古賀忠昭「ちのはは」(「るしおる」64、2007年05月25日発行)。
古賀の「ちのはは」は『血ん穴』につながる詩である。死を前にして母が広告の裏に鉛筆をなめながら、いわば「遺言」を書いている。生きていくために胎児を食べた、これから地獄へゆくのだ、と書き綴る。
どの部分も壮絶だが、私にはこの部分が一番印象に残る。生きていること、生きようとする力を感じること。「おぎゃあ」という最初の呼吸。そのことに対する恐怖。それは「はは」自身が生まれてきたことへの恐怖、生きていることへの恐怖を語っている。生まれたからには生きなければならない。「おぎゃあ」は「はは」の、それまでの生のあり方を全部、一瞬にして照らしだす。「生きたい」という欲望を全部明るみに出す。それは隠してきたものを全部暴き出す強烈な光なのだ。
「だまって もらわんと いけんのです」。この「もらわんと」ということばのなかに潜む願い、祈り。
胎児を食べるという非人間的な行為のなかに、ふいにやってくる人間のあたたかみ。そのふいのあたたかさ、血のぬるいあたたかさが、「非人道的な行為」というような法的なことばを洗い流し、一気に人間そのものの、いのちのつながりを浮かび上がらせる。
「はは」の遺言は矛盾だらけである。そして、その矛盾こそが、人間が生きているということの証明でもある。
「ありがたいこつ」。「もらわんと」に通じるものがある。
「ありがたい」のなかに、生きていることへの感謝が満ち溢れている。心臓のように、そこから血が押し出され、ことばのすみずみにまで温かさがゆきわたる。生きることは苦しい。しかし生きることは感謝しても感謝しても感謝しきれない何かなのである。感謝しなければならない何ごとかなのである。
「じごくにゆく」ことは生きてきたからなので、生きて来なかったら「じごく」へはいけない。そこには生きていたことへの深い深い感謝と祈りがある。苦悩のなかでのみつかみとった他者への感謝と祈りがある。
心配しないでください。安心してください。--この遺言には、感謝と祈りがあふれている。
「おもう」ということばが繰り返し繰り返し出てくるが、それまでことばにせずに、ただひたすらこころのなかで繰り返してきた祈り、感謝が、胎児を食べるという衝撃的な事実をつつみこむ、不思議な思想になっている。
胎児を食べるという行為を超えてしまう思想などない、といってしまえばないのかもしれないけれど、どうしても私は思想を感じる。思想とは生きていたいという祈り、そして感謝であり、そこには必ず矛盾がある。
非道なことをした。だから地獄へゆく。その解決のなかに、思想がある。非道なことをしなければいいじゃないか、と批判するのはたぶん簡単である。だが、非道なことをしなければ生きていけないとしたら、その生をどうやって解放するか。地獄へゆく、という思想を信じることで、自己を許すという解決しかないかもしれない。このとき許すとは受け入れるということである。
地獄へゆくということで自己を許す「はは」。その「はは」を許すことで、古賀はまた「はは」を受け入れ、「はは」から生まれてきた古賀自身をも受け入れる。
この作品に書かれている思想の美しさは、その「受け入れる」という姿勢にある。
「じごくへゆく」ことを受け入れる。
もちろん死ぬこと、そして地獄へゆくことを「受け入れる」というのは簡単なことではない。だからこそ、「はは」は鉛筆をなめなめ「遺言」を書くのである。
「じごくをおもうきもちは ほんとの きもちに/なる」。この「なる」の切なさ。
地獄へは本当は行きたくない。本当は死になくない。しかし、人間は死ぬ。そして死んだら地獄か極楽へゆく。「はは」は地獄へゆかなければならない、と自分自身で決めた。その「きもち」をゆるぎないものにするために、ことばにする。
ことばは、誰にとはとっても、まだあいまいな思い、気持ちを明確にするための唯一の方法である。繰り返し繰り返しおなじことばを書く。書く度に少しずつ変わるけれど、けっきょくおなじことばである。そのおなじことばを書くということで、気持ちは気持ちに「なる」。
古賀はまた「はは」のことばを繰り返す。「はは」はこういう「遺言」を書いたと、「はは」とおなじことばを繰り返す。そうすることで「はは」の「きもち」に「なる」。「はは」の「きもち」に「なる」とき、古賀は、生まれる前のように「はは」の胎内にいる。一体になっている。「はは」から生まれ、「はは」へ帰ってゆく。「はは」に「なる」。そして、「はは」に「なって」、この詩という作品を生み出した。
循環し、繰り返し、引き継がれてゆく「血」というものを思った。その温かさと、強さを思った。
古賀の「ちのはは」は『血ん穴』につながる詩である。死を前にして母が広告の裏に鉛筆をなめながら、いわば「遺言」を書いている。生きていくために胎児を食べた、これから地獄へゆくのだ、と書き綴る。
しんでゆくときめられとるこは しんでゆくと きめられとるのやから はらから でて
おぎゃあ とこえをあげるまえに くちをおさえて だまらさんと
まちごうて
いきてよか と おもうてしもうて これは
おそろしことで
まちごうても おぎゃあ と とえをあげるまえに くちをふさいで ほしかと です
(略)
おぎゃあ と ゆうこえは それほど おそろしこえで みみをふさいでも みみをつぶしても
きこえて きて じごくにゆくことも わすれてしまうごつ おそろし こえで いきとるもんば
けっして きいてはいかんこえやから おぎゃあ と こえをだすまえに くちをふさいで
