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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

スティーブン・ソダーバーグ監督「恋するリベラーチェ」(★★★+★)

2013-11-06 00:00:06 | 映画
監督 スティーブン・ソダーバーグ 出演 マイケル・ダグラス、マット・デイモン

 うーん、みとれてしまうなあ。マイケル・ダグラスに。いや、私は、こういう「なりきり」演技というのはあまり好きではなくて、「これはどうせ演技だよ(あんたが見たいのは役ではなく役者だろう)」という感じの演技が好きなのだけれど。
 忘れてしまう。
 なんだ、これは。本物のリベラーチェか。リベラーチェというのはマイケル・ダグラスの「偽名」だったのか、思わずそう思ってしまう。信じてしまう。私はリベラーチェを見たことはないし、その存在も映画ではじめて知ったのだが。
 だから、というのは変な言い方なのだけれど。
 途中でリベラーチェが禿げだったというシーンが出てくる。そのときなんかは、あ、マイケル・ダグラスって禿なのか。カツラなのか、と現実と映画がごちゃまぜになってしまう。たるんだ腹も見せるので、それがもしかしたらつくりものかもしれないのに、マイケル・ダグラスは、こんな醜い体で「危険な情事」をやっていたのか、なんて思ってしまう。「危険な情事」のときは若かったということも忘れてしまう。現実と映画がごちゃまぜになる。映画のなかで、ほかの映画もごちゃまぜになる。
 全部、マイケル・ダグラスの「いま/ここ」にある肉体にからみついてくる。そして、すべての区別がつかなくなる。
 白眉はたるんだ顔の整形手術。皮膚を頭の方へひっぱりあげ、皺をとるのだけれど、その手術シーンが克明に描かれるので、そうか、マイケル・ダグラスは整形しているのかと思ってしまう。これは映画、物語。マイケル・ダグラスは演じているだけであって、というようなことは忘れてしまう。これはマイケル・ダグラスの実像なのだと思ってしまう。
 で、あれっ?
 これって、私が最初に書いたことと何か違っているね。私は「これはどうせ演技だよ(あんたが見たいのは役ではなく役者だろう)」という感じの演技が好きなはずなのに、ちらりと見えるはずのマイケル・ダグラスではなく、いつもは見ることのできないマイケル・ダグラスを覗き見したような気持ちで、変に興奮している。
 ステージでピアノを弾き、観客に語りかける。そのときの、一種、ファンを見おろしたような態度。楽しみたいんだろう、楽しませてやるよ、という感じ--それがマイケル・ダグラスそのもの「思想(肉体)」に見えてくる。マット・デイモンに指輪だの車だのスーツだのを買い与えるシーンなんかも、ちらりとしか描かれないのだけれど、とてもリアリティーがある。
 これは、危険な映画だなあ。
 これを見てマイケル・ダグラスを見たと思い込む私も危険だけれど、やっているマイケル・ダグラスはもっと変だし、危険だよなあ。こんなことやってしまうと、マイケル・ダグラスは金ぴか趣味のゲイそのものになっしてまう。ほかの役ができなくなりそう。あと2、3日したらマイケル・ダグラス死去、原因はエイズなんていうニュースが流れてくるんじゃないかと思う。
 マット・デイモンも太ったり、やせたり、大変だねえ。

 あ、映画は、「見せ物」に終始しているわけではなく、きちんと恋愛にまつわる人間の「愛憎」を克明に描いている。マット・デイモンが最初にマイケル・ダグラスの楽屋にあらわれたとき、昔の恋人がむしゃむしゃと食事をしているというシーンがあって、それがマイケル・ダグラスに新しい恋人ができたときマット・デイモンの姿で反復されるところなんか、とてもていねいなんだけれどね。「懸命さ」がひしひしと表現されているんだけれどねえ。
 でも、やっぱりマイケル・ダグラスにつきるなあ。錯覚するなあ。マイケル・ダグラスがリベラーチェだったんだ、と信じ込んでしまうなあ。
                        (2013年11月03日、中州大洋3)
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杉谷昭人『農場』

2013-11-05 09:15:33 | 詩集
杉谷昭人『農場』(鉱脈社、2013年09月30日発行)

 杉谷昭人『農場』の「農場」とは宮崎県の肉牛飼育農家の農場のことである。口蹄疫が発生し、30万頭の牛や豚が殺処分された。その結果、多くの農家が廃業に追い込まれるということがあった。2010年のことである。その翌年、2011年には東日本大震災が起きた。そういう状況を背景にして書かれている。
 詩の成立の過程はわかるのだが、私には前半におさめられた「農場」は、私にはよくわからなかった。詩を感じなかった。

大型の家畜運搬用トラックがやってきて
農場のいちばん奥に掘られた長さ三十メートルの穴の
その脇に止まったトラックの荷台は
固いビニールシートで覆われていて
やがてにぶい音とともにガスが打ちこまれた
濃い空色の防護服の獣医が空を仰いで
トラック全体が十数秒だけ大きく揺れた
それからながい沈黙がきた

 詩の何がわからないかというと--杉谷が見えてこない。杉谷はどこにいるのだろうか。牛と杉谷がどういう関係を生きているのか、さっぱりわからない。杉谷が牛を育てていないとしたら、たとえば牛の飼育農家とどういう関係にあるのだろうか。同じ宮崎県に住んでいるということではなくて、そこに住むことによって農家の人とどういうやりとりがあり、それが杉谷にどう影響したのか、それがわからない。新聞の記事を読んでいるのとかわらない。
 穴のなかに投げ込んだ豚、死んだはずの豚がこどもを産んでいた--という感動的な事実を書いている部分でも同じである。

死んだはずの母豚がこどもを産んでいた
折り重なった豚の死骸の山の一角が揺れて
子豚が一頭、二頭と、ゆっくり生まれてきたのだ
作業をしていた農夫たちがそろって「おお」と声をあげ
獣医の手がメスを探るようにぴくりと動いた
ひとりの男が「ミサコ」と声をあげて穴に飛び込もうとして
まわりがあわてて男を抱きとめていた

