goo blog サービス終了のお知らせ 

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

東野正『書損調』

2011-05-04 23:59:59 | 詩集
東野正『書損調』(セスナ舎、2011年01月11日発行)

 「書反」という作品が巻頭にある。「書反」って、何?

つい
うっかり
書きつけて
しまった一行

 と、読み進んで、あ「初犯」か、と気がつく。「書き間違い」(何かに「反した」書き方)は、「初犯」のように、つい、うっかり、してしまう「できごころ」によるものである。
 「初犯」は「初犯」のままとどまるか、それと「累犯」となり、そのひとを狂わせるか。同じように、書き損じ(書反)は、そこにとどまるか、それとも意識をずーっと支配しつづける。

その
一行のわずかに泡立ちが
あらぬ方向に広がり
思ってみなかった一行が
さらに
書き加えられる

 この作品は、私はタイトルは「意味」がありすぎて嫌いだが、ことばの動き自体は気に入っている。「書き損じ」にしろ、「誤記」(言誤)にしろ、それは何かの「間違い」を持続するときにおもしろくなる。どこまで「間違い」を持続できるか。そして、持続するとき、ことばはどんなふうにねじれていくか--それがおもしろい。その「ねじれ」のなかに「ことばの肉体」があらわれ、その「ことばのねじれ」は身体そのものとしての「肉体のねじれ」にもつながっていくと思うからである。
 このときの「ねじれ」は、この詩のことばのように、少しずつねじれていくものだと思う。ねじれとわからないようにねじれていくものだと思う。
 タイトルの「書反」は、ねじれが明確過ぎておもしろくない。
 ねじれが明確過ぎるとなぜおもしろくないか。見えにくいねじれのなかにこそ「思想」があるのに、ねじれを「書反」のように明確に見えるものにしてしまうと、それはねじれではなくなるからである。本来のものと明らかに違うということを積み重ねると、それは単なる「方法」になってしまう。
 「初犯」のあと、なんとか「初犯」以前にもどりたいという気持ちがあってこそ、初犯の尾っぽというか、ねじれがそのひとの「人生」そのものになる。よく見えない不思議な陰りとなって、肉体に陰影を与える。隠しているべき「初犯」を「書反」のように明確にしてしまっては、その後は「犯罪」の積み重ねになり、「犯罪」をおかすことが目的になってしまう。目的になってしまえば、そこには「思想」はない。
 この詩は、これまで読んできた『言誤調』や『難破調』のように、無理矢理の「誤記」がない。「視覚」たよって動いているは、ほとんどタイトルだけである。

それらは
あれらで
区別もなく
ぼんやりとした正確さが
曖昧に遠ざけられ
うっかり迂回してしまい
卑しい癒し
貧しい拙さ
臆面も
奥行きもなく
自嘲だらけで
誰になだめられることもなく
誰にたしなめられることもなく
慎みもなく
泣く泣く真意をかすめていく

 この部分には、ことばの美しい自然な「間違い」がある。「うっかり」と「迂回」、「卑しい」と「癒し」、「貧しさ」と「拙さ」……。こういう「音」の動きは自然であり、ことばのどこがねじれているのかもわからない。この「わからないねじれ」こそ、おもしろいのに……。

これからもかりかり誤記する
いつまでも速記で
失念し失禁しながら
侵犯し
書反します

 最後の1行が、この作品を台無しにしていると思う。タイトルと同様、とてもつまらないものにしてしまっていると思う。「視覚」で「わかる」ことは、「視覚」がリードして動いてく予定調和の世界である。
 「侵犯し」は、もしかすると「審判し」かもしれない、と思い、私は興奮したのだが、そういう「読者(私のことだけれど)」の「自由」を「書反」という形で先回りして整えられたのでは、なんだ、東野は最初から「答え」を知っていて書いているだけじゃないか、と思ってしまうのだ。
 またまた城戸朱理が毎日新聞夕刊で書いていたことばを引用してしまうが、

 言葉の意味を解体し、再び構築し、世界と生の意味を問う

 というのは、あくまで「問う」でなければならない。「問い」でなければならない。東野が「答え」を出してしまっては、「問う」ことにはならない。「問い」にはならない。

たまたま
死を死いられた
詩から遠く離れたところで
幻発事故が
減発事故が
言発事故が
暴騒し謀躁し忘葬し
呆煮脳汚染に
たまたま止を刺いられただけのこと
姦満な死を示威られるだけのこと
民な死ぬ

それ唾から諦め要と
またまた
判断低死するのか
市内のか
それ!奈良 胴擦るのか
多々買うのか
飼わないのか
苦すのか
逃げるのか
居間
底が気味の限場である
都地区るって
文違えないようにして
踏み吐怒まる死か泣い
                           (「たまたまの毒者に」)

 これでは、私はこんなに「誤記」(書き損じる)ことができる、という「宣伝」である。
 「誤記」にしろ、書き損じにしろ、「誤記すまい」「書き損じすまい」と思っているのに、なぜか「誤記」してしまう、「書き損じてしまう」から「誤記」であり「書き損じ」なのである。そして、したくないにしてしまうところに、そのひとの「肉体」と「思想」がある。
 「わざと」書いてしまう(視覚でリードしてしまう)のは、単なる方法であり、「頭」の「操作」である。

 あ、また批判的なことばかり書いてしまったなあ。
 少し(?)、感動した部分についても書いておこう。
 「連装遊偽」という、これまたひどい(むごい)タイトルの作品だが、これはとてもいい。特に、次の部分。

