金子鉄夫「ながぁい廊下」(「臍帯血withペンタゴンず」(1、2011年09月10日発行)
金子鉄夫「ながぁい廊下」も、「意味」があるのかどうかは、よくわからない。
この書き出しの4行は、「書かれたことば」というより「声に出されるのをまっていることば」、あるいは「声」といった方がいいかもしれない。
「声」あるいは「音」というのは不思議なものだと思う。
「ぺらりん、ぺらりん、」ということばは、どんなにそれを長い間見つめていても「意味」につながるものはあらわれないが、声に出す、その音を聞くということを繰り返していると「肉体」のなかで、何かがあらわれる。
「ぺらぺら」なもの。しかし、「りん」としたもの。「凛々」としたもの(?)。
「ぺらりん」には、そういう「意味」はないかもしれないが、「音」、その「音」を「声」にするときに動く「肉体」が何かを引き寄せるのである。自分がおぼえているものを引っぱりだすのである。
弱いけれど、あるいは軽いけれど、どこかに透明感のある何か。
「声」や「音」が、独自に「意味」を捏造する。そこに、リズムも加わる。そして、イメージが新しく生み出される。それは「ことば」が、ではなく、「音」「声」が、「肉体」のなかからつくりだすものである。
と動くとき、私の「肉体」は薄い何かを引き出す。薄いといっても、それは紙やセロファンよりも厚い。けれど、絨毯のように厚いわけではない。浮くて強靱な、アルミ金属。きっと透明だ。それは「飛ぶ」のではなく、空中を「滑る」。まるで「廊下」を滑るように、すばやく。
「いちまい」という「音」がとても効果的だと思う。「いちまい」のあとに「名詞」が省略されているのが効果的だと思う。「いちまいのガラス」「いちまいのセロファン」「いちまいの畳」「いちまいの絨毯」「いちまいの金属」「いちまいのアルミニウム」「いちまいのジュラルミン」--どれもダメである。「名詞」が省略されたまま「いちまいに/乗って」と「音」が寄り道をしないから、改行後の「滑ってきたんだよ」がおもしろくなる。「滑ってきたんだよ、このながぁい廊下」という倒置法が楽しくなる。
「意味」が半分生まれ、半分のまま、どこかへ行ってしまう。「意味」はどこかへ行ってしまうけれど、その「意味」を動かした(?)ときの「肉体」の感じはずーっと「肉体」に残りつづける。
という1行の「あわれ」と「腐った」の「あいだ」の密着感もいい。ほんとうは(?)、ここに読点「、」があってもいいのだと思う。あった方が「意味」がはっきりする。
読点「、」がないために「あわれ」は「哀れ」(憐れ)という「意味」になるまえに、「音」のまま加速する。そして「腐った葱」を飛び越して「おんな」へ結びついてしまう。そこには読点「、」よりも大きな「腐った葱」があり、しかも「くわえた」という説明まであるのだが、その変なイメージというより、変な「音」が不思議な読点のように「肉体」のなかへ沈殿していく。
このとき、私のなかで、何が起きているのか。
「意味」はどこかへ消えてしまっている。「意味」はないのに、そこに書かれているものが「ある」と感じている。「いちまい」も「ながぁい廊下」も「腐った葱をくほえたおんな」も、「無意味」として、そこに「ある(いる)」のを感じる。
は、金子は、私が引用しなかった次の行を説明することばとして書いたのかもしれないが、「無意味」を強烈に感じる私は、「おんな」が「誤字脱字のようにわらって」いると感じるのである。それが見えるのである。
このとき、おんながくわえている「腐った葱」が「誤字脱字」というものかもしれない。もし、「腐った葱」ではなくて、たとえば「赤い薔薇」だったら、「ぺらりん、ぺらりん、いちまいに乗って」という軽い「意味」とは通い合わなくなる。「音」が消えて「意味」になる。句読点は、正確さを強いてきて、ことばがつらくなる。息苦しくなる。
「意味」が強く、「肉体」が息苦しくなるような詩は詩でいいと思うけれど、金子の動かしていることばは、そういうものとは違う。
こういう書き方は(ことばの動かし方は)、でも、むずかしいね。
あっという間に「意味」のことばに乗っ取られてしまう。「表情」「射精」「空語」。ここには「音」がない。そのことばは、ほかの行のことば、そのことばの周囲のどのことばとも、「息」のなかでまじりあわない。
こういうことは、「肉体」で感じることである。「肉体」というのは、私と金子の「肉体」は別個のものであるだけではなく、何の接点ももたないから、私の書いていることは、一方的な「誤読」かもしれないけれど。
でもね。
と、私はつけくわえたいのである。
道で誰かが倒れてうめいている。そうすると、あ、あのひとは腹が痛くて苦しんでいると感じるでしょ? そのひとの痛みは私のものではない。けれども、「痛い」ということがわかる。
ことばの「音」、「声」としてのことば--には、何か、そういう「肉体」のようなものがある。その「音」を「声」にするとき感じてしまう「肉体」の何かというものがある。そうして、その「肉体」が感じるものというのは、私は、ある程度(というよりも完璧に?)、近いもの--つまり作者と読者で共有されてしまうものではないかと感じている。
こんなことは、「非科学的」なのことなのだけれど。
金子鉄夫「ながぁい廊下」も、「意味」があるのかどうかは、よくわからない。
ぺらりん、ぺらりん、いちまいに乗って
