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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

西脇順三郎の一行(1)

2013-11-17 23:53:22 | 西脇の一行
 詩のなかの一行--それについてだけ書いてみたい。ある詩のなかで一行だけ選ぶとするとどの行を選ぶか。なぜその行が好きなのか。
 現代詩文庫「西脇順三郎詩集」をテキストにする。全集でこそやってみたいが、まず予行演習ということろ。(「誰も書かなかった西脇順三郎」の続きを書くためのリハビリを兼ねています。)
 全行引用して感想を書いた方がわかりやすいのかもしれないけれど、あえて引用を少なくして書く。



 「天気」

何人か戸口にて誰かとさゝやく

 書き出しの「(覆された宝石)のやうな朝」が有名だが、私は、この2行目が好き。「何人(なんぴと)」と「誰か」ということばの向き合い方、音の豊富さが気に入っている。
 「何人」も「誰か」も、特定された人物ではない。でも、戸口でことばをかわしているのなら、それはおおよそ見当がつく。聞き覚えのある声の可能性が高い。それをわざと「わからない」ふりをして書いている。そのことによって抽象的な明るさがぐんと増える。具体的なひとが出てくると、きっと重くなる。「意味」がくわわって、「何を」ささやいているのかが気になってしまう。かわされている「意味」を排除して、そこに「ささやく」という行為だけを存在させる。そうすると、そこに「ささやき」の音が軽く響く。
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北川透「伝奇集 2」

2013-11-17 13:34:13 | 詩(雑誌・同人誌)
北川透「伝奇集 2」(「KYO」2、2013年12月01日発行)

 北川透「伝奇集 2」は「ハルハリ島 異聞」。「奇」に「異」か……。そこにはまっとうな正しさ(?)というものがない。奇妙で、さらに異なっている。いや「異聞」は単に異なっているということではないのだけれど。「異聞」とは何か言いたくて、言い違えてしまった本能のようなものを含んでいるのだけれど。
 でも、「奇妙」な伝承が、さらに「異聞」に満ちていると、そこからどんな「正しさ」が引き出される? 別に「正しさ」を求めなくてもいいのだけれど、やっぱり何か信じるに足りるものを追いかけたいよねえ。
 北川だって、何かを追い求めてことばを追っている。それが「正しさ」であるか、それとも正反対のものであるかは別にして。そうでないと、ことばは動かない。
 と感じながら読みはじめるのだが。
 ハルハリ島には

ハルハリ 四足の水陸両棲の哺乳類。雌の名前。五・六匹の子供を
産むが、一匹(多くは体格のいい雌)を残して後は食べる。
グーグー ハルハリの雄。母に食べられるので、極端に数が少ない。
トルハリが生殖用にまた快楽用に、共有し、飼育している。

 ということになっている。
 ぱっと読むと、ふむふむ、これはなにかの「寓意」かな? 「比喩」かな? なるほど、ハルハリとグーグーの関係は、ちょっとおもしろいなあ--と思ってしまうのだが、この文章はおかしくない? 変じゃない?
 詩なのだから、別に論理的である必要はないのだけれど。
 ハルハリが雌の哺乳類なら、グーグーが「ハルハリの雄」って、どういうこと? ハルハリが雌なら、ハルハリの雄というものは存在しない。 ハルハリには実は雌雄両方いるけれど、雄は少ないので特別に「グーグー」と呼ばれている、ということ?
 で、ハルハリは子供を五・六匹産んで、体格のいい雌を残してほかは食べてしまうのだが、ときどき雄を食べずに残しておいて、それを生殖と快楽のためにつかう、ということらしい。
 なんとか辻褄があう?
 でも、次の注釈はどう?

ウェーキッピー 形も大きさも生存形態もヒトに近井。全身薄い毛
皮で覆われた裸で暮らしている。男女両性器をもっている。性別は
ないのに、十三歳になると性を選択する断髪式を行う。女は長髪を
許されない。誰とでも性交し、誰もが妊娠できる。しかし、出産を
許されるのは長髪男だけだ。妊娠女は深夜密かに海に入り、マルマ
ンをあおぎながらウミナガシをする。

 女は妊娠できるが、出産を許されるのは男--これって、どういうこと? 妊娠した後、もう一度性を選び直すということ? 何かおかしい。
 でも、その「おかしさ」というのは何だろう。なぜ「おかしい(奇妙)」と感じるのか。
 これは意外と簡単(?)。
 私が「流通言語(流通論理)」を基準にして北川のことばを読んでいるからだね。主語と動詞の関係が「おかしい(奇妙/不自然)」。女は断髪する。そして性交、妊娠できる。これは「女」を主語としている。そして、「断髪する」はひとによっては違和感をもつかもしれないけれど、性交する、妊娠するは女の「述語」として不自然ではない。「流通論理」に合致する。妊娠したのに出産できない。これも、ありうる。そういうことは「流通論理」の世界でも起きている。
 しかし、そのあと、出産が許されるのは長髪男だけとなると「おかしい(奇妙/不自然)」。男は妊娠しないし、男は妊娠するとも書かれていないので、男が出産を許されているというのは論理が飛躍すると同時に、「流通論理」の視点から見ても合致しない。「流通論理」では男は出産できない。ここで、突然、この主語-述語の関係が狂う。
 このとき、では、その「狂い」を、どこに主力を置いて私たちは認識しているのだろうか。(変な言い方だが、どう言えばいいのかわからないので、こういうふうに書いておく。)つまり、「主語」がおかしいのか、述語(動詞)がおかしいのか。主語-述語というのは切り離せないものなので、どちらがおかしいかという問いの立て方は「反則」なのかもしれないが……。
 私は「主語」はいつでも一つだから、「述語(動詞)」に問題があるのだと思う。「主語」は一つ、というのは--言い換えると、一つの主語は「動詞」を複数もつことができるということである。女は性交できる。女は妊娠できる。ところが出産できない。(かわりに長髪の男に出産が許されている。)
 ということは、というのは、私の「飛躍」かもしれないが。
 私たちは、何かを理解するとき「動詞(述語)」に自分を重ねて、そこに起きていることが「正しい」かどうかを判断している。「主語」を省略しても、「動詞」がきちんと動いていれば、それが「正しい」と考える。(これは、主語を省略する日本語のなかで私が育っているからそう考えるのかもしれないが……。)
 性交する。妊娠する。出産する。--とつづけば、主語は「女」と私は考える。
 性交する。妊娠できない。出産できない。--これは「男」。
 複数の動詞のなかで「肉体」を動かしながら(無意識に「肉体」を感じながら)、私たちは(私は)、主語を無意識に特定している。そして、その無意識の特定が否定されたときに「おかしい(奇妙/不自然)」と感じるのだ。それは自分の「肉体」が否定されたような感じに似ている。
 ということは、とここから私はさらに「飛躍」する。
 私たちが(私が)、ことばをとおして読んでいるのは「肉体」を主語とする「動詞」であり、「動詞(述語)」にそって世界を見ている。だれかの「肉体」に自分の「肉体」を重ね合わせていっしょに動き、その動きが自分の知らない動詞を肉体に要求してくるときに、奇妙不自然と感じる。男は出産を許される(出産できる)--という「肉体」の「運動」を、私は私の「肉体」で具体化できない。女は出産できる--は、私の肉体でそのまま体現できないけれど、私が女ならばという仮定を挿入することで具体化できる。

 だんだんややこしくなってきた。私が何を言いたいかというと--言いたいことなんか、何も決まっていなくて、書きながら考えているのだが、そしてそれがだんだん何かずれてきたなあと感じているのだが……。
 こんなふうに「流通言語(流通論理)」とは違う「動詞(述語)」を連ねながら、北川は何をしようとしているのかというと。(詳しく書くと面倒なので--つまり、詳しくは書けないのではしょって書いてしまうと。)
 北川は「伝奇」とか「異聞」ということばではぐらかしているのだけれど。
 「ハルハリ島」について書いているように見えて、北川は「ハルハリ島」については何も書いていない。ここに書かれていることは「ハルハリ島」に関する描写や説明ではない。北川の文章からは「ハルハリ島」は再現できない。具体化できない。
 では何が書いてあるか。
 ややこしいのだが、「ハルハリ島」について、こんなふうに「書くことができる」ということを書いている。「書き方」を書いている。「流通言語」に言いかえると、「ことばの技術」を書いている。ここに書かれているのは「技術」であって、「描写(説明)」ではない。
 --などと書くと、うーん、それは違っている。と私のなかで、もうひとりの私が否定する。
 技術ではなくて、「欲望」なのだ。
 北川には、「流通言語」の「文体」とは違う形でことばを書きたい(動かしたい)という欲望があって、その欲望が書かれている。ほかのものは書かれていない。「ハルハリ島」を書くふりをして、何でもかんでも書いてしまう。その書いたことが矛盾してもかまわない。なぜなら、ことばは矛盾したことをこそ書きたい。いままで「矛盾」と定義されていたことを、現実として出現させたい。そんなことはことばだけではできない--というかもしれないが、できるかもしれない。そしてその欲望は動詞として具体的に動いている。男は「出産できる」という具合に。
 さらに「飛躍」しよう。
 「欲望」は「名詞」のなかにあるのではない。「動詞」のなかにある。「動詞」と切り離せない「肉体」のなかにある。「肉体」のなかにある「欲望」は「本能」である。そして、「本能」には間違えるということがない。「本能」は正しいことしかしない。
 その絶対的な「正しさ」(流通論理を否定して輝く何か、まだ出現していない何か)のために、北川は「動詞」を動かす。「動詞」といっしょに動いていく。異聞の「異」は、この動詞が生み出すものなのだ。

ハルハリ島について語っている者はわたしではない 誰もハルハリ
島について語ることはできないので 誰もが語ることができる

 この部分は、私が先に指摘した「島の描写/説明ではなく、こんなふうに語ることができるということばの技法が書かれている」という証拠(?)のようなものである。そして、その「技法」とは実は「技法」ではなく「欲望/本能」であったということを思い返すなら、ここには、ただ、書きたいという欲望/本能だけがあるのだ。そして実際にそれが筋肉として動き、動きながらその動きのなかから「異」を噴出させる。「異」は欲望と本能そのものであり、それが「流通論理」を突き破るとき、そこに光が噴出する。
 その欲望/本能が何を見つけ出すか。何を生み出すか--そんなことはわからない。予測できない。その欲望についていきたいと読者がついていきたいと思うかどうかだけである。--私はついてゆきたい。ことばに何ができなかわからないが、「流通言語」をはみだして動くことができるということは、すでに「現代詩」で証明されている。その欲望がどこまで行けるかというのは、しかし、証明されていない。実証されていない。ただ、行ってみるしかないのである。

詩的レトリック入門
北川 透
思潮社
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陶山エリ「花を買う」

2013-11-16 10:30:12 | 現代詩講座
陶山エリ「花を買う」(現代詩講座@リードカフェ、2013年11月13日)

