今村秀雄「運河に沿って」、アレクセイ・パールシチコフ/たなかあきみつ訳「時刻表」(「coto」18、2009年07月25日発行)
今村秀雄「運河に沿って」は散文詩である。行分けでは書けない、粘着力のあることばが後半に出てくる。
「彼からの問いが正確に私の卑しい心を反映して、」という文が、いったん「私」の肉体をくぐりぬける。そのくぐりぬけるときにひきずったものが、粘着力となって、次のことばにからまる。思わず読み返してしまうのは、その粘着力を、もう一度体験したいからである。書かれている「内容・意味」ではなく、ことばが粘着力を持つ、ということが大切なのだ。
ことばが動いて、論理をつくる。その論理のなかに「意味・内容」がわかりやすいように整理される。--その運動は、さらりとしていて軽快なときもあるが、今村のことばは粘着力を持っている。そして、それが肉体の悲しさを伝えてくる。
こういう粘着力を持ちつづけることは苦しい。しかし、持ちつづけなければならないと思う。だからこそ、最後の4行には、とても問題があると思う。
今村は、せっかく到達した粘着力を脇へおしのけ、抒情にかえてしまう。
ここが好き--というひともいると思うが、私は、ここは余分だと思う。「船」は書き出しに比喩としてつかわれている。(大きな船みたいな工場)。船をもう一度登場させることで、ことばを円還にとじこめ、完結したかったのだろうけれど、散文の精神というのは基本的に完結しない。ただ、いま、ここを破っていくだけである。
粘着力を持ったまま「破る」「突き進む」というのはとてもたいへんなことだ。
そのたいへんなことをやったのだから、それはそのまま、破って、突き進むしかないのである。円還にしてしまっては、破り、突き進んだかいがないだろうと思。
*
アレクセイ・パールシチコフ/たなかあきみつ訳「時刻表」は、ことばが動き、論理を獲得することで粘着力を持つというよりも、文になる前に、ことばが粘着力を持っている。書き出しの4行。
ことばの粘着力は、ことばそのものが「過去」を持っているからである。たとえば「雨粒」の比喩。「下むきにしたネジまわし」。これは、アレクセイ・パールシチコフがじっさいにネジ回しをつかったことがあるという「過去」をもっている。ネジ回しをつかうときは、その上下を気にする。意識する。もしかすると、ネジを回すだけではなく、釘を打つのに柄の部分をつかったことがあるかもしれない。「過去」によって、ネジ回しがリアリティーをもち、その結果として雨粒にリアリティーが出てくる。
比喩、とは、いま、ここに存在しない何かをつかって、いま、ここにあるものを語ることだが、アレクセイ・パールシチコフの比喩は、明確な「過去」をもっている。「過去」の時間をもっている、と言いなおせばいいだろうか。その「過去」の明確さのことを、私は「単語(ことば)そのものの粘着力」と呼びたいのだが。
一番わかりやすいのが、4行目の「彼女における将校の一列横隊に似たなにか」というときの、「将校の一列横隊」という比喩。そこには彼女が見てきた「時間」がある。「時間」をかかえこむから、粘着力が出る。
2連目。その1行目。
「わたしはうんざりした」。その突然の声の奥にある「過去」。それは具体的に説明されるわけではないが、説明しないことで、逆に「過去」という時間の存在だけを強烈に投げかけてくる。
この強烈さに拮抗するために「塵まみれの車輪、宝籤の人質」という比喩が採用されるのだが、このことばも、説明を省いた「過去という時間」だけを投げつけてくる。そうやって、「過去の時間」がべたべたと粘着力を持ったまま、いま、ここにからみついてくるので、現実が、つまりいま、ここが「過去」とは切り離せないものであることがつたわってくる。そして、そんなふうに「過去」に現在が蹂躙されるという苦悩がどうしようもない力で目の前にあらわれてくる。
こういう詩を訳すときは、きちんと「歴史」を知らないと、ことばが動かないだろうなあ、と思う。ことばのひとつひとつが、強い力で存在しているのを読むと、たなかはきっと歴史をちゃんと踏まえているに違いないとわかる。アレクセイ・パールシチコフの来歴など、私は何も知らないが、それらしいものが見えてくる。感じられてくる。たなかの訳は、そういう「過去」を感じさせる訳である。
今村秀雄「運河に沿って」は散文詩である。行分けでは書けない、粘着力のあることばが後半に出てくる。
「なんや、小人が酔ってわるいのか?」
と、ののしる声に答えられず、私がその場から逃げ去るしかなかったのは、彼からの問いが正確に私の卑しい心を反映して、人ごみの商店街に浮かぶ、空虚な放心であったからだ。
