詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(21)

2018-03-05 00:58:36 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(21)(創元社、2018年02月10日発行)

 「音楽のとびら」は詩か、エッセイか。「ことば」であることにかわりはない。ⅠとⅡにわかれている。
 Ⅰのテーマは「言葉は音楽を語る事が出来ない」、あるいは「音楽は言葉を語れない」であり、「音楽は言葉を語る必要はない」。
 そのなかに、「音楽」を離れて、こう書いてある。

 言葉は精神と肉体を分ける。精神すなわち肉体、肉体すなわち精神という言葉をわれわれは未だ、或いはすでに持ち合わせない。

 これについては、異議を申し立てたい。
 ことばは確かに「精神」と「肉体」という表現をもっている。けれども、私は「精神即(すなわち)肉体」「肉体即精神」と思っている。切り離せないし、そのふたつのことばは入れ替え可能である。あるとき「精神」といい、別なときに「肉体」といい、さらには「精神と肉体」、あるいは「肉体と精神」という具合につかいわけるけれど、これは「方便」である。「ひとつ」の「何か」から、「何かの都合」にあわせて「精神」と「肉体」ということばが出てくる。そう考えている。
 たぶん、ここが谷川と私の考え方のいちばんの違いだと思う。
 で、ここからこんなことも思うのだ。
 谷川は「言葉」と「音楽」を、「精神」と「肉体」のように分けている。先の引用は、

 われわれは言葉と音楽を分ける。言葉すなわち音楽、音楽すなわち言葉という「考え方(ものの把握の仕方/思想)」をわれわれは未だ、或いはすでに持ち合わせていない。

 と言い換えることができる。「われわれ」は、「人間は一般に」ということだろうが、厳密に言えば「谷川」である。
 私は、そうではないとらえ方があるのではないか、と思う。ことばと音楽には「即」といえるものが隠れているのではないか、と思う。これは予感のようなものであって、実感ではないのだが。

 こういうことは考え始めると、とてもむずかしいのだが。
 たぶん、どういう環境で育ってきたかということも影響していると思う。
 すでに書いたが、私は「音楽」というものを非常に遅くなってから知った。小学校に入学して、オルガンにあわせて歌を歌うのを聞くまでは「音楽」というものを聞いたことがなかった。両親は歌を歌わないし、歌も聴かない。兄弟とは年が離れているので、歌を聴いたことも一緒に歌ったこともない。「子守歌」めいたものは聞かされたかもしれないが、たぶん「歌」ではなく「声(呼びかけ)」としてしか私の「肉体」には聞こえていない。
 「音楽」が生まれたときから周囲(家庭)にあった谷川とは、考え方がどうしても違ってきてしまう。
 私は「音楽」というものと、「精神」のようにして「出会った」のである。「精神」はいつでも、どこでも存在しているが、子どものときは「精神」ということばを知らない。「精神」ということばを聞き、それを使いこなせるようになるまでは「精神」というものは、私には存在していなかった。「音楽」が小学校で「音楽」ということばで聞かされるまでは、私にとっては存在していなかったというのに似ている。
 「音楽」はなかったが、「音」はあった。山の中で育った私は、自然の音を聞いていた。でも、それは「聞く」という感じではない。「聞く」とは意識しなかったと思う。それは、ただ「ある」。田んぼや畑、道や、草木が「ある」のと同じ。それを「見る」とは、わざわざ言わない。ただ「ある」のだ。
 ことば(声)は、かなり違う。それは「聞く」ものだった。ことばは「精神」と「肉体」を動かす。「肉体」は、そのときあまり意識されない。「精神」ということばはおおげさだから、「気持ち」と言いなおした方がいい。ことば(声)を聞く。つまり「何か」言われる。それに対して「気持ち」がまず動き、そのあとで「肉体」が動く。
 自然のあれこれ(見えるもの、聞こえるもの)も「精神」と「肉体」を動かす。働きかけてくる。けれど、そのとき「精神」はあまり意識されない。「肉体」が反応している。川の水が音を立てて流れていると、その中には入らない。落ちないようにする。それは「精神」で判断しての動きではない。「肉体」の、一種の無意識の動きである。
 どんどん脱線してしまう。どこまで断線していいのか、わからなくなるのだが、とりあえず、そういうことを書いておきたい。Ⅱで谷川が書いていることと、少し関係があるからだ。

 Ⅱの中心的なエピソードというか、テーマは、信州の山奥でフォークソングを聞いたときの谷川の「反応」である。
 自然の音は聞いていた。(聞こえていた)。けれど「音楽」聞かない日々がつづいた。そんなある日、フォークソングのグループがやってきて、歌を歌った。その音楽に谷川は「圧倒」された、という。

 音楽は、それら自然の音とは最初の一音から別物だった。それは思わず顔が赤らむほどぶしつけなものだった。あつかましく図々しく高原の空気の中に響きわたり、私を犯した。ひとつひとつの音が、人間の肉の訴えに満ちており、トルストイがクロイツェルソナタについて言ったことを、私はまざまざと想い起こしたのである。

