詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

荒木時彦『memories』

2013-05-18 23:59:59 | 詩集
荒木時彦『memories』(書肆山田、2013年05月15日発行)

 荒木時彦『memories』でいちばん気に入ったのは「11」。

きみが出て行ったあと、
僕の中に、さみしい気持ちがあるのに気づくまで、
ずいぶん時間がかかった。

 なぜ、これが気に入ったかというと、ここには不思議な時間がある。「ずいぶん時間がかかった」と荒木自身書いているのだが、その時間は、1時間とか2時間とか、あるいは1日、2日、1週間、2週間、1か月、2か月という時間とは違う。「流通時計(?)」で測れる時間ではない。
 「僕の中に」ある「時間」である。
 2行目の「僕の中に」は直接的には「さみしい気持ちがある」にかかることばだけれど、そこには独特の「時間」が含まれている。その「時間」のことを、私は言っている。
 なんのことか、わかりにくいかもしれない。言いなおそう。

僕の中に、さみしい気持ちがあるのに気づくまで、

 この1行は、「意味」はわかるけれど、かなり奇妙な言い方である。どこが奇妙かというと。ふつうは「僕の中に、さみしい気持ちがある」とは言わない。「僕はさみしい」。あるいは「僕は」は省略して「さみしい」という。つまりこの1行はふつうは、

さみしいと気づくまで、

 と、「意味」はかわらない。(ほんとうは、「意味」はかわるのだけれど、便宜上、かわらない、と書いておく)。「意味」はかわらないけれど、では、どうして荒木はそう書いたのか。あるいは「意味」がかわらないとしたら、何がかわるのか。
 「僕の中に」「ある」と書く、そのことばが「違う」。ことばがあるか、ないか、が違う。
 さらに言いなおすと、「さみしいと気づくまで」と書くよりも、ことばが「僕の中に」と「ある」ということばの量だけ遠回りしている。迂回している。それが違う。そして、ことばがことばの量だけ遠回りをするとき、その遠回りには「時間」がかかる。これは「認識」の問題なので、「時間」といっても計測しにくい「時間」である。長くても、短くてもかまわない。あっても、存在しない「量」である。あっても、存在しないのだけれど、その存在は「意識」できる。
 この「遠回り」は、なんとも刺激的で美しい。より近づくための遠回りなのである。そこにある感情が「さみしい」と気づくためにいったんその気持ちを離れる。そして近づく。そうすると、あ、この気持ちこそ自分が探していた感情なのだとわかる。
 寺山修司風に言うと(ここで寺山修司が急に出てくるのは、私がまだ秋亜綺羅の詩のことば、ことばの運動の影響のなかにいるからである)、それは初恋の少女をより強く抱きしめるために突き放すのに似ている。いったん突き放し、それを抱きしめると、突き放されたものがより深く胸に飛び込んでくる。作用、反作用のような感じ。
 このとき、「さみしい」という感情が、感情ではなく、「作用/反作用」というちょっと科学的(客観的?)なもの、言いなおすと感情ではなく精神、あるいは理性によって洗い清められる。そして、新鮮になる。
 感情(さみしさ)を描くのに、わざと感情ではないもの、理知的、精神的な径路をたどる。遠回りをする。そういう「時間」をくぐることで、世界を立体化するといってもいいかもしれない。
 「さみしい」という露骨な(?)感情表現がそこにあるにもかかわらず、べたべたしない、センチメンタルな感情に溺れているという感じがしないのは、ことばの運動が、そういう径路を通っているからである。「流通時間」ではなく、荒木特有の「時間」をくぐっているからである。

 で、これはいいのだけれど、全部が全部、そうではない。「径路」をたどりきれないものがあって、それは「流通抒情詩」に終わっていて、ちょっとつまらない。
 つまらないものを書いてもしようがないので、もう少し、気に入った断片について触れながら補足する。

 「33」もおもしろかった。一部は「帯び」にもとられているけれど……。

一〇〇〇〇ピースのジグソーパズルは、時間の感覚を麻痺させるのに十分だ。

ピースをはめていく間、僕は集中しているが、他のことを考えている。子供の頃、母親につれられて行った公園のこと、学校で、友達とちょっとしたいたずらをしたこと、今つきあっている恋人のこと。

 「僕は集中しているが、他のことを考えている。」というのは矛盾だが、それが矛盾だから、そこに詩がある。荒木のキーワードがある。矛盾した形でしかいえない真実がある。「肉体」がある。「肉体」はジグソーパズルを完成させるという仕事をしながら、それとは違うことを考える、その思いを同時に同居させることができる。そして、それは同居していた方が「集中」には効果的なのだ。というか……ジグソーパズルの絵と違うことを考えると、そこから思いがけないヒントが甦ってて形と色を結びつける。母親のきていた服の色、公園のブランコの色……余分なもの、迂回路がある方が、ジグソーパズルの仕事を仕上げるには効果的ということもある。いや、そっちのほうが効果的である。
 なぜかはわからない。たぶん、私たちの「肉体」というものは、何かを思い出しながら、何か肉体の奥に生きているものを解放しながら、今向き合っているものを動かしていくのである。絶対に必要なものではない何か、それこそが「いま/ここ」を動かしていくのに必要なものである--と、まあ、荒木が書いていた矛盾の通じる形でした言えない何かなのだけれど。
 似たようなことを告げるのが、「3」

バーガー・ショップでレモネードを飲んでいる時、
壁にかけられたサラ・ムーンの写真が目に入った。

 なぜ「サラ・ムーン」の写真なのか。それが「サラ・ボーン」の写真だったら、それは荒木の目に入ったか。たぶん、入らない。私たちの目は常に開かれ何かを見ているが、それは見ていると思っているだけ。ほんとうはそこに存在しているものを除外しながら、必要なものだけを見ている。サラ・ムーンの写真が目に入ったのは、荒木がサラ・ムーンを知っているからだ。つまり荒木はサラ・ムーンとある「時間」を過ごしたことがある。それを「肉体」がおぼえていて、そのおぼえていることが、「いま/ここ」に甦っている。この2行に詩があるのは、そういう「いま/ここ」にない「時間」が荒木を通って、荒木のことばを通ってあらわれるからだ。
 この「時間」は「過去」ということかもしれない。そして、その「過去の時間」は計測できない。それは「時間」ではなく、「時」だからである。「間(ま)」がない。そういうものが、噴出してくる。「時」が噴出してきて、「時」のまま「永遠」になるが、「永遠」もまた「間」をもたない絶対的に「時」である。

 で、最初に強引にもどると。

きみが出て行ったあと、
僕の中に、さみしい気持ちがあるのに気づくまで、
ずいぶん時間がかかった。

 というのは、いろんな「過去」を思い出し、その「時」の噴出を肉体で感じ、あ、これが「さみしい」だと気づいたということである。「ずいぶん時間がかかった」は「多くの時の噴出に出会った」ということかもしれない。
 そういうものは「僕の中に」ある。私のことばで言いなおせば「肉体」のなかにある。ことばが「肉体」をとおって、肉体がおぼえているものをつかみとると、そこには自然に詩があらわれる。





sketches
荒木時彦
書肆山田
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朝倉宏哉「栗」、白井知子「鬼子母神 ザクロのうた」

2013-05-17 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
朝倉宏哉「栗」、白井知子「鬼子母神 ザクロのうた」(「幻竜」17、2013年03月20日発行)

 朝倉宏哉「栗」は春の栗の花の濃厚なにおいからことばがはじまり、秋の実り、縄文時代からの保存食としての来歴が語られ、

ぼくは
栗の毬から実を弾(はじ)き出し
歯で栗色の皮を削(は)ぎ
さらに胞衣のような渋皮を剥(む)く
いよいよ無垢な本体が現れる
栗は己を護るために
幾重にも武装している

にもかかわらず
栗は放射能に弱いという
福島第一原子力発電所が爆発してから
最もセシウムに侵された果物は
栗だという
栗の実の中身は純白で
人の脳そっくりの襞と形を持っている

その実を食う
噛むほどに
こりこり砕けて
口中に果汁がひろがる
栗の実を生でくうとき
縄文人の繊細で荒ぶる心が甦ってくる

 夏の、まだ青いいがでつつまれた栗なら、渋皮も白く、渋皮を剥く時にも「果汁」のようなものが手を汚すが、熟れてしまった秋の栗の場合、「口中に果汁がひろがる」ということはないだろうが。
 それはまあ、筆が走ったのだろう。
 おもしろいのは、栗の毬から実が出てきて、その外皮を剥き、さらに渋皮を剥き、という人間の動きをていねいに書いて、そのあと栗の実が

人の脳そっくりの襞と形を持っている

 と「脳」にたどりつくこと。この時、私は「脳」が手や歯を動かして栗の皮(渋)を剥くように命令している姿を想像する。「脳」で命令して、「脳」を食べる。そのなかに、栗と人間を超えた「循環」がある。「融合」がある。自分で自分の脳を食べるということは不可能だけれど、その不可能の「幻」がこの瞬間、どこかで成立している。
 栗の実が「脳」になり、「脳」が栗の実になる。その「なる」ということのなかに、何か奇妙な陶酔、恍惚、愉悦--エクスタシーのようなものがある。
 そして、そのエクスタシーは、こういう表現が許されるのかどうかわからないが、「脳」と「原子力発電所」をやはり同じものではないかという「幻」を引き起こす。「脳」がつくりだした巨大な力。「脳」が人間に命じて、原子力発電所を造らせた。そして完成した原子力発電所が「脳」に反逆して、「脳(人間)」を食べている。このとき、原子力発電所が「人間」であり、人間は「栗」なのだ。栗である人間の、美しい「脳」を持っている。原子力発電所の形をそのまま「脳」のなかに持っている。その「脳」を原子力発電所というの野蛮が食いつくそうとしている……。
 ということは書かずに、朝倉は、逆に、栗を食うと、栗を保存食として食ってきた「縄文人」の「繊細で荒ぶる心」に触れると書いている。外皮を剥き、渋皮を剥き、果肉を食べるという肉体の動きがしっかりした連続感のなかでことばにされると、肉体がおぼえていることが強く甦り、その「肉体のことば」の力で、ことばは自ら「飛躍する。」この「飛躍」のなかに、美しい夢がある。美しい「幻」がある。朝倉は「縄文人の繊細で荒ぶる心」と書いているのだが、その「心」は「脳」でもある。原子力発電所という「人工の脳」が人間を食いつくすなら、それに対抗するには、それを生み出した「脳」以前の「脳」、「縄文人の脳」へ帰るべきだと言っているかのようだ。「縄文人の脳」を「肉体」のなかから生み出そうとしているように感じられる。



 白井知子「鬼子母神 ザクロのうた」はインドから始まる鬼子母神神話は、わが子を食べる母親が、どうして鬼子母「神」になり、信仰が生まれたかをザクロと重ねながら書いたものである。

飢えの時代が過ぎても
慟哭の記憶は女たちから去ることはない
時空をまたぎ 女から女へと因果の鎖と化し
臓に沁みいる人肉
狂乱の咎の重圧は 飢えの 死の境界に現存した女たちが
その末裔が追わされたのだ

 原子力発電所の爆発、そのときの「慟哭」を、私たちはどうやって「臓に沁みいる人肉(醜悪な脳の肉体)」として記憶できるか。ことばにして、それを「神話」にまで高めることができるか。
 朝倉の詩、白井の詩をつづけて読むと、そういうことを考えたくなる。考えなければならないのだと知らされる。







詩集 乳粥
朝倉宏哉
コールサック社
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佐々木洋一「箒(ホウキ)」

2013-05-16 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
佐々木洋一「箒(ホウキ)」(「この場所 ici」8、2013年04月20日発行)

 佐々木洋一「箒(ホウキ)」は、どんなふうに感想を書けばいいだろうか。壁に立てかけられた箒を描写している。

くずれかけた白壁に立て掛けられた箒

陽があたり風にふきつけられ雨にしずみひがな一日

くる日もくる日も

蟻が這い上がりヤモリがうろつき木の葉がからみひかげがとまどう

白壁の箒

そうして何年も

いたぶりもしめつけもむしやはくらくも無意味であるかのように

立て掛けられた箒

この世の根なし草のごとく立て掛けられ

あまだれもふうせつも怠惰も引き際も遠く

ゆめにゆめを またゆめを見ることでしか

くずれかけた白壁に立て掛けられた箒

くる日もくる日も

またくる世も

 真ん中あたりにある「いたぶりもしめつけもむしやはくらくも無意味であるかのように」という1行につまずき、また、そこに吸い寄せられていく。漢字、読点まじりに書き直せば「いたぶりも、締めつけも、無視や、剥落も無意味であるかのように」という具合になるのだろうけれど、そこに落ち着くまでにとても時間がかかる。
 「いたぶり、もし、目付も(?)……むしもら(?)、くは雲(黒雲の一種??)」違うなあ。
 「いたぶり、もし、目付も、虫も、楽は苦も」違うなあ。
 「いたぶり、もしも、みつかったら、無、しもらく(下--下半身の楽? 快楽?)は苦にもなる」。だれかをいたぶって快楽を感じるのだけれど、それが見つかったら次には苦しみが待っている? いや、そんなことは、ぜんぜん書いていない。書いていないのだけれど、私は、それを「暗号」と思い、「誤読」する。
 箒って、ごみを掃くものだけれど、それって、ごみいじめ。いじめられたごみを見ながら快感、なんてこともあるかもしれない。あ、こんなことは、もちろん書いていない。だけれど、私はそんなふうに「誤解」したい。
 でも、これって、何か佐々木に悪いことをしてしまうのかなあ……。 
 「無意味な」ことば--脈絡のないことばを往き来して、なんとか「いたぶりも、締めつけも、無視や、剥落も無意味であるかのように」にたどりつくのだが、たどりついたときに、なんといえばいいのか……ここに落ち着く前の、私自身の右往左往が忘れられない。私自身の妄想のよなしごとに、蟻だとかヤモリだとかの、下等な(?)虫の感覚がはいずりまわり、それも、うーん、快感というのはそういうものをじかに知らないとだめなんだよなあ。そうやって、根なし草になって、世の中の批判を(雨垂れをも、風雪をも)しのぎ、しのいだことも忘れて、怠惰になって、引き際もわからなくなって……。あ、また、佐々木が書いていないことを書いてしまっている。申し訳ないなあ。