あれ ここまで
誰も読んでくれなかったのか
それならば
誰に憚ることもなくやります
尻をむき出しにして日光浴します
のんびり放屁します
それから




失礼しました
私用で数行間とばして不在にしておりました
不在というか
意識がなかったというか
仮死状態でした
いい気持ちでした
すうっと幽体離脱していました
魂の故郷に帰省していました
寄生していた意識を抜き
無人格で
無意識で
しばらく私のことを思い出せなかったのです

 「視覚」にたよらずにことばを動かせば、こんなに自然におかしくて味わい深いこととばになるのに。
 なぜ、東野は「視覚」でことばを動かすのだろう。
 この詩にも、たとえば「数行」の空白という「視覚」があるのだけれど、その「視覚」をきちんとことばで補っている。「視覚」に便乗して(?)、むりやりことばに「答え」を言わせていない。


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東野正『難破調』(2)

2011-05-03 23:59:59 | 詩集
東野正『難破調』(2)(セスナ舎、2011年01月11日発行)

 きのう「。し、の、死!」について触れたとき書き漏らしたことがある。(私は目の状態がよくなく、1回に書く時間を約40分と決めて、ただひたすら書いているので、脱線すると脱線したままになる。)
 「。し、の、死!」にはおびただしい句読点がある。そして、感嘆符の挿入もある。これはいったい何なのだろうか。東野は、句読点を普通の読み方とは違った形でつかっている(少なくとも「学校教科書」では習わない形でつかっている)。もし、句読点が文章の「終わり」と「息継ぎ」を意味するのだとしたら、東野は、普通とは逆の使い方かさえしている。

と思う。何がではな、苦、そう!いき。なり、恥め。る、いや始。
められても異。異、のでは。無い!か、

 たとえば、この書き出しは

と思う。何がではな、苦、そう!いき、なり、恥め、る。いや始、
められても異、異、のでは、無い!か。

 とした方が、いくらか「文」の体裁が整う。「恥め、る。」「無い!か。」で文章がいったん完結する。ところが、東野はそういうスタイルをあえて破壊している。
 ことばは「文章」に則して動くわけではない--そういう意識が東野にはあるのだと思う。そして、私はこの東野の句読点のつかい方に、とても「肉体」を感じる。ことばを書いているときの「肉体」の動きというか、「肉体」のなかでことばにならないことばが動く感じが感じられる。
 ことばを書いているとき、ある「結末」というか、ひとつの文章が想定されているのだけれど、そのことばを書いている途中で(話している途中で)、ふいに脇道にそれてしまいたい欲望に動かされることがある。それは文章をいったん完結させたあと、こういうことも言いたかったと補足してもいいのかもしれない。実際、そんなふうに補足する方が読みやすいし、「意味」が通りやすいのだけれど、あ、これを言いたいのにという欲望は、書きはじめたひとつの文章が完結するまでは我慢していなくてはならない。これがちょっとつらい。我慢している間に気持ちがかわってしまうこともあるからだ。
 そういう我慢をせずに、思いついた瞬間に、思いついたことばを割り込ませる。そういうことをしたら、どうなるのだろう。
 意識の連続と切断が、たぶん「学校教科書」の句読点とはあべこべになる。東野の書いている句読点のように、読点「、」であるところが句点「。」になり、句点「。」であることろが読点「、」になるということがありうる。
 突然の「ことば」の乱入を受け入れ、受け入れながら受け入れた段階でいったん完結させる。句点「。」を使う。しかし、その句点「。」を越えて、ことばが前のことばを引き継ぐ。その引き継ぎの意識が、その次の読点「、」によって回復させられる。--つまり、いま、乱入してきたことばを完結させるために便宜上句点「。」を使ったのだけれど、ほんとうは、ことばはまだまだつづいていくのだ、接続していくのだということを、句点「。」のあとの読点「、」は強調するのである。
 この切断(乱入、逸脱の切断)と、切断を越えていく接続の仕方はとてもおもしろい。早稲田小劇場時代の白石佳代子の朗読で聞いてみたい気持ちにさせられる。ことば「肉体」のなかで独自に動くのだ。「頭」の整理を越えて、「肉体」の内部で融合している感覚を攪拌しながら突然噴出し、その噴出をこらえながら持続していくのだ--という感じがくっきりと浮かび上がると思う。

 そういう視点から読んでいくと、

と思う。何がではな、苦、そう!いき。なり、恥め。る、

 の「な」のあとの読点「、」は句点「。」であった方が、私にはおもしろい。「何がではなく」とことばが動こうとした瞬間、その否定のことばのなかに「苦」に通じるものが紛れ込む。「な」のあとにつづくはずの普通のことばを切断し、「苦」が乱入してくる感じがすると思う。その「苦」とはなんだろう。否定されたものの苦しみかもしれない。
 この乱入、切断、あるいは切断という名の強引な接続--その瞬間、「いき(息)」が止まる。この「肉体」の感覚が「いき。」になる。それから乱入は、これは私がスケベだからそう思うのかもしれないが、強姦、性器の侵入--恥辱へとつながる。そのとき、強姦される苦しみ、そのときの「いき(息)」、そして「恥」ということばが乱れながら交錯する。
 