 「ミサコ」は豚の名前だろう。一頭一頭に名前をつけ、「家族」としていっしょに生きてきた--そのことが男を動かす。それはわかるが、杉谷はどこにいるのだろう。その現場を見ていたのか。その話を聞いたのか。獣医の手の動きは杉谷が見たのか。それとも想像したのか。--衝撃的なことを書いてあるのだが、どうもピンと来ない。
 私は(私がこどものとき飼っていた牛や豚は)こういうことを経験していないので、私は杉谷が書いていることを「肉体」のなかから思い出すことはできないのだが、それにしても、ぜんぜん重なり合わない。その、私の知っている牛や豚、さらには牛や豚を飼っていたときのことと何も重ならないのが、奇妙に感じる。
 私が口蹄疫の「現場」を見ていないからだ--と言われればそれまでだが。

 口蹄疫、東日本大震災のことを書いた詩では「短い手紙」が、私の「肉体」にふれあった。

昨年は東北地方の友人からいろいろな手紙がきた
釜石からは虎の子の漁船一隻を流されたと
相馬からは二十頭の牛を捨てて避難したと
仙台の詩人からは詩が書けなくなってしまったと

どれもみな短い手紙だった
一通目は津波で 二通目は原発の放射能のせいだ
とはすぐに分かったが
三通目だけはなかなかうまく説明できない

 なぜ、この詩が私の「肉体」に迫ってくるかといえば、「分かった」と「説明できない」ということばのなかに、不思議な「矛盾」があるからだ。
 「分かった」は「説明ができる」である。「津波のせい」「放射能のせい」と「原因」が明確なとき、つまり原因-結果という因果関係が「説明できる」とき、それを杉谷は「分かる」と定義している。
 一方詩が書けなくなった理由の「説明できない」はどうか。これだって、「大震災で受けた衝撃のせい」といってしまえばそれで説明になるのだけれど、そしてそれが「原因」であると杉谷には「分かっている」のだけれど、「分かった」と言い切りたくない。簡単にかたづけたくない思いがあって、それが「説明できない」になっている。
 ここに、詩を書く、ことばにかかわる杉谷が噴出してきている。杉谷が見える。だから、引きつけられるのである。

私たちは何かを失うと同時に言葉を失う
何千人何万人が一度に津波に流されるという
理不尽な出来事に遭遇したとき
その体験を個別に表現する想像力を奪われてしまう

 ここに書かれていることは、すこし理路整然としすぎている。「頭」で整理されすぎていて、いくぶん杉谷が見えなくなる。杉谷を見ているというよりも、ことばと想像力の関係に関する講義を聞いているような気分になるけれど、「体験を個別に表現する」ために、ことばが何をつかんでくればいいのかわからず、戸惑っている--その感じと、「詩を書く」という杉谷自身の「体験(肉体)」を重ねていることが「わかる」。
 実際に仙台の詩人におきたことと杉谷が重ねようとしている「肉体」が正確に重なるわけではないだろうけれど、重ねようとしている、理解しようとしているという「動き」がわかる。つたわってくる。「説明できない」けれど、それは「わかる」。「わかる」のに「説明できない」から、それをなんとかつかみ取りたいという気持ちが生まれていること、そういう気持ちが動いていることが「わかる」。
 これは「肉体」の反応。ことばにならない、ことば以前の反応である。
 で、このあと、この詩はとってもおもしろい4行を抱え込む。

たまのビール一杯のことで妻と小さくいさかい
それが自分の節操のすべてのようにこだわり
妻にうまく言いくるめられて口をつぐむ
手紙をくれた友人の苦しみなどまるで忘れてしまう

 あ、「なま」の杉谷が突然露呈している。そうか、ビール一杯で妻といさかいをし、しかも言いくるめられて二杯目が飲めなかったのか。こういうことは大震災とは関係がない。関係がないけれど、それが杉谷の「いま/ここ」であり、そういうときもことばは動く。しかも、そこには「説明できない」(だから、言いくるめられてしまった)ことが「ある」。
 ここをもっともっと書き込んでいけば、どこかで大震災でことばを失った詩人のiPS細胞のようなものに触れることができるのになあ、と思う。
 大きな衝撃でひとはことばを失う。また小さなことがらでもひとはことばを失う。そのことばを失うということのなかに、何か大きい、小さいという「区別」の入り込む以前の何かがある。--それを探しに行けるのになあ、と思う。
 それを探しにゆかずに、杉谷は次のように「説明」してしまう。

あの年の三月十一日以降は変わったのだと信じよう
一通の短い手紙 波に消えた漁船 すべての沈黙
妻の手のあかぎれ 私たちの平凡な一日一日
みな世界の全体と見事な均衡を保っているのだと

 「世界の全体と見事な均衡を保っている」って、杉谷は「肉体」のどの部分で感じたのだろう。「頭」で整理したことを「感じた」と勘違いしていないだろうか。

 こういう作品ではなく、私は「分校跡・八月」のような作品を、杉谷のことばを読みたい。

向井潤吉がこの分校跡を尋ねていたら
八月の光が山の斜面を駆け下ってきて
校庭の銀杏の葉に青く染み入っていくその瞬間を
寸分の狂いもなく描き取っていただろう
いまは芝だけがわずかに残る校庭の
ブランコの柱についたこどもたちの手の汗の跡を
そっと一筆描きそえていただろう

 あ、「ブランコの柱についたこどもたちの手の汗の跡を」「描きそえ」るのは向井潤吉ではない。それは杉谷自身だ。ことばのなかで向井潤吉と杉谷が融合し、ひとりになって、ことばを動かしている。ことばが動いている。ブランコの柱にこどもの手の汗の跡を見る目、そしてそれを描く手--その「肉体」が重なるその瞬間、小さなものにいのちを感じる「思想」がひとつになる。
 ここに、詩、がある。





農場―詩集
杉谷昭人
鉱脈社
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粕谷栄市『瑞兆』

2013-11-04 10:48:10 | 詩集
粕谷栄市『瑞兆』(思潮社、2013年10月31日発行)