 でも、なんだろうなあ。そういう、どうでもいいことというか、なんとなく「もの」と「ことば」が「現実(流通言語の定型)」をはなれて、ふわふわして、そのふわふわのなかに自分の欲望(?)というか本能のようなものが形にならないままあるなあ、と思うことがある。
 この変な「ふわふわ」の本能はきっと「くる日もくる日も」繰り返され、この世だけではなく「くる世」もきっと起きるんだろうなあ、と思う。
 書いてないんだけれどねえ。
 でも、知らずに書いてしまう無意識というものもあるだろうし、書いたあとでその書いたことを認めたくなくて、なんとか「意味」を装うこともあるだろうし。

 「人に」という作品も、何か、読みながら、佐々木の書いている「意味」を追うというよりも、そのことばに触れて、私の思いが勝手に暴走するのを感じる。

ああ 寒い 人にあたると凍える

人にあたると北のあかぎれやしもやけが妙に疼く

 この「人にあたる」の「あたる」は衝突する、ぶつかる、という意味かもしれないけれど、私は「暖をとる」(火鉢にありる、炬燵にあたる、のあたる)という感じで受け取ってしまう。人に接し、その温かさが身に沁みたとき、その温かさゆえに、あかぎれやしもやけが逆に目覚める。そういう感じのことってあるなあ。
 佐々木の書いていることは、それとは違うなあと「頭」でわかっていても、「肉体」が逆の読み方を求めている。本能的に求めている。その本能的な読み方のなかでは、「私の肉体」と「ことばの肉体」が、こっそりセックスしている感じなんだけれど。

 私がきょう書いた感想は、たぶん、ほとんどのひとに「でたらめ」と受け止められると思うのだけれど、その「でたらめ」のなかに「ことばの肉体」がある。私の「感覚の意見」は、そう主張している。
 作者が書いている「意味」ではなく、そこに書かれていない「無意味」に官能を感じたとき、私は、あ、これはいい詩だなあ、と思う。そして、そのとき、私は私の本能を隠しながら「意味」を装って感想を書くのがふつうなのだが、今回の佐々木の詩の前では、「意味」を捏造する気になれない。「意味」を捏造できない。
 あ、これって、「意味」を正確に把握できない、たどれない、ということか……。学校のテストだと0点の解答だね。
 でも、しようがないので(?)、「意味」にならないものを、そのまま書いておくことにする。






アンソロジー 佐々木洋一 (現代詩の10人)
佐々木 洋一
土曜美術社出版販売
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當眞嗣人「雪夜」、小笠原茂介「黒衣の朝子」

2013-05-15 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
當眞嗣人「雪夜」、小笠原茂介「黒衣の朝子」(「午前」3、2013年05月05日発行)

 抒情詩とは何か--ということを少し考えてみた。抒情詩のなかでことばはどう動いているのか。どのようなことばの運動に私は抒情を感じるのか。
 當眞嗣人「雪夜」。

夜 雪の降り始めた宵に
机の上の 煤けたランプに火をともし
ひとり静かに 芯の折れた鉛筆を 削りはじめる

色褪せた記憶の片隅に
おまえを描こうとした冬の日が
今も静かに 横たわっている

汚され続けた日々の果てに
言葉まで失ったおまえは 淀みのない瞳で
何かを語ろうとしていた

研ぎ澄まされたこの鉛筆なら
あの悲色の輝きに隠された 深い沈黙を
描き出せるだろうか

夜 雪の降りしきる真夜中に
弱まる焔の傍ら 削り終えた鉛筆を並べて
埃を被った画布に 息を吹きかける

 「ランプに火をともす」というようなことが、「いま」行なわれているとは思えない、「色褪せた記憶」「悲色」は抒情に溺れて過ぎている、「汚され続けた」「淀みのない瞳」の対比は定型化している、「言葉まで失った」けれど「瞳で」「語ろうとしている」というレトリックも安直。
 なのだけれど。
 私は抒情を感じた。どこに抒情があるか、というと、いま書いたことばのなかに抒情があるとは思えない。私が抒情を感じたのは、1連目の「鉛筆」が4連目でもう一度「鉛筆」そのものとして甦ったときだ。繰り返されたときだ。
 「鉛筆」を削るという肉体の運動、それがその「鉛筆」で描くという肉体の運動に変わる。「鉛筆」が反復される間に、肉体のなかで変化が起きる。その変化を、ことばはていねいに追っている。
 かつて同じように鉛筆を削り、鉛筆で「おまえ」を描いた。その「おまえ」は「いま/ここ」にはいない。けれど、「おまえ」を思い出すとき、「おまえ」は「いま/ここ」にあらわれる。ことばで、かつての「おまえ」を描くとき、ことばの「肉体」が「おまえ」になって、あらわれる。その「肉体」を「鉛筆」で描く。
 「鉛筆」を削ることで、詩人の意識はかつての「おまえ」にたどりつき、「鉛筆」をつかうことで「私」にもう一度もどる。そのとき、「おまえ」も「いま/ここ」に戻ってくる。
 その動きが「鉛筆」ということばとともに、動いている。自然な繰り返し、自然な意識の往復がある。そしてそれは意識だけではなく、「肉体」の運動の繰り返しでもある。「肉体」が「おぼえていること」を「肉体」で繰り返す。そうすると「おぼえていること」が「記憶」ではなく「現実」になる。「記憶」とは、そこにないものである。それが「現実」になる。それは精神にとっては一種の錯覚だが、「肉体」はその錯覚を生きる。そういう「まぼろし」のような「肉体」の運動に、私は抒情を感じる。繰り返しのなかで変化する「肉体」、たしかになる「肉体」--そのときの「たしかさ」のようなものに対して私は抒情を感じる。

 小笠原茂介「黒衣の朝子」にも、「肉体」の繰り返しが呼び起こす抒情がある。

黒衣の朝子が門から出て行く
いままで家にいたのか 気づかなかった
ひどくゆっくり歩いているので
まるで浮いているよう
あんなにゆっくりなのは
家から出たくないのか
このまま行ってしまうのか--
あの装い そして寂しげな後ろ姿は
どこか朧な地平への旅立ちのよう
みつめていると
生け垣の端で
わずかに顔を向けた
胸に白い花束を抱えている
だれかの弔問なのか
だれかが亡くなったのか--

 「朝子」とは東日本大震災で亡くなった妻のことだろうか。ある朝、ふいに、その「朝子」が黒衣(喪服)で家を出ていく幻を見る。だれかの弔問は彼女自身への弔問でもあるだろう。
 この詩で、私が立ち止まるのは3行目と5行目の「ゆっくり」ということばの繰り返しだ。最初の「ゆっくり」は単なる描写である。朝子が「ゆっくり」歩いている。それをもう一度「ゆっくり」と繰り返すとき、小笠原は「ゆっくり」ということばのなかにあるものを探している。「意味」を探している。「意味」というより、「ゆっくり」肉体を動くときの「こころ」かもしれない。「ゆっくり」なのは家を出たくない、少しでも家にいたい、離れたくないから、その動きが「ゆっくり(遅く)」なってしまう。「ゆっくり」のなかで「こころ」が生まれ、「こころ」そのものになる。
 ことばを繰り返し、そのことばの動きにそって「こころ」になるとき、その「こころ」は「朝子」のこころであると同時に、小笠原の「こころ」でもある。「心になる」という運動(ことばの肉体の運動)のなかで小笠原は「朝子」と一体になる。「朝子」が家から出て行きたくないとき、小笠原は「朝子」に家からでて行ってほしくない。いつまでも家にいてほしい。
 「ゆっくり」という「ことばの肉体」をいま/ここにある小笠原の「肉体」で繰り返し、そのことを小笠原は確かめる。「ゆっくり」を繰り返すことで、作者自身が「朝子」になる。
 門を出る。振り返る(生け垣の端で顔を向ける)。それは、この家を立ち去っていかなければならない「人間」の「おもい」が肉体に働きかけて、そうさせるのである。「ゆっくり」を「肉体」で共有することで、「悲しみ」が共有される。
 「ゆっくり」立ち去る朝子の悲しみとそれをみつめる小笠原の悲しみが、そのとき、一つになっている。--抒情とは、たぶん、肉体で共有される悲しみのことである。そのとき悲しみは人間の肉体を「分有」するともいえる。
 「肉体」がていねいに描かれると、抒情は、静かで美しい。

 小笠原「草の戸」も美しい。

朝子が草の戸をわずかにあける
---はやく帰ってきてね
---ああ

どんなにはやく帰ってきても
朝子は もう
ここにはいない
草の戸の
内側ともいえない内側は
日も差さないのに
薄緑のひかりを布(し)いている
朝子がいなくても
ひかりは消えない

 「帰宅する」という「肉体」の繰り返し。それを受け止める「肉体」は「薄緑のひかり」。それは何によって繰り返されているのか。不在(非在)の肉体によって繰り返されている。それは「ひかり」であると同時に、朝子の「肉体」の繰り返しなのである。
 「肉体」が存在しないものを繰り返すとき、そこに「肉体」ではないものが「肉体」として結晶する。悲しみが「もの」のようにくっきりと存在する。それが抒情なのだと、小笠原の詩を読むとわかる。






地中海の月
小笠原 茂介
思潮社
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渡辺玄英「星の(光の」

2013-05-14 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
渡辺玄英「星の(光の」(「耳空」10、2013年04月30日発行)

 私はまだ秋亜綺羅の講演と朗読パフォーマンスの余韻のなかにいるので、その気分のまま渡辺玄英「星の(光の」を読み直し、「ことばの肉体」ということについて少し考えた。
 秋亜綺羅は、たとえば

表の裏は裏
裏の裏は表
では、表の表は?

 という具合にことばを動かす。これは「裏」ということばが「反対(側)」という意味を持っていることを利用したものである。つまり、先の3行は

表の反対は裏
裏の反対は表

 までは簡単に言いなおすことができるけれど、次の行になったとき、ちょっと工夫がいる。

では、表の反対ではない方は?

 ぐらいになる。でも、そう書いたとき「裏」を「反対」と言い換えたときのように、もう一度「表」は「反対ではない」といわなければならない。なんだか、ことばがとても不経済。つまり、余分なものが必要になる。だから、まだるっこしくて、うるさい。
 「表」「裏」ということばだけをつかった方が合理的。
 言い換えると、秋亜綺羅のことばの運動は、合理性をめざす「肉体」がある。ことばは動けば、そこに必然的に「論理(意味)」をつくりだしてしまうというとんでもない「悪癖」がある。だけではなく、そういう「合理的(経済的)」を「ことばの肉体の運動」は何か感染力のようなものがあって(資本主義に感染力があるのと同じ)、「運動」そのものをコピーしてしまうということもある。
 そういう「論理」は実際にはないのだけれど、前にみた「ことばの肉体の運動」の「肉体」をまねしてしまうんだね。

表の裏は裏
裏の裏は表
では、表の表は?

