詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中光敏監督「利休にたずねよ」

2014-01-07 10:31:38 | 映画
田中光敏監督「利休にたずねよ」(★★★)



監督 田中光敏 出演 市川海老蔵、中谷美紀、市川團十郎、伊勢谷友介、大森南朋

 利休が最初に登場するシーンがこの映画のすべてである。信長が茶道具を鑑定している。気に入れば金を出す。気に入らなければ「もの」そのものを否定する。
 利休は、この会に遅れてやってくる。わざとである。利休がもってきたものは漆塗りの盆のようなもの。(私は無学なので、何というか知らない。)みんなは「あんなものを」と嘲笑う。その冷たい視線のなかで、利休は盆に水を張る。障子を開ける。月を招き入れる。盆の絵を背景に、月が入り一枚の絵になる。信長は感心し、金をざらざらとこぼして去っていく。
 盆の絵を背景に浮かぶ月は美しい。
 これは、しかしどういうことだろうか。美とは何か。利休は美を「一期一会」ととらえているのではないだろうか。そのとき月が出ていなかったら、利休の演出(?)は不可能である。その日が満月でなかったら、その日が雨だったら、鑑定の場所が天守台(?)でなかったら、利休はその盆をもってこなかっただろう。利休は満月を知り、天守台のどの窓から満月が見えるかを知っていた。また、他の茶人たちが何をもってくるかもたいがいわかっていた。わかっていて演出した。「一期一会」そのものを演出した。
 これはある意味では「あざとい」。美が演出によって決まるというのでは、一種の「はったり」である。もし雨だったら、もし下弦の月だったら、そこに美が存在しないとしたら、それでもそれは美なのか。
 だからこれは逆に考えるべきなのだ。感じるべきなのだ。「一期一会」が美であって、「道具」自体は美ではない。どうやって「一期一会」でありつづけるか。「一期一会」でありつづけるためには、どうすべきか。そこに利休の生き方がある。自分の感性を常に世界に対して解放しておく。季節の色、時代の変化、ひとの動きを敏感に吸収し、そこにあるもののなかで、何に、どうやって目を向けるか、他人のこころを引きつけ、集中させるか。
 文明の利器のなかに置かれた花の蕾、茶会の席の天井に飾られた桜が戸を開けるとひらひらと茶碗に舞い落ちる。視線が一瞬、それまでの集中から解放され、別なものへと焦点が映る。その瞬間が「一期一会」。
 映画のなかで利休は語る。「美は自分が決める。自分が美といえば美になる。そこから伝説がうまれる」云々。利休にとって美は「伝説」である。「一期一会」の伝説。それは「一期一会」だから、その瞬間を逃せば美ではなく、ただの「つちくれ」だったり、竹の竹の筒だったりする。
 たとえば冒頭の月を映す水を張った盆。あれは信長が茶道具を選んでいたとき、利休がわざと満月にあわせて遅れてやってきて、つまり最後に自分の品を見せること、自分の演出を見せることに成功して、そのエピソードとともに語られて美になる。ストーリーをもつこと(ことばで語りうる何事かをもつこと)によって美になる。多くの茶人の「意識」をひっくり返した、というストーリーを知らないで、その盆を見ても、それがすばらしいとはわからない--いや、わかるひともいるかもしれないが、多くのひとはそのストーリーとともに盆を見て、月を想像し、感心する信長を思い、悔しがる茶人を思い、「そうか」と納得する。
 それはそれでいいのだろうけれど、私はなんだかいやだなあ。
 有名な真っ黒な茶碗。本物が映画につかわれているらしいが、その背後には朝鮮人の女性との悲恋がある。秀吉の手にしっかりなじむその肌の感じ。何かに触れて、それが手になじむ感じが美--というのは、いいんだけれど、でも、その茶碗に、たとえば私がふれることができないとしたら、それでも美? ストーリーを思い描き、自分の手の中にある感触を思い描く、その思い描きのなかにあるのが美? そうでもいいけれど、それは瞬間的に感じるものであってほしいなあ。長々とした悲恋のストーリーで説明してしまってはうんざりする。そういうものは利休の胸の内に秘めていてこそ美なのである。だれにもわからない。そういうものがあってこそ美なのだ。
 何かいやだなあ。このカツラをつけた市川海老蔵が演じる悲恋物語は。悲恋というよりも「物語」の方に力点がおかれているからかもしれないなあ。「一期一会」が一瞬ではなく長々と説明される。
 それに、そういう悲劇を体験したものだけが美を感得できるというのも、なんだか特権的な感じがして気持ち悪いなあ。気に食わないなあ。あ、悲劇というのはいつでも、特権的な人が直面する苦悩のなかに、何かしら自分の感情に重なる部分があるのを知って、その主人公になって味わうものだけれど。

 この映画は(小説は知らないが)、利休を「一期一会」の演出家としてとらえた。そして、その演出力を秀吉は恐れた。秀吉が天下を取るきっかけとなった戦--それを越前の武将(だれ?)が出てこれない(動きにくい)冬、雪の季節を狙ってしかけると助言したのは利休ということになっているが、そういう戦の機微(一期一会)にも利休は精通している。そういう「一期一会」を見る洞察力を恐れた、ということなのだろうけれど。しかし、これでは映画が窮屈。「美」が窮屈。演出のなかにしかない美など、美ではないと思う。演出を突き破って動いていく力がないと美ではないのではないか。
 そういう思いが、見ているうちにどんどん私の内部でたまっていって、いやあな気分で映画を見終わってしまう。
 ついでに書いておくと。中谷美紀の怒り肩。和服が似合わない。怒り肩のために和服のもっている流れるような線が消えて、顔がとってつけたように浮いている。顔というよりも、体型が「現代人」をしている。こういう細部を、この監督は見落としている。自分の発見した(小説が発見した)ストーリーにひきずられて、美をないがしろにしている。美がテーマの映画なのに、美は「演出」であると気づきながら、自分自身の「美」を具体化していないというべきか。
                         (2014年01月05日、中州大洋2)
精霊流し [DVD]
クリエーター情報なし
東北新社

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 西脇順三郎の一行(51) | トップ | 岩佐なを「コロネ」 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

映画」カテゴリの最新記事