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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

議論はいつするのか(安倍の沈黙作戦)

2017-12-21 11:13:17 | 自民党憲法改正草案を読む
<議論はいつするのか(安倍の沈黙作戦)
             自民党憲法改正草案を読む/番外157(情報の読み方)

 読売新聞2017年12月21日朝刊(西部版・14版)1面、

自民改憲本部/自衛隊明記 2案併記/9条2項「維持」「削除」

 という見出し。

自民党憲法改正推進本部(細田博之本部長)は20日の全体会合で、改憲4項目に関する「論点取りまとめ」を示し、了承された。自衛隊に関する規定を巡っては、憲法に自衛隊を明記することでまとまったが、戦力不保持を定めた9条2項について「維持」と「削除」の両案を併記し、結論を持ち越した。自民党は来年1月以降、党の憲法改正案をまとめた上で通常国会に提出し、国会発議を目指す。

 この前文のあとに、もうひとつ見出しがついている。

論点4項目 来年発議目指す

 「自衛隊」「緊急事態」「参院選の合区解消」「教育充実」の4項目を改正するのか自民党の狙いである。
 なぜ「4項目」なのかわからない。
 それ以上に、なぜ「自民党は来年1月以降、党の憲法改正案をまとめた上で通常国会に提出し、国会発議を目指す。」という「日程」がわからない。「来年1月」というのは、もう目の前である。
 そんな簡単に議論がまとまるのか。
 4面には、さらに詳しい日程が載っている。それによると、

1月以降 自民党の憲法改正案とりまとめ。通常国会に提出
22日   通常国会召集
3月末  18年度予算成立
6月以降 憲法改正の国会発議(発議は総裁選後の可能性も)
9月   総裁選
秋(?) 国民投票(発議から60- 180日以内)

 いったい、「改正案」の議論はいつするのだろうか。3月までは予算審議が優先されるだろう。そのあと6月まで議論するのか。その議論はどんな形になるのか。総裁選前に発議した場合、総裁選で安部以外の人間が選出されたとき、どうなるのか。議論がすんでいるから、だれが総裁でも同じということか。あるいは、もう安倍の選出が既定事実なのか。
 さらには、国民の議論はどうなるのだろうか。国会で議論したから、あとは国民が賛成か反対か投票するだけということか。国会の議論だけで、国民が論点の問題を整理、理解できるだろうか。
 あまりにも性急ではないだろうか。
 4面には、全体会合で出た「主な意見」という形で、北村参院議員の声がかかれている。

政治日程や皇室関係の日程を考えると、時間は極めて限られている。来年の通常国会で発議し、秋から12月に国民投票を実施すべきだ。

 「政治日程」というのは19年4月の統一選、夏の参院選のことである。「皇室日程」というのは4月30日の天皇退位、5月1日の皇太子即位のことである。「皇室日程」と憲法改正は関係ないだろう。「改憲」が争点では統一選、参院選の勝敗がわからない。自民党が負けるかもしれない。影響がでないうちに改憲をすませようということだろう。
 国の将来のことなど考えていない。自分たちが当選できるのはいつが一番いいか。そのことしか考えていない。
 改憲の「4項目」のひとつが「参院の合区の解消」である。「合区」は一票の格差を是正するために決まったこと。それをやめて、各都道府県からかならず1人を選出するという方法に戻す。議席の確保が狙いである。
 なんとしても参院選のまえに改憲しなければならない。
 こんな身勝手なつごうで「日程」が決められ、国民の議論が封じられる。国民の議論を封じるだけではなく、自民党内の議論も封じようとしている。「各都道府県からひとり、自民党議員がでないとまずいだろう。合区をこのままにしておくと、どんどん合区が増えてくる。当選できなくなるぞ、いいのか」と脅し、議員をも沈黙させようとしている。「落選したくなかったら、安倍の言うことを聞け(沈黙していろ)」という独裁が、ここまで進んでいる。

#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 

table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" class="amazon-aff">憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ークリエーター情報なしポエムピース
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中原秀雪『モダニズムの遠景』

2017-12-21 09:57:27 | 詩集
中原秀雪『モダニズムの遠景』(思潮社、2017年11月30日発行)

 中原秀雪『モダニズムの遠景』には「現代詩のルーツを探る」というサブタイトルがついている。
 私は、私の祖父母を知らない。私は両親が年をとってから生まれたので、私が生まれたときすでに父方の祖父母も母方の祖父母も死んでいた。母方の、母の兄弟だと思っていたのは、実はいとこだった。いとこだと思って遊んでいた少女はまたいとこだった。そういうこともあって「ルーツ」というものにもまったく関心がない。「歴史感覚」というものも、きっと欠けている。
 だから、これから書く私の感想は、きっと中原の「狙い」とは無関係なことになってしまう。

 丸山薫についての文章は、こう始まる。

 丸山薫がソウルに赴任する父に従い、一家と玄界灘を渡ったのは、明治三十八年満五歳の初夏であった。

 ごく普通の紹介の仕方なのかもしれないが、私は、ここでつまずいてしまう。
 つまずきは、ふたつ。
 ひとつは、それを中原は目撃したのだろうか、ということ。つまり「肉体」で覚えていることなのか。いろいろなものを読んで「知った」情報なのだろうか。もちろん後者だろう。こういう「知ったこと(情報)」を「事実」のように書くということが、私にはよくわからない。その「事実」に対して、疑問をもたなかった? どうして、それを「事実」と信じる? まあ、さまざまな「資料」がそう語っているから「事実」である、というのだろうけれど。
 これは、まあ、「歴史嫌い」の人間のいちゃもんである。
 もうひとつ。

 丸山薫がソウルに赴任する父に従い、

 この書き出しの「従う」という動詞に、私はとても疑問をもつ。もし、私が丸山薫で五歳だったら、こういうとき「従う」という動詞は私の肉体のなかでは動かない。「従う」には「わかる」が含まれている。「了解/納得」が含まれている、と思う。五歳ならば「従う」ではなく、単に「連れて行かれた」である。ほかの行動がとれない。「従う」に丸山薫の「気持ち」が含まれてるとは思えない。こういう動詞のつかい方に、私は、ついていくことができない。
 丸山薫と「一体になっていない」。丸山薫と「交渉していない」と感じ、これから始まるのが、「ストーリー」に過ぎないと思ってしまう。
 「一家と玄界灘を渡った」も同じである。それは「客観的事実(歴史)」かもしれないが、「主観的事実」とは違うだろう。
 「主観的事実」と違うからこそ、中原は、直後に「緑の大砲」という丸山薫の随想を引用し、丸山薫自身に「記憶(覚えていること)」語らせるのだが。
 どうも、私は落ち着かない。むずむずする。
 次の文章は、むずむずを通り越して、ぎょっとする。

父は(略)統監府参与官兼警視総監を拝命することになる。

 「拝命する」というのは、どういうことだろう。命令によって、その任務につくこと、か。それを「任命される」ではなく「拝命する」と書くとき、その「拝」に何がこめられているか。それを思い、ぞっとする。こんなところで「父」のかしこまった気持ちを語るくらいなら、「父に従い」ではなくもっと五歳の子どもの気持ちがあふれる動詞をつかうべきだろう。
 登場人物(対象)に対する「向き合い方」が、どうもおかしい。中原自身が向き合っているのではなく、他人が語ったことを、その語りのまま書いている感じがする。中原は、「何を聞いた(何を読んだ)」のか。
 過去の人物について書くときは、その人について書かれたものを読むしかないのだが、読みながら中原が「何を聞いた」のか、それがわからない。「父に従い」も「拝命する」も、誰かが「語ったこと」であり、そこに中原が「聞いたこと」があるとは感じられない。中原の「受け止め方」がわからない。