 これは「裏の裏は」という運動が成り立つなら「表の表は」という運動も成り立つはずという「錯覚」から生まれるもの。こういう「錯覚」は「肉体の運動」のコピーを装いながら、実は「頭」で行なわれている。秋亜綺羅の場合は、そのことをとても強く意識しているので、なんというか、「頭」ならではの軽さがある。それがいいところでもあり、私がけちをつけたくなる問題点でもあるのだけれど。
 ちょっと別な言い方をしておくと、「肉体」で正三角形と正四角形をはっきり区別できる。その図形の違いは「三」「四」によって「頭」で整理し直すこともできる。その「頭」が暴走すると、半径1センチの円に内接する正一万角形、正九九九九角形というものをも考えることができる。でも、それって「頭」では簡単にできることだけれど、「肉眼」では困難--という問題が起きる。「頭」は「肉体」を裏切って暴走する。暴走しているのに、「頭の方が正しい」と主張してしまうこともある。そしてその主張は「論理」によって説明できるから、うーん、反論がむずかしいというややこしいことを引き起こす。
 このあたりの「錯覚」「攪乱」を秋亜綺羅は本能的に処理してしまうのだけれど……。
 あ、なかなか渡辺玄英の詩に入っていけないなあ。まあ、だいたいの前置きということにしておいて。

見える螢(の向こうに螢はいない
いない螢がセカイをゆるゆると飛んで
小さな光の通信がセカイにつながっていくなんて
ムゲンにつながっていくなんて
ムゲンの孤独とかわりはしない

 ここで起きている「ことばの肉体の運動」のコピーの問題。渡辺はどれくらい意識しているのかなあ。
 この5行は一種の「しり取り」のように、前の行のことばを次の行で反復しながらズレていく。それは「螢」「いない」「セカイ」「つながる」「ムゲン」という形で指摘することができるけれど、問題は。
 1行目と2行目。「螢」でつながっているように見えるけれど、ほんとうは「螢」ではない。「螢」もあるけれど、もうひとつ、ある。「螢はいない」の「いない」が象徴的だけれど、実は「飛ぶ」という「動詞」が省略されて、それがコピーを誘っている。つまり、問題の2行を言い換えると、

見える螢が飛んで(の向こうに螢はいない
いない螢がセカイをゆるゆると飛んで

 なのである。「螢は飛ぶ」という文をつくってしまう「ことばの肉体」、その「運動」のコピーして、「いない螢」が「飛ぶ」。
 「いない螢」というものなど、それは「いない」のだから何もできないはずなのに、「飛ぶ」という動詞を(書かれなかった動詞を)コピーした瞬間に、それは「飛ぶ」という運動のなかで「出現」してしまう。「螢は飛ぶ」という流通言語が無意識に採用され、「頭」のなかを動く。それは半径一センチの円に内接する正一万角形と正九九九九角形の違いのように「頭」のなかにあらわれてしまう。
 だから、それから先は、どんなにことばが動いても「頭」のセカイなのだ。「世界」ではないのだ。渡辺は世界の(現実の?)表層を滑走する(滑空する?)という具合に言われることがあるけれど(聞いたような気がするけれど)、そうではなくて、「頭」のなかを失踪しているのであって、そこには「世界」は存在しない。(だから「セカイ」と書くのだ、と渡辺は言うかもしれないが。)しかも、そのとき「セカイ」は実は「螢は飛ぶ」という「流通言語」を出発点にしている。
 そして、このとき一番問題になるのは、--まあ、これは私の「感覚の意見」だけれど、最初の行に「飛ぶ」という動詞が書かれなかったこと。渡辺にしてみれば「流通言語」だから書かなかった(詩ではないから書かなかった)のだろうけれど、書かなくても、それは存在しているということ。
 これを書いていくと、ちょっと渡辺の作品の完全否定になってしまうので、違う角度から問題点を書いておく。
 私はよくキーワードとは、どうしても書かないことには文章がつながらなくなって書いてしまうことばであると定義する。作者にとっては、キーワードは無意識に絡みついているので、ついつい省略してしまう。書かなくても「意味」は通じると思って--というより、ことばを動かしているとき常にキーワードはいっしょに動いているので書き漏らしているとは意識できないものだと思っている。
 この詩では「飛ぶ」がそれにあたるのだが、渡辺のこの詩の場合、問題は、その「飛ぶ」が何らかの「意味」を背負っているというのではなく(それがふつうのひとの場合のキーワードと違う。というのも、「螢は飛ぶ」は流通言語であって、渡辺にとって不可欠な詩ではないからね)、単に「動詞」であるということ。「意味」があるとすれば「動詞であること」という「意味」であること。
 ややこしくなったが。
 「動詞」を省略し、それを省略したという意識もないまま、「いない」ということばで隠し、次の行につなげ、知らん顔をして「飛んで」を復活させる。でも、その「飛ぶ」という動詞は「半分」欠落しているので、もう「肉体」にはもどれない。
 「ことばの肉体」と「にんげんの肉体」のつなぎめが、そこで完全に遮断される。「肉体」をほっぽりだして「頭」にセカイが限定される。この「頭のセカイ」はとてつもなくいいかげんである。肉体を世界の対象としていないので、なんでも可能である。
 これから先は、まあ、好みの問題といえばそうなのだけれど。なんでも可能であることほどすばらしいことはない、というひともいるだろう。私はなんでも可能ではなく、肉体で可能なことをしたい。肉体に「可能」を覚えさせたい。肉体で「可能」をつかいたい。
 私は「頭」とはセックスできない。やっぱり「肉体」とセックスしたい。で、どうしても否定的なことを書いてしまう。

(螢の滅亡は種の歴史のなかでくり返されてきた

 違うでしょう。螢の滅亡を渡辺が「頭」のなかで「くり返してきた」だけでしょう。繰り返してきたから、「いない螢」は繰り返しのなかで増殖し、正三角形が九九九九角形に増殖し、さらに一万角形に増殖するように、「頭」なのかだけで「識別」できる形で、無数にまで増殖し、

ムスーの光はどこへ向かうのか
たどりついてもそこに螢はいないだろう

 ではなく、螢のいないセカイでないと、「ムスー」との対比が生きてこないから「いない」ことにするだけじゃないのかな? そんな対比なんて、「頭」のなかだけに存在することであって「いま/ここ」とは関係ないなあ。
 ひとの「頭のなか」で起きているにすぎない「識別」なんて、九九九九角形と一万角形の違いと、どれほどの違いがあるだろう。

猫の吐息のような蛇のゆれる舌先のような
螢の光のきえていく間際のような墜ちて行く飛行機のような
希望がないからここにゆれている
ゆれているものすらみえないだろうけど
(意味では救われない

 何だって「意味」では救われない。「意味」なんて、「頭」でつくられるもの。「意味」が救うことができるのは「頭」だけ。
 「肉体」はどんなにがんばっても「無意味」。「無意味」であるから、それが救い。「無意味」だから、そこにあるだけで充分。「意味」を拒絶して--つまり、「意味」を超越して存在するのが「肉体」なのだ。それが肉体の特権なのだ。--あ、秋亜綺羅と肉体の特権について話してみるべきだったなあ。40年後、まだ生きていて再会できるかな? そのとき、この問題を思い出せるかな?
 この人間の「無意味としての肉体」と「ことばの肉体」はどこで融合できるか。どこで出会えるか。出会うために、ことばをどんな具合に破壊していけばいいのか。
 --これは、書いてみただけの、無責任な課題。どこから近づいて行っていいのか、見当がつかなくて、私は困っている。


破れた世界と啼くカナリア
渡辺 玄英
思潮社
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秋亜綺羅「一+一は!」(朝日新聞、2013年05月14日夕刊)

2013-05-14 18:37:44 | 詩(雑誌・同人誌)
秋亜綺羅「一+一は!」(朝日新聞、2013年05月14日夕刊)

 秋亜綺羅「一+一は!」という詩。タイトルを読むと、すぐ「2」という答えが思い浮かぶ。でも、そうなのかな? だいたい「1」って、何?

空気が踊ると風を感じるよね
空気が眠れば気配を感じる
気配はもうひとりのぼくだとおもう
一緒に歌って笑ってた、きみのこと

 この1連目。話者の「わたし(と呼んでおく)」がいる。「僕」でもいいけれど、3行目に「もうひとりのぼく」ということばが出てくるので、ちょっと区別しやすくするために、「わたし」。
 で、書かれていない「わたし」と「ぼく(もうひとりのぼく)」以外に、4行目に「きみ」が出てくる。その「きみ」は、意味としては「ぼく」と同一人物である。「一緒に歌って笑ってた、きみ」が「ぼく(もうひとりのぼく)」。
 あれって、思うでしょ。「わたし」はどこ?
 「わたし」のなかに「ぼく」と「きみ」がいて、「きみ」と呼んでいるのは、「わたし」、それとも「ぼく」のどっち?
 これは厳密に考えると面倒くさい。

 ちょっとタイトルに戻る。
 「わたし(1)」+「ぼく(もうひとりのぼく)(1)」は? 2じゃなくて、「1」のままだね。どれだけ「ぼく」が増えていこうと、「わたし」は増えない。「ぼく」が「きみ」と名づけられ、
 「わたし(1)」+「きみ(1)」になっても、そこにいるのは「わたし」という1.
 「ぼく(1)」+「きみ(1)」も1.そこには「わたし」という1がいるだけなのだけれど、なぜか、「ぼく(1)」+「きみ(1)」という算数が表に出てきて、「ほんとう」を隠してしまう。
 いや、逆かな?
 というより、算数の式は、別な形じゃないかな?

 「わたし(1)」÷2=「わたし(1)」+「ぼく(もうひとりのぼく)(1)」
 つまり、1÷2=1+1、
 あれ、変。
 これを正しい算数に戻すには、
 1/2+1/2=1
 でも、「わたし」をどんなに割ってみても「2分の1のわたし」にはならなからね。そして、どんなに分裂した「もうひとり」を足しての「わたし(1)」以上にはならない。
 あ、何を書いてるんだろうね、私は。

 じゃあ、このとき何が起きているのか。面倒くさいので、視点を転換する。
 何かが起きたとき、そこでは「もの」がかわる。「空気が踊る」と「空気が風」にかわる。新しい何かが生まれる。けれど、それは「空気」にかわりはない。
 じゃあ、かわったのは?
 「認識」。
 認識のなかで、さまざまなものが変わる。感情もね。そしてそれは、分裂しながら、貧弱になるのではなく、豊かになる。
 何かが起きるたびに、私たちは、衝撃を受けて「分裂」する。その「分裂」を次々にあつめながら、私たちは「ひとり」のまま、認識と感情を豊かにする。

 「もうひとりのぼく」の「もうひとり」を区別するのは、この「豊かさ」につながる何かなのだ。
 だから、と、私は飛躍する。
 1(わたし)+1(もうひとりのぼく)=無限大。
 なぜなら、1(もうひとりのぼく)とは1(きみ)を含むのだから。
 1(わたし)+1(もうひとりのぼく)=1(わたし)+1(もうひとりのぼく)+1(きみ)
なのだから。
 で、このときに、というか秋亜綺羅のキーワードというのが「もうひとりのぼく」の「もうひとり」、さらに言い換えると「もう」なのである。「もう」は追加。追加を誘い出すことばだね。追加されるのは「新しい認識」「新しい感覚」「新しい感情」。
 と言う具合にことばを進めてわかることは。
 秋亜綺羅の詩はあらゆるところに「仕掛け」があるのだけれど、その「仕掛け」というのは「新しい何か」を追加するためのもの。そこで始まるのは、ただ「新しい何か」、「1」を深める何か。
 で、その「新しい何か」は必ずしも「整合性」を求められてはいない。
 「わたし」が感じることと、「ぼく」が感じること、「もうひとりのぼく」が感じること、「きみ」が感じることは「矛盾」していたって、ぜんぜんかまわない。
 この詩でも、ほら、

涙がとまらなければ
金魚と友だちになろうよ
金魚は悲しくても
涙を流すことができない

ガラスの部屋でうずくまるきみは
壊れたこころを癒し終わって
ガラスを壊すときが来るだろう
だいじょうぶ、こわいけれど
ぼくはいつも一緒だから

 泣いている「きみ」、怖がっている「きみ」を、「ぼく」が励ましている。おなじ「わたし」であるはずの「ぼく」と「きみ」は違う感情を生きている。
 だからこそ、詩はつづく。

ひらめきと、ときめきさえあれば
生きていけるさ

だけどあるときは、ぜんぶ裸になって
あるときは派手なコスプレをして
みんなの前に現れる
そんな勇気がいるかもしれないね

これからぼくたちが向かうだろう
水平線だって波立っている
この場所と時間だけがいまのぼくたち
ふたりで写真を撮ろうか

 「ぼくたち」は「ふたり」実感し、「ふたり」を受け入れるとき、いままでの「わたし」を超えて、新しい人間になる。
 1(ぼく)+1(きみ)=新しいわたし=無限大

 秋の詩はいつでも、信じられない明るさに満ちている。





透明海岸から鳥の島まで
秋 亜綺羅
思潮社
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野村喜和夫+北川健次『渦巻きカフェあるいは地獄の一時間

2013-05-13 23:59:59 | 詩集
野村喜和夫+北川健次『渦巻きカフェあるいは地獄の一時間(渦巻きカフェあるいはA・Rの正しい狂気)』(思潮社、2013年05月01日発行)

 野村喜和夫+北川健次『渦巻きカフェあるいは地獄の一時間』をこのブログで取り上げるのはかなり無理がある。野村喜和夫の詩と北川健次の銅版画(?)が一体となっている。野村の詩は引用できるが北川の作品は引用できない。本のタイトルがいささか複雑だけれど、縦組み活字の『地獄の一時間』、横組み活字の『正しい正気』が右綴じ、左綴じの形で、中央でぶつかっている。
 私は北川の作品の実物を見ていないので北川の作品については何もいえない。写真ではどうも落ち着かない。その作品が展示されている「空間(空気)」が見えてこないので不安になる。その作品がある場まで出かけていくということを含めて「絵画体験」という気がする。そういう気持ちがあるせいか、どうしても「肉体」は野村の詩にひきずられる。それも、写真のない、見開き活字のページのことばに反応する。

