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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジョナサン・デミ監督「幸せをつかむ歌」(★★)

2016-04-06 20:20:09 | 映画
監督 ジョナサン・デミ 出演 メリル・ストリープ、ケビン・クライン、メイミー・ガマー

 メリル・ストリープはすごい。売れっ子なのに、落ちぶれたロック歌手を演じていて、その落ちぶれ加減が、とてつもなくリアルなのだ。髪や肌に、いきおいがない。まあ、年相応といえばそうだけれど、スターなのだからきちんと手入れをしているはず。それを荒んだ状態にしている。体型も、あえて自堕落な感じ、ウエストというか、くびれがきえてしまっている感じ、胸のふくらみをたよりに、その下あたりがくびれ(ウエスト)といえばいえる、という感じの体型をさらけだしている。私は、こういう「外形」から入る演技というのは好きではないのだが、うーん、見とれてしまったなあ。特に、アイシャドーの演技(?)に。目で演技する前に、アイシャドーに演技をさせている。目の在りかはここと主張させている。演技派なのに、そのアイシャドーに演技をさせているところが、なんともすごい。
 で、それでは落ちぶれたままの姿で演技しつづけるのかというと、そうでもないのだ。メリル・ストリープには子どもが何人かいる。離婚したため、いっしょには暮らしていない。そのうちのひとり、娘(実際の娘、メイミー・ガマー。これがメリル・ストリープの夫そっくりの顔、特に目をしている)が離婚して自殺未遂したをおこしたために、彼女のケアのために元の夫(ケビン・クライン)に呼ばれて、その家へゆく。しかし、後妻から追い出される。そのあと、バンドにもどり、そこでギターを弾いている男と、離婚して子どもを抱えているものどうしの慰め合いという感じで、愛しあう。ここからの表情が、うわーっ、すごい。落ちぶれていない。いや、あいかわらず落ちぶれたロック歌手なのだが、自分のことを理解してくれる男がいて、好きな歌が歌える喜びで、実にいきいきしてくる。見ていて、静かな幸福を感じてしまう。
 そして、すごいのは、これがきちんとした「伏線」になっていること。メリル・ストリープのこどものひとり(男)が結婚式をする。そこに招待される。「上流階級」の結婚式なので、メリル・ストリープは出席したくない。息子を祝福したいのはやまやまなのだが、ほかの出席者から冷たい目で見られることを恐れているのだ。実際、出席してみるとみんなから冷たい目で見られる。テーブル席も息子の母親なのに、遠ざけられて、冷遇される。その披露宴で、メリル・ストリープはスピーチがわりにロックを歌う。出席者からはいやな目で見られるのだが、息子が花嫁を誘ってダンスを踊りはじめる。ここからにぎやかなクライマックスになるのだが、息子が自分の歌を喜んでいるとわかり、メリル・ストリープの表情がいきいきしてくる。落ちぶれたロック歌手ではなくなる。恋人とステージでキスをしながら歌う。その喜びが、彼女はなつ輝きが、会場全体に広がる。
 映画とはわかっているのだが(つまり、実際にこういうことがあるとは思わないのだが)、映画であることを忘れて(あるいは映画であることのなかにのみこまれて)、楽しくなってくる。映画っていいなあ、こうい映画は、個室でDVDで、つまり小さなモニターで個人で見ていてはおもしろくない。やっぱり劇場で、ぜんぜん知らない人に囲まれて、知らないにもかかわらず、「幸福」を分かち合って見るのがいい。まわりに座っているひとの「幸福感」が伝わってくる、その瞬間がとってもうれしい。
                    (天神東宝ソラリア9、2016年04月06日)




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マーサ・ナカムラ「許須野鯉之餌遣り」

2016-04-06 09:45:01 | 詩(雑誌・同人誌)
マーサ・ナカムラ「許須野鯉之餌遣り」(「現代詩手帖」2016年04月号)

 マーサ・ナカムラ「許須野鯉之餌遣り」は「新人作品」(投稿欄)の一篇。朝吹亮二が選んでいる。
 「美しい男が、立方体状に氷の張った鯉を釣り上げたという池を見物しに行った。」という行を含む作品。その後半。

見ると、池の底には、本物の池が沈んでいたのである。
そこには無数の鯉が棲んでおり、ありとあらゆる罪の形を丸い麸にして食べてしまうと見物客は言っている。
江戸時代の人、いつの時代の人か分からない人、もちろん虫や犬に至るまで、鯉に餌をやりに訪れている。

「許須野鯉之餌遣り(ゆるすのこいのえさやり)」という立て看板がある。

地上では若いころの身体に似せて化粧をする。
水の底では、何もかも終わりがない。
池の近くの公園では、老婆が若い頃の姿のまま、恋人とブランコに乗って永遠に遊んでいた。
鯉は、口元に寄せる麸にひたすら口を動かし続けている。

 朝吹は、こう書いている。

この人の想像力には驚くべきものがある。であるのだが、私が本当に驚くのは細部への注視と細部をすくいとることばづかいだ。この作品でいえば、末尾の麸にむらがる鯉の描写など不気味な魅力がある。

