’mbolos de un hombre.
Pero que’ hay de la clavi’cula?
Que’ es ese agujero?
Siento que he visto algo que no deberi’a ver.
Tambie’n me dan ganas de ver ma’s.
Pan’o oscuro, piel opaca y barba con canas.
Es ma’s como una pintura que una fotografi’a. El balance de colores es muy hermoso.

Luis Serranoの写真
鎖骨。
剥き出しの肩と髭と布。
被写体の男は若くはない。
髭にまじった白髪、肌から透けて見える静脈と、肌のきめの粗さ。
そういうものが年齢を感じさせる。
しかし、鎖骨はどうだろうか。
私は、この写真を見るまで、年をとった男にも鎖骨があるということを忘れていた。
不思議な窪みである。
いったい何のための穴なのだろうか。
男は、この穴をつかって、どう生きてきたのか。
髭にも、肩にも、首にも、何らかの主張があるだろう。髭も肩も首も、男の象徴である。でも、鎖骨は? その穴は?
見てはいけないものを見てしまったような気持ちになる。
もっと見たいという気持ちにもなる。
暗い布、くすんだ肌、白髪まじりの髭。
それは写真というよりも、画家が描いた絵のように意図的だ。色のバランスがとても美しい。


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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(56)

2020-05-14 15:55:27 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (あの大きな貝殻を背負っていなければ)

蝸牛は真実をみんなしゃべるだろう
少しひかっている手足をだして

 とても不思議だ。
 「少しひかっている手足をだして」ということばが、「真実」に「怒り」がこもっているように感じさせる。「怒り」のために、全身が光っている。ことばが、同じように光っている。
 こう感じるのは、私がいまの状況に対して怒っているからかもしれない。
 隠されている「真実」がある。それを告発することばは、必ず光り輝く。そして、それは多くの人の怒りを吸収し、反射し、爆発して、光そのものになる。
 「少しひかっている手足をだして」はほんとうは、それにつづく行を修飾することばなのだけれど、その行を切り離すと「蝸牛は真実をみんなしゃべるだろう」を修飾することになる。
 こういう「誤読」をするのが、私は好きだ。「意味」ではなく、ことばそのものが勝手に動くときが。







*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(55)

2020-05-13 19:10:08 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (その船が川上へさかのぼっていくとき)

きみは時刻をつげる鐘の音を遠くにきいた
たったひとりになったきみが触れることのできるのはその音だけである

 「触れる」。このことばが誘い出すのは、「肉体」である。ひとりになる前は、だれかがいた。そのだれかに触れることができる。しかし、いまは触れることができない。
 そのかわりに「音」に触れる。このとき「触れる」は比喩である。
 「触れる」は、そして「接触」である。接するである。比喩としての「触れる」という動詞は、「遠く」にある「音」に触れる。「遠くから聞こえてくる」音に触れる。
 そうではなく、「触れる」は遠くまで音に触れに行くのだ。

 そうであるなら、いま、嵯峨はそういう遠くまで触れに行くという行為に、いまはそこにいないだれかに触れるという行為を重ねていることになる。







*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(54)

2020-05-12 10:18:17 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (背中は無言だ)

腕は動いていても自分から離れられない
背なかは毎日が背なかである

 「腕」も毎日が腕だろう。また、「背なか」も自分から離れられないという点は同じだろう。
 そうすると、「背なか」の意味は「動かない」ということ力点があるのか。
 しかし、この動かないは微妙だ。腕のようにはっきりと目に見える動きはなくても、やはり動いてはいる。
 無意識のようなものだ。背中は見えないから、無意識になってしまうのかもしれない。








*

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わからない?

2020-05-12 09:33:47 | 自民党憲法改正草案を読む
わからない?
       自民党憲法改正草案を読む/番外351(情報の読み方)

 2020年05月12日の読売新聞(西部版・14版)の4面(政治面)に小さな記事。

 政府の新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の尾身茂副座長は11日の参院予算委員会で、国内の累計感染者数が1万5000人を超えていることに関し、「(実際の感染者数が)10倍か、15倍か、20倍かというのは誰も分からない」と述べた。立憲民主党の福山幹事長の質問に答えた。