滑ってきたんだよ、このながぁい廊下
横を向けばあわれ腐った葱をくわえたおんな
が誤字脱字のようにわらって
この書き出しの4行は、「書かれたことば」というより「声に出されるのをまっていることば」、あるいは「声」といった方がいいかもしれない。
「声」あるいは「音」というのは不思議なものだと思う。
「ぺらりん、ぺらりん、」ということばは、どんなにそれを長い間見つめていても「意味」につながるものはあらわれないが、声に出す、その音を聞くということを繰り返していると「肉体」のなかで、何かがあらわれる。
「ぺらぺら」なもの。しかし、「りん」としたもの。「凛々」としたもの(?)。
「ぺらりん」には、そういう「意味」はないかもしれないが、「音」、その「音」を「声」にするときに動く「肉体」が何かを引き寄せるのである。自分がおぼえているものを引っぱりだすのである。
弱いけれど、あるいは軽いけれど、どこかに透明感のある何か。
「声」や「音」が、独自に「意味」を捏造する。そこに、リズムも加わる。そして、イメージが新しく生み出される。それは「ことば」が、ではなく、「音」「声」が、「肉体」のなかからつくりだすものである。
ぺらりん→ぺらりん→いちまい
と動くとき、私の「肉体」は薄い何かを引き出す。薄いといっても、それは紙やセロファンよりも厚い。けれど、絨毯のように厚いわけではない。浮くて強靱な、アルミ金属。きっと透明だ。それは「飛ぶ」のではなく、空中を「滑る」。まるで「廊下」を滑るように、すばやく。
「いちまい」という「音」がとても効果的だと思う。「いちまい」のあとに「名詞」が省略されているのが効果的だと思う。「いちまいのガラス」「いちまいのセロファン」「いちまいの畳」「いちまいの絨毯」「いちまいの金属」「いちまいのアルミニウム」「いちまいのジュラルミン」--どれもダメである。「名詞」が省略されたまま「いちまいに/乗って」と「音」が寄り道をしないから、改行後の「滑ってきたんだよ」がおもしろくなる。「滑ってきたんだよ、このながぁい廊下」という倒置法が楽しくなる。
「意味」が半分生まれ、半分のまま、どこかへ行ってしまう。「意味」はどこかへ行ってしまうけれど、その「意味」を動かした(?)ときの「肉体」の感じはずーっと「肉体」に残りつづける。
横を向けばあわれ腐った葱をくわえたおんな
という1行の「あわれ」と「腐った」の「あいだ」の密着感もいい。ほんとうは(?)、ここに読点「、」があってもいいのだと思う。あった方が「意味」がはっきりする。
読点「、」がないために「あわれ」は「哀れ」(憐れ)という「意味」になるまえに、「音」のまま加速する。そして「腐った葱」を飛び越して「おんな」へ結びついてしまう。そこには読点「、」よりも大きな「腐った葱」があり、しかも「くわえた」という説明まであるのだが、その変なイメージというより、変な「音」が不思議な読点のように「肉体」のなかへ沈殿していく。
このとき、私のなかで、何が起きているのか。
「意味」はどこかへ消えてしまっている。「意味」はないのに、そこに書かれているものが「ある」と感じている。「いちまい」も「ながぁい廊下」も「腐った葱をくほえたおんな」も、「無意味」として、そこに「ある(いる)」のを感じる。
誤字脱字のようにわらって
は、金子は、私が引用しなかった次の行を説明することばとして書いたのかもしれないが、「無意味」を強烈に感じる私は、「おんな」が「誤字脱字のようにわらって」いると感じるのである。それが見えるのである。
このとき、おんながくわえている「腐った葱」が「誤字脱字」というものかもしれない。もし、「腐った葱」ではなくて、たとえば「赤い薔薇」だったら、「ぺらりん、ぺらりん、いちまいに乗って」という軽い「意味」とは通い合わなくなる。「音」が消えて「意味」になる。句読点は、正確さを強いてきて、ことばがつらくなる。息苦しくなる。
「意味」が強く、「肉体」が息苦しくなるような詩は詩でいいと思うけれど、金子の動かしていることばは、そういうものとは違う。
こういう書き方は(ことばの動かし方は)、でも、むずかしいね。
いまさら喚いたところでどうなる
そんなことよりも釘を呑んだ表情で
射精を急げっ
肘から下が空語になるぜ
あっという間に「意味」のことばに乗っ取られてしまう。「表情」「射精」「空語」。ここには「音」がない。そのことばは、ほかの行のことば、そのことばの周囲のどのことばとも、「息」のなかでまじりあわない。
こういうことは、「肉体」で感じることである。「肉体」というのは、私と金子の「肉体」は別個のものであるだけではなく、何の接点ももたないから、私の書いていることは、一方的な「誤読」かもしれないけれど。
でもね。
と、私はつけくわえたいのである。
道で誰かが倒れてうめいている。そうすると、あ、あのひとは腹が痛くて苦しんでいると感じるでしょ? そのひとの痛みは私のものではない。けれども、「痛い」ということがわかる。
ことばの「音」、「声」としてのことば--には、何か、そういう「肉体」のようなものがある。その「音」を「声」にするとき感じてしまう「肉体」の何かというものがある。そうして、その「肉体」が感じるものというのは、私は、ある程度(というよりも完璧に?)、近いもの--つまり作者と読者で共有されてしまうものではないかと感じている。
こんなことは、「非科学的」なのことなのだけれど。