 陶山エリ「花を買う」がおもしろかった。受講生の相互批評でも好評だった。

花を買う      陶山エリ

週末になると口内炎がやってくるんです
粘膜に軟膏を塗るタイミングを教えてください

誰にも台詞を呼びかけることのない秋の午後には独り言に呼ばれたような気がして
ひりひりと揺れながら緩慢に疾走する女たちの一日は浅い午睡のような危うさで長編小説の厚さにすり寄ってくるあの重さが欲しい
小説の中の女は花を買うのかまだ知らないまま女たちは花を買う

揺らすように花を挿す場面はそれは踊り子がバーレッスンに疲れた部屋だ
花器の曲線に合わせて丁寧に挿されていく花も葉も不要な部分を貪欲に切り捨てては午睡の内に新聞紙となった三日前の朝刊の上で弔うためのアリアを分かち合いたい

ゴルトベルク変奏曲に導かれて目を閉じてみるけれど花は消えたくない女の肌は消えたくないくらい戯れて消えたいわたしじゃない台詞を買いたかったわけじゃない
水が窓の近くで退屈そうだからといって疾走から外れてしまった一日を入水さ

 受講生の声。
 「2、3連目がいい。3連目の「長篇小説」からのことばの流れが、おもしろい。「まだ知らないまま女たちは花を買う」の部分は、つながりがわからないのだけれど」
 「1連目はだれも思いつかない。2連目の「長篇小説」から花が出てきて、3連目へと花の変化の様子が変化して、花がよくわかる。私には、こんなにことばが出てこない」
 「いいけれど、わからないところがある。最終連の「入水」に「にゅうすい」「じゅすい」、どっちだろう。花を買うとどうつながるのかなあ」
 「深く考えると辻褄があわない。言い回しにひっかかるところがある。わかろうとするのではなく、ただ読んでいくとおもしろい」
 「意味を追わなければ、ことばの変化がおもしろい。ゆっくり読むと、ひかれる」
 「意味がわからない。もう少しわかりやすいところがあってもいいのかも。台詞があるとおもしろいと思う」 
 「意味を追わないで、ことばにだまされるなら、楽しい」

 受講生の感想(批評)はほぼ一致している。おもしろい。けれど、よくわからなところがある。これは陶山の文体が句読点もなくねじれるようにつながるので、どこで文章を切って読んでいいかわからず、部分部分の意味はわかるけれど、つないでしまうとどこでつないでいいかわからないし、文と文との関係(論理構造)があいまいになり、何がいいたいのかわからなくなるということだと思う。
 こうした文体は陶山の特徴であり、読む方が、それになれるしかないのだが。
 陶山からは、「これは映画にヒントを得て書いている」と「種明かし」があった。「めぐりあう時間たち」(だったかな? ヴァージニア・ウルフを描いたもの)。「花を買う」は「ダロウェイ夫人」の冒頭の「花は私が買いに行く」の引用。
 ウルフの文体は「意識の流れ」と俗に言われる文体である。「もの」の関係を論理的に描き、そこにリアリティーを出現させるのではなく、人間の意識の変化そのものの流動にリアルなものにする。「もの」の関係はあいまいでも、その瞬間瞬間の意識(こころ)のなまなましい動きを再現することに重きを置いている。「意識の流れ」といえばジョイスが有名だけれど、ジョイスはまだ男の文体(論理がはっきりしている)のに対し、ウルフはさらに革新的である。つかみどころのない意識だけがなまなましく動く。
 陶山の詩を読んで、私はすぐに「ダロウェイ夫人」とウルフを思い浮かべたが、陶山は映画は繰り返し見たけれど、ウルフは読んでいないということだった。

 「意識の流れ」に関連して、私は次のことを指摘した。この詩のなかでは、

揺らすように花を挿す場面はそれは踊り子がバーレッスンに疲れた部屋だ

 この1行だけが特別にかわっている。途中に「それは」ということばが入っている。この「それは」を取り除くと、

揺らすように花を挿す場面は踊り子がバーレッスンに疲れた部屋だ

 と、ほかの行の「うねり」と非常に似てくる。なぜ、ここに「それは」があるのか。それは、「揺らすように花を挿す場面」が「踊り子がバーレッスンに疲れた部屋」であること(もちろん、これは比喩として同一という意味だが)を強調したかったのである。
 比喩というのは、比喩が誕生した瞬間においては、それが密着している。「揺らすように花を挿す場面」が「踊り子がバーレッスンに疲れた部屋」を比喩としているのか、「踊り子がバーレッスンに疲れた部屋」が「揺らすように花を挿す場面」を比喩としているのか、よくわからない。「論理的」には特定できるが、そんなことを特定しても比喩が輝く出すわけではない。むしろ、区別がつかなくなるときに比喩が強烈に輝く。
 そういう観点から言うと、実は、

揺らすように花を挿す場面は踊り子がバーレッスンに疲れた部屋だ

 の方が、1行としては強烈、強靱である。
 でも、そうすると、その1行は他の行の構造と似てきてしまい、ことばの群れのなかに埋没しかねない。そのことを陶山は本能的に、無意識に関知して、思わず「それは」ということばを挿入してしまったのだと思う。
 こういう無意識に動く、どうしても「必要な」ことば--読者にとってではなく、作者にとって必要なことばのことを私は「キイワード」と呼んでいる。これは、実は、書かれていないだけでいたるところに隠れている。
 受講生の一人が最初に指摘した、

小説の中の女は花を買うのかまだ知らないまま女たちは花を買う

 を、「それは」に類することば、さらに「それ」を強調する別のことばを補って読み替えると、

小説の中の女は花を買うのか「それを」まだ知らないまま(映画のなかの)女たちは花を買う

 ということになる。
 「意味」があいまいな、ねじれ具合がわからない部分に出会ったら、そこでいったんことばを切断し、「それは(それを)」を挿入してことばを再スタートさせると、「意味」はとおるようになる。
 でも、まあ、こんなことは実際はする必要がない。

 きょうのテーマは、受講生の感想(批評)を振り返ってみると「おもしろい」と「わかる」のあいだにある。
(1)表現はおもしろい
(2)意味はわからない(意味をつかめない)
 この二つは、どこからくるのか。何が原因で生まれてくるのか。

<質問> 意味がわからないというのは、別のことばで言うとどうなるかな?
     この詩の場合、意味がわからないと感じるいちばんの原因は?
<受講生1>文章をどこで切っていいかわからない。句点の位置ろがわからない。
<質問> わからないとき、どうする?
<受講生1>何度でも読み返す。
<質問> 何のために読み返す?
<受講生1>こころのうちにことばを取り込みたいから。
<質問> 何度でも読み返すと、どうなる?
<受講生1>???
<受講生2>ことばが立ち上がってくる。
<受講生3>ことばが輝いてくる。

 あ、すごいなあ。
 こんなことばが返ってくるとは思わずに私は質問しつづけたのだけれど。こういうことがあるから、対話はやめられない。質問はやめられない。
 私の思っていたことをはるかに超えて受講生がそれなりの「答え」をだしてくれたので、これから先は私の蛇足。
 わからないことばにであったとき、何度でも繰り返し読む。繰り返し読むと、それを覚えてしまう。この覚えてしまうは「頭」の仕事のように考えられているけれど、私は「肉体」で覚えるのだと思っている。口も目も耳も、ときにはほかの感覚も総動員して、ただそれを繰り返す。そうすると、「肉体」のなかから、なにかいま口にしていることば、いま聞いていることばに似たものが動きはじめる。何かが「思い出される」。
 はっきりとした理由もなく思い出される何か--自分の知っている何かにつながる。その瞬間を、受講生のひとりは「ことばが立ち上がってくる」といい、別のひとりは「ことばが輝く」と言った。
 その「立ち上がり」は活字のなかから「立ち上がる」というより、読者の「肉体」の奥から「思い出(体が覚えていること)」がことばに向けて押し寄せてくるということだ。そして、それが「肉体」の外へ飛び出し、作者の書いたことばとぶつかる。そのときスパーク。作者と読者の肉体がぶつかり、光を発する。それが「輝き」。

 ことにあることばが「肉体」が覚えていることを引き出すなら、それは詩、なのだ。なかなか思い出せない何かをひっぱりだすために、ときに詩のことばは読者の「肉体」をひっかきまわす。わけのわからないものをぶつけてくる。それと向き合っているうちに、繰り返し向き合っているうちに、読者の「肉体」がととのえられ、肉体が「覚えていたこと」とことばが時空を超えてつながり、「ひとつ」になる。



詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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蔡天新「天神」

2013-11-15 09:12:25 | 詩(雑誌・同人誌)
蔡天新「天神」(未発表)

 蔡天新が「日本三首」と題して福岡に来たときのことを書いた詩を送ってくれた。中国語は読めないのだが、そのなかの「天神」をむりやり「翻訳」してみた。翻訳といっても、知っている漢字から強引に「意味」をつくりだしたものである。で、そういうことをしてみると詩というのは(文学というのは)、作者の思いなんかは関係がないなあ、読むひとが読みたいことを読み取るだけなんだなあ、「誤読」するだけなんだなあ、ということがわかる――というのは、まあ、言いすぎか。
 蔡天新の詩、私の「翻訳」を並べる。

天神

从空港乘坐机场快线
经过博多――福冈的别称
便到了天神车站
一个引人遐想的名字

那里有一条地下商业街
拥有数不清的出口
我选择的是第十二
从此每天出没其中

入夜有许多霓虹灯点亮
可仍与白天一样安静
犹如附近的大濠公园里
那些跑步或遛狗的人们

此地离开我的故乡
不过一个多小时的航程
我们的一生有多少时光
是在枯坐中独自度过
                             2013年11月1日,福冈-首尔


飛行機からおりて、飛行場からは地下鉄に乗る
博多を経て天神まではあっと言う間だ
福岡を土地の人は博多と呼びならわしている
それにしても天神とはなんと人を引きつける地名だろう

駅からつながる地下商店街は一本の道に沿っていて
いたるところに出口がある
私は十二番出口の階段をのぼった
たどりついた天上には人であふれかえっている

夜に入れば街はネオンが虹のように輝くのを許すが
昼は透明な天の光が辺りに満ちて静かな安らぎがある
近くには広々とした大濠公園があり
犬を連れたひとが一人二人と歩いている

私は自分の国に帰るために再び飛行機に乗る
飛行機が飛んでいる時間はほんのわずかだ
その短い旅の途上の時間よりも多くの時間を
私は何度も何度も帰ってきて、この街に坐って過ごす

