城戸朱理「「世界-海」からの三篇」(「現代詩手帖」2010年01月号)
きのう読んだ高貝の作品、そのことばから私は「音楽」と、ことばの「肉体」を感じる。そういうものを感じたとき、私は感想書きたくなる。
一方、「音楽」をまったく感じることができない作品も多く流通している。そういう作品は私はとても苦手である。読んでいて楽しくなれないのである。たとえば、城戸朱理の作品。その、ことば。そこには「肉体」がなく、「頭」だけがある、というふうに私には感じられる。
城戸はきっと「頭」のいい詩人なのだろう。その「頭」のよさに私はついていけない。ただそれだけのことなのかもしれないけれど、少しだ書いておきたい。
3篇のうちの「動かぬ太陽」。その書き出し。
ここに書いてある文字を私は「誤読」することはない。(と、思う。)カタカナ難読症の私はカタカナを引用することも苦手だが、アケビ、ツルはもちろんだが、イスラームやディスプレイもなんとか正確に引用できていると思う。間違いなく引用できているとしても、私は、この部分を正確に読んでいるという「自信」のようなものをまったくもてない。
たとえばきのう書いた高貝の作品に対する感想、あるいはその前に書いた目黒裕佳子の作品、谷川俊太郎の作品に対する感想は、だれかが(あるいは詩人本人が)「それは誤読だ、そんなことは書いていない」と批判したとしても、その批判に対して私は反論できる。そういう自信というと変だけれど、思い込みの「愛着」がある。誰がなんといおうと、私はそういうふうに読むことが好き。詩は書いた瞬間から読者のもの、作者がなんて思うおうと知ったことじゃない、と開き直れる「自信」のようなものがある。
けれど、城戸の作品は「誤読」をさせてくれない。とても窮屈なのだ。
1行目は、私にはよくわかる。アケビも、アケビのツルも知っている。どの山のどのアケビが一番先に熟れるかも知っている。私の「肉体」はそういうものを、一緒に野山で遊んだ友達の「肉体」と一緒に抱え込んでいる。
けれど2行目の「イスラーム」はもうわからない。イスラームに私の「肉体」は触れたことがない。いくらかの知識は「頭」のなかにあるけれど、それは私の知っている「夜明け」とはつながらないし、アケビのツルにもつながらない。3行目の「“核爆弾”の閃光」になると完全にわからない。テレビや映画でそれらしいものを見た記憶はあるが、それが「ほんもの」であるかどうか私の「肉体」は判断しない。判断できない。だから、実際に核爆弾の閃光を肉体で受け止めたとは思えないひとが、城戸が、そういうものを自分のことばとして書き記したとしても、そのことばをそのまま信じることができない。それは、いったい誰のことば?という疑問が残るだけである。
城戸に言わせれば、それは「人類」のことばになるのだろう。
でも、「人類」とは何なのだろう。私はその「意味」を一応「頭」では知っている。けれど「肉体」としては知らない。
私はたとえばあったことのない目黒裕佳子、谷川俊太郎、高貝弘也の「肉体」さえ、そのことばをとおして「知っている」と言えるけれど、「人類」となると知らないとしかいえない。「人類」などというものに親近感を感じない。あくまで、ひとりの人間、そしてその人間とつながっている具体的なだれかとの関係性--そういうものにしか親近感を感じられない。親近感を感じられないものに「名前」をつけて語ることなどできない。
「人類」は「名前」ではない--と城戸は反論するかもしれない。もちろん「人類」は「名前」ではない。だからこそ、問題なのだ。詩とは、すべての存在に対して「名前」をつけることである。詩人が独自に、世界に対して「名前」をつける。詩とは、詩人それぞれの「外国語」なのだ。目黒裕佳子の詩、谷川俊太郎の詩、高貝弘也の詩が「日本語」に書かれているように見えても、それは「日本語」ではなく、それぞれの「外国語」である。だからこそ、読者は「誤読」を積み重ねながら、その「誤読」のはてに、あ、こういうことだったのか、やがて「肉体」で受け入れるしかないものである。「頭」で翻訳しつづけるものではない。大学の受験のように「答え」をもとめて「翻訳」するものではないのだ。
「イスラーム」にも「核爆弾の閃光」にも、私はその「名前」をつけた城戸の「肉体」を感じることができない。城戸はそういうものに「頭」で「名前」をつけている、と私は感じる。
それが極端な形であらわになったのが「人類」である。