 これ以上の批評はない。この批評を読んだあとでは、もう書くことは何もないのだが、あえて書いてみる。

鯉は、口元に寄せる麸にひたすら口を動かし続けている。

 この行になぜひかれるのか。
 麸を食べている鯉を見たことがあるからである。口をあける。その口の周囲から水が口のなかに入る。その水の流れに乗って、麸も口のなかへ、鯉の胴体の見えない部分へ吸い込まれていく。こういう光景は、近くの公園で何度でも見かけている。その光景があざやかに浮かび、「リアル」に感じる。その「リアル」にひかれるのだ。
 だが、こう書いただけでは「不気味な魅力」を説明したことにはならない。
 たぶん、このとき私は鯉を見ている(思い出している)のではない。
 鯉を思い出しながら、その鯉が「私」だと思ってしまっている。鯉になっている。
 麸を食べる。マーサ・ナカムラは「食べる」という「動詞」をつかわずに「口を動かす」と書いている。この「口を動かす」が「食べる」以上に「肉体」を刺戟する。「食べる」だと「何を」食べるか、その「対象」が気になる。「口を動かす」だと、ただその「口を動かす」という行為にひきずられて、「私の」口(肉体)も動くのである。

鯉は、口元に寄せる麸にひたすら「食べ」続けている。

 こう書き直してみると、マーサ・ナカムラの書いていることがよくわかる。「食べる」ではなく、もっと即物的な(?)「口を動かす」という動きのなかに、人間の肉体を誘っている。誘われて口が動くとき、もう、私は鯉なのだ。

鯉は、「口」元に寄せる麸にひたすら「口」を動かし続けている。

 繰り返される「口」ということばが、「私(読者)」の「口」を刺戟する。「口」に意識が集中して、それに「動かす」という動詞が加わり、ほかの肉体の部位はどうなっているかわからないが、ただ「口」を動かしている自分を感じる。それが「食べる」と同じであるかは、この瞬間はわからない。「食べる」を通り越して、というよりも、もっと「奥深いところ」から鯉そのものになってしまっている。

 さらに、その鯉が食べているのは、ただの麸ではない。「罪」なのだ。

罪の形を丸い麸にして

 このことばの動きは少し奇妙だが。「罪を丸い形の麸にして」ではなく「罪の形を」というのが奇妙なのだが、奇妙だけに、印象に残る。罪に形があるのか。それが「丸い麸」という形になるのか。「罪」を「麸」にするだけではなく、そこに「形」ということばが入るために、何かしら「変形」という意識が紛れ込む。それは「変身」ということばとどこかで入れ違ってしまう。
 もしかすると、その鯉は人間が「変身」させられたもの? 何かの罪で人間の形ではいられなくなり、鯉にさせられてしまった。その鯉は、罪滅ぼしに、他人の罪を食べつづけなければならない。
 そんなことはどこにも書いていないのだが、そんなことを思っしてしまう。
 これは、私に「罪」へのあこがれがあるからかなあ。もう人間でいられない。動物にさせられてしまう。それくらいの「罪」を味わってみたい、という欲望があり、それが叶わないので、鯉に変身させられてしまった「人間」を見に来ている。
 そんなことを感じてしまうのである。
 このとき「罪」とは「鯉の罪」は「恋の罪」である。「人間の罪」は「恋の罪」。だから「若い身体に似せて化粧をする」「老婆が若い頃の姿のまま、恋人とブランコに乗って」というようなことばが書かれるのだろう。
 そうであるなら、なおのこと、「罪」に溺れてみたい。
 そんなことはどこにも書いていない。だからこそ、そう思うのである。書かれていないのは、隠しているからだ。ことばはすべて暗示なのだ。詩は、暗号なのだ。

池の底には、本物の池が沈んでいた

 そこに書かれている「本物」が「ほんとう」ということばを刺戟しているのかも。「ほんとう」は鯉ではない。「ほんとう」は別のもの。

 いま、私が生きている世界は「本物/ほんとう」ではない。「本物/ほんとう」は、「ことば」のなかにある。書かれたことば、語られることばのなかにあって、それは「隠されている」。

「許須野鯉之餌遣り」

 これは、ほんとうに「ゆるすのこいのえさやり」と読むのか。そう読んだとして「ゆるすの」の「の」は何? 「の」をこんなふうにつかう? 「ほんとう」は違う読み方があるかもしれない。「鯉に餌をやることを許す」とは書いていないのかもしれない。けれど、なんとなく、そんなふうに読める。だから、そう読む。
 「ほんとう」は、それをそう読みたいという思いのなかにある。ことばを書いた人ではなく、ことばを読むひとのなかにある。「許須野鯉之餌遣り」を「ゆるすのこいのえさやり」と読むのは、マーサ・ナカムラがそう読み取りたいからである。看板を書いたひとはそう読ませるつもりはなかったかもしれない。読むひとの「ほんとう」がそこにあることばをかえてしまうのである。「意味」を捏造してしまうのである。
 恋の罪を犯して、鯉に変身させられてしまった人間--という「意味」をマーサ・ナカムラのことばは「捏造させる」力を持っている。
 「ほんとう/真実」なんて、詩にとっては、どうでもいい。「ことば」を「誤読」させる力があれば、それが詩なのだ。「誤読」のなかには、その人の「真実の欲望」がある。それを誘い出すのが詩である。

 逆に言うと。
 その読者の隠しておきたい「ほんとう/真実の欲望/欲望の真実」が誘い出されてしまうから、それが「不気味」なのだ。
 朝吹はどんな欲望を刺戟されたのか書いていないけれど、きっと刺戟されたんだよなあ、と私は思うのである。

現代詩手帖 2016年 04 月号 [雑誌]
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宇佐美孝二「博物誌」

2016-04-05 08:59:27 | 詩(雑誌・同人誌)
宇佐美孝二「博物誌」(「アルケー」12、2016年04月01日発行)