 誰かが「語ったこと」をそのまま口移しで繰り返すのと、「聞いたこと」を自分のことばで語ることは違うと私は思う。
 それは、次のような部分でも感じる。
 中原は、「イメージ=映像の論理で詩を構成し物語性を付与している」と書いたあとで、村野四郎の文章を引用する。

「もう詩の抒情は『歌われること』によらず『思い浮かべること』によってなされる、いわば、歌うことによる陶酔の美学から、イメージによる思考による美学へと変わった」(「近代抒情詩の形成」)。この一文は、まさに丸山薫の詩についての解説にもなり得るし、また所謂「現代詩」の変革という歴史的な位置づけと課題を見通した記述にもなっている。

 「まさに……」の部分が「聞いたこと」になるかもしれないが、あいまいである。
 中原は「イメージ=映像の論理」と言い、野村は「イメージによる思考」と言う。中原は「構成」と「物語性」ということばをつかい、野村は「美学」ということばをつかっている。「物語性」は「美学」と、どう関係しているのか。
 野村が語ったことをそのまま転写するのではなく、聞いたものを語りなおすというのなら、「物語性」と「美学」の関係をもっと語ってもらわないとわからない。中原は「考える」ことをやめて、野村のことばを借りて、自分を代弁させているという感じがする。
 ここに書かれているの野村の文章は「野村が語ったこと」であり、中原が「聞いたこと」ではない、という印象がする。
 だから、私は、こんなふうに中原に問い直したい。
 音に酔う(陶酔する)ように、イメージに酔うということはないか。目が酔うということはないか。さらにイメージといっても、ことばには「音」がともなう。イメージ(映像)と思われているものが音楽であるということはないか。
 たとえば中原が引用している丸山薫の詩のなかで、丸山薫は「三檣帆船」に「パーク」というルビをふっている。なぜ、ルビをふったのか。読み方(音)を限定したのか。そのことを考えると、「イメージ」には「音のイメージ」もあることがわかる。これを、どう説明するか。それを聞きたい。

 中原の「現代詩批判」を語る次の部分にも疑問を持った。

現代詩は(略)ありふれた言葉や陳腐な表現を避けたいという想いから、表現の袋小路に入り込み伝えたいことを喪失している。(略)自己の表現に満足することと、他者に伝えたいことが確かに伝わっていることは別な話である。自分の表現に納得できないということよりも、他者に伝わるものの確かさを大事にするという意識が希薄である。(29ページ)

 ことばは「伝える」ためのものなのか。私は、簡単には断言できないと思う。「伝える」前に、まず「考える」。「考える」ためにことばはある。「考える」というのは自己のなかで完結する行為だから「自己中心/自己満足」になってしまうかもしれない。けれど、「考える」ことをやめてしまえば、どうなるのか。
 最初に引用した文章にもどろう。
 「丸山薫がソウルに赴任する父に従い、一家と玄界灘を渡った」「父は統監府参与官兼警視総監を拝命する」と書くとき、中原の「伝えたい」事実は伝わる。そして、そのとき中原が丸山薫の「実感」については「何も考えていない」ということも、私には伝わってくる。それは中原が「伝えたい」こととは違うだろうが、言い換えると私の「誤読」だろうが、「誤読」ゆえに、ひしひしと伝わってくる。
 「客観的表現」「流通言語としての表現」は「伝える」ことには適しているかもしれないが、「考える」ということには適していない。
 詩を読む、あるいはほかの文学(ことば)を読む。私は、何かを「知りたい」から読むのではなく、むしろ「知っている」と思っていることを忘れるために、言いなおすと「考える」ために読む。「考える」ために読みたいと思っている。
 中原の文章を読みながら「知った」ことではなく、私は私の「考えた」ことを書いた。

モダニズムの遠景―現代詩のルーツを探る
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思潮社


*


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目次
カニエ・ナハ『IC』2   たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15   夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21   野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34   藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40   星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53   狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63   新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74   松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83   吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91   清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107



*


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秋山基夫『文学史の人々』

2017-12-20 16:49:22 | 詩集
秋山基夫『文学史の人々』(思潮社マンデマンド、2017年11月10日発行)

 秋山基夫『文学史の人々』にはいろいろな人物が出てくる。しかし私が読んだことがあるのは、森鴎外だけである。そこで「森鴎外」を読んでみた。「青い空」という詩のような作品と、「東京方眼図と散歩する青年たち」という散文(ゆきあたりばったり)という感じの作品、「注」の三つから構成されている。
 はっきり言って、何が書いてあるかわからない。だが、「東京方眼図と散歩する青年たち」の次の部分に引きつけられた。

ところがこの方眼図は人にひとつの見方を要求する。(91ページ)

 地図がひとに「ひとつの見方を要求する」か。私は地図というものを、そんなふうに考えたことがなかったので、驚いた。
 秋山は何を「要求されている」と感じたのか。秋山の感じたことを探っていけば、秋山の思想(肉体)に触れることができる。
 先の文章を含む部分は、こうである。

 人はものを見る場合「自分」の目の位置でそれを見るだろう。目から遠いところは、よく見えるように目を近づけるか、ものを目に近いところにひきよせるかする。つまりものの見方は、あれこれの適当な選択によっている。ところがこの方眼図は人にひとつの見方を要求する。人は自分の目の位置をこれから行きたい目的地が存在するあるひとつの方眼の真上に持っていき、それを垂直に見おろさなければならない(対象との最短距離)。

 正気か?あるいは「文学」にするために、わざと書かれたものか。私は書き写しながら、判断に迷う。としか思えない。
 ひとはだれでも「自己中心的」に世界を見る。でも「目から遠いところは、よく見えるように目を近づけるか、ものを目に近いところにひきよせるかする。」というのは正しいようで間違っている。
 私は目が悪いので、ここに書かれていることはそのまま納得できる。「正しい」と思う。しかし、それは「現実」の世界のことである。本棚にある本の文字が読めない。近づくか、手元に引き寄せる。
 でも、これは「地図」の世界ではない。
 別な言い方をしよう。街を歩いている。歩いてどこかへゆく。そのとき「よく見る」という「動詞」はどうなるのか。遠くにある標示の町名が読めない。そういうときは「目を近づける」前に「肉体」そのものを近づける。そこに近づいていく。そして、そのとき「ものを目に近いところにひきよせる」ということなどは絶対にしない。あるビルを目印に歩いているとき、そのビルを「目に近いところにひきよせる」ということは絶対にない。ひきよせられないものがある。
 「地図」が「要求する」ものの見方とは、「ものを目に近いところにひきよせる」という見方を放棄することである。地図は「目」で読むものではない。「現実」を絶対視し、それを「動かさない」。それが前提になっている。もし、目印のビル、目印の川、目印の交差点を「目に近いところにひきよせる」ということをしてしまったら、世界がねじまげられてしまう。「目」は「目という肉体の部分」ではなく、「肉体」そのものとして対象に近づいていく、肉体を移動させるしかない。「地図」では「目」が動くのではなく、「肉体」全体が動いていく。肉体しか動かない。
 でも、秋山は、そうは考えない。