だいたい「人類」が何かを忘れるということは絶対にない。核爆弾の閃光に関してだけ考えてみてもわかる。実際にその閃光の犠牲になった人は一日だってそれを忘れはしない。何かの拍子で笑いころげたとしても、その瞬間も、それを忘れているのではない。人間はふたつのことを同時にできないから、たまたま笑いころげているだけであって、悲劇の閃光はいつでも「肉体」のなかに生きていて、いつでも思い出すことができる。忘れることができない。そして、そのひとからその体験、その「肉体」としてのことばを聞いた人は、そのことばを自分自身の「肉体」とする。それは永遠につづく。どんなことでも必ずひとはそれを語る。語れば、それを聞くひとがいる。その積み重ねでことばは動いている。その積み重ねのなかには「誤読」が一杯つまっている。すべてが「誤読」かもしれない。そうであっても、それは「忘れる」ということではない。
少なくとも、私の「肉体」は、そんなふうに主張している。
わからないねえ。「収縮」も「弛緩」もことばとしての「意味」は知っているけれど、人間がことばの海のなかで収縮したり弛緩したりすると書かれても、どんな具合に収縮するのか、あるいは弛緩するのか書いてなければ、それはすべて「頭」の世界。「肉体」には無縁の、空虚な世界。
収縮、弛緩を具体的に--とは。
たとえば、きのう読んだ詩では、高貝は、あるときは「腹白い魚」(たぶん、さかな、と読ませる)と書いたかと思うと、別のところでは「魚(うお)」と書く。魚が「さかな」になったり「うお」になったりする。その変化のなかに高貝の収縮か、弛緩か、あるいはまた別の名前で呼ばれるなかにであるのかわからないけれど、動き、変化がある。「裏返す」「うら反っている」も同じ。なぜ、違う文字? なぜ、違う読み方? わからない。そんなことは高貝の「肉体」だってはっきりとは理解していない。理解していないけれど「肉体」はそんなふうに動く。そして、そんなふうに動く「肉体」は「頭」と違って「核爆弾の閃光」を発するようなことはしない。
私はばかだから、そんなふうに考える。そして、ばかだと自覚しているからこそ、「頭」には騙されたくないとも思う。「肉体」にできることはせいぜいげんこつで殴ることくらいである。私は、そういうものを信じている。
「頭」はげんこつでは自分の「肉体」が痛いので、それは困る、棒で殴ろう、いや近くであばれると反撃されるおそれがあるから遠くからピストルで撃ってしまえ、ということになる。その行き着く果てが核爆弾かもしれない。(もっと果てがあるかもしれないが。)
あ、「頭」で書かれた詩は嫌い--とひとこと書けばよかっただけなのかもしれないけれど……。
きのう読んだ高貝の作品、そのことばから私は「音楽」と、ことばの「肉体」を感じる。そういうものを感じたとき、私は感想書きたくなる。
一方、「音楽」をまったく感じることができない作品も多く流通している。そういう作品は私はとても苦手である。読んでいて楽しくなれないのである。たとえば、城戸朱理の作品。その、ことば。そこには「肉体」がなく、「頭」だけがある、というふうに私には感じられる。
城戸はきっと「頭」のいい詩人なのだろう。その「頭」のよさに私はついていけない。ただそれだけのことなのかもしれないけれど、少しだ書いておきたい。
3篇のうちの「動かぬ太陽」。その書き出し。
ぶら下がるアケビのツルに似た、
イスラームのような夜明け
“核爆弾”の閃光から
液晶ディスプレイの明滅まで
さまざまな光を経験していると
人類はつい“太陽”を忘れがちになる
ここに書いてある文字を私は「誤読」することはない。(と、思う。)カタカナ難読症の私はカタカナを引用することも苦手だが、アケビ、ツルはもちろんだが、イスラームやディスプレイもなんとか正確に引用できていると思う。間違いなく引用できているとしても、私は、この部分を正確に読んでいるという「自信」のようなものをまったくもてない。
たとえばきのう書いた高貝の作品に対する感想、あるいはその前に書いた目黒裕佳子の作品、谷川俊太郎の作品に対する感想は、だれかが(あるいは詩人本人が)「それは誤読だ、そんなことは書いていない」と批判したとしても、その批判に対して私は反論できる。そういう自信というと変だけれど、思い込みの「愛着」がある。誰がなんといおうと、私はそういうふうに読むことが好き。詩は書いた瞬間から読者のもの、作者がなんて思うおうと知ったことじゃない、と開き直れる「自信」のようなものがある。
けれど、城戸の作品は「誤読」をさせてくれない。とても窮屈なのだ。
1行目は、私にはよくわかる。アケビも、アケビのツルも知っている。どの山のどのアケビが一番先に熟れるかも知っている。私の「肉体」はそういうものを、一緒に野山で遊んだ友達の「肉体」と一緒に抱え込んでいる。
けれど2行目の「イスラーム」はもうわからない。イスラームに私の「肉体」は触れたことがない。いくらかの知識は「頭」のなかにあるけれど、それは私の知っている「夜明け」とはつながらないし、アケビのツルにもつながらない。3行目の「“核爆弾”の閃光」になると完全にわからない。テレビや映画でそれらしいものを見た記憶はあるが、それが「ほんもの」であるかどうか私の「肉体」は判断しない。判断できない。だから、実際に核爆弾の閃光を肉体で受け止めたとは思えないひとが、城戸が、そういうものを自分のことばとして書き記したとしても、そのことばをそのまま信じることができない。それは、いったい誰のことば?という疑問が残るだけである。