 「5WEST」という「正しい狂気」のなかの作品。

道すがら
ダンフェール ロシュロー(Danfer Rochereau)
という名の広場を過ぎる
仰げば首だ
男根のような首
から下は
(石)
(石)の混沌
よくみるとそこから
二体三体
男か女か
ししむらがあらわれつつある
ダンフェール ロシュロー(Danfer Rochereau)から
地獄(enfer )が
岩(roshe )が
あらわれ出ようとするように

きりもなく
ししむらは湧出せよ
躍動せよ

 私はカタカナ難読症(カタカナが読めない、読んだつもりでも読み間違える)なので、ダンフフェール ロシュローにはつまずくのだが、(Danfer Rochereau)と書き直されているので、音が聞こえてきた。お、きれいな音だなあ。(フランス語はわからないのだけれど……フランス語で、あってる?)
 この音のあとで、

ダンフェール ロシュロー(Danfer Rochereau)から
地獄(enfer )が
岩(roshe )が
あらわれ出ようとするように

 ここで、私はまたつまずくのだけれど、うーん、どうして

enfer (地獄)が
roshe (岩)が

 という具合に、音が先にこないのかな、と一瞬つまずくのだけれど、まあ、いいか、とも思う。
 で、この「まあ、いいか」をふりかえってみると、どうもそこに「絵(写真? 版画?)」を見てきた「目」の影響がある。目から入ってくる情報が、私を混乱させている。絵と活字では絵の方が面積が大きい。アイキャッチする力が強い。知らず知らずに、まず「目」でことばを読んでいるので、まあ、いいか、と思うのである。
 耳でことばを追っているかぎり、「アンフェール」「ロシュ」が先にこないと、ダンフェール ロシュローと重なり合わないでしょ? 「ダンフェール ロシュロー」のなかには、「地獄」という音も「岩」という音もないでしょ? ない音が、そこから出でくるというのは無理でしょ?
 こういうことが起きるのは、「地獄の一時間」で北川の銅版画にことばを向き合わせるという仕事をしてきたことの影響がある。野村の肉体の中に、音ではなく、「絵(視覚)」の影響があらわれている--「絵」のなかにも「音」がある、という感覚が影響しているのだと思う。そして、それはふつうに見えてしまう「音」とは違っている。風にそよぐ木々の絵を見て風の音、葉擦れの音を聞くというときの「音」ではなく、もっと別な音。そういう体験があって、ダンフェール ロシュローから「地獄」「岩」という「文字(表意)」が「enfer 」「roshe 」をひっぱりだしたという感じがする。
 そういう感じがするから、まあ、いいか、になる。
 (野村の肉体に起きたことが、ほんとうに私の想像通りであるかどうかは別にして、私は野村の「肉体」をそんなふうに「誤読」するのである。)
 と、書いたところから後戻りするのは、ちょっと反則(?)かもしれないけれど、音(聴覚)と見えるもの(視覚)のすれ違いというか、刺し違いのようなことは、

ダンフェール ロシュロー(Danfer Rochereau)
という名の広場を過ぎる
仰げば首だ
男根のような首
から下は
(石)
(石)の混沌

 にも感じる。音のなめらかさのあとに「石」「石」という文字を読むと、なぜか、つるつるに磨かれた石畳が見えてくる。石畳の広場。その石は長い年月によって、ではなく、その石にふれた人間の重み、摩擦によってつるつるになっている。「石」ではあるけれど、それは人間の肌のようになっている。(ヨーロッパの石畳を見ると、人間の肌を思い出しません? 何か、手で触りたい、という欲望を感じない? --あ、これは、私の「感覚の意見」。)
 で、それが人間の肌なら、そこから男女の「ししむら」がそのまま出てくる。そして男女の「ししむら」がうごめけば、それは愉悦という名の「地獄」だね。

 きちんと整理できないのだけれど、何か、本来「音」の揺れから始まる「音楽」としての詩に、視覚が割り込んできている。「音楽」に「絵」が影響している、「音楽」を突き破るものとして「絵」がある、という感じが非常に強いのである。それも、絵のないページの活字のつながりを目で追うときに、そう感じるのである。

 あるいは、逆のことも。(あるいは? うーん、あるいはでいいかどうか……書きながらふいに疑問になったのだが。)
 「地獄の一時間」の次の詩。これは先に引用した詩とは違って、北川の作品が先にあり、あとから野村がことばを向き合わせたもの。

考えよ
と渦巻きはいう
まるい眩暈
をペンチで締め上げるように
そこにやすらうことも
それをいつくしむこともできない高所について
あるいは水銀かくれんぼ
するたくさんの線維パペ筋
アレッペ絡み合い
外では陽射しが深々とあたたかい
だろうに

 なんのことかわからないね。わからないけれど、「線維パペ筋」「アレッペ」という音が、何らかの「絵」から生まれてきたのだということを直感させる。その絵が見たい--という欲望を引き起こす。でも、前のページをめくり絵をさがすが……。目隠しをされた男が踊っている。(ズボンの裾の処理が、今風のジーンズの穿き方に似ている。しわしわにたるませている。)その写真の上に幾何学的な線が描かれている。この絵の、どれが「線維パペ筋」「アレッペ」なのか。見ると、わからなかったことが、ますますわからなくなる。言い換えると、「線維パペ筋」「アレッペ」にふさわしい絵よ、出てこい。野村の肉体を突き破って出てこい、という感じ。あるいは、野村の肉眼よ、現実の表層を引き剥がして、その音が出てくるまで視線のドリルをペニスのように突き刺せ、という感じ。

 どの詩がいい、どの版画がいい--というよりも、お、こういうコラボレーションの現場に立ち会ってみたいなあ、という気持ちを引き起こす詩集(版画集)である。それが生まれてくる現場そのものに詩があるんだろうなあ。




萩原朔太郎 (中公選書)
野村 喜和夫
中央公論新社
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粒来哲蔵「五月雨桔梗(さみだれききょう)」と北川透「虚人日誌 六片」

2013-05-12 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
粒来哲蔵「五月雨桔梗(さみだれききょう)」と北川透「虚人日誌 六片」

 粒来哲蔵「五月雨桔梗(さみだれききょう)」(「二人」302 、2013年05月05日発行)と北川透「虚人日誌 六片」(「耳空」10、2013年04月30日発行)をつづけて読んで、ことばの違いに引きつけられた。--ことばのあり方、読ませ方がぜんぜん違う。ともに「散文詩」のスタイルをとっているのだが。

 粒来哲蔵「五月雨桔梗」の前半。(ルビは省略)

 花が風になびいてうつ向き顔で揺れていた。少年は花のおののきの
なかで、まるで花しぶきを浴びたように立ちつくした。ふと、手はそ
れら紫の花の一本に触れた。少年は花はそのままに、指先で莟をはさ
んでそっと潰してみた。莟は崩れ、崩れ際にふっというかるい破裂音
を残した。少年は莟の先から漂う淡い香りにうたれ、莟の手触りがい
つか母が与えてくれた天竺鼠の赤子の肌の感触に似ている--と思わ
れた。少年はまだ香りの残る指先をみつめていたが、その様はすぐに
母に見咎められた。

 花に触れる。指につたわる感触に誘われて小さな暴力をふるう。軽い音。淡い香り。手触りが花から離れて天竺鼠の赤ん坊の肌の感触を思い起こさせる。--と読み進むと、どうしたって、その鼠の赤ん坊を指でひねりつぶすという暴力とその快感を想像してしまう。触覚が聴覚、嗅覚を刺戟し、凶暴な何かを触覚に要求し、それを主人公を監視する視点がとがめる。そこに未完の何かが残る。だからこの先もことばは動いていく。
 そこにある未完のストーリーは、何かしら「肉体」を刺戟する。「肉体」のなかに眠る記憶を呼び覚ます。同時に、そういう記憶の暴走に身を任せることを何かが抑制している--そういう力も肉体といっしょにあるというようなことを思い起こさせる。
 「肉体」のなかから何かが揺り起こされ、それが目覚めて「物語」をつくっていく、という感じ。こういう感じは、ひとが自分の肉体をのぞきこんだとき、たぶん、だれでも感じることだろう。それを粒来は、ていねいに「物語」として完成させる。それは「物語」をつくることで、自分の「肉体」のなかにある本能を守るというふうにも読むことができる。本能をことばの力を借りて「物語」にしてしまう。そうすることで本能が肉体のなかで歪んでしまうのを防ぐことができる。本能を、ことばをかりて「肉体」の外に解放している、というふうにも読むことができる。その解放の力を借りて、読者は、やはり自分の「肉体」のなかの本能をときほぐすのである。ことばのなかで本能の冒険を味わうのである。
 このとき花(五月雨桔梗)と天竺鼠の赤子は、五月雨桔梗であり鼠の赤子の肌そのものであり(流通言語どおりであり)、「もの」自体は変化しない。動くのは、その「もの(存在)」に接することで刺激を受けた「肉体」である。「肉体」のなかから本能が「物語」の形をして動いていく。このとき、本能の側には、何かしら「もの(五月雨桔梗、天竺鼠)」に対する「信頼感」のようなものがある。「もの」はかわらない。かわらない「もの」があるから、肉体(本能)は「物語」の時間を旅することができる……。

 これに対して北川の「もの」はずいぶん違う。
 北川透「虚人日誌」の「一月二十日(日・旧暦十二月九日)の部分。(第一片)

今朝はひどく衰弱している。鉛筆一本の中身は空っぽ。なぜ、わた
しの噴水は赤茶けた顔をしているのか。鴉の子が結婚を申し込んだ
という噂を聞いて以来のこと。それで空から垂れている縄梯子が、
頭痛を訴えているのかもしれない。大寒になり、噴水が凍りつき、
眠れなかったせいもある。それとも、人質が福袋の中で殺されたか
らか。噴水が惚れてた女は、生涯に一度、前田バス停脇の赤レンガ
だった。彼女はいつも野良猫に脛を齧られていたが、このほど政権
が代わり、片付けられてしまった。こんな風では、薔薇のテーブル
クロスの上で、蛙飛びしている尼さんに、お帰りを願わなくちゃ。

 「名詞」が名詞ではない。--というのはあいまいな言い方か。粒来の五月雨桔梗、天竺鼠は「流通言語」でも五月雨桔梗であり天竺鼠だろう。そこには粒来独特の思い入れがあるにしろ、それはうっすらとした気配であって、それがうっすらしているからこそ、それを濃密にしながら「物語(本能)」が動くのだが。濃密にする方向へ「物語(本能)」が動き、同時にそれが「肉体」の行く末になるのだが。その粒来の「名詞」に比べると、北川の書いている「名詞」は何?
 「鉛筆」は鉛筆? 「噴水」は噴水? 「鴉」はカラス?
 こういう疑問がすぐに浮かぶのは、その「名詞」(主語?)のまわりにあることば、動詞が、「流通言語」の文脈と合わないからだ。述語として奇妙だからだ。
 「鉛筆の中身が空っぽ」はわからないではない(ほんとうかな?) でも「噴水は赤茶けた顔をしている」は? だいたい噴水に顔がある? 「鴉の子が結婚を申し込んだ」って、「鴉」はだれかの暗喩? 「縄梯子が頭痛を訴える」って、縄梯子に「頭」があるの? 縄梯子に何かを訴えられたこと、ある?
 とても変だねえ。変だけれど、そのことばを読みはじめると、なぜか、変、というよりも、これから先どうなるの?という思いに突き動かされ、どんどん読み進んでしまう。
 で、このとき。
 私は「名詞」にかき回されながらも、「動詞」を知らず知らずに追っている。「赤茶けた顔をしている」「結婚を申し込む」「頭痛を訴える」--それは「名詞」を取り除くと、全部、「肉体」にはわかることである。「肉体」がしたこと、覚えていることである。
 私は鉛筆であったり、噴水であったり、縄梯子であったりしたことはない。けれど「中身は空っぽ」と肉体で感じたことがある。赤茶けた顔をしたこともある。結婚を申し込んだこともある。結婚でなくてもいいが、何かを申し込んだことがある。そのとき「肉体」のなかで動いていたもの、ことばにならない何かが、動いていたことをなんとなく思い出す。
 「動詞」のなかに「肉体」が分有され、その分有された「肉体」が動いて行って、何かを統合しようとしている。そして、「肉体」が動詞を追いかけるとき、そこには「間違い」というものがない。「肉体」の動ける範囲はきまっているからね。で、「肉体」は「動詞」を追いかけながら(追いかけることで、北川の「肉体」と重なりながら)、あ、ここに書かれている「名詞」はたまたま北川が見ている「現実」にすぎないと思うようになる。
 北川が見ている現実にすぎない--というのは乱暴な言い方で、言いなおすと。
 どんな「もの」にも「過去」がある。「もの」は「過去」を与えられることで「もの」として「いま/ここ」にあらわれる。その「過去」は説明されないかぎり、わからない。「前田バス停」なんて、北川の住んでいる近くにあるバス停なのだろうが、それは北川が近くに住んでいるという「過去」とともにある。
 そういう「過去」は、読者は追いかけられない。けれども、その周囲にある「惚れてた女は、生涯に一人」の「惚れる」という「動詞」はだれでも自分の「過去」をせおって追いかけることができる。
 さらに言いなおすと、読者は(私は)、それぞれの「過去」を背負って北川の書く動詞を「肉体」で追いかけ、そのときに何事かを感じる。その感じたことを絶対に追いかけられない「名詞」が拒絶するように攪拌する。
 そのとき、「物語」は動詞の中にあるはずなのに、それが統一されるというよりも、爆発してしまう。何かが爆発して、肉体に刺戟を与える。
 それが、
 詩。
 北川の詩。