異。異、のでは。無い!か、

 の「異。異、」は強姦された被害者の異義であり、呼吸であり、異義に反して漏れてしまう「声」かもしれない。
 詩はつづいていく。

                  岩場。固い地盤憎い、を。
打ち込み、底から。安全な設計思想により。確実なものにしたい、
ものにしたいと。ゲスな下心が上心を手ご。め!にして。いやいや
はいいの。

 「固い地盤憎い、を。打ち込み、」は「固い地盤に杭を打ち込み」と切断なしのことばになると、「杭」はそのまま男根になり、「固い地盤」は女の抵抗になるだろう。それでも、なんとか貫通し(姦通し?)、子宮の底(奥)にたどりつけば、「いやいやはいいの」とという、気楽な男根主義の思い込みが射精のように溢れてくる。
 あ、これではフェミニストに叱られると思うのだが、この「肉体」の「呼吸」は、私には信じられる。東野のことばのなかで何か信じることができるものがあるとすれば、この切断と接続から、ふいにあらわれてくる男根主義(男根思想)だろうと思う。男根主義に賛成というのではないのだが、ここには「正直」があると感じられる。
 東野に特徴的な「視覚」の優位性、呼吸さえも句読点によって視覚化するこの「視覚」へのこだわりは、もともと「頭」優位の「男根主義」によるものである。

     知る。詩、と、か言っ。て、途方も泣く、脱。線して、
脱落し。て、途方に、くれ!て、脱丁して、い、苦。都、なんの!
ことも泣くて、いや無。くてそれは詰まり、高度死本趣義の禅面、
的展。開に桶。る水た、まり、いや!金あまりが目にあまり。あま
り金と、縁の。ない私!(私はない?)との問、題に、す愚。それ!
たりす、ることな。く、

 「知る。詩、」は「印、徴」であり、象徴である。
 そして、句読点は東野にとって「肉体」の「象徴」ということになるかもしれない。そういうことを考えさせてくれる(こんなふうに「誤読」を許してくれる)という点で、この詩は非常におもしろい。
 おもしろい--と書きながら、矛盾したことを書くようでもあるのだが、この「肉体」(呼吸)を「文字」にしてみせる手法は、それはそれでいいのだが、その「脱線」を「漢字(表象文字、表徴文字)」に頼ったとき、うーん、私は生理的に反発を感じてしまうのだ。これは私の生理の問題だから、「こんなことを書かれてもそれは私のしようとしていることではない」と東野に反論されるだけかもしれないのだが……。これがもし、漢字ではなく、「ひらがな」として書かれていたら、とてもおもしろいのではないかと思うのだ。「視覚」ではなく「聴覚」だけを頼りに、そのことばが「肉体」のどこをとおってやってくるか、それを「読者」にまかせてしまうと、とてもおもしろいものになるのではないか、と思うのである。

 もっとも、これは「漢字」まじりのことばを読んだあとだから言えることかもしれない。

人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ナボコフ『賜物』(45)

2011-05-03 14:17:50 | ナボコフ・賜物
 ナボコフの視力は強靱である。その強靱さは、私のように目の悪い人間にはときどき苦痛になる。左右の目の視力に差があるひとにしかわからないことかもしれないが……。眼鏡の処方は少しむずかしい問題がある。右目と左目のそれぞれの視力を1・0に矯正したとする。そのレンズの度数に開きがあると、眼鏡をかけたとき「像」がうまく結ばないという障害が起きる。レンズの度数にして2・0差があると、右目の像と左目の像に「遠近」の差ができて、頭が疲れるのである。私の場合、これが1・0でも苦しい。世界が散らばって見える。とてもかけられない。それで、私の場合、右目の視力を中心にして眼鏡をつくり、左目の視力は低いままにしている。--と、わからないひとにはなんのことかわからないことを長々と書いたが……。
 ナボコフの文章を読むと、むりやり視力を矯正したときのように、それぞれはくっきりみえるのだが、「世界の像」としては不完全な、ばらばらの印象になってしまうようなときがある。そして、それでも、なぜかしら、その文章を読まずにはいられないということがおきる。完全な像を結んでくれないのだが、その「完全な像」をむしろ破壊して、何かが輝く--その強さにひかれるのである。

巨大で、鬱蒼として、道多きこの庭園は、その全体が陽光と影の均衡のうちにあった。そして光と影が作り出す調和は夜から夜へと移り変わっていったが、その変わりやすさ自体がまたこの庭園だけに備わった固有のものだった。並木道で熱い光の環がいくつも足下に揺れていたとすれば、遠くでは必ず太いビロードのような縞が横に延び、その向こうには再びオレンジ色の篩(ふるい)の目のような模様が見え、さらにその先、奥のきわまったところには濃密な黒が息づいていた。その黒さを紙の上に移しかえようとしても、水彩画かの目を満足させられるのは絵の具がまだ湿っている間だけで、すぐ色あせてしまう美を引き留めておくためには、次々に絵の具を塗り重ねなければならなかった。
                                (126 ページ)

 「絵の具がまだ湿っている間だけ」がすばらしい。遠い風景が、手の届く紙の上に引き寄せられ、そこで呼吸する。それは遠いところなのに、近い。この遠近の落差を「時間」が埋める。「時間」がつなぐ。そして、その「時間」は「肉体」の時間なのである。
 「すぐ色あせてしまう美を引き留めておくためには、次々に絵の具を塗り重ねなければならなかった。」絵を描く--しかも、その描く作業を「塗り重ねる」という具体にまで引き寄せることでくっきりしてくる「時間」。
 ここに「肉体」の「時間」が書かれているので、私のように目の悪い人間にも、ナボコフの描いている「絵」がくっきりと見える。いや、「絵」全体は見えないのだが、その要だけははっきりと見える。その鮮やかさに、どうしても活字を追ってしまうのだ。




賜物 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集2)
ウラジーミル・ナボコフ
河出書房新社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アッバス・キアロスタミ監督「トスカーナの贋作」(★★★★)

