「三幅対」。三篇で構成された詩から一行選ぶのは難しいが。「一、たそがれまで」から、その三行目。
自分の内部に聞いたのかも。
「外部」に存在するものを、「自分の内部」に聞く。そのとき「外部」と「内部」を区切るものは何だろうか。一人の人間に内部と外部があり、それを区切るものがある。もうひとりの人間にも内部と外部があり、それを区切るものがある。その区切るもの同士が触れ合ったとき、どちらの人間の区切るものが優先されるのだろうか。あるいは、区切るものと区切るものの間にあるもの、つまり「外部」は、そのときどんな形で存在するのだろうか。
この私のことばは、私の「内部」から生まれたのか。それとも私の「外部」からやってきたのか。もし「外部」だとして、それはたとえば中井久夫の、あるいはリッツォスの「内部」とどう関係しているのか。
「内部」ということばが、内部-外部-内部という「三幅対」を生み出す。