詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山内聖一郎『その他の廃墟』

2021-05-24 09:40:38 | 詩集

 

山内聖一郎『その他の廃墟』(書肆梓、2021年05月20日発行)

 山内聖一郎『その他の廃墟』は分厚い詩集である。この厚さに、読む前に気後れしてしまう。読み始めたばかりだが、「その他の廃墟」というのは、山内には「親しい」廃墟があるということだろう。「その他」に分類されているのは山内が「親しさ」を感じる廃墟とどう違うのか。そんなものは廃墟ではない、という否定が込められているかもしれない。つまり、ここに書かれている廃墟を突き破ったところに、山内の「絶対的(超越的/特権的)廃墟」がある、と。
 その絶対的、超越的、特権的な存在を私は知っている、という主張(声)は、巻頭の「月統」という作品にもうかがえる。本文は行頭がそろっていないのだが、引用はそろえた形で紹介する。


刑の執行猶予を得て白い車で
法廷を脱けだしたあの男は
必ずまた私の居場所をつきとめて
鬼の眼つきでやつて来るだろう
霧の出た日の夕刻、白い月が昇る頃

 いきなり「物語」としてことばが動く。「刑」というかぎりは、その前に「犯罪」という過去がないといけない。その「過去」を知っているのは書いている山内だけである。この「過去」を「廃墟」と言えば、山内の「特権性」がわかるだろう。その存在、それがどんなものであるか知っているのは山内だけなのだ。
 「過去」がある、と告げて詩ははじまる。

白い雲ひとつ湧かぬ、まつ青な空
突き抜けたような淋しさだ
雨にでも降られて地に俯すように
死にたい
麗らかな陽が敵のように背筋を照らす
憎い、此の世が憎い、人の世を呪い
平安を疎んじて片輪のような
出来損ないが死にたいのだ

 「過去」は欲望(感情)の宝庫である。その欲望は、いきなり「死にたい」と生を超越してしまう。この感覚を、「淋しい」と山内は呼んでいる。
 ここまで読めば、あとは、この変奏が繰り返されるだけだろうと思う。途中までしか読んでいないからわからないか、そういう予感がする。

犬が淋しかつたのを知るか?
男に捨てられてひとりぼつちの犬を
知つているか? おまえの
流れ去つた川面に詩の言葉ひとつも
浮かず、ただ
沈黙と月と星が、夜を流れただけ
川辺には悲しく思う男がひとり

 「過去」は「犬」であり「詩」である。それは「男(山内)」と向き合っている。「男(山内)」を存在させるのは、「犬」であり「詩」であり、「淋しさ」ということになる。
 ここに「詩」が登場するところに山内の特徴がある。「過去」は山内にとっては「物語」ではなく「詩」であるということだ。詩は、現在は、現実からは見向きもされていない。(と、書くと、多くの詩人は怒るだろうが、私にはそう見える。)「詩」は、いわば「廃墟」である。
 そんなことを思いながら、私は山内のことばを読むのだが、非常に気にかかったのが「死にたい」の「たい」である。欲望をあらわす、そのことば。
 それは「黄泉の傘」にも出てくる。

いつまでそうしていようと
雨宵の刻に夜道は闇を纏つている
力尽くで美を踏みにじりたい
他人の心に斬りつけたい、そんな
敵を思い描くことで生きる勇気を得た者は
つまり自分の心の宵闇に酔つて生きてきたのだ

 「踏みにじりたい」「斬りつけたい」という「たい」という形であらわれる欲望。欲望をもつことが「生きる」ことである。これは逆に言えば、欲望をもてなかった「過去」が山内にはあるということだろうか。その「過去」を突き破って、欲望に目覚める。それは新しい山内の誕生である。
 言い直せば、この詩集は山内の「再生」のためのことばの運動、その記録ということになるだろう。
 「力尽くで美を踏みにじりたい/他人の心に斬りつけたい」という思いで、詩を書くとき、詩は「力尽くで美を踏みにじるもの」「他人の心に(を)斬りつけるもの」でなければならない。だから、山内のことばの響きには暴力的なところがある。近寄りがたいところ(親しみにくいところ)がある。他者の否定が山内の出発点である。
 ここに書かれていないことばを補って「たい」をつかって言い直せば、

詩が書きたい

 になるだろう。
 その叫び声が、ページを開くごとに聞こえてくる。「詩が書きたい、詩が書きたい、詩が書きたい」という声が。
 だから書くしかないのである。だから、分厚い詩集になるしかないのである。私は、まだ44ページまで読んだだけだが、そんなことを感じた。

 

 

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