おぎゃあ と ゆうこえを つけもんいしで ひゃっぺんもにひゃっぺんも たたいて
たたいて だまって もらわんと いけんのです
どの部分も壮絶だが、私にはこの部分が一番印象に残る。生きていること、生きようとする力を感じること。「おぎゃあ」という最初の呼吸。そのことに対する恐怖。それは「はは」自身が生まれてきたことへの恐怖、生きていることへの恐怖を語っている。生まれたからには生きなければならない。「おぎゃあ」は「はは」の、それまでの生のあり方を全部、一瞬にして照らしだす。「生きたい」という欲望を全部明るみに出す。それは隠してきたものを全部暴き出す強烈な光なのだ。
「だまって もらわんと いけんのです」。この「もらわんと」ということばのなかに潜む願い、祈り。
胎児を食べるという非人間的な行為のなかに、ふいにやってくる人間のあたたかみ。そのふいのあたたかさ、血のぬるいあたたかさが、「非人道的な行為」というような法的なことばを洗い流し、一気に人間そのものの、いのちのつながりを浮かび上がらせる。
「はは」の遺言は矛盾だらけである。そして、その矛盾こそが、人間が生きているということの証明でもある。
いきとるとき なき わめく ごたるこつの あったときも じっと こらえて ちの なみだば
ながしたこつも じごくに いったときのためとおもわれて じごくにゆくと きめられとるもんにとって
ありがたいこつだと みぎのてと ひだりのてを あわせて
おがんで おります
「ありがたいこつ」。「もらわんと」に通じるものがある。
「ありがたい」のなかに、生きていることへの感謝が満ち溢れている。心臓のように、そこから血が押し出され、ことばのすみずみにまで温かさがゆきわたる。生きることは苦しい。しかし生きることは感謝しても感謝しても感謝しきれない何かなのである。感謝しなければならない何ごとかなのである。
「じごくにゆく」ことは生きてきたからなので、生きて来なかったら「じごく」へはいけない。そこには生きていたことへの深い深い感謝と祈りがある。苦悩のなかでのみつかみとった他者への感謝と祈りがある。
わたしは じごくにゆくと きまっとるけど どうか しんぱいせんで わたしが じごくで
みんなと うまくやっていると おもうて あんしんして ください わたしは いきとるときも
じごくのことを ずっと おもうてきたから ごくらくのことは なんも しらんけど
じごくのことは からだの ぜんぶで しっとるから なんの しんぱいも なかと です
心配しないでください。安心してください。--この遺言には、感謝と祈りがあふれている。
「おもう」ということばが繰り返し繰り返し出てくるが、それまでことばにせずに、ただひたすらこころのなかで繰り返してきた祈り、感謝が、胎児を食べるという衝撃的な事実をつつみこむ、不思議な思想になっている。
胎児を食べるという行為を超えてしまう思想などない、といってしまえばないのかもしれないけれど、どうしても私は思想を感じる。思想とは生きていたいという祈り、そして感謝であり、そこには必ず矛盾がある。
非道なことをした。だから地獄へゆく。その解決のなかに、思想がある。非道なことをしなければいいじゃないか、と批判するのはたぶん簡単である。だが、非道なことをしなければ生きていけないとしたら、その生をどうやって解放するか。地獄へゆく、という思想を信じることで、自己を許すという解決しかないかもしれない。このとき許すとは受け入れるということである。
地獄へゆくということで自己を許す「はは」。その「はは」を許すことで、古賀はまた「はは」を受け入れ、「はは」から生まれてきた古賀自身をも受け入れる。
この作品に書かれている思想の美しさは、その「受け入れる」という姿勢にある。
「じごくへゆく」ことを受け入れる。
もちろん死ぬこと、そして地獄へゆくことを「受け入れる」というのは簡単なことではない。だからこそ、「はは」は鉛筆をなめなめ「遺言」を書くのである。
じごくは やみのなかで みゆると おもうの です
じごくをおもう ほんとの こころは ひだりめの やみのなかに あると おもうのです
やみは なんもみえんから なにもないこととおなじで やみは まじりけがなかけん じごくを
おもうきもちは
おもうて おもうて
おもう きもちに なるとやから じごくをおもうきもちは ほんとの きもちに
なると おもうの です
「じごくをおもうきもちは ほんとの きもちに/なる」。この「なる」の切なさ。
地獄へは本当は行きたくない。本当は死になくない。しかし、人間は死ぬ。そして死んだら地獄か極楽へゆく。「はは」は地獄へゆかなければならない、と自分自身で決めた。その「きもち」をゆるぎないものにするために、ことばにする。
ことばは、誰にとはとっても、まだあいまいな思い、気持ちを明確にするための唯一の方法である。繰り返し繰り返しおなじことばを書く。書く度に少しずつ変わるけれど、けっきょくおなじことばである。そのおなじことばを書くということで、気持ちは気持ちに「なる」。
古賀はまた「はは」のことばを繰り返す。「はは」はこういう「遺言」を書いたと、「はは」とおなじことばを繰り返す。そうすることで「はは」の「きもち」に「なる」。「はは」の「きもち」に「なる」とき、古賀は、生まれる前のように「はは」の胎内にいる。一体になっている。「はは」から生まれ、「はは」へ帰ってゆく。「はは」に「なる」。そして、「はは」に「なって」、この詩という作品を生み出した。
循環し、繰り返し、引き継がれてゆく「血」というものを思った。その温かさと、強さを思った。