2011-05-03 09:28:25 | 映画
監督 アッバス・キアロスタミ 出演 ジュリエット・ビノシュ、ウィリアム・シメル

 いろいろ驚かされる映像があるが、何より驚くのはジュリエット・ビノシュとウィリアム・シメルが車でトスカーナの街をドライブするシーンである。ふたりをカメラは車のフロントガラス越しに映し出す。そのとき二人の表情に、フロントガラスに映った街(家並み)が重なり、どちらもはっきりとはしない。よく見えない。トスカーナの街もよくわからないし、二人の表情もガラスに映った半透明の街のなかでゆらぎ、どうにもつかみにくい。
 ガラス、鏡、あるいは金属に映る映像は随所に出てくる。ドライブのシーンは全面にそれが映し出されるからまだわかりやすいが、ウィリアム・シメルがジュリエット・ビノシュの画廊を尋ねたシーンでは、室内全体か薄暗い上に、鏡が小さいので、鏡のなかののなかのウィリアム・シメルは、あれは何かなあとよくわからないくらいである。
 そのくせ、たとえばジュリエット・ビノシュがレストランの化粧室で口紅を塗るシーンは鏡を見せない。ジュリエット・ビノシュはカメラを(観客の視線を)鏡であるかのようにしっかりみつめ、口紅を塗る--と書いて思うのだが、
 これってほんとう? 私が見たのは本物のジュリエット・ビノシュ? それとも鏡のなかのジュリエット・ビノシュ? ほんもののジュリエット・ビノシュと見るのが「自然」かもしれないが、絶対に鏡のなかのジュリエット・ビノシュではないとは言い切れない。どちらとも受け取ることができる。
 だいたいほんもののジュリエット・ビノシュと鏡のなかのジュリエット・ビノシュを区別することに何か「意味」があるだろうか。少なくとも、鏡のなかのジュリエット・ビノシュは「鏡像」だとしても「ニセモノ」ではない。
 そういうことは、この世界にはたくさんある。最初に紹介したフロントガラスに映るトスカーナの町並み。それはフロントガラスに映った像である。けれど、それは像ではあるが「ニセモノ」ではない。
 あらゆるものに「ニセモノ」はないのである。
 「芸術作品」には「ほんもの」と「ニセモノ(贋作)」があるが、その「ニセモノ」は「ほんもの」とそっくりだから「ニセモノ」なのである。それは「ニセモノ」ではなく、ある願望が映し出したひとつの「像」なのである。そして、その贋作がたとえば金を稼ぎたいという目的でつくりだされたものだとすれば、そこには金がほしいという「ほんものの」の願望がひそんでいる。
 ひとは、あらゆるものを、自分の願望で塗り込めることで「ほんもの」にする。「願望」がほんものであり、その願望が映し出す(浮かび上がらせる)ものは、何よりも「ほんもの」そのものになっていくのである。
 あ、ちょっとややこしいことを書いてしまった。このままでは、私のことばは動いていかない……。
 で、ちょっと視点をずらして映画にもどると。
 ジュリエット・ビノシュはウィリアム・シメルたまたま入ったコーヒー屋で夫婦に間違えられる。それはほんとうに間違えられたのか、それとも二人の関係が不安定になっているから「夫婦と間違えられた」と告げることで、ジュリエット・ビノシュがウィリアム・シメルとの関係を修復したいと願っているのか、よくわからない。
 ひとつだけはっきりしていることは、何かを「映し出す」ものは鏡やガラスや金属だけではないということだ。ひとも他人を映し出すのである。コーヒー屋の女主人は、ジュリエット・ビノシュとウィリアム・シメルを「夫婦」として「映し出した」のである。「見る」とは何かを自分の色に染めて「映し出す」ということなのである。
 この映画には、ほんものかにせものかわからないジュリエット・ビノシュとウィリアム・シメル以外にも「夫婦」が出てくる。妻を無視して電話に向かって大声をあげている男。トスカーナにある美術品を尋ね歩いている夫婦。年取ってよぼよぼとホテルへ帰る夫婦。--それは、ジュリエット・ビノシュの視線に(あるいはウィリアム・シメルの視線に)映し出された「夫婦」である。ほんとうは違うかもしれない。いや、映画の登場人物の視線ではなく、観客の、つまり私の視線によって「夫婦」として存在するだけかもしれない。ジュリエット・ビノシュとウィリアム・シメルが「夫婦」であるかどうかわからないように、そこに登場する何組かの男女も「夫婦」であるかどうかなど、わからない。たとえ彼らが「夫婦である」と語ったとしても、そのことばがほんとうかどうかはわかりはしないのである。
 わかるのは、--というのは、変な言い方かもしれないが、私にとって、そこに登場する何組かの男女は「夫婦」ととらえた方が、この映画が理解しやすいということである。そして、その理解しやすいということの延長で言うと、私は、この映画のなかでは、ジュリエット・ビノシュが男とセックスをしたいと思っているととらえると、この映画のストーリーがわかりやすい。
 人は誰でも自分の「願望」に映して世界をとらえる。願望が映し出した「世界」の奥には願望が半透明の形で透けて見える。ジュリエット・ビノシュは男がほんとうの夫か、それとも偶然出会った男であるかはどうでもよくて、ただセックスをしたいと思っている。そして、その願望のためなら「夫婦」を装うこともかまわない。「夫婦」は「にせもの」であるけれど「願望」は「ほんもの」であるからだ。
 その「ほんのもの」の願望をに近付くために、彼女は見るものをすべて、その「願望」にかなう姿で定義していく。アメリカから彫刻を鑑賞に来た「夫婦」、彫刻が描き出す男女の関係のなかにある「夫婦」、年をとって支えあう「夫婦」。それは「ほんもの」というよりも、彼女の「願望」がどれだけ「ほんもの」であるかを語るだけのものなのだ。
 そして、そして、そして。
 私はちょっとうなってしまうのだが、このジュリエット・ビノシュの「ほんもの」を「哀しみ」(女のかなしみ)として描き出しているところなのだ。ジュリエット・ビノシュがウィリアム・シメルとセックスをしたいと思っているのは、ふたりが不和に陥った夫婦であり、その不和を解消するためなのか、それとも単に彼がいい男であり、有名人だからなのかわからないが--男と肌を合わせたいと、哀しいまでに願っていると描き出すことなのだ。どうすれば、その気持ちをつたえられるか、ジュリエット・ビノシュ自身もわからない。わからないまま、まるで「ひとつの芸術作品」のように、静かにそれを描き出すということなのだ。
 私はジュリエット・ビノシュを、まるで謎が解かれるのを待っている「芸術作品」の「ほんもの」として見てしまったのだ。それが「ニセモノ」である可能性もあるのだが、「ほんもの」と感じてしまったのだ。