「彼からの問いが正確に私の卑しい心を反映して、」という文が、いったん「私」の肉体をくぐりぬける。そのくぐりぬけるときにひきずったものが、粘着力となって、次のことばにからまる。思わず読み返してしまうのは、その粘着力を、もう一度体験したいからである。書かれている「内容・意味」ではなく、ことばが粘着力を持つ、ということが大切なのだ。
ことばが動いて、論理をつくる。その論理のなかに「意味・内容」がわかりやすいように整理される。--その運動は、さらりとしていて軽快なときもあるが、今村のことばは粘着力を持っている。そして、それが肉体の悲しさを伝えてくる。
こういう粘着力を持ちつづけることは苦しい。しかし、持ちつづけなければならないと思う。だからこそ、最後の4行には、とても問題があると思う。
今村は、せっかく到達した粘着力を脇へおしのけ、抒情にかえてしまう。
いつか二人で大きくなったらね
小さな汗の手で握りあって、どんな約束をしたのだろうか
見ろよ!カーンカーンと火花をちらせながら
夜の波間を進水して行く船
ここが好き--というひともいると思うが、私は、ここは余分だと思う。「船」は書き出しに比喩としてつかわれている。(大きな船みたいな工場)。船をもう一度登場させることで、ことばを円還にとじこめ、完結したかったのだろうけれど、散文の精神というのは基本的に完結しない。ただ、いま、ここを破っていくだけである。
粘着力を持ったまま「破る」「突き進む」というのはとてもたいへんなことだ。
そのたいへんなことをやったのだから、それはそのまま、破って、突き進むしかないのである。円還にしてしまっては、破り、突き進んだかいがないだろうと思。
*
アレクセイ・パールシチコフ/たなかあきみつ訳「時刻表」は、ことばが動き、論理を獲得することで粘着力を持つというよりも、文になる前に、ことばが粘着力を持っている。書き出しの4行。
海上の雨粒は柄を下むきにしたネジまわしよりも大きい。
軟弱な沖積地にある敷地と明確な境界のない全景。
彼女のながいレインコートは木立をぬいつつ色あいを変える。
彼女における将校の一列横隊に似たなにか--いくつもの楕円と睫毛が回転中に。
ことばの粘着力は、ことばそのものが「過去」を持っているからである。たとえば「雨粒」の比喩。「下むきにしたネジまわし」。これは、アレクセイ・パールシチコフがじっさいにネジ回しをつかったことがあるという「過去」をもっている。ネジ回しをつかうときは、その上下を気にする。意識する。もしかすると、ネジを回すだけではなく、釘を打つのに柄の部分をつかったことがあるかもしれない。「過去」によって、ネジ回しがリアリティーをもち、その結果として雨粒にリアリティーが出てくる。
比喩、とは、いま、ここに存在しない何かをつかって、いま、ここにあるものを語ることだが、アレクセイ・パールシチコフの比喩は、明確な「過去」をもっている。「過去」の時間をもっている、と言いなおせばいいだろうか。その「過去」の明確さのことを、私は「単語(ことば)そのものの粘着力」と呼びたいのだが。
一番わかりやすいのが、4行目の「彼女における将校の一列横隊に似たなにか」というときの、「将校の一列横隊」という比喩。そこには彼女が見てきた「時間」がある。「時間」をかかえこむから、粘着力が出る。
2連目。その1行目。
--わたしはうんざりした、--と彼女は言う、--塵まみれの車輪、宝籤の人質であることに。
「わたしはうんざりした」。その突然の声の奥にある「過去」。それは具体的に説明されるわけではないが、説明しないことで、逆に「過去」という時間の存在だけを強烈に投げかけてくる。
この強烈さに拮抗するために「塵まみれの車輪、宝籤の人質」という比喩が採用されるのだが、このことばも、説明を省いた「過去という時間」だけを投げつけてくる。そうやって、「過去の時間」がべたべたと粘着力を持ったまま、いま、ここにからみついてくるので、現実が、つまりいま、ここが「過去」とは切り離せないものであることがつたわってくる。そして、そんなふうに「過去」に現在が蹂躙されるという苦悩がどうしようもない力で目の前にあらわれてくる。
こういう詩を訳すときは、きちんと「歴史」を知らないと、ことばが動かないだろうなあ、と思う。ことばのひとつひとつが、強い力で存在しているのを読むと、たなかはきっと歴史をちゃんと踏まえているに違いないとわかる。アレクセイ・パールシチコフの来歴など、私は何も知らないが、それらしいものが見えてくる。感じられてくる。たなかの訳は、そういう「過去」を感じさせる訳である。
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