 この文章で私が感じるのは、「音楽」と「自然の音」というものが、私の感覚とはまったく逆であるということだ。
 「音楽」を「ひとのつくったもの」と谷川は言うが、「音楽」は谷川にとって生まれたときからそばにあった。先天的だ。「自然の音(信州の山の音)」は都会育ちの谷川にはあとからやってきた。後天的だ。
 この「先天的」と「後天的」は、「肉体」と「精神」という具合に言い換えることができる。「肉体」と「精神」はいっしょにあるもの(切り離せないもの)だが、ふつう「肉体」が先天的にあり、「精神」はあとから学ぶもの(気づくもの)だろう。
 さらに言い換えると、谷川にとっては「音楽」は「肉体」であり、「信州の山の音」は「精神」なのだ。
 「音楽」が「肉体」であるからこそ、谷川を「犯す」。
 「おかす」という動詞は「侵す」と書けば「精神を侵す」「自由を侵す」ともつかうけれど、「犯す」ならば「肉体」を「犯す」である。自然の音は「肉体」ではないから、谷川を「犯す」ことはない。
 「音楽」は谷川にとって「先天的」であり、「肉体」そのものである。
 だからこそ、こうも書く。

美と快楽と慰めに結びついているからこそ、音楽はますます奥深いものになるのである。

 これは「肉体」と結びついているからこそ「音楽は奥深いものになる」であり、「音楽の美と快楽」は「肉体の美と快楽」そのものである。「後天的(人工的)」なものではなく「先天的」なのものなのだ。

 音楽そのものが本来、理性への挑戦という一面を含んでいるのだ。音楽の精神性も、それを踏まえて考えることなくしては、単なる通俗教養主義に堕してしまうだろう。

 谷川にとって「音楽」が「先天的(肉体/自然)」だからこそ、それは「理性への挑戦」になる。「理性」は「後天的」であり「人工的」だ。「音楽」の「精神性(後天的/人工的)」なものというのは、「理性」でつくる「精神」ではなく「肉体」が本能的に身につける「身のこなし」のようなものなのだ。

 こう考えてくると、大問題が起きる。

 「自然の音」と「音楽(人工の音)」のどちらが先天的(肉体的)かという部分で、私と谷川は決定的に違う。
 この違いを超えて、詩を読み続けることはできるのか。違いを抱えたまま読み続けると、そこに何があらわれてくるのか。
 そこにあらわれてくることばは、谷川について語っているのか、私について語っているのか。
 区別がむずかしくなる。
 わけがわからなくなりそうだが、わけがわからないことを利用して、Ⅰに戻ってみる。谷川は、

音楽は言葉を語る必要はない

 と語っていた。その「音楽」を「肉体」と書き直してみよう。

「肉体」は言葉を語る必要はない

 実際、「肉体」が動くとき「ことば」を必要としない。「肉体」は「動き」を通して「他者」と交渉する。「ことば」はなくても「肉体」が何をしたいかはわかる。つたわる。
 さらに「言葉」は「後天的」に学ぶもの、「肉体」は「先天的」に存在するものだから、これはこういう具合に読み直すこともできる。

「先天的存在である肉体」は「後天的なもの」を語る必要はない

 「先天的なもの」は「ある」。「ある」だけで十分なのだ。完結している。
 これは、私の「感覚」である。「音楽(人工の音)」を知らずに育った私の「実感」に非常に近い。
 もうひとつ、私が「異議申し立て」をした部分の文章はどうなるか。

 言葉は精神と肉体を分ける。精神すなわち肉体、肉体すなわち精神という言葉をわれわれは未だ、或いはすでに持ち合わせない。

 この「肉体」を「音楽」と言い換えてみよう。

 言葉は精神と「音楽」を分ける。精神すなわち「音楽」、「音楽」すなわち精神という言葉をわれわれは未だ、或いはすでに持ち合わせない。

 私は書きながら、「肉体」がぐらりと揺れるのを感じる。
 谷川はむしろ、

精神すなわち「音楽」、「音楽」すなわち精神

 ということが「肉体」にしみついてしまっているのではないだろうか。「肉体」にしみついてしまっているから、それをことばにする必要がない。
 「音楽」を「人工的なもの」(後天的なもの)と言いなおすと、肉体よりも後天的な「精神」と「即」でしっかり結びつかないか。

精神(後天的なもの)すなわち「人工的なもの(後天的なもの)」

 「後天的なもの」という「同じことば」が「即」そのものになる。

 「音楽」について谷川は「私を犯した」と書いていた。「音楽」は「肉体」であった。だから、いま「音楽」と書き直した文章をもう一度「肉体」と書き直すことも可能なはずである。
 そうすると、どうなるか。

精神すなわち肉体、肉体すなわち精神

 谷川は、こういうことばを「持ち合わせない」と書いているが、私は谷川の詩に「精神すなわち肉体、肉体すなわち精神」という「思想」が隠れてると感じる。「すなわち」のかわりに「音楽」があいだに入って「精神」と「肉体」を結びつけている、入れ替え可能にしていると感じている。

精神=音楽=肉体

 記号をつかって書けば、こういう関係があると感じる。
 「音楽」を媒介として挟み込むと、谷川にとっては「精神即(すなわち)肉体」にならないか。そしてまた「音楽」を媒介とすれば「言葉即肉体」ということも言えるのではないか。
 うまく整理できないが、私が谷川から受け取るのは「言葉(精神)=音楽=肉体」という「ひとつ」のものである。
 私は「正式な音楽」というものを知らないが、ことばのもっている「音の響き/声の響き」と「肉体」は切り離せないものだと感じている。私は「音楽」のかわりに「響き」を媒介にして「ことば(精神)=響き/声=肉体」を「ひとつ」のものと考える。
 私は谷川が「音楽」と呼んでいるものを「響き(そこにある音の肉体)」と自己流に「誤読」して、谷川の詩と向き合っているのかもしれない。

 (書いているときは、何かがわかっているつもりだったが、読み返すと何が書いてあるかわからない文章になった。)


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