人気ブログランキングへ





桜桃の味 [DVD]
クリエーター情報なし
パイオニアLDC
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東野正『難破調』

2011-05-02 23:59:59 | 詩集
東野正『難破調』(セスナ舎、2011年01月11日発行)

 東野正『難破調』は5冊組の2冊目。再び、「音」の問題を考えてみた。
 「。し、の、死!」という作品。

と思う。何がではな、苦、そう!いき。なり、恥め。る、いや始。
められても異。異、のでは。無い!か、岩場。固い地盤憎い、を。
打ち込み、底から。安全な設計思想により。確実なものにしたい、
ものにしたいと。ゲスな下心が上心を手ご。め!にして。いやいや
はいいの。知る。詩、と、か言っ。て、途方も泣く、脱。線して、
脱落し。て、途方に、くれ!て、脱丁して、い、苦。都、なんの!
ことも泣くて、いや無。くてそれは詰まり、高度死本趣義の禅面、
的展。開に桶。る水た、まり、いや!金あまりが目にあまり。あま
り金と、縁の。ない私!(私はない?)との問、題に、す愚。それ!
たりす、ることな。く、

 おびただしい句読点と、当て字。これは、「目」で読まないかぎり、なんのことかわからない。私は黙読しかしないが、この詩は、しかし「黙読」と同時に「音読」を強いる。「音読」しないと、「意味」が成り立たない。というと、東野が「音」を「肉体」としてことばを動かしているということになってしまうが、私の書いた「音読しないと意味が成り立たない」は方便である。とりあえず、そう説明しただけのことであり、私は東野書いている「文字」と「音」、そして「意味」の関係に、とても疑問を持っている。
 「音」を「正確」に書いてしまえば、(正しい文字のつかい方で、東野のことばを書いてしまうと)、この詩はなんでもないことばの羅列のようになってしまう。それを東野は「文字」を不自然な形で使うことで破壊して見せる。当て字だけではなく、句読点もわざと「学校教科書」とは違った形で書いてしまう。
 このときの「わざと」が、「無意味」ではなく「意味」を持っている。持ってしまう。そこに、私は、とてもいやなものを感じる。「視覚」優先の「頭」を感じる。東野は「視覚」によって、別の「意味」をことばのなかに持ち込むことを「破壊」ととらえているような気がするのだ。
 たとえば、引用した最後の部分、

問、題に、す愚。それ!たりす、ることな。く、

 「問題にすぐそれたりすることなく」という「音」をばらばらにして、そこに「愚」という「文字」をあてる。そして、問題がそれることに「愚」の「意味」をつけくわえる。「誤読」(間違い)とはもちろん「違った意味」へつながっていくのだが、それはこんな簡単に(?)「文字化」できるものではない。「文字」以前に、いろいろな「肉体」をとおって、「ことば」以前の共通感覚のなかで、ことばがゆらぎ、本来の「肉体」とは違う径路を切り開くものなのだ。東野は「視覚」という径路を開いているつもりかもしれないが、「すぐ」を「す愚」と書くことは「視覚」という径路を切り開いているのではなく、「肉体」の外にある「文字」を「視覚」を利用して「肉体」に取り込んでいるだけなのである。そのとき「肉体」は何の変化もしていない。「肉体」のどの感覚も新しい感覚にめざめていない。つまり、東野はことばをとおして生まれ変わってはいない。
 ここに一番の問題がある。
 ことばをあくまで「肉体」の外にあるものととらえる「二元論」を東野は、東野のことばの運動のよりどころとしている。そして、その「二元論」の基本(?)となっているのが、東野の場合「視覚」なのだ。
 「肉体」と「文字」をわけたように、東野はことばを「文字」と「音」にわけ、「音」にわざと違った「文字」をあてることで、ことばを変化させる。「文字」なしにはありえない「誤読」--これが東野の詩である。
 こうした「誤読」があってはいけないというのではない。私には、どうにも納得できないというだけのことである。
 少し補足すると、東野の書いている詩、ことばの「誤読」は、「文字を読めない(読まない)」ひとには通じない「誤読」である。いま、たしかに日本人の識字率は非常に高くて、文字を読めないひとは皆無と言っていいかもしれない。しかし、ことばは、識字率が高くなる前からあったし、文字を知らないひとは知らないひとで、「誤読」をするものなのである。
 たとえば、唱歌の「故郷」。「うさぎおいし、かのやま」。それを「うさぎ追いし」ではなく「うさぎ、おいしい(美味しい)」と誤読するとき、ひとは「文字」によって「誤読」するわけではない。「赤とんぼ」の「負われて見たのは」を「追われて見たのは」と「誤読」するのも「文字」によってではない。「文字」はむしろ、「誤読」を修正するものなのである。
 ことばを「修正する」(整える)ものである「文字」--これは、「視覚」は情報を「修正する」ということにもつながる。「百聞は一見にしかず」も「視覚」が「聴覚」を修正するということを語るものかもしれない。これは「視覚」の方が、他の感覚よりも上位にあるということの証明かもしれない。証拠かもしれない。ひとが、効率化をめざし、より上位の感覚を研ぎ澄ますのは、それはそれで正しい方向なのかもしれない。(資本主義の効率化にそった方向なのかもしれない。)正しい方向なのかもしれないが、私は、何かいやなものを感じるのである。「肉体」がどこかで否定されているように感じるのである。「頭」が優先され、「肉体」が置き去りにされていると感じてしまうのである。

