詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「うつろとからっぽ」

2010-01-19 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「うつろとからっぽ」(「朝日新聞」2010年01月16日夕刊)

 目黒裕佳子「よる」を読んだあと、谷川俊太郎「うつろとからっぽ」を読んだ。そして、「あ、読めない!」と叫んでしまった。漢字が読めないのである。カタカナ難読症は私の場合、ほんとうに深刻で、もう完全にあきらめきっているが、漢字が読めなくなったのは初めてなので、びっくりしてしまった。
 目黒の書いた「ばら蒔く」を私は「薔薇まく」と読んでしまったが、その後遺症なのかもしれない。
 詩の全行。

心がうつろなとき
心の中は空き家です
埃(ほこり)だらけのクモの巣だらけ
捨てられた包丁が錆(さ)びている

心がからっぽなとき
心の中は草原です
抜けるような青空の下
はるばると地平線まで見渡せて

うつろとからっぽ
似ているようで違います
心という入れものは伸縮自在
空虚だったり空だったり
無だったり無限だったり

 おわりから2行目「空虚だったり空だったり」の、あとの方に出てくる「空」が読めない。「そら」なのか「くう」なのか。わからないのだ。2連目に「青空」(あおぞら)ということばが出てくる。そのことばが意識の奥で動き回っていて、「くう」とは読まさせてくれない。
 えっ。何が起きたの? わからない。
 驚いて、詩を読み返す。すると1連目には「空」が「空き家」ということばのなかにつかわれている。「空」は「そら」ではなく「あ(き)」かもしれない。
 そして、

空虚だったり空だったり
無だったり無限だったり

 という2行は、作品の構造的には、「空虚だったり空だったり」が1連目を言いなおしたもの、「無だったり無限だったり」は2連目を言いなおしたものと分析(?)できそうなので、問題はいっそうややこしくなる。

 「空虚だったり空だったり」が1連目の言い直し--というのは、「空き家」は「空虚」である、そこには何かがある(たとえば錆びた包丁がある)けれど、それは他の存在と有機的につながっていない。関係をもっていない。「空虚」というのは、ものは存在しても、関係が成立していない、そこに「人間」が動いていないということかもしれない。
 「無だったり無限だったり」は2連目を言いなおし--というのは、何もない(無)の草原、青空のもとの広がりは、実はどこまでもつづく広がり、無限につながる。永遠につながるからである。

 でもねえ。
 そんなこざかしい分析(?)を、何かがひっくりかえしてしまう。
 「空」は「くう」でいいの? 「そら」ではだめなの? ひょっとしたら「あ(き)」かもしれないのに……。
 というだけではなく。

 漢字ではなく「ひらがな」で書かれたことば。「うつろ」と「からっぽ」。もし漢字で書いたらどうなる? 「虚ろ」「空っぽ」。「虚ろ」は「空ろ」とも書いてしまう。書けてしまう。(私のつかっているワープロソフトでは、簡単にそういう漢字が出てくる。)そうすると、ますます「空」の読み方がわからなくなる。
 なんて読む? 「埃」とか「錆」にルビを打つのではなく、こういう漢字にこそルビを打ってくださいね。朝日新聞さん。(あるいは、谷川さん?)
 もうルビを打ったのが朝日新聞ではなく谷川なら、この「いじわる」は根性がすわっている。--と、思わず、私は書いてしまう。

空虚だったり空だったり
無だったり無限だったり

 この2行の、それぞれ単独でつかわれている「空」と「無」。その定義は? 谷川は、どう定義しているのか。この2行だけではわからないが、私の感覚ではそのふたつはとても似ている。
 「空」は「色即是空」の「空」。そしてそれは私のあさはかな哲学では「無」と通い合う。「もの」(いのち)は存在しているが、「もの」(いのち)相互のまだ関係(?)が成立していない状態が無。そこには渾沌だけがある。それが何かの拍子(あ、いいかげんなことばでごめんなさい)、--何かの拍子で動き回り、関係ができると、「もの」(いのち)としか言えないようなエネルギーが「名前」のあるものとなってあらわれてくる。そして、その運動は一回かぎりではなく、何度も何度も次々に起きる。「無限」に起きる。「色即是空」の「色」は次々に生まれてくる。そして「世界」になる。
 「空」と「無」は、ほんとうは違うものかもしれないけれど、私はそれを区別できない。あるときどきで、つかいやすいことばをつかうだけであって、厳密な定義でつかいわけない。--これはもちろん私だけのことであって、谷川が、あるいは「世間」のひとが厳密につかいわけていない、という意味ではないのだけれど。
 
 「空」はどう読んでいいか、わからない。そのわからないものを、わからないままほうりだして、「好きなふうに読んでね」というのは、ね、意地悪じゃない? 読み方によって、「あ、そう、あなたはそういう読み方をする人間なんだね」とみつめられているような感じがしてくるのだ。--と書くと、まあ、書きすぎなんだろうけれど。

 「空」をなんと読むのかわからない。わからないけれど、私は最初の直感(?)どおり、「そら」と読みたいの。「そら」と読むとき、それはどこまでも限りなく広がる「あおぞら」とつながり、そこに気持ちのいい「無限」が見えてくる。
 「無限」にもいろいろ種類があるだろう。できるなら、私は、明るい希望にみちた無限を感じていたい。その明るい希望というものが、うつろでからっぽだったとしても。





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