 宇佐美孝二「博物誌」は昆虫のことを書いている。

八月
無人駅の待合室で
ほかにだれも降りる人がいなくて
ひとりで弁当を広げていると
緑色をした蛾が
こちらを向くことなく意識しているのを
わたしも意識をしている

 何だかおかしい。蛾が「わたし(宇佐美)」を意識しているかどうか、判断はむずかしい。犬くらいになると、犬がどう考えているかわかるような気もするが、蛾が何を考えているか、わからないなあ。
 これは、まあ、

こちらを向くことなく意識している「だろう」と
わたし「は」意識している

 というくらいの方が「正確」かもしれない。蛾が宇佐美を意識していると、宇佐美が意識している。最後の「意識」は「想像する」くらいの意味。「妄想」かもしれない。「妄想」というのは、ありえないことを思うこと、考えること。そのありえないことを書くのに、「意識する」という、いわば「冷静」な、「知的」なことばで言っているから「おかしい」。奇妙。
 けれど、この「おかしい」が、きっと詩なのである。
 「妄想」も「意識」もそんなに差はないのかも。何かを思い、考えるという人間の「同じ」動きなのである。ただし「妄想」あるいは「想像」にすぎないものを「意識」と書いてしまうと、「意識」の真理性/客観性(?)というものが揺さぶられる感じがする。
 そんなことを「意識する」ということばで書くなよ、という感じ。
 「意識」ってなんだっけ? 「意識する」ということは、どういうことだっけ? どういうことを「思い/考える」とき「意識する」というんだっけ? 昔の思い出が「肉体」のなかから動いている感じがする。
 「意識」を「意識」という対象として「意識する」。それを詩にもどって読み直すと、

こちらを向くことなく意識している「だろう」と
わたし「は」意識している
「ことを、私は意識する」

 ということになるかもしれない
 これって、何かに似ていない?
 「我思う、ゆえに我あり」に似ているなあ。
 「我弁当を食べる、ゆえに我あり」でもいいのだろうけれど、そう書かずに「蛾がわたしを意識していると私は意識する、ゆえにわたしはある/私は存在する」と言っているような気がする。
 
 ほんとうに、そうかな?
 「我意識する、ゆえに我あり」というのはそのまま信じていいのかなあ。「ある(存在する)」のは「我」なのかなあ、「意識」なのかなあ。区別がつかない。宇佐美は「我あり」とは書いていないだけに、私のことばはぐらぐらする。

 よくわからない。二連目で、この「意識する」ということが、また妙な形でずれる。

白黒のまだらの蛾は
翅だけが散乱している部屋で
地面にへばり付き
ケラが足元に寄ってきて
じっとしている
ハチは硝子を通過しようと
翅を騒がせ
くろい蛾がひくい天井のほうで俯いていたり
わたしはすでに何年も前からいない感覚で
これらをとらえる
わたしもいなかった頃のことを
だれかがやはりとらえていたのかしら

 「ずれる」と書いたのは……。
 「わたしはすでに何年も前からいない感覚で」という一行が原因。
 「我意識する、ゆえに我あり」という感じで世界と向き合っていたはずなのに(私は、そう思って読んでいたのだが)、ここに突然「何年も前からいない感覚」ということばが出てくる。
 「不在」の感覚。不在なのに、その「不在」の感覚が「ある」という妙な矛盾。「不在」が「ある」というのは、どうしてわかる? どうやって証明できる?
 そういうギリシャ哲学のはじまりのようなことと同時に、別なことも思い浮かぶ。
 「何年も」の「何年」をどうとらえるかはむずかしいが、私は瞬間的に五年、十年という感じではなく、何万年と思ってしまった。「わたしもいなかった頃」ということばが影響している。もしかすると「人間」そのものがまだ存在しなかったころ、という意味かもしれない。
 それが「不在感」を強くする。「不在感」を「事実」にかえる。何万年いも前に「わたし(宇佐美)」は存在しないということは客観的(?)な「事実」。「いま」ここに宇佐美がいるのだから何万年も前に宇佐美は存在しない。
 ここから、「我意識する、ゆえに我あり」とは、人間の勝手な思い込み。「人間」が存在する前から「世界」は存在している。世界が存在して、そのあとで「我」が存在する。
 でも、そうすると「我意識する、ゆえに我あり」は間違い?
 そうでもないかもしれない。

わたしもいなかった頃のことを
だれかがやはりとらえていたのかしら
「と、私は意識する」

 一連目の最後に補ったのと似たことばをここに補うことができる。
 「意識する」と「我」ではなく、「我」を含む「世界」がそこにあらわれてくる。「我」だけが優先的にあらわれるのではなく、「我」と「世界」が同時にあらわれてくる。切りはなせない形であらわれてくるように思える。
 そしてそこには「我」ではない「だれか」が「いる/ある/存在する」と「意識する」ことができる。さらに、その「だれか」は「わたし(宇佐美)」が意識するのと同じことを意識したと仮定することもできる。
 その「意識」が「継承」されて、「いま」までつづいている。
 いや、遠い昔に誰かが蛾のことを意識したと意識する瞬間に、それが「事実」として、「いま」「ここ」にあらわれてくる。

 我意識する、ゆえに世界は生まれる

 あるいは「わたし」が「いない/ない」がゆえに、「わたし」を超えるものが存在した、と「妄想/想像/意識」する。その「妄想/想像/意識」が、ことばとして引き継がれ、いま「世界」としてあらわれる。

 「我意識する、ゆえに世界あり/世界がうまれる/世界があらわれる」という「哲学」がここにあるように思える。
森が棲む男
宇佐美 孝二
書肆山田
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グザビエ・ジャノリ監督「偉大なるマルグリット」(★★)