 粕谷栄市『瑞兆』は、どこから書きはじめようか。現実と幻が出会い、入れ違い、どっちがどっちへ動いていくのかわからないので、いつも迷う。でも、この迷うこと、わからてくなることが「この世のことわり」(14ページ、「桃の花」)なんだろうなあ--と書いてしまうと、変に「わかった」気持ちになるから困る。
 わかりたくない。
 粕谷栄市の書いてることは「わかりたくない」、いや「わかってはならない」、ということを私は書きたいのかもしれない。
 「桃の花」というのは概略(?)を書くと、道端に爺と婆が手を取り合って笑っている。それは石に刻まれた姿なのだが、その向こうの桃畑では男女がむつみあっている。石に刻まれたふたりは、むつみあうふたりの将来の姿なのか。あるいは、そのふたりは石にきざまれたふたりの見ている夢なのか。どっちであっても、どこかに手を取り合ってわらっている石の爺と婆がいるとき、石にきざまれたふたりから離れたところで男女がむつみあって、同じことをくりかえしている。--そういうことが「この世のことわり」であって、 それは「春になると、桃の花が咲く」のと「同じ」「ことわり」なのだ。
 あ、引用の仕方を間違えたかな?
 この部分は、次のようになっている。爺と婆は、

 遠い昔、小さな石に彫り込まれたときの姿で、ひっそ
りとそこに立っている。それは、多分、春になると、桃
の花が咲くのと同じこの世のことわりからのことだろう。

 「ことわり」ということばを私は日常的につかわないので、そこに引っぱられてしまったが……。
 「ことわり」というのは「理由」であり、さらに一歩進んで、「理由」を超えた「道理」ということかな? それは「決まっている」ことなのだけれど、それを「決める」のは「誰か」ではなく、自然にそうなること。一種の「必然」のことだろうなあ。男と女が出会い、そこからセックスがはじまる。これは「必然」。そうやって睦まじくなった男女がいっしょに暮らしていっしょに年をとっていくのも必然。ふたりから生まれたこどももやがて誰かと出会い、むつみあい……というのも必然。それが男女の道理であり、この世のことわり。自然の姿。
 まあ、そういうことなのだろうけれど、こういう「ことわり(道理/必然/自然)」を追いかけているとき、見落としてしまうことばがある。

同じ

 簡単に(?)挿入されている「同じ」こそが、粕谷のキーワードだ。誰もが「同じ」ことをする。「同じ」ことに幸福を感じる。むつみあい、不思議な喜びを感じる。それは「同じ」。子供が産まれ、年をとっていく。やがて死んで行く。それも「同じ」。「必然」とは「同じ」であり、「ことわり」は「同じ」である。
 なのだけれど。
 ゆっくり読み返そう。爺と婆の石の彫り物がある。それは昔彫られたときのままである。それは、「春になると、桃の花が咲くのと同じ」。
 「石の爺と婆が立っている」と「桃の花が咲く」が「同じ」。--これ、変だよね。何が「同じ」? 何を挿入すれば、「同じ」になる? 何を省略すれば「同じ」になる?
 春になると桃の花が咲くのは自然の摂理、必然。
 男女が年をとれば爺と婆になるのは自然の摂理、必然。
 だけでは、変だねえ。人間は一生がある。時間に区切りがある。(まあ、桜にだって、区切りがあるだろうけれど。)
 で、人間の方は、きっとこどもに摂理、自然を引き継いで行く。
 年月のなかで、花も人間も同じことを繰り返す。人間は、自分のやったことをこどもに引き継いでいく。それは、逆に言えば、いま生きているのはだれかのやったことを人ついでいるから。そして「同じ」ことをする。
 「同じこと」が繰り返され、それが摂理、自然になる。
 そして、その「同じ」を繰り返すこと、繰り返しながらそれを必然(自然/普遍)にかえてしまうという運動は、「人間」と「桜」の区別をなくしてしまう。「同じ」を繰り返し、必然/自然/普遍/ことわりに到達するという運動に人間と桜の違いはない。それが「同じ」なのだ。

 うーん、堂々巡りをしてしまうなあ。
 ちょっとはしょって言いなおすと、「同じ」が「違う」ものを結びつける。どんな違うものも「同じ」でつながっている。--この、奇妙な「矛盾」のなかに、粕谷の「必然/自然/普遍」という「思想(肉体)」がある。
 「違う」ものが「同じ」というのは矛盾だけれど--この矛盾(あるいは「違い」)を、粕谷は「幻」と呼んでいる。そして、その「幻」こそが真実であるという。「幻が真実である」というのも「流通言語」では矛盾になるのだけれど。
 矛盾をとおしてしかとらえることのできないもの--それが詩だからね。

 粕谷の詩は、そういう意味では、いつも「同じ」ことを書いている。題材をかえても、そこで動いていることばは「同じ」ことろをまわりつづける。他には動いていけない。それが粕谷の思想だから。
 ちょっと違う書き方で「同じ」をもう一度取り上げてみよう。「同じ」がキーワードであることを書いておこう。
 「無題」という作品。

 うなだれて坐っている男のとなりに、うなだれて、も
うひとりの男が坐っている。そのとなりにも、うなだれ
て坐っている男がいて、そのとなりに、また、うなだれ
て坐っている男がいる。
 気が付くと、そのとなりにも、そのとなりにも、同じ
ように、うなだれて坐っている男がいる。そこには、数
限りなく、うなだれて坐っている男がいるのだ。

 「同じ(ように)」ということばが出てくる。「同じ」はなくても「意味」は通じる。けれど、粕谷は書かずにはいられなかった。ただし、一回だけ。「同じ」は粕谷の意識のなかでは、そこいらじゅうにあふれている。「同じように」は、どこへ挿入しても「意味」はかわらない。

 うなだれて坐っている男のとなりに、「同じように」うなだれて、もうひとりの男が坐っている。そのとなりにも、「同じように」うなだれて坐っている男がいて、そのとなりに、また、「同じように」うなだれて坐っている男がいる。
 
 「うなだれて坐っている男」ではなく、「同じ(ように)」をこそ、粕谷は書きたいのだ。伝えたいのだ。でも「同じように」では抽象的なので、それを「うなだれて坐っている男」と言い換えて繰り返すのである。「うなだれて坐っている男」は、石にきざまれた爺と婆、手を取り合って笑う爺と婆と同じように、「同じ」を言うための「方便」なのである。
 で(と私は、ここで、いつものように飛躍する)。
 なぜ「同じ」を違う題材で繰り返すのか。それが粕谷の思想だから、根本だから--と言うだけではあいまいすぎるので、補足する。

