山本育夫書下ろし詩集「薬缶(やかん)」十八編(「博物誌」46、2020年04月15日発行)
新型コロナウィルスは思いもかけないところにも影響を及ぼす。たとえば山本育夫が発行している「博物誌」もしばらく発行されなかった。46号も「04月15日発行」と奥付には書いてあるが、それよりも遅れた。
私も、実は、こんなことになるとは思わなかったが、突然、書くスピードが鈍った。奇妙な不安が私のまわりに漂っていて、それが気になってしようがない。
私は子どものときから病弱だった。風邪には年中悩まされる。気管支が弱い。扁桃腺もすぐはれる。だが、不思議なことに、インフルエンザにはかかったことがない。医者から「雑菌が原因だから、他人にはうつらない」と言われる。インフルエンザが流行する前に、風邪を引いて寝込んでいて、インフルエンザにかかる暇がなかったということなのか。予防注射も受けたことがない。風疹にかかったのは24歳のときだし、水疱瘡にかかったのは50歳のときだ。一週間、入院した。どうも「流行」からずれたところで、私の肉体は動いているようなのだ。
しかし、それゆえなのか、どうかわからないが。
新型コロナウィルスに感染すると、きっと死んでしまうなという予感、いままでの病気とはまったく違うものが襲ってくるという予感が、目の前に漂っている。
奇妙なことを書いたが、書かずにはいられないのである。
で、どうしてこんなことを書いたかというと、実は、山本育夫の新作を読めば、ことばが動いてくれるかなあと、期待していた部分があったのだ。ところが、山本も新型コロナウィルスに圧力を感じているようなのだ。いつものような「勢い」がない。何か、自制、自粛している感じがする。
18凶吉
凶吉のほとりで
祈っている人が老いる
あんなにクレバーな人だったのに
占星術にはまり込んでいる
私は、思いついたら、その瞬間から書き出すので、詩(詩集)を最後まで読んで書き始めることは少ない。今回は、なぜか、最後まで読んでしまった。
そして、まあ、ここから書くしかないなあ、と思い始めた。
「凶吉」ということばは、私は知らない。私は「吉凶」ということばになじんでいる。それがひっくり返されている。私が感想を「終わり」から書き始めるのを見越しているのかもしれない。そういうことにして、その「見越されている」ところから出発してみるしかない。
「凶吉」にもつまずいたが、つぎの「祈っている人が老いる」にもつまずくのだ。「祈っている人がいる」ではなく、そこに一文字、
老
が割り込んでいる。これが、まるで「凶」そのもののように、私を立ち止まらせる。私は「祈る」ということはしないが、祈らなくても「老いる」。この、なんといえばいいのか「人間の自然」がことばの運動のなかに割り込んでくる感じが、まるで病気が(新型コロナウィルス)が肉体に割り込んでくる感じに似ている。
意識できない。避けられない。向こうからやってきて、肉体の中に住みついて、内部から肉体を破壊していく。もし、
老
の文字が闖入してきていなかったら、その後の二行は単なる「批評」だ。「批評」とは他人を自分から切り離す方法であり、手段だ。自分とは違う人間。そんな人間のことなんか知るもんか、と言ってしまうのが批評。「共感としての批評」があるという人がいるかもしれないが、「共感」というのは自分と相手の区別がなくなることだから、そこには「批評」などない。「溺愛」というのとも違う。もっと激しく、乱暴なものだ。作者が私のものだと主張しているのに、「それは認めない、これは私が書きたかったことであり、私が読んでしまったのだから、もう私のものなのだ」というのが「共感」である。
で、今回の場合、ややこしいことに。
私は、山本の詩に割り込んできた
老
これに「共感」してしまったのだ。
「祈っている人がいる」という行だったら、次の二行に「クレバーはクレバスを思い起こさせる。深い裂け目、墜落を誘い込む深淵が、凶吉のほとりということばによってさらに深くなる。占星術が、それに拍車をかける」とかなんとか、テキトウなことばを動かして行ける。でも、そんなテキトウなことばをこの
老
の一文字が拒絶する。
山本は、祈っている人を見たのではなく、「老いる」という動詞そのものを見たのだ。それは「いや」なものかもしれない。しかし、見た以上は、それは「共感」なのだ。山本の「肉体」が、山本を裏切って「老」と一体になっている(セックスしてしまっている)ということだ。私が、ここで「一体」を「セックス」と言い直したのは、セックスというのは「共感」の言い直しになるが、相手の気持ち良さよりも自分の気持ち良さの方に重心が移っていく、自己中心的なものであると言いたいからである。欲望、あるいは本能的なものである、と言いたいからだ。
だから、というのはかなり強引な結びつけ方だが。
03・・・・・
きのふ
こころというものがゆっくりと冬蜘蛛の
糸
にのっかっていた
この詩の「こころ」ということばはつまらない。「こころ」というものはだれにでもあって、だれでも「自分のこころ」しか考えない。だから、だれでもこの詩に「自分のこころ」を重ねあわせ、「共感した」と言ってしまえる。この「共感」は私のつかっている「共感」とはまったく別のもので、いわば「好意的批評」の類である。
「きのう」というもの抽象的で、これもまたそれぞれの「自分のきのう」というものがあるのだが、それを拒絶するように、やまもとは「きのふ」と書いている。「ふ」という旧仮名が「老」のように、私を立ち止まらせる。
きの「ふ」の「ふ」なんて、見たくない。「老」のように、見たくない。見たくないけれど、見てしまった。
この詩は、「こころ」を追い出して、゛
きのふというものがゆっくりと冬蜘蛛の
糸
にのっかっていた
であった方が、私は「共感」しやすい。「誤読」し、好き勝手に、私はこう感じたと言える。「時間」を、という「もの」にして濁らせている。