2016-04-04 08:40:29 | 映画
監督 グザビエ・ジャノリ 出演 カトリーヌ・フロマル、アンドレ・マルコン

 美しいシーンが二か所。
 ひとつはハイライトのコンサートのシーン。マルグリットの音痴な歌に観客が笑い出す。その嘲笑の観客の中にあって、夫だけが「真顔」でマルグリットのことを心配してみつめている。その顔をみつけた瞬間に、マルグリットの歌が変わる。いままでの音痴とはまったく別の美しい歌声。
 これは、彼女が夫の愛に飢えていたために歌うことにのめりこんだことを証明している。何度か映画の中で、夫が冷たいということが描かれる。夫はマルグリットの財産目当てに結婚した。そのことはマルグリットもわかっている。わかっているけれど、そうではないと信じたい。夫にもっと関心をもってもらいたい。
 一瞬の美しい歌声は、まるでマルグリットがわざと音痴を装っていたのではないかと感じさせるほどである。夫に「やめろよ」と言ってもらいたかったのかもしれない。「否定」のことばであるにしろ、それが「親身」であれば、マルグリットはうれしかっただろう。そんなことを感じさせる。
 夫は、この瞬間的にあらわれた美しい歌声で何かに気づく。妻が夫の愛を求めていたことを初めて知る。だから、その後は、とても親身になる。ほんとうにマルグリットのことを心配しはじめる。マルグリットにマルグリットの歌(録音)を聴かせ、真実を悟らせるという病院の「治療方針」を聞き、それを止めさせるために故障した車を捨てて走り出したりする。
 周囲をみまわせば、みんながマルグリットの金目当てである。だれも彼女のことを気にかけてはいない。だからほんとうのことを言わない。「音痴だ」と告げて、もらえるはずの金がもらえないと困るからだ。笑わないのは「礼儀」ではなく、むしろ「非礼」ということになる。マルグリットは、そのことに薄々勘づいていただろうと思う。気づいていて、それでも他人との接触が恋しくて、利用されるのを承知で他人に利用されていたのかもしれない。
 もうひとつの美しいシーンは、マルグリットが新聞記者と仲間の詩人・イラストレーターにそそのかされて(利用されて)、下町のバーで国歌を歌うシーン。ここでも音痴に変わりないのだが、そのバーは反体制派(アナキスト)がたむろするバー。ピアノの伴奏も、ピアノをハンマーでたたき壊すという過激なもの。既成のものを破壊するのを楽しんでいる。マルグリットは、ここで「観客」と「一体」になる。「音痴」であることを、だれも非難しない。ただ何かが破壊されることを楽しんでいる。ここでマルグリットは、音楽が演奏者(歌手)のものではなく、観客のものだと知る。実感する。
 その興奮は、自宅のサロンでの音楽会とはまったく違う。サロンではみんなが楽しんでいるかどうか、わからない。バーでは、だれも真剣に耳を傾けてはいないが、楽しんでいる。
 この喜びをマルグリットは夫に語るが、もちろん夫に理解されるはずがない。夫は音楽を楽しむものとは感じていないのだ。これはサロンに出入りする他の貴族も同じだろう。
 うーん。
 この映画は、なかなか「辛辣」なのかもしれない。「音痴のオペラ歌手」を描くふりをして、冷淡な社会(人間)をあぶりだしているのかもしれない。
 キーマンは、黒人の執事だろうなあ。彼は、マルグリットの写真を撮っている。どの写真も、ほんもののオペラの衣装(金の力で買い集めた)を見につけ、オペラのシーンを再現している。そこには、しかし、周囲の貴族は写っていない。ただ彼女だけが架空の世界を表現し、ひとりでその世界を支えている。それはそのまま貴族社会の冷淡さを象徴することになる。その様子を執事は目撃し、それを他人にもわかるようにしているのだといえる。執事は、自分で現像もしている。この「現像」が、同時に、もうひとつのこの映画のキーワードかもしれない。見えなかったものを見えるようにし、さらにそれを定着させる。それが「映画」である、ということを語らせているのかもしれない。
 実際にいた「音痴のオペラ歌手」からヒントを得てつくられている映画らしい。なぜ「音痴のオペラ歌手」が愛されたか。ひとつは、おもしろいから。ひとつは、音痴を気にせずに歌うエネルギーに圧倒されたから。(これに類することは、詩人・イラストレーターがマルグリットを評して言っている。)それ以外に、観客は、その「音痴のオペラ歌手」の声に、愛を求める切実なさびしさを感じ、共感していたのかもしれない。マルグリットの姿を重ねると、そう思えてくる。
 ひとはだれでも愛を求める。そして、それはさびしいことでもある。このさびしさを語ることはむずかしい。映画は淡々と、わざと「章」仕立てにして、これが現実ではなく「物語」なのだと強調している。「物語」からどんな「現実」を引き出すか、を観客にまかせている。フランス映画らしい「意地悪」な作品である。
                      (KBCシネマ2、2016年04月03日)





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たなかあきみつ訳/イリヤ・クーチク「ヌード--11」

2016-04-03 18:41:39 | 詩(雑誌・同人誌)
たなかあきみつ訳/イリヤ・クーチク「ヌード--11」(「GANYMEDE」66、2016年04月01日発行)

 たなかあきみつ訳/イリヤ・クーチク「ヌード--11」は「特集『悲劇の終焉』の第一冊分『市民戦争』収録詩篇のうち」の一篇。

彼女は鏡を貫通する。コクトーの《オルフェ》のように、
しかもアリスのように全身的ではなく、おのれの裸体によって
ちょうど半身まで。鏡の裏に見出される
巨大なトロフィーに関する思索は彼女のひたいをへどろのように暗くする。