 蔡天新と私が話したのは二時間ほど。半分はレセプションの会場だったので、実際は一時間ほどか。福岡や天神の話はしなかったが、この詩を読むと「天神」という地名に強い関心を持ったようである。天の神様――それが福岡の繁華街の地名である。そうならば、そこは神様が住む土地なのか……。
 天神までは、空港から地下鉄で博多駅を経由してやってきている。(1連目)そこで「博多」という地名に触れる。博多というのは厳密には福岡の「別称」ではないのだが、福岡以外のひとにとっては、そういう区別は意味を持たない。博多=福岡。博多は福岡の別称。そう思われている。(通訳も、そういう具合に説明したのかもしれない)
 そういう「別称」に触れてきたので「天神」という地名も「別称」のように蔡天新を刺戟したのだと思う。地下からのぼれば、そこは地上を飛び越えて、「天」。そして、そこには神が住んでいる。実際には、そこに行き交うのはひとなのだが、それは神の仮の姿かもしれない。
 夜になればネオンがきらめき騒がしいが、昼間はそういう歓楽のけばけばしさはなく、対照的に静かで穏やかである。近くには公園があり、犬といっしょにひとが散歩している……。その静けさが蔡天新をとらえたのかもしれない。
 4連目は、なんだか見当もつかない感じなのだが――それまでの3連のつづきでことばを動かすと、自分は故郷に帰るのだが、これからも世界を飛び回る時間よりも多く、「天神(神の土地)」へと心は何度も何度も帰って、そこで過ごすだろう――という具合に、福岡をたたえてくれている詩なのだと思った。
 まあ、これは最初に書いたように、私が勝手に「読みたい」ように読んでいるということである。せっかく日本に来た、福岡に来たのだから、そのことを忘れずに何度でも福岡を思い出してもらいたい、とうい気持ちを反映して、私が4連目を「捏造」しているのである。

 そういうことは別にして。
 私がこの詩でいちばんおもしろいと感じたのは、

我选择的是第十二

 である。「十二」。あ、天神の地下街の出口はいくつあるのかなあ。私は思い出せないのだが、蔡天新は「十二」と明確に書いている。それが正しい番号かどうかはわからないが、きちんと数字を書くというところに、蔡天新の「数学者」の顔がのぞく。
 あるいは「十二」には、何かしら中国の伝統が反映しているかもしれない。「十二支」の「十二」である。「満」が「十二」、「十二」によって世界が完結する。もし、そうなら蔡天新は偶然「十二番出口」から出たのではない。目的地(たとえば滞在するホテル、セミナーの会場)にいちばん近いのが「十二番」だったら、そこから出たのではなく、意識的に「十二番」を選んだのである。たまたま目的地の近くが「十二番」だったとしても、その数字に触れたとたん、どこかで「満(完結)」という意識が動いたと思う。
 「十二」を超えれば、そこは「別世界」なのである。それこそ「天」なのである。理想郷なのである。
 そんなふうに考えると(読むと)、まあ、これは「福岡」への「あいさつ」の詩なのだけれど、その「あいさつ」が意外と「理路整然」としている感じもする。起承転結という詩のスタイルが継承されていると言えばそうなのかもしれないけれど、この理路整然とした感じは蔡天新の個性なのかもしれない。数学が専門ということが影響しているかもしれない。
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木下龍也「地中の虹」

2013-11-14 09:15:37 | 詩(雑誌・同人誌)
木下龍也「地中の虹」(朝日新聞2013年11月12日夕刊)

 木下龍也「地中の虹」は10首から構成されているのだが、その関連を考えずに単独に読んでみる。いちばん印象に残ったのは、

引き抜けばそれはきさきさ濁点は鳥の腹部に残されたまま

 これは鶏を絞めて、羽根をむしりとった姿を描写したものだろうか。「羽根を」が省略されているのだろうか。羽根のむしり跡が濁点のように残っている。なるほどね。そうとらえると「写生」の歌だ。木下の書いていることは、それは「ぶつぶつ(つぶつぶ/ぼつぼつ)」というのが一般的かもしれないけれど、木下は「ぎざぎざ」ということばが最初に浮かんだのだろう。なかなかおもしろいなあと思う。
 10首の「タイトル」は次の歌からとられている。

虹 土葬された金魚は見ているか地中に埋まるもう半輪

 虹は空にかかる。それは半円である。残りの半円はどこか。地中にある。それを死んで、土に埋められた金魚は見ているか、という。これも「写生」なのかな? 写生ではないにしろ、まあ、情景が思い浮かぶ歌である。
 と書いた瞬間に疑問が浮かぶ。
 虹は見たことがあるが、私は地中の虹は見たことがない。空の虹を半円と認識したあと、では残りの半円はと考えたときに、地中にあるかもしれないという考えが浮かぶ。これはいわば「考え」のなかに浮かんだ虹である。「頭」で考えた虹であって、目で見た虹ではない。
 だから写生とは言えない。
 これはことばがつくりだした世界。ことばで「わざと」つくりだした世界である。この「わざと」に目を向けると、「現代詩」と呼ぶことができる。(西脇順三郎は、詩を定義して「わざと」書いたものと言っている--言っていた、と思う。)

 ここから「濁点」の歌に戻って考えると、それもやはり「頭」の歌である。「きさきさ」と「ぎざぎざ」の違いは清音か濁音かということになるが、それを木下は「音」の問題ではなく、「濁点」の問題に「すりかえ」ている。濁音は耳(聴覚)と喉(発声器官)野問題だが、濁点は「視覚」の問題である。
 木下の「頭」は「視覚」優先で動くようである。
 これは、実際の羽根をむしられた鳥(鶏)を想像するとはっきりするかもしれない。あの、鳥肌。先に書いたが、あれはふつう「ぶつぶつ」という。「ぎざぎざ」も突起をあらわすけれど、「ぶつぶつ」よりも鋭角的。鳥肌に対して「ぎざぎざ」とは言わないと思う。
 「ぶつぶつ」と「ぎざぎざ」が人間の肉体のなかで出会うとしたら、それは「触覚」である。ともに「ざらざら」した感じがある。(少なくとも「すべすべ」「つるつる」ではない。)この「触覚」を「ぶつぶつ」と「ぎざぎざ」から取り除くと、木下の場合「濁点」という「視覚」が残る。--視覚が世界を構成する。

 で、私の考えは往復するのだが(行ったり来たり、取り留めがないのだが)、「視覚」なのに、木下は実際には目では「世界」を見ていない。「濁点」の歌は、まだ目で見たといえるかもしれないが、「地中の虹」の場合は、絶対にありえない。
 だから、木下の歌は「写生」を装いながら、実は「写生」ではない。「視覚」を刺戟しながら、肉眼を刺戟しない。あくまで「頭」に働きかけて、「頭」で「絵」を見るように誘い込む。
 これは一種の「知的操作」(わざと)である。「肉体」が動いていないのである。

 これって、何かに似ていない?
 「古今」か「新古今」だ。--と、私は知りもしないのに、適当なことを書くのだが、実際の風景(目に見えるもの)ではなく、目に見えないものを「頭」に訴えて、存在するかのように「考えさせる」。感じるというよりも、そこに新しい「考え」があるという感じ。新しい感覚があっても、それは「考え」を経由することで「感覚」が新鮮になるという感じ。
 適当な例といえるかどうかわからないけれど、定家の「秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」は、新しい聴覚の誕生をつげているが、この聴覚は「目に見えない」という視覚(視覚の否定?)との対比によって強烈になる。この「対比」のなかに、「頭」がある。視覚を否定し、聴覚に神経を集中するという意識の操作を、私は「頭」の仕事と考えている。感覚がかってにどちらかを選択するわけではない。
 「肉体」のなかでは「対比」ではなく、感覚の融合がある、というのが私の考え方だ。感覚はもともと「ひとつ」であり、便宜上「視覚」「聴覚」「触覚」などとわかれているが、感動した瞬間、それは混じりあってしまう。目で聞いたり、耳で見たりする。目で触る、耳で触るということもある。
 「古今」「新古今」は「万葉」の「融合した感覚(図太い感覚)」を「頭」で「分離/整理」して洗い清めている感じがする。--これは、私の「感覚の意見」であって、実際にあれこれ調べて言っているわけではない。
 なので、こんないいかげんなことを言っていいかどうかわからないけれど、木下の知的操作に富んだ歌は、「平成の古今/新古今」なのである。

きみは詩を窓は雷雨を引用し終バスはもう行ってしまった

 この歌の「引用(する)」ということば「頭」そのものである。エリオットの詩が「引用」で成り立っているのは、それが「頭」で書かれているからである。

 おもしろいのは、「頭」の操作で、新しい感覚(視覚)を表現しているのに、「考える」ということを歌ったとき、そこには「頭」のかわりに「視覚」が動く。

てのひらの坂の傾斜をゆるめつつ蟻の処遇を考えている

 蟻をつかまえてみたが、さて、どうしようかと手のひらを広げてみているのだと思うけれど、そこに「考える」ということばが出てきて、実際に動いているのは傾斜を「ゆるやか」と認識する目である。目で、考えるのである。
 ここにも、木下の「頭=目」という関係を見ることができるかもしれない。
 この「頭=目」というのは、私にはちょっと窮屈な感じがする。これは、私の個人的な事情なのかもしれないが、網膜剥離手術以後、目を刺戟してくるものが苦手になってしまった。視神経を刺戟されると、つらく感じるようになってしまった。
 
 そういうことが影響しているのだと思うが、10首のうちで、私がいちばん好きなのは、冒頭の、ちょっと寺山修司を思わせる

ゆるされて校庭をゆく少年に少年からのやわらかいパス

 これは「写生」そのものの歌と言えるかもしれない。校庭を少年が横切っていく。その少年のところに別の少年からサッカーの(おそらく)やわらかなパス。それが「絵」として見える--と同時に、私には「音」が聞こえる。ボールを蹴る音が。木下は「やわらかい」と書いているが「ゆるされて」「ゆく」という聞いたあとでは、それは「ゆるやかな」パスのように聞こえる。そしてその音は「パス」の半濁音そのものの、軽い感じを含んでいる。
 「音」を具体的には書いていないのに、音が聞こえる。視覚と聴覚が融合している。とても気持ちがいい。






つむじ風、ここにあります (新鋭短歌シリーズ1) (新鋭短歌 1)
木下 龍也
書肆侃侃房
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青山かつ子「夕ぐれ」

2013-11-13 10:37:46 | 詩(雑誌・同人誌)
青山かつ子「夕ぐれ」(「この場所ici」9 、2013年11月05日発行)

 青山かつ子「夕ぐれ」は、きのう読んだ斉藤なつみ「小鳥」と通じるところがあるのだが、ちょっと複雑。簡単に(?)抒情詩という「枠」にはおさまってくれない。

めざめると
老母は
わたしを見上げ
じーっとみつめる
「死んでんのか」
「生きてる、生きてるよ!」
いくら叫んでも
母の耳はとうに砂に埋もれている

しばらく
死んだつもりになってみる
わたしも…

<夕焼け小焼け>が流れてくる
ご飯の炊けるにおい
カナカナが鳴く
ねこが外から帰ってくる

きのうと同じなのに
初めての夕ぐれが
どっとよせてきて
切なさにうろたえてしまう

 「きのうと同じなのに/初めての夕ぐれ」--これが曲者。「きのうと同じなのに」、なぜ「初めて」? 矛盾してるねえ。でも、この「矛盾」は「頭」で考えるから矛盾なのであって、「こころ(肉体--と私は呼びたいのだけれど)」には矛盾していない。
 矛盾している--と私が書くまで、矛盾に気づきました? 気づかないでしょ。自然に読んでしまうでしょ? 私はわざと「矛盾」ということばを持ち出すことで、この部分をもっと生き生きと動かしたい、青山の「肉体」になって、いっしょに動いていきたいと思っている。
 こういうとき私の「現代詩講座」では受講生に質問する。