透明なものが「詩」なのではなく、不透明で、見えない「もの」、抽象であっても抽象を拒んで、普遍化されず、そこに存在してしまう「もの」。まだ、だれの「もの」でもない。だから、書いた人から、それを奪って「私のもの」と言ってしまえるのが「詩」なのだ。
余分なことを書いたが、この余分なことを書くことで、私は、書こうかどうしようか迷っていた最初の詩にもどることができる。つまり、何か書けそうな気がしてくる。
01薬缶
ゆびさき、が黒ずんできた
目の縁とか、も
足の指
副作用が、気づかぬうちにからだ、のあちこちに微細な異常、を
ふきだめていく、印のように
これが「老」というものだろうが、「老」という抽象的なもの(考えを整理するときにつごうのいいもの)にはなかなか変わってくれない。「ふきだめ」のように、整理とは逆の動きになっていく。「ふきだめる」という動詞として山本はつかっているが、これが、私に言わせれば「共感」というものだ。「共感」は「こころ」が感じるものではない。「肉体」がどうしようもなく感じてしまう「本能/欲望」なのだ。だから、セックスというのだ。こんなことを書くと怒る人がいるかもしれないが、「こころ(愛)」がなくても肉体は本能として動くのだ。あとから本能を美しくみせるために「愛(こころ)」ということばで世界を整えるのだ。
「肉体」が「もの」になる。自分の「肉体」なのに、「もの」として見てしまう。「もの」のなかに、何か、自分の意思ではととのえられないものがあって、それはそれで動いていく。そして、それが「共感」を呼び込んでしまう力なのだ。
詩は、こうつづく。
涙目になりながらねこがすりよってくるからねこねことぼくはいい
ねこはみゃおみゃおと、副作用をなめる、だめだめそんなことをすると、
うつるよ、といいかけて。
ハッとする。
「人間の肉体」と「ねこ」は完全に違う。そんなものが「共感」していいはずがない。「共感」なんかするから「コロナウィルス」なんてものが野生の動物から人間に移ってしまうのだ。それは「共感」してはいけないものなのだ。しかし、「人間」の「肉体」はなんにでも「共感」する。そして、そのとき「(病気が)うつるよ」などという「科学で整理したことば」までつかってしまう。「肉体」の「共感」のためなら「理性/科学」さえもつかってしまう凶暴なものが人間にはあるのだ。無軌道なバカなのだ。これを、別な人は「愛」ということばで整理するかもしれないけれど。
山本のことばはそこではとまらない。言い換えると無軌道なバカから、さらに逸脱していく。
夕暮れにて、のにて、に感動したことがあったじゃないか
ぼくの夕暮れにて、ぼんやりと予感が薬缶からそそぎ出る、
何の関係があるかわからない(他人の肉体のなかでおきていることだからね、いわば「共感」というのは病気だからね)「にて」ということばへの感動(私がつかっている「共感」のことだ)をへて「薬缶」までことばは暴走する。
もちろん副作用の原因となっている薬を飲むために湯を沸かす薬罐という具合に「意味」をつくろうとすれば意味はいつでも捏造できる(論理を整理できる)が、大事なのは意味でも論理でも、それを整理することでもない。
「黒ずんできた肉体」と「ねこ」と「にて(ということば)」と「薬缶」というものをくっつけてしまう凶暴な「共感」がいま、ここで、動いているということなのだ。その「もの」、何のつながりもないはずのものが「詩という病気」に感染して、いままでそこにあった「黒ずみ」でも「ねこ」でも「にて」でも「薬缶」でもないものになってしまっている。
で、このあと、どうなる?
誰もが「結論」を求めてしまう。そこからたとえば「抒情病」というものが始まるのだが、コロナウィルスのように感染したら二割が重症化し、一割が死んでしまうというおそろしい事態がはじまるのだが……。
死は日常のものなのに
なんだって特別なものになってしまったんだろうな
ね。
重症でしょ?
私は自分の病気ではないから、つっぱねるしかない。感染したくない。ここには「共感」しないぞ、と決めているのだ。(もちろん「共感的批評」などは書かない。)
「予感」「薬缶」というような「ことば遊び」をしているから、「死」ということばにつかまってしまうのだ。何がなんでも「薬缶」そのものを「もの」にしてしまわないとおもしろくない。この詩のなかでは、「薬缶」はまだ「山本の薬缶」のままであり、私は「この薬缶がほしい、山本から盗んでやる、盗んだら絶対に返したりはしない」という気持ちになれない。
「ねこ」は私は苦手だし、嫌いだから盗んでやりたいという気持ちはないが、このねこ隠してしまったら、山本は探し回るだろうなあ、と思うくらいには「共感」している。「黒ずんできた肉体」も、「にて」ということばへのこだわりも「共感」できるが。
この奇妙な「不全感」のようなものをひきずって、私は詩集の最後まで読んで、最後に何か書けそうという感じをつかんで引き返してきたのだけれど。
でも、「不全感」は残った。
やっぱりコロナウィルスが、どこかで影響しているんだろうなあ。山本にも、私にも。「うつるよ、うつっちゃいけない」という意識が、どこかで動いているのだ。「肉体」を自由にしてくれないのだ。
*
「18凶吉」と読んだのは私の「見間違い」でした。「吉凶」です。山本さんから指摘がありました。引用するとき、なぜ「凶吉」なのか、疑問に思い、しっかり確かめたつもりなのだけれど。
正しい作品を引用しなおしておきます。「見間違い/読み間違い」にはそれなりの理由があると思うので、前に書いたものは、そのままにしておきます。
18吉凶
吉凶のほとりで
祈っている人が老いる
あんなにクレバーな人だったのに
占星術にはまり込んでいる
*
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