 「分からない」とき、人はどうするだろうか。
 いちばん簡単なのは、人に聞く。知っている人に聞く。つまり、「専門家」に聞く。その「専門家」が「分からない」のだとしたら?
 「専門家」をやめる(辞退する)という方法もある。
 ふつうは、分からなかったら調べる。「専門家」なら、調べ方もわかるだろう。国民全員を調べるのがいちばん正確だが、それができないとしたら任意にサンプルを抽出し、そこから推測する。抽出調査(分析)が誤差を含むことは誰もが知っているが、それでもその誤差が「10倍か、15倍か、20倍か」ということはないだろう。もし、そういうことが起きるとしたら、それはサンプル抽出の方法、サンプル分析から総計を算出する計算方法などが間違っていたことになる。「専門家」失格だ。
 なぜ調べないのか。調べると不都合がおきるからだ。それこそ「10倍か、15倍か、20倍か」の感染者がわかると、どうなるか。いますすめている政策がそのまま適用できなくなる。だから調べないのだ。
 尾身は、安倍のように「ぼくちゃんが調べたわけではない。数字が違うとしてもぼくちゃんの責任ではない。ちゃんと調べない現場が悪い。ぼくちゃんは、『分からない』ということで、ちゃんと現場を批判している」とでも言うだろうか。

 「医療崩壊」ということばがある。実際は「医療収入の崩壊」を気にしている「医療倫理の崩壊」である。「医療崩壊」を口にする前に、医療現場は懸命に働いている。そういう人に対して「医療崩壊」と「医療の責任者」が口にするのはたいへん非礼で、むごたらしい反応だ。
 この「倫理崩壊」は「専門家会議」ででも起きていることになる。「事実」を調べようとしない。実数が「10倍か、15倍か、20倍」と思いながら、それを確認しようとしない。自分の「考えている」に背いて、安倍が求める「答え」を「専門家」として語っている。「専門家」としての「倫理」が崩壊している。尾身もまた、自分への「報酬」を優先したのだろう。安倍の求める答えを言えば、高額の報酬がもらえる。高額の収入を捨ててまで、ほんとうのことを言う必要はない。「金優先」「倫理不要」はいう「倫理崩壊」が、ここにも蔓延しているのだ。
 あるいは安倍が頼りにしている「専門家会議」というのは、安倍が求める答えだけを提出する「専門家」という意味なのかもしれない。「安倍の専門家」ということになる。そこには、絶対に「倫理」というものは入り込まない。
 福山にしても同じだろう。「分からない」という答弁を引き出すだけてはなく、「分からないなら、調べろ」と追及し、「調べます」という言質を取れ。そうしないのは、やはり政治家(野党)としての「倫理」を失っている。「分からない」という答弁まで引き出せば、自分の仕事は終わった。「給料分は働いた」という「収入」見合いの追及でしかない。

 「倫理崩壊」は検察人事でも進んでいる。黒川がどういう人間なのか知らないが、もうすでに充分キャリアを積んできている。多くの国民からみれば、十分すぎるほどの収入を得てきているだろう。天下り先というか、再就職先は、たくさんあるだろう。検察にしがみつく理由がわからない。安倍が要求する「答え(だれを起訴し、だれを不起訴にするか)」を提出すれば、さらに金が稼げる。そう思っているのではないのか。
 黒川にしかできない「完璧な判断」というものがある、というかもしれない。もしそうだとすれば、それはそれではずかしいことだ。ナンバー2にまでのぼりつめて、自分を超えることのできない後輩を育てることができなかった、だからトップをつづける、というのは、すでにトップの立つ資格がないことを証明している。
 検察庁人事をめぐっては批判がひろがっている。26面には「検察定年 議論が過熱」という見出しの記事がある。そこに、ひっかかる記事が書かれている。

 ツイッターでも9~10日、演出家の宮本亜門さんや俳優の井浦新さんら著名人による抗議ツイートが相次ぎ、投稿件数が急増した。ただ、抗議への反論ツイートもあり、歌手のきゃりーぱみゅぱみゅさんは投稿後にツイートを削除した。

 きゃりーぱみゅぱみゅが投稿を削除したのは事実らしいが、事情は「反論ツイート」だけが理由ではない。きゃりーぱみゅぱみゅの投稿に対して反論だけがツイートされたのではなく、賛成もツイートされている。賛成と批判にファンが分断され、対立するのがつらくて投稿を削除したというようなことを、きゃりーぱみゅぱみゅはどこかで語っていた。読売新聞の書き方だと、きゃりーぱみゅぱみゅの意見に賛成のファンがいるということがわからない。事実を半分隠して書くのは、「報道の倫理」に反している。記者の「倫理」が崩壊していると思う。









#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(53)

2020-05-11 08:39:39 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「雑草詩篇 Ⅲ」から

* (頭脳から削ぎ落とされた辞書の屑)

すべての種類の虫がばらばらと落ちて
そこここに小さな炎が燃えあがる

 辞書の中に「登録」されている虫。ふつうは、辞書の中にしかいない。いわゆる「名もない虫」。それゆえに、それは、無視されて、いま辞書からもこぼれ落ちる。「頭脳から削ぎ落とされた」とは、そういう意味だろう。嵯峨が積極的に削ぎ落としたのではなく、無意識が削ぎ落とす。
 しかし、いったん「白紙」の上に落ちると、そういうことばがあったのだ、そういう虫がいるのだと明確になる。
 「名もない存在」はない。「名もない存在」が「名前」を主張する。その「炎」のようないのちの強さ。
 「虫」とはもちろん「ことば」の比喩である。