<質問> 「きのうと同じ」なのに、なぜ「初めて」? 
     初めてを青山は、どう言い換えている? 言いなおしている?
<受講生>????
<質問> 「初めて」のことにぶつかると、どうなる?
<受講生1>どうしていいか、わからない。
<質問>  ほかのことばで言うと?
<受講生2>うろたえる。

 そうだね、「うろたえる」。青山は「うろたえる」と書いている。そして、このとき「うろたえる」のは「頭」ではなく、きっと「こころ(肉体)」だと思う。うろたえて、じっさいに、体がうろうろするというか、安定しないよね。
 で、青山は「こころ」を「切なさ」と書いているね。「切なさ」は「頭」で感じることじゃないね。
 だから、この部分は

「頭には」きのうと同じなのに
「こころには」初めての夕ぐれが
「こころに」どっとよせてきて
切なさに「こころが」うろたえてしまう

 ここから最初に引き返していく。「こころ」には「きのう」はない。いつも「きょう」、いつも「初めて」。それは「肉体」にとっても同じ。
 「老母」と「わたし」は見つめ合い、声を出し合う。そのとき、相手を見つめているのは「頭の目」ではなく「こころの目(肉眼、肉体にからみついた、整理できない目)」。そして2連目は、少しことばを補って、

しばらく
「老母が」死んだつもりになってみる
わたしも……「死んだつもりになってみる」

 と読み直してみる。そうすると「死んだつもり」のなかで「肉体」が重なり合う。「ひとつ」になる。「死んだつもり」に老母とわたしの区別がなくなる。

<質問> そうすると、次の「夕焼け小焼け」を聞いたのがだれ? 
     ご飯が炊ける匂いをかいだのはだれ?
<受講生3>お母さんと、青山。両方。

 そうだね。両方。
 だから、「死んだつもり」はあくまで「つもり」であって、それが逆に「生きている」を刺戟する。「つもり」ではない現実を刺戟する。「時間」がいりみだれる。生と死がいりみだれるなら、過去と現実も入り乱れる。
 「きのう」は青山はこどもとして体験し、「きょう」はいまの「わたし」として体験し、その「いまのわたし」には「若い母」が重なるという具合にからみあって、二重になって「どっとよせてくる」という感じになる。
 どっちがどっちかわからない。
 老いた母は、あのときは若かった。たのもしい母だった--そんなことを「こころ」は思い出し、切なくなるんだね。あんなに頼もしかった母が、なぜいまは……と泣きたくなる。でも泣いてなんかいられない。

「ご飯はできてんのか!」
不意に
若い母の声が
手ぬぐいを外しながら
日に焼けた顔を出す

死んでなんかいられない
あわてて茶碗を並べる

 「若い母」に、青山がなるのだ。年下だけれど、老母の「若い母」として生きるのだ。そういう「肉体」の交代、「こころ」の交代が、この詩にはしっかり動いている。そうだね、「死んでなんかいられない」。生きなければ死ぬこともできない。死ぬならば、頼もしく死んでいかねばならない。
 「頭」へことばが動いていくのではなく、「肉体」へ、欲望へ動いていくのがいいなあ。


詩集 あかり売り
青山 かつ子
花神社
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斉藤なつみ「小鳥」ほか

2013-11-12 10:24:24 | 詩(雑誌・同人誌)
斉藤なつみ「小鳥」ほか(「この場所ici」9 、2013年11月05日発行)

 「知らない」と「わからない」は、どう違うか。斉藤なつみ「小鳥」を読みながら考えた。

庭のこぶしの木や木蓮の枝から
葉を揺らし飛び立って 電線にとまったり
再び 空を飛んだりしながら 鳴いている鳥

(鳥)としか呼べない
本当の名まえも知らない私が
囀る声を聞いていると
緑滴る深い森のなかにいるように
あるいは薄青い空の色になってしまったように
こころが易々と解かれていくのはなぜだろう

 「知らない(知っている)」は鳥の「名まえ」について語るときに使われている。私もほとんど鳥の名前は知らない。でも、斉藤は不思議なことを「わかっている」。この1、2連目では「わかる」ということばはつかわれていないのだけれど、鳥が「緑滴る深い森のなかにいる」、あるいは鳥は「薄青い空の色」のなかを飛んでいるということが「わかる」。そして、それは鳥について「わかる」のか、森や空について「わかる」のか、はっきりとは区別されていない。いや、区別はしていない。鳥と森、鳥と空が「一体」であることが「わかる」。
 それも「こころ」で「わかる」。
 知る、知らないは「頭」の仕事。わかる、わからないは「こころ」の仕事なのかもしれない。
 3連目は、しかし、どうだろう。同じように言えるか。

一つとして同じではない囀り方
チチ チ チ
掠れたり 弾んだり 間延びしていたり
何を思い 鳴いているのか
鳴いて どんな物語を告げているのか
耳を澄ましても わからない

 「一つとして同じではない囀り方」というのは「頭」で判断している。「知っている」ある鳴き方と比較して、それが「同じではない」と判断している。「掠れたり 弾んだり 間延びしていたり」というのも「こころ」でわかるのではなく、「頭」でわかることがらだね。そのあとの「どんな物語」か「わからない」というのも「頭」では「わからない」だね。
 「頭」が、やっぱり認識(わかる)の基本?
 うーん、ちょっと違うと思う。
 「わからない」は「わかる」があって、「わからない」と言ってしまうのだ。どこかで「わかる」、「わかる」けれど、それをことばにできない。だから「わからない」と言ってしまってるような、悔しさがここにはある。
 「こころ」には鳥の「物語」が森や空にあることが「わかる」。けれど、それを「頭」のことばで言いなおすことができないので「わからない」と便宜上、言うしかない。こころはそれを「思い出せない」。こころはそれを体験したことがある。だけれど、こころはそれをことばであらわすことができない。--このじれったいような矛盾(?)が「わからない」である。
 で(あるいは、だから……と言った方がいいのかも)、ほんとうに斉藤が言いたいことは次の連に出てくる。

いつか
思い出すことができないほど遥かな遠い私の
記憶の裡でも
鳥は羽ばたき 囀っていたろうか
そこが広々とした空であるかのように
あるいは 手繰り寄せることもできないほど
遠い鳥の記憶に
私は一本の木としてそよぎ立っていただろうか
そこが豊かな森であるかのように

 「頭」のことばでは言えなけれど(言いなおすことはできないけれど)、「こころ」は覚えている。頭では「思い出すことのできないほど遥かな遠い/私」。「肉体」というか「遺伝子」の、まだ「他人」のなかにいる「私」。いのち以前の「私」。--いのち以前の「私」は存在しない、と「頭」は言うだろうけれどね。でも、「肉体」は延々とだれかのいのちを引き継いでいる。肉体が続いているけれど、「頭」は続いていないのだと思う。だから、毎回生まれるごとに、「学び」直す。でも、「こころ(欲望)」は学ばなくても覚えていて、赤ん坊は、腹が減ったら泣いて訴える。だれかから教わったわけでもないのに、おっぱいに吸いつく。「自然」はとぎれない。そういうものを「こころ」は覚えているのだ。こころは「本能(自然)」である。そして「本能(自然)」は間違えない。
 「自然/本能」にまで戻ってしまうと、そこには「人間(私)」と「鳥」の区別もなくなる。「私」が覚えていないくても、「鳥」が「一本の木」である「私」を覚えている。「鳥」は「私」がかつて「木」であったことが「わかる」。
 この3連目に書いてあることは「頭」には「わからない」。けれど、「こころ」には「わかる」。
 「知らない」「わからない」ということばを書くことで、斉藤は「こころ」を生まれる以前の世界から取り戻している。鳥の力を借りて(鳥になることによって)取り戻している。
 4連目。

その時には
鳥の本当の名まえを知っていたに違いない
囀る声も理解できたいに違いない
今(鳥)としか呼ぶことのできない私の
思いだすこともできない
遠いむかしに

 この連の「主語」は「頭」のようにも読めるけれど、「こころ」を主語にすると、よりすっきりする。つまり、

その時には
「こころは」鳥の本当の名まえを知っていたに違いない
「こころは」囀る声も理解できたいに違いない
今(鳥)としか呼ぶことのできない私の
「こころが」思いだすこともできない
遠いむかしに

 「知る」(理解する)が、「頭」と「こころ」の分業になる前、すべてのことは「こころ」がしていたのだ。「こころ/本能」には「わからない」ことなど、ない。「こころ/本能」は「知る」より先に「わかる」。「知る」必要はない。



 房内はるみ「日々」も「こころ」の詩である。

しずかな人の寝息のなかで寝ていると
はるかな昔を旅してきたような気持ちになる

 「頭」で旅をするのではなく、「こころ」で旅をする。知っていることではなく「わかる」こと、覚えている昔を旅する。「はるかな昔」には房内の「体験」を超えるものがある。だから、それが読者の「体験」と混じりあう。そして、詩になる。


私のいた場所―詩集
斉藤 なつみ
砂子屋書房
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山本博道「セナド広場の憂鬱」ほか

2013-11-11 09:01:26 | 詩(雑誌・同人誌)
山本博道「セナド広場の憂鬱」(「独合点」117 、2013年10月01日発行)

 山本博道「セナド広場の憂鬱」は情景がすっきりとしている。単純化されている。そして、それが不気味というか、不穏を隠している。

少女が自転車の外輪を棒で回しながら
だれもいない一本道を走っている
そこが埠頭に続く倉庫群なのは
通風孔しかない長い箱型の石の建物が
反対側にも建っているのでわかる

 「一本道」その「一」がとてもいい。少女が「ひとり」とは書いていないのに、「一本道」の「一」には少女は「一(ひとり)」でなくてはない。つまり、それは向き合っているということ。そして、そこに緊張があるということ。「一」と「一」は単純に数字だけ足すと「二」になる。ほんとうは、そういう足し算は「数学」では成立しない。単位(?)が違うからね。でも、「想像力の算数」では、それが「2」になる。この不思議な意識の乱れ(狂い)のようなものに拍車をかけるのが5行目の「反対側」である。「反対」ということば、「側」ということば。いま/ここで目に見えているものの「反対側(裏側?)」になるかがある。何かが隠れている。そしてその隠れているものが「一(本道)+一(人の少女)=2」を感じさせる。ありえないことがある、という感じさせる。日常の「数学」では道と少女を足したときの「1+1=2」は成立しないけれど、山本の書いていることばのなかでは、そういう動きがありうる。道と少女を、ふつうの「単位」ではない何かでくくる動きがある。「単位」があるとしたら、それは「本」「人」ではなく、「一」そのものが単位なのである。「いま/ここ」に「反対側」ぴったりと接続し、それが「一」をくっきりと際立たせている。その際立たせ方には「日常」を超える何かが感じられる。