 粒来のことばでは、こういうことが起きない。肉体の動き、感覚の変化(知覚の移動)を追いながら肉体が動く。粒来の詩を読むときでも、やはり私は私の「肉体」を粒来のことばに分有する。そうすることで粒来の「肉体」を共有する。粒来の「ことばの肉体」とセックスをする。そうすると、粒来の詩の場合は、私の「肉体」のなかで何かが結晶する。何かが、あ、これか、という「核心」につきあたる感じがする。「結晶」に重点を置くと「妊娠」。「核心」につきあたる、突入するということに重点を置くと「射精」という感じ。どちらもセックス。そしてこのときのセックスは肉体のなかにある「感覚」である。「感覚」が覚えていることであり、北川の詩のような筋肉(?)の運動ではない。
 北川の詩の場合は、結晶もしないし、核心にもぶつからない。でも、やはりセックス。北川の詩の場合は、その瞬間瞬間の、消尽。感覚が結晶する、感覚の核心に突入し内部からつかみ取るのではなく、ここは感じる? これは、どう? とひたすら欲望がどれだけ本能を使い果たせるかたしかめる感じ。炸裂、暴発--というと、まあ、「射精」だね。でも、それだと「男」限定の感覚になってしまうかもしれないので、エクスタシーと言っておこうか。どんな体位でも試せるだけ試して、自分が自分でなくなる感じ。そこには感覚がない。感覚をぶっこわして、飛んでしまう。
 粒来の詩だって自分が自分でなくなるのだけれど、そのなくなり方は一方でほんとうの自分につきあたる感じがどうしてもする。でも北川の場合はほんとうの自分を失ってしまう。見失って、これがほんとうに自分?というばかげた喜び。自分が自分じゃなくなるのに、そのなくなるときまで、「肉体」は自分の「おぼえていること」をひたすら使っている。使い果たそうとしている。使い果たしてしまう、歓喜。

蛾を吐く―詩集
粒来哲蔵
花神社





海の古文書
北川 透
思潮社
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秋亜綺羅「詩ってなんだろう」

2013-05-11 22:44:48 | 詩(雑誌・同人誌)




賞状を受け取る秋亜綺羅

装丁について説明する秋亜綺羅



秋亜綺羅「詩ってなんだろう」(丸山豊記念現代詩賞受賞記念講演、2013年05月11日、石橋文化会館)

 秋亜綺羅の丸山豊賞授賞式に行ってきた。「あいさつ」「朗読」「講演」と3回秋亜綺羅の声を聞く機会があったが、最初の「あいさつ」でびっくりした。訛っている。正しい表現かどうかわからないが、東北訛り、を感じた。私が秋亜綺羅の声を聞くのは40年ぶり、学生時代以来なので、正確な記憶にもとづいているとはいえないかもしれないが、秋亜綺羅は学生時代訛っていなかった。あれっ、これは演技? それとも仙台に帰って40年、その年月の間に訛りはじめた?
 うーん。
 さて、「講演」。
 講演をはじめる前に(?)、受賞した詩集の宣伝をした。宣伝といっても、装丁の説明である。カバーをはがすと、表紙にはカバーのイラストが写真であらわれる。裏のカバーをはずすと裏表紙には写真のイラスト。写真(実物)とイラスト(偽物?)が錯綜する。さらに本の中表紙というのか、扉の説明。黒い海の上に青い空。この空は実は黒を重ねたもの。黒いインクに黒を重ねるとさらに黒くなるのではなくて青が浮かびあがる。さらにタイトルが記された部分は白い紙に(青っぽい灰色)紙に黒で印刷してあるのではなく、実は黒い紙に白を二回塗り重ねている……。
 これって、何? 装丁に、こんなに工夫をしている--というよりも、実は装丁にはこういう仕掛けがある、という説明だね。そして、秋亜綺羅にとっては、「仕掛け」、あるいは「仕掛けの存在」を認識することこそが、たぶん詩の入り口なのだ。だから、まず、そういう「仕掛け」のわかりやすい部分を取り上げたということだろう。
 何気なく語りはじめたようで、実は、きちんと練られた作戦のようだ。

 いくつかのことを話したのだが、ちょっと順序が話した通りではないかもしれない。印象に残ったのは、秋亜綺羅が仙台で若い人の詩に与える賞の選考をしているということ。そして、そのときの受賞者が過去2回、高校の文芸部の生徒の作品ではなく演劇部の生徒のものだったということ。そこにも「仕掛け」が見え隠れしている。
 なぜ演劇部の生徒のことばがおもしろいかということに対して、秋亜綺羅は演劇部の生徒の方が演技をとおして「自分ではなくなる」ということをやっていて、それがつかうことばに刺戟的な形であらわれている。文芸部の生徒の作品は、「ほんとうの自分(嘘のない自分)」を追求していて、そこには明確な違いがあったという。「自分ではなくなる」という具体的な例として、最初の受賞者は、授賞式のとき、受賞した作品を朗読するのではなく、ほんもののナイフを振りかざして、恋敵を殺し、料理し、恋人に食べさせるという詩を朗読した、とも語った。その詩に書かれているのは「ほんものの自分」ではなく、ことばをとおして生まれた「新しい自分」。
 あ、これって詩の評価そのものなのかなあ。秋亜綺羅が、詩を、演劇に近いものでとらえようとしていることの「反映」じゃない? 「仕掛け」を詩ととらえようとしているから、それが秋亜綺羅にはおもしろく見えるのでは? 演劇部の生徒の書いた詩はたしかにおもしろいのだろうが、そのおもしろさを取り上げ評価する視点が秋亜綺羅の側に強いために、そういうことが起きているのでは? 「仕掛け」好みを高校生が見透かしているのでは? 自分のほんとうに書きたいことではなくても、審査員が好んでくれるならそれにあわせる、ということくらい高校生はするものである、と書いてしまうと意地悪すぎる見方になるけれど、ちょっと、そう思った。
 脱線した。
 高校生が実際に恋敵を殺して料理し、恋人に食べさせるということをしたわけではない。けれど、そういう「仕組み(芝居)」のなかで自分の気持ちを発見し、動かした。そこにはいままでいなかった「人間」が誕生してきている。それがおもしろい--と秋亜綺羅は言う。
 そこからわかることは。
 秋亜綺羅にとっては「仕掛け」とは何かを誕生させる装置なのである。そして、その「何か」とは新しい自分、いままで世界に存在しなかった人間のことである。
 秋亜綺羅は、新しい人間になってみようよ、と若い人たちを励ましているのである。ことばは道具--ではなく「仕掛け」、いや、「仕掛け」をつくるとことばは詩になる、ということかな?

 ことばと詩について。
 ふつうは、ことばを道具と考える。何かを伝えるための道具。詩を書くための道具。
 でも、たとえば母親と新生児。その二人がいる世界に、ことばはない。少なくとも赤ん坊は話せない。(このことについては、私は疑問をもっているが、まあ、省略)そこにことばはないけれど、詩、はある--と秋亜綺羅は言う。
 美しい夕焼けに感動している自分。そのとき夕焼けと私の間には、やはりことばはない。それでも、そこには詩はある。詩は、ことばがなくても存在する--と秋亜綺羅は言う。
 詩は、ことばのないところに存在する、と言い換えた方がいいかもしれない。--これは、私の「誤読」。秋亜綺羅が言ったのは、ことばがなくても詩はある、だった。
 で、そこにことばがないのだとしたら、それを詩にするためには、どうするか。秋亜綺羅は、唐突に、自分が夕焼けになるしかない、という。
 ほう。
 でも、どうやって夕焼けになる? そのことを秋亜綺羅は言わなかったなあ。
 言わなかったのだけれど、これはちょっとおもしろい。
 秋亜綺羅は、いつでも「自分でなくなる」ときに詩を感じている。自分が自分ではなく、夕焼けになれば、それが詩。これはロマンチックな例だけれど、先に紹介した高校生はナイフを振りかざして恋敵を殺し料理し、恋人に食べさせる--そういうことをことばにするとき、その高校生は、いま/ここにいる高校生ではない。「自分ではなくなっている」。それを見て、秋亜綺羅は、それがいい、というのである。それが詩であるというのである。

 「自分ではなくなる」--そういう人間を見ると、秋亜綺羅は興奮する。自分もそうなりたいということだろう。
 とてもわかりやすい。
 あ、そのとおりだなあ、と思う。自分が自分でなくなってしまう、そのとき、たしかにそこに詩は存在すると私も思う。

 めざすもの(結論)は同じ……。

 でも、私はつまずいた。秋亜綺羅の考えていること、感じていることは、よくわかったつもりになるが、つまずいた。
 それって、詩ではなく、まさしく演劇そのものでは?
 そして、その演劇って、あまりにことば、ことばしていない? あるいは仕掛け、仕掛けしていない? 見せ物小屋(仕掛け)が芝居の原点とは言うけれど、私の知っている演劇的なるものとは、かなり違う。(これは長くなるので省略。概略を言うと、演劇は「肉体」の特権が不可欠。)

 そう思っていると、秋亜綺羅はこんなことを言った。
 人を石で殴って殺す。頭を割る。そうするとひとは死ぬけれど、石そのものは頭の中へ入っていかない。けれど、ことばは頭の中へ入っていくことができる。頭の中に残る。そして、そのひとを頭の中から殺す。これは、逆に言えば、頭の中で新しい人間を誕生させるということにもなるが--とは、私の「誤読」。
 あ、やっぱり頭なのか。秋亜綺羅にとっては、ことばは頭と向きあって動いている。ことばが動くとき、動くのは頭である。言い換えると、想像力--これも、私の「誤読」。だからね、

表の裏は裏
裏の裏は表
では、表の表は?

 これは「頭」のなかで動くことば。表も裏も、そこでは何かを判断する「仕掛け」である。「仕掛け」などなくても表は表、裏は裏として存在するのに、秋亜綺羅はそこに「仕掛け」をもってきて、頭に「仕掛け」を印象づける。問題になっているのは、表/裏ではなく、「仕掛け」なのだ。「仕掛け」とともに、頭が動くということである。
 肉体にとって、表/裏なんて、ない。見えるのはつねに目の方を向いているもの。そこがなんであれ、表で通用する。区別する必要があるときだけ、便宜上「表/裏」ということばを使う。1万円札を使うとき、表/裏を気にして使う人いる? いないでしょ? 裏を出して買い物をすると拒否される? 関係ないでしょ。
 人間は、現実とは関係ないものにも、ことばをまぎれこませ、変なものをつくりだしている。
 その変なものを、「仕掛け」によって拡大してみせる。「現実」には「仕掛け」がたくさんある。そのために「仕掛け」にしばられているかもしれない。だから「仕掛け」をこわす「仕掛け」をつくろうよ、ということかな? そうならいいのだけれど。

 もう一つ。
 秋亜綺羅は若い人たちのすることに「だめ」とは言わないことにしていると言った。なんでも言っていい。なんでもやっていい。そこから新しい自分が誕生する。禁忌の禁止である。
 そういうことを言ったとき、ある高校生(?)がこんなことを言った。「教室に火をつけて朗読してもいいですか」
 秋亜綺羅のこたえ。「いいよ、でも逃げるときはいっしょに逃げようね」
 あ、これはずるい。
 そして、これこそ、秋亜綺羅がこどばを「頭」で動かしている証拠のようなもの。
 「逃げるときは」というのは仮定。ことば。「教室に火をつける」という仮定をそのまま押し進めるのではなく、別の仮定をつけくわえることで、ことばの方向を転換している。「仮定」を「仕掛け」と言い換えると、秋亜綺羅のしていることがよくわかると思う。
 いま/ここには既製の仕掛けがあふれている。その仕掛けを破壊するには新しい仕掛けが必要である。新しい仕掛けとともに、新しい人間が生まれてくる。
 うーん、このことを肯定した場合、その踏みとどまり方がとてもむずかしい。
 だって、資本主義の世界というか、現実は、実際にそうやって人間を動かしている。スマートフォンをつくり、そんなものなど必要のない人にまでスマートフォンがあるとこんなことができる(そういう新しい人間になることができる)。新しい仕掛けで新しい人間をつくり、新しい商品を売って拡大する世界が現実だからね。

