詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジャ・ジャンクー監督「山河ノスタルジア」(★)

2016-05-09 07:51:21 | 映画
監督 ジャ・ジャンクー 出演 チャオ・タオ、チャン・イー、リャン・ジンドン

 人はときに自分自身の「感情」さえも裏切る。自分の「感情」を間違える。けれど、変わらないものがある。母が子を思う愛、子が母を思う愛。それは、故郷への愛と同じもの。
 ということが、テーマ。ちょっとめんどうくさいのは、母子の愛と、故郷への愛の描き方というか、それがテーマになる「根拠」に「資本主義」がからんでくるところ。でも、めんどうくさいとはいうものの、その関係がわかりやすすぎて全然おもしろくない。心の問題なのに、簡単に「図式」にできてしまう。

 先走りすぎたので、少しずつ、映画に沿って書いてみる。
 タイトルまでの三角関係が長い。それだけで一篇の映画にしてしまえばいいのにと私は思うが、ジャ・ジャンクーは「山河」にならない、と思うらしい。
 たしかに、最初に描かれる三角関係だけを描いていては、愛しい山河ではなく、山河を荒らしてしまう「資本主義」というか、資本主義によって荒らされる中国の自然になってしまう。しかし、それはそれでいいじゃないか。資本主義によって踏みにじられる山河、資本主義によって奪いさられる純粋な愛、その苦痛を描けば、その向こう側にかけがえのない山河、かけがえのない愛が見えてくるだろう。
 そこで完結させずに、それを母と子どもの、互いを求める愛というところまで描くのはなぜか。基本的なストーリーテーマは「母と子の愛」なのだが、ここに「裕福な中国人の亡命(中国からの脱出)」を重ね合わせると、違ったものが見えてくる。故郷、変わらぬ山河への愛を捨てられない中国人の悲しみが浮かび上がる。
 資本主義によって女を略奪し(?)、その後、その女と離婚し、子どもは自分のものにするという形でさらに女を傷つけた男。(捨てられた男は炭鉱で肺をやられ、死んでしまう。そういうところへ追いやるという形で、男は親友をも傷つけている。)その男はさらに資本主義の権化となって稼ぐだけ稼いで、オーストラリアに亡命(?)し、息子と二人で暮らしている。金にはまったく困らない。ありあまっている。「自由」のように見えるが、まったく自由はない。同じように金をかかえて中国を脱出してきた中国人(老人たち)と「コミュニティー」をつくり、そこで暮らしている。リトルチャイナの老人ホームのような雰囲気。
 中国人ばかりがあつまるのは、彼らが中国語しか話せないからという理由もあるが、それ以上に中国が恋しいからである。ふるさとの山河が忘れられないのである。彼らが荒らした山河であるにもかかわらず、それが恋しい。母に甘えるように、その自然に甘えたい。その気持ちが捨てられない。外国では、甘えられる自然がないのだ。
 ジャ・ジャンクー自身はどういう立場にあるのか私にはわからないが、ここには中国を脱出した(資本主義にのって成功した)中国人の、不思議な悲しみが描かれていると感じた。「清潔な未来都市」(2025年のオーストラリア)で、男が思い出すのはダイナマイトを爆発させた山河なのだ。氷が流れてくる河なのだ。ダイナマイトくらいではびくともしない山河なのだ。
 そういう「山河讃歌」と関係があるかもしれないが、この映画の風景は美しい。夕焼けや草原なども美しいが、炭鉱の荒れた山さえも、そこに「つかいこんだ」何かがある。人間が破壊し、荒らしているにもかかわらず、何か「人間」を誘い込むものが感じられる。
 だからこそ、思うのである。最初の三角関係だけを描けば、それで映画になるのに、と。でも、そうすると「罪の手触り」とかわりなくなる? だから、あえて違う展開をしてみた、ということなのかなあ。
                     (KBCシネマ1、2016年05月09日)



「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
長江哀歌 (ちょうこうエレジー) [DVD]
クリエーター情報なし
バンダイビジュアル

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 颯木あやこ「観覧車とDav... | トップ | マーサ・ナカムラ「ねぶたま... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

映画」カテゴリの最新記事