 いくつもの「比喩」が登場する。
 「コクトーの《オルフェ》のように、」「アリスのように」という形式的には「直喩」と呼べるものがある。「へどろのよう」も「直喩」のひとつと言える。
 「巨大なトロフィー」は「暗喩」だろう。「裸体」ということばは、すけべな私にはセックスと直接的に結びつく。だから「巨大なトロフィー」は「勃起したペニス」の「比喩」として見えてくる。
 この「暗喩」を生み出しているのは、しかし「巨大なトロフィー」という形(イメージ)ではない。
 私の場合、「巨大なトロフィー」が「勃起したペニス」にかわるまでには、「貫通する」「(裏に)見出す」「(ひたいを)暗くする」という「動詞」が深く関係してくる。「貫通する」はもちろん性交渉そのものを指している。「(裏に)見出す」は「隠されている」であり、ほんとうは見えない。つまり、想像するである。想像が「(ひたいを)暗くする」。「ひたい」はそのことばの直前の「思案」でもある。「頭/思考」を暗くする。「思案」は少し微妙だが「頭/思考」というのものは、だいたい「論理的」である。それが「へどろのように」、不定形に、どろどろになる。「妄想」。セックスへの妄想で「精神/頭/思考」が不定形になる。そのとき、書かれてはいないが「情念」が「巨大なトロフィー」にあわせて、明確になる。「情念」の方は「へどろ」とは対極のものになる。しかし、それは「明るい」がどうかは、よくわからない。「暗くなる」という「動詞」にひきずられて「暗い」ものを含んでいるかもしれない。
 全体としては、鏡の前に裸の女がいる。女は自分のヌードを見ながら、セックスを想像している、ということを描いたのだと思って読む。裸そのものよりも、裸を見たときに感じる「情念」を「比喩」をとおして描きだそうとしているように、読める。読んでしまう。私の欲望は、そう読みたがっている。

一見して、彼女はそこで手探り状態で、その間
手はこちら側で静かに太腿に置かれてある。
彼女の釣果はといえば、これは彼女の手である?
鏡に近すぎる、うんと体を伸ばした際にも。

 「手探り状態」の「状態」は「ようである」に近い。つまり「比喩」だろう。実際には「手探り」をしていない。けれど、「手探りしているようなもの」。実際には「手」は「太腿に置かれている」。
 ここでも「動詞」が重要だ。動いていないけれど、「手探りしているようなもの」は、「静かに」という副詞の形で「置かれている/動かない」へと緊密に連絡する。そして「手」が「動かない」かわりに、ほかのものが「動く」。想像が「動く」、ことばが動く。想像をことばにして「動き」としてみせているのが、この詩ということになる。

彼女の釣果はといえば、これは彼女の手である?

 この一行は、ややこしい。「これは彼女の手である?」と疑問形になっている。これは、「これはほんとうに自分の手なのか」と疑っていることを意味するだろう。逆に言えば、太腿に自分の手を置きながら、その手を男の手と思っている、想像しているということになる。男の手ならば、勝手に動く。けれど、それが女が想像した男の手ならば、そこから始まる手の動きは女の欲望そのものでもある。「鏡」を見るように、女は自分の手に自分の姿(欲望)を見ている。

それにもかかわらず手探り状態である。したがってこうして鳥肌
立つので。秘密や色情ゆえに。
鏡の中のおのれを彼女は見つめ、おぞましてい面相を引き攣らせる、
泡の中で死滅する何かをあたかも探知したかのように。

 自分自身の「秘密や色情ゆえに」、「鳥肌」立っている。そういう女が描かれているのだが、この女は「女の自画像」のようであって、女自身が描いたものではない。男が描いたもの。男が、鏡の前の女はこんなふうにおのれの「色情」に震えていると描いている。そういうことを「したがって」という「論理的」なことばがあらわしている。
 女が女を描いたら「したがって」とは書かないだろう。こういう「論理」を通らないだろうと書くと、女性蔑視につながるか。よくわからないが、私の「直観の意見」は、ここには女の欲望ではなく、男の欲望が書かれていると思うのである。女はこんなふうであってほしいという「男の欲望」を感じるのである。(それは書き出しの「貫通する」という動詞のつかい方にも通じる。男の欲望/本能が無意識にことば全体を統一している。)

鏡の中のおのれを彼女は見つめ、おぞましてい面相を引き攣らせる、
泡の中で死滅する何かをあたかも探知したかのように。

 では、この二行には、どんな「男の欲望」が書かれているか。
 「泡の中で死滅する」は「へどろ」を連想させる。「へどろ」とは「思案/思考/頭」が不定形になったものを意味していた。それらは「死ぬ」ことによって、不定形になり、どろどろになった。
 「思案/思考/頭」が「精神」なら、「泡の中で死滅する何か」は「感情」を指しているかもしれない。行動を支配する「感情」とは何だろう。恐怖か。羞恥か。たぶん羞恥、恥じらいだろうなあ。
 自分のなかにある隠しておきたい「秘密」、つまり「色情」が鏡に映し出されているのを知って、恥じらう。恥じらい「おぞましく」思い、顔を引き攣らせる。
 ここに「探知した(する)」という動詞が出てくるが、これは「思案(する)」「思考(する)」と同じように、精神(知性)で「探知する」、「探る/知る」のである。この理性的な動きにはやはり男が投影されているように思える。
 詩人は女を女の立場から描こうとしているのではなく、男の視線で描きだそうとしているように感じられる。