人は自分の目の位置をこれから行きたい目的地が存在するあるひとつの方眼の真上に持っていき、それを垂直に見おろさなければならない(対象との最短距離)。

 これは、まあ、「鳥」のように空中から「地図の町」を見下ろす感じなのだろうが、私はこの「強引」な秋山の「肉体」の動かし方に眩暈を覚えてしまう。
 「地図」は「垂直に見おろし」て読むものか。たとえば壁にはられた世界地図。街角の道路地図。それは「見おろし」たりはしない。向き合って「水平」に見つめる。鴎外の作った「方眼図」も手で目の位置まで持ち上げて「水平」に見ることが可能である。「水平」に見ても、「内容」がかわらないのが地図である。
 このあとに書いてあることが、さらに奇妙である。

斜めに見たりすると、あえて微妙ないい方をすれば、眼から遠いところは方眼が小さく変形してしまう。(もちろん実際のこととしては、図自体が小さくかつ文字も小さいから見えなくなるかもしれない。一定の視力以下の人は眼鏡か天眼鏡がますます必要になる。眼のいい人は斜めに見ても見えるかもしれないが、脳のなかで垂直に見たように修正しているだろう。)

 方眼図は秋山によれば、縦77・5センチ、横55センチのものと、縦21・5センチ、横8・5センチの二種類の組み合わせ。大判のものはともかく小さい地図など、わざわざ「斜め」の方から見る必要などないだろう。「眼から遠い」といっても「遠さ」には限度がある。
 「脳のなかで」「修正している」ということばがあるが、「地図」とはもともと「脳のなかで修正したもの」だろう。「脳のなかで修正されたもの」を「現実に復元しながら」地図の道を歩く。
 どうも秋山は「地図の見方」が、私の感覚から言うと「尋常」ではない。とても変わっている。
 で、ここから大胆に端折ってしまうのだが、鴎外の「この地図」が「人にひとつのものの見方を要求する」と受け止める秋山は、「世界」を見るとき、また「特別なものの見方」をしていることを間接的に語っていないか。「脳のなかで修正して」ものを見る、ということを拒み、ただひたすら「眼(目、とどう違うか考えてみないといけないのかもしれないが)」で見る。眼(目)に触れたものを、そのままことばにしていく。それが秋山の「肉体」のあり方なのである。
 私は目が悪い人間だから、私のものの見方(世界の見方)の方が間違っているのかもしれないが、私は秋山のようにはもの(世界)を見ることができない。目に見えるものは「多すぎる」。目が悪いので、そのすべてを「認識する」ということはできない。最初から余分なものは見ないようにしている。見えているものが限られているにもかかわらず、さらにそれを「脳のなかで整理し(情報を修正し)」、情報量を減らしている。余分なものを捨てている。「脳」とは、「肉体」のなかでももっとも「自己中心的な存在」だと思う。全部、自分の都合で「情報操作」し、不都合なことはなかったことにする。つまり、平気で嘘をつく。
 いま、こうやって書いている文章にしろ、私は「脳」が選んだ部分だけをとりあげて、書いている。秋山が書いていることのほとんどを無視して書いている。情報操作をしている。そうしないと動けない。
 でも、秋山は違う。
 私が引用しない部分では、高校で森鴎外が主人公の「舞姫」の芝居を見ている。前田愛の本を読んでいる。ほかにもいろいろあって、それを「ずるずるずる」とつないで「世界」(ことばの地図)にしている。「修正(取捨選択)」があるにしろ、それは「取捨選択」を感じさせない。見えたものはなんでも「ひとつの地図(作品)」に取り込んでしまう。
 こういう感覚で世界を見つめるから、

ところがこの方眼図は人にひとつの見方を要求する。

 と感じる。地図が「ひとつの見方」で作られているから,それが「ひとつの見方」を要求するのはあたりまえなのに、「要求されている」と感じる。そして「窮屈」に感じる。「便利」ではなく、不自然だと感じるのだろう。
 この「ひとつの見方」を、秋山はさらに言いなおしている。

 肝心なのは方眼図がどの方眼も同じ面積をもつ等質の空間だということだ。不特定の人のための道案内という目的にしたがうかぎり、等質でなければならないし、歪んだりしていてはいけないし、勝手に歪めたりするべきではない。

 地図は同じ縮尺でできている。「方眼」の大きさは等しいというのは、「常識」だと思うが、秋山は、このことが不満である。「等質」ということが気に入らないようだ。ひとは生きている。それぞれの人の生き方は「等質」ではない。「同じ」ではない。歪んでいてこそ、生きている世界なのだ。
 森鴎外についての読み見方(感じ方)も、それぞれが違う。高校生の読み方(感じ方)と前田愛の読み方も違う。その「質」も違う。それが鴎外の「この方眼図」には反映されない。それと同じように、ひとそれぞれの暮らし(思想)によって、「地図」は違うはずなのに、鴎外の「この方眼図」は「方眼」であることを強いている。
 で、その「方眼」を破ろうとして、秋山はことばを書き続ける。こんなに違う質の人間がいる。ことばがある。秋山が直接見たもの(体験したもの)だけでも、「方眼」におさまりきれないものがある。
 いや、わかるんですよ。秋山の言っていることは。秋山の言っているとおりですよ。ひとの「解釈」は違う。「方眼」にはあてはまらない。
 でもねえ、それを言うために「方眼図」に対して「人にひとつの見方を要求する」というのはなあ。
 「この方眼図」の「この」は「鴎外の」を言いなおしたものだけれど、この部分の「この」というこだわりが、なんとも言えずおかしい。「鴎外の方眼図(地図)」に限らず、どの地図もたいていは「方眼図」の方式で書かれている。東西南北(天地左右)に、見えない「方眼」が書かれている。その見えない「方眼」の上に、道路とか川とかビルとかが書かれている。それは「人にひとつの見方を要求する」のではなく、人が「地図」に対して「ひとつの描き方を要求した」結果なのである。鴎外はそういう「ひとの要求」にあわせて地図を考案しただけである。
 「方眼図」を見ていないけれど、鴎外ファンの私としては、そう反論しておきたい。

文学史の人々
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株式会社思潮社

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カニエ・ナハ『IC』2   たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15   夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21   野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34   藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40   星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53   狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63   新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74   松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83   吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91   清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107



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大倉元『噛む男』

2017-12-19 10:53:07 | 詩集
大倉元『噛む男』(澪標、2017年11月25日発行)

 大倉元『噛む男』には大和郡山市の市長の「帯」がついている。私は「帯」に書かれていることなど気にしないが、「大和郡山市長 上田清」の文字にげんなりした。読む気力が消えそうになる。上田清がどういう人物か知らないが、文学は「行政」とは縁のないもの、「政治」を裏切るものだろう。徹底的に「個人」のものだろう。
 いやあな感じを抱きながら読み進む。「吉田昌郎氏のこと」という作品がある。

二〇一一年三月一一日一四時四六分
東日本大震災は日本中を恐怖のどん底に突き落とした
地震 津波それによる東京電力福島第一原子力発電所は
壊滅状態となった
日本中を汚染するのではないかと
恐れられた放射能漏れ
世界の目が 日本に 東日本に釘付けとなった

 私は、こういう「ひとごと」のような文体が好きではない。大倉がどこにいて、どんなふうに東日本大震災を体験したのか、これではさっぱりわからない。
 二連目。

東京電力福島第一原子力発電所
吉田昌郎は自然のおそろしさに茫然とした
発電所内を走り回った
だが見て回る場所は限られた
命がけの作業が待っているのを覚悟した
よし俺に命を預けてくれる部下と闘おう

