滝川ユリア『るりららら』(土曜美術出版販売、2014年10月20日発行)
滝川ユリア『るりららら』のタイトルになっている詩。
前半の4行はおなじことばの繰り返し。そのあとの「わたしは君を滲み出した」が、すこし変。かなり、変。「てにをは」が違っているなあ、と感じる。「わたしは君が新鮮だ」も「てにをは」が変だねえ。
前半は「てにをは」が変じゃないように見えるけれど、ほんとうは変かもしれない。「わたしはきっとうまくいく」は何気なく読んでしまうけれど、この「てにをは」はあっている? 「わたしはきっとうまくやれる」、あるいは「(すべては)わたしにはきっとうまくいく」なのかな?
変だけれど、なんとなく、わかるね。
何かがうまくいく、という予感。予感なのだから、それは「論理的」ではない。「論理」かもしれないけれど、まだ実現していないことなので、そこには「ぶれ」がある。「正しさ」のぶれ? うーん、よくわからないが、「ぶれ」を含めて、なんとなくわかる。
ことばは正しくなくても、わかることがある。
「意味」ではなくて、気持ちがわかるのかもしれない。気持ちなんて、正確に言おうとするとどうしてもどこかが違ってしまうものだから、滝川が書いているように「ぶれ」があった方が、ある意味では「正しい」のかもしれない。言い切れない何かが「気持ち」なのだから。
「わたしは君を滲み出した」は「学校文法」では「わたしは君を滲み出させた」か「わたしから君が滲み出した」になるのかもしれないが、そういう「論理」はどうでもよくて、「わたし」と「君」との関係は「滲み出る」ときの、じわーっとした感じなのだろう。そう感じたと言いたいのだろうから、これでいいのだと思う。「わたし」(人間)から「君」(人間)が滲み出るということなんかありえないのだから、それを「正確」に言おうとすること自体が間違っている。
逆に言うと、何か「間違い」をしないことには「正確」には言えないことを滝川は書こうとしていると言うことになる。「間違った日本語」でしか言えない「気持ち」を言おうとしていると言えばいいのか。
こういうことばに出会ったとき、わかるなあ、と思ったり、何をデタラメを書いている。正確に書け、と言いたくなったりするけれど、そのときの私の気持ちの違いはどこにあるのか。
私はこの詩を読んで、滝川の書いていることを「信じる」気持ちになったのだけれど、それはどうしてなのだろうか。
私の場合は、リズムだ。ことばのリズム。ことばが「口語」として肉体のなかで動く。私は黙読しかしないが、声に出してすぐに読める、声を聞いてすぐその日本語がわかる、と感じる。そのときの、リズム。
「わたしはきっとうまくいく」も「わたしは君を滲み出した」も「論理的」にはおかしいのだけれど、何かを言い急いだときに、こういう「乱れ」が生まれる。そういう「乱れ」を生み出している「急いでいる感じ」、「はやく言ってしまいたい」という感じが、リズムそのもののなかにある。
それを感じて、「信じる」気持ちになる。
「急いでいる」ときの他人の様子というのは、不思議だよねえ。そんなに急がなくてもいいのに、でも「急ぎたい」んだよねえ。「急ぐ」ことが、それを楽しむ、思う存分味わう生き方なのだ。それは「肉体」に直接伝わってくるね。何かが一生懸命、そして「むだ」に動いている。その「むだ」がおかしいし、いとおしい。
滝川は、その「急ぎたい」気持ちが昂って、最後は「意味」にならない。
「る り ら ら ら」では何のことかわからないが、気持ちの方が先に言ってしまっているので「論理的なことば」が追いついてこないのだ。追いついてこれないのだ。
季村敏夫は阪神大震災の後の詩集『日々の、すみか』で「出来事は遅れてあらわれる」と書いたが、それは大惨事を体験したときだけではなく、どんなときにもそうなのだ。ことばは遅れてあらわれる。気持ちが、声(音)が先に動いて、ことばが「意味」として「出来事」と重なるのは、どうしても声(音)が出た後なのだ。ときには、その声(音)が出ないときがある。阪神大震災のとき、季村は声(音)そのものをも出せなかった。
滝川はここでは「意味」を書いていないが「音」を書いている。声が出てしまう。
ここでこんな比較が適切なのかどうかわからないけれど、声が出るというのは、そこに「よろこび」があるからだ。季村は阪神大震災のあと、すぐには声が出せなかった。遅れて、声が出せるようになった。そして、詩になった。ところが滝川は声が出てしまう。出さずにはいられない。
その「よろこび」のリズムが、ここにある。
「卵のかけら」は「この世は/卵のかけらでできている」という2行からはじまる。いろんな卵がリズムに乗って登場して、その最後、