彼女は鏡の黒い裏面で手をぬぐい、
手探りを続行する。もうひとつの半身は、
鏡に映り込みながら、やたらだらだらとおのれを導く、
他在において想像されることに対して

 この連は、前の連に出てきた「したがって」の影響を強くひきずっている。「したがって」という「論理」のなかで、ことばが動きはじめる。(この連から、詩のことばが異質に感じられるが、すべて「したがって」が「論理」を要求するからである。)
 女は、課の中(鏡を貫通して行った先の世界/鏡の向こう側/鏡の裏面)の自分と、鏡の前の自分との間で、どっちがほんとうの自分なのか、わからなくなっている。「欲望」はどっちに属しているのか。
 「他在」という不思議なことば。これは「男」の「比喩」だろうか。「男が想像する女」というものがあり、それが女を導く。しかし、それはほんとうに「男が想像する女」なのか「男に想像してもらいたいと思っている女の欲望」なのか。
 鏡の中に映っている女の欲望、鏡に姿を映している女の欲望。それに区別はあるのか。同じように「男が想像する女」と「男に想像してもらいたいと欲望している女」に区別はあるのか。
 きっと、ないなあ。
 その瞬間瞬間に、入れ替わりながら、動いている。どれがどっちと固定せずに、二つの間を動きながら、女も、男も、欲望をも姿をかえながらあらわれる、ということなのだろう。
 「半身」ということばが何度も出てくるが半身+半身=全身、女が想像する女+男が想像する女(女が、男が想像すると仮定して思い描く女)=全身という「算数」が成り立つかもしれない。ただし、その半身+半身というときの「+(プラス)」は「足す/あわせる」というより、相互に入れ替わるということだと思う。どちらがどちらを意味するかを限定せず、つねに入れ替わることで「全身」になるのだと思う。
 しかし……。

いかなる関心も持たずに、こうして切断された毛虫の半身は
静かである、その間もうひとつの半身は先の半身ともども鉤形を呈す。
文字通りその半身は静かである。太腿に手は置かれてあるが
ボディーは優雅な身のこなしや華やかな装いを鼻にかける気配はない、

彼女は--(a)腰かけている、および(b)全裸である以上は。ところがいきなり
この部位は彼女をぴくっとふるわせる、呼気で強ばりながら。
反映は鏡の中を遡行する。髪の毛=蛇をそよがせる
その顔は余すところなく--胴体も足も手もなく。

 詩人は、もっと「冷酷」な感じなのかなあ。女のことが嫌いなのかもしれない。何か女の欲望によりそう感じがしない。「したがって」からつづいている「論理」、「男の視線」がここでは徹底している。「(a)腰掛けている、および(b)全裸である」というような箇条書き(?)の分類が冷たい。
 「毛虫」「蛇」という「暗喩」の唐突さが、冷たい。
 「毛虫」は「髪の毛」に対して下半身の「毛」、つまり女性性器そのものの「比喩」だろう。「毛虫」はさらに「その部位」と抽象的に言い直されているが、この言い直しがとても冷たい。まだ「毛虫」の方が「感情」を感じさせるぶんだけ「温かい」感じがする。
 「切断された欲望(下半身の欲望/「この部位」の欲望)」と「上半身の装い(理性/頭)」が対比され、その両方をいっしょに生きているのが女が、と言っているように読めるが、そういう「切断(断絶)」は何も女だけのものではなく、男のものでもあるのだが、この詩人は、そうは考えないのかもしれない。
 「髪の毛=蛇」は、何かなあ……。下半身は「毛虫」そのものだが、上半身はイブをそそのかした蛇そのものであり、やっぱり男を誘うことをやめていないということ?
 よくわからないが。
 「蛇をそよがせる」の「そよがせる」は漢字で書くと「戦がせる」になるだろう。漢字になおして読み直すと、ふたたび詩はセックスへともどっていくのだけれど、そこには「色気」というよりもキリスト教の「原罪」の方が強く出てくる。
 あ、私はキリスト教徒ではないので、「キリスト教の原罪」と書いたところで、ぜんぜん実感がない。ただ、そう呼ばれているものが、ここにあらわれているのかなあ、と想像するだけである。

 何を書いているのか、よくわからない感想になってしまったが、「したがって」からつづくことばの動きが、なんとも「男臭く」て、前半とは違っているのがおもしろく感じた。
 「毛虫」「蛇」という唐突な比喩は、たぶん詩人全体の詩の中でつかみなおさないといけないのだと思うが、こういう部分にこそ「注釈」がほしいなあと感じた。「意味」ではなく、ほかの詩では「毛虫」「蛇」がどういう具合につかわれているか、という「注釈」があれば助かるなあと感じた。
 「動詞」はどの国語でも「肉体」と密接に関係しているので、かってに「誤読」できるが、(たとえば「そよがせる=戦がせる」)、「名詞」は「誤読」がむずかしい。

ピッツィカーレ―たなかあきみつ詩集
たなか あきみつ
ふらんす堂
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高塚謙太郎「ねむりあい」ほか

2016-04-02 09:19:34 | 詩(雑誌・同人誌)
高塚謙太郎「ねむりあい」ほか(「GANYMEDE」66、2016年04月01日発行)

 高塚謙太郎「ねむりあい」は小詩集「みんなのうた」のなかの一篇。

しずかというものがたりかたからかたむいて
まるみをおびたわたしたち
いっついのゆめははてもなく
こころあらわれるほどの春はちかい
そらはほらひとりのためにはゆたかだけれど
みつめあうはなさきにはとてもせまくて
いきがつまりそうとおもう

