詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中尾太一「電車の中で」

2010-08-24 18:53:10 | 詩(雑誌・同人誌)
中尾太一「電車の中で」(「朝日新聞」2010年08月24日夕刊)

 中尾太一「電車の中で」は全行ひらがなで書かれている。

いちみんぞくのまっきのぎょうそうを
でんしゃのなかでみてる

 私は「いちみんぞく」に「一民族」という漢字をあててみるまでにずいぶん時間がかかった。私は「一」を中尾のようにつかったことがない。英語でいう不定冠詞の「a」はたいかに「一」をあらわすだろうけれど、私はこういうときは「ある」ということばの方がなじみやすいからである。また、この「一民族」は「日本民族」のことだと思うけれど、電車の中で見かけた「日本人」を「一民族」という感じでとらえたこともない。
 あ、なぜ、こんなことにこだわっているかというと・・・。
 たぶん、これが漢字交じりで書かれていたら、いま書いたようなことは思わずに、さっと読み進み、詩から受ける印象が変わってしまうだろうと思うからだ。
 私は詩を、全行読んでから意味・内容を考え、ことばの使い方について感想を整理するという具合では読む習慣がない。1行1行、見知らぬ世界へ入っていく感じで、手探りで読んでいく。迷うながら読む。迷った分だけ、「なま」の「他人のことば」に触れる感じがする。その、「なま」の感じが、私にとっては、詩を読む手掛かりなのだ。
「いちみんぞく」(一民族)とは私は言わない。その違和感(?)のようなものから、詩は生まれてくる。中尾のことばに出会うことで、私と中尾が、互いのことばを叩き壊しながら、いままで存在しなかったことばの出現に出会うのだ、という感じが、私にとっての詩なのだ。
もっとも、互いのことばを叩き壊すといっても、中尾のことばは書かれているので、壊れるのは私のことばだけなのだが・・・。

詩にもどる。
「まっきのぎょうそう」。私は「真っ黄の形相」と読んだ。まったくの個人的な体験だが、私は子供時代、全面真っ黄色の夢に苦しめられたことがある。真っ黄色の次が黄緑色の夢だ。真っ黄色はとても不気味な色なのである。

いちみんぞくのまっきのぎょうそうを
でんしゃのなかでみてる
おれはびにーるぶくろにくさいいきと
ことばをはいて、いりぐちをしばり
ことしのたなばたにぶらさげる

 まるで、昔のシンナー遊びのようだ。その、不健康な息。私は刺激臭に弱いので、シンナーを吸ったことはないが、吸っている友人を間近で見たことはある。息は黄色くはなかったが、私の記憶のなかでは「真っ黄色」である。「真っ黄色の形相」がまざまざと見えてくる。
 ところが。

むかしいえいつというひとがいて
らぴすらずり、というしをかいた
おれはあまりほんをよまないから
よくわからなかったけど、かれは
ほろびのゆうじんについてかいた

 イエーツの「友人」って、アジア人? 黄色人種? 違うなあ、たぶん。
 「ほろびの友人」は「滅びの友人」?
 あ、「まっきのぎょうそう」は「末期の形相」なのか。
 いやあ、びっくりした。
 しかし、「末期の形相」に、私は詩を感じない。「末期」というような抽象的なことばは、どうみてもおもしろくない。想像力を刺激しない。末期の黄疸で、真っ黄色に汚れている、苦しい人間のままにしておくことにしよう。
 (という具合に、私は「誤読」が大好きである。「誤読」をぶつけながら、私のことばも、なかおのことばも叩き壊すのだ。作者の「意図」とは関係ないところを暴走させるのだ。)

おれはびにーるぶくろにくさいいきと
ことばをはいて、いりぐちをしばる
いりぐちがしばられるということは
こえがでなくなるということだ
ここにいなくなるということだ

 ここは、すごいなあ。「声が出なくなること」「ここにいなくなること」が同列である。「声」を出すことが中尾にとって存在すること、生きていることなのだ。「声が出なくなること」は死んでいくことなのだ。きっと、末期の黄疸の患者のように。でも、ほんとうは「ことばを吐いている」、「ことばを吐いている」けれど、それが「声」となってどこかへ出て行ってしまうことを拒絶しているのだ。
 それは、いま、ここにいる人々と「声」を共有しないということだ。それは、「ビニール袋にくさい息と、ことばを吐いている」姿を見せている誰かとだけ、ことばを共有するということでもある。
 ことば、声を届ける相手を限定している。恋人、愛している人とだけ、ことば、声を中尾は共有したいと思っている。

おれはおれのいりぐちをしばる
おまえはおまえのいりぐちをしばる
するとおまえはおれではなく
おれのことばのねがいを、おれよりも
なつかしくみつめている
おれはおまえのひとみをのぞきこんで
らいねんのたなばたまでいきつづける
ほしをみつめる

 「するとおまえはおれではなく」の1行がおもしろいなあ。この行は次の行を修飾しているのだが、そう気付く前に、恋人の一体感がなくなり、「おまえはおれでなく」お前になってしまい、その遠く孤立したところから、ビニール袋のなかの孤立したことばの、その「願い」を見ているように感じられる。
 そのとき、「声が出なくなる」ということ、「ここにいなくなること」が、突然、かなしいことではなく、至福にもなる。

おれはおまえのひとみをのぞきこんで
らいねんのたなばたまでいきつづける
ほしをみつめる

 「ここにいなくなる」のは「来年」を生きているからだ。

 あ、でも。
 この詩、妙に変だね。最初、電車の中で、どうしようもない感じで生きていたのの、終わりは「来年」を生きている。不思議にロマンチックで、そのロマンチックが苦しいくらい肉体的だ。ことばをなくし、「みつめる」という時間の中で、「なつかしい」くらいにロマンチックである。
 うーん、どこでかわったのかなあ。「ほろび」ということばかなあ。
 そうであるなら。
 これは我田引水であることは承知なのだが、1行目は「末期の」ではなく「真っ黄の」の方がいいなあ。「真っ黄」が「末期」(滅び)にかわって、不気味なものからロマンチックに変わる――これがいいなあ。
 詩とは、書いたら、書き始めたときとは違ってしまうのだ。ことばを書けば、人間は変わってしまうのだ。ことばを書くとは、ここから逸脱して、ここではない場へ行ってしまうことなのだ。

 


数式に物語を代入しながら何も言わなくなったFに、掲げる詩集
中尾 太一
思潮社

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