 あ、何を書いているのか、少しわからなくなってきた。ことばのなかで「頭」の占める領域がだんだん大きくなってきた。「頭でっかち」のような気がしてきた。
 これは、秋亜綺羅自身が気づいていることかも。だからこそ、ことばを、紙の上から解き放そうとする。肉体で「仕掛け」の印象を薄めようとする。(これは、見方が意地悪すぎる?)
 だから、訛り。わざと、ことば(意味)ではないものの方に意識を向けさせる。
 朗読が単独で行なわれるではなく、そこに音楽が加わり、舞踏が加わる。今回の朗読のとき、「朝陽のあたる家」(録音)、橋口武史のギター、伊藤文恵の舞踏が加わった。いわゆるパフォーマンスというやつ。さらに、秋亜綺羅は舞台で裸足になって朗読した。裸足は「肉体」の強調である。--これは、逆に言えば、肉体を強調しないことには、そこには「ことばの仕掛け」だけがあふれてしまうということではないだろうか。そう知っていて、秋亜綺羅はわざと訛り、わざと裸足になる。

 さて、こういう「仕掛け」にどう向き合うといいのか。

(写真は、授賞式の秋亜綺羅と朗読パフォーマンス)



透明海岸から鳥の島まで
秋 亜綺羅
思潮社
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細見和之『闇風呂』

2013-05-10 23:59:59 | 詩集
細見和之『闇風呂』(澪標、2013年05月10日発行)

 細見和之『闇風呂』にはいくつかの種類の詩が混在している。軽い悲しみ、ペーソスというのかな? それがただようものが、きっとこの詩人の持ち味なんだろう。「スクランブルエッグのようなものかもしれない」は

霧のたちこめる冬の朝
こんな日こそは小春日和をと
新聞受けから冷たい新聞を手に取ると
不可解な連続殺人がきょうも一面をぬらしている

娘たちはまだぬくい布団にくるまっている
起こしてもいいものか、こんな世界に
ふとそう思ったとしても
たいていのことはたいていのこととして卵黄のように流れてゆく

それから私はフライパンをゆする
締め切りの原稿をすっぽかして
ラミネートの剥げた焦げつきを気にしながら

私のひたすらな願いは
この完璧なスクランブルエッグが
ゆめゆめ、オムレツの失敗作などと思われないことを……

最終連が、笑いのつぼをくすぐる。オムレツの失敗作(形のくずれたオムレツ)トスクランブルドエッグはたしかに似ている。意識の奥底をちょっと刺戟される感じ、くすぐられて笑いが込み上げてくるように「意味」があらわれる軽さがいい。
 「かたつむりの唄」「蝶の唄」も似た感じ。何でもない日常の風景のような助走があって、それがちょっとジャンプする。意味、感覚の飛躍。オリンピックの競技のような全身の力をこめて競うジャンプではなく、あ、踏んじゃいけないと思ってする足のみだれのようなもの。やさしいねえ、ナイーブだね、という感想をさそうジャンプ。意味の組み替えを求められるのではなくてちょっした感覚、驚きを呼び覚ますジャンプ。そして、それは、うん、これなら自分も覚えている、自分の肉体でもできるという感じのジャンプである。この「肉体が覚えている」という感覚を自然に誘い出すのが細見のことばの運動の魅力だね。

 「悲しみと笑い」というのは、そういうナイーブな細見の「やさしさ」がそのままつたわってくる詩である。

外国から来たひとの講演でジョークが放たれる
すると、通訳を待たずに大げさな笑いが起こる
私はあれが嫌いだ

笑いは一瞬の共同体
ひとを結束させると同時に排除する
悲しみは私の理解を待っていてくれるけど
笑いは追いかける私に砂をかける

娘よ
いそいそと外国語の笑いにくわわるな
それよりも母語への感覚を研ぎ澄まそう!

きょう、かあさんがこぼした涙
あれは何だ?
日本語でも立ち入れない鋼の悲しみ

 最後の2連は、有名な詩の定義にぴったりおさまる。異質なものの突然の出会い。「笑い」につてい語っていたのに、突然それに「涙」が結びつく。そして、その結びつきのなかに、いままで見落としてきた「論理」を発見する。論理の発見という「構図」といっしょに詩が生まれてくる。
 いままで気づかなかった論理--それが自然な形で提出されている。とてもクールな詩人なのである。

 そういう作品はそれはそれで魅力的だけれど、私は、それよりも「情」のでてこないクールに徹してた「笑い」の方が好き。「情」が出てくると、うるさいなあ、という気持ちになる。「悲しみと笑い」の「かあさんの鋼の悲しみ」なんて、センチメンタル。「日本語でも立ち入れない」なんて、センチメンタル。日本語で立ち入れなくたって、「肉体」で立ち入ってしまう(肉体が引き込まれてしまう)のが悲しみなんだから、そんなところに「論理」を持ち込んでクールを装ってもらいたくないなあ、と私の「感覚の意見」派主張する。

 で、この詩集のなかで一番好きな一篇。「卒業研究」。

高橋くんの卒業研究のテーマは
絵本とデリダ

彼が言うには
絵本の本質はめくること
だから
<メクリチュールと差異>――
すると犀が一頭あらわれて
河馬との違いを証明してくれと泣きすがる
そんな懐かしい
ソシュール以前の土手のうえで
日がな一日過ごせたらいいね

 「めくること」には傍点がついている。その傍点つきの「めくる」が「メクリチュール」に転換する。これはもちろん「エクリチュール」を踏まえているのだけれど。同じようなことば遊びが「差異」から「犀」へ、「ソシュール」から「シュール」へ。この「ソシュール」から「シュール」へは「シュール」ということばが単独で出てこないのだけれど、それがまた、いいなあ。
 この詩には「音楽」がある。よむ喜びがある。私は音読はしないのだが、読むと「肉体」のなかに音が響きあう。音が呼びあって、音の力で「論理」を逸脱する。そこに「笑い」がある。「無意味」の笑いがある。
 この作品の前に引用した作品は、どれも「意味」をはがしながら新しい「論理(意味)」をつくりだすことで読者を笑いに誘い込むが、この作品は「意味」を破壊しながら「音」そのものの世界へ読者を誘う。「ことば」の「肉体」そのものの力に出会う感じがする。まだ何もしない「肉体」。何もしない--というのは、たとえば陸上競技のジャンプをするとか 100メートルを走るとか、そういうこと。そういうことをしなくても、そこにいるだけで魅力的な人間の肉体、何かとんでもないことができそうな肉体というものがあるね。。それと同じように、ことばにも、どんな意味をつくろうともしていないのだけれど、存在するだけで美しいと感じるような「肉体」をもったものがある。ただし、その美しいはあくまで軽く、脱力した感じ。脱力するときのなんとも言えない楽しい可能性を「卒業研究」のことばはもっている。そういうものの「輝き」でこの作品はできている。








闇風呂―細見和之詩集
細見 和之
澪標
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ルーベン・フライシャー監督「LAギャングスター」(★★★)

2013-05-10 13:52:55 | 映画
監督 ルーベン・フライシャー 出演 ショーン・ペン、ジョシュ・ブローリン、」ライアン・ゴリング

 冒頭、ショーン・ペンがボクシングをしている。その映像がなかなか格好がいい。脂肪がそぎ落とされ、血管が浮き出ている。サンドバッグをたたくとき、反動でショーン・ペンの肉体そのものがゆがみ、きしむ。そうか、誰かに暴力を振るうときは、その反動がある。そして、その反動を肉体で吸収し、さらに前に進むことが出来るものだけが勝つのだ。この単純な肉体の権力構造(?)がいいねえ。
 でも、映画はなにやら野蛮な銃撃戦ばかり。盗聴と、盗聴されていることを逆手にとった逆襲――それがリアリティー(現実)だとしても、つまらないね。何だかなあ・・・と思っていると。
 最後にボクシング。主役の刑事とショーン・ペンが銃を捨てて殴りあう。どっちが強いか、どっちが「支配者」か、肉体だけの力で決着をつける。あ、いいなあ。この古い野蛮が、温かくていい。ショーン・ペンには、こういう野蛮がとても似合う。野蛮が郷愁のように美しく輝く。悪役なんだけれどね。
 この肉体「ひとつ」の勝負、野蛮の美しさ――それには、ちょっとおもしろい文明の対比も描かれる。
 レストランのシーン。ショーン・ペンがフォークを使うと愛人が「フォークが違う」と耳元でささやき、テーブルマナーを教える。ラスト近く、ホテルに篭城しているショーン・ペンがルームサービスの肉を食べている。そのとき「フォークなんて一本あればいい」。そうだね、使い分ける必要などない。使いまわせばいい。――これはそのままショーン・ペンの生き方。自分の肉体一つあればいい。他の道具なんて(銃なんて)なくても俺は勝ち抜いてやる。
 そしてこれはショーン・ペンに立ち向かう警官たちも同じ。組織なんていらない、悪を許さないというひとりひとりの警官がいればいい。彼らはたまたまチームを組むが、それは警察の組織ではない。組織からは認められていない孤立した存在。ここにも「孤立(一個)」という思想がある。
 いやあ、なつかしいね。この感じ。映像も、時代がふるいせいもあるのだけれどノスタルジックでいいね。もはや古臭い言い方だけれど「男の映画」だね。
(2013年05月06日、中州大洋1)









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秋亜綺羅「ちょうちょごっこ」

2013-05-09 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
秋亜綺羅「ちょうちょごっこ」(「現代詩手帖」2013年05月号)

 秋亜綺羅の詩のなかでは、ことばは、感覚と同じように融合し入れ替わる。人間の感覚は、基本的には目で見る、耳で聞く、指で触る、舌で味わう、という具合に肉体の部位と感覚がひとつの組み合わせになっている。ところが何かの瞬間に、目で聞いたり、触れたり、味わったり、耳で見たり、触ったり……というようなことが起きる。ある刺戟が新しく強烈な場合、それを受け止める器官(感覚)だけでは間に合わず、ほかの器官(感覚)をまきこんで、肉体のなかで炸裂する。これは一種のエクスタシーというものだが、それに似たことが秋亜綺羅のことばのなかでも起きる。
 「ちょうちょごっこ」は東日本大震災を題材にしている(かもしれない)。その書き出し。

がれきたちが手に入れたはずの自由の地平は
ビルとひとだらけの街に戻っていた

 大震災によってビルは壊れ、街は瓦礫の地平線になった。見渡すかぎり瓦礫で水平になった。突然の「空間」が出現した。そのことを「自由の地平」と秋亜綺羅は書く。それは 一般的には「悲惨な状況」と呼ばれるものであって「自由の地平」とは違うものである。けれど、その「悲惨な状況」が想像したこともなかったものだったので、「肉体」が覚えているものとはまったく違っていたものだったので、ことばはすぐには状況においついていけない。あるいは、衝撃のために、ことばが状況を追い越してしまう。「何もない自由」。光があふれる「自由」。そういう錯覚が、ことばのなかにやってくる。
 この瓦礫の状況が「ビルとひとだらけの街」にもどったかどうか。完全に復興したのかどうか。--秋亜綺羅が書いているような「状況」には戻っていない。物理的には。しかし、人間は、その「状況」をはやくも目指している。そのことを、たぶん、秋亜綺羅は「ビルとひとだらけの街に戻っていた」と呼んでいるのかもしれない。そこでは、なんといえばいいのか、想像力が先に「復興」している。この「復興」はそれ自体悪いことでも何でもないし、だれもがそれを目指してはいるのだけれど……。
 その「復興」を夢見て、「復興」を目指して人間が動くとき、秋亜綺羅が感じた「錯乱」のなかの「自由」、瓦礫しかない「自由の地平」はどこへいくのか。瓦礫だらけでなにもない「地平線」。そこに「自由」を感じた、あの感覚の陶酔のようなものはどこへ行ってしまうのか。
 その「自由」を見捨てないで、その「錯乱」を見捨てないで、そこから、そこにあった「自由」そのものを動かしてみたい。秋亜綺羅は、そのことばの欲望(ことばの肉体の本能)に寄り添う。

さあ街じゅうみんな両手をひらひらさせて
ちょちょになろうよ

パラパラ漫画みたいにみんなで踊ろう
ここまで爆弾が落ちて来ってさ
みんな踊りつづけようよ

 これは、人間がふつうは抑制し、閉じ込めているものである。そういうものを閉じ込めて、人間は生きていることが多い。瓦礫の街ですべきことは「復興」である。もうここには何もないのだからといって「ちょうちょ」のように踊っているわけにはいかない、と。
 たしかにそうなのかもしれないけれど。
 でも、突然あらわれた絶対的な地平の自由--それがあるなら、ちょうちょになるのもいいのではないだろうか。
 この「錯乱」のなかにある「自由」にもう少し身を寄せてみると、何か見えてこないだろうか。ことばは、知らず知らずに抑制してきた何かを突き破って、「自由」を獲得しないだろうか。そこに、もしかしたら、いままで知らなかったことばの可能性、ことばの肉体の可能性はないだろうか。「自由の地平」とういことばが動いた以上、それはぜったいに存在するはずなのである。