 ひらがなが多い詩だ。読むと(音読するわけではないが)音が聞こえてくる。たとえば一行目、

しずかというものがたり「かた」から「かた」むいて

 という「かた」「かた」という音がまず聞こえる。それは、私の場合、

しずかというもの「がた」り「かた」から「かた」むいて

 という濁音を含むものへとはつながらない。「がた」は耳ではなく目で見る音だ。
 私の場合、「かた」「かた」は、

しず「かと」いうものが「たり」「かた」「から」「かた」むいて

 「ら行」を聞き取る。「か・た/と・り/ら」の音が交錯していて、その交錯の仕方がとても気持ちがいい。
 ほかの行も、ここがこうだから気持ちがいいとははっきり指摘できないのだけれど、私には気持ちがいい。

そらは「ほら」ひとりのためにはゆたかだけれど

 は「ほら」の区切り(一呼吸)があって、その直前の「は/は行」が「ひ/は行」へと動いていく。その「ほら」の一呼吸と「ため」という「論理的な一呼吸」が響きあいながら「ゆたか」という意表ついた「意味」を含んだことばを呼び寄せる。(ここにも直前に見た「た」「か」の組み合わせがある。)
 音と論理と意味の交錯。
 この不思議な変化が、高塚の「ひらがな」を読みやすくさせている。
 私は黙読しかしないが、「音楽」が聞こえてくる感じがする。
 それも「耳」に、というよりも「耳から」、あるいは「肉体」から、という感じで聞こえてくる。
 「耳」ではなく、知らない内に「舌」や「のど」が動いているのかもしれない。

 「み空」という作品。

おぼえたてのものをみせてくれるという
みぎのてのひらですっかりみえなくなったものが
ひだりのてのひらからのびてくるという
てのひらではなく
みぎの耳ひだりのみみ
だったのかもしれない
からふかししてふかふかになった蒲団
いつもの陽だまりにはあああがいて
耳をひっぱったりして過ごしていたがあれは
おぼえたてのしあわせだったのかもしれない

 「みせて/みえる」の「み」が「みぎ」「みみ」をひっぱりだし、「ひだり」という「意味」をひっぱりだしたそのあと、「の」のない行、

「から」「ふか」しして「ふか」「ふか」になった蒲団

 この行が、とても美しい。「蒲団」は「ふとん」とひらがなにすると「ふ」が余分に重なって、逆に、それまでの「音楽」を消してしまうかもしれない。
 意識的かな? 無意識の直観かな?
 さらにそのあと、

いつもの陽だまりに「はあ」「ああ」がいて
耳をひっぱったりして過ごしていたが「あれは」
おぼえたての「しあわ」せだったかもしれない

 この三行の「あ」の音を中心にした動きも、とても気持ちがいい。黙読なのに「あ」の音がはっきりと聞こえてくる。「あれは」と「しあわ(せ)」は文字で書くと「は」「わ」ははっきり別なのだが、発音すれば「わ」のなかに違いが消える。その前の行も、日だまり「には」と読むと「わ」の音になる。
 そういうことが「耳に」ではなく、「耳から/肉体から」聞こえてくるという印象を強くするのかもしれない。

おぼえたてのうたにのせて手あしをうごかす
まるでほとんどわかってたひらめきみたいに
ひらいたさかなのわたのまあたらしいあかりに
ほのみたおまえのはかない耳たぶ
みえなくなったもののありかの
耳たぶ
とべるくらいにひらひらさせて
み空へとすいこまれていった(みえなくなった

 この部分では、

まるでほとんどわかってた「ひら」めきみ「たい」に
「ひら」「いた」さかなのわたのま「あた」らしい「あか」りに

 あたりの「音」が違いに呼びあっているように聞こえる。「ひらめれと「たい」が「さかな」になっていく感じもする。

 で。
 こうやって、高塚の書いた詩に「 」を補いながら聞こえる音を印しづけてみて気づいたのだが。
 高塚のことばから私が聞いている「音」というのは「二音」のことが多い。そして「二音」だからこそ、「ひらがな」だらけなのに「読みやすい」と感じるのかもしれない。「二音」であることによって「音」がきわだつ。漢字は表意文字だが、ひらがなの「二音」もまた「表音楽/表旋律/表リズム」のように、何か「印象的」なのだ。目にも訴え欠けてきて、その刺戟が肉体のなかから耳を揺さぶる。単独の「音」、「素材として中立な音」というよりも、肉体全体を揺さぶる「和音」として響いてくる。
 これが独特なんだなあ、と思った。
さよならニッポン
高塚 謙太郎
思潮社
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野村喜和夫「第十八番(ドキュマン--料理法)」

2016-04-01 09:59:39 | 詩(雑誌・同人誌)
野村喜和夫「第十八番(ドキュマン--料理法)」(「GANYMEDE」66、2016年04月01日発行)

 野村喜和夫「第十八番(ドキュマン--料理法)」は「シンラ第一章」のなかの一篇。文字通り「料理法」が書かれている。

豚の頭は縦に二つ割りにして
外皮に残っている毛をバーナーで焼く
骨の隙間などの血や汚れは
割り箸や爪楊枝できれいに掃除する

豚の頭が入る大きめの鍋を用意して湯を沸かす
豚の頭と香味野菜のピュレを入れ 柔らかくなるまで
茹でる BGMはグレゴリオ聖歌か何か
茹でた豚の頭にニンニク、セージ、ローズマリー

