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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

利岡正人『危うい夢』

2016-04-26 09:15:22 | 詩集
利岡正人『危うい夢』(ふらんす堂、2016年03月24日発行)

 利岡正人『危うい夢』は何を恐れ、何を回避しようとしているのか。
 「夜に滲む」の書き出し。

タンクいっぱいに水を張って
不安定な眩しさが充溢する

 この二行は魅力的だ。タンクから水がこぼれそうなくらい、水がいっぱいに張ってある。こぼれそう(充溢しそう)。それを「不安定」と言い、さらに「眩しさ」と言い直す。この「眩しさ」が魅力である。言い直すことでまぎれこむ「肉体」が生々しい。
 タイトルに「夜に滲む」とある。タイトルとは無関係に「昼」の光景と読んでもいいのだが、タイトルにしたがって「夜」の光景と読むとき、「眩しさ」が「矛盾」してくるのだが、その「矛盾」が意識をひっかきまわす。暗闇のなかで、水がかすかな光をあつめて光っている。反射なのだが、水の内部から「充溢」してあふれてくるもののようにも感じられる。それをつかみ取る「肉体」が生々しい。
 しかし、この二行が、

水位に無関心な
首筋の脂汚れ

 とつづいていくとき「眩しさ」が消えてしまう。「肉体」が消える。「水位」は「不安定」「いっぱい」「充溢する」を含むのだが……。
 ここでは「動詞」があいまいになっている。「無関心な」という形容動詞は「関心を持たない」という動詞に、「汚れ」は「汚れる」という動詞として読み直すことができるかもしれないが、どうもおかしい。「脂汚れ」ということばから「脂」が「肉体(首筋)の内部から充溢してきて、汚れる」という具合に読むこともできるが、私の「直観の意見」では、ことばが「異質」なものに変わってしまったように思えるのだ。
 「夜の水の眩しさ(不安定さ)」に目をとめたということは、それに「関心」があるということ。その「関心」へ向かって、ことばにならないもの(肉体そのもの)が動いていくのが詩だと思うのだが、その肝心のことばにならない何かに対して「無関心」と拒絶してしまっている。いや、拒絶という積極的な感じではないね。積極的ならいいのだけれど、「無関心」。どうも、何かを避けている、回避している。かかわりになりたくない、という感じ。「頭(精神)」をつかって、肉体を遠ざけている感じ。
 「首筋」という「肉体」が出てくるのだが、ぜんぜん、「肉体」を感じることができない。「わたし(話者/利岡)」を感じない。

夢の包布は一夜漬け
漂白する
そのたびに繊維を損傷させて

 この二連目も、不思議な魅力を持っている。「一夜漬け」というのは一晩、タンクの水につけておく、ということだろうか。タンクの水はただの水ではなく「漂白液」なのだろう。「夢の包布」は「包布」が「夢」なのか、「夢」をつつむ布なのか、よくわからない。両方に読んでみる必要があるだろう。
 「漂白」は「美しくする」ことだが、それは「繊維を損傷させること」と、ここにふたたび「眩しい」に似た「矛盾」が登場し、そこがおもしろい。 「繊維」は「包布」の言い直しであり、それが「損傷させる(損傷する)」という動詞と結びつくとき、遠くから「肉体」の「損傷」が近づいてきて、重なる。
 この「肉体」の動きが先に書いた、「夢」と「包布」の、断定できないことばを刺戟する。どう読んでいいのか、いっそう、わからない感じにする。
 ことばの関係を「未連絡(こんなことば、あるかなあ)」にする。(はやりのことばなら、「分節以前」にする、ということか。「未生」の状態にするということになるかな?)
 ここから、いままで存在しなかった「ことば」を「ことば」として生み出していくためには、私は「肉体」が必要だと思う。
 しかし、利岡は「肉体」を書かない。

濁り水が排出される
明るい時間帯に我を忘れ
ブラシでこすり上げた側溝に

「タンクの水」は「漂白した汚れ」でいっぱいになり、「充溢する」ではなく「排出される」になる。その「排出される」という表現には「排出する」ときの「主語」があるはずだが、利岡は、受け身の「排出される」という形のなかへ「主語(肉体)」を隠してしまう。
 こういう手法(ことばの運動)は、それはそれで徹底すればいいのかもしれないけれど。そうであるなら「我を忘れ」のように形で「我」を出すことはないだろう。「我」を「忘れる」という形であるにしろ、ことばとして登場させるなら「我」の「肉体」と、その運動を、もっとことばに組み込まないと何が動いているかわからない。

 私は読み方を間違えているのかもしれない。だから、「誤読」さえできない。

 もう一篇、「計測中」という作品に、少しだけ触れてみる。

朝靄のなか寸法を測る

深い眠りについている
無防備な家々の窓に
板を打ちつけ
目張りをする

 この書き出しは「寸法を測る」が「板を打ちつけ/目張りをする」へと移行しながら、とても美しい生活を描きだす。整えられた暮らしの力、「肉体」でつかみとる「思想」の強さを感じさせる。「肉体」の運動が、そのまま「思想」になる強さがある。
 そのあと、

折れ曲がった釘とは別に
目の前の壁に近づき過ぎて

 と、とても魅力的な行があらわれる。折れ曲がった釘を引き抜いて、伸ばして、もう一度釘を打つという「行為」を想像させる。釘を抜くときは釘を打つときよりも顔が釘に近づく。目が釘に近づく。その「近づく」という動詞が「壁」を呼び込むところは、とてもリアルだ。ほんとうに板で目張りをしたことがあるんだろうと感じさせる。
 そういうリアルな「肉体」の運動のあと、詩は最終連で、一気に転調する。

まるで沖合いを漂う
言葉を計測中の
半開きの唇

 嵐の日、陸では家の目張りをしている。あるいは補強をしている。沖の舟では誰かが何かを叫んでいる。その姿(手振り)や大声を出していることはわかるが、声は聞こえない。唇が、ことばを探している。まるで夢のなかで、叫んでいるときのように、「肉体」はあるのに声だけが存在しない。
 こういうときは、叫ぶので、その「叫ぶ」という動詞は「唇」を「半開き」ではなく、「全開」にするとは思うのだが……。
 で。
 こういう具合に、奇妙な「印象」がふいにあらわれて、どうもはぐらかされたような気持ちになる。
 何か書きたいものがあるはずなのに、「肉体」をあらわすことを避けているために、ことばが「精神/抽象」のなかだけを動いているように感じてしまうのだ。
 ときどきおもしろいのに、全部読むと、妙にしらけた退屈さのなかにいる感じがするのである。利岡に「会えた」という感じがしない。もっと「肉体」を大切にすると「会えた!」という感じの詩になるのになあ、と思う。

危うい夢
利岡 正人
ふらんす堂
コメント
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