樋口武二『異譚集』(「詩的現代叢書」1、詩的現代出版部、2013年02月11日発行)
樋口武二『異譚集』は散文詩といえばいいのか、物語詩といえばいいのか、詩集のタイトルにならって、異譚詩と言えばいいのか……。まあ、そんなことは、どうでもいいかもしれない。どんな詩にも「物語」はある。つまり、そこにだれかが登場してきて、そこで時間が経過すれば、それは「物語」になる。
最初に、あっ、と驚くのは「出来事」という作品。プールにだれかが浮いている。ひきあげてみると見知った男。ただし、
現実の世界の男ではなく、夢のなかの男。だから、そこに書かれているのは、夢のつづきなのか、あるいは現実なのか--その境界線のあいまいになるところに「異譚」があるということなのだろう。
どういう「異譚」であっても、そこに人間が登場すれば、そこに「肉体」がある。それを描写することばに私の「肉体」は反応する。「肉体」が動けば、それが夢であろうと現実であろうと関係がない。
この作品で私が驚いたのは、そこに人間の「肉体」だけではなく、「水の肉体」とでもいうべきものがでてきたからである。
プールから男を引き揚げ、男を蹴飛ばすと、男は夕暮れの街へ去っていったのだが、
私は私が人間であることを忘れて、水になった気持ちになった。水の肉体を感じた。
水ではなく、たとえばやわらかいクッションか何かに、座っていたひとの形がくぼんで残っているのをみたことがある。それに似た感じで水の中に、ひとのかたちがくぼんで残っている--ということを「プールの水は その男の形に抜けて」と書いたのだろうけれど、水って、そんな具合にはならないよね。
ならないのだけれど、そういうふうにことばにすると、その瞬間それが存在して見えてしまう。「ことばの肉体」が「水の肉体」に働きかけて、それが混ざり、ふつうに見ることのできる水とは違ったものになる。私の「肉体」はその水とは離れたところにあって、水を見ているのだけれど、それがまざまざと見えたとき--それが、なんといえばいいのだろうか、何か対象を見ているという感じにならない。
なぜかというと。
私はそのとき「プールの水は その男の形に抜けて」以外が見えなくなっているからである。世界には(いま/ここには)、それしかない。「私」という存在すらない。私は、その「見えているもの」そのものになっている。
だから、その抜け形が色褪せ、腐蝕しはじめるとき、それは「見る」と同時に、自分の「肉体」そのものの変化のように思えるのである。
言いなおすと。
たとえば、だれかが道で倒れている。腹を抱えて呻いている。それを見た瞬間、「見ている」ということを忘れて、「あ、この男は腹が痛いのだ」と思う。他人の腹の痛みなどわかりはしないのに(それは芝居かもしれないのに)、腹が痛いのだと感じる。「痛い」になってしまう。「痛いという肉体」になってしまう。
このときの、「私の肉体」と「道に倒れている男の肉体」の関係に似たことが、「水の肉体」と「私の肉体」に起きる。それは違うものなのだけれど、その違いをこえていっしょになってしまう。
「痛いという肉体」になったように、私は「男の形に抜けた」水になってしまう。水になってしまっているから、ほかのものが見えないのだ。
で。
この詩の、「水の肉体」と「私の肉体(人間の肉体)」のことをさらに言いなおしてみると。
たとえばだれかと親しくなる。そういう人間の「肉体」の感触が自分の「肉体」のなかに「なじみ」のようにして存在する。そのだれかが、ある事情で去っていく。そのあと、自分の「肉体」のなかに、その去っていったひとの「形」がそのまま抜けて存在する。そして、その形(輪郭? 接点?)のところから、「腐蝕」していく……。
水に起きていることなのに、その「水の肉体」が、何か「自分の肉体」になる。
こういう運動を引き起こしてしまう「ことばの肉体」。--それが、ここにはあるのだと思う。
道に倒れている男について「腹が痛い」と思うのは、そのとき、「腹が痛い」という「肉体」を私とその男が「分有」するからである。(共有するから、かな……。)
プールの水の「肉体」と、私の「肉体」には共通点がないので、腹が痛い男のようには「肉体」は「共有/分有」されないはずなのだけれど、「ことば」をとおすとそれができてしまうことがある。「ことばの肉体」が「分有/共有」されるのかなあ。
「水の肉体-ことばの肉体-私の肉体」の「肉体」が重なり合うとき、「水」と「私」の混同(融合)が起きる。その融合を誘うものが「ことば」ということ。
きちんと整理できないのだが、何か、そういうことが起きている。
詩集全体の印象としては、何か、あいまいな、完結しないような印象の「譚」が多いのだけれど、この「プールの水は その男の形に抜けて」だけは強烈に、
詩
そのものになっている。「ことばの肉体」が「もの(存在)」と「人間」をとんでもない力で引きつけて、衝突させ、そこにビッグバンが起きる、という感じ。