 うーん。「吉田昌郎は自然のおそろしさに茫然とした」の主語は「吉田」、動詞(述語)は「茫然とした」。これは、どうやってつかみとった「事実」なのか。吉田が自分自身でそうことばにするのならわかるが、第三者である大倉がどうして「吉田は茫然とした」と書くことができるのか。直接、吉田から聞いたのか。そうではないと思う。
 私は、こんなふうな書き方、自分を「事実」の外に置いておいて、「客観」を装ったことばというものを信じない。メディアが伝えることを、メディアをとおして知ったことを、自分が「知っている」こととして書くことばを信じない。それは大倉が「知っていること」ではなく、また「聞いたこと(読んだこと)」でもなく、メディアが「伝えたこと(語ったこと)」にすぎない。
 しかし、これが途中で変わる。

あっ
あの眼鏡の優しい吉田昌所長は
昔いっしょに仕事をした
Y氏の息子まさお君ではなかろうか

 と、突然、東日本大震災からはなれ、大倉自身の「覚えていること」、そこから「考えられること」をことばにし始める。

Y氏と全国を営業で回った
Y氏は小柄ながら正義感の強い男だった
商売のイロハを叩き込まれた
十人足らずの仲間
家族ぐるみの付き合い
風通しのよい会社
Y氏の夫人が経理を担当していた
Y氏のひとり息子が学生服でよく遊びに来ていた
名前はまさお君といって
大阪のO大学付属高校に通っていた
上背のある好青年だった

残念ながら会社は三年で解散した
そういえば
まさお君は東京工業大学を出て
東京電力に入社したと聞いていた
テレビの取材に応じている吉田昌郎所長は
頑固さもあったY氏の息子
まさお君に違いない

 なんでもないことだが、ここには大倉にしか書けないことがことばになっている。かつて大倉が信頼を寄せたY氏に吉田昌郎を重ね、彼を信頼し始めている。原発事故はどうなるのかわからない。不安だ。しかし、その不安のなかで大倉は「信頼」というものをつかみかけている。
 それが、正直に出ている。

Y氏はもうこの世の人ではないが
生きていればどんな心地だろう
放射能漏れを食い止めよう
その一念で頑張っている
四十年ぶりに見るまさお君

東京電力福島第一原子力発電所
吉田昌郎所長

頼んだぞ
テレビの前で叫んだ

 「頼んだぞ」と言えるうれしさ。
 大倉は、吉田昌郎について何かを知っているとは言えない。彼の能力については何も知らない。彼が原発事故に対してとる処置が正しいかどうかを判断することもできない。けれど彼とつながるY氏を知っている。その「ひとがら」を覚えている。それを「いま」「ここ」に呼び出しながら、「頼んだぞ」と叫ぶ。
 吉田に向かって叫んでいるのだが、同時にY氏に向かって叫んでいる。吉田に向かって叫ぶときは、大倉であって大倉ではない。Y氏になって叫んでいる。この重なりあいが、なんとも言えず、強い。その「重なり」のなかに、私自身も重ね合わせたい気持ちになる。

噛む男
クリエーター情報なし
澪標




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目次
カニエ・ナハ『IC』2   たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15   夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21   野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34   藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40   星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53   狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63   新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74   松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83   吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91   清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107



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談合の自主申告

2017-12-19 08:33:45 | 自民党憲法改正草案を読む
談合の自主申告
             自民党憲法改正草案を読む/番外157(情報の読み方)

 読売新聞2017年12月19日朝刊(西部版・14版)1面、

リニア工事 大林組 4社談合を深刻/公取委に 課徴金減免狙い

 という見出し。
 談合を自主申告すると課徴金が減免される。自主申告したと認められれば、先着順に1-5社までが課徴金を100から30%減額される。最初の1社は刑事罰も免責されるという制度がある。これを狙ってのことらしい。
 気になるのが、記事のなかみ。
 前文には、こうある。

 リニア中央新幹線の建設工事を巡る不正受注事件で、「大林組」(東京)が大手ゼネコン4社で不正な受注調整をしていたことを認め、課徴金減免(リーニエンシー)制度に基づき、公正取引委員会に違反を自主申告していたことが関係者の話でわかった。

 記事の途中には、こうだ。

 残りの3社が自主申告したかは明らかになっていない。

 つまり、もしかすると、鹿島建設、清水建設、大成建設も自主申告しているかもしれない。どこが「一番乗り」か、わからない。
 前文にある「関係者」とは誰なのだろうか。

 さらに気になるのは、工事受注で談合がおこなわれているのなら、「自主申告」でも談合がおこなわれているのではないか、という疑問。自主申告の順番で、課徴金が100%から30%まで差があるのなら、受注以上に調整が必要だろうなあ。なんといっても総額9兆円の工事である。4社がすべての工事を分担受注するわけではないが1社あたり2兆円。課徴金がいくらになるのか知らないが、100%と30%じゃ、差がありすぎる。
 最初に捜索対象になったのが大林組だから、大林組が「自主申告」に踏み切ったのか。なぜ、大林組が捜索の最初の対象なのか、どこかが情報を洩らしたのではないか、その洩らした相手への仕返しに「自主申告」してしまえ、ということなのか。内輪もめ(?)があったということかなあ。
 「残りの3社が自主申告したかは明らかになっていない。」が、とても奇妙だ。なぜ「関係者」は、それについて言わなかったのか。発表されていること(記事になっていること)よりも、書かれていないことの方が、きっとおもしろいというか、重要だろうなあと感じさせる見出しと記事だ。きっと何か大事なことが隠されている、それを隠すための動きだな、と思う。

憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー
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ライアン・ジョンソン監督「スター・ウォーズ 最後のジェダイ」

2017-12-18 09:28:22 | 映画
監督 ライアン・ジョンソン 出演 デイジー・リドリー、ジョン・ボヤーガ、アダム・ドライバー、マーク・ハミル、ベニチオ・デル・トロ

 話題のシリーズなので見に行ったが、話題についていくだけのために見た、という感じだなあ。次はどうなるんだろうというはらはらわくわくがない。
 新登場(?)は、連れ合い(?)を焼き鳥にして食べられてしまった鳥と中国系の少女(おとな?)とベニチオ・デル・トロ。
 連れ合いを食べられてしまったのに、食べてしまったチューバ(だったっけ)についていく鳥がキャラクターとして矛盾(?)しているのがおかしい。飛行船のなかで「観客」をやっているところが、ディズニーのアニメだなあ。
 中国系の少女の登場は、中国市場をにらんでの起用か。しかし、ジョン・ボヤーガと恋に落ちるなんていうのは、なんだか「見え透いている」。どうせなら、オスカー・アイザックの恋人になり、ジョン・ボヤーガはデイジー・リドリーと恋人になるというくらいにしないと。
 この中国系の少女の登場で、デイジー・リドリーはジョン・ボヤーガと恋人になるという未来のストーリーはなくなり、かわりにオスカー・アイザックと恋人になるという伏線ができた。これではハン・ソロ(パイロット)とレイヤ姫(ヒロイン)の恋物語のトレースになってしまう。そこからまた「ダス・ベイダー」が生まれてくるというのではエンドレス。(両親がわからないままのデイジー・リドリーの後継者は、ラスベガス惑星で競馬馬の世話をしていた少年か。ラストに登場する。)
 ベニチオ・デル・トロは「エピソード3」のハリソン・フォードのように、うさんくさく登場してきて人気者になるタイプだね。「エピソード9」で期待できるのは、このベニチオ・デル・トロくらいか。
 新しい映像は、クライマックスの塩の浜辺での戦闘か。中古の戦闘機の車輪(?)をおろしてバランスをとりながら走る(飛ぶ)シーン。赤い砂煙が新鮮だった。(これに★1個追加。)
 宇宙での戦いは「絵」がきれいになりすぎていて、もの足りない。
 炭坑(?)を利用した秘密基地からの脱出の最後、デイジー・リドリーがフォースで浮かべる巨岩はいかにも発泡スチロールという「軽さ」が気になった。巨岩が空中から落ちるシーンと地面の揺れと舞い上がる土埃が必要。映像としてどうしようもない「手抜き」を感じた。
 映像の新しさ(これ、見たことがないという驚き)では「クボ」の「折り紙」に完全に負けてしまっている。
 フォースと禅、人間の暗黒面と善良な面の対決というのは、40年前はそれなりに「メッセージ」を持っていたと思うが、こんなに何度も繰り返されると、単なる「ストーリー」(流通概念)になってしまうなあ。「人間味」がなくなる。ここに人間味を持たせるには、どうしても「ダス・ベイダー」の暗闇の恐怖と魅力が必要なんだけれど、繰り返しによって最後はジェダイ(善)が勝つんだとわかってしまう。変な言い方だが、「人間味」というのは、「もしかしたら自分は悪人になれる」という昂奮かもしれない。「悪いことをしたい、でもいけないんだ」という葛藤を味わうことかもしれない。
 あ、まねしてみたいと思う「ダス・ベイダー」を登場させないと、だめだな。
(ソラリアシネマ1、2017年12月17日)




