佐々木洋一「地上も」「白鷺」(「ササヤンカの村」2016年05月発行)
佐々木洋一「地上も」は「死後の道に」とつづけて読んだ方がいいのかもしれない。どちらも「いのちのリレー」について書いてある。でも、「地上も」だけの感想を書く。
「オイカワ」というのはよくわからないが川魚である。「しっしっしっしっ」は泳いでいるときの様子。すっと動いて止まり、またすっと動く。そういう繰り返しをするのだろう。この動きを「いのちの勢い」と佐々木は呼んでいる。
「地上のいのちとの交換」は次のように言い換えられる。
断片的に引用してしまったので、感想が書きにくくなったが、佐々木のことばは、前に書いたことばを少しずつ変化させながら動いている。ことばとことばの間に「脈絡」が動いている。たとえば、
この二行。「一足飛び」は「一気に跳ね」と重なり合う。「いのちは(一足飛びに)うしなわれた」と「(いのちを育む)夕餉に(一気に)跳ね上がった(=変化した)」が向き合う。「いのちが失われ」、「新たないのちに昇華した(跳ね上がった)」。「失われた」と「跳ね上がった」の製版貝の向きの動きが、とてもあざやかな印象を生む。
この切断と飛躍を含む、あるいは切断することで飛躍を生み出す「脈絡」がとても気持ちがいい。
無理がない。
この「無理のなさ」を佐々木は、
ということばで言い直している。
いや、この「澄みきったいた」は川の水の描写なので、「脈絡」を言い直したものとはいえないのだが、読んでいると、川の流れではなく「脈絡」の流れの澄みきった感じを語っているように感じられる。
余分なものが焼きつくされて透明になっている感じ。
「脈絡」の透明さに引き込まれていく。
「死」とか「焼き上げる」ということばの「即物的」な感じが、余分な「情緒」を押し流して、さっぱりさせるのだ。
一連目で「行く」と書かれていたことばが「逝く」と書き直される。「逝く」は「死ぬ」なのだが、そして実際にオイカワは死んで焼かれて食べられているのだが、そのことが死ぬことで生まれ変わって動きはじめるときの「動詞」に見えてくる。
オイカワを食べて生きる。そのとき、オイカワはオイカワを食べる佐々木の肉体のなかを「しっしっしっしっ」と動くのである。すっと動いて止まり、またすっと動いて止まる。その繰り返し。澄みきった行間に、その動きが見える。
「黙って」。そう、もう語る必要はない。行間の澄みきるのにまかせて、それをみつめるだけでいい。私の書いている感想など、余分なものだ。
*
「白鷺」に、「地上も」に出てくる川が出てくる。今度は「突然のゆきの朝/しろくしろく輝く川の中」に白鷺を見たときのことを書いている。白鷺は驚いて飛び立つ。
これが最終連で
に変わる。「垂直な脚」から「水平な白羽」。これが、やっぱり「澄みきった行間」を感じさせる。
そして「地上も」の「澄みきった行間」に「死」「焼き上げる」というちょっと異質なもの、「あく」のようなものがあったが、この作品では、
という行が、そうした働きをしている。視点が一瞬変化する。それによって、前に見ていたものがよりくっきりと見えるようになる。
そして、そういうものをふくめて「世界」があるということが、自然と納得がいく。
佐々木洋一「地上も」は「死後の道に」とつづけて読んだ方がいいのかもしれない。どちらも「いのちのリレー」について書いてある。でも、「地上も」だけの感想を書く。
しっしっしっしっ
オイカワは行く
「オイカワ」というのはよくわからないが川魚である。「しっしっしっしっ」は泳いでいるときの様子。すっと動いて止まり、またすっと動く。そういう繰り返しをするのだろう。この動きを「いのちの勢い」と佐々木は呼んでいる。
いのちの勢いを釣り上げると
オイカワのいのちは一足飛びに失われた
川のいのちと
地上のいのちとの交換
「地上のいのちとの交換」は次のように言い換えられる。
持ち帰った五十匹の死んだオイカワ
母は腸を抉り
死を焼き上げた
死を焼き上げられたオイカワは
貧しい夕餉に一気に跳ね上がった
かつて母が語った
あの時川のいのちにとても助けられたと
断片的に引用してしまったので、感想が書きにくくなったが、佐々木のことばは、前に書いたことばを少しずつ変化させながら動いている。ことばとことばの間に「脈絡」が動いている。たとえば、
オイカワのいのちは一足飛びに失われた
貧しい夕餉に一気に跳ね上がった
この二行。「一足飛び」は「一気に跳ね」と重なり合う。「いのちは(一足飛びに)うしなわれた」と「(いのちを育む)夕餉に(一気に)跳ね上がった(=変化した)」が向き合う。「いのちが失われ」、「新たないのちに昇華した(跳ね上がった)」。「失われた」と「跳ね上がった」の製版貝の向きの動きが、とてもあざやかな印象を生む。
この切断と飛躍を含む、あるいは切断することで飛躍を生み出す「脈絡」がとても気持ちがいい。
無理がない。
この「無理のなさ」を佐々木は、
澄みきっていた
ということばで言い直している。
いや、この「澄みきったいた」は川の水の描写なので、「脈絡」を言い直したものとはいえないのだが、読んでいると、川の流れではなく「脈絡」の流れの澄みきった感じを語っているように感じられる。
余分なものが焼きつくされて透明になっている感じ。
「脈絡」の透明さに引き込まれていく。
「死」とか「焼き上げる」ということばの「即物的」な感じが、余分な「情緒」を押し流して、さっぱりさせるのだ。
澄みきっていた
しっしっしっしっ
オイカワは逝く
一連目で「行く」と書かれていたことばが「逝く」と書き直される。「逝く」は「死ぬ」なのだが、そして実際にオイカワは死んで焼かれて食べられているのだが、そのことが死ぬことで生まれ変わって動きはじめるときの「動詞」に見えてくる。
オイカワを食べて生きる。そのとき、オイカワはオイカワを食べる佐々木の肉体のなかを「しっしっしっしっ」と動くのである。すっと動いて止まり、またすっと動いて止まる。その繰り返し。澄みきった行間に、その動きが見える。
泳いでいたオイカワが川の底でいのちらを絶たれてから
どれくらいの歳月が経ったか
しっしっしっしっ
黙って
いつか
しっしっしっしっ
地上も
しっ。
「黙って」。そう、もう語る必要はない。行間の澄みきるのにまかせて、それをみつめるだけでいい。私の書いている感想など、余分なものだ。
*
「白鷺」に、「地上も」に出てくる川が出てくる。今度は「突然のゆきの朝/しろくしろく輝く川の中」に白鷺を見たときのことを書いている。白鷺は驚いて飛び立つ。
さあ 白鷺
白鷺の垂直な脚
これが最終連で
さあ 白鷺
白鷺の水平な白羽
に変わる。「垂直な脚」から「水平な白羽」。これが、やっぱり「澄みきった行間」を感じさせる。
そして「地上も」の「澄みきった行間」に「死」「焼き上げる」というちょっと異質なもの、「あく」のようなものがあったが、この作品では、
この前までは
一匹のやわらかな蛇が向こう岸からこちら側へ
やおら泳いできて
そのひたむきさに一瞬たじろいだ
という行が、そうした働きをしている。視点が一瞬変化する。それによって、前に見ていたものがよりくっきりと見えるようになる。
そして、そういうものをふくめて「世界」があるということが、自然と納得がいく。
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