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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山口賀代子「うだつやま」、江里昭彦「魂は鳥に似て」

2010-05-15 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
山口賀代子「うだつやま」、江里昭彦「魂は鳥に似て」(「左庭」16、2010年04月30日発行)

 山口賀代子「うだつやま」は、公園で見かけたかわいい少女と色白の少年、どんぐり顔の少年の3人の姿を見たときのことを書いている。それは、いまのことか、過去のことか分からないような書き出しである。

そのまちをたずねたのがいつのことだったか
おもいだそうとするがおもいだせない
なのにきおくのそこからゆるゆるとうかびあがってくるものがある

(略)

少女は言った
「わたしこの子嫌い
ふたりで あっちで
遊ぼう」

「どんぐり」はうごかなかった
長い時間が過ぎたようなきがするが
ほんの数分のことだったかもしれない
「ひとりだって遊べるもん」と呟いて駆けおりていく
少年の背を見送ったのは

「邯鄲」という中国の故事がある
わたしはその少年の夢に迷い込んだのだろうか
それとも 六歳の春にみるはずの夢を みているのだろうか
崩れかけた城が目の前にある

もどってきたのか とちゅうなのかここにいるわたしは

 幼い子供の姿に自分の過去を重ね、ふと、遠い昔を思い出す。そのとき、「いま」は「いま」であって、「いま」ではない。そうかといって、それではそれが「過去」かといえば「過去」でもない。
 その、どう名づけていいのかわからない「時間」を、山口は「とちゅう」ということばでとらえている。「もどってきたのか とちゅうなのか」という表現から正確に判断すれば(?) 、それは「とちゅう」ととらえているとはいえないかもしれない。けれども、この「とちゅう」ということばに、私はとてもひきつけられた。
 ボルヘスを夢中にさせた「邯鄲」--それは、きっと、「とちゅう」ではない。
 ボルヘスの「邯鄲」は、二つの夢が「距離」を失って、いわば「コインの裏表」のような感じになる。結晶に昇華してしまっている。山口の見たものも「裏表」かもしれないが、「とちゅう」ということばが、その「裏」「表」のあいだに、不思議な距離をつくりだしている。結晶になるまえの、いりみだれた感じが残っている。
 
 どうも、うまく言えない。

 「いま」と「過去」が、重なり合うのではなく、「いま」と「過去」のあいだ、その「とちゅう」で出会っている。
 山口は、そうなのだ、「出会っている」のだ。
 何かと、交錯し、ぶつかり、ふたつの細胞がばらばらにいりまじって、区別のつかない「ひとつ」になるというよりも、「出会っている」のだ。
 山口も「結晶」を夢見ているのかもしれない。「結晶」への「とちゅう」と言っているのかもしれない。
 よくわからない。
 わからないけれど、私は、その「とちゅう」に、「肉体」を感じたのだ。「頭」ではなく、「肉体」を。ボルヘスとは違うものを。
 たぶん、この一篇だけでは、はっきりしない何か。それが、山口を、山口のことばを動かしていると思う。



 「とちゅう」とは何なのだろう。たとえば「俳句」。俳句の描く世界に「とちゅう」はあるだろうか。俳句は遠心・求心の硬い結合--その結晶。たしかに、芭蕉の句は結晶という感じがする。でも、蕪村は?
 何か、結晶からはみだすものかある。そのことばは、結晶するかわりに、「とちゅう」にある。「とちゅう」は、「ここ」をどこかへと動かして、不安定にする。その不安定が、しかし、おもしろい。
 私は、完全に読み違えているかもしれない。
 山口の詩を読んで、そのつづきで江里昭彦「魂は鳥に似て」を読んだために、そう感じるだけなのかもしれない。でも、なぜか、あ、江口も「とちゅう」を描いている、と感じたのだ。結晶ではなく、「とちゅう」を描いている、と。

結界の椿さざんか鳥を呼ぶ

 「鳥」が私には具体的には見えない。からすではないなあ、ハトでもないし、雀でもないなあ。よくわからないまま「呼ぶ」だけがわかる。そこに「動詞」が動いていることがわかる。この「動詞」の感覚が、芭蕉の動詞のように世界を結晶化させずに、なにか動いている感じがする。

閑さや岩にしみ入る蝉の声

 は「しみ入る」によって、蝉の声と静けさを硬く結びつけている。まるで「岩」のように。
 でも、江里の「呼ぶ」には鳥と椿さざんかとのあいだに距離がある。それが「とちゅう」という感じを浮かび上がらせる。

河口にて四分五裂のながれかな

さびしさや猫のぬくもり集めても

飼い犬も野良もそれぞれ雨を避け

風容れて仏壇いつもゆきどまり

 どの句にも「とちゅう」のひろがりがある。結晶には結晶の無限の宇宙というひろがりがあるが、「とちゅう」はそうではなく、有限のひろがりである。有限のあたたかさが、そこにはある。
 抽象的なことばかり書いてしまうが、そういう気持ちにさせられる。



 急に思い出して、山口の詩にもどるのだが、山口の書いている「邯鄲」は有限なのだ。無限ではなく有限--そのあたたかさを感じる。
 それは、山口の見ているものが、山口とぴったり重なる可能性のある「六歳の少女」ではなく、「どんぐり」の少年ということとも関係があるかもしれない。
 少女と山口のつながり、少年と山口との隔たり。その違いのなかにあるものが、必然的に「間」をつくりだし、「間」があるから「とちゅう」ということばが生まれる。
 山口にとって「間」と「とちゅう」なのかもしれない。
 「間」と収縮し、ゼロになり、その瞬間ビックバンを起こし、一気に無限になる。それが俳句の遠心・求心だとすれば、「とちゅう」とはけっして収縮しえないなにかである。「とちゅう」は、その両端にビッグバンをひきおこさない何かと何かの「出会い」をみるのである。



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