71 病禍
高橋は、「六歳の海」を「七十数年後」に「ギリシアの海」と重ねる形で思い出している。六歳のときに見た海は、このギリシアの海そのものである、思い出している。これを「再発見」と呼んでいる。
「再発見」はただ「再発見」するだけではない。つまり、そこにとどまるのではない。
生き直している。ギリシアの少年として「六歳の高橋」を思い出すだけではない。それからの人生そのものを「ギリシア人」として生き直す。このことを「再発見」と呼んでいる。生き直さなければ「再発見」にはならない、というわけだ。
この「論理」はとてもよくわかる。しかし、よくわかるからこそ、私は問いたい。「論理」が詩なのか、と。
「再発見」の過程で、ギリシアの少年、青年、壮年は、何を新たに「発見」したのか。そして、その「発見」の積み重ねの後、いま八十歳を過ぎ、ギリシア人として何を発見しているのか。
いま、ここに書いている作品をか。
これでは「自己完結」である。その思考(論理)に「間違い」はどこにもないが、「自己完結」していることばのなかへは高橋以外の人間は入ってゆけない。「論理」はいつでも閉ざされた形で「自己完結」する。
詩は「自己完結」を破り、その力で「世界」の「完結」を破壊すること。すでに「世界」に存在しているもの(世界が内部に隠しているもの)を、「自己爆発」と同時に明るみに出すことである。いわば「自爆テロ」が詩の行為なのだ。
自己も世界も「想起」ということばの運動の中で「再発見」されているだけでは、それを詩と呼ぶことはできないのではないのか。
それにしても不思議なこと ギリシアを体験したのち
ギリシア化したのは それからの日日ばかりではない
ひるがえって それまでの日日 とりわけ少年の日日が
ギリシアの光と影とを くっきりと帯びてしまった
高橋は、「六歳の海」を「七十数年後」に「ギリシアの海」と重ねる形で思い出している。六歳のときに見た海は、このギリシアの海そのものである、思い出している。これを「再発見」と呼んでいる。
「再発見」はただ「再発見」するだけではない。つまり、そこにとどまるのではない。
ギリシアの少年が ギリシアの青年に ではなく
ギリシアの青年が きびすを返してギリシアの少年に
而うして 改めて青年をとおり壮年に そうしていまや
黄色いギリシアの老人がここにいる というわけさ
生き直している。ギリシアの少年として「六歳の高橋」を思い出すだけではない。それからの人生そのものを「ギリシア人」として生き直す。このことを「再発見」と呼んでいる。生き直さなければ「再発見」にはならない、というわけだ。
この「論理」はとてもよくわかる。しかし、よくわかるからこそ、私は問いたい。「論理」が詩なのか、と。
「再発見」の過程で、ギリシアの少年、青年、壮年は、何を新たに「発見」したのか。そして、その「発見」の積み重ねの後、いま八十歳を過ぎ、ギリシア人として何を発見しているのか。
いま、ここに書いている作品をか。
これでは「自己完結」である。その思考(論理)に「間違い」はどこにもないが、「自己完結」していることばのなかへは高橋以外の人間は入ってゆけない。「論理」はいつでも閉ざされた形で「自己完結」する。
詩は「自己完結」を破り、その力で「世界」の「完結」を破壊すること。すでに「世界」に存在しているもの(世界が内部に隠しているもの)を、「自己爆発」と同時に明るみに出すことである。いわば「自爆テロ」が詩の行為なのだ。
自己も世界も「想起」ということばの運動の中で「再発見」されているだけでは、それを詩と呼ぶことはできないのではないのか。
つい昨日のこと 私のギリシア | |
クリエーター情報なし | |
思潮社 |