 つまり、人間は、生きていると、いつか、うなだれて
坐っているしかないことが、骨身にしみてわかる。もち
ろん、何かのまちがいでおこった幻のできごとだ。

 「同じ」を繰り返すことが「わかる」につながるからである。ただしわかるのは、「同じ」であることが「わかる」。「同じ」ではない部分は、「まちがい」であり、「幻」なのだ。幻(まちがい)の奥に「同じ」があって、それが世界を支えている。
 「うなだれて坐ってる」というのは何かの間違い、幻。爺と婆になり手をつないでわらっているのも間違い。幻。爺、婆というのも間違い。幻。粕谷は爺ではなく婆であっても同じように、今度は爺を探して交わるだけである。男女の区別はない。そういう区別は「まちがい」「幻」。
 「ほんとう」は繰り返される「同じ」だけ、「同じ」を繰り返すことだけが「ほんとう」なのだ。それを「わかる」。何か(もの)が「同じ」かではなく、「同じ」という「こと」があるだけなのだ--それが「わかる」。
 これ粕谷は「骨身にしみて」と書いている。その「わかる」を「肉体」で覚える、ということだと私は読み替えている。



 「同じ」に関するいい加減なメモ(思いつき)。
 私は詩を読みながら、詩のなかにある「矛盾」を探す。そこに「思想(肉体)」の何かが隠されていると思うからである。今回書いたことで言うと、桜と人間が「同じ」というのは「矛盾」である。あるいは、論理が飛躍していると言うべきか。
 その「矛盾」を追い詰めていくと、何かわけがわからなくなるし、書けば書くほど堂々巡りになるのだが、「同じ」ということばが粕谷にとって重要であることがわかる。粕谷は「同じ」ということばがなければ、きっと詩が書けない。
 で、こういうことばを私はキーワードと呼んでいるのだが、これは一種のiPS細胞なのだ。「同じ」ということばは粕谷にとっては、そのほかのあらゆることばになりうる可能性をもったことばなのである。「同じ」から出発して、あるときは爺、婆になり、あるときはうなだれる男になる。詩集に登場するほかのすべての「もの」も「同じ」によって動いている。「同じ」ということばは、詩集の随所に挿入することができる。そして「同じ(ように)」ということばを挿入すれば、粕谷の詩は、きっと「わかる」。骨身にしみてくる。
 私は詩のなかにあらわれた「矛盾」を止揚して「結論」へ向かうのではなく、その「矛盾」を解きほぐして、矛盾が生まれる前の状態、細胞が細胞になる前の、iPS細胞のようなものへまで解きほぐしていって、そのiPS細胞が、他のことばにかわる瞬間、その動きをみたいのである。
 ことばもiPS細胞をもっている。ことばは「肉体」なのである。iPS細胞(思想/肉体)を感じ取ることができる詩が私は好きである。

続・粕谷栄市詩集 (現代詩文庫)
粕谷 栄市
思潮社
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新川和江『ブック・エンド』

2013-11-03 10:15:26 | 詩集
新川和江『ブック・エンド』(思潮社、2013年10月31日発行)

 新川和江『ブック・エンド』は新川和江と向き合って、その声を聞いている気持ちになる。私は新川和江とは会ったことがないのだけれど、目の前にどっしりした(失礼!)感じの女のからだを感じる。
 「空気入れ」というのは自転車に空気を入れる、の空気入れである。学校へ行く途中、自転車屋で空気を入れてもらう。そして、

ふたたびペダルを踏んで
わたしは学校へいそぎます
サドルから伝わってくる 固太りしたタイヤの
あの弾んだ感じを
体(からだ)は ずうっと覚えていました

 新川は、この詩に書いてあるように「体が覚えていること」を書いている。「体が覚えている」ということばだけなら、抽象的で誰でも書けるのだが、(私はいつも「肉体」が覚える、覚えている、と書くのだが……)、新川はきちんとその「覚えていること」を具体的に書いている。

固太りしたタイヤ

 この実感が「体」を明確にする。空気のいっぱい入ったタイヤの頼もしさ(安心感)が「固太り」ということばに凝縮している。固いものは強い。太ったものは丈夫だ。それを新川は手で触るだけではなく、自転車をこぐ、そして自転車から伝わってくる振動を体全体で受け止め、体全体で覚える。
 私はしょっちゅう「キーワード」ということばをつかう。無意識に挿入してしまう大事なもの。いつもは体になじんでいて、そのことばをつかい忘れる。省略してしまう。けれど、あるとき、どうしてもそれが必要になって書かずにはいられない。そういうことば。そこに「思想」が凝縮していることば。
 新川の場合、それは

体(からだ)

 である。
 先に引用した部分の「体は ずうっと覚えていました」は「体」を省略しても意味が通じる。
 また、「体」を「わたし」と言い換えても意味が通じる。
 これは、新川が「わたし」を「体(からだ)」として把握している。それを「思想」の根幹としていることのあかしである。「わたし」は「精神」ではなく、まず「体」なのだ。「わたし」が覚えるのではなく「体」が覚える。
 「体」というのは不思議なもので、たとえば道に倒れて誰かが腹をかかえて呻いている。そうすると、その倒れている体が「私のもの」ではないにもかかわらず、「痛い」ということがわかる。あ、このひとは腹が痛いのだとわかる。「体(肉体)」は、ひとそれぞれに独立してある。孤立している。それにもかかわらず、その断絶を飛び越して、その「肉体」のなかで起きていることが「わかる」。自分の「肉体」が覚えていることが、他人の「肉体」を見ることで、自分の「肉体」の内部で生まれてくる。「肉体」は自他の区別をなくして、融合してしまう。その「融合」をささえている(?)のが「肉体が覚えていること」なのである。--あ、これでは同義反復か……。

 「肉体」は自他を越えて、他者になってしまう。この感覚があるので、私は、詩を読みながら、「いま/ここ」にいないはずの新川をまるで目の前にいるように感じる。--と書くと、うーん、これも矛盾だなあ。
 道に倒れて呻いている人間を見ると、その人が腹が痛いのだと「わかる」。そのあり方とは逆向きのことが起きる。そこに書かれている「ことば(たとえば、痛い、ということば)」を読むと、それは単なることばなのに、ことばを越えて、そのことばを発したひとの「肉体」が「わかる」。そのとき、これはほんとうに矛盾としか言いようがないのだが、私は「痛い」が「わかる」のではなく、目の前に新川という「肉体」が存在するということが「わかる」。いや、実際には「いま/ここ」にはいなくて、新川は東京にいるのかもしれないけれど、その「空間」を無視して、ふいに新川が私の目の前に「肉体」そのものとして現われてくる。この感じが、とても気持ちがいい。安心感がある。


