鶴亀算。鶴と亀が合わせて7匹(羽)。足の数は24本。鶴は何羽? 亀は何匹?
こういう問題を解くとき、小学校低学年では「鶴亀算」をやる。
全部鶴だと仮定する。そうすると12羽になる。ここから7をひく。残りが5。5が亀の数。残り2が鶴。5×4+2×2=24。
XとYをつかう方法もある。Xが亀、Yが鶴なら。
X+Y=7と、4X+2Y=24、Y=7-X
4X+2Y=24 のYにY=7-Xをあてはめて、
4X+2(7-X)=24という式に変換する。
4X+14-2X=24
4X-2X=24-14・・・・2X=10・・・X=5
いわゆる「連立一次方程式」だね。
で、何がいいたいかというと。
最近の多くのひとは、こういう計算を自分でしない。
「鶴と亀が合わせて7匹(羽)。足の数は24本。鶴は何羽? 亀は何匹?」という問題に出合ったら、それをそのままネットで検索する。答えは亀5匹、鶴2羽と出ている。それをそのまま自分の答えにしてしまう。途中を省略する。つまり、考えない。
これからが問題。
「鶴と亀が合わせて7匹(羽)。足の数は23本。鶴は何羽? 亀は何匹?」そういう質問だったら、どうする?
いくつかの答えがあるだろうと思う。私は、とりあえず、二つくらいを考える。
(1)先生、この問題間違っています。ひとは誰でも間違えるからね。
(2)一匹の亀が足を一本なくしていた、ということも考えられる。現実は、すべてが知っている通りにはできていない。
必要なのは「答え」を出すことではない。
疑問を持つこと。考えること。
きちんと用意された質問にはいつも「答え」がある。それは誰が解いても同じ答えになる。
でも、現実は「用意された質問」ではできていない。
そのとき、どうやって考えるか。
ネットに「答え」なんか、載っていない。
ほんとうの「問題」はいつでも個人的(個別的)で、「答え」も個別的だからだ。
「完成された答え」を探してきても何の役にも立たない。それは「他人の答え」。いいかえると「他人にとって都合のいい考え」。現実では、いつも自分で「答え」を引き受けるしかない。
こんなふうに考えてみよう。
ペットに亀を飼っている。そのうちの1匹は事故で片足をなくしてしまった。そのとき、その亀は、あなたにとって亀ではないのか。もしかするといちばん大事な亀かもしれない。その1匹のことを「排除」して、「現実」を考えることができる?
もしだれかが、「足が一本足りないから、それは亀じゃない」と言ったら、あなたはどう思う?
どうやって「現実」を引き受ける?
論理がずれている?
いや、私は「ずらしている」のだ。「ずらした部分」に私の言いたいことがある。
*
追加すると、こういうこと。
先生、私は家で亀を飼っています。
一本足がないんです。
でもとても大切な亀なんです。
この亀のために、「鶴と亀が合わせて7匹(羽)。足の数は23本。亀の一匹が事故で足をなくしました。でも、いっしょに遊びたいと言っています。鶴と亀は、何匹(何羽)かな」という質問をつくってもらえませんか?
この問題は「算数」を超えている?
でも「現実の算数」は、常に「頭の算数」を破っている。
破れ目に、どうやって「死文の算数」を組み込ませるか。
これが重要。
あらゆるところに「現実の問題」があふれている。
自分にとっての「事実」から「現実」を見つめないと、何も始まらない。