わっ、デタラメ。
でも、おかあさんには「電話の卵」を洗ってもらいたい。そして、電話が鳴ってもらいたい。「こんなに天気がいいのだもの」、そういう変なことがあってほしい。
「気持ち」はここにあって、ここにはない。どこかへ出掛けて行ってしまっている。気持ちは空っぽになっている。いや、「この世」のすべてが気持ちになって広がっているのかな。
どっちでもいい。
笑いながら、とてもうれしくなった。
こういう「ありきたり」のことばで、「いま/ここ」から逸脱して自由に動く「気持ち」を書く一方で、「月」には
の「穹窿」のような、えっ、そんな漢字あるの? というようなむずかしいことばも出てくる。気取っている。いつもと違うことを書いている。
そうか、「すべてはきっとうまくいく」も、ほんとうは「気取っている」のだな、ちょっとかっこつけてことばを動かしているのだね。詩は、そういう「気取り」といっしょにある。「気取る」ときのうわずった気持ち、それがことばよりも先に動いてしまう。そして、それはときには、不思議なことばに出会って、そのことばを頼りに「気持ち」を動かしてしまうこともある。ことばによって「気持ち」がつくられていく、といえばいいのか。たくさん、そういう「気持ち」をつくってしまうのではなく、突然の出会いのように、ぱっと出てくるところが、無理がなくて楽しい。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
滝川ユリア『るりららら』のタイトルになっている詩。
すべてはきっとうまくいく
わたしはきっとうまくいく
すべてはきっとうまくいく
わたしはきっとうまくいく
わたしは君を滲み出した
あなたはどこかで生きている
わたしは君が鮮明だ
わたしは君をどうしよう
あなたはわたしをうまくいく
わたしは君を る り ら ら ら
前半の4行はおなじことばの繰り返し。そのあとの「わたしは君を滲み出した」が、すこし変。かなり、変。「てにをは」が違っているなあ、と感じる。「わたしは君が新鮮だ」も「てにをは」が変だねえ。
前半は「てにをは」が変じゃないように見えるけれど、ほんとうは変かもしれない。「わたしはきっとうまくいく」は何気なく読んでしまうけれど、この「てにをは」はあっている? 「わたしはきっとうまくやれる」、あるいは「(すべては)わたしにはきっとうまくいく」なのかな?
変だけれど、なんとなく、わかるね。
何かがうまくいく、という予感。予感なのだから、それは「論理的」ではない。「論理」かもしれないけれど、まだ実現していないことなので、そこには「ぶれ」がある。「正しさ」のぶれ? うーん、よくわからないが、「ぶれ」を含めて、なんとなくわかる。
ことばは正しくなくても、わかることがある。
「意味」ではなくて、気持ちがわかるのかもしれない。気持ちなんて、正確に言おうとするとどうしてもどこかが違ってしまうものだから、滝川が書いているように「ぶれ」があった方が、ある意味では「正しい」のかもしれない。言い切れない何かが「気持ち」なのだから。
「わたしは君を滲み出した」は「学校文法」では「わたしは君を滲み出させた」か「わたしから君が滲み出した」になるのかもしれないが、そういう「論理」はどうでもよくて、「わたし」と「君」との関係は「滲み出る」ときの、じわーっとした感じなのだろう。そう感じたと言いたいのだろうから、これでいいのだと思う。「わたし」(人間)から「君」(人間)が滲み出るということなんかありえないのだから、それを「正確」に言おうとすること自体が間違っている。
逆に言うと、何か「間違い」をしないことには「正確」には言えないことを滝川は書こうとしていると言うことになる。「間違った日本語」でしか言えない「気持ち」を言おうとしていると言えばいいのか。
こういうことばに出会ったとき、わかるなあ、と思ったり、何をデタラメを書いている。正確に書け、と言いたくなったりするけれど、そのときの私の気持ちの違いはどこにあるのか。
私はこの詩を読んで、滝川の書いていることを「信じる」気持ちになったのだけれど、それはどうしてなのだろうか。
私の場合は、リズムだ。ことばのリズム。ことばが「口語」として肉体のなかで動く。私は黙読しかしないが、声に出してすぐに読める、声を聞いてすぐその日本語がわかる、と感じる。そのときの、リズム。
「わたしはきっとうまくいく」も「わたしは君を滲み出した」も「論理的」にはおかしいのだけれど、何かを言い急いだときに、こういう「乱れ」が生まれる。そういう「乱れ」を生み出している「急いでいる感じ」、「はやく言ってしまいたい」という感じが、リズムそのもののなかにある。