 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望 (字幕版)
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ト・ジョンファン『満ち潮の時間』(2)

2017-12-17 15:25:10 | 詩集
ト・ジョンファン『満ち潮の時間』(2)(ユン・ヨンシュク、田島安江編訳)(書肆侃侃房、2017年11月18日発行)

 ト・ジョンファンの文体は「散文(時間)意識」が強い。
「ある恋人たち」は『立葵の花のようなあなた』のなかの一篇。

ドンニャン駅までのトンネルは長かった
男は一つしかない空席に女を座らせ
その椅子のひじ掛けに座り、からだを女の方にねじっていた
女は本を一枚一枚めくっていて
男は女の肩越しにそれを読んでいる

 こういう光景は、いまでも列車のなかで見ることがあるだろうか。記憶を揺さぶるように、ふたりの姿がくっきりと映像になる。人間の(肉体の)動きが時間通りにきちんと描写されるからである。その「時間」のなかで、男と女が一体になる。「動き」そのものが「一体感」のあるものとして、その「時間」を浮かび上がらせる。
 しかし、「時間」というのはいつでもそうだが、単純ではない。「いま」という「時間」のなかには必ず「過去」が噴出してくる。「いま」を突き破って「過去」があらわれる。その「過去」に私たちは、ときどきたじろいでしまう。幸福そうな男と女にも、苦しい「過去」がある。

二十六、七くらいだろうか
男の白い義手がゆっくりと揺れ
何本かの指の欠けた片方の手の甲で
花火の痕のような傷が星のように散らばる顔の
眼鏡のふちを持ち上げている

 なぜ男が義手なのか、義手ではない方の指は欠けているのか。それは語られない。「花火の痕のような傷が星のように散らばる顔」は、その原因が戦場での「爆発物」であるかのように想像させる。
 「過去」については、もっともっと書きたいことがあるだろう。でも、それを書かずにただ「過去」があるということだけを書いている。
 「いま」を突き破って噴出してきた「過去」。
 これと、人間はどう向き合うべきなのか。

短くなった男の中指にしばらくとどまる
見慣れぬ私の視線を遮り
女のきれいな手が男の手をそっと握る

 これは、女の愛が男の「過去」をやさしく包んでなだめているという姿である。こういうしぐさが自然なものになるまで、男と女はどんな諍いをいただろうか。「あわれみなんかいらない」「あわれんでなんかいない」。そういう言い争いがあったかもしれない。でも、いまとなっては、それも「過去」である。しかし、同時にそれが「いま」でもある。「過去」でありながら、「過去」を越えていく「いま」。
 女は本を読んでいるが、その本は女が読んでいる本なのか、男が読むのを手伝うように女がページをめくっているのかわからない。ふたりのあいだでは、それが区別できなくなっているかもしれない。それが「いま」なのだ。ふたりでありながら、ふたりではない。むしろ「ひとり」である、という「時間」。
 新しい時間、誰のものでもない「ふたりの時間」がそこにある。

トンネルを抜け出た車窓からは
雪解け水をたたえた川が叫びをあげながら追ってきて
列車はモケンに向かって走っている
女の髪をなでる男の二本の指
女は男の腰に頭をもたせかけ
男の青い血管は叫ぶ川のように
流れている

 とても美しい。「男の青い血管」というのは、「若い血管」という意味だろう。それは「雪解け水の川」のようにほとばしる。新しい季節、新しい時間へ向かって流れていく。新しい時間をつくる流れそのものでもある。

 この作品でも、ト・ジョンファンの描き出す「存在」は、それぞれが主語として「自己主張」している。きっちりと「ことば(声)」を持っている。そういう「声」を統合し、突き動かす力、あるいはそれぞれが語る「声(ことば)」をそのまま動くにまかせる力というものがト・ジョンファンにある。存在に、自由に語らせている。ト・ジョンファンは「脇役」に徹している。





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「詩はどこにあるか」11月の詩の批評を一冊にまとめました。

詩はどこにあるか11月号注文
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注文してから1週間程度でお手許にとどきます。


目次
カニエ・ナハ『IC』2   たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15   夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21   野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34   藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40   星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53   狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63   新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74   松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83   吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91   清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107



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詩集『誤読』を発売しています。
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詩集 満ち潮の時間
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書肆侃侃房
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法学館憲法研究所の書評

2017-12-17 00:22:01 | 自民党憲法改正草案を読む

法学館憲法研究所

「憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー」の批評が書かれていました。
お読みください。

憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー
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「天皇の悲鳴」緊急出版

2017-12-16 11:50:03 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

「天皇の悲鳴」を緊急出版しました。
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ブログで書いてきた「天皇の生前退位意向」を巡る文章を整理したものです。
安倍がどんなふうに天皇を利用しているか。
これから国民に何が起きるのかをまとめました。

天皇が「強制生前退位」させられ、沈黙させられる。
このあとは国民が沈黙させられる。
独裁が進む。
最後は、国民は戦争の犠牲になり、「御霊」という名前で永遠に沈黙させられる。
そういう過程を「推理小説」ふうに書いています。

天皇と安倍のことばは、どこが違うのか、そのことをもう一度、みなさんに知ってもらいたい。



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ト・ジョンファン『満ち潮の時間』

2017-12-16 11:26:33 | 詩集
ト・ジョンファン『満ち潮の時間』(ユン・ヨンシュク、田島安江編訳)(書肆侃侃房、2017年11月18日発行)

 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』はアンソロジー。第一詩集の「みぞれ」は、こう始まる。

妹が赤ん坊を死産した日の夜
みぞれが降った

 いきなり「劇」が始まる。どう受け止めていいのか、わからない。
「死産した」という動詞の主語は「妹」だが、妹よりも「死んで生まれた赤ん坊」の方に意識がいってしまう。「ことば(文章)」というのは不思議なもので、「文法」を越えて「動く」ものがある。この二行の場合、「赤ん坊」が主語となって動く。「生まれてから死ぬ」のではなく「死んで生まれる」。その「矛盾」のようなものが、そのまま主語を妹から赤ん坊へと替えてしまう。
 主語は、次々に交代する。
 二行目では、妹も赤ん坊も主語ではなく「みぞれ」が主語になっている。ここに「非情」の美しさがある。「美しさ」といってはいけないのかもしれないが、「事実」が存在するときの強さがある。