*

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ジョンソンの言う「社会」とは何か。

2020-05-10 22:39:47 | 考える日記
2020年05月10日(日曜日)

 私は読み落としたのだが、イギリスのジョンソン首相は、コロナに感染し、一時重体だった。そして、そこから復帰した。そのとき、こう言った。

「今回のコロナ危機で、すでに証明されたことがあると思う。社会は存在するのだ。」

「社会」の定義はむずかしい。
私は日本国憲法13条に書いてある「公共の福祉」というのが「社会」ではないかと考えてる。
「公共の福祉」とは何かと言われたら「社会」と答えると思うが。

「公共」だけでも「福祉」だけでもない。「公共の福祉」。

これは「公共」と「福祉」という「二つの考え(概念)」が、「公共=福祉」という「一つの考え」に統合するときに生まれるのだと思う。
「社会」は単なる集団ではない。「福祉」を実現するための集団であり、福祉が実現されない限り「社会」ではあり得ない。
「社会」を目指そうとするから、奇妙なことになる。
「福祉」を目指し、それを実現すれば必然的に「社会」は生まれてくる、と言い直せると思う。
「公共の福祉」は「公共」に意味があるのではなく「福祉」方に意味がある。
「公共」も「福祉」も名詞であり、これを「動詞(人間の動き)」として見直すのは面倒だけれど、あえていえば「福祉」は「命を助ける」という現実の動きだと思う。「ひとのいのち」を助けることが「福祉」。
そう考えると、ジョンソンの言った「社会は存在する」もすんなりと読むことができる。「人のいのち(ジョンソンのいのち)を助けようとして、現実に動いた人間がいる」、それが「社会」というものだ。ジョンソンは、それを「実感」したのだ。

ひるがえって。
日本には、ジョンソンが実感した「社会」は存在するか。安倍は、「社会」を目指しているか。
目指していない。
簡単に言い直すと「医療崩壊」を口実に、国民がコロナに感染しているかどうかの検査さえしない国には「社会」は存在しない。
「医療崩壊」を口にした医療関係者は、そのときから「人のいのちを助ける」ということを放棄している。

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(52)

2020-05-10 09:57:21 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (旅立っていった妻よ)

どうして「時」を残していったのか
おまえの影をさむざむと宿している時を

 「記憶」を「時」と言い直しているのか。
 しかし「時」は過ぎ去る。
 そうであるなら、この「時」は「未来」である。未来が「さむざむ」とするのである。どこまでもどこまでも、「未来」であるかぎり「さむざむ」とする。
 逆に言えば「時」は過ぎ去らない。「未来」もない。あるのは「さむざむ」とする「いま」だけが永遠に続く。












*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(51)

2020-05-09 21:57:42 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (文字からなにがいちばん遠いか)

生命から剥がされた時刻もしだいに色褪せてくる
もうはるか彼方という時間ではない

 非常ににわかりにくい。「文字」と「時刻」が「生命」ということばをとおして向き合っている。「時刻」は「時間」とも言い直されている。
 「生命から剥がされた時刻」とは「記憶」のことだろうか。「文字」は「記憶(思い出)」を記録する。しかし、その「記録」が色褪せてくる。「記憶」が色褪せてくる。
 そのために「記憶/記録」が「遠い」ものに感じられる。「彼方」へ言ってしまったように感じられる。
 でも「はるか彼方」とは言えない。
 「いちばん遠い」のに「はるか彼方」では「ない」。この矛盾に哀しみがある。色褪せるけれど「消える」のではない。「記憶」は消えるが「記録/文字」は消えない。
 ことばで特定できないところを、ことばはさまよっている。








*

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Estoy loco por espana(番外篇55)Joaquinの作品

2020-05-09 17:39:25 | estoy loco por espana


la obra de Joaquin

Si lo que vi ayer es "mu'sica del bosque", este trabajo representa "mu'sica del mar".
Una ola que rompe la superficie del mar y se eleva.
Una ola que lo suprime y trata de devolverlo al fondo del mar.
Los movimientos se cruzan. Y nace un ritmo.
Cuando los dos movimientos antagonizan, el horizonte del Mediterra'neo se extiende para siempre.
Como mu'sica.

きのう見たのが「森の音楽」を表現しているとしたら、この作品は「海の音楽」をあらわしている。
海面を突き破って立ち上がる波。
それを抑え込む波。
海の底へひきもどそうとする波。
交叉する動き、リズム。
二つの動きが拮抗したとき、地中海の水平線はどこまでもどこまでもひろがって行く。
そのひがりを感じさせる音楽。

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