 城戸朱理は、東野の詩を評価して「言葉の意味を解体し、再び構築し、世界と生の意味を問う」と書いていたが、その解体と再構築が「視覚」によっておこなわれるとき、世界と生の意味は、どれだけ「効率的であるか」という資本主義の原理にそった形でしか動かない。「生」は効率主義によって分類されてしまう。世界は効率的な「生」を優先して、より効率的な「世界有機体」をめざすことになりはしないか。

 この詩集には、「音」の「ずらし」を遊んでいる作品もある。「東西西洋哲学人迷辞典」。

朝田あきられる
 僕のはカルイとかいって、ちゃっかりチャートでちゃっかりもう
 けた、スマートなちゃっかり屋。うっかり、ちゃっかりという単
 語を何回も使ってしまった。悪影響だろうか。

アリストテレス
 哲学やるなんてクラーイと周囲の人からヤジや石を投げつけら
れ、ストレスのため胃カイヨウに苦しんだ顔が評価された人。

アルキウメキデス
 歩きながらうめくという高尚な奇癖のため、衆愚の人々は遠巻き
にして石を投げつけたといわれている。やっぱり厄介者だったらし
い。

 これは「ちゃかし」の類である。もちろん、そこに「意味の解体」も「再構築」もある。ただし、それは、こうした作品を一冊にしないと「世界の意味を問う」までにはいたらない。逆に「周囲の人々」「衆愚の人々」ということばが、私には気になって仕方がなくなる。石を投げつけなかった「衆愚の人々」ではなかった人はどうしたの? つまり、そのときいっしょに「世界の意味を構築した人々」は? また、「衆愚の人々」ということばを使うとき、東野はどんな人なのか。
 ここから「世界の再構築」が始まるなら、私は、それを警戒したいと思う。
 あ、また城戸朱理のことばに引っ張られて東野を読んでしまったかなあ。



空記―東野正詩集 (1981年)
東野 正
青磁社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷川俊太郎「言葉」

2011-05-02 19:09:33 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「言葉」(「朝日新聞」2011年05月02日夕刊)

 谷川俊太郎は朝日新聞で毎月「○月の詩」を書いている。「4月の詩」を私は読み落としている。読んだ記憶がない。4月からコーナーがなくっなったのか、とも思っていた。そして、きょう「5月の詩」を見つけた。

言葉

何もかも失って
言葉まで失ったが
言葉は壊れなかった
流されなかった
ひとりひとりの心の底で

言葉は発芽する
瓦礫(がれき)の下の大地から
昔ながらの訛(なま)り
走り書きの文字
途切れがちな意味

言い古された言葉が
苦しみゆえに甦(よみがえ)る
哀(かな)しいゆえに深まる
新たな意味へと
沈黙に裏打ちされて

 これは、東日本大震災のことを書いた詩である。東日本大震災を経て、ことばがどんなふうに生き残ったか、さらに活動しはじめたかを、書いている。もし「4月の詩」に谷川が大震災のことを詩に書いているのだとしたら、私がこれから書くことは、「誤解」を含んだものになる。「4月の詩」がなかった(あるいは、あったとしても震災を書いた詩ではなかった)という前提で私は考えている。あらかじめことわっておく。

 この詩を読んで、私が最初に思い出したのは、季村敏夫の『日々の、すみか』である。「阪神大震災」のことを書いている。その詩集のなかで季村は「出来事は遅れてあらわれた。」という不思議なことばを書いていた。これは、私にはとても衝撃的だった。阪神大震災は「遅れて」あらわれたのではなく、「備え」も何もないとき、つまり「早すぎるくらい早く」あらわれた、そのため人は何もできなかった、というのが「事実」だと思っていたからである。けれど季村は「遅れて」と書いた。それは、ことばにすることよって(書くことによって)、阪神大震災ははじめて阪神大震災になったということだと思った。実際に震災は起きた。けれど、それをずーっと遅れてやっとことばにすることができるようになったとき、はじめて「阪神大震災」になった。それまでは、いったい何が起きたのか、それを体験した人たちもわからなかった、納得できなかったという意味だと思った。「出来事は遅れてあらわれた」は正確(?)には、出来事を語ることばは遅れてあらわれた、そしてことばによって語られることで「出来事」そのものになった、ということなのだ。
 このことは、東日本大震災においても同じだと思う。東日本大震災は、少しずつことばになることで、大震災そのものになっていくのだ。そして、このことばは遅れてやってくるというのは、谷川俊太郎においても同じなのだ。天才詩人においても、ことばはすぐにやってこてい。東日本大震災のような、誰も体験したことのないことを語ることばはすぐにはやってこない。すぐには何も語れないのである。
 大震災から1か月以上たち、やっと、谷川も大震災をことばにすることができるようになったのだ。(くりかえし断っておくが、谷川が「四月の詩」に大震災のことを書いていない、という前提で私は書いている。)
 そして、実際に、ことばがやってききてみると、そのことばはかつて季村が書いていたことばの形ととても似ている。

