詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(71)

2018-09-17 11:09:31 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
71 病禍

それにしても不思議なこと ギリシアを体験したのち
ギリシア化したのは それからの日日ばかりではない
ひるがえって それまでの日日 とりわけ少年の日日が
ギリシアの光と影とを くっきりと帯びてしまった

 高橋は、「六歳の海」を「七十数年後」に「ギリシアの海」と重ねる形で思い出している。六歳のときに見た海は、このギリシアの海そのものである、思い出している。これを「再発見」と呼んでいる。
 「再発見」はただ「再発見」するだけではない。つまり、そこにとどまるのではない。

ギリシアの少年が ギリシアの青年に ではなく
ギリシアの青年が きびすを返してギリシアの少年に
而うして 改めて青年をとおり壮年に そうしていまや
黄色いギリシアの老人がここにいる というわけさ

 生き直している。ギリシアの少年として「六歳の高橋」を思い出すだけではない。それからの人生そのものを「ギリシア人」として生き直す。このことを「再発見」と呼んでいる。生き直さなければ「再発見」にはならない、というわけだ。

 この「論理」はとてもよくわかる。しかし、よくわかるからこそ、私は問いたい。「論理」が詩なのか、と。
 「再発見」の過程で、ギリシアの少年、青年、壮年は、何を新たに「発見」したのか。そして、その「発見」の積み重ねの後、いま八十歳を過ぎ、ギリシア人として何を発見しているのか。
 いま、ここに書いている作品をか。
 これでは「自己完結」である。その思考(論理)に「間違い」はどこにもないが、「自己完結」していることばのなかへは高橋以外の人間は入ってゆけない。「論理」はいつでも閉ざされた形で「自己完結」する。
 詩は「自己完結」を破り、その力で「世界」の「完結」を破壊すること。すでに「世界」に存在しているもの(世界が内部に隠しているもの)を、「自己爆発」と同時に明るみに出すことである。いわば「自爆テロ」が詩の行為なのだ。
 自己も世界も「想起」ということばの運動の中で「再発見」されているだけでは、それを詩と呼ぶことはできないのではないのか。












つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社



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