胡続冬「河のほとり」(「現代詩手帖」2010年02月号)
胡続冬「河のほとり」はたいへん美しい詩である。感想を書くのを忘れてしまいそうなくらい、ただ、じーっと文字を追い、そしてまた最初からたどりなおしてしまう。
いや、感想を書くのを忘れてしまうのではなく、書けない、といった方がいい。引用してみよう。自分の手で書き写せば、何か書けるようになるかもしれない。
いちばん印象的なのは「身体中の水滴が残らず目を閉じた」である。あ、と叫んでしまう。この1行を読んだ瞬間、ほかの行はどうでもよくなる。完全に忘れてしまう。「河」について書いてあったということくらいは覚えているが、そういうことが書いてあったということさえ、どうでもいい。
河がある。そして、その河の水滴が残らず眼を閉じる。ここに詩がある。完全な詩がある。
で、何が、その完全な詩、か。
ああ、めんどうくさい。そんなこと、説明しないとわからないなら、説明したって、きっとわかりっこない。そう思ってしまう。
見える? 河の水滴が眼を閉じるのが見える? 見えないなら、もう、これはあなたにとって詩ではない。ただ、それだけのことだ。河がある。河に水滴がある。その水滴の全部が眼を閉じる。そのときの、まつげ、まぶた、見えなくなる瞳--そのすべてが見える人だけのために書かれた詩である。
詩のことばは、選ばれた「詩人」という人間にだけ、どこからともなくやってくる。そして、やっぱり「選ばれた読者」だけが、それを味わうのだ。
--こんなことを書くと、「選民主義」だの「差別」だのと言われそうだが、そうとしかいいようがない。
詩には「意味」などない。「事実」しかない。そして、詩は、だれにとっても「外国語」である。それぞれの「1か国語」である。翻訳は不可能。だから、そこに書かれていることばに震えるか、震えないか、それだけなのだ。
この「比喩」。「星と同じくらいおとなしくなった」と書かれるときの魚の変化。「おとなしい」というのは、私にはどうでもいいことのように思える。「星と同じくらい」という言い方がすごい。星って「おとなしい」? ルルルルって流れない? なんて、ことを言ったってしようがない。「星と同じくらい美しい」とか「星と同じくらい遠い」とか「星と同じくらい小さい」とか--そういう「流通言語」を叩き壊している。見た目には「おとなしくなった」が「流通言語」を叩き壊しているかのように見えるけれど、ほんとうは「星と同じくらい」ということばが、そのことば自身の力で「流通言語」を叩き壊しているのだ。
「星と同じくらい」ということばが、そのことば自身の力で--というのは、「星と同じくらい」ということば自身のなかに、そのことばが何かをひっぱってくる力を持っているということである。あるときは「美しい」、あるときは「遠い」、あるときは「小さい」ということばをひっぱってくる。そういう力で、今回は「おとなしい」(おとなしくなった)ということばをひっぱってきた。そして、それをひっぱってきて、結びつけた瞬間に「星と同じくらい」も「おとなしい」(おとなしくなった)も、同時に、完全に壊れてしまった。宙ぶらりんに、無意味になった。「星と同じくらいおとなしくなった」は何のことかわからないでしょ? わからないというのは「無意味」ということ。それは、「星と同じほど美しい」「星と同じほど遠い」「星と同じほど小さい」と比べてみればわかる。わからないものが「無意味」、わかるものが「意味」。
そして、わからないもの、「無意味」にこそ、ことばのおもしろさ、詩がある。
そうであるなら。
「身体中の水滴が残らず眼を閉じた」という1行は、まったくわからない。そこには「無意味」しかない。あらゆる「意味」が破壊されている、ということになる。だから、詩なのだ。「無意味」であることによって、「完全な詩」になってしまっている。
もう、だれにも、どうしようもない。
そのまま、1行として、そこに存在させておくしかない。
感想など、書く必要はない。書けないのは、書く必要がないからだ。完璧な詩は、いつでもそういうものだと思う。
胡続冬「河のほとり」はたいへん美しい詩である。感想を書くのを忘れてしまいそうなくらい、ただ、じーっと文字を追い、そしてまた最初からたどりなおしてしまう。
いや、感想を書くのを忘れてしまうのではなく、書けない、といった方がいい。引用してみよう。自分の手で書き写せば、何か書けるようになるかもしれない。
僕はひとすじの河を抱いて一夜を明かした
僕たちがどうやって知り合ったのかは僕も忘れた
要するに そいつが岸に流れ着き