樋口武二『異譚集』は散文詩といえばいいのか、物語詩といえばいいのか、詩集のタイトルにならって、異譚詩と言えばいいのか……。まあ、そんなことは、どうでもいいかもしれない。どんな詩にも「物語」はある。つまり、そこにだれかが登場してきて、そこで時間が経過すれば、それは「物語」になる。
最初に、あっ、と驚くのは「出来事」という作品。プールにだれかが浮いている。ひきあげてみると見知った男。ただし、
いつも私の悪い夢の中に住んでいて 晴れた空などを食べつ
くす 痩せた初老の男である。
現実の世界の男ではなく、夢のなかの男。だから、そこに書かれているのは、夢のつづきなのか、あるいは現実なのか--その境界線のあいまいになるところに「異譚」があるということなのだろう。
どういう「異譚」であっても、そこに人間が登場すれば、そこに「肉体」がある。それを描写することばに私の「肉体」は反応する。「肉体」が動けば、それが夢であろうと現実であろうと関係がない。
この作品で私が驚いたのは、そこに人間の「肉体」だけではなく、「水の肉体」とでもいうべきものがでてきたからである。
プールから男を引き揚げ、男を蹴飛ばすと、男は夕暮れの街へ去っていったのだが、
プールの水は その男の形に抜けて その場所だけが奇妙に
色褪せ 眺めているあいだにも腐蝕をはじめていた。
私は私が人間であることを忘れて、水になった気持ちになった。水の肉体を感じた。
水ではなく、たとえばやわらかいクッションか何かに、座っていたひとの形がくぼんで残っているのをみたことがある。それに似た感じで水の中に、ひとのかたちがくぼんで残っている--ということを「プールの水は その男の形に抜けて」と書いたのだろうけれど、水って、そんな具合にはならないよね。
ならないのだけれど、そういうふうにことばにすると、その瞬間それが存在して見えてしまう。「ことばの肉体」が「水の肉体」に働きかけて、それが混ざり、ふつうに見ることのできる水とは違ったものになる。私の「肉体」はその水とは離れたところにあって、水を見ているのだけれど、それがまざまざと見えたとき--それが、なんといえばいいのだろうか、何か対象を見ているという感じにならない。
なぜかというと。
私はそのとき「プールの水は その男の形に抜けて」以外が見えなくなっているからである。世界には(いま/ここには)、それしかない。「私」という存在すらない。私は、その「見えているもの」そのものになっている。
だから、その抜け形が色褪せ、腐蝕しはじめるとき、それは「見る」と同時に、自分の「肉体」そのものの変化のように思えるのである。
言いなおすと。
たとえば、だれかが道で倒れている。腹を抱えて呻いている。それを見た瞬間、「見ている」ということを忘れて、「あ、この男は腹が痛いのだ」と思う。他人の腹の痛みなどわかりはしないのに(それは芝居かもしれないのに)、腹が痛いのだと感じる。「痛い」になってしまう。「痛いという肉体」になってしまう。
このときの、「私の肉体」と「道に倒れている男の肉体」の関係に似たことが、「水の肉体」と「私の肉体」に起きる。それは違うものなのだけれど、その違いをこえていっしょになってしまう。
「痛いという肉体」になったように、私は「男の形に抜けた」水になってしまう。水になってしまっているから、ほかのものが見えないのだ。
で。
この詩の、「水の肉体」と「私の肉体(人間の肉体)」のことをさらに言いなおしてみると。
たとえばだれかと親しくなる。そういう人間の「肉体」の感触が自分の「肉体」のなかに「なじみ」のようにして存在する。そのだれかが、ある事情で去っていく。そのあと、自分の「肉体」のなかに、その去っていったひとの「形」がそのまま抜けて存在する。そして、その形(輪郭? 接点?)のところから、「腐蝕」していく……。
水に起きていることなのに、その「水の肉体」が、何か「自分の肉体」になる。
こういう運動を引き起こしてしまう「ことばの肉体」。--それが、ここにはあるのだと思う。
道に倒れている男について「腹が痛い」と思うのは、そのとき、「腹が痛い」という「肉体」を私とその男が「分有」するからである。(共有するから、かな……。)
プールの水の「肉体」と、私の「肉体」には共通点がないので、腹が痛い男のようには「肉体」は「共有/分有」されないはずなのだけれど、「ことば」をとおすとそれができてしまうことがある。「ことばの肉体」が「分有/共有」されるのかなあ。
「水の肉体-ことばの肉体-私の肉体」の「肉体」が重なり合うとき、「水」と「私」の混同(融合)が起きる。その融合を誘うものが「ことば」ということ。
きちんと整理できないのだが、何か、そういうことが起きている。
詩集全体の印象としては、何か、あいまいな、完結しないような印象の「譚」が多いのだけれど、この「プールの水は その男の形に抜けて」だけは強烈に、
詩
そのものになっている。「ことばの肉体」が「もの(存在)」と「人間」をとんでもない力で引きつけて、衝突させ、そこにビッグバンが起きる、という感じ。
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