すっぽりと死体を隠せる有蓋車もある
午後の陽射しが降りそそぐ黄色い道の先には
縫い針のような黒い柱の影と
だらりと手を下げた男の影が落ちている
空は爬虫類のような緑色だ
長い髪とスカートの裾をなびかせて
夢中で輪回しをしている少女が
羽交いじめにされるのは時間の問題だ

 この部分は「情報量」が多くてすこしうるさいのだけれど、その次の2行、

虫が知らせるそんな一枚の絵が
突然浮かんできた

 「いま/ここ」と記憶のなかの「絵」(これも反対側/裏側ということになるのかな)の登場で、うるさいものが洗い流される。先の引用が「うるさい」のは「いま/ここ」と「絵」が交錯しているからである。そこには「いま/ここ」があるだけではなく、「記憶」が動いている。
 「記憶」というのは不思議なもので、単に「過去」を生きるだけではなく、それが「いま/ここ」をととのえる、ととのえてしまうということがある。
 いったんよみがえると「いま/ここ」は「いま/ここ」のままの姿から変形してしまう。歪んでしまう。「肉眼」が「いま/ここ」を違うものにしてしまう。
 そしてここにも「一」枚の絵、と「一」が食い込んでくる。その「一」は知っている、という意味の「一」である。「ある」絵ではなく、「知っている」絵。だから、これからはじまるのは「知っている」ことなのである。「知っている」ことにつながるものが「一」のなかに動いている。

うねるような燕麦畑のかぜのような
灰色と青味がかった広場の道
絵とは違う場所なのに
流れている空気と影が同じだった

 ここで、私たち読者は最初の一連が「絵」であり、いま引用した2連目こそが「いま/ここ」だと「論理上」は知らされるのだが、もう遅い。私たちは(私は)、「絵」のなかの世界の方を「いま/ここ」として見てしまう。「いま/ここ」よりも絵の世界の方を「知っている」。そして、その「知っている」という意識が、記憶の(絵の)「いま/ここ」が現実のなかで動き、世界をかえていくのを感じる。--それを私は「肉眼」で見る、「肉眼」が世界を変形させると言う。ふつうは「想像力が」と言うのかもしれないけれど、「肉体」にしっかりからみついているがゆえに、「肉眼」と言う。
 その「肉眼」をかかえて、「肉体」は「絵」ではなく、ほんとうの「広場」を歩きはじめる。

少女を入れた有蓋車はどこだろう
人に揉まれながら
聖ドミニコ教会をさらに行くと
ジョルジュ・デ・キリコの絵を抜けて
だらりと手を下げた男の影が
物陰で動くのが見えた

 それは「空想」なのか、「記憶」なのか、「現実」なのか--「肉眼」は、それを区別しない。区別しないことによって世界を「ドラマ」に単純化、簡潔化する。三つを「ひとつ」にしてしまう。
 そんな「数学」はありえないかもしれないが、「肉眼」はそういう「算数」を成立させてしまう。

 --こんなことを考えてしまうのは、すべて2行目の「一本道」の「一」ということばのせいである。(あ、原因を山本に押しつけているわけではないのだけれど。)もし、その「一本道」が「まっすぐな道」「影のない道」「広い道」のように「一」ということばを抱え込んでいなかったら、私は、たぶんこんなことを考えなかった。「一」にさそわれて、私はこの詩に引き込まれた。

 私の書いたことは、ちょっとわかりにくいかもしれない。いや、とてもわかりにくいかもしれない。けれど、金井雄二の「葡萄」と比較すると、すこしわかりやすくなるかもしれない。この詩にも「一」が出てくる。

秋のはじまり
さわやかなテーブルの上には
大きな藍色の粒の一房なんかが
あったらいいなあ
あいにく我が家には
そういったものがあったためしがなく
テーブルの上には
いつものように
すべらかな毛をまとった生き物が一匹
腹を見せて寝転がっているのである

 葡萄の「一」房、寝転がった猫が「一」匹。でも、それは孤立していない。逆に言うと(この「逆」ということばはきっと間違ったつかい方だと思うけれど)、金井の書いている「一」には「反対側(裏側)」がない。「肉眼」に触れてこない。言い換えると、英語(外国語)の不定冠詞の「一(a )」である。山本の書いている「一」は定冠詞「the 」である。「定冠詞」つきの「もの」は「肉体(思想)」に深く関係している、「感情」がからみついている。(猫はなじみのある猫で、金井にとってかけがえのない猫かもしれないが、この詩のなかではかけがえのなさではなく、無関係を象徴している。)


光塔(マナーラ)の下で
山本 博道
思潮社
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カトリーヌ・コルシニ監督「黒いスーツを着た男」(★★★)

2013-11-10 18:23:02 | 映画
監督 カトリーヌ・コルシニ 出演 ラファエル・ペルソナ、クロチルド・エム、アルタ・ドブロシ



 主演のラファエル・ペルソナはアラン・ドロン似の美男子という触れ込みである。アラン・ドロンよりもジェラール・フィリップに似ていると思う。野性味が少なく、やわらかな感じ。で、この監督はラファエル・ペルソナのいろいろな表情を撮りたくてしようがない、という感じ、それだけが目的という感じで映画をつくっているものだから……。
 とっても、いいかげん。
 と見るのは、たぶん日本人的感覚。こういう映画はストーリーを追いかけ、ストーリーにカタルシスを求めると裏切られる。こういう映画は、「これがフランス人だ」と思って見ると、非常に非常に非常に興味深い。
 ヨーロッパ、民主主義、個人主義--といくつかことばを並べると共通項があるように見えるけれど、ぜんぜん違うねえ。フランス(パリ?)の個人主義なんて、ほんとうに自分さえよければという個人主義ですねえ。
 この映画の原題は「trois mondes」(三つの世界)。交通死亡事故の、加害者、被害者、目撃者。目撃者というのは「事実」を証明する存在。その個人の「事実実の証明」を公的機関(警察とか裁判とか)が正しいと認定すると、それが「真実」になる。そういう過程を経て世界は「安定」を保つのだけれど--そういうのが、いわゆる「現代国家」というものだけれど。フランスではこの「原則」が無視される--いや、無視はされないのだろうけれど、それよりも「個人」そのものの視点が優先する。「権力」による「真実」の認定なんてまっぴら。「真実」よりも個人の「こころの事実(欲望)」が大事、「事実」はどうであれ「真実」というのはひとりひとりが決定し、納得するもの。「心実」ということばはないのだけれど、フランス人にとっては「真実」は「心実」にまで到達しないことには意味がない。逆に言えば「心実」なら、それがどういうものであれ受け入れる。人間関係は個人と個人が築くものであって、公的機関が「認定」するものではないからだ。
 だからね、というのは変な言い方だが。
 この映画の「三つの世界」の「一つ(被害者)」は不法難民(不法居住者)なのだが、その不法性はこの映画では問題にならない。彼らが仕事がなくて困っているのはそのひと自身の問題であって、そのことを別の他人が「不法入国」を理由にあれこれはいわない。国家が「不法」と言うだけであって、個人は彼らを「不法」を理由に排除しようとはしない。個人にはあくまで寛容である。むしろ「不法」という正義を押しつけてくる権力に対する反感が個人を支えている。
 と、またまた脱線して、なかなか映画のなかに入っていけないのだが--実は、入ってしまっているのかもしれないなあ。
 映画は交通事故を目撃した女性が、加害者、被害者のあいだに入って関係を仲介するというような形で展開するが、これって、私のような日本人にはとても奇妙に見える。だれが加害者であるかわかったら、日本では警察に知らせる。それで目撃者の仕事は終わる。目撃者はあくまで第三者であって、加害者・被害者の関係(事実の関係)は公的機関が認定することであって、目撃者がそこに介入し事実関係を変更する(?)ようなことはしない。(してはいけないのかもしれない。)でも、フランスでは(この映画では)、警官が「事実」を調査する、加害者を逮捕するためにあれこれする、というようなことは描かれていない。
 かわりに目撃者が被害者に同情し、そこから被害者の家族を調べ、電話しというような「おせっかい」をする。なぜ、そこまで……という疑問が残る。残るでしょ? 絶対に。
 で、ここが、実は「みそ」。
 ラファエル・ペルソナは、男をはねたとき、車から一瞬だけれどおりてくる。それを目撃者のクロチルド・エムはちらりと見る。夜だから(未明だから)暗くてよく見えない--という設定だけれど。
 病院でその男とすれちがったとき、あ、あの男と気づく。
 どうしてだと思う?
 美男子だからですねえ。これは、独断と偏見だけれど、男が不細工だったら(ラファエル・ペルソナの同僚の無精髭をはやしている整備工だったら、小太りのデブのセールスマンだったら)、たぶん、印象に残らないし、気づいたとしても警察に通報しておしまい(被害者の妻に知らせておしまい)なんだけれど、美男子であるので、その顔をじっくり見るために追いかける、追いかけて確かめるということまでする。病院の廊下ですれちがって、エレベーターにいっしょに乗り込み、男が車にのるところまで追いかけるときの、その執拗さは、加害者であるかどうか確認するためを通り越して、ラファエル・ペルソナの美形を確かめるためなんですねえ。このシーン、変に克明で長いでしょ? エレベーターに入院患者なんかが乗り込んでくるというようなリアリティーが、ストーリーを補強するというより、ラファエル・ペルソナの美形の補強と、彼をみつめる女の視線の補強だね。
 おいおい、ここまで「ごまかして(ストーリーを装って)」ラファエル・ペルソナとかれをみつめる女の視線をていねいに描くことはないよ。恋愛映画じゃないのだから。--じゃなくて、もう恋愛がはじまっている。一目惚れをはっきりさせるために、このシーンがある。むちゃくちゃだなあ。映画(ストーリー)を私物化している。
 で、その後は、なぜこの男は人をはねて平気なのか、なぜ自首しないのか--とあくまで事故の責任の取り方をフランス人固有の「個人の責任問題」におしつけて、加害者なのに、なぜこんなにいい男なんだろうと、奇妙なふうに関心がねじれていく。あ、そんなふうにはっきりと描かれているわけではないのだけれど、そういう雰囲気。恋愛のどきどき。この男と女は、どうなるのか。それを女自身が知りたがっている。だから、女は恋人がいて、妊娠までしているのに、車のなかでセックスまでしてしまう。あらら、こんな個人的な関係が出来てしまうと、もう「中立」ではいられない。「目撃者」ではいられないよね。警察に通報するというようなことはしにくくなるねえ。
 もう、これはほんとうにほんとうにへんてこりんなフランス以外(フランス女以外)では絶対に思いつかない究極の恋愛映画。恋人がいたって、その恋人のこどもを妊娠していたって、いい男がいるならこころがときめき、セックスして何が悪い。そうしたい。だから、するだけ。悔しいなら、いい男になってみろ、いい男を手に入れてみろ、できないやつは人を非難するな--という監督の声が聞こえてきそう。
 笑ってしまう。



