詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ネタばれ

2024-07-29 18:13:14 | 考える日記

 「ネタばれ」ということばは、私は、どうにも好きになれない。何か「下品」な響きがある。その「ネタばれ」について、どう思うか、とある映画ファンから聞かれた。私は、最近は映画を見ていないので、映画について語るのはむずかしいのだが。
 私は、いわゆる「ネタばれ」というものを気にしたことがない。
 映画の結末を言わないでくれ、というのだが、結末がわかっていると何か不都合なことがあるのだろうか。
 映画にかぎらないが、多くの芸術・芸能は、未知の「結末」を知るために見たり、聞いたりするものではないだろう。多くの場合は「結末」を知っていて、その上で見たり、聞いたりする。これはギリシャ悲劇にはじまり、シェークスピア、近松も同じ。歌舞伎も同じだろう。「忠臣蔵」のストーリーを知らずに「忠臣蔵」を題材にした歌舞伎を見に行った江戸時代の人間なんて、いたんだろうか。知っているからこそ、見に行くのである。「映画」だけ、「結末」がわかっているとおもしろくない、ということはありえない。
 私は音楽ファンではないが、コンサートを聞きにいくとき、「予習」としてCDを聞く人もいるだろう。バレエも同じ。ジャズも同じ。ロックコンサートだって、みんなと一緒に歌うために、家で練習する人だっているだろう。みんな、それが何であるか、あることがどう展開するか知っていて、その場へ行く。
 どんなものでも「結末」というか、ストーリー(音楽ならば、旋律か)は同じだが、その「表現方法」が違う。その違いを味わうために見たり聞いたりするのだろう。「結末/展開」がはっきりわかっていた方が、その到達点へ向けて、出演者が(指揮者が、監督が)どんな工夫をしているか、それを見たり聞いたりするのがおもしろいのである。
 こういう言い方は好きではないが、「ネタばれ」はルール違反だとか何とか言うひとは、映画にかぎらず、楽しみ方を知らないのだろう。映画会社の「宣伝」に、頭の動きをにぶらされた人間なのかもしれない。「ストーリー」以外の「情報」を味わう能力を奪われた人間なのかもしれない。
 「ネタばれ」はルール違反と言いながら、映画会社の宣伝を受け売りしている「批評家」めいた人間が、私は、好きになれない。そうした強欲な宣伝マンに比べると、いわゆるミーハーの方が映画をよく知っている。よく見ている。
 何年か前、私は永島慎司(だったかな?)の漫画を原作にした映画を見に行ったことがある。映画館に到着するとロビーは、若い女性でいっぱい。彼女たちが、原作の漫画を知っているはずがない。なぜ?と思ったら。主演が、嵐の二宮なんとかが主役なのだった。彼が見たくて見に来ている。いいなあ。映画は、そういうものである。(芝居も、クラシックコンサートも、何もかも)。知っているものの、それでも知らない何かを見つけるために、見る、聞く。「私は、きょう、これを新しく見つけた」というために、見たり聞いたりする。いや、そんな面倒なことはしなくて、ただ「二宮、かっこいい、大好き」という自分の気持ちを確認するために見る、聞く。
 そのさらに昔、オードリー・ヘップバーンの「暗くなるまで待って」という映画。劇場の灯が全部消される。真っ暗になる。しかし、ある瞬間、ぱっとスクリーンが明るくなり、「キャー」という悲鳴が響きわたる。その悲鳴が大好きで、何度も何度も「暗くなるまで待って」を見たという男がいた。当時は入れ替え制ではなかったから、朝から晩まで、映画館にいる。ずーっと映画を見続けるのではなく、「キャーッ」という悲鳴が聞こえることを見計らって、劇場に入るのである。この楽しみは「ネタばれ」あっての楽しみである。私は意地悪な人間だから、こういうときは「ネタばれ」しない。知らないあなたは、映画ファンではない。そういう人には、私が書いた「楽しみ」がわかるはずがない。
 これは、映画や芸術だけではない。いまパリでオリンピックが開かれている。私は関心がないからテレビを見ないが、好きなひとはテレビを見、新聞を読み、さらにはネットで「記録」を検索して見るだろう。「結果」は知っている。けれど、見る。さらには、その「感想」を誰かに言ったりもする。
 小説も、詩も、哲学も同じ。すでに読んだことがあるものを、繰り返し読む。繰り返し読むことができるものだけが、おもしろい。「ネタばれ」してもしても、それでもなおかつ語りたいことがあるというものが、おもしろい。「ネタばれ」したらおもしろくなくなるものなど、最初からおもしろくないものなのだ。

 

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