それを感じて、「信じる」気持ちになる。
「急いでいる」ときの他人の様子というのは、不思議だよねえ。そんなに急がなくてもいいのに、でも「急ぎたい」んだよねえ。「急ぐ」ことが、それを楽しむ、思う存分味わう生き方なのだ。それは「肉体」に直接伝わってくるね。何かが一生懸命、そして「むだ」に動いている。その「むだ」がおかしいし、いとおしい。
滝川は、その「急ぎたい」気持ちが昂って、最後は「意味」にならない。
わたしは君を る り ら ら ら
「る り ら ら ら」では何のことかわからないが、気持ちの方が先に言ってしまっているので「論理的なことば」が追いついてこないのだ。追いついてこれないのだ。
季村敏夫は阪神大震災の後の詩集『日々の、すみか』で「出来事は遅れてあらわれる」と書いたが、それは大惨事を体験したときだけではなく、どんなときにもそうなのだ。ことばは遅れてあらわれる。気持ちが、声(音)が先に動いて、ことばが「意味」として「出来事」と重なるのは、どうしても声(音)が出た後なのだ。ときには、その声(音)が出ないときがある。阪神大震災のとき、季村は声(音)そのものをも出せなかった。
滝川はここでは「意味」を書いていないが「音」を書いている。声が出てしまう。
ここでこんな比較が適切なのかどうかわからないけれど、声が出るというのは、そこに「よろこび」があるからだ。季村は阪神大震災のあと、すぐには声が出せなかった。遅れて、声が出せるようになった。そして、詩になった。ところが滝川は声が出てしまう。出さずにはいられない。
その「よろこび」のリズムが、ここにある。
「卵のかけら」は「この世は/卵のかけらでできている」という2行からはじまる。いろんな卵がリズムに乗って登場して、その最後、
むこう向き おかあさんが 何かを洗っている
電話の卵を 洗っている
もうすぐ電話が鳴るのだろう
こんなに天気がいいのだもの
わっ、デタラメ。
でも、おかあさんには「電話の卵」を洗ってもらいたい。そして、電話が鳴ってもらいたい。「こんなに天気がいいのだもの」、そういう変なことがあってほしい。
「気持ち」はここにあって、ここにはない。どこかへ出掛けて行ってしまっている。気持ちは空っぽになっている。いや、「この世」のすべてが気持ちになって広がっているのかな。
どっちでもいい。
笑いながら、とてもうれしくなった。
こういう「ありきたり」のことばで、「いま/ここ」から逸脱して自由に動く「気持ち」を書く一方で、「月」には
夜の穹窿(きゅうりゅう)に
薄桃色の軌跡を描いた
の「穹窿」のような、えっ、そんな漢字あるの? というようなむずかしいことばも出てくる。気取っている。いつもと違うことを書いている。
そうか、「すべてはきっとうまくいく」も、ほんとうは「気取っている」のだな、ちょっとかっこつけてことばを動かしているのだね。詩は、そういう「気取り」といっしょにある。「気取る」ときのうわずった気持ち、それがことばよりも先に動いてしまう。そして、それはときには、不思議なことばに出会って、そのことばを頼りに「気持ち」を動かしてしまうこともある。ことばによって「気持ち」がつくられていく、といえばいいのか。たくさん、そういう「気持ち」をつくってしまうのではなく、突然の出会いのように、ぱっと出てくるところが、無理がなくて楽しい。
![]() | るりららら (現代詩の新鋭) |
滝川 ユリア | |
土曜美術社出版販売 |
![]() | 谷川俊太郎の『こころ』を読む |
クリエーター情報なし | |
思潮社 |
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
(ところで一か所訂正をお願いいたします。
拙作「る り ら ら ら 」の一部です。
わたしは君が新鮮だ の箇所は
わたしは君が鮮明だ
が正しい表記ですので、お手数ではございますが直してくださるとうれしく思います。
このお手紙は投稿ではなく御礼とご連絡です。記事には反映されないことを希望いたします。
それではよろしくお願いいたします。)
私は作品を引用するにあたって、出典(著作権法は「出所」という表現をつかっていますが)を明記しています。
また引用部分が従、私の文章が主になるよう、ことばの分量のバランスにも配慮しています。
さらに著作物が購入しやすいように、購入できるサイトのリンクも紹介しています。
どの部分が、著作権法に照らし合わせて、どう違反しているのか明記してください。
納得できない限り、削除はしません。