 この安心感、直接、「自分ではない肉体」を「自分の肉体」のように感じる瞬間--それが「固太り」したタイヤの「固太り」という感じ、新川が「体で覚えていました」という、そのことばに凝縮している。「固太り」と新川が書くとき、私も空気のつまったタイヤの感じを思い出し、同時に、その感じを「固太り」であると納得した瞬間、「私の肉体」は「私の肉体」であると同時に「新川の肉体」であって、そこに「区別はない」、つまり「融合している」。「ひとつ」になっている。--この「ひとつになる」がセックス。
 こういうときに「セックス」ということばを持ち出すと顰蹙を買うし、それをいやがる人がいるのだが……。でも、それはセックスだなあと思う。「ことばの肉体」が抱き合っている感じ。何もかも捨てて、直接ふれあう感じ。その「直接」だけがもたらす安心感。それが気持ちがいい。
 「肉体」が「ひとつになる」のがセックスであるように、ことばもある瞬間「ひとつになる」。「ことばの肉体」がセックスをする。その快感のなかで、私は新川という人間を心底信じてしまう。「いま/ここ」に新川がいる、と感じる。
 「肉体」と「精神」を混同している--と二元論を生きる人ならいうかもしれないが、私は二元論を信じていないので、それは混同ではなく、融合だと言うのである。

 脱線したのかな?

 詩にもどる。あるいは、「肉体」にもどる。
 「肉体」というのは、それぞれが一個である。連続していない。でも、道に倒れて呻いているひとをみて腹が痛いのが「わかる」ように、何か、肉体の断絶を越えて、他者になってしまう力を持っている。それは、「人間」だけではない。
 で、「はい、とへんじを」。

鳥だった日がある
ちいさな魚だったことも
遠い日のわたしの声に
はい、とへんじをする

 この詩の「鳥」「魚」は「鳥の肉体」「魚の肉体」という意味である。新川なら「鳥の体」「魚の体」と書くのだろうけれど……。いつか、遠い日(むかし)、新川は鳥が「わかった」、魚が「わかった」。それは鳥を「精神」ではなく「肉体」で「わかる」、「肉体」で「覚える」ということである。
 という書き方では、抽象的すぎるね。
 でも、そういうことは、あるのだ。
 そして、そういうことを書いているのが、「今、わたしの揺り椅子を……」。男の脳髄は新聞紙大の大きさ、女の脳髄はタブロイド版、という男からのからかいに対して、新川は妊娠したときのことを書き、反論(?)している。

小さないのちが胎内でかたちをなすにつれて
思いもしなかった大自然の風景が
わたしの中に生じてわたしを驚かせた
青麦の畑が広がり 雲雀(ひばり)が舞いあがった
海へ行こう 海へ行こう
川はうたいながら いそいそ野原を流れていった
ほとりでのどかに草を食む ホルスタインの群れ
太陽 月 星 天体たちの秩序ある運行
地球を丸ごと孕(はら)んだような充実感が
日々 わたしのおなかをせりあげていった

 新川は胎内に(肉体の内部に)、自然(海、川、麦畑、雲雀、野原、牛)を取り込んでいる。そのとき新川の「肉体」は「自然」と「ひとつ」になっている。融合している。そして、その融合は自然(地球)を越えて、宇宙とも「ひとつ」になる。新川の「肉体」はそういうことを「覚えている」。
 鳥だった、魚だった、というのは「ほんとう」なのである。それは「精神」が見た幻ではなく、「肉体」が「精神」を借りずに、直接つかみ取ったことなのである。「肉体」は直接世界を取り込み、世界になる。その「記憶(覚えていること)」が、新川のことばを通して、詩の中に噴出してくる。つまり、その瞬間、新川の「体(肉体)」がつややかな赤ん坊の裸のように、若い、ねたましいようなエネルギーに満ちた女の裸のように、目の前にあらわれてくる。



詩が生まれるとき
新川和江
みすず書房
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時里二郎『石目』(2)

2013-11-02 10:51:20 | 詩集
時里二郎『石目』(2)(書肆山田、2013年10月30日発行)

 きのう「日記」をアップし終わった瞬間、あ、書き間違えたと思った。
 時里は「死」を「もの」と混同している、と書いてしまったけれど、そうではなく「空っぽ」と混同している。キーワードは「空っぽ」の方である。「死」ということばが強いので(私には強く感じられるので)、間違えてしまった。
 「空っぽ」である、「無」である。その「無」は「無関係」の「無」につながる。何かを切断する「無」。切断されたとき、見えてくるのは、しかし「無意識」という「無」であって、「無意識」の「無」はほんとうは「ある」。
 「ない」ものが「ある」。
 いや、「ない」が「ある」。
 この矛盾が時里を動かす。「ある」ものを書いても、必ずそれを「ない」にまでつきつめて、その「ない」からもういちど世界を構築し直す--というのが時里の詩である。
 そういう具合に、私はいつも感じている。
 と書こうとしていたのだ、と、ふいに思い出したのであった。

 で、きょうは、その思ったことのつづきというか、きのうの「修正」をしてみたいと思っていたのだが。
 「修正」というのは、やっぱりまずいだろうなあ。だいたい、「修正」をしようとするのは、何らかの結論(?)めいたものを書こうとする方向へ意識が動くからなのだが、結論は、まずいなあ--と最近の私は思う。「ほんとう」はたどりついたところにあるのではなく、何かを追いかけるという運動のなかにだけある。たどりついてしまうと、その瞬間から、それは「うそ」になってしまう。そう思うようになった。
 だから、違うことを書く。
 きのうを引きずりながら、きのうとは違ったことを書きたい。
 「弓執る者」でも、キーワードは「空っぽ」である。

 どの森にも空洞がある。空洞には闇が巣くい、巨木に穿たれた洞にも、
石の洞窟にも、時には、鹿の骸の眼窩のような小さな穴にも闇は宿った。
どんな小さな闇も、森そのものを飲み込む獰猛な息づかいをひそめてい
た。

 「空っぽ」は「空洞」と言い換えられている。そして空洞は空っぽではなく(?)、闇に満たされている。そして闇は「獰猛な息づかい」をひそめている。「空っぽ」は実は空っぽではなく、内部に「気づかい」を抱え込んでいる。
 この「息づかい」と呼応して「歌」が誕生する。それは「思想」といってもいい。「生き方」と言い換えてもいい。

