詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

チャン・ジュナン監督「1987、ある闘いの真実」(★★★★)

2018-09-17 12:45:43 | 映画
監督 チャン・ジュナン 出演 キム・ユンソク、ハ・ジョンウ、ユ・ヘジン

 全斗煥大統領による軍事政権下の韓国を描いている。学生が反共取り締まりの警官から拷問を受け、死ぬ。その真相をめぐる攻防。警察と検察、マスコミの攻防。「真実」を告げたいと思っているのはマスコミだけではない。真実を告げたい人は、マスコミを利用しようとも考える。このあたりの動きがとてもおもしろいのだが……。正義派の検事が捜査資料を新聞記者に渡すシーン、記者が解剖医は必ずトイレにやってくると予想しトイレに隠れて待つシーン、看守がエロ本(?)を利用して情報を伝えるシーンなど、こういうことが「事実」を支えていると教えてくれ、とても心強い感じがした。
 一方、見ながら私が考えつづけたことは、いま、日本で起きていることである。
 日本で起きているいろいろなこと、安倍が関係しているさまざまなこと。森友学園、加計学園、女性暴行事件。「真実」を告げるために誰が声をあげるか。前川・前文部次官は、声をあげた。しかし、その声を手がかりにマスコミが「真実」をつきとめるところまではいかなかった。
 その後、森友学園、加計学園事件にしても、さまざまな資料が出てきた。安倍の主張している論理を否定するものが次々に出てきた。しかし、安倍を追い込めなかった。
 どうしてだろう。
 これから書くことは、推測である。「妄想」かもしれない。
 映画の中では、さまざまな拷問がおこなわれている。そのなかの最大の拷問は、要求を飲まないなら(言う通りにしないなら)家族がどうなっても知らないぞ、というものである。愛する家族がどうなってもいいのか。この「ことば」による拷問に、ひとは耐えることができない。言われるがままになる。
 もしかしたら、日本でも同じことが起きているのではないのか。
 国会議員や官僚、さらにマスコミの記者たちは、何らかの「ことばによる拷問(脅迫)」を受けているのではないのか。
 安倍を支持しないなら、次の選挙では自民党として公認しない。対抗馬を立てて、お前を落としてやる。そういうことが平然とおこなわれているのではないか。実際、最近、石破派の大臣が「安倍を支持しないなら辞表を出せ」と言われたと報道されている。大臣を脅すくらいだから、実力のない国会議員を「落とすぞ」と脅すくらい簡単だろう。「安倍を支持しないと、大臣の椅子を与えない(干すぞ)」という脅しも平気でおこなわれている。そして、それに多くの議員が屈している。
 官僚やマスコミで働いている人にも、圧力がかかっているかもしれない。「そういうことをしていると、出世させないぞ」と。前川・前次官にしても、何もわるいことはしていないのに「出会い系のバーに出入りしていた」と新聞に書かれ、菅は記者会見で「そういうところに出入りしていて何もないということは信じられない」という具合に人格を否定することを語っていた。
 前川・前次官はやましいことをしていなかったが、もし「秘密」をもっている人がいたとしたらどうだろう。「秘密をばらすぞ」と。「家族(家庭)はどうなるかな?」自民党の安倍支持派の議員は、どうだろうか。誰も、どんな「秘密」も抱えていないだろうか。
 こういう「脅し」は「拷問」と違って、「証拠」というものが明確には存在しない。「拷問」なら肉体に「傷跡」が残る。「ことばによる脅し」は、こころにしか傷跡が残らない。こころというのは、「見えない」。
 森友学園(佐川事件)では、ひとりの自殺者が出た。しかし、その自殺が森友学園(佐川事件)での圧力によるものであるという「証拠」はない。こころの傷は、生きているときにことばにして訴えない限り、証拠にならない。生きているときに訴えたとしても、「証拠」として採用されるとはかぎらない。
 この「圧力」は、非常に強い。深いところで人間をじわじわと痛めつける。
 「幼稚園に落ちた、日本死ね」という発言が問題になったことがある。そのとき、「そういうことを言うのは共産党だ」というような主張が安倍の口から出たと記憶している。これは「共産党を支持するなら幼稚園にいれないぞ」という「脅し」を間接的に語ったものだ。「もし子どもを幼稚園にいれ、仕事を続けたいなら自民党を支持しろ」と脅しているのだ。
 若者は、この手の「脅し」にとても敏感である。「空気を読む」(忖度する)ことに、大変な労力を払っている。まわりを常に気にしている。
 人手不足が深刻で求人倍率が高い。だからといって、つきたい仕事につけるわけではない。求人率をあげているのは、介護や建築工事というような、厳しい仕事である。つきたい仕事につくためには、安倍批判をしていてはむり。会社の要求にしたがって、従順になるしかない。
 自分では何も考えず(考え、疑問を持つと、脅される対象になる)、「だって安倍しか日本をまかせられるひとはいない」という「ことば」をそのまま復唱する。そういっている限りは、安倍からにらまれる恐れはない。会社の面接でそう答えればいい。いま、会社の面接試験では支持政党を聞いたりしてはいけないことになっているが(信条で人を差別してはいけない)、これが逆に働いている。「信条」を隠して生きていかないと、生きていけない時代になっている。
 「私は共産党支持者です。それが何か問題ですか? 自動車をつくるとき、共産党支持者だと欠陥品になるのですか?」
 そういう人を社員として抱え込まない限り、社会は閉塞する。
 障害者雇用率を国も地方の公共機関も平気でごまかしていた。すべてをごまかし、自分にとって都合のいいことだけを「数字」として出す。それが、いま安倍がおこなっていることだ。社会操作だ。
 映画について少しも書いていない。これでは映画の感想ではない、と思う人がいるかもしれないが、映画を見て思ったことがこういうことである。だから、感想である。ひとは、何かに触れて何を思うか、思ってみるまで見当がつかない。
 (2018年09月16日、KBCシネマ1)



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