詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「ことば」は個人のもの。共通語は存在しない。

2021-12-25 20:06:25 | 考える日記

 私は今、ガルシア・マルケスの「予告された殺人の記録」をスペイン語で読んでいる。スペイン人に手伝ってもらって読んでいる、というのが正しい言い方だが。
 先日までは、ホセ・サラマーゴの「白い闇」をスペイン語で読んだ。原文はポルトガル語だから、これから書くことは「正確な印象」というわけではないのだが。途中で挫折した、アントニオ・マチャードの詩の印象を含めて言えば。
 外国語で読んでみてわかることは、「ことば」はそれぞれ個人のものであるということだ。マルケスとサラマーゴ(翻訳)、マチャードのスペイン語は、それぞれまったく別の「外国語」である。「スペイン語」と思って読むと、わけがわからなくなる。
 これは日本語の作家でも同じ。鴎外と漱石では、同じ日本語に見えるが、ほんとうは違う。私が日本語で育ってきているから、その違いよりも、たまたま共通の「文法」が見えるだけである。鴎外語であり、漱石語なのだ。中上健次語があり、村上春樹語がある。
 そういう「ことば」を読むときは、私の「ことば」自体がかわらないと読めない。他人の「ことば」を読むということは、他人に自分の「ことば」を読まれることである。鴎外を読むとき、鴎外に読まれているのである。別なことばで言うと、私の「ことば」がかわらないかぎり、鴎外とはほんとうの対話はできない。つまり、読書したことにはならない。「ことば」に触れたことにはならない。
 脱線してしまうが。
 私はNHKのラジオ講座の初級編にもついていけない人間だが、やっぱり「語学(ことば)」の勉強をするなら、小説を読まないといけない。何よりもおもしろくない。「共通のスペイン語」というようなものはない、ということを自覚しないといけない。
 「スペイン語」とか「日本語」とかいうのは、便宜上の「くくり」である。そんなものは、存在しない。文学だけに限らず、「日常語」でも、そうだと考える必要があるだろうなあ。
 さらに脱線して。
 日本の高校では、国語から「文学」を排除する動きがあるが、そんなことをしていたら日本は「二等国」から「三等国」へあっというまに転落するだろう。自分の「ことば」を持たずに、個人というものは成立しないからである。

 


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