農機具の支払いが滞っていて保健所にも行けず
食べ物が不十分で
まともに成長できなかった手のひらほどの命を

 ここでは主語はさらに変化する。入り乱れ、絡み合う。「農機具の支払い」ができなかったのは誰か。明らかにされない。「支払いができなかった」ではなく「支払いが滞っていて」と主語を人間にしていない。しかし、「保健所に行けなかった」の主語は「妹」である。「食べ物が不十分で」は「食べ物を十分に食べられなかった」と受け止めなおすとき、主語はやはり「妹」になる。しかし、実際に「まともに成長できなった」のは「赤ん坊」である。主語は赤ん坊とも言える。
 主語、動詞が入り乱れながら、「事実」を語っていく。
 妹が死産した、原因は貧困にある、ということを語ったあと、詩は世界の主語は大きく転換する。

カチカチに凍った草の根の下に葬り
ほのかに残る朝焼けの中を
妻の実家に小さくなって身を寄せている義弟は
弁当も持たずタバコの乾燥場の仕事に出かけた

 「義弟」が主語になる。農機具の支払いができなかったの主語も「義弟」ととらえなおすことができる。
 死産した妹、死んで生まれた赤ん坊も苦しく悲しいが、それを見ている家族もまた苦しく悲しい。悲しいけれど、その苦しみと悲しみを埋葬するようにして、赤ん坊を埋葬する。さらに、その苦しみ、悲しみを振り切るようにして義弟は仕事にゆく。「弁当を持たず」という描写は、弁当をもっていくほど余裕がないという貧乏の描写であると同時に、弁当にこめられている「愛」を振り切るようにしてということかもしれない。
 詩はつづく。

前輪のブレーキが壊れたままの錆だらけの自転車を
黙々とこいで坂を上っていった
父は脈絡も泣く凍結は損した練炭ボイラの話を繰り返し
母はしきりに頭にかぶったタオルを結び直す

 農機具の支払いができない貧しさは、ブレーキの壊れた自転車、錆だらけの自転車と言いなおされる。そこでは主語は、その自転車をこぐ義弟だが、また自転車そのものが貧乏を語る主語となっている。
 こういう「無意識」の主語の交代が、強い。
 「父」も「母」も主語として登場するが、このときも主語は「父」「母」であると同時に、そこで語られている「練炭ボイラ」であり、また「凍結破損した」という動詞さえも主語のように自己主張している。「凍結」は間接的に「みぞれ(冬の寒さ)」を主語として誘い出す。いま、「事件」がおきている「場」へしっかりとからみついてきている。
 「破損した」は「壊れる」である。それは「ブレーキの壊れた自転車」と意識の奥でつながる。「ブレーキの壊れた自転車」も「壊れる」の主語はブレーキであり、ブレーキが自己主張する。「錆」も名詞ではなく「錆びる」という動詞であり主語は自転車なのだ。そして、自転車がそういう風に自己主張するとき、その自転車と向き合う義弟が、あるいは貧乏が再びあらわれくる。何人もの(何個もの)登場人物(登場する素材)が自己主張する。貧乏という状況さえ、主語のように自己主張する。
 そこに「劇(ドラマ)」が動く。
 ト・ジョンファンは、あらゆる存在に「自己主張」させることができる。あらゆる「存在」の「声」を聞き取り、それをことばにすることができる詩人なのである。
 詩は、こう閉じられる。

雨降りと雪降りをくりかえしつつ
素早く地面を凍らせながら風は吹く
凍り付いた地面の深い闇を彫りあげたスコップが
土の匂いを風に流しながら壁に寄りかかっている

 ここの主語は何か。スコップか、闇か、土の匂いか、風か、壁か。最後の二行の主語は、「学校文法」で言えば「スコップ」である。だが、そうつかみとるだけでは、詩にはならない。ここには「スコップ」が何を語ったかは書かれていないが、その書かれていない「声」(ト・ジョンファンが省略したことば)を聞かなければならない。なぜ、「闇」と書いたか、なぜ「匂い」と書いたか、そして「流れる」という動詞を書きながら、同時に「寄りかかる」と書いたか。そこに何が語られているか。
 それを聞き直そうとすると、「スコップ」という「形式主語」は「義弟」にとってかわる。妹にも変わる。父にも、母にもかわる。この詩を書いているト・ジョンファンにもかわる。




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北川透「「佃渡しで」を読む」21   野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34   藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40   星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53   狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63   新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74   松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83   吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91   清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
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税制大綱の「内訳」は?

2017-12-15 12:07:30 | 自民党憲法改正草案を読む
税制大綱の「内訳」は?
             自民党憲法改正草案を読む/番外156(情報の読み方)

 読売新聞2017年12月15日朝刊(西部版・14版)1面、

個人向け増税 相次ぐ/税制大綱 与党が決定

 という見出し。「個人向け増税」のいちばんのポイントが表になっている。 850万円以下は「負担増額なし」、 850万円以上は所得によって1万5000円(年収 900万円)から34万2000円(年収5000万円)。実際の対象者は給与所得者全体の4%、 230万人となる。
 私は 850万円どころか、その四分の一くらいの給料なので、「増税」の対象外だが、気になって仕方がないのが、ではいったい「増税総額」はいくらなのか、ということ。 230万人が負担する「増税総額」はいくら?
 なぜ気になるかというと。

賃上げ企業は減税

 という見出しも見えるからだ。3%賃金を上げれば、その企業に対して賃金増加分の15%を減税するという。この「企業減税の総額」はいくら?
 個別の増税額、減税額も大事だが、問題は、全体のバランスだろう。「増税」は国家財政が赤字にならないためのものだろう。「税収」を増やすためのものだろう。
 単純化していうと、「個人向け増税の総額」が 100億円、「賃上げ企業の減税総額」が10億円だとする。この場合、国家にとっては90億円の増収になる。そんなに極端でなくても「企業減税の総額」が「個人増税の総額」よりも少なければ、この税制では財政が破綻することになるから、どんなに少なく見積もっても「企業減税」と「個人増税」はイコールでなくては税制システムを変える意味がない。
 言い換えると、今度の「税制大綱では」は、企業減税の「財源」として「個人の増税」がつかわれることになる。なぜ、個人が犠牲になって企業の収益を支えないといけないのだろう。これが、サラリーマンである私にはわからない。
 もっと言いなおすと。
  850万円以上の年収の人数は 230万人と想定されているが、このうち3%の賃上げの恩恵を受ける人間は何人だろう。もし 100万人だとすれば、3%の賃上げが実施されなかった 130万人は税金だけが増え、実質年収は減る。その増税だけを強いられたひとの負担分のいくらが「企業向け減税分」の穴埋めにつかわれるのか。3%の賃上げが可能な「大企業」の従業員と経営者のために、賃上げが実施されなかった労働者が犠牲になるのではないのか。
 さらに「たばこ税」とか、「国際観光旅客税(出国税)」「森林環境税」も実施される。どれも「個人」から直接税金をとるシステムである。「企業」はその対象になっていない。寿司を食いながら安倍と話し合い、直接苦情を言えない「個人」だけが、「増税」の負担を強いられているのではないのか。安倍と話し合える「友達」だけが優遇される税制ではないのか。