 付録。
いい男だから、もちろん裸は出てきます。殴られて傷もできます。血や傷ほど美形に似合うものはないからねえ。ひとりだけファッションショーもやります。それなりに理由はあるけれど、これはやっぱり監督がラファエル・ペルソナを着せかえ人形と思っているんですねえ。
                     (2013年11月10日、KBCシネマ2)

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前田経子『富士』

2013-11-10 09:03:44 | 詩集
前田経子『富士』(砂子屋書房、2913年11月06日発行)

 前田経子『富士』にはときどき不思議な行が出てくる。「富士」の書き出し、

かんだ とたん
舌の先から飛び出してくる
さくらんぼの種
まぶしいトパーズいろ

 この4行はとても美しい。さくらんぼの種の色が見える。「舌の先から飛び出してくる」という動き(動詞)が楽しい。ほんとうは飛び出してくるのではなく、人間が飛び出させるのだけれど、その主語と述語、主語と補語(目的語?)の関係が不思議な具合にいりみだれ、交代する。そのとき、なんだかさくらんぼの種になったような感じになる。気持ちになる。「かんだ とたん」という1行目の、「意味」でありながら「意味」よりも「音楽(リズム)」を強調したような楽しさが肉体をくすぐり、一種の笑い(?)のなかで人間とさくらんぼが入れ替わってしまうのかもしれない。
 この4行があまりに美しいので、前田自身もとまどったのかもしれない。詩は、その美しさをそのままどこか新しい世界へつながるというよりも、そこでほうりだされて、まったく違う世界へ飛躍してしまう。2連目以降は孫(?)の「まさくん」が「主役」になる。うーん、ちょっとついていけないなあ、こういう展開は。と思うのだけれど、その「まさくん」が、

左手に 鉛筆を握る と
広告の裏に漢数字の八の字
コレナーニ?
まさくんのおはし! ブー
横からママが
ふじさん! ピンポーン
富士さんだったら もっと大きく描かないと
遠くから見てるんやねん
しばらくして
太い幹に 小枝が一枝
しっかりついている 五べんの一輪
さくら!!
ピンポーン
どこでみたのだろう
右 遠景の富士
左 近景にさくら

 最後の2行が、とても不思議。とても美しい。しかもその美しさのなかには、「知識」のようなものがある。「遠景/近景」ということば、世界をそういうことばでとらえることを「まさくん」は知らないだろうけれど、ことばではなく「目」で知っていて、それが前田を動かしている。「まさくん」の目が前田の「肉体」の中へ入ってきて、前田の目そのものになる。そのとき前田は、前田の「肉体」が覚えている「遠景/近景」ということばを思い出すのだが、それがすーっと「まさくん」の「肉体」へ入って行って、そのことばで「つながる」感じがする。
 「まさくん」はまだ「遠景/近景」ということばを聞いても、変な顔をしてみつめるだけかもしれないけれど、それはいつかはきっと「遠景/近景」の「絵」として結晶するだろうなあ、と納得してしまう。人間の「肉体」と「ことば」は奇妙な具合につながっているのだなあ、不思議な具合に他人をととのえるのだなあと感じる。
 さて、このつながりを何と呼ぼう。

まばたく目に
すっと のびる白い道
まさ君の果てしない
まほろば

 「まほろば」か。そうなんだなあ。「まほろば」というのは「よいところ」くらいの「感じ」。(私は「まほろば」ということばをつかわないので、「意味」を断定できないのだが……。)
 何か、まだ「具体的」ではないけれど、ぼんやりと美しい何かが「まさくん」にはわかっていて、それへ向かって「肉体」が動いているんだなあと前田は感じているのだと思う。そして、その美しい何かへ向かって動いていく「肉体」の動きそのものを「まほろば」と言っているのかもしれない。
 --というようなことを考えると。
 最初に引用したさくらんぼの種、前田の「肉体(口/舌の先)」から飛び出した「トパーズいろ」が「まさくん」の「遠景/近景」のようにも感じられる。小さな富士、大きな桜の花--そのむすびつきのなかに「遠景/近景」という「知識」の「トパーズいろ」の「種」が光っている。
 そんなふうにも思えてくる。

 あ、でも、こういうことはことばにして追いかけすぎると、きっと違う性質のものになってしまうなあ。「意味」になって勝手に走りだしてしまうなあ。
 私は、その「意味」へはいかずに、ただ、前田の「肉体」と「まさくん」の「肉体」がまじりあっているのを感じていたい。前田が「まさくん」の「肉体」になって、「まさくん」の知らない「まほろば」を見ているのを感じたい。きっと「まさくん」はいつか、前田の見た「まほろば」へたどりつくということを夢見ていたい。
 その「夢」(ふたりの「肉体」が重なる)というのが、私の「まほろば」だなあ、きっと。

詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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林美佐子『鹿ヶ谷かぼちゃ』

2013-11-09 09:02:09 | 詩集
 林美佐子『鹿ヶ谷かぼちゃ』(詩遊社、2013年08月08日発行)

 林美佐子『鹿ヶ谷かぼちゃ』のなかで「私(林、と仮定しておく)」はいろいろな「名前」で呼ばれる。「らんちゅう」という作品では、

君は美しいらんちゅう
そう言って
男は私を愛でた
醜い顔を愛でた
見苦しい体を愛でた
水底のような部屋で
高級金魚になぞらえて
男は私を飼った

 「私」は「らんちゅう」と「言われる」(男は「そう言った」)。つまり、それは「呼ばれる」ということ。
 「別の名前で呼ぶこと」は、「比喩」ということかもしれない。「らんちゅう」は「比喩」。「比喩」が、別のことばを呼び寄せて世界の「いま/ここ」を少し違ったものにする。別の名前で呼ばれた瞬間から、世界は「別」のものになる。
 部屋は水底。
 そうか。世界とは「あるがまま」にあるのではなく、ことばといっしょに動いていく(変化していく)ものなのだ、ということがわかる。「醜い顔」「見苦しい体」も「高級金魚」ということばにかわれば、あるいは乗っ取られれば(そういうことばで乗っ取ってしまえば)、「らんちゅう」は「美しい」……のか、どうか、よくわからないけれど、まあ、世界がことばといっしょに変化していくということはわかる。
 でも、それは、ほんとうに世界の変化? もしかしたら「私」の変化かもしれない。そして、「私」がかわってしまうとき、それでは相手は?

男が私の手をとり
男の背中の
硬い瘤をなでさせ
男は言った
これは秘密の瘤
恋人だけに教える瘤

 相手(男)も変わるのだけれど、それがわかったとき、「私」もまた変わる。いや、換えさせられるのかな? もう「高級金魚」ではない。「恋人」。
 さて、このことばの変化は「ほんとう」か。

昨日私が見かけたのは
老いたあの男だった
男の横には
らんちゅうの女がいた
女の手が静かに
男の背骨の瘤をなでていた

 あ、むずかしいなあ。「私」は男がほかの女(らんちゅう)と歩いているのを見たのか。まあ、ふつうに読んでしまえばそうなんだろうけれど、もしかすると、自分が男と歩いている姿を「客観的」にみつめなおす、描写し直すと、そういう具合に見えるということかもしれない。「見かけた」のは街の雑踏の中かもしれないし、ショーウインドーのガラスの中(ガラスに映った自分と男の姿)かもしれない。
 背骨の瘤は、裸になって、それに直接触れた手でないとわからないだろう。そうだとすると、そのとき見かけた女が他人であったとしても、その手の動き、そして瘤を感じる手のひらというのは、他人の女ではなく、「私(林)」自身の手のひらだからね。無意識のうちに「一体化」している。他人の女と「ひとつ」になっている。
 なんだかよくわからないけれど(正確にことばの中にある変化を追いかけ、別のことば、「流通言語」で言いなおしつづけるとめんどうになるので省略するけれど)、「別な名前」で呼ばれることをとおして、「私」は知らず知らず「別な存在」と「ひとつ」になる。
 「ひとつ」になってしまうので、そこからはじまる世界は「まったく別の世界」というわけではない。「私」をひきずっている。その「まったく別の世界ではない世界」を、林は、拒絶するわけではなく、完全に受け入れるというわけでもなく、「こんなものかなあ」という感じで向き合っている。
 そういうときの、あいまいなことばの動きがおもしろい。おもしろいなあ。
 男が書いてしまうと、「あいまい」をあいまいのまま受け入れるというよりも、「あいまい」を構築してしまう。あ、私はカフカなんかを思い浮かべているのだけれど。でも、林は、構築しない。かわったものを、それだけ「ぽん」とほうりだしている。どうなったってかまわない。そういう「開き直り(?)」の強さがあるなあ。

 あ、少し書きたいことと違ってきた。(「意味」が強くなりすぎてきた。)
 別な作品を読んでみる。「公園の鬼コーチ」。

惜しいっ マサコ!
鬼コーチは叫びながら
夕暮れの公園で今日も
私にマンツーマンの特訓をする
私はマサコではない

もう一回っ リサコ!
私はリサコでもないが
いちいち訂正せずに
特訓を受けることに集中する

いいぞっ ミカコ!
ついに鬼コーチは会心の笑みで叫び
両手をかかげ天をあおぐ
惜しい 私はミカコでもない
そのとき日が落ちて
公園は夜になる

行こうか ミワコ
鬼コーチが私の肩を抱く
私はミワコでもないが
黙ってうなずく

 「名前」は次々にかわるのだけれど、「特訓を受ける」という「こと」はかわらず、それがつづいていく。名前が違うということを意識しながら、それとは別に、「肉体」は肉体で動いていく。名前とは別に「肉体」の関係が、理想的な状態に近づいていく--と書くと、うーん、なんだかセックス描写についての説明みたいになってしまうが。
 ことばは(と、私は、突然「飛躍」するのだが)、
 ことばは、こんなふうに何かを語っていると、別なものと重なり合ってしまう。その重なり合いは、逸脱というものなのだろうけれど。この重なり愛を「違う」と思いながら、それも「ある」(可能)と思ってしまう「動き」のなかに詩がある。
 そしてそれは、

暗がりで私の肩を抱くこの男は誰だ
抱かせる私は誰だ

 この最終連の「誰」のように、「わからない」ものである。
 「わからない」のだけれど、それは「ない」のではなく、「ある」。「わからなく/ある」--その奇妙な重なり(すれ違い?)が詩である。
 私のことばではつかみとれない(説明できない)おもしろさがある。
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八重洋一郎「福木」

