「現代詩手帖」12月号(29)(思潮社、2022年12月1日発行)
安藤元雄「虚空の声」。
そんなことを言わず我慢してくれないか
もう長いことでもあるまいから
そう言いかけて口籠ったが
妻の耳には届いたかどうか
詩に限らず、どんなことばにも「省略」がある。その省略を安藤は「口籠もった」と言っている。こころのなかでは言った。でも、声に出さなかった。しかし、声に出さなくても、親しい間柄なら、その「意味」は届いてしまう。
安藤は、何と言ったのか。
妻は死んでいる。(省略したが、一連目に書いてある。)その妻が夢の中で「悲しいわ」と訴える。それに対して、安藤は「そんなことを言わず我慢してくれないか/もう長いことでもあるまいから」と答えるのだが、これはことばを補えば、「私がそこへ行くまでには(私が死ぬまでには)、もうそんなに長いことはない(もうすぐそばに行く)。だから、我慢して待っていてくれ」と言うことになるだろうか。
なぜ、口籠もったのか。それを聞く相手がたとえ死者であろうとも、だれかが死ぬということを語るのは「不吉」である。それに、もうすぐ死ぬから待っていてくれというのは、「おまえはもう死んでいる、死んでいることを自覚してくれ」と言うに等しい。それを生きていて(生きているから)悲しいという「生身の声」を否定することでもある。そんなことは、できない。
この葛藤のなかに、安藤の「自然」が、とても「自然に」出ている。「わざと」でもなく、「わざわざ」でもなく、「自然に」あふれてきたことばが、とても切ない。
石松佳「ヨルエ」。
懐かしい匂い。髪が靡く、網戸を抜ける風だ。田には水が張られており、空に漣が立っている。
このことばを読んだとき、私は、不思議な気持ちになる。石松の詩に登場する「風景」、その風景は私の知っている風景にとても似ている。ただし、それは「いまの風景」というよりも、私が幼いころに見た風景ととても似ている。一方で、それはないだろう、という部分もある。石松がほんとうにこういう風景を知っているかどうか、私は疑問に思っている。たぶん、「文学知識」として知っている風景なのだろう。
この部分でいちばん美しいのは「空に漣が立っている。」である。なぜ美しいか。現実には「空に漣が立つ」ということはない。空には「水」がないのだから。つまり、この「漣」は比喩なのである。本当は「田に張られた水」の上を風が吹き、漣がたつ。田の水には空が映っていて、その青い色のなかに漣が立つ。まるで、空に漣が立っているのを、田の水が映し出しているような感じ。これは、とてもよくわかる。(だれかの句にあったような風景だとも思う。)
それはいいのだが。
田に水を張るのは田植え前である。もちろん田植えの直後も、田には水が張りめぐらされている。だから、「空に漣が立つ」というのは、田植え前や、田植え直後、あるいは苗が大きくなる前のことである。苗が大きくなってしまうと、田の水は見えなくなる。
でも、それは「網戸を抜ける風」が吹くときではない。網戸を抜ける風が吹くときは、戸は開けられているが、網戸は閉まっている。虫が入ってこないようにするためである。つまり、それは「夏」である。
田植えはもちろん地方によって時期が違うが、多くは春や初夏である。まだ網戸は閉まっていないだろう。そして、空の青さも、網戸をしめる夏よりも透明である。だからこそ、漣が似合う。
何が言いたいかというと。
石松の書いている風景は、「美しく」見えるが、実際には「架空のもの」、実際に見たものではなく、「文学」のなかで拾い集めてきたものにすぎない、そこには「実感」がないということである。少なくとも、私の「実感」とはぜんぜん重なりあうところがない。なんだ、これは、と思ってしまう。
石松も、これは、理解しているのかもしれない。だから、先の描写のあとに、こう続けている。
この景色には少しだけ悪意がある。
「悪意」に、どういう思いを込めているのかよくわからないが、こう書くことを「批評」と思っているのかもしれない。
石松の声は、決して「口籠もる」ことはない。安藤は、何かを言おうとして、その言おうとしたことのなかにある「ほんとう」の前でたじろぎ、口籠もる。だから、その声を聞き取るには、いろいろな体験が必要である。体験を積み重ねても、理解できないものがある。つまり、「個」がそこにある。安藤という「肉体」がそこにある。でも、石松のことばのなかには「肉体」がない。ただ「文学」がある。
「文学」が「悪意」なら、それはそれでいいけれど。
でも、「わざわざ」文学のなかから(確立されたことばの運動、定型から)、美しいことばを寄せ集めてこなくても、書けることがあるのではないか。書かなければならないことがあるのではないか、と私は疑問に思う。
秋亜綺羅がH賞の選考で(たしか、そのとき石松は受賞した)、作品を特定して言っていたわけではないが「古くさい」というようなことを言っていた(正確には思い出せない)。「古くさい」は「文学臭」のことである、と私は感じた。
大崎清夏「風の匂いを四人で嗅ぐ」の最終連。
ほら、いま
風が風の匂いになった
「風が風の匂い」であるのは、何か新しいことでもあるのか、と思うかもしれない。しかし、その前には、実は、こういう行がある。
土曜日 ここは繁華街だから
匂いにはスパイスの香りが混ざっていて
風まで混雑している
繁華街では「風」は匂わないのだ。いろいろな匂いが混ざっていて、それが風の動きに合わせて変わる。でも、ある瞬間、違うものになる。それは何も、強い風が吹いたからではない。物理的な現象ではない。
「風が風の匂いになった」ということばの前に、こういう連がある。
あまり死ぬことを恐れたくないねと
いつか私に言った人は
まだ生きていて
私もまだ
生きている
何かに気づいた瞬間、その「気づき」のなかを「風」のようなものが吹き抜ける。その「風」は比喩だが、比喩であることを忘れるくらいに自然に吹いていく。
ここには「文学」ではなく、「生きている実感」がある。
「生きている実感」を安藤は口籠もって語るが、大崎は口籠もらず、明確に語る。その明確は「風が風の匂いになった」のように、明確でありすぎることによって、一瞬、無意味にも見える。「風が風の匂い」であるのはあたりまえ、言わなくてもわかる、になる。しかし、これこそが「批評」なのである。批評とは、だれもがわかっていること、知っていることを、そのまま語ること。
だれも知らないことを語るのは、たぶん「悪意」である。「わざと」である。
だから。
私は、こうつづけて書いておこう。
石松は「懐かしい匂い。」と書いているが、それはどんな匂いなのか。風はどんな匂いを運んできたのか。たとえば、田んぼに関して言えば、私にとっていちばん懐かしい匂いは、稲が実る匂いである。芭蕉が「頼もしい」と言った、収穫前の匂いが懐かしい。刈り取ったあとの稲架で日を浴びる匂いも懐かしい。春先の田を耕したときの匂いも懐かしいし、田んぼに水を引き入れる(張る)ときの新鮮な水の匂いも懐かしければ、田んぼに張った水が日を浴びて温む匂いも懐かしい。石松は、風に靡く髪のことを書いているが、その髪の匂いにいちばんぴったりくる「懐かしい匂い」は、田んぼの(田の水の)どのときの匂いなのだろうか。私以外の読者は、石松の詩のなかで、いったいどんな匂いを懐かしいと感じているのか。
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