 わかりにくいことは、もっとある。

 だいたい企業が収めている「税金」はいくらなのか。「決算」では収支報告がおこなわれているが、そのとき「納税額」というのは新聞などでは公表されない。「収益」と「税引き後収益」を比較すればわかるのかもしれないが、「直接的」にわかるようにはなっていない。トヨタはいくら「法人税」を収めているか。大手の銀行はいくら「法人税」を収めているか。そういう「一覧表」を公表した上で、企業はこれだけ税金を納めているのだから、個人はこれだけ納めるべきだというのならまだわかる。企業の税負担は限界に来ている。これ以上法人税をとると企業が破綻する。企業が破綻すれば税収が減り、国家財政が破綻する。個人の増税で補わないと国家予算が成り立たないという「具体的な一覧表」があるのなら納得もするが、いまのシステムでは税の全体と細部のバランスがしろうとにはわからない。
 なぜ、「法人税」を引き下げ、「個人の税」を引き上げるのか、それがわからない。わからないとこを利用して、ばらばらの「個人」、組織力のない「個人」を狙い撃ちして税金を搾り取っているのではないのか。

 さらに、その税金をどこにつかうのか。
 高齢化(少子化)が進み、社会不安が増えている。社会保障に税金をつかうのか。それともアメリカの軍需産業をもうけさせるために軍備につかうのか。その「振り分け」の具体的な数字がわからない。
 「予算」というのはしろうとにはわかりにくい。
 「予算」には「全体」の要素と「個別」の要素がある。それを組み合わせて説明する記事(報道)がどこにもない。
 読売新聞の3面には

家計に負担じわり/会社員は3000円増税/フリーは3・3万円減税

 という見出しと、世帯構成別の影響額というものが書かれている。個人の負担に目を向けた記事だが、その個人のあつまり、国民の負担がどうなるのかが、これではわからない。全体がわからない。「個人の全体」で負担した「像税額」が国家財政に占める割合、さらにはそこから「企業減税」の「穴埋め」にいくらつかわれるのかがわからない。「個人全体」で負担したうちのいくらが「社会保障」につかわれるのか、いいかえると「将来いくら還元されるのか」がわからない。
 「個別の負担」がいくらなのかを計算する以上、「個別の還元」がいくらになるかも計算して示してほしい。
 政府はそういう「計算」もしているはずである。そういう「計算」を隠さずに公表するべきである。報道機関は、そういう「隠された情報」を提供すべきであると思う。

 しろうとには「国家財政」はわからない。わからない人間は、だまって政府のいうことにしたがっていろ、という安倍の「沈黙作戦」は、こういうところにも仕組まれている。



#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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河津聖恵「月下美人(一)」

2017-12-15 00:57:19 | 詩(雑誌・同人誌)
河津聖恵「月下美人(一)」(「現代詩手帖」2017年12月号)

 河津聖恵「月下美人(一)」(初出『夏の花』5月)。非常にひかれる行(ことば)と、ついていけないことばがある。

闇の奥で眼窩たちは息を呑む
一輪の花がいまひらきはじめる
なおも咲くのか
なぜ咲くか
無数の黒い穴は問いもだえる

 「なおも咲くのか」と言った直後に「なぜ咲くか」と問い直す。この問い直しに、ひどくひかれる。「咲く」という動詞、人間の肉体にはできない動き。「比喩」としてならつかわれるが、「肉体」そのものにはできないこと。それを前にして、「肉体」が、それに迫ろうとしている。その「切迫感」のようなものを、たたみかける問いの、「たたみかけ方」に感じる。
 この感じを河津は「問いもだえる」という形、「問う」と「もだえる」というふたつの動詞の組み合わせで言いなおす。この組み合わさる動詞に、またひきつけられる。
 「問う」は「聞く」とか「ただす」とか、いろいろ言い換えることができる。(言い換えながら、「意味」を私は手探りする。)
 一方、「もだえる」はどうか。「もだえる」は「もだえる」としか言えない。言いなおし方を知らない。「もだえる」を言いなおすと、どうなる? これが、わからなない。
 「もだす」と関係しているだろうか。「もだえる」とき、確かに「明確なことば」は「肉体」から出てこない。では、「明確なことば」のないまま、ひとはどうやって「問う」ことができるのか。「問えない」ではないか。
 それなのに「問い+もだえる」。
 これは「問いたくて」もだえているのだ。「問いたいけれど、問えない」という矛盾のなかで、どうしていいかわからずに「もだえている」。
 あ、これが「なおも咲くのか/なぜ咲くか」なのだ。どう「問う」ていいかわからない。そのために「もだえている」。ほんとうに聞きたいことはきっとほかにもある。しかし、それはことばにならなで「もだしている」、沈黙しているのかもしれない。
 「もだえる」ということばのなかに「もだす」があると、私は感じる。
 そして「もだえる」のなかには「もだす」と同時に「たえる(耐える)」もある。ことばにできず、「耐えている」。「矛盾」というか、どう解決していいかわからないものを「肉体」に抱えている。それが「問いもだえる」という動詞の中にある。「もだえる」のなかには、そういうものが「もつれ」ている。
 そして、この「矛盾」のようなもの、激しい「もつれ」が、次の行で、こう展開する。

死ぬことも生きることも滅んだのに

 うわーっ、美しい。
 ことばでしかたどりつけない何かがある。「死ぬ」「生きる」がぶつかり、からみあう。「もだえる」。
 「もだえる」は「燃える/萌える」いのち(生きる)と、「絶える(死ぬ)」がからみあい、苦しみ、のたうつことかもしれない。どこへもいけない。その場で、転げ回ることかもしれない。
 河津は、それが「ある」とは言わずに「滅んだ」と言う。
 「絶対矛盾」と呼びたいようなもの、「そのようなもの」としか言えない何かが、この一行に凝縮している。
 この行を中心に、詩は花のように開いていく。咲いていく。

宇宙の一点をいま花の気配が叛乱する
穴はいっしんに嫉妬する
月下美人
幻想の名の匂やかな花芯が
死者の無を乳のように吸いよせる

 私は月下美人の花を見たことがないのだが、そうか、こんなふうに「絶対矛盾」としか呼びようがないもののように、何もかもを拒絶して、そこに「咲く」のか、自分の存在をあらわすのか、と感動してしまう。
 いや、感動しながらも。
 ちょっと覚めてもしまう。
 「叛乱する」「嫉妬する」。このことばが、わかりやすすぎて「問いもだえる」ほど「肉体」に迫ってこない。「幻想」も「意味」が強すぎるなあ。「死者の無」、その「無」が、もっと「意味」でありすぎるかもしれない。
 「無」って、どういう「意味」と聞かれたら、ちょっと答えられないのだけれど、この「答えられない」は「問いもだえる」の「もだえる」を言いなおすとどうなる?というときの「答えられない」とはかなり違う。「肉体」が反応しない。「無」って、ほら、禅とか仏教(宗教)でいう「無」じゃないか、と思ってしまう。言い換えると「無」には「答え」がある。もう、定義されている感じ。「答えられない」は、「自分のことばでいいなおしても、間違いになるから、言えない」ということ。「もだえる」の「意味」が言えないのは、どこかに「正解(答え)」があるからではなく、それが「肉体」の「動き」そのものとして自分の「肉体」にあるからだ。自分の「もだえる」と他人の「意味」とちがんていても、「もだえる」でしかない。「肉体」で感じることは、私にとっては、いつでも「ほうとう」なのだ。

 こんな感想でいいのかどうかわからないが。

 私は、私が「わかっている」と思っていることが、瞬間的に否定され、わけのわからないものに引き込まれる瞬間が好きな。そこに詩を感じる。河津のこの作品では、

なおも咲くのか
なぜ咲くか
無数の黒い穴は問いもだえる
死ぬことも生きることも滅んだのに

 この四行の動きに夢中になってしまう。夢中になりすぎて、それ以外がなんだか嫌いになってしまう。
私はわがままな読者なのだ。


*


「詩はどこにあるか」11月の詩の批評を一冊にまとめました。

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目次
カニエ・ナハ『IC』2   たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15   夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21   野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34   藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40   星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53   狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63   新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74   松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83   吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91   清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107