のみじん切りをまぶし、塩、コショウする
直前にエクストラバージンオリーブ油をふりかけ
180度のオーブンで皮がパリッとするぐらいまで
焼き上げる 焼いた豚の頭は切り分けず

大皿に豪快に持って供する
レモンを添える

 このことばを「詩」にしているものは何だろう。
 「BGMはグレゴリオ聖歌か何か」ということばは、この全体のなかにあって、異質である。いわゆる「手術台の上のミシンとこうもり傘の出合い」のようなもの。その瞬間、世界が異化される。たしかに、そこに「詩」はあるかもしれないが。
 でも、私はもっとほかの部分に「詩」を感じる。
 ことばのリズムに、その長さに。言い換えると「饒舌さ」に。「BGMはグレゴリオ聖歌か何か」も「異化」作用を狙っているといえばいえるのだろうけれど、「饒舌」と「余剰」が基本である。言い換えると、「BGM」に「グレゴリオ聖歌」を流そうが「椎名林檎」を流そうが、料理の味が変わるわけではない。「料理法」そのものに「詩」を感じさせるなら、その材料によって「味」がかわらないといけない。こういう「味」そのものに関係のないところに、いくら「気を引く」ことばがあっても、それを私は「詩」と呼びたくはない。

 言い直そう。
 私はあまり料理をしないが、この「料理法」の書き方は、想像力を刺戟はするが、手順としてはいささかめんどうくさい。なぜ、めんどうくさいかというと、ことばが長いからである。

豚の頭は縦に二つ割りにして
外皮に残っている毛をバーナーで焼く

 これは、

豚の頭は二つ割りにする
外皮の毛はバーナーで焼く

 の方が「手順」としてわかりやすい。「動詞」は一行ごとに完結するのが「料理」の基本である。なれてくると、いくつもの「動詞」が連続していくが、そのころになると「レシピ」は不要である。頭に入っているからである。

骨の隙間などの血や汚れは
割り箸や爪楊枝できれいに掃除する

 も、

骨の隙間の血や汚れは取り除く
(割り箸や爪楊枝をつかうとやりやすい)

 の方が「手順」がすっきりするだろう。
 でも、野村は、そういう具合に書かない。「料理」をつくる気がないというか、「料理法」を伝えたいという気持ちよりも、いろいろなことばをたどるという「迂回(寄り道)」の方が詩だと感じているからである。「料理法」は詩を書くための「材料」なのだ。「料理法」を材料に詩を書こうとしているからだ。
 豚の頭は、いささかグロテスクである。それを食べることを想像すると、その前に生きている豚の姿が浮かんできてしまう。「外皮に残っている毛」というのは、その生きている姿をさらに呼び戻す。「残っている」は、まるで「生き残っている」という感じだ。この「不必要なもの/余剰」を呼び起こすのが詩である。「生き残っている」から「ばーなー」で「焼く」。このとき「焼く」は「焼き殺す」という感じがする。
 こういう「かすかに」残っているものを呼び出しながら、殺しながら、動いていく。一行一行手順を踏んで、行為を捨てていくというよりも、手順の奥から「生き残っている」材料の気配を呼び出し、ひきずりながら動いていくリズムそのものに「詩」がある。
 「リズム」は「長さ」と同時に「動き方」のことでもあるのだ。「時間」の動き方に「詩」があるのだ。
 二連目と三連目の「切断/接続」には、特にそういう感じがする。
 ほんとうの「レシピ」では、こういう書き方をしないだろう。
 私なら、

茹でた豚の頭にニンニク、セージ、ローズマリー

のみじん切りをまぶし、塩、コショウする

 と書くかわりに、

茹でているあいだに、ニンニク、セージ、ローズマリーをみじん切りにする
茹であっがったら、みじん切りにしたものを豚の頭にまぶす
さらに塩コショウで味をととのえる

 とするだろう。野村のレシピでは、茹であがったあと、あ、味付けがいる、ニンニクを刻まなければ……とあわててしまう。「レシピ」は材料の紹介と同時に「段取り」の紹介でもある。
 野村は「手順/段取り」を無視している。
 というより、あえて「手順/段取り」をひっくりかえすようにしている。先へ進むときに、いったん過去へもどるのである。
 豚の頭を二つ割りにしたあと、「(生き)残っている毛を思い出させる。豚の頭が茹であがったあと、その前に準備しておかないといけないものを思い出させる。ニンニクなどをみじん切りにしている間に頭が冷えてしまうと、まぶそうにもまぶしにくくなるのに。
 こういう「手順/段取り」のひっくりかえしの延長に「グレゴリオ聖歌」があるのだが、この「グレゴリオ聖歌」も、いわば「過去」であり、「時間/手順」のひっくりかえしである。そういう意味では、「グレゴリオ聖歌」は「定型」であるここに「椎名林檎」をもってくると「定型」は崩れる。野村のことばの運動を破壊してはいないのである。

 最後の二行はとても美しい。そして、それが美しいのは、そこに書かれている「レシピ」が、まさに「レシピ」の「手順」どおりだからである。
 あ、レモンを添えると味に変化が出る。レモンですっきりしたたいひとがいるかもしれない。そう思いついてつけくわえたひと手間。そこでは「時間」がストレートに動いている。「いま」のなかへ「過去」をひっぱり出さない。「いま」を「未来」へ動かし行くからである。
 「料理する」から「食べる」へと「時間」がぱっと切り替わる。「食べる」を書いていないのに「食べる」喜びがそこから始まる。
証言と抒情:詩人石原吉郎と私たち
野村 喜和夫
白水社
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