きみが朝陽の海が好きだったのは
きみにしか視えない水平線と
きみのためにしかない太陽がいたからだろ

 「きみにしか視えない水平線と/きみのためにしかない太陽」。(同じように、「ぼく」にしか見えない「自由の地平」というものもある。)これを「流通言語」で言いなおすことはむずかしい。もう一度、自分のことばで言いなおすものむずかしい。けれど、だれでも読んだ瞬間に、たしかにそういうものがある、と思い出す。だれにでも「現実」に流布しているものとは違う、自分だけのための「もの/ことば」がある。その自分だけの「もの/ことば」は、「流通言語」の「ことば/もの」の関係を断ち切って、自分自身の肉体を励ましながら、自分自身の「ことばの肉体」になって動いてみたいと感じている。
 「ことばの肉体」を「自由」に動かす--つまり、いままでの「ことばの運動」が隠していたものになって動いてみると世界はどうなるか。

飛ぶぶものが墜ち果て
泳ぐものたちがあお向けに浮き上がる
水平線とはそんな場所

 これは「水平線」とは、鳥や飛行機がそこを離脱するときの基本ラインである。「飛ぶ(鳥/飛行機)」は「もの」が水平線より上にあるとき「飛ぶ」なのである。また、その下には魚が泳いで生きている。魚は水平線より下にあるとき生きている。もし、水平線にまで浮かび上がるなら、それは死んだときである。水平線は魚にとって生と死の境界線(基本ライン)である。
 だから、それを逆に「定義(?)」することも可能である。秋亜綺羅がしているように。鳥が飛んでいるとき水平線は意識されない。死んで墜落するとき意識される。魚が泳いでいるとき水平線は意識されない。死んで浮き上がるとき意識される。
 新しい何かが意識されるとき、それは、それが本来の(?)、あるいは「流通言語の定義」の意味を失うときである。
 そうであるなら、瓦礫が手に入れた「自由の地平」もまた、ある「流通言語の定義」が意味を失ったからこそ、瞬間的に出現したものである。それは、人間が「流通させている定義」とは無縁の、定義以前の何かである。そこに、押し込められていた「ことばの肉体」の可能性がある。「流通言語の定義」を突き破って動く「ことばの肉体」そのものの、ある「融合した形」、あいまいな錯乱としか呼べないような--けれど、「激しい実感」のようなものがある。

 秋亜綺羅の詩は、大震災で死んだきみ、きみの大事にしていた縫いぐるみ(それはまだ存在している/生きている)。その事実や、遠い昔の学校での「ことばは意味を伝達するからことばなんですよ」「あなたみたいに、わけのわからないことばかり書いても、ことばとはいえないんですよ」と叱られたこと、それに対して、

先生!「永遠」ということばは、永遠の意味を伝達していますか

 と逆襲したことなどが書かれている。「ことばは意味を伝達しない」。というより、「流通言語」のことばでは、明らかにすることができないものがある、ということだろう。目は見る、耳は聞く、では伝えられないことがある。「流通言語」を裏切って(肉体と器官の結びつきを裏切って)、「間違い」という形でしかつかみとれないものもある。
 その「間違い」は「ことばの肉体」でしかつかみとれない。新しい「ことばの肉体」。「ことばの肉体」のなかに閉じ込められていた「肉体」を解放することでしかつかみとれない。
 で、そのとき、秋亜綺羅のことばの肉体の特徴は、いままであったものを逆にしたり、いれかえたりしながら、ことばを揺さぶる形をとることが多い。

きみの影が椅子から立ち上がるとぼくの影も追いかける。ふたりの影たちはおたがいの影を見つめている。ねえ、そばにいてよ。そばにいてあげるから。影たちは話している。ことばに意味なんてあるだろうか。影と影が重なる場所に、きみとぼくはいない。幸せってなんだろう。

 ぼくの影ときみの影が重なる。そうすると、そこには「ひとつ」の影があるだけで、影が「ひとつ」なら「ぼくときみ」は「ひとつ(ひとり)」であり、「ふたつ(ふたり)」ではありえない、という「疑似論理」が成り立つ。そしてもし、そこにある影が「ひとつ」であるなら、ぼくときみは別個の存在ではなく、「ひとり」である。その「ひとり」は、言い換えると強く結びついた「ふたりの形」である。そこにあるのは「ひとり」とか「ふたり」という区別ではなく、「重なるということ」「いっしょということ」の「こと」がある。その「こと」のなかには「かさなる/むすびつく」などが融合している。この「こと」から世界を見つめなおすとき、「ひとり(ひとつ)」と「ふたり(ふたつ)」の関係をあらわす「流通言語」は崩れていく。
 「流通言語」が崩れる瞬間、そこに詩がある。
 「流通言語」が崩れるのだから、それを説明する(流通言語で言いなおす)ことは、実は不可能である。私の書いていることは便宜上の「たわごと」である。まし、しかし、こういう「たわごと」の、その場限りの言い方でしか、詩には触れることができないのかもしれない。そういうことを熟知していて、秋亜綺羅は、ことばの「意味」が定着しないうちにことばをさらに動かし、動かすことで「ことばの肉体」の自由を維持するのかもしれない。







透明海岸から鳥の島まで
秋 亜綺羅
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川島洋「さがす」ほか

2013-05-08 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
川島洋「さがす」ほか(「すてむ」55、2013年04月15日発行)

 「肉体がおぼえている」ということは、だれにでもある。きのう読んだ池井の詩は、その「おぼえている」がとても深かった。はっとさせられた。そういう詩は、めったにないが、もう少しわかりやすい詩、たとえば。
 川島洋「さがす」。

幸福というものがわからなくなったので
つらつらと考えてみるのだが
なぜだろう いつも
コロッケ
子供の頃に食べたコロッケが
しきりと思い出されるのだ

夕暮れ 友達とわかれて
遊び疲れた僕
お腹をすかせた僕が
お肉屋さんの前に立つ
ポケットの中の小銭をたしかめる
(家の鍵もちゃんとある)
だんしゃくコロッケください
ガラスケースの向こうには男爵も子爵もいなくて
白い割烹着のおばさんがいる
十円玉三枚
それが一個のコロッケにふくらんで
紙袋にひょいと入れられる
はい 男爵一個 熱いよ!
手をのばして受け取る僕
紙袋から手のひらにつたわってくるあったかさ
コロッケだ 揚げたての ほかほかの
こんがり かりかり 茶色いコロモの
それをひと口かじるとき
お腹の底にあく大きな甘い穴

空腹にコロッケ
それが幸福だなんて

 2連目が長すぎる感じがするけれど。でも、その2連目の後半がいいね。「手のひらにつたわってくるあったかさ」--この感触が、「あったかさ」だけでは足りなくて、ことばが次々に増殖していく。「ひとつ」におさまりきれない。このあふれるような充実感。それが、

お腹の底にあく大きな甘い穴

 いいなあ。この「穴」、おぼえている? 言われてはじめて気づく「穴」。「甘い穴」。「甘い」という味覚が(肉体が)、ぴったりくっついている。そういう「肉体」をひっぱりだしてくることば--詩、だね。
 この詩、実は、この後がある。しかし、それはいらないね。私の引用した分は見開き2ページ分で、次のページに行がつづいているのを見たときはびっくりしてしまった。「幸福」が消し飛んでしまった。(2連目の、鍵っ子のくだりもいらない。そんなものは勝手に想像させればいい。)


 
 田中郁子「その手」。
 川島が「食べる」ことをおぼえている「肉体」なら、田中郁子はつくることを「おぼえている」肉体である。「その手」。

おせち料理はその手がつくる
他人には見えないが
わたしにはよく見える
年の暮れに雪がふると
やさしいその手が帰ってくる
台所でコンニャクのオランダ煮をつくる
ふしくれだった指だがあたたかい
その上にわたしの冷えた手をのせるだけ
わたしはなんにもしない
その手がなすがまま

 その手は、田中がかつて見た母の手かもしれない。その手が田中の「肉体」のなかで目を覚ます。甦って、動く。肉体というのはとても不思議だ。田中の肉体と母の肉体は完全に別なものなのに、重なり合う。それは、こころというものが似たりよったりで同じようなものなのに、どこに区別があるのかわからないようなものなのに、ときにぜんぜん重ならない(ひとつにならない)のと正反対だ。
 道にだれかが倒れて呻いている。腹を抱えている。それを見ると、私の肉体ではないのに、あ、腹が痛いのだと肉体でわかる。そのひとが、たとえ芝居で呻いているのだとしても、肉体はそう感じてしまう。その人が芝居で呻いているのだとしたら、「こころ」はまったく重ならないのに、肉体の方でかってに重なってしまう。そんな不思議が、人間の肉体にはある。
 肉体が重なると、「おぼえていること」が「肉体」に甦る。それは、田中の詩の場合、母がおぼえていること? 田中がおぼえていること? それとも、つくられる料理(その材料)がおぼえていること? --私がいま書いていることは、とんでもない空想のように思えるかもしれないけれど、詩のつづき。

なんといっても畑からほりたてのカブの千枚漬け
なんといっても土からほりたての菊の花のめでたさ
菊花カブは得意げに咲く
年に一度の細かい格子目のはなやぎ

 カブになった気持ちにならない? 格子目をつけられて美しくなっていくカブ。自慢したくない? どこからどこまでが自分で、どこからどこまでがカブ(材料)かわからない。どこに自分の手があるのかわからない。手が料理しているのではなく、カブに誘われて手が動いているだけなのかもしれない。カブが料理になりたがっていて、その欲望に手がついていくだけ。
 「肉体」というのは、いつでも「肉体」を越境することで「肉体」になってしまう。「おぼえている」になってしまう。美しさは、いつでも「おぼえている」に、ある。そこには「正直」がある。



 長嶋南子「くねくね」。
 「正直」は、ちょっと変な感じのものもある。でも、それが「正直」なら、どんなことでも美しい。そんなことを感じさせてくれる。

脊椎動物の祖先は
ナメクジウオなんだって
ナメクジに親近感を覚える

オッチョコチョイでお節介で八方美人で
遠いご先祖様のナメクジウオ
からだくねくねさせてオスに色目使って
ハンショクしたんだきっと
五億一千年前の春の海で
わたしの子どもは女の子をつかまえられない
せっかく続いたイデンシが
おしまいになる気配
もっとからだくねくねさせて色目使いなさい
あれ ナメクジウオには目がなかったか

 まあ、どうでもいいことなのだけれど。「からだくねくねさせて」「色目使って」。あ、これも、イデンシ(肉体)が「覚えている」ことなんだねえ。そういうものには、なぜか目が引きつけられてしまうなあ。「肉体」が反応する。
 で、このことを「覚える」ともいう。

ナメクジに親近感を覚える

 ね、この「覚える」。気づくことは「覚える」ということ。それは、実は「知る」前に、肉体のなかにある。それが何かにであって「肉体」の奥から出てくる。それを「覚える」という。肉体のなかに入れるのではなく、肉体から出てくる。
 で、その「出てくる」をいつでも自在に操作できるようになると、それをきっと「つかえる(つかう)」ということになる。
 ひとは「知る」だけではつかえない。「おぼえる」のあとに「つかえる」だから、むずかしい。「知る」は「教える」ことができるが、「おぼえる」は教えられない。あくまで、そのひとが自分の「肉体」のなかから、それを探し出してこないといけない。
 田中が母の手に自分の手を重ねることで、自分のなかから母の手を探し出してきたとき、はじめて「おぼえる」が成り立ち、そして「つかえる」になる。つかえるになったとき、それは田中の肉体をはみだしてカブにもつたわる。人間のイデンシがカブにつたわる瞬間だ。





夜のナナフシ―川島洋詩集
川島 洋
草原舎
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池井昌樹「喜望峰」

2013-05-07 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「喜望峰」(「現代詩手帖」2013年05月号)

 池井昌樹「喜望峰」は傑作である。それがどんなに傑作であるかを説明することはとてもむずかしいのだが、ここには、私がよく書いている「肉体がおぼえている」ということが具体的に書かれている--と書いてしまうと「我田引水」になってしまうかもしれないが。だが、この詩を読めば、池井の書いていることが「肉体がおぼえていること」であるとわかる。
 バターの思い出を書いている。

小学三年のとき私の家族は転居した。どんな経緯だったのか、同じ市内とはいえ私は生家を喪(うしな)ったのだ。両親と姉と私が一足先に新居に落ち着き、片付けの残る祖父母は暫くもとの家でくらしていた。通学路だったから学校の帰りにきまって立ち寄った。祖母の供してくれるお八つが目当てだった。あるときは七輪で炙った食パンにバターが塗られてあった。美味しかったが私はもっとほかの、何時ものバターをと所望した。私の中にはもと居た家でもと居た私のなれ親しんだその風味と色香がありありとまだ遺されていた。怪訝な顔で祖母は明日を約してくれが、その明日も、その明くる日も望んだバターは味わえなかった。あれは夢だったのかしらん。やがて祖父母も新居に合流し、もと居た家は跡形もなくなり、私は次第にバターを忘れた。