夏の花
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思潮社
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詩はどこにあるか11月号

2017-12-14 12:34:01 | その他(音楽、小説etc)
「詩はどこにあるか」11月の詩の批評を一冊にまとめました。

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林和清『去年マリエンバートで』15   夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21   野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34   藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40   星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53   狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63   新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74   松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83   吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91   清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
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松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」

2017-12-14 11:49:58 | 詩(雑誌・同人誌)
松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」(「現代詩手帖」2017年12月号)

 松尾真由美「まなざしと枠の交感」(初出『花章-ディヴェルティメント』2月)。タイトルにすこしげんなりする。「交感」は「意味」が強すぎる。「意味」にあわせてことばが強制的に動かされているのではないか、と身構えてしまう。

このような
窓のひろがり
あざやかな熱視をねがい
きっと誰かが見つめている
血の色の鋭敏さと空想の両眼と
正午に浮きあがる書物のページの
なまなましい胸のいたみ
香っていてあえいでいて
剥がされた花びらは
なお希求の
欠けらとなる

 「このような」という始まりは、「このような」としか言えないものと向き合っているのだろう。「このような」が「どのような」ものなのか、そのあとのことばが語ることになる。
 しかし、「このような」が「あざやかな」というのでは、私は納得できない。最初から「あざやかな」と始めてしまえば「このような」は不要になるだろう。余分なことが書かれていると思ってしまう。
 「熱視」は「見つめる」という動詞で言いなおされたあと、「熱」の部分が「血の色の鋭敏さ」と「空想」と言い換えられ、さらに「なまなましい」と言い換えられる。それに「あざやか」が「血の色」「正午」ということばで交錯する。そこから「書物のページ」という「具体的なもの」が「空想」のように「浮き上がる」。このとき、それを「誰かが見つめている」のか、それとも「書物のページ」のなかから、登場人物としての誰かが松尾を見つめているのか。
 「そのような/このような」関係。
 「なまなましい」関係。「なまなましい」は、松尾にとっては「このような」感じ。どこかで「抽象」を含む。「抽象」を「なまなましい」ものとして感じるのが、松尾の「交感」の基本にある。「意味」で、「なまなましい」が動いている、と私は感じてしまう。
 「香っていてあえいでいて」には「香る」という動詞と「あえぐ」という動詞が共存している。「共存」が「交感」ということなのだろう。
 「書物のページ」は「花びら」という比喩になる。「花びら」が「書物のページ」の比喩かもしれない。比喩とは「共存」の言い直しである。その「書物のページ/花びら」が「剥がれる/剥がされる」という動詞のなかでさらに「共存」を深める。「剥がされる」は一種の「死」。だからこそ、それに抗うように「希求」ということばを輝かせようとするのだろうが、いっそう死んでしまった方が強い官能が残るのではないかと思ってしまう。
 こんなところで「希求」なんかを求めてしまうと、それがたとえ「欠けら」であっても、道徳の教科書(流通の意味)でことばをととのえられているような気がして、興ざめしてしまう。
 「頭」で書いていない?
 いや、私が「頭」で読んでいるだけなのかもしれないが、「頭」で読んでしまう詩というのはつまらない。



 朝吹亮二「空の鳥影」(初出「si:ka」3月)は、外国の風景だろうか。移動の途中(という感じがする)に見かけた鳥を描いている。

不可視の
夢は零れて
天空と深淵をつなぐむすびめはほどけて

 
 というような非常に抽象的な、ああ、こんな抽象的なことばにつきあうのはいやだなあと思う行があるのだが、これは即座に、

たとえば落雷とかね、たとえば
旋風とかね、たとえば

 と具体的に言いなおされ、さらに

空っぽの
空の
黒い鳥

 と具体化される。
 なんにもない空に黒い鳥の影。鳥だけが飛んでいる。「なんにもない空に鳥が一羽飛んでいたんだ。それが印象的だった」を朝吹は、もう一度言いなおす。そのどこが印象的だったのか。
 「このような/そのような」の「この」「その」を言いなおす。

不可視のやさしい手をさしのべてはかき消えていくのさ、
うっとりする鎌鼬のように
そう、どこにでもある空を映す空隙の洞
空を映す透明なリュートの胴
空の
臍、飛ぼうとする形のまま
天空と深淵を結んで
共振する、空の
鳥影

 「鳥」ではなく「鳥影」。「影」という一語が追加されているために、「空影」とでも言えばいいのか、「空のなかにある空/空が映し出した空の深淵(空隙、と朝吹は書いているが)」を見たような感じがする。それもただ「見る」のではなく、「臍」ということばがあるために、何と言うか、私の「肉体」が「空」になってしまった感じ。同時に「鳥」になって飛んでいる感じ。
 「共振」と朝吹は書くのだが、「共存」、あるいは「一体」という感じ。「一体」になって動くから「共振」なのかもしれない。「空」と「鳥」は別々の存在だが、ふたつの存在の間に「音楽」がひろがる。「和音」が「共振」している、と言えばいいのか。
 朝吹は「交感」ということばをつかっていないのだが、朝吹の詩の方が「交感」をつかんでいると思う。「空」と「鳥」と朝吹の三者が、ひとつの音楽を響きあわせている。

現代詩手帖 2017年 12 月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社

*


詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。

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「司法リスク」とは何か。

2017-12-14 09:25:32 | 自民党憲法改正草案を読む
「司法リスク」とは何か。
             自民党憲法改正草案を読む/番外156(情報の読み方)

 読売新聞2017年12月14日朝刊(西部版・14版)1面、

伊方原発 差し止め命令/3号機 「阿蘇火砕流 到達の恐れ」

 という見出し。広島高裁の仮処分決定を報道している。その関連記事が経済面にある。その見出しに驚いた。

原発 司法リスク再び/伊方差し止め命令 四電 減益不可避

 前文には、こう書いてある。

(四電に加え)関西電力や九州電力は、司法判断が再び経営上のリスクになりかねないと警戒を強めている。

 本文中には、

「払拭されたはずの『司法リスク』がよみがえった」(電気事業連合関係者)と危惧する声も出ている。

 司法が原発に対して再稼働を認めないと、電力会社の経営が苦しくなる。そういうことらしいが、これは自然に読めば「経営リスク」というものだろう。
 なぜ、「司法リスク」と言い換えるのか。
 背後に司法に対する批判がある。「原発は安全だ」という意識が経営者にはある。それはそれでいいが、自分が正しいから、司法の判断は「リスク」をもっている。「危険である」という批判の仕方は、どういうものだろう。
 「理解していただけなかった点については、理解していただけるよう、より詳しい説明をしたい」
 というのが、反論の基本的な仕方ではないだろうか。
 「司法」を「リスク」と結びつけて批判するのは「三権分立」の精神に反している。どんなときでも司法の判断を優先する必要がある。判断に不満があるときのために、日本の裁判は「三審制」をとっている。
 司法よりも自分の判断が正しい、司法は間違っている、という批判を通り越して、「司法は危険だ(リスクがある)」という姿勢はおかしい。こういう「ことば」の背後にある考え方(自分だけが絶対に正しい)が「独裁」を生む。
 安倍独裁の影響が、こんな形で電力会社の経営陣にも共有されている。



#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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ポエムピース
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