〔空虚〕とは、〔森の民〕の歌であった。歌は特異な破裂音からなる男
たちの激しい叫声によって歌われるが、その声は、鍛えられた胸声とつ
ややかな裏声を往復することをもって、度を超えた高音の階梯を狂
おしく上り詰め、なだれる虹のように下り落ちる。森全体を筐体として
隅々にまで響き渡る歌は、一方で森を支配する闇への威嚇であると同時
に、彼らの狩りに欠かせぬ道具だった。この苛烈な叫声に驚かぬ獲物は
いない。巧みに狩場を囲い込みながら、木の又に待機している射手が、
森の茂みから飛び出した猪や鹿を、強弓で射抜くのである。

 獣たちに対して歌で向き合う。「息づかい」で対決する。「空っぽ」も「闇」もそのとき、そこには存在しない。--という具合に「空っぽ」を埋めていく時里のことばは、「度を超している」。
 したがって、詩である。だからこそ、詩である。詩とは、過剰なものなのだ。過剰を呼び込むために、すべてを飲み込む「空っぽ(闇)」が必要ということだろう。
 「度を超えた高音の階梯を狂おしく上り詰め」るのはともかくとして、「なだれる虹のように下り落ちる」の「なだれる虹」は、過剰すぎて、「これ、詩的でしょ」と酔った声が聞こえるくらいだ。
 でも、それでいい。そうしないと、ことばは動かないからね。

 ということは置いておいて、その度を超した「空っぽ」を埋めることばの運動--それが「弓執る者」というひ弱な少年にたどりついて、その少年を描写した部分が、とても興味深い。その少年は、

           ひよわで矮小な少年であった。平生は長弓を傍
らに置いて、木漏れ日の降りそそぐ日だまりに坐して、自らの足の裏を
覗き込んでいた。既に土を踏む用を忘れた二つの足の裏は、もっぱらそ
の森の俯瞰図たらんと、入り組んだ皺を刻んでいたが、少年は深い井戸
の、見えぬ水面をさぐりあてるような眼差しで、森の地誌と化した自ら
の足の裏を覗き込む。

 この「足の裏」の描写がいいなあ。肉体が刻み込んだ皺--それが森を歩いた記憶、肉体の覚えている森の俯瞰図と重なる。
 ここには「空っぽ」がない。「肉体」と「肉体の外部(森)」がぴったりと重なり合う。ぐい、と引き込まれていく。
 時里は「空っぽ」をもっぱらことばの運動で埋めようとするのだが、その運動のなかに「肉体」が入り込んだ、この部分は、時里のあたらしい何かを見るような、新鮮な驚きがある。
 「肉体」がおぼえていることに「空っぽ」はない。「肉体」がおぼえていることは、いつでも世界そのものと直接、交渉する。その「直接性」に「空っぽ(空隙)」が入り込む余地はない。「闇」も存在しない。「闇」を通り越して、「肉眼」が「肉体」のおぼえているものを見てしまうのである。
 この「肉体」を時里は「身体」と呼び、それを「幻」とも呼ぶ。その「身体」は「森の民(少年)」の「肉体」と同じであるのだが、もう「森の民」は存在しない--少年と「われら」とをつなぐ部分に「空っぽ」がある。具体的な「もの/こと」ではなく「記憶」がある。
 その「空っぽ」ゆえに、

われらの身体。
われらの幻の身体。
われらの手はわれらの幻の手より遅れ。
われらの足はわれらの幻の足を追いかけ。
われらの頭はわれらの幻の頭に投影される。
われらの身体というとき、われらの幻の身体は未だにひりひりと痛む。

 言い換えると、

〔森の民〕が森の空洞に充填した〔空虚〕の痕跡をわれらは身体に宿し
ている。

 ということになる。あ、ここから「空っぽ」と「身体(肉体)」の関係、記憶(ことば)と「肉体」の関係は一直線にワープして結びつくけれど--私はそのことを書かない。書くかわりに、少年の足裏へ引き返す。その「肉体」の具体的な「もの/こと」へ引き返し、あそこがこの詩のいちばん美しい部分だったとだけ言っておこう。
 時里も、そう感じているのかもしれない。

われらは、足裏を見つめて坐する〔弓執る者〕の眼差しを通して思い出
していたのだから。

 という文が出てくる。

 「空っぽ」を「頭(ことば)」だけでとらえるのではなく、「肉体」の直接性として把握しようとする「思想」の転換点が、この詩集かもしれない、というようなことも考えたが、こういう「結論」は魅力的だからこそ、これ以上は書かない。「うそ」になる。書きすぎて、すべてのことを、その「結論」でしばりあげてしまうことになるから。
 かわりに、もう一度書いておく。
 少年が足裏の皺と森の地形を重ね合わせる瞬間が、とても美しい。その美しさを確かめるために、私はまたその部分を読み返すだろう、と。




石目
時里二郎
書肆山田
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千人のオフィーリア(41-60)

2013-11-01 10:47:32 | 連詩「千人のオフィーリア」

                                 41 橋本 正秀
オフィーリアー
オフィーリアーー

風のゆらぎにゆすぶられ
波動そのもの
宙のただなかに

                                  42 山下晴代
千個の星が流れるエルシノア
「生きるべきか、死すべきか」
「あなたにはマンネンロウ、あなたにはヘンルーダ。私を忘れないように」
城の回廊で、見失ったのは、父の霊? それとも……。

                                   43 市堀玉宗
がうがうと空が流るゝ花藻かな

                                   44 谷内修三
どの川も空を映して流れていくというのはほんとうか。
川は違っても星と月は同じ姿で映るというのはほんとうか。
北から南へ、南から西へ、あるいは東へ、
あらゆる方角に空は動くのに川は海へしか動かないというのはさびしい。
さびしいという名の水よ、逆流せよ、
笑いざわめく都市の地下水道を逆流せよ、
マンホールの蓋を崩壊したツインタワーの空に掲げよ、
合流せよ、合流せよ、合流せよ、
タイタニックを切断した氷山のなかに眠る水よ、
福島第一のプールで汚染する水の苦悩よ、

                                   45 金子忠政
苦悩の水は言葉、
言葉に引きづられて
しんたいじゅうを巡り巡ったから
酒場を出ると
道ばたに傷だらけの
青リンゴ、
オフィーリア!