 なかほどに出てくる

私の中にはもと居た家でもと居た私のなれ親しんだその風味と色香がありありとまだ遺されていた。

 の「私の中には」は私流に言いなおすならば「私の肉体に」である。「こころのなか」や「頭のなか」ではなく、「肉体に/肉体のなかに」である。で、そのとき「のこっているもの」が「風味/色香」。あ、これって、「におい」じゃない? 「色香」には「色」もあるけれど、それは目に見えない色。そして「風味」も「色香」も実は目には見えず、耳にも聴こえず、でも「におう」。「肉体」のなかに入ってくることで何かを引き起こす。池井は食パンにバターと書いているが、それは食べるということをとおして「肉体」のなかに食パンとバターが入ること。その食パンとバターが肉体のなかに入るとき、それは口→喉→胃、という具合に進むけれど、ほら、口のなかで「におい」がわきあがる。もちろん、口の外にあるとき(皿の上にあるとき)もにおうけれど、口に入ると違うにおいがする。たべたときのにおい。肉体の内部にのこるにおい。
 池井を「においの詩人」であると私が感じる理由はそこにある。嗅覚が強い。そしてその嗅覚は独特である。
 池井はこの「におい」(と書いてしまおう)を、単に食べ物のにおいではなく、「もと居た家/両親、姉、祖父母と暮らす家」といっしょにしている。区別していない。食パンとバターの味がかわったのは、そこにある「暮らし」が違ってきているからである。池井の「肉体」がおぼえていることと、いま起きていることのあいだには「暮らし」の違いが入り込んできていて、それが「におい」を変えてしまっているのだ。池井の「におい」には「暮らし(ひと)」が含まれている。

 詩の後半。

そのバターと再び出会ったのはそれから半世紀ほども経た東京でのこと。勤務する書店の遅い昼休みに偶々捲っていた内田百間の文庫本の頁にそれはあった。百間先生の「バタ」は遠く喜望峰を経て船で運ばれてくる缶詰だから独特の強い塩味があった。私はその頁の前で釘付けとなった。靴墨のような缶詰の蓋の厳めしい模様と得体の知れない外国語、蓋を剥がした油紙の滲んだ手触り、パンに擦(なす)れば陽光のように忽ち明るく華やかに蕩(とろ)け出す琥珀色、琥珀色を透かして生き活きた生家での幼年時代が刻々ありありと甦ってきた。祖父はかつて郷里の商船会社を営んでいたから大陸との交易があり、喜望峰を巡り大陸を経てもたらされた塩気の強いバターは我が家の常備菜だったのだろう。その祖父も、祖母も父も疾うに逝き、息子たちが巣立ち、異郷を……とする日日の生計(たつき)の果てに、思い掛けないこんな遠くで、私は漸くあのバター付きパンを再び手にしているのだった。
(谷内注・「内田百間」の「間」は門構えに月。池井は正確に書いているが私のワープロは文字がでないので代用している。)

 池井が求めていたのは喜望峰経由のバター。そうわかったと、池井は書いている。しかし、前半の、祖母が出してくれたバターも池井の家に昔からある喜望峰経由のバターだっただろう。だからこそ、祖母は同じバターなのに、なぜ、といぶかしんだのだろう。
 で、この後半、池井はあのバターは喜望峰経由だとわかって、幼年時代のくらしをまざまざと思い出したと書いているのだが--ここには、ちょっと複雑なことがらが書かれていると思う。
 池井の肉体が、引っ越す前の「暮らし」の匂いをおぼえているように、喜望峰経由のバターはその「肉体」に喜望峰を経由するという「こと」をおぼえている。それがバターの「暮らし」。喜望峰を経由することで、無意識に「肉体」に取り込んでしまう「塩気(塩味)」というものがある。バターさえ、そういうものを「肉体」に「おぼえる」。同じように、人間は「くらし」を経由することで、その「くらし」のにおいを「肉体」で「おぼえる」。それが、におう。
 ここでは「バターの肉体がおぼえる」と「池井の肉体がおぼえる」の「肉体がおぼえる」が共通している。このとき、池井は池井でありながら同時に喜望峰経由のバターの「肉体」になっている。そして、喜望峰経由のバターが塩気をおぼえているということを、いま池井自身の「肉体」で思い出している。
 内田百間の「ことば」を経由することで。
 バターが喜望峰経であることを思い出すとき、池井の肉体のなかから、そのバターが「くらし」をひきつれてあざやかに甦る。

蓋を剥がした油紙の滲んだ手触り、パンに擦れば陽光のように忽ち明るく華やかに蕩け出す琥珀色、琥珀色を透かして生き活きた生家での幼年時代

 この感覚の融合してなだれるような滑らかな動き。放心のなかで見る絶対的光景、とでも呼ぶべきもの。永遠の光景。

 そして。どう書いていいのかわからないので、つけたしのようにして書いておくけれど。バターが喜望峰を経由してきたように、池井の「しあわせ」も幾人もの「ひと」を経由してきている。貿易会社を営んでいた祖父、お八つにパンを焼いてバターを塗ってくれる祖母。それから両親。「なれ親しんだ家と家族」。そういう「くらし」を経由して、池井の「肉体」のなかにはさまざまなことが残っている。池井の「肉体」はそういう「こと」をおぼえている。それが、池井の「肉体」の味、風味、である。池井が放心したとき、その「肉体」がほどかれ、その奥から「おぼえていること」が「いま/おきていること」としてあふれだす。
 そのとき、詩が動く。



 この詩に限らないが、池井の詩には私のつかわないことばがいくつかある。この詩の場合、たとえば「何時ものバターをと所望した。」の「所望」。それは、どういえばいいのだろうか、ほかのひとが書けばちょっとした気取りのように見えるのだけれど--池井のこの詩ではそうではない。何か、ことばがぐいっと紙に食い込んでいる感じがする。強い力でことばが紙に定着している。「何時ものバターにして、と言った(だだをこねた)」ではなく、そのときの気持ちを「所望」にまで追求して、そこに書いている。そういうことがつたわってくる。どのことばも、ひとつひとつ「選ばれている」という張りつめた感じがある。これは、なかなか書けない。




現代詩手帖 2013年 05月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社
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池井昌樹「遠音」ほか

2013-05-06 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「遠音」ほか(「現代詩手帖」2013年05月号)

 池井昌樹「遠音」には文字通り「音」がある。

しゃぼんだま ららららららら
くもりがらすにやつでのかげが
はんずぼんのぼく たいくつで
ひとりあまおときいている……
初夏暮色
ひとりあまおときいている
おきゃくのいないうりばには
はなやかなゆうひがさして
しゃぼんだま るるるるるるる
とおいあまおときいている……

 「ららららららら」「るるるるるるる」と文字になっている。しゃぼん玉の姿が音によって形になっている。それはそれ自体で「音」なのだが。タイトルにあるように、それは「遠い」。「遠さ(距離)」に透明な、ことばにならない音がある。それが響いてくる。
 さらに「あまおと」という「音」がある。それは、「ららららららら」「るるるるるるる」のようには書かれていない。なぜ? しゃぼんだまの「音」のように「遠い」ものではなく、だれでも知っている「近い」ものだから?
 そうすると、「遠い」は知らない、「近い」は知っている?
 たしかにしゃぼん玉の音を私は知らない。ふつうの、多くのひともしらないと思う。池井もたぶん、ふつうは知らない。「知らない」なら、なぜ、書ける? いつもは知らないままでいるのだが、「おぼえている」から、ふいに思い出して私は強引に書いてしまう。「肉体」が覚えている。だから、池井には書ける。
 でも、それでは「覚えている」ってどういうこと?
 視点をかえると、少し「おぼえている」に近づけるかな……。
 この詩にはちょっと複雑なところというか、矛盾したとろというか、変なところがある。「しゃぼんだま」の時間、「あまおと」の時間、「うりばのゆうひ」の時間。みっつの時間がある。「いま」は、そのどれになるか--というのはあまり意味のないことだけれど、便宜上書いてしまうと、「うりば」の時間。池井は書店で働いている。だから、その書店の夕方の時間。夕陽が差している。華やかな夕陽だ。
 その瞬間、池井はしゃぼん玉を飛ばしたときのことを思い出した。しゃぼん玉を思い出した。ひとりでぼんやり(放心して)しゃぼん玉と遊んでいた。その「ぼんやり(放心)」に「るるるるるるるる」が響いてきた。ぼんやり(放心)は、ひとりで雨音を聞いていたときも同じである。ひとりでぼんやり(放心)していたら雨の音がした。そして、いまぼんやり(放心)していると、売り場に夕陽が差している、そのひかりを華やかと感じている。そこにも「音」にならない音があるかもしれない。いや、その「音にならない音」として、しゃぼん玉の「ららららららら」「るるるるるるる」が聞こえてきた。「ぼんやり(放心)」のなかで、池井の肉体がそこにあった「時間」が結びつく。この「結びつく」とき、そこには「距離」はないのだが、「距離」はなくなるのだが、その「なくなる」ということのなかに、なくなってしまう「遠さ」がある。「遠さ」がなくなるのは、あくまで「遠さ」が先に存在するからだ。そして、その結びつくことで消えてしまった「遠さ」のなかに、「ららららららら」「るるるるるるる」と書かれた音が鳴っている。雨音がなっている。そして、その「遠い/ここ」にこそ、池井がいる。そういう「こと」を池井の「肉体」は「ひとかたまりのこと」としておぼえている。

 「揚々と」には、「におい」が出てくる。

きょうはもうはやくかえろう
こんなにくたびれはてたから
どんなさそいもことわって
どんなしごともなげうって
きょうはもうかえってしまおう
いつものみちをいつものように
いつものでんしゃをのりかえて
いつものようにいつものみちを
ようようとぼくはかえろう
やさしいあかりのともるまど
さかなをやくけむりのにおい
わがやのまえもゆきすぎて
ゆめみるように
ひとりかえろう

 この詩の変なところは、「くたびれはてた」のに「ようようと」自分の家へ帰ることである。「ようようと」って、そういうときつかう? 「流通言語」では、つかわないね。このつかい方変だよ、といまの私のように、ケチをつける。
 でも、池井は「ようようと」と書く。なぜだろう。「ようようと」帰りたいからだ。帰るということは「ようようと」でなくてはならないのだ。「つかれはてた」ときこそ、「ようよう」のなかへ帰らなければならない。「ようようと」は「遠音」の「遠さ(遠い)」と同じようにして存在する何かなのである。
 そういう抽象的なことはおいておいて。
 その「遠さ」のようなものが「さかなのやくけむりのにおい」と一緒にあることが、とてもおもしろい。私が最初に池井の詩を読んだのは、たしか中学生のときである。「雨の日の畳」。池井の詩には、変なにおいがしていた。読むと、におってくる。畳の部屋の雨の日のにおいが。「さかなのやくけむりのにおい」ではないのだが、「肉体」のなかに、あ、これは何のにおいだろう、何かがにおっている、空気のなかに何かがまじっている--と感じるのである。そして、そのにおいに引き込まれて、一瞬、何かわからなくなる。「いま/ここ」が「いま/ここ」ではなくなる。池井の世界に入ってしまう。雨の日の畳の部屋に私がいるのである。そういうことを何度も体験した。
 「におい」というのは「いま/ここ」へ侵入してきて、それをかいだ瞬間「いま/ここ」ではないところへ「肉体」を運んでしまう。(と、私は、いま、思い出して、そう感じている。)
 で、その「私の感じ」を池井が、この詩のなかで体験している。--これは、なんとも強引な言い方になるが、便宜上、そう書いておく。
 言い直すと……。

さかなをやくけむりのにおい
なつかしい

 と思った瞬間、池井は「わが家へ帰る」という最初の目的(?)を忘れて、

わがやのまえもゆきすぎて
ゆめみるように
ひとりかえろう

 おおい、池井よ、どこへ帰るんだ。
 その場所が「遠い/遠さ」なのである。そしてそれは「遠い」のではな、とても「近い」。近すぎる。池井の「肉体」のなかに統合されてある(凝縮されてある)場であり、時間である。さかなをやくけむりと一緒にある「くらし」、その時間へ帰る。
 そこへはひとりでしか、変えれない。けれど、そのひとりの「帰郷(帰宅というより、帰郷といいたい)」は、詩に書いたとたん、読者のものにもなる--それが詩の不思議なところ。
 あ、横道にそれた。
 そして、その「遠い/遠さ」、「肉体」がおぼえている「こと」のなかへ帰る、そのきっかけに「におい」が強く影響している。くらし、くらしがあることの、しあわせのにおい。なんだか半世紀前に体験したことを、いま、また体験しているようで、わくわくしてしまった。どきどきしてしまった。
 ほんとうは、いつもの「ひらがな詩」ではなく、「散文詩」について書きたいことがあって、でも、その前に「遠い/遠さ」と「におい」のことを、池井の「肉体」のことを書いておこうと思ったら、それだけになってしまったが……。




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池井 昌樹
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