2013-11-08 09:55:40 | 詩(雑誌・同人誌)
八重洋一郎「福木」(「イリプスⅡ」12、2013年11月15日発行)

 八重洋一郎「福木」は、福木と呼ばれる木のことを書いている。

福木葉は濃緑の部厚い葉っぱ それで瓦屋根の仕上げの漆喰い塗りが出来るほど 二枚一組しっかり相対して生え くっつきそうだ

 私は、その木を見たことがないのだが、次の描写に出合って、まるでその木が目の前にあるかのように感じた。その木なら知っている、と言いそうになった。

ある年 島が旱魃に襲われた 何ヶ月も何ヶ月も一滴の雨さえ降らず 島人は拉がれ ひからび咽喉かきむしり 福木葉は一枚残らず皆それこそピッタリくっついて 蒸散に耐え 赤太陽に耐え 天に向かって トードゥトードゥ どうぞどうぞお願い申し上げます
「アーミュ アーマシタボウリ」(雨を浴びせ給われ)と 根限りに祈ったが雨は降らず 万物はしだいに薄茶褐色へとチリチリちぢれ チリチリチリチリ

ある日 かすかに雨が降った
その時直ちに その水滴を受けようと福木の葉っぱがひらき始めた 下の方から上の方へ次々に 葉っぱがひらいた ひらいたどの葉も まだひらかない上部の葉っぱに邪魔されず雨粒を受け 飲み やがて最後に大きくひらいた天辺の二枚の葉っぱに雨滴が触れると 雨がやんだ 下から上へ下から上へ屋敷林全体の濃緑の部厚い葉による細かな細かな一斉波動 一斉開花

 木の描写なのに、そこに島人の姿が見える。雨が降らないときの、島の暮らし。そこでの祈りの気持ちが木に託されて語られている。そのために強く印象に残る。木を描写する八重のことばは木と同時に島人の姿を見ている。いや、島人の姿そのものを見ているのであって、木を見ているのではないのかもしれない。
 雨を受け止める木の姿、下の葉から上の葉へ順々にというのは、ほんとうにそうなのかどうか私にはわからない。(と、書いてしまうと意地悪をしているような感じだが……。)雨は上から順番に濡れるものだし、木の葉っぱはていねいに設計された建築物のようになっていないだろうから、八重の書いている通りの現象が見られるかどうかわからない。
 しかし、あるいは、だからこそ、といえばいいのか。
 そこに八重の「祈り」が見える。こんなふうに、福木を見たい--という欲望が見える。本能が見える。
 一本の木さえ、そんなふうに雨を助け合って受け止める。
 その助け合って生きる姿を、八重は島人の暮らしに重ね合わせるのである。島人の暮らしが福木によって整えられる。そんなふうに、整えたい--そういう気持ちが八重にはある。
 福木と島人の暮らしが重なり合うとき、互いに互いを整えあうとき、そこから詩は転調して、もうひとつの「暮らし」を描き出す。

そして福木は「黄」の染料 但しすぐさま思いつくその黄の果実は役立たず 実際はその堅いひきしまった樹皮に黄の染料の基質となる化学物質があるという 従って染料を得るためにはその福木を切り倒さなければならない 福木から採取した染料で「白布」を染めると 目も覚めるような黄金色だ

 福木から「生き方」を学び、その福木を切り倒し染料をつくり、布を染めて生きる。その黄金色は、単に「視覚」にとってだけの色ではないだろう。

そう それは一本の福の木のいのちを捨てたいのちの輝き!

 八重は、そう書いている。
 私は福木を見たことがないけれど、そしてその染料で染められた黄金色の布を見たことがないけれど、それが見える。
 ととのえられた「暮らし」というのは、「思想」なのだということがわかる。

 引用の順が逆になるが、書き出しの方、2連目の描写が美しい。

屋敷の周囲はぎっしり植わった緑の大木 それは福木 台風から家と暮らしを守るための防風林 屋敷林 そして普段は鬱陶しい暗い影 日向と陰の境目が 眼に痛い

 「日向と陰の境目が 眼に痛い」が過酷な島の夏を伝えている。そこにある「肉体」、そこで出合う「もの」、そしてそこからはじまる「暮らし」。それは、「もの」と直にふれあうことで「正直」を獲得するのだと思う。
 ことばの「基本」で、肉体をたたかれる思いがする。


しらはえ
八重 洋一郎
以文社
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やまもとあつこ『ぐーらん ぐー』

2013-11-07 10:31:03 | 詩集
やまもとあつこ『ぐーらん ぐー』(空とぶキリン社、2013年10月30日発行)

 やまもとあつこ『ぐーらん ぐー』には、何でもないことが書かれている。何でもないこと--というのは、つまり、そこから「意味」が生まれてこないということである。
 たとえば「公園」は日曜日の公園の風景である。いろんなひとがいる。そのいろんなひとのなかにバドミントンをしている親子がいる。バドミントンなのに、打ったシャトルがすぐに落ちてしまう。

ふたりっきりで
サーブばかりの
つづかない
バドミントン
つづけている

 何でもないのだけれど、へえーっと、私はそこで立ちどまってしまう。「つづかない」「つづけている」という矛盾を矛盾とは感じずに(?)、しっかり書いているその目に吸い寄せられてしまう。やまもとが書いていることなのに、まるで自分がそれを見ているみたいに感じてしまう。
 つながらないバドミントンをつづけているのは親子ではなく、その親子を見ているやまもとなのだと気づく。いや、やまもとは見ているだけではなく、バドミントンをしているのだ。やまもとの「肉体」が昔バドミントンをしたことを覚えている。そのときの「覚えていること」が、やまもとの肉体の中から「つづけている」ということばをひっぱりだしたのだ。
 書きはじめると、ちょっとややこしくなる(めんどうくさくなる)が、「つづかない」を「つづけている」と言いなおすとき、そこにやまもとの「肉体」が参加していくことになる。
 バドミントンの遊び(?)はつづかない--つまりゲームにはならないが、そういうものでも「つづける」ことができる。「つづける」はシャトルの動きとは関係がない。シャトルを打つという肉体の動き、肉体を動かしてシャトルを打つという「こと」のなかに、「つづける」がある。「つづく」のはバドミントンのラリーだが、「つづける」のは人間である。そして、それは親子が「つづける」というよりも、やまもとが「つづける」ということばで結びつけるから「つづいている」になるのである。
 やまもとが書くまでは、それは「つづかない」バドミントンで終わっていた。やまもとが書くことで「つづいている」に変わったのである。

 この変化は、大きいか、小さいか--というような問いを立てると、きっと「小さい」ということになり、「思想(哲学)」の領域から押し出されてしまう。つまり、「無意味」という部類に分類され、無視される、ということが起きる。
 けれど。
 あらゆることがらに「大きい」「小さい」はない。「いま/ここ」に「ある」ことがらにしか人間は関係できない。「いま/ここ」にある「こと」を生きることしかできないのだから、その瞬間に、すべての「こと」は、その人にとっては「いちばん大きい」ことなのである。他人から見て、それがどんなに「小さいこと」であっても、人は自分が関係していることを「小さいこと」として自分から切り離すことはできない。「小さい-大きい」という区別は便宜上のものであり、どのことも「直接性」のなかでは、「同じ」。
 で、この「直接性」というのは「つづける」に似ている。「肉体」を「こと」に「つづける」--つまり「つなげる」と、そこに「直接性」があらわれてくる。そこには「直接性」しかない。
 やまもとは簡単なことばで書いているので(私のように、「直接性」などというめんどうくさいことば、意味ありげなことばをつかわないので)、その動きが見えにくいけれど、この「直接性」というのは、とっても奇妙なものである。
 「直接」なのに、「直接」以外のものを引きずる。そこに「肉体」の不思議なところがある。
 「この山は」というのや山登りをしたときのことを書いている。山だから当然「登り」がつづく。歩いて歩いて歩いて、

5時間歩いて
やっと出合えた
平らな道
からだはよろこんで
前へ前へいくんだけれど
足がのぼりの着地の場所に
地面を求めるので
思いちがいを正しながら

一歩 一歩
足が思うところよりも
足を伸ばして
着地していくことになる

 山道をのぼったときの足と山道の「直接的な関係」、歩幅、力の入れ具合--それが平地ではそのまま通用しない。だから、あ、いけない、こんな歩き方で前へ進まないと、肉体の「思いちがい」を修正しなくてはいけない。
 「思いちがい」と書くと(そう書くしかないのだが)、「主語」は「私(精神?)」のように見えてしまうけれど(たぶんデカルト以来の「二元論」のせい)、やまもとの書いている「思いちがい」の「主語」は「肉体」。「肉体」のなかで「思う」が「直接」動くのである。精神も脳もとおらない。媒介としない。そういう「直接性」が人間にはある。そして、その「直接性」は肉体が覚えていて、それを思い出して、その思い出すままに動くので、突然の平らな道ではぎくしゃくする。登り道を歩く足(肉体)の「直接性」は平地に触れたからといって、突然平地を歩く足には変わらない。肉体の「直接」は「過去」をひきずりながら、少しずつ「修正」していくしかない。少しずつ、というのは、「つながる(つづける)」ということでもある。切り換える(つまり、切断して新しくつなぐ)のではなく、ひきずりながら、ねじまがっていく(?)。
 「直接」はねじまがるものとだけれど、「直接」というのは基本的に「点」に集約できるので、点のなかにはねじまがりがないので、それはねじまがりとは意識されない。で、あれ、なんだか変だけれど、そうだなあ、あるいは、あっ、そうなのかというような、何かが遅れてやってくる。何かを「意識」と呼んでもいいのだけれど、そうするとややこしくなるで、これは、ここでおしまい。

 めんどうになったので(うーん、うまく説明できなくなったので、というのが正直なところなのだけれど)、はしょって、飛躍する。
 やまもとのことばは「肉体」の「直接性」をとても明確に反映している。「肉体」のなかにある「正直」を動かしている。その「正直」が、私にはとても美しい、生き生きしたものに感じられる。この「正直」のあり方を、やまもとは「らく」と呼んでいる。いやあ、これはすごいなあ。「らく」ということばは、詩集のタイトルにもなっている「ぐーらん ぐー」という詩の中に出てくる。

昼間の電車は
座席がゆったりとうまる密度で
出発した

はじめは
みんな起きていたはず

頭が 一人 二人 と
ゆらゆらしてきた
三人 四人
となりの人も揺れだして
その頭をよけるために
体をよじらせてみるが
目を閉じてしまったほうが
らくな気がして
まぶたをおろす

