監督 スティーブン・ソダーバーグ 出演 マイケル・ダグラス、マット・デイモン
うーん、みとれてしまうなあ。マイケル・ダグラスに。いや、私は、こういう「なりきり」演技というのはあまり好きではなくて、「これはどうせ演技だよ(あんたが見たいのは役ではなく役者だろう)」という感じの演技が好きなのだけれど。
忘れてしまう。
なんだ、これは。本物のリベラーチェか。リベラーチェというのはマイケル・ダグラスの「偽名」だったのか、思わずそう思ってしまう。信じてしまう。私はリベラーチェを見たことはないし、その存在も映画ではじめて知ったのだが。
だから、というのは変な言い方なのだけれど。
途中でリベラーチェが禿げだったというシーンが出てくる。そのときなんかは、あ、マイケル・ダグラスって禿なのか。カツラなのか、と現実と映画がごちゃまぜになってしまう。たるんだ腹も見せるので、それがもしかしたらつくりものかもしれないのに、マイケル・ダグラスは、こんな醜い体で「危険な情事」をやっていたのか、なんて思ってしまう。「危険な情事」のときは若かったということも忘れてしまう。現実と映画がごちゃまぜになる。映画のなかで、ほかの映画もごちゃまぜになる。
全部、マイケル・ダグラスの「いま/ここ」にある肉体にからみついてくる。そして、すべての区別がつかなくなる。
白眉はたるんだ顔の整形手術。皮膚を頭の方へひっぱりあげ、皺をとるのだけれど、その手術シーンが克明に描かれるので、そうか、マイケル・ダグラスは整形しているのかと思ってしまう。これは映画、物語。マイケル・ダグラスは演じているだけであって、というようなことは忘れてしまう。これはマイケル・ダグラスの実像なのだと思ってしまう。
で、あれっ?
これって、私が最初に書いたことと何か違っているね。私は「これはどうせ演技だよ(あんたが見たいのは役ではなく役者だろう)」という感じの演技が好きなはずなのに、ちらりと見えるはずのマイケル・ダグラスではなく、いつもは見ることのできないマイケル・ダグラスを覗き見したような気持ちで、変に興奮している。
ステージでピアノを弾き、観客に語りかける。そのときの、一種、ファンを見おろしたような態度。楽しみたいんだろう、楽しませてやるよ、という感じ--それがマイケル・ダグラスそのもの「思想(肉体)」に見えてくる。マット・デイモンに指輪だの車だのスーツだのを買い与えるシーンなんかも、ちらりとしか描かれないのだけれど、とてもリアリティーがある。
これは、危険な映画だなあ。
これを見てマイケル・ダグラスを見たと思い込む私も危険だけれど、やっているマイケル・ダグラスはもっと変だし、危険だよなあ。こんなことやってしまうと、マイケル・ダグラスは金ぴか趣味のゲイそのものになっしてまう。ほかの役ができなくなりそう。あと2、3日したらマイケル・ダグラス死去、原因はエイズなんていうニュースが流れてくるんじゃないかと思う。
マット・デイモンも太ったり、やせたり、大変だねえ。
あ、映画は、「見せ物」に終始しているわけではなく、きちんと恋愛にまつわる人間の「愛憎」を克明に描いている。マット・デイモンが最初にマイケル・ダグラスの楽屋にあらわれたとき、昔の恋人がむしゃむしゃと食事をしているというシーンがあって、それがマイケル・ダグラスに新しい恋人ができたときマット・デイモンの姿で反復されるところなんか、とてもていねいなんだけれどね。「懸命さ」がひしひしと表現されているんだけれどねえ。
でも、やっぱりマイケル・ダグラスにつきるなあ。錯覚するなあ。マイケル・ダグラスがリベラーチェだったんだ、と信じ込んでしまうなあ。
(2013年11月03日、中州大洋3)
うーん、みとれてしまうなあ。マイケル・ダグラスに。いや、私は、こういう「なりきり」演技というのはあまり好きではなくて、「これはどうせ演技だよ(あんたが見たいのは役ではなく役者だろう)」という感じの演技が好きなのだけれど。
忘れてしまう。
なんだ、これは。本物のリベラーチェか。リベラーチェというのはマイケル・ダグラスの「偽名」だったのか、思わずそう思ってしまう。信じてしまう。私はリベラーチェを見たことはないし、その存在も映画ではじめて知ったのだが。
だから、というのは変な言い方なのだけれど。
途中でリベラーチェが禿げだったというシーンが出てくる。そのときなんかは、あ、マイケル・ダグラスって禿なのか。カツラなのか、と現実と映画がごちゃまぜになってしまう。たるんだ腹も見せるので、それがもしかしたらつくりものかもしれないのに、マイケル・ダグラスは、こんな醜い体で「危険な情事」をやっていたのか、なんて思ってしまう。「危険な情事」のときは若かったということも忘れてしまう。現実と映画がごちゃまぜになる。映画のなかで、ほかの映画もごちゃまぜになる。
全部、マイケル・ダグラスの「いま/ここ」にある肉体にからみついてくる。そして、すべての区別がつかなくなる。
白眉はたるんだ顔の整形手術。皮膚を頭の方へひっぱりあげ、皺をとるのだけれど、その手術シーンが克明に描かれるので、そうか、マイケル・ダグラスは整形しているのかと思ってしまう。これは映画、物語。マイケル・ダグラスは演じているだけであって、というようなことは忘れてしまう。これはマイケル・ダグラスの実像なのだと思ってしまう。
で、あれっ?
これって、私が最初に書いたことと何か違っているね。私は「これはどうせ演技だよ(あんたが見たいのは役ではなく役者だろう)」という感じの演技が好きなはずなのに、ちらりと見えるはずのマイケル・ダグラスではなく、いつもは見ることのできないマイケル・ダグラスを覗き見したような気持ちで、変に興奮している。
ステージでピアノを弾き、観客に語りかける。そのときの、一種、ファンを見おろしたような態度。楽しみたいんだろう、楽しませてやるよ、という感じ--それがマイケル・ダグラスそのもの「思想(肉体)」に見えてくる。マット・デイモンに指輪だの車だのスーツだのを買い与えるシーンなんかも、ちらりとしか描かれないのだけれど、とてもリアリティーがある。
これは、危険な映画だなあ。
これを見てマイケル・ダグラスを見たと思い込む私も危険だけれど、やっているマイケル・ダグラスはもっと変だし、危険だよなあ。こんなことやってしまうと、マイケル・ダグラスは金ぴか趣味のゲイそのものになっしてまう。ほかの役ができなくなりそう。あと2、3日したらマイケル・ダグラス死去、原因はエイズなんていうニュースが流れてくるんじゃないかと思う。
マット・デイモンも太ったり、やせたり、大変だねえ。
あ、映画は、「見せ物」に終始しているわけではなく、きちんと恋愛にまつわる人間の「愛憎」を克明に描いている。マット・デイモンが最初にマイケル・ダグラスの楽屋にあらわれたとき、昔の恋人がむしゃむしゃと食事をしているというシーンがあって、それがマイケル・ダグラスに新しい恋人ができたときマット・デイモンの姿で反復されるところなんか、とてもていねいなんだけれどね。「懸命さ」がひしひしと表現されているんだけれどねえ。
でも、やっぱりマイケル・ダグラスにつきるなあ。錯覚するなあ。マイケル・ダグラスがリベラーチェだったんだ、と信じ込んでしまうなあ。
(2013年11月03日、中州大洋3)
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