                                    46 田島安江
青リンゴはつかの間のかなしみ
傷ついたひとは
言葉を信じない
音楽も聞こえない
川の流れに沿って
どこまでも流されていく
冬へとむかう
さすらいのオフィーリア

                                     47 山下晴代
「よいこらさ、ラムがひと瓶と」
アウシュヴィッツには千個の髑髏。

                                     48 橋本 正秀
噴出、噴出
流れ流される骸骨の群れ
その流され軋み発せられる音声
に耳を傾けるものはいない

                                     49 市堀玉宗
林檎熟れ処女懐胎の恨みあり

                                     50 谷内修三
「ちいさないのちが胎内でかたちをなすにつれて
思いもしなかった大自然の風景が
わたしの中に生じてわたしを驚かせた」
と書いたのは新川和江だ。
「青麦の畑が広がり 雲雀が舞いあがった
海へ行こう 海へ行こう
川は歌いながら いそいそ野原を流れていった」
光源氏は、手のひらをけってくる小さな足を
宇宙を歩いたときのように思い出したが
女には内緒で、つづきのことばを読む。
「ほとりでのどかに草を食む ホルスタインの群れ
太陽 月 星 天体の秩序ある運行
地球を丸ごと孕んだような充実感が
日々 わたしのおなかをせりあげていった」
     (括弧内は新川和江「今、わたしの揺り椅子を…」)

                                      51 橋本 正秀
摂理?そうだ摂理なのだ
謀略?そうなの謀略なの
節操?そう節操なんか
暴力?そう暴力なら
自然?そう自然なんだし
暴走?そう暴走なりと

オフィーリアの思念とオフィーリアの生とオフィーリアの新たな小宇宙は
そう今日も今この今も
大宇宙を喰らっている

                                    52    坂多瑩子
母を身籠ったと気がついたとき
母はあたしの腹のなかで笑いころげていた
やっと気がついたのかい
オフィーリア
おまえが息子や娘を生んでいるとき私はお前を食べていたのさ
子どもたちはゲンキかい

                                       53 市堀玉宗
捨てられて花野に目覚めたるごとし


                                        54  山下晴代
花野に目覚めたオフィーリアは『世界』編集部へ直行して言った。
「『福島第一』という言葉はやめてください」
 二〇一三年一〇月号を刷り終わったばかりの編集者は答えた。
「なんです? それ? そういう言葉はもう使ってません」
「え? そうなんですの?」
「そうです」
「では、なんて?」
苦笑いしながら編集者は『世界一〇月号』の一冊を差し出した。そこには
「イチエフ」と大きく書かれていた──。

千個の「イチエフ」が降ってきて花野を埋めた。

                                        55 谷内修三
花野から枯野へ
かけてゆくのは沙翁か
去来が恋しい芭蕉か
夢は病んで
誰が枕辺に

                                         56 市堀玉宗
添ひ寝して木枯しとなるおんなかな

                                         57 田島安江
木枯らしを追って
南から北へ
氷まで溶かすほどの愛があるのか
地の果てまでも追ってきて
わたしのオフィーリア

                                        58 金子忠政
血潮、
という名の
紅葉
木枯らし
吹きすさび
冬木立つ、
その真上
宵の明星と
惹き合う
三日月に
頬切られて

                                        59 市堀玉宗
花束のごとく白鳥来たりけり

                                         60 谷内修三
そのとき
裏側の港では千羽の鴎が汚い声でさわいでいる
そのとき
裏側の沖から帰って来る漁船には男たちの汗の匂いが大漁だ
そのとき
裏側の市場で飛び交う女房たちの声はみだらに
そのとき
裏側の寝床であばれる魚の噂をする
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時里二郎『石目』

2013-11-01 10:19:18 | 詩集
時里二郎『石目』(書肆山田、2013年10月30日発行)

 「わたし」ということばは誰もがつかう。しかし、私は、今回の時里二郎『石目』の「わたし」になぜかこころがふるえた。「わたし」の現われ方がいままでとは違う感じがする。虚構か現実かわからない、その「わからなさ」こそが現実なのだというような、入り組んだことばの構造が時里の詩の特徴だと思うが、その「わからなさ」を抽象ではなく、「具体」としてつかんでいる「わたし」の「肉体」が見えた気がした。
 巻頭の「ハーテビーストの縫合線」に肉体が出てくるからだろうか。「頭蓋骨」が出てくるからだろうか。ハーテビーストの縫合線というのは頭蓋骨のつなぎ目の線らしいが、私はそれを知らないので(いまはじめて知ったので)、それが「ほんとう」か「うそ(虚構)」かわからないので、そのこと(もの?)自体にから時里の「肉体」を感じたわけではない。

                             細長い
頭部の標本を正面から見つめていると、いつの間にかその縫合線を、注
意深くたどっている。
 内省的になるのは、それが他ならぬ脳をつつむ容器だからか。川の源
流を遡行していくように、わたしをどこへ導こうとしているのだろうか。

 「注意深くたどっている」が「導こうとしている」ということばにかわる。そのとき主語は「わたし」から「縫合線」にかわっている。

「わたしは」注意深くたどっている
「縫合線」はわたしをどこへ導こうとしているのだろうか。

 そして、その「主語」の断絶(切断/転換)のあいだ(接続)に、

川の源流を遡行していくように、

 という一文があるのだが、この「主語」は?
 「わたしは」川の源流を遡行していく、というのであれば、「わたし」を導くのは、川を遡行する「わたし」ということになるが、導くの「主語」は「縫合線」のはずである。だから、この部分は、

「わたしは」注意深くたどっている
「縫合線」は川の源流を遡行していくように、
「縫合線」はわたしをどこへ導こうとしているのだろうか。

 という具合になるのだが、うーん、何か変。論理きてではない。詩なのだから論理的でなくてもいいのだけれど、時里の「論理的ではない」は実は巧妙な論理(省略の多い論理)であって、それは私の「論理」に従えば(私がかってに論理を補ってことばを追いかけるならば)、

「わたしは」注意深くたどっている
(そのとき、縫合線の方では/一方、縫合線の方では)
「縫合線」は川の源流を遡行していくように、
「縫合線」はわたしをどこへ導こうとしている
のだろうか。(と「わたしは」一方で疑っている)