日差し ぽかぽか
ほどよい 揺れが

 ぐーらん ぐーらん
 ぐーらん ぐー

 寄りかかってくる頭をよける(切り離す)のではなく、ふれてくるものをそのまま受け入れ、自分も同じように居眠りをする。いっしょになって、「ひとつ」になって、ぐーらんぐーらん。居眠りをするという「こと」のなかで、やまもとと隣の人の「肉体」が「ひとつ」になる。頭と肩の接触という表面的なできごとをとおりこして、「肉体」の奥で起きている「居眠り」に直接合体する。
 そのとき、「らく」になる。
 気分が? うーん。そうかもしれないけれど、まず「肉体」だろうなあ。「肉体」がらくになるというのは、意識しないで動くということ。山を登るときの足が自然に平地とは違う足の動きになるように、そして、その動きを意識しなくなったときに「らく」に山に登れるように。そして、その「らく」を覚えてしまった肉体は平地にもどった瞬間に「らく」をつづけたがるので足が乱れるという変なことをおこしてしまうのだけれど--その変なことの奥には「肉体のらく」がある。
 「肉体のらく」が「正直」なんだなあ、とわかる。「肉体」はいちいち何かを意識するのではなく、意識を忘れて「らく」になりたがる。
 「肉体のらく」は思想(哲学)ではない、という人もいるかもしれないけれど、私は「肉体」こそが「思想」だと思っているので、こういう詩は好きだなあ。「肉体のらく」(その直接性)から動きはじめることばは、「頭」のことばに対抗する力になる。これを組織化することはむずかしいのだけれど、というか、それは組織化とは反対に、すべてを解体し、「直接」という「点」にひきもどし、そこから勝手に動いていく力になるしかないものだけれど……。(あ、この部分は、メモ、だと思ってください。私には、説明がむずかしい。私が考えていることなのだけれど、まだことばにはならない。)
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ロレーヌ・レビ監督「もうひとりの息子」(★★★★)

2013-11-07 00:41:22 | 映画
監督 ロレーヌ・レビ 出演 エマニュエル・ドゥボス、パスカル・エルベ、ジュール・シトリュク、アリーン・ウマリ、カリファ・ナトゥール

 イスラエル、パレスチナのあいだで起きて赤ん坊の取り違えを描いている。「そして父になる」と設定が似ていると言えるかもしれないが--描き方は完全に違う。この映画では、こどもがすでに18歳に近づいていて、彼らに「自分はだれなのか」という自覚がはっきりとある。そして、問題は両親ではなく(両親の問題もあるが)、彼ら自身の選択にある。
 とてもおもしろいと思ったのは、パレスチナ人でありながらユダヤ人として育った少年と宗教の関係である。宗教と人種の関係である。突然ユダヤ人ではないとわかり、ユダヤ教から排除される。ユダヤ教の教会から排除され、ユダヤ人ではなくなる。--この関係は、私のような宗教感覚が希薄な人間には、あまりピンと来ないことがらなのだが、この問題を短いシーンではあるけれど、とてもていねいに描いている。「割礼もしているし、洗礼も受けた。それなのにユダヤ人ではないのか」と少年は問いかける。教会側は、母親がユダヤ人でないかぎりユダヤ人とは認めない。改宗とユダヤ人であるかどうかは別だと言う。うーん、厳しいというか、なんというか……。この非寛容(?)に対して、少年がとる態度(祖母の葬儀に出席しない)、その悲しみと怒りが、あ、そうなのか、と思うしかない。
 で、こういう非寛容をしっかり描いたあと。そのパレスチナの少年が、実の両親の家を訪問するシーン。そこでの関係は最初はぎくしゃくしている。なんといっても土地を不法に選挙しているユダヤ人として育てられた人間がやってくるのだから、息子であるとは「頭」で理解していても、すぐには受け入れることができない。
 このぎくしゃくした食事のシーンで少年が歌を歌いはじめる。最初はひとりで。その声にあわせて、まず母が声を出し、家族全員がくわわる。父親はリュート(?)のような楽器を弾きはじめる。少年は音楽が大好きで、それはどうやらこの父の血らしい。この音楽の和に、寛容がある。宗教のように、他者を排除しない。
 ずーっといっしょに時間を共有してきたユダヤ教が少年を排除するのに対し、音楽は少年を受け入れ、同時に少年をその音の広がる彼方まで拡大する。押し進める。支える。あ、これはいいなあ。思わず涙が出てくる。少年は、この瞬間、「育てられている」と感じる。この新しい家族に。

 この映画のラストは、実は答えを描いていない。「そして父になる」のように、少年がどちらの「家族」の方に行ったのか、明確にはしていない。しかし、私は、あの音楽の「寛容」のシーンから、パレスチナの少年はイスラエルに残り、ユダヤの少年はパレスチナにとどまると思った。生みの親ではなく、育ての親の「家族」を選んだと受け止めた。(もちろん、その後も交流はつづくだろうから、厳密にどちらを選んだとは言えないけれど。)ユダヤ人、パレスチナ人という対立をこわすとしたら、それぞれの「内部」に入り込むしかない。彼らは、対立を「内部」から「寛容」にかえていく最初の人間として描かれているのだと感じた。
                    (2013年11月06日、KBCシネマ1) 
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田島安江『遠いサバンナ』

2013-11-06 09:38:20 | 詩集
田島安江『遠いサバンナ』(書肆侃侃房、2013年10月02日発行)

 田島安江『遠いサバンナ』には動物がたくさん出てくる。植物も出てくるし、ひとも出てくるのだが、動物が出てくるという印象が強い。動物の出てくる詩の方がいいということだろう。
 で、その動物の登場の仕方なのだが……。

朝目覚めると枕元にカメがいた
わたしをうかがうようにじっとみつめている
たしかに突然だったけれど
どういうわけか
わたしはその大きなカメがそこにいることに
なんの違和感も覚えなかった

 「突然だったけれど/どういうわけか」「違和感も覚えなかった」。これが、田島と動物の関係である。(あるいは、植物やひととの関係である。)
 ふつう、詩というのは違和感からはじまる。手術台の上のこうもり傘とミシンの出会い。その突然。「どういうわけか」わからない。その「わからなさ」が肉体を刺戟する。その刺戟が詩。
 だから、田島の詩は、現代詩の「原則」に反している、ということもできる。
 でも、いまのように現代詩があちこちにあふれかえっている状況(「わざと」が蔓延している状況)では、驚かないという方法こそが「異質なものの出会い」として詩なのかもしれない。
 でも、なぜ、違和感を覚えなかったのか。

あたふたと起きだし洋服を着て
洗面所の鏡の前に立つと
鏡の奥にちらっと
歩いていくカメの姿が見えたけれど
振りむいたときにはもう姿はなかった
いつもいっしょに暮らしている人のようだったから
ああすぐに帰ってくるのだなあと思った

 カメの描写と、それをみつめる「わたし」の描写--そこに、「暮らし」が重なる。「いつもいっしょに暮らしているひとのようだったから」ということばから、カメが「いっしょに暮らしている人」にするりとすり変わってしまうが、なぜそういうことが起きるかというと……。
 たぶん「わたし」が洗面所で身支度していると、その人は何も言わずに廊下を通りすぎていく--そういう「暮らし」と重なるからだ。カメと人が似ているのではなく、カメと人の行動(動き/動詞)が似ているのだ。1連目にもどると、目覚めた「わたしをうかがうようにじっとみつめている」(みつめられ、目覚める)という「動詞/動作」のなかに「暮らし」が重なるからだ。
 カメは姿・形の比喩ではなく、あえていうなら動詞の比喩なのだ。
 人の形ではなく人の動き、動物の形ではなく動物の動き、形ではなく動き(動詞)。それが重なるとき、人は「違和感」を覚えない。なぜかというと、その「動き」を人は自分の肉体で再現できるからだ。カメそのものにはなることができない。けれどカメのように首をもちあげてみたり、カメのようにまっすぐに目の前だけをみつめて歩いてみたりすることはできる。「肉体」は「動き」のなかで重なり合う。「ひとつ」になる。
 そのとき人は「違和感」よりも「共通項」をつかみとっている。「肉体」は何かと「ひとつ」になるために動くものなのである。
 田島のことばは、この「ひとつ」になる力が強い。
 手術台の上でのこうもり傘とミシンの出会いが現代詩の古典なら--そして、その古典を田島流にとらえ直すなら、田島の場合は「出会う」のあとに「合体」がある。「ひとつるなる」の「なる」がある。動詞が「ひとつ」になる。
 それは別なことばで言いなおすと、もの(手術台、こうもり傘、ミシン)の「出会い」が「瞬間」であるのに対し、動詞が「ひとつになる」は「持続」であると言えるかもしれない。田島は「出会い」の瞬間、そこに「持続--長い時間(線としての時間)」を見る。それを田島は「暮らし」と呼んでいるようだが……。
 で、「出会い」が「瞬間」ではなく、そこから「時間(過去/暮らし)」を覗き見ることだから、「動き」を重ねるということ(動きを肉体で真似るということ/真似ながら何かを吸収するということ)は、「連続した時間(時間の維持)」を見ることである。だからこそ、想像力は「時間」の方へ向かう。
 3連目。

夜のニュースでこの地球上に生息する
最後のゾウガメが死んだことを知った
ガラパゴスという
南の島にいたのだ
地球上でたった一人になったゾウガメ
「ロンサム・ジョー」という名前をもらって
最後までひとりで生きた

 「暮らし」のなかで、人は出会い、人は別れていく。人と出合っても「ひとり」ということはあるかもしれない。そうであるなら「ひとり」であっても、「出会い」はつづいているかもしれない。
 ロンサム・ジョーの場合はどうだったか。
 わからない。わからないけれど、わかる。言い換えると、ロンサム・ジョーが「ひとり」を感じていたとも、逆に常に「ふたり」を感じていたとも、人間は想像できる。そして、その「思い」のなかに自分を重ねていくことができる。
 「思い」が重なった瞬間、そこには「違和感」はない。「違和感」があるかどうかは自分自身で選びとることができる何かなのだ。言い換えると、「何に/どんなふうに」自分を重ねるか(想像力を動かすか)は、その人に任されている。
 田島は、自在に、時間をあやつり、何にでも「違和感」のない状況をつくりだす。「違和感」を取り除いて「肉体」にしてしまう、ということだろう。
 あ、すこし脱線した。(頭の中でことばが勝手に動いてしまった。)

 一度「時間(動詞)」が重なると、何が起きてもそれはつづいていく。

彼はもう
だれにも会えないとわかっていたにちがいない
あれからカメはあらわれなくなった
まっすぐわたしを見たカメの眼が
わたしのなかで消えない

 「わかる」とは「時間(動詞)」がつづいていくということ。つづくというのは「消えない」ということ。「目の前」からではなく、「肉体のなかから」消えない。それは「まっすぐ」につながっている。「肉体の奥底」につながっている。

 ほかの詩を読む場合でも、「まっすぐにつながる」(だから、違和感がないのだが)ということばを適当な場所に補って読むと、田島の「違和感」をときほぐして生きる肉体が見えてくるはずである。

詩集 遠いサバンナ
田島 安江
書肆侃侃房
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