城戸に言わせれば、それは「人類」のことばになるのだろう。
でも、「人類」とは何なのだろう。私はその「意味」を一応「頭」では知っている。けれど「肉体」としては知らない。
私はたとえばあったことのない目黒裕佳子、谷川俊太郎、高貝弘也の「肉体」さえ、そのことばをとおして「知っている」と言えるけれど、「人類」となると知らないとしかいえない。「人類」などというものに親近感を感じない。あくまで、ひとりの人間、そしてその人間とつながっている具体的なだれかとの関係性--そういうものにしか親近感を感じられない。親近感を感じられないものに「名前」をつけて語ることなどできない。
「人類」は「名前」ではない--と城戸は反論するかもしれない。もちろん「人類」は「名前」ではない。だからこそ、問題なのだ。詩とは、すべての存在に対して「名前」をつけることである。詩人が独自に、世界に対して「名前」をつける。詩とは、詩人それぞれの「外国語」なのだ。目黒裕佳子の詩、谷川俊太郎の詩、高貝弘也の詩が「日本語」に書かれているように見えても、それは「日本語」ではなく、それぞれの「外国語」である。だからこそ、読者は「誤読」を積み重ねながら、その「誤読」のはてに、あ、こういうことだったのか、やがて「肉体」で受け入れるしかないものである。「頭」で翻訳しつづけるものではない。大学の受験のように「答え」をもとめて「翻訳」するものではないのだ。
「イスラーム」にも「核爆弾の閃光」にも、私はその「名前」をつけた城戸の「肉体」を感じることができない。城戸はそういうものに「頭」で「名前」をつけている、と私は感じる。
それが極端な形であらわになったのが「人類」である。
だいたい「人類」が何かを忘れるということは絶対にない。核爆弾の閃光に関してだけ考えてみてもわかる。実際にその閃光の犠牲になった人は一日だってそれを忘れはしない。何かの拍子で笑いころげたとしても、その瞬間も、それを忘れているのではない。人間はふたつのことを同時にできないから、たまたま笑いころげているだけであって、悲劇の閃光はいつでも「肉体」のなかに生きていて、いつでも思い出すことができる。忘れることができない。そして、そのひとからその体験、その「肉体」としてのことばを聞いた人は、そのことばを自分自身の「肉体」とする。それは永遠につづく。どんなことでも必ずひとはそれを語る。語れば、それを聞くひとがいる。その積み重ねでことばは動いている。その積み重ねのなかには「誤読」が一杯つまっている。すべてが「誤読」かもしれない。そうであっても、それは「忘れる」ということではない。
少なくとも、私の「肉体」は、そんなふうに主張している。
言葉は粒子のように波立ち
人間はその海のなかで
“収縮”したり
“弛緩”したりする
わからないねえ。「収縮」も「弛緩」もことばとしての「意味」は知っているけれど、人間がことばの海のなかで収縮したり弛緩したりすると書かれても、どんな具合に収縮するのか、あるいは弛緩するのか書いてなければ、それはすべて「頭」の世界。「肉体」には無縁の、空虚な世界。
収縮、弛緩を具体的に--とは。
たとえば、きのう読んだ詩では、高貝は、あるときは「腹白い魚」(たぶん、さかな、と読ませる)と書いたかと思うと、別のところでは「魚(うお)」と書く。魚が「さかな」になったり「うお」になったりする。その変化のなかに高貝の収縮か、弛緩か、あるいはまた別の名前で呼ばれるなかにであるのかわからないけれど、動き、変化がある。「裏返す」「うら反っている」も同じ。なぜ、違う文字? なぜ、違う読み方? わからない。そんなことは高貝の「肉体」だってはっきりとは理解していない。理解していないけれど「肉体」はそんなふうに動く。そして、そんなふうに動く「肉体」は「頭」と違って「核爆弾の閃光」を発するようなことはしない。
私はばかだから、そんなふうに考える。そして、ばかだと自覚しているからこそ、「頭」には騙されたくないとも思う。「肉体」にできることはせいぜいげんこつで殴ることくらいである。私は、そういうものを信じている。
「頭」はげんこつでは自分の「肉体」が痛いので、それは困る、棒で殴ろう、いや近くであばれると反撃されるおそれがあるから遠くからピストルで撃ってしまえ、ということになる。その行き着く果てが核爆弾かもしれない。(もっと果てがあるかもしれないが。)
あ、「頭」で書かれた詩は嫌い--とひとこと書けばよかっただけなのかもしれないけれど……。
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