 という具合になる。「そのとき(ある一瞬)」、「わたし」が存在すると同時に、「一方」がある。「わたし」とは別なものが存在し、それが「もうひとりのわたし」のように動いている。そしてそのとき「わたし」と「もうひとりのわたし(もう一方のわたし)」は区別されない。切断されない。それは接続というよりも、交互に入れ替わる。
 この入れ替わりが、動詞として、つまり肉体の動きそのものとして、今回の詩集にはとても明瞭な形で描かれている。時里のことばが「肉体」として見えるようになっている。--これは、ようやく私が時里のことばの運動になれてきた(その動きが見えるようになってきた)ということなのかもしれないけれど。時里自身はかわっていないのかもしれないけれど、そういうことを強く感じた。
 時里の「肉体」に触りながら、時里のことばに触れている、という感じがするのである。ほんとうは時里のことばに触れながら、時里の「肉体」に触れている、と書くべきなのかもしれないが、何か、逆に感じる--それくらい書かれていることが「動詞」をとおして生々しく伝わってくる。

 で、この詩--途中で「頭蓋骨」から離れる一瞬がある。そこに、なんといえばいいのか、時里の、この詩を書かなければならない「理由」のようなものが噴出してきていて、いやあ、どぎまぎする。それまで服を着て動いている時里を見ていたのに、突然、裸を見せられる感じがする。で、それに誘われてしまう。
 えっ、私はここで時里とセックスをしてしまうのか、
 と瞬間的に、どきっとしてしまうのである。
 「頭蓋骨」につながる「博物学」--それに興味をもった理由を語る部分。「わたし」は卵の標本が好きだった。その卵を「わたし」は死んだ卵だと思っていた。ところが、

学芸員が、鳥の卵を指さして、これは本当の鳥の卵で、中は空っぽなん
だよと教えてくれた。(略)
 私は軽いめまいを覚えた。死んだ卵、孵らない卵だとはもちろんわか
っていたが、卵の中は死ではなかった。死は取り除かれていた。生も死
もない。何もない、空っぽなのだ。

 「わたし(私--と、このときだけ漢字で書かれているのだが)」の意識が書かれているのだが、

卵の中は死ではなかった。死は取り除かれていた

 あ、これと、すごいなあ。すごい「裸」だなあ、と私はみとれてしまう。「死」を時里(と、思わず書いてしまう)は、卵の中身(もの)として感じていたのか。触ることができる、あるいは見ることができるものと感じていたのか。たとえば、腐ってどろどろの、蛆虫がわいた粘液のようなものと感じていたのだろうか。具体的に何を感じていたかわからないが、「もの」と感じていたのか。そして、その「もの」が「取り除かれた」のが標本の卵がと気づいたのか。死は取り除かれる「もの」として時里の無意識に存在していたのか……。
 世の中には(世界には)、「もの」と「こと」があるが、時里は死を「もの」と感じていたのか。
 世界に存在する何かは「もの」である、と感じるからこそ(?)、

                わたしはその空っぽの容器に、いつ
とは知れず自分の世界を重ねるようになった。自分をその中に納めると
自分が空っぽになれると思った。なぜだかわからない。自分が嫌だとか、
つらいことがあって、自分というものから逃げたかったとか、そんなこ
とではない。わけもなくその卵という空の美しい容器にわたしというも
のを移したいと思った。

 わたしという「もの」を移したい、という具合にことばが動いて行ってしまう。「死」が「もの」であるように、「わたし」も「もの」。「死」と「わたし」が「もの」ならば、それは交換が可能である--というのは、ちょっと乱暴な物々交換だが、もしそういうことが可能なら、「わたし」は「もの=死」になって卵から取り除かれ、空っぽの卵の殻という美しいフォルムになれる。
 そして、それが可能なら。
 卵のなかは空っぽなのだから、次々に「わたし」は「わたし以外のもの」を「死」として卵のなかに閉じ込め、美しい殻の形だけを提出できる、ということかもしれない。そういうことを時里のことばの肉体(思想)はしてみたいと欲望しているのかもしれない。
 かもしれない、と書いたけれど。
 いや、これはかもしれないではなくて、生々しい欲望なのだ。時里の「本能」なのだ。「無意識」なのだ。それが夢精のように、激しい射精のように、ここに噴出してきている。
 なんだかどぎまぎして、うまく言えないが、「正直な肉体」がここにある、と私は感じた。

 この部分の最後の2行は、とても興味深い。

 けれども、そのこととわたしが骨格標本擬しになったととは、あま
り関係がない。

 「あまり」関係がない--と「あまり」という余分なことばでなにやら濁しているのだが、もし関係がないなら、そんなことは書く必要がないだろう。「縫合線」のことだけを書けばいいだろう。
 でも、そんな具合にはいかない。
 書かずにはいられない。それは無意識の本能である。無意識の欲望、嘘をつくことができない本当の欲望(本能)である。
 ひとはみんな、こういう「無意識の欲望(本能)」を隠すように生きている。この詩の最後は、そういうことをなぞっている。「関係がない」ということで、自分を隠すのだが、その最後の連(部分)は、「川の源流」と重なる具合に閉じられているので、まあ、そういうことであると指摘するだけにしよう。

 あ、あまりの剥き出しの本能にびっくりして、私は「論理」を見失っているかもしれない。書きはじめたとき、こういうことを書きたいなあと思っていたことと、ずれたところにきてしまったかもしれない。
 でも、私は、こういうとき、それを「修正」しない。整え直さない。
 時里の「卵の標本」の部分がそうであるように、途中で脱線(?)するとしたら、それは偶然に見えても本当は必然(本能)なのだから。脱線した部分の何かにこそ、書かなければならないことがあるはずなのだから。
 とはいいながら、補足すると。
 私は「存在」は「もの」ではなく「こと」だと思っている。「こと」というのは動詞が必ずともなう。動いてはじもと「こと」が起きる。
 その「こと」(最初に触れた「たどる」「遡行する」「導く」など)は、時里の場合、どこかで「死」という「もの」と交錯する。「死」を「こと」ではなく「もの」と感じて、「肉体」が動く。そうすると、その動きのなかに「死」が反映する。「死」は「もの」ではなく「こと」なので、単純な反応ではなく、複雑な、どうなるかわからないことが起きはじめる。
 そのどうなるかわからない激動をことばの肉体でていねいに追う--そういう形で時里の詩は展開する。
 論理を飛躍させて(はしょって)書いてしまうと、そんなことを私は感じた。



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