ふらふら通りを歩くうち エレベーターに飛び乗って
僕の部屋までやって来たのだ ひとすじの河は
鎖骨を持っており 緩やかな流れだったが
敏捷に泳ぐ魚が頭いっぱいに詰まっていた
一日中河で休んでも夜になると
やはり不眠症になる河が こんな風に
そっと僕に抱かれて 僕の話す千里も離れた海や
万里も向こうのひとの世の話に
聞き入っていたかと思うと みるみる そいつの
身体中の水滴が残らず眼を閉じた
そいつの頭のなかの魚が一匹残らず
星と同じくらいおとなしくなった 僕は
そいつのやわらかな波を握ったまま
昏々と幾世も眠った ふと目覚め
カーテンを開くと そのあでやかで
物憂い河が日の光のもと
恩愛に満ち流れるのが見えた
いちばん印象的なのは「身体中の水滴が残らず目を閉じた」である。あ、と叫んでしまう。この1行を読んだ瞬間、ほかの行はどうでもよくなる。完全に忘れてしまう。「河」について書いてあったということくらいは覚えているが、そういうことが書いてあったということさえ、どうでもいい。
河がある。そして、その河の水滴が残らず眼を閉じる。ここに詩がある。完全な詩がある。
で、何が、その完全な詩、か。
ああ、めんどうくさい。そんなこと、説明しないとわからないなら、説明したって、きっとわかりっこない。そう思ってしまう。
見える? 河の水滴が眼を閉じるのが見える? 見えないなら、もう、これはあなたにとって詩ではない。ただ、それだけのことだ。河がある。河に水滴がある。その水滴の全部が眼を閉じる。そのときの、まつげ、まぶた、見えなくなる瞳--そのすべてが見える人だけのために書かれた詩である。
詩のことばは、選ばれた「詩人」という人間にだけ、どこからともなくやってくる。そして、やっぱり「選ばれた読者」だけが、それを味わうのだ。
--こんなことを書くと、「選民主義」だの「差別」だのと言われそうだが、そうとしかいいようがない。
詩には「意味」などない。「事実」しかない。そして、詩は、だれにとっても「外国語」である。それぞれの「1か国語」である。翻訳は不可能。だから、そこに書かれていることばに震えるか、震えないか、それだけなのだ。
身体中の水滴が残らず眼を閉じた
そいつの頭のなかの魚が一匹残らず
星と同じくらいおとなしくなった
この「比喩」。「星と同じくらいおとなしくなった」と書かれるときの魚の変化。「おとなしい」というのは、私にはどうでもいいことのように思える。「星と同じくらい」という言い方がすごい。星って「おとなしい」? ルルルルって流れない? なんて、ことを言ったってしようがない。「星と同じくらい美しい」とか「星と同じくらい遠い」とか「星と同じくらい小さい」とか--そういう「流通言語」を叩き壊している。見た目には「おとなしくなった」が「流通言語」を叩き壊しているかのように見えるけれど、ほんとうは「星と同じくらい」ということばが、そのことば自身の力で「流通言語」を叩き壊しているのだ。
「星と同じくらい」ということばが、そのことば自身の力で--というのは、「星と同じくらい」ということば自身のなかに、そのことばが何かをひっぱってくる力を持っているということである。あるときは「美しい」、あるときは「遠い」、あるときは「小さい」ということばをひっぱってくる。そういう力で、今回は「おとなしい」(おとなしくなった)ということばをひっぱってきた。そして、それをひっぱってきて、結びつけた瞬間に「星と同じくらい」も「おとなしい」(おとなしくなった)も、同時に、完全に壊れてしまった。宙ぶらりんに、無意味になった。「星と同じくらいおとなしくなった」は何のことかわからないでしょ? わからないというのは「無意味」ということ。それは、「星と同じほど美しい」「星と同じほど遠い」「星と同じほど小さい」と比べてみればわかる。わからないものが「無意味」、わかるものが「意味」。
そして、わからないもの、「無意味」にこそ、ことばのおもしろさ、詩がある。
そうであるなら。
「身体中の水滴が残らず眼を閉じた」という1行は、まったくわからない。そこには「無意味」しかない。あらゆる「意味」が破壊されている、ということになる。だから、詩なのだ。「無意味」であることによって、「完全な詩」になってしまっている。
もう、だれにも、どうしようもない。
そのまま、1行として、そこに存在させておくしかない。
感想など、書く必要はない。書けないのは、書く必要がないからだ。完璧な詩は、いつでもそういうものだと思う。
![]() | 現代詩手帖 2010年 01月号 [雑誌]思潮社このアイテムの詳細を見る |