昔ながらの訛り

言い古された言葉

 新しいことばではないのだ。語りはじめは、どうしても「知っていることば」を使うしかないのである。「知っていることば」では「新しく起きた出来事」は語ることができない。そうわかっていても、まず「知っていることば」、昔ながらのことば、肉体になじんでいる訛りの残ることば、言い古されたことばで語るしかないのだ。
 そして、その「言い古された言葉」は「言い古されたもの」だけれど、新しい。「苦しみ」ゆえに。「哀しみ」ゆえに。谷川は、そのことをつかみとるまでに1か月かかったということだろう。この1か月は「長い」かもしれないし、「短い」かもしれない。--私には「短い」と感じられる。私は、いったい、自分が何を語れるか、何もわからないからである。
 そして、思うのだ。
 季村敏夫が『日々の、すみか』を書かなかったら、きっと「東日本大震災」後の詩の動きはもっと遅かったと思う。季村が「出来事は遅れてやってくる」、つまり「ことばは遅れてやってくる」ということを正確につかみとり書いたということがあったので、多くの詩人たちは、「遅れて」書くしかないのだとわかったのだ。
 和合亮一がツイッターで書いていることばも、たしか大震災から数日たってから動きはじめていると記憶している。(私は、目の事情もあって、ツイッターは読んでいない。報道で知っているだけなので、ちょっとあいなまいなのだが……。)
 ことばが、いつ、大震災に追いつけるのか--それはわからない。わからないけれど、追いつくまで書くしかないと思う。



 谷川の詩の感想から、どんどん離れてしまうが、私が大震災後に読んだことばのなかで、忘れることができないのは「ありがとう」ということばである。被災された方々が、ことあるごとに「ありがとう」と言っている。助けてくれたひとに対し、支援活動をするひとに対し、「ありがとう」と言っている。
 哀しみや苦しみがことばにならないくらいたくさんあるはずなのに、その哀しみや苦しさを訴えることばよりも先に「ありがとう」という。「ありがとう」は谷川のことばを借りるまでもなく「言い古された言葉」であり、「昔ながら」のことばである。それでも、そのことばが一番新しく私には聞こえる。全く新しいことばに聞こえる。
 「ありがとう」ということばを教えてくれて「ありがとう」、そう言う以外に、私はまだ大震災に対してことばを動かすことができない。
 




これが私の優しさです 谷川俊太郎詩集 (集英社文庫)
谷川 俊太郎
集英社
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東野正『言誤調』

2011-05-01 23:59:59 | 詩集
東野正『言誤調』(セスナ舎、2011年01月11日発行)

 東野正『言誤調』は5冊組の詩集のうちの一冊である。『難破調』『書損調』『戯私調べ』『比熱調』とつづく。
 城戸朱理は2011年04月26日の毎日新聞夕刊(西部本社発行)文化欄「詩の遠景・近景4月」で、東野の詩集「書き損じ、言い間違いを積極的に生きることで、私という主体と世界を言葉の次元から考察しようとする詩集」と定義した上で、

言葉の意味を解体し、再び構築し、世界と生の意味を問う大冊である。

 と評価している。
 ふーん、そうなのか。

 私の印象は、ずいぶん違う。(と、いっても読みはじめたばかりなので、たぶん私の感想は詩集全体をとらえきってはいないだろうけれど)。
 5冊の詩集のタイトルを並べてみると、全部「調」がついている。「調」って何? 東調子、調べ、かな? そうとらえていいのかな? 詩集から、どんな「調子」や「調べ」が聞こえるか。
 「悲迷」という作品。

唐突な の異常分娩に便乗し分乗し
異様な を吐き散らし撒き散らし
銑舌な と寡黙な言葉の衝突実験で
砕けた に珍み出た沈黙を追い詰めひきずり倒し
呆けた は失禁し意味を失念し
無音の へ騒々しく踏み込み踏み外し
狂乱の が乱交を重ねる様を楽しむ
制度の で内側で自己規制する自虐の帝国
空虚な がたくみに地図を捏造してしまう

 「悲迷」は「ひめい」と読むとき、「悲鳴」と重なる。ここにはたしかに「音」があるから、「調べ」もある。でも、この「調べ」と、詩を読みはじめるとすぐに消える。「分娩に便乗し分乗し」「吐き散らし撒き散らし」という「音」の重なりや「ずらし」もあるにはあるのだが、それよりも行頭に3文字を並べ、1字空きのあとにことばをつなげるという「構造」の方が目に飛びこんでくる。「音」よりも「文字」、「耳」よりも「目」、「聴覚」よりも「視覚」。
 東野は、耳で受け止める「調べ(調子)」よりも、目で理解する「何か」を「調」と呼んでいることがわかる。東野は「調」ということばをつかっているが、基本的には目の詩人、視覚の詩人である。
 「銑舌な」「珍み出た」というのは、私には読めない。東野が正しくそう書いているのか、印刷過程で発生したことがらなのかわからないが、これが「誤植」だとしたら、これはやはり東野の「視覚」詩人のひとつの「証拠」になるかもしれない。ことばを「音」ではなく「形」でとらえているので、形に共通のものがあれば、それを混同してしまうのである。
 行頭の3字ずつの構成も、まず「視覚」調べ、形の「共通性」を優先している。
 視覚の「調べ」、視覚優先の「調子」だから、「分」娩「分」乗、便「乗」分「乗」があり、吐き「散」らし撒き「散」らし、「失」禁「失」念、「自」己規制「自」虐とことばが動くのである。「音」も重なるが、「音」より先に「漢字」がまず動く。それを「音」が追いかけている--視覚情報を聴覚情報で補っているというのが東野の「調」である。
 東野が視覚の「調」を優先しているのは、「迷私」を「見る」とさらにはっきりする。

引きずり回してきた<私>
と引きずられてきた<私>
の間で引き裂かれた<私>
を見つめている<私>
とは全く関係ない<私>
と言い切っている<私>
をいじいじ後ろめたく思う<私>
の背中を思いっきり叩く<私>
に咳こむ<私>
それを本当の<私>
だと思い詰めている<私>

 <私>が各行のおわりに繰り返される。私が目立つように<私>と括弧でくくられている。「音」よりも「視覚印象」がことばを動かしている。

 これから書くことは、私の、独断・偏見の類になるのだが……。

 私は、こうした「視覚」優先のことばというものを信じていない。「頭」で書かれたことばというものを信じていない。
 人間が持っている感情だとか思想だとか、いろいろな情報伝達手段には、さまざまなものがある。「文字」をはじめとする「視覚」を利用した情報伝達手段は、とてもたくさんのことを盛り込める。だから人間に不可欠なものである。私は失明の危険があって眼を手術したから、目の大切さは十分知っているつもりだが、どうも「視覚」の世界というのは(視覚が伝える世界、視覚から受け取る世界は)いのちの本質とは違うような気がするのである。
 飛躍した言い方になるが、どんな動物も「声」をつかって何事かをつたえる。(もちろん動作も使うのだが。)文字とか絵とか、視覚表現で何かをつたえるということは人間しかしない。これはたぶん、人間が他の動物たちよりも生きる力が弱くて、その弱い部分を補うために「発明」した「道具」なのだと思う。この発明により、人間は他の動物たちよりも「進歩」しているように感じられるが、この「進歩」というものが、私にはうさん臭く感じられるのである。「声」(音)、肉体をとおって動く何かの方が、いのちを超えてつたわっていく。つたえることができる。
 ばかばかしい例かもしれないが、わが家には犬がいる。「声」をつかいわける。そして、そのつかいわけによって、「意味」がわかる。犬は絵を描かない。文字も書かない。けれど、「声」で人間と交流ができる。(もちろん、態度でも、できるが。)犬が猫と出会ったとき、猫が「ふーっ」と「声」で威嚇する。違う種類の動物が「声」をとおして何かをつたえあう。「声」は、きっといのちに深くかかわっているのだ。
 そしてまた、鳥を見ていてもそういうことを感じる。烏は何やらときどき変な声を出す。危険を知らせたり、こっちに餌があるぞと呼んだりしている。そのときも伝達手段は「声」なのだ。そして、その「声」というのは「ことば」ではなく、それこそ「調べ」なのだ。「声の調子」なのだ。
 この「調子」は、どうも動物の種類、動物と人間の垣根を越える。犬でも猫でも鳥でも、痛いときの「悲鳴」には何か共通の「響き」がある。苦しいときも共通の「響き」がある。
 だから、同じ人間でありながらことばの違う外国人の場合でも、「声」からいのちにかかわることは知ることができる。あ、苦しんでいる、なんとかしなきゃ、とわかる。

 「調べ」「調子」というのは、何か人間にとって、動物にとって根源的なものなのだ。(声以前の、つまりことばにならないもの、ことば以前のもの、匂いや味、触った感じなどは、もっと根源的かもしれない。)
 これに比べると「視覚」というのは、いわば洗練されすぎた情報である。「肉体」ではなく「頭」で処理された「意味」という感じがする。
 「悲迷」にもどると、それは「誤読」(誤記)というより、「頭」で処理された「もじり」だろう。そこに「意味」がある。最初から「意味」がつくられている。「文字」で「意味」をつくりだしている。そこには「調」はないのだ。

 繰り返しになるが(言い直しになるが、というべきか)、東野のことばには「調」はない。「調」のかわりに「頭」で処理された「意味」がある。「意味」を伝達する(流通経路にのせる)効率性がある。
 この効率性を指して、たぶん城戸は「言葉の意味を解体し、再び構築し、世界と生の意味を問う」の「問う」(問い方--思想のスタイル)と呼んでいるのだと思うが、私は城戸の「思想スタイル」にはなじめない。どうも、賛成できない。
 たとえば「自己検証」という作品。

言葉を宇宙大に縮小し
無意味を意味に退化させ
捏造された世界を攪拌し
無意識層を変換する

 これは、城戸の書いている「言葉の意味を解体し、再び構築し、再び世界の生と意味を問う」という操作だけれど、でも、いったい何のこと? どの「言葉」を宇宙大に拡大する? その「言葉」は「いつ」「どこ」で、「だれ」に対して言われた?

 抽象の世界がこわいのは、それが間違えないこと。そして、「正しい」を押しつけてくることだなあ--と、城戸と東野の詩集を結びつけて読んだときに、ふと「ひとりごと」として漏れてしまった。
 ちょっと東野には申し訳ない。城戸の文章を読まずに、東野の詩集を先に読んでいれば、違った感想を書いたかもしれない。





空記